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神無月
10/01 (水)

今月は出雲で神様たちが会議を開いている
出雲以外では、神様がいないので、神無月
出雲は神様が大勢来るので、神在月という
何の会議かというと
「男と女の結び」を決める会議なのだ
もちろん、人間に限らない
他の動物、虫、植物、妖怪なども・・・
だから「男女の縁」は
人間の思い通りには進まない
(穀物などの豊穣も
(植物の)男女の結びからだし
国の繁栄は男女の結びからなんだ)

意思ある人間などは、一応は好き勝手に結べるが
神様が認めていないと、別れる事になるのだ
見合い結婚も恋愛結婚も押しかけ結婚も
「結び」そのものからは別次元の事

その「結び」にどんな理由があるのか
人間には解らない
いいように解釈すれば
二人が「未来」になって解る・・・かも

ひょっとしたら・・・
理由なんて無くて
神様同士の単なる親睦宴会のために
大義名文をつけただけかも・・・
だって、会議は一週間だけなのに
神様は1ヶ月も帰ってこないんだぜ
どっかに遊びにいってるんだ・・・

「結び」の妙は
心を離れないと観えないらしい
「ヨガ」の意味が「結び」だと知って
「ヨガ」が「冥想」だという言い方に納得した

出雲大社は今でも
「縁結び」の神社である・・・が
出雲大社で拝んでも
「(自分にとって都合の)いい縁」に
出会うわけじゃないぜ

  縁結び@
10/02 (木)

年に一度の神様の出雲会議
「縁結び」

ワシはこのHPの「講座」の中で
「縁」について書いた
「縁は円」になるまで続くだろうと示唆した
だが縁があっても「結び」は
もう一つの何かが必要なようだ

縁はキッカケ
見過ごす場合も多い
というより
「この世は縁付く為に存在する」
だから「袖触れ合うも他生(前世)の縁」なのだ
つまり、ほとんど見過ごしている
同じ時間をこの世に共有するだけで
この世にある、全てのモノと縁がある

縁あるモノ(人に限らず)に囲まれ
己の人生に影響する場合に
「縁がある」と表現するが、
ホントは全てと縁があるのだ
縁を狭くしているのは「固定概念」
この世にいる限り
誰でも全く同じ数の「縁」がある
全てと縁があるのが「事実」

意識が自分の世界を創るから
意識がやわらぎ、広がるほどに
その人なりの「縁」は広がる
多分・・・大成をした人達は
意識がやわらぎ、広がり
多くの縁を意識したからこそ
何かが大成したのだと思う
人の元能力は大差無いが
多くの人やモノを活用・共用するほど
能力はとてつもなく伸びるのだろう
個人的努力では小さな限界だが
多くの人の能力との共用・活用なら
一生伸びつづけるだろう
「生涯現役」のヒントがここにある

その活用と共用
そして特に「魂の融合」となる「縁」が
「結び方」にある

「縁」から「結び」へのプロセスと条件
これもワシは興味ある
わけがわからん事に惹かれるのがクセなのだ
(そんなショムナイ事ばかり冥想するから
今夜のメシにも苦労する・・・)

  縁結びA
10/03 (金)

前世における魂と魂の約束
「次の世でも一緒になろうね」
「来世でも先生の下で学びたい」
「お前の顔だけは見たくない」
理由はどうであろうと
相手の魂に関心があれば
「結び」の約束となる
好きな相手・尊敬する相手だけじゃない
ケンカ相手でも憎悪の相手でも
「結び」としてこの世に深い「縁」となる

前世で関心ある相手が
この世で「男と女」として出合った場合
恋人・夫婦・愛人となりやすい
関心が「憎悪」であっても・・・
仲の悪い恋人や夫婦は多いのだ
「調和が存在の理由」なら
「憎悪修正の為の夫婦」となるのかもしれない

もちろん、さらなる進化の為に
魂を融合して「結び」となる関係は
「幸せ・嬉しさ・悦び」として実感できる
そばにいると、幸せを感じる
言葉が、行いが、魂に染み渡る
やすらぎ、やわらぎ、融けていく・・・
「いのち」が輝きだす・・・

誰にも「結び」相手はいる
必ず、出会う
意識のやわらぎが
その「出会い」を助ける

いつでも
魂は前世の想いを歌っている

でもなぁ・・・
肉体は一方通行で進むから
恋愛対象の男と女とは限らないぜ
同じこの世で出会っても
30年くらいのズレはあるかも・・・
前世の恋人同士も
前世の師と弟子でも
この世では親子関係となるかもしれない
子供が師となる場合は・・・多いんだ

  縁結びB
10/04 (土)

「縁」は誰にでもある
山ほどある。海ほどある。空気ほどある
「意識のやわらぎ」の度合いから
最初の段階の「知る」は難しくないが
その先の「知り合う」
さらに先の「結び」までは
人によって大きな差になる

例えば、インターネットのような世界でも
今まで「縁」の無かったモノを「知る」事は
意識のやわらぎさえあれば簡単だ
でも「知り合う」には
こちら側からの第一歩が不可欠だ

この「第一歩の勇気」はポイントになる
その先の分枝点なのだ
大きな力は必要ない一歩なのだが
大きな力が必要だと思ってしまう
だから「勇気」なんだ

先に何があるか判らない
でも踏み出す一歩
踏み出さなければ
変わらない

「縁が無い」のじゃない
誰にでも、同じだけある
「勇気が無い」のじゃない
一歩だけなら誰にでも進める
踏み出すか?躊躇するか?
「運命」は
たった一歩だけの違い

そういうワシも
第一歩を進めない「縁」ばかり
面倒くさがり屋は
人生を狭く、貧弱にしている
・・・少し・・・反省して
修正しようかな・・・この先は

  日輪氣功法
10/05 (日)

ワシの拙書「やわら氣・・・」の中に
「日輪氣功法」という項がある
内容的には「ハクション氣功法」だけどねぇ

ワシはお筆先様から書かされる事が多い
でも、ワシには特に文才が無い
が、特に「いいかげん」は有る
書かされているから、後で自分で読み返し
「おぉ!!そうかぁ・・・」と感心する
この「日輪氣功法」などは
おそらく日本中の「氣功の本」には
バカバカしすぎて書いてなかったろう
ところが・・・・!!

皇室の(秘)伝統の中にあったのだ!
(皇室関係の伝統行事は、一般に理解されないが
とても凄い意味と理由と価値があるのだ・・・)

皇室の御子の「厄祓い」
(「厄」は「黒い波動・氣」と思って結構)
御子の「厄」を祓う意味は
「日の本の国」の未来に関する事だ
(ワシは国粋主義ではないが、
目に見えぬ皇室の凄さは感じている)

御子の「厄祓い」の方法は
筆先で鼻をくすぐり、クシャミをさせる
(クシャミによって、邪気を出す)
そう、伝えられている
これだけでも、ワシの氣功法と同じ応用だ
だが・・・ワシは観抜く・・・
正式には、ワシの書いた「日輪氣功法」を
実行していると思う
太陽を観て(見る、より観るほど深くできる)
クシャミをさせているのだと思う

何故、それを国民に発表しないのか?
誰にでも簡単に出来る「祓い」は秘密なのか?
不老長寿を知らせる事を禁じるのと同じ論理が
国を(真に)支配する者に働いていたようだなぁ
(現代では、それほど秘密に厳しくない
こんな非科学的な事は信用しない風潮があるから
安心しているみたいだね
だからワシも書いていられるんだ
でも、ワシの知っている事でも
書けない事だってあるんだぜ)

  外務省
10/06 (月)

政治ネタは面白くないが
ワシのHPトップ下に流れるメッセージには
「侵略戦争支持者はお断り・・・」と
ワシの立場を明確にしている
普段はどんなに不マジメで「いいかげん」だろうが
譲れぬ態度もワシにはある

再三、再四、この国の政治家と役人を
「無能・愚者・卑怯者・人間のクズ」と
我が身をかえりみずに発言してきた
もちろん、全員一律とは思っていないが
自分の立場は明確にしてきた
政治家でも役人でもトップがその責を負う(はず)
だから、この国の首相が卑怯者なのだ
あの首相が市長や県知事までなら評価もできるが
世界を地獄に進めた自覚さえないような者は
一国の代表の資格は無いのだ
といって、とても情けない話だが
トップとしてマトモに振舞える政治家は
この国には見当たらない
与党も野党も関係ない
日本は、政治が自立していないのだ

官僚たちはもっと卑怯者だった
世界の苦しみを増やした外務省官僚は
多くの「生命」から呪われるだろう
だが・・・やはり官僚といえど
マトモな人もいた

外務省大使の一人が解雇された
イラク戦争回避の意見を
対米追従の世界危険を指摘したからだった
たった・・・一人だけだった
マトモな意見を言った大使だった
マトモな意見は・・・痛かったのだ
だから・・・辞めさせた

これが、この国の
首相と外務省と外務大臣の正体だ

「他人の苦しみ・地獄の上に
幸せの花は咲かない」
こんな当たり前が・・・わからないのか?
国民の幸せの手伝いのための
政治家や役人ではないのか?

だから、彼等に資格は無い
地元に利益還元するから応援するのか?

あのアフガン・イラクの国民は
身内が殺され
手足がもがれ
食べ物も無く
劣化ウランのため
これから何十年も地獄の苦しみを負わされた

そして・・・日本は幸せになれるのか?

政治家や官僚に何を言っても無駄かもしれないが
この国のやり方を応援する一般国民は
もう、知っているはず
自分達の「不安」はどこから来るか
そう
ノウテンキに応援している
自分達が創りだしているのだ

マトモな政治家と
マトモな役人を育てよう
もう・・・日本には後が無い

  人魚の・・・
10/07 (火)

高橋留美子という漫画家がいる
「るーみっくワールド」という
独自の世界をもっている人だ
「うる星やつら」や「犬夜叉」などの
少年向けも面白いし
「めぞん一刻」や「高橋留美子劇場」などの
大人向けも面白い
その中で「人魚の森」という作品がある
人魚の肉を食べると・・・
ほとんどがその毒で死ぬか
異形の生き物として苦しむかだが
マレに「不老長寿」になってしまう
その「不老長寿」になった主人公が
「普通の人間」になるための旅を続ける

「不老長寿になった者の悩み」と
「不老長寿を求める人間の悩み」

「幸せ」と「欲」の間
テーマは根元的だ

ワシは「若返り」を研究しているが
実際の「若返り」(50歳が20歳になる事)
は無理だと思っている
いや、無理じゃないかもしれないが
自然から外れるのは
この世にいる意味を失うと思っている

だが、今の人間の寿命や老い方は
不自然だと思っている
寿命は130〜160歳だろう
だから、今の70歳台は
本来なら40歳台になるのだ
本来の姿に戻る事をワシは
「若返り」としているのだ

一見逆のようだが「留美子ワールド」で
不老長寿から戻りたいテーマは
ワシの「若返り」と一致するのだ

本来の自然に戻る事
そこに
「幸せ」が待っている
いろいろな問題の共通した解決法は
基本を「自然体」に置く事だと思う

  「いのち」と「美」
10/08 (水)

ワシの暮らす山の奥では
もう紅葉が始まっている
人間なんて勝手なもので
「綺麗!」「綺麗じゃな〜い」などと
「葉っぱさん」の最後を好き勝手に言う
紅葉は厳しい寒さとの温度差を受け
その身を散らす覚悟の色なんだ
綺麗・綺麗じゃない、の内側の
「いのち」を感じれば
いのちの働きは皆、美しい・・・

花もそうだ
綺麗に咲く花
上手く咲けなかった花
その内側を観れば・・・
どんな花でも
美しいんだ

人も・・・
見た目の「綺麗さ」しか見ないと
「美しさ」に気づかない
そんな見た目ばかりを
価値観とする人間が増えている

「いのち」は
「美」
生きとし、生けるものと
見えない交流をすれば
いのちは全て、美しいと気づく

優れた芸術家が表す美術品
絵でも彫刻でも写真でも詩でも
内側を観て
「美しさ」を表現している
見た目の綺麗さを表現したって
ホンモノにはかなわないだろ?
美術品は内側の「美」を観るもの

だから、誰でも美人になれる
ワシは氣功療法をすると
「女性が皆美しく変わる」ことから
「いのち」は活かされると
「美」として表れるを知った

綺麗だけの「美人のいのち」は短いが
「いのちの美人」は
幾つからでも、どんな状況からでも
変身できるんだなぁ
それが「素敵なオンナ」ってことさ

ん?オトコは?
よせよ!
内側だけに「いのち」を燃やす生き方が
オトコってもんだろ?
「美しい」のはオナゴにやりなよ
┐(´ー`)┌フッ

  いのち美人@
10/09 (木)

「いのち」が輝くと美しくなる
オナゴにおいては「美人」となる

ワシは20代に同僚の結婚が決った時
どうして、同じ女がこう綺麗になるのか不思議だった
結婚式をはさんで、ある期間は特に美人になる
見た目が綺麗になるのだ

今はよく解る
見えない「いのち」の輝きが
見える姿に影響するのだ

ワシも歳を重ね、オナゴの観方も変わった
「美人」が観えるようになった
「美人は見た目も美人」と観えるようになった
それはオナゴであれば
誰でも、幾つからでも、美人になれる

「美人」を知るオナゴは
オトコより少ないかもしれない
オナゴの心の中には
「夜叉」という「嫉妬」が必ず住んでいる
だから、他の事には素直なオナゴでも
同性の「美人」は素直に認められないで
「素敵な女性」と評価するのかも・・・

そんなことはどうでもいい
「美人はいのちの輝き」と
多くの若いオナゴに知ってほしい
きっと今より
ずっと、ずっと綺麗になるから

オヤジのワシは
そういう意味では
「美人」が大好きなんだ
最近は見るだけでも
「いいもんだぁ」と思えるようになった

(いや、正直言うと
若ぇネエチャンは少し苦手なんだけどね
オナゴは30を越えなけりゃ
オナゴの魅力は出にくいからなぁ)

  いのち美人A
10/10 (金)

ワシは「オトコの生き方」なんて話たくない
だから、オトコは美人じゃなくてもいい
(せつら、とかドクター・メフィストとか
一部マニアにしか解らない美人オトコもいるけど
注・菊地秀行の超伝奇小説の登場人物だよ)
無理してツッパルのもいいし
自然体で笑うのもいい
好奇心いっぱいで夢を追いかけるのもいい
○○の為、と愚痴で暮らすのもいい

オナゴとしては理想のオトコ像があるかもしれないが
ワシがオトコとしてオトコに言う事は無い
どうでもいいんだ
オトコはオナゴのオマケのようなもの
オトコはオナゴの余計型なんだ
一言いうなら
ここが解れば、イイオトコだと思うよ
バカな夢を追いかけている「素敵なオトコ」は
自覚し、自立していると思う
できれば、そんな「バカなオトコは可愛い」と
応援してくれる「素敵なオナゴ」がいれば
もっとオトコは少年に戻れる

生物として
オナゴは「生命」に沿っている
「生命」を生み、育てる
いつも「生命」に敏感だ
最後まで「生命」の中心にいる
それに比べて
オトコは生物の「生命」としては
一時、関わるだけで
後は余分・・・(うっ、少し哀しい)

だから
オナゴは「生命」が活きると輝きだす
それが美人という事
オナゴは誰でも美人になれるように創られている
幾つからでも美人になれるように創られている

「妊娠・出産」というオナゴ特有がある
「子供」に関しては無条件で
オナゴは美人になる
そして、もう一つ・・・
美人になる大きな要素に
「恋」がある

異性が対象なのが最も強い力となるが
「恋」はそれだけじゃない
人間以外もある
ライフワークもある

オトコは夢を追いかけるが
夢に「恋」はしない
オナゴは対象がなんであれ
「恋」が出来るように創られている

オトコにとっては不条理な「恋」が
オナゴには理となり
「いのち」を輝かせるんだなぁ

神様は
あきらかに
オナゴをヒイキしている・・・

  いのち美人B
10/11 (土)

「元始、オナゴは太陽だった」と言ったのは
平塚雷鳥だったかもしれないが
日の本の国においても世界においても
オナゴは太陽であり、大地であり、海であった
オトコは昔からツマだったのだ
(つまり、オナゴの引き立て役・・・)
オナゴのツマがオトコだったのだ
ツマは昔は夫という字だったのに
最近では妻になってしまった
これは近代以降の国家主導からなのだ
国家主導はオトコが企てたので
オトコの都合のいいように変えたのだ
自然を冷静に観れば
やはり、オナゴが太陽であり、
大地であり、海だと解る

「いのち」はオナゴの為に輝き
オトコはオナゴの為にある・・・
それだけじゃ、ちょっと哀しいので
「役に立てたら、後は自由に漂流していいよ」と
神様はオトコから少年に戻れるように
したのかもしれない
(これってラッキー♪ かな?)
オトコは元々風来坊なのかも・・・

風来坊でも時々オトコになる
それは、オナゴを輝かす手伝いの時・・・
(結局、オトコはツマなんだよなぁ・・・)
オナゴはオトコによっても
「いのち美人」になれる

  いのち美人C
10/12 (日)

オナゴの「いのち美人」の一つとして
「恋」という奇妙な要素がある
ワシは以前「恋は病気の一種である」と思っていた
理由は「安定した精神を乱す熱」だからなのだが
今は心身をもっと広くから観ている
「病気の定義」を狭い心身状態に留めないで
「結果的に【いのち】を活かすのであれば
一時的な病状は病気ではない」と思っている

「恋」の状態は病気に似ているが病気ではなく
健康への積極的な方法の一つなのだ
それどころか「若返り」の研究をすると
「恋」は極めて有効な方法なのだ
しかし「成り行き任せ」では活用とはいえない
今後はもっと活用法としての指導が必要だろう

オトコにはオナゴの「恋」に替わるモノとして
「夢」がある
オナゴにも夢があるというだろうが
「オナゴの夢」と「オトコの夢」は別次元なのだ
「オナゴの夢」は「望む生活」の延長だ
今では、オナゴもオトコも「夢」というと
この「望む生活」か「欲の生活」を示すが
本来の「オトコの夢」というのは
生活から離れた「少年の夢」なのだ
別な言い方なら「バカな夢」なのだ
「少年の夢」だから活き活きして
「若返る」のも当然
(でも生活できない・・・)

現実ではこの夢を追いかけるオトコは少ない
「大部分のオトコは、自分の価値を
大きく見せる事に力を使っている」と
平林たい子氏が指摘したとおりだ
政治家や官僚を見るまでも無く
心にズキンと響くオトコどもは
たぶん、ワシだけではないだろう

「オナゴの恋」と「少年の夢」
似ているだろ
「現実的な自分を考えずに魂を跳ばす」
「いのち」は
奇妙なモノが好きなようだ・・・

  いのち美人D
10/13 (月)

オナゴの恋・・・

「一生に一度の恋なの」
「あなた一人に命を賭けるわ」
その時は心底そう思うんだろうけど・・・
それは間違いだなぁ
恋は何回してもいいように
人間には用意されているんだ

オナゴの恋は「いのち」の為に
オトコの恋は・・・気まぐれに
そして、たま〜に「夢」の為に

いくら恋が多くてもオナゴは堕落しない
むしろ輝く素敵なオナゴになれるが
オナゴの欠点として、虚栄心は
たやすく堕落するので気をつけよう

過去の恋を輝く要素として
嬉しく受け入れる事が
恋による「いのち美人」のコツだ

花のいのちは短くない
オナゴは最後まで乙女なんだ
だから
素敵な人生を歩きたいのなら
恋せよ、乙女!

  自然な関係@
10/14 (火)

一生の間には多くの人との関係がある
最初に生まれた瞬間から
親子、兄弟、親戚関係がある
幼友達、保母さん、同級生、友人、先生、初恋の人
ライバル、同僚、師匠、恋人、妻、夫、子供、愛人
まだまだ、その人によっての関係は多い
ペット、道具、病気、趣味、神、魔、霊
ワシのように、クライアント、妖怪、宇宙人もいる

関係が続く、続かないは別にして
関係した人は増える一方なのだ
関係したモノは増える一方なのだ

関係する者とモノとの出会いが増えるのは
「魂」が呼び合うからだが
その人にとって「いい・悪い」とは別次元だ
関係したばかりに、ツライ事もある
だが、お互いが活き活きする関係ならば
「いのち」が輝く

そして
「いのち」が輝く時は
関係が「関係無い」のだ

固定概念で関係を意識していると
「いのち」に影響はあるが
輝く(活性化している)わけではない
関係に縛られて、苦しくなる時さえある

だが、恋人が恋人という意識を超えた時
二人は一つになり
「いのち」は輝く
親は子に関係を超えた時
「いのち」の輝きを教わる
師匠の言葉という意識を超えた時
その言葉は「いのち」を輝かす

関係が関係を超える
「○○関係」が消え
自然な「間」になった時
「いのち」が輝く

「花、無心にして蝶を招く
蝶、無心にして花を訪ねる
花開く時、蝶来たり
蝶来る時、花開く
互いに知らずして
理を歩く」
良寛禅師の言葉から
「関係は関係を超えた時(意識しない時)、
最高に活かされる」と思った

  自然な関係A
10/15 (水)

先月の雑記帳の講演の話の中で
「保健氣功」に触れた
「他のものとの交流、循環」をすると
この世にあるあらゆるモノは
「いのち」が活性化するように創られている

関係を超えて関係すると・・・
「いのち」と「いのち」は純粋に反応する
「自然」には上下関係はなく
制度の関係もなく
立場の関係もない
花と蝶はお互いを認めただけだ

人間は頭の中で
そして心の中で
条件のある関係の枠に入れる
社会的にも生きているから
「常識」という不自由も必要だが
「常識を超える」と
「いのち」が活きる

固定概念(常識)の世界と
自然の世界の両方を
自由に行き来できるのが
人間にとっての「自由」だと思う

近代以降の人間は
どうしても社会的に偏りすぎる
「枠の関係」を外した関係
素のままでお互いを認める
活性化だけじゃなく
いろいろな問題の解決にもなる

自然な関係で
やすらぎ、やわらぐ・・・
そんな機会が増えると
「しあわせ」も
条件でなく、状態として
味わえるだろうなぁ

  自立@
10/16 (木)

「自然な関係@A」を書いていたら
「自立」と「自然」の関係が浮かび上がった

あらゆる生物も非生物も
「自立」して自然の一部になれるんだ
人と自然も同じだし、人と人も同じだ
自然な関係は「自立」抜きでは成り立たない

「自立とは、共生の自覚である」(談・水上陽平)
(おお!す、素晴らしい格言だと思わんかぁ?)

地球としてみると、人間だけは
まだ「自立」できていない生物だ
「力」が大きくある事と
「自立」は別問題なんだなぁ
「自分勝手」という幼いレベルだ
低レベルなくせに「力」だけはある
迷惑だなぁ・・・
他の生物に対して・・・すまんなぁ・・・
同じ人間として・・・恥ずかしい・・・

人間同士の世界だけに限定しても
「自立」してない人が多すぎる
独立した人と人との付き合い方は
個人主義の発達した欧米に学ぶ点があるが
「共生」は日本の智慧が数枚上手なのだ
つまり「自立」には両方が必要なのに
どちらも片手落ち・・・
現状の日本は両手落ちかも・・・

見えない「魂」として相手を意識すれば
一つの「魂」と「魂」の関係になる
社会的関係は「関係無い」
「媚び」も「へつらい」も無い
あるのは
「貴重な出会い」をどう活かすか
別な表現なら
お互いの「いのち」をどう悦ばすか

自然はお互いの「いのち」を
悦ばしあっている

これが「自立」だと思う

  自立A
10/17 (金)

「魂の自立」
これが出来ていないと
「自然の関係」にはなれない
「社会的な自立」はしていても
人と人は活かしあえない
人と自然も活かしあえない

何もあらゆる関係において
「魂の自立」が出来ていなくてもいい
でも「魂の自立」が出来る相手が増えるほど
「やすらぎ」と「学び」は増える
「幸せ」に近づく

「自立」は一人で立つ事ではない
相手との関係で自覚できるものだ
「お互いを認める」から「自立」できるんだ
生きていく中で、そういう相手との関係を
一人でも多く、一つでも多く巡り会えるのは
とてもラッキーだと思う

家庭でも仕事場でもその他でも
行く先々で「活かしあう関係」があれば
毎日が・・・ラッキーだし元気だぜ

自立は一人で踏ん張る事じゃないし
一人で頑張る事でもない
安心して甘えて
安心して甘えていただく
安心して怒られ
安心して怒る
そういう関係の相手とは
「魂の自立」ができている

心がやすらぎ、体がやわらぐ
自然と素直に触れ合うと
自立が自覚できる

  自立B
10/18 (土)

一万円札の福澤諭吉は好きだが
ホンモノの福澤諭吉がどういう人だったか
ワシは調べた事がない
イマイチ「氣」が乗らないのだ
よく知られている格言として
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
と「学問のススメ」にある
でも、この人は基本的に優等生ビイキみたい・・・
ひらたく言えば
勉強の出来ないヤツはダメだぁ、と
アチコチで言ってる
自分と同族(学問好き)に優しく
他人(勉強嫌い)に厳しい・・・
だから・・・ワシの所に来ないし
たまに来ても、すぐに逃げ出す・・・
それでもワシは(札は)好きなのに・・・
ワシって・・・健気だと思わんか?

そのフッ君がこんな事も言ってた
「自立の気力無き者は必ず人に頼る
人に頼る者は人を怖れる
人を怖れる者は人にへつらう」
これは納得するなぁ
特に日本の政治家や役人は
「自立」からは、ほど遠いねぇ

今回もアメリカというご主人様に
尻尾を懸命に振る
この国の代表者を見てそう思う
TVなどで、したり顔の評論家も
そんなチンケな意見など
いらねぇんだけどなぁ
いい歳なんだから
「自立」しろよなぁ

ああ・・・
また薄汚い政治ネタが・・・

  気合@
10/19 (日)

昨日までの雑記帳の「自立」を
下品な方向に持っていこうとしたが
失敗した・・・ワシは下品も未熟だなぁ
「不マジメ道」もキビシイけれど
ワシの得意は不マジメしかないから
不マジメの道を精進するしかない
ファイト! オォ〜!

ワシは「感」を重視する
「たぶん、ワシの目指すのはこの人(達)だな、ウン」
と一人ごちて
江戸時代の作家「十返舎一九」を調べるつもりが
フザケタ名前につられ
明治初期の二葉亭四迷(くたばってしめえ)を調べた
(ワシは「いいかげん」のプロだ!)
ところが、このダンナは
名前は不マジメでも、中身はマジメで・・・
騙された・・・詐欺だな・・・

だがワシは、転んでも(これ、転んだのか?)
タダでは起きないぜ。ふっふっふ・・・
二葉亭四迷の言葉で
「人生は気合だねぇ」というのを見つけた

「こ、これは、ふ、深い!」
ワシは見破ったのだ
「気合」の意味を
単なる「気力」とか「勢い」でとらえると
この言葉は軽くなる

「気合」は
「氣」会いであり
「氣」逢いであり
「氣」愛であり
「氣」の「合い」なんだなぁ

ところで、不マジメ道としては
もう一言付け加えなくては・・・

「人生は人災だぁ」(談・水上陽平)
おお、これも、なかなかの出来だ
(こんどはワシの格言集を作ろうかな)

  気合A
10/20 (月)

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」
ご存知「弥次さん、喜多さんの珍道中」
そう思って読んでみたら・・・
これがかなりの文学好きの二人
言葉遊びの掛け合いが
川柳、狂歌織り混ぜて
江戸時代の風俗民族面白可笑しく紹介している
「むむ・・・こ、これは、デ、デキル!」
と感心しかり・・・
やはり、ワシの文章は、この方向を目指すのだ
なにより、明るいスケベがアチコチ、ソチコチ
江戸時代に暮らしていた頃が懐かしいぜ

そうだ、今日は気合の話ね

「氣」合いを学ぶは人生の目的なり
(つまり、調和を学ぶ為に生まれてきたんだなぁ)
「氣」会いは「縁」なり
(縁は「氣」会いでもあるんだ)
「氣」逢いは恋かも・・・
(これがなけりゃ、味気ないもんね)
「氣」愛は生き方なり
(仏教で慈悲、キリちゃん流で愛の生き方だな)
(これらもワシの格言候補にしておこうかな)

体育会系で、よく言う
「気合を入れろ!」は
体の「氣」と、心の「氣」を合わせていけ!
という意味なんだけどね
だから、テンションを上げるより
呼吸を深くして、落ち着く方が
「気合が入る」のに・・・

「氣」の事って大切なのに
その実体や活用法は間違っているのが多いなぁ

  紅葉
10/21 (火)

紅葉
広葉樹の葉が、その役目の最後に
燃える思いを表現した姿・・・

(これも格言あるいは辞典に入れよう
ピアスの悪魔の辞典ほど皮肉が続かないし
マジメはもちろん維持できないし・・・
といって、不マジメだけも無理あるし・・・
時々乙女チックになるし・・・
オヤジが乙女になってもいいのか?
自分で気持ち悪くないのか?とも思うけど
あまり気にもしないし・・・
だんだん、辞典を作りたくなってきたなぁ)

葉は春に生まれ
夏に栄え
秋に想ったのだ
自分を観つめたのだ
生盛老死
「いのち」とは何か?
そして・・・知った

姿に潜むモノ
姿に顕れるモノ
ならば・・・
自然体なら・・・

熱い心を隠さず
燃える思いを素直に
静かな境地をそのままに

見栄を張る事なく
へつらう事なく
力む事なく
燃えて


「思い内にあれば、色外に現る」
世阿弥の「風姿花伝(花伝書)」の言葉から
紅葉を
解く

(ここから、卑しい顔の政治家は中身も卑しい
卑しさを顔に表さぬ政治家は
中身がアヤシイと学ぼう・・・)

  紅葉A
10/22 (水)

紅葉の 彼方に浮かぶ 白き峰 (水上陽平)

紅葉の北方を望むと
大雪山系の頂上は冬を迎えていた
「今年も来たぞ」
そっと呟く瞳の奥で
鮮やかな紅はあの日に帰る
二十三年間は長かったのか
瞬く間だったのか

あの日
陽平の腕の中で
体温を失っていく裕子の顔が
微笑んでいたような気がしたのは
後から創った思い出だろうか

うって変わって快晴の朝を迎え
遠く下方の山々は
鮮やかな紅い葉
愛し人の分までと思っても
閉じてしまう陽平の瞼から
溢れる涙に映るのも
いつまでも静かな
紅葉だった

判断ミスだったのか、と
悔やんだ日々は数年で終わった
新たなパートナーもできた
といっても、山のパートナーは
二度と求めなかった
人生のパートナーとしての妻には
何もかも、正直に話してある
年に一度の北海道は
いつも一人で行く事を
我儘と知りながら認めてもらった
その代わり妻からの条件は
「決して大雪山に登らない事」

今年も
燃えるような紅の葉は
燃えるが故に
短い時間を輝かせた

「大丈夫、俺は今でも燃えている」
過去を正面から認める事で
今を生きていると
陽平は
感じた

紅葉は美しく
そして
少し哀しかった

(当雑記はフィクションであり、登場人物は
実在ではありません・・・)

  歓喜@
10/23 (木)

「歓喜」という詩をいただいた
そこで「歓喜」を想う

歓喜は「いのち」の喜びだ
正確にいうなら
「いのち」自体が「喜び・悦び」なのだ
「いのち」の正体が「喜び・悦び」なのだ
「いのち」を素直に感じる時
「歓喜」として確認できる

「歓喜」に特別な条件は付かない
いつでも、どこでも、どんな場合でも
「生きている」事自体が
「歓喜」

「生きる目的」は「生きる事」
「生きる目的がわからない?」のは
「いのち」を観てないからだ
「いのち」を観れば「歓喜」に出会う
「歓喜」に出会えば
「生きとし、生きる」

「頭で考える目的」などに振り回されて
「生きる目的」を忘れてしまう
「生きる目的」は
「生きて体験する事」以外には無い
「何かを体験し、何かを感じる」

我々の存在は
一つであり全てである

自分から閉ざす以外には
失敗の人生はありえない
生きて、生きて、生き続ける事
その時まで
生き続ける事

人生に間違いも正しさもない
成功も失敗もない
大丈夫だ
唯一つのオリジナルの人生を
体験し、味わう

邪魔するのは「迷い」だが
「歓喜」は「迷い」を解き放す

体に悦びを
心に喜びを

「歓喜」は大きな道標となる

  歓喜A
10/24 (金)

歓喜というレベルは
単なる体の悦びや心の喜びではない
悦び・喜びが一つの壁を超えた状態だ

悦び・喜びから
新たな世界に入る
すると
体にも意識にも変化が起こる

維持の健康法ではなく
一段上の健康法がある
それは同時に病からの回復法も兼ねる
それは同時に体と心の若返りも兼ねる
その一つに「歓喜法」がある
「いのち」のレベルアップだから
体も心も回復・修復し
更に若返るのは当然だ

しかし頭(理屈)では無理なんだ
科学的根拠を求めていては掴めない
「知」ではなく
「感性」で到達する世界だ
感性は「行い(体)」優先なのだ
だから
頭の良い人は「喜び」はあっても
「歓喜」から遠くなりやすい
そして「歓喜」は「深い幸せ」を教えてくれる

「深い幸せ」に条件は無い
「○○だから幸せ」は
「幸福」ではなく「幸福感」なのだ
幸福感もいいけど
(大金持ちだから、もいいよねぇ・・・)
「深い幸せ」を知るのはもっといいぜ

病は「幸福感」では回復できない
それどころか皮肉な事に
「幸福感」を得る為に無理して
病の原因になったりする
体と心を縛りつけるからだ
本末転倒なんだけど
それでも人は「幸福よりも幸福感」
が欲しいんだよね
肉体をもっているから・・・
ワシも時々そう思うもん・・・
しょっちゅう、思うかも・・・
「真の幸福より、金や!」・・・
病人さんを観ていると
口では健康が大切と言いながら
手をだすのは・・・金が多い
生きている者の性やねぇ・・・
だから・・・人は可愛い・・・

だが心身の苦痛は嫌だものね
何とか治さなくちゃ・・・
そこで「深い幸せ」は病を回復する
時には奇跡さえ起こす
いや、奇跡など普通に起こす
「深い幸せ」は体と心を解放するからだ

「歓喜」
指導は難しいが
(感性の指導はとても難しい)
大きく大切なモノという認識は持ってほしい

「歓喜」には多くの段階がある
さらにレベルが上がると
「魂・霊性」に影響する
歓喜は明日に続く・・・(といいなぁ)

  歓喜B
10/25 (土)

1994年 奈良県の生駒山
故お師匠様と初めて会った
そして氣功師になった山だ

その研修所のすぐ上に
「宝山寺」という名刹がある
開基を役小角(えんのおづぬ)とする
非常に特殊な場所だ
奥の院の奥は、一般には入れない
(奥の院も入れないかもしれない)
何故特殊かは、役小角を調べれば理解できる
日本の修験道・日本密教の開祖なのだ
後に空海が渡唐前に修行した場所でもある
その宝山寺は本尊は不動明王なのだが
秘仏の大聖歓喜天(聖天さま)として有名なのだ

ここでは現世利益の神様として有名だが
本来の「歓喜天」は別の意味を持つ
いや、「現世」を深い意味でとらえるなら
まさしく現世御利益でもある
この雑記などでは説明し尽くせない話だ
男神と女神が抱き合う双神像が象徴だ

歓喜の境地が体と心(色界)から
魂(本質界)まで影響し
もう一度現世界(色界)まで戻る
その時、御利益として変化がある

今では「御利益」だけ欲しさに
多くがお願いに群がるが
「歓喜」がどういうものか
理解する人は少ない
「歓喜」あるが故に
「現世利益」が顕れるのだ
というワシも
「現世利益」は欲しいが
本気で「歓喜」を追求してないなぁ・・・

ワシは「歓喜」の活用を
「病気回復」や「若返り」だけにしていた
これも「現世利益」ではあるが
もっとスゴイ事も出来ると思う

そうそう
女神は観音様の変化といわれている
さすが観音様だなぁ
大らかな姿だ

「歓喜天」は更に深い話へと続く・・・

  歓喜C
10/26 (日)

物事を進めると、ある境地がある
一段、あるいは数段進んだ世界だ
そこに辿り着いた人を「○○の神様」などという
野球の神様、経営の神様、作曲の神様等々
一応褒め言葉ではあるが
人は神様にはなれない(当たり前だ)
(オナゴは「おカミさん」になれるが・・・)
人の神様だから、たやすく堕落する・・・

その人は、どうして「○○の神様」の
境地まで辿り着けたのか?
努力? 根性? 鍛錬?
ふざけちゃいけない
そういうのを人間の傲慢という
傲慢人間の先は「堕落」しかない

ホンモノの「○○の神」が導いてくれたから
一段上の世界に行けた(活けた)わけだ
自分一人で努力しても
ホンモノの世界には決して行けない
最初から○○神がいるのだ
しかも大勢・・・
八百万(やおよろず)の神様達だ
「人間の○○」と対応して
導いてくれる神様だ

その中で根源的というか
中心的な神様がいる
曼陀羅という宇宙図でいうなら
その中央付近に描かれている
そこに「歓喜」の神様がいる
「歓喜天」という

我々が「人間の魂として」この次元では
「六道界」という六つの世界を巡っている
人間に関係した世界だ
そこの最高位というか、責任者というかが
「他化自在天」という存在だ
「歓喜天」は「自在天」でもあるし
双神天としてなら、男神である
女神は「観自在菩薩(観音様)」
(実は女性上位なんだぜ)

人間の「歓喜」は(人間が理解できる)
真の宇宙の中心に辿る
一つの入り口になっている

さぁ・・・どうする?
こんな重大な出来事
マトモに向き合ってなかったよねぇ・・・

  歓喜D
10/27 (月)

重大な事、ホントに大切な事は
「見えない世界にある」
でも、見えない世界は見えない・・・
だから、見えるモノから「感じよう」
それを育てるのが「感性」なんだ
感性は「(見える)肉体」が育てる

感じる方向もある
「心はマイナスに引きずられる」
こういうクセがあるんだ
今の末法といわれる時代は
特にこのマイナス傾向が強い
だから社会に暮らすと
だんだん「マイナス感性」が発達する
子供の時は「プラス感性」が多かった
オトナになると「体の声」を聞かずに
「考え」で判断しようとする
(ヘタな考えしかないのにねぇ・・・)

「不安・心配・恐れ・閉じこもり」
その裏返しの「破戒・自暴自棄」
これらからの解放は
「歓喜」という「プラス感性」が握っている

「悦び・喜び・やすらぎ・わらい」
意識がどの方向を向いているか?
「苦しみ」に向くか
「いいとこ探し」に向くか
この方向の違いは病気回復に
大きな転換のコツになるんだ
苦しみや痛みの最中でも
必ず「悦び・喜び」がある
そこに意識を長く感じる
これが「歓喜」の入り口だ
「いいとこ探し」は
果てし無く続く幸せへの
案内板なんだ

「苦しみの越え方」は
正面からぶつかる
努力と根性で乗り切る
そういうのが好きな人もいるだろう
頑張ってね・・・

でも「越える」のではなく
「超える」のならば
「苦しみ」を意識するより
「悦び・喜び」を意識すると
「苦しみ」が消えるものだ
努力や根性はいらない
他人からは努力にみえても
本人は愉しいのだから
努力や根性じゃないし・・・

難しくはない
肉体があるなら
肉体が感覚として教えてくれる

肉体の無い「お化けさん」は
「歓喜」を味わえず迷っている

「迷いは肉体の声を聞いてない」
(水上陽平独善辞典より)

  歓喜E
10/28 (火)

「感性」は肉体からの教えだ
この点を多くの人が誤解している
「五感(肉体)」を超えたものだと思っている
「五感無ければ、感性は無い」
(水上陽平独善辞典)
こんな、当たり前を忘れている
基本・土台を抜きにして
「感性能力アップセミナー」などに大金を投じる
「レベルアップした、と思わせるセミナー」と
「ホンモノのセミナー」の区別がつかないのは
「感性」で判断できないからだ
「言葉」で簡単にだまされてしまう
(ワシにもう一つの踏ん切りがつけば
大金もつかめるのになぁ・・・
だますなんて簡単なのに
ワシには勇気が無い・・・
妻よ子よ愛人よ
臆病なワシを見捨てないで・・・)

感性を高める最良の方法は
自分の肉体に優しくする事なんだ
(これじゃあ高額セミナーにならんだろ)
見えないモノを見分ける目は
頭ではなく、肉体にある
だけど、人は他人の声を聞くが
己の肉体の声を聞く事をしない

ワシは龍村道場で知った
「ヨガ」が体と心を結ぶ
心と魂を結ぶ
己と他を結ぶ
人と神を結ぶ
哲学的実践方法だという事を・・・
難しくは無い
誰でも出来る

先は深く、広い・・・果てし無く

結び(ヨガ)の道標は
「歓喜点(ポイント)」なんだ

ワシはチベット仏教のご本尊に
「歓喜天」を観た
人の生き方の方向を
宇宙の姿として描いたものだ

雑記帳ではこれ以上は話せないなぁ・・・
もっと興味深い話があるから
遠慮しないで小規模講演や
セミナーなどを企画してくれぇ
(と営業をする)

  老人党@
10/29 (水)

衆議院の公示だ
政治ネタは嫌なのに・・・
嫌よ嫌よは好きのうち・・・

男と女の関係などでは
心はヒネクレていて
「好きになりたい」と言う意味で
「嫌」と言う時もある
オナゴゴコロは複雑なんだ

でもワシはオナゴじゃない
オヤジだ!
今の政治家共はホントに嫌だけど
逃げるわけにもいかない

「なだいなだ」という変わった名前の作家がいる
精神科医でもある
ワシは読むものに節操が無く
(読みものだけじゃないなぁ・・・)
岩波新書と少女マンガを平行して読む
そんな高校生の頃、好きな作家がいた
北杜夫氏の「どくとるマンボウ」
斎藤茂吉の子供でもあり、精神科医でもある
その北氏の後輩が「なだいなだ氏」なのだ
その頃から「心の世界」に興味もあり
精神科医としての精神病院内での
なだ氏のエッセイも好きだった

ワシが上京した18歳の時
初めて上野動物園に行った
フッと横を見ると・・・
なだ氏がフランス人形のようなお嬢さん達といた
(奥様はフランス人なのだ)
山奥の純情少年は、あこがれの一人と出合ったのに
「ボ、ボク、なださんのファンです!」
と、声をかけたくて仕方なかったのに・・・
何も言えなかった・・・後で・・・悔やんだ
今は素直に「好き」と言える
平気で「嫌」と言える

なだいなだ氏は今年の春に「老人党」を立ち上げた
インターネット中心のバーチャル政党だ
「老人」という名前に引っかかる人もいるだろうが
若くても、誰でも老人になる
結構、いい名前かも・・・
細かい事は
http://www5.ocn.ne.jp/~nadashig/

「政治」を「国民の政治」に戻そう
マトモな政治家をつくろう
それだけなのだ
ということは
今の既成政党とそれを認める応援者達と違う
素直でマトモな感覚の集まりなのだ

ワシは今回「老人党」だ
規定は無い
誰でも「老人党だぁ」と好きに名乗っていいのだ
今回は単純に与党を変えようというだけで
老人党からの立候補者は誰もいない

  老人党A
10/30 (木)

インターネットで発言する利点として
構えなくても本音を言える
欠点として
無責任発言にもなる

選挙になると、いろいろなシガラミがあり
本音を言えない人が大多数なんだ
言えないどころか、不本意な政党に投票する
日本は民主主義の選挙ができていない
政治家をはじめとする発言力のある人達は
与党も野党も例外なく卑怯だ
民主主義を一番理解していない人の集まりが
既製政党だという日本の不幸・・・

この選挙体制を直そうとしない
力と金で進める集票マシーン後援会組織選挙が
マトモな民主主義の選挙だと
子供に説明できるか?
選挙で騒ぐオトナ達よ・・・
したり顔の評論家達よ・・・

堂々と批判できるのはワシのようにカンバンのない
ヤケクソな変人だけなのだ
クソ面白くない! と思っているマトモな国民は
シガラミのある小市民なのだ

そこで、インターネット中心のバーチャル政党なら
個人として参加でき、発言できる
シガラミなんて関係ない
これが「老人党」の強みであり
マトモな政治参加の姿でもある

個人の発言が当たり前に出来る
この基本的な事さえ危なくなっている
「個人保護法案」という管理法で・・・
日本は一部の人たちが国民を管理する
あの国々のような道を
今、まっしぐらに進んでいるんだよ

気ままで「いいかげん」な生き方
決して他を殺さない生き方をしたいワシは
今の政治には反対する

面白くない政治ネタで
ごめんなさい・・・

  神無月最終日
10/31 (金)

神無月も今日で終りかぁ・・・
出雲に「男と女の結び会議」に出かけた神様は
一週間の会議後、ついでに九州観光旅行に行った
大勢の神様が応援していたから
プロ野球日本シリーズはダイエーが勝った
どちらかが勝つのだから、それはいい
いい試合をしてくれたから満足だ

ワシのところにいた神様は
得意分野は貧乏神だったが
今回、出かけたのなら
「まぁ、いいかぁ」と思っていた
いや「ラッキー♪」と思っていたかも
でも間違いだった・・・
「ラッキー♪」なんて思ってゴメンナサイ・・・

貧乏神が出かければ、貧乏じゃなくなる?
そういう固定概念を持っていた事に気づく
貧乏神であれ、○○神であれ
神様は守ってくれていたのだ

貧乏神がいなくなると・・・
大貧乏になる!
そうだったのかぁ・・・
貧乏を守ってくれていたんだ・・・
その他のアンラッキーから
守っていてくれたんだぁ・・・

ワシはいつでも「来るモノ拒まず」だから
どんな相手も拒否はしないけど
貧乏神があまりに長く御滞在されるので
心の底で「早く出ていって・・・」と
思っていたかも・・・
神様だから、ホントは感謝なのに
「しめた!ラッキー♪」なんて
罰当たりな感想をしていたかも・・・
「代わりに美乳の女神様ぁ〜」なんて
不埒な考えもあったかも・・・

ワシは・・・ワシは・・・
「ワシの思考こそ貧乏だった」と気づいたのだ
帰ってきてくれるかなぁ・・・
今夜帰ってきてくれたなら
とびきりの笑顔で
「お帰りなさい」と言おう
「あたし・・・寂しかったわ」は
やりすぎだろうなぁ・・・
気持ち悪いし・・・

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