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霜月
11/01 (土)

節気では立冬と小雪
旧暦名も24節気も関東以北に当てはまる
霜が降りる(ホントは立ち上がる)月だけど
ワシは別名の「神帰月」「神楽月」が好みだ
さらに易学でいう十一月は
「陰極まって陽となる」月なんだ

十月は神様が留守だったから
「陰」が最大になっていた
今日は神様が帰って来て(来たのか?)
今日からは陽が増え始める
本来の「一陽来復」は旧正月ではなく
十一月なんだ
帰ってきたお祭として「神楽」がある

神様は性が根元だと知っているから
アメノウズメノミコトのように
性的におおらかな踊りが「神楽」となる
いのちの賛歌は大切だからこそ
陰に隠さず、陽に楽しむ
陽に現さず、陰に愉しむ
(大切なモノは簡単に表に出すな
また無闇にも隠すな
陰にも陽にも大切に愉しむのが活用であり
大切に扱わない今の日本のような
野放し状態とは根本的に違うぜ)

こうして旧暦名などを想ってみると
最近の人間は昔の人の深い智慧から
どんどん劣ってきているなぁ・・・
知識が増えて、智慧は減ったなぁ
(知識も偏っているし・・・
ネェチャン、ニィチャン、オヤジにオバサン
野生のケモノとの区別がつかない日本人が・・・)
心配が増えて、幸せが減ったなぁ
(明るい未来を示せない人ばかり・・・)
マジメが増えて、いいかげんが減ったなぁ
(デタラメは増えているんだけどなぁ・・・)

いかん、いかん・・・
マジメに陰な言葉が・・・
まっ、何はともあれ今日から増え始まる
ラッキーに期待しようぜ
(他力任せの人生かぁ・・・)

  日本神話@
11/02 (日)

わかりやすい訳を読んでいたら
日本神話って面白い!
神話だから、いろいろを示唆している
でも・・・ゴチャマゼで未整理でもあるし
「真理」とか「真実」は
こういうファンタジーで伝えるのが最適なんだ
まともに伝えても伝わらない
だって・・・真理は理屈で理解出来ない

最初の5つの別天神は
意識から物質が出来る仕組みを伝えている
量子物理学者はビックリしたろうなぁ・・・
やっと解明に近づいたら
遥か古代の神話に書いてあったと同じ・・・

次の実体神は男と女という「性」のペアによって
何かを出現させる神様達だ
この世にあるモノ、生きるモノは
男と女の「合い(愛)」によって生まれている

有名なイザナギとイザナミは兄妹神だ
この近親相姦(神様にこの概念は通用しない)から
「日本」という国が生まれた

二人は(いろいろあるが)自然界の神様を次々生む
(つまり、神様から神様が生まれるんだ
このあたりは、ワシの神様観と同じだ
つまり、神様は多段階になっている
神様は平等じゃなくて上下関係がある
地位もあるけど、人間とはちょっと違う)

そのうちに「死」も生んじゃったんだ・・・
それまで神様の世界には「死」がなかったけど
物質界の「死」を創っちゃったんだな・・・
でも物質界の「死」は「黄泉の国」へのワープ扉
イザナギが恋女房に会いに行って取り戻したい
「黄泉帰り(甦り)」の話はかなり難しい
ここには「死者再生」とまでいかなくても
「若返り」のヒントがあると思うんだ

神様は自分勝手だし感情に流されるし・・・
ハチャメチャな行動ばかりだから
読み取るのは困難だけどね
それにしても・・・本妻の真の姿を観て
怖れをなして逃げすダンナもナンだけど
キレたオナゴは凄まじい・・・
このキレたイザナミによって
人間は「死」という運命を背負うのだから
まぁ、ダンナのイザナギが対抗して
人間に「生」を与えるんだけどね

こうしてみると日本を創った神様は
基本的にスキモノ・・・(土台だよね)
基本的に論理的でない(思いつきで行動)
基本的に感情優先(素直だけどね)
なにより・・・基本的に「いいかげん」

ワシの提唱する「いいかげん」は
この国の創り主(神)と同調することでもある
それにしては・・・
神様の応援が・・・

  日本神話A
11/03 (月)

天界の神様は何かを創る時
すげ〜いいかげん・・・
天界が地上界を創り
人界の出来事なども、その場の思いつきや
感情次第で左右される・・・
でも・・・これって・・・
神話の世界だけじゃなく、今も同じだ

最近だって
気にくわないから戦争しちゃおっと!
と始めたアフガンやイラクの運命
土建屋さんとは持ちつ持たれつ!
とダムを作る政治家によって狂わされる
周辺住民と生物たち・・・と
やがて影響する地球全体バランス
このように地上の生き物たちの運命は
感情や思いつきで実に簡単に左右される

ならば・・・
個人の運命だって簡単に左右するはず
思いつきや感情の第一歩が
運命を左右する

偶然目と目が合ったばかりに・・・
一冊の本が私の人生を変えた・・・
あ、あの酒の一杯が・・・
宝くじ・・・

その後の運命の不思議
あらたな道が示される
勝手に翻弄される
閉じこもり、迷う
体と心が生まれ変わる
再出発の元気が甦る

キッカケは小さくても
影響は大きく広がる
影響は「質」に沿うようだ
気持ちのいいキッカケなら
それなりの方向の道が・・・(ラッキー♪)
ネガティブな感情のキッカケなら
それなりの方向へ・・・
(個人的なら病気などだし、
国家的なら戦争など・・・)

このキッカケは小さいけど
「質」を観る事はできる
だからいつでも
「やわらぎ・やすらぎ・笑い」
「悦び・愉しみ・優しさ」

これらは道徳じゃない
しなければいけない事でもない
単純に
個人や集団や地球の
運命の道標なんだ

さて、アナタはどうする?

  プライバシー@
11/04 (火)

よく使われる言葉だが実は・・・
確固たる規定が無いんだ
法律上も学者によっては異なる解釈もされる
でも、だいたいの合意概念はある
「個人的人権に基づく自由の中で
私的に主体主張できる空間と物質と心」
メンドウな表現だけど、こんなところかな?
物質には自分の肉体が含まれるし
心には個人情報が含まれる

この「プライバシー」の意識は大切なんだ
以前に書いた「自立」と連動している
「プライバシー」を理解すると
「公的な社会」も理解できるんだ
今の世界、特に日本はデタラメになっている
だから為政者も国民の一人一人も
双方共に勝手に都合の良いように思っている
為政者は権力で「プライバシー」に踏み込み
公的社会を為政者の私物社会に利用する・・・
いわゆる一部の(政治・官僚・財界)人の管理社会だ
管理社会は簡単に「戦争」へ進む
これは過去の歴史を学べばわかるだろう

個人の間違いは
「プライバシー」を「生き方」と自覚せず
「社会」と「個人」の関係を無視し
デタラメに主張する部分だ
「他を犯さない事」と「プライバシー」が
同じ意味だと自覚していない
自分の主張が他を犯す事までイメージ出来ない
「プライバシー」は主張ではなく
力まず、公開か、秘密にするだけだ

だから一人一人は「自立」が必要なんだ
本来どんな生物も「自立」しているのに
人間だけ「一人前」になれない・・・
社会に依存するクセがあるから
本当の「社会」が創れない
社会と個人の関係を理解していない

未だ、人類は「社会」を創ってないんだ
その「一人前」の生き方には
「プライバシー」が柱になる

誤解されやすいけど
「プライバシー」は「秘密」じゃない
誰に対しても秘密にする「自由」があるんだ
そして、公開する自由もあるんだ
国家に対しても、家族に対してもだ
でも、他を干渉する自由は無い
その代わり
強制される事からの抵抗の自由はある

だから本人の「生き方」が
「プライバシー」の範囲と使い方を決定する
「お互い」に誰にも干渉されない部分
それが「プライバシー」

今回は少しマジメな雑記かも・・・
大切だからなぁ・・・

  プライバシーA
11/05 (水)

「プライバシー」
例えば、アナタが主人で
アナタだけしか、いない家
その中は幾つも部屋があるが
全て治外法権なんだ

家に誰を招く、招かないのは
アナタが自分で決める事
誰からも強制されないが
招いた(見せた)責任はアナタ自身

家の中の事は全て治外法権だから
法律やら道徳やらで縛る者はないし
家の中にいて、怯える必要もない
自分で自分を縛らなくていいんだ
自分で自分を責めなくていいんだ
だから・・・
とても、とても大切な場所なんだ
ただ一つの
アナタのオリジナルな世界

最近になって
国家という名を借りて
世間という名を借りて
法律という名を借りて
道徳という名を借りて
家に踏み込もうとしている
危険な時代が近づいている

管理が好きな政治家や官僚を
選挙などで代えるのも大事だが
アナタ自身がこの家の主人だという
「自立意識」をしっかり持とうぜ

誰が何を言おうが
家はアナタだけの世界
アナタが創造主であり
管理者なんだ

  プライバシーB
11/06 (木)

「プライバシー」は治外法権
世界でたった一つの大切な世界
「社会」は法律やら道徳などで成り立っているから
個人を抑え、個人を出さずに合わせる世界だ
だから「社会」で疲れ、傷ついた時に
「プライバシー」は「癒し場」にもなる

しかし・・・
「いのち」が貧弱になると
「プライバシー」を「逃げ場」としてしまう
「閉じこもり」の世界に変えてしまうのだ
「閉じこもり」は「いのち」を更に貧弱にするんだ
「プライバシー」はこっそりと隠れる世界じゃない
「プライバシー」は堂々と大切にする場所なんだ

「プライバシー」は「社会」と係わるから
大切な世界なんだ
「プライバシー」だけの世界は意味をなさない
閉じてしまえば「闇(病み)の世界」だ
「社会」で交流する為の「癒し場」なんだ

「プライバシー」と「社会」
堂々と大切にしてこそ「自立」となる
そして「プライバシー」を大切にすると
「個性」が活きる
「個性」が活きるからこそ
「社会」に生きることができる
ホントの「社会」は「個性」を殺さない
それぞれの「個性」達が活かし合うから
世界が成り立ち
世界が「いのち」を育む

さて
今の「社会」は「個性」をどう扱っているか?
「プライバシー」をどう扱っているか?
「プライバシー」は個人的な世界だが
その「扱い方」は社会や人類や地球の
「未来」を創る

ワシが「プライバシー」を管理しようとする
この国の方針に反対する理由
「未来」も観えない政治家や官僚に
牙を向ける理由は
結構マトモなんだぜ

  選挙かぁ・・・
11/07 (金)

衆議院選挙が今度の日曜日
いつでも「選挙」は大切だけど・・・
この国には「民主政治」が育っていない
だから民主選挙も育っていない
もちろんマトモな政治家も育っていない

今の政治家と役人の姿勢は「民主」でなく
「愚集の民を管理する」意識がある
「言葉」だけで騙せると思っているようだ

列を作り、行進させようと
列の先頭に立つ者は
常に従わせる者を
「くいもの」にしている
哀しいけど・・・事実なんだ

「民主」より「党優先」
与党も野党も同じ姿勢だ

ここまで書いて・・・
選挙話は嫌になった
それでも・・・選挙には参加しようぜ

では薄汚い政治家を想像させたお詫びに・・・
赤ちゃんの話

赤ちゃんの笑顔
赤ちゃんの声
赤ちゃんの瞳

赤ちゃんに接するだけで
あらゆる問題は
自然と解決の方向が示される
赤ちゃんを見ながら
争いは出来ないだろ

じゃあ・・・
国連は赤ちゃんの映像だけ流せば
地球は平和になれると思わんか?
ワシは思うけどなぁ・・・

  浄化@
11/08 (土)

また、選挙ネタでゴメン・・・m(._.)m

不マジメで不謹慎だからこそ
「浄化」が行なえると
どれだけの人が見抜いているだろう

病魔や悪魔は
マジメで道徳的で規律に縛る意識から生まれると
どれだけの人が気づくだろう

政治を変える
政治を浄化すると
大声で言うマジメ顔の人達を見ると
どうしても「異」を唱えたくなる

本気で浄化したいのなら
個々のマニフェストや
規定やら道徳やらの提案や強化より
自由にジョークの言える
表現の自由な国にしてくれ

その昔
日本は母系社会だった
性が大らかだったから
「いのち」を大切にしていた
(現代日本の性は大らかではなくデタラメだ
だから「いのち」の大切が伝わらない)
誰の子供でも「いのち」は宝だった
赤ちゃんと子供の笑い声
大らかなジョークのオトナの笑い声が
いつでも暮らしに満ちていた
「所有」より「共有と共用」だから
「平和」と「自由」の国だった

戦い主流の男系社会になると
「いのち」より「血筋」を選ぶ
その為に性をしめつけて管理した
管理は「所有」の為でもある
性の管理は男の荒さを生むから
兵士として軍力が上がる
不マジメな冗談は軍力を下げるから
もちろん厳禁だ

どの国でも
どの時代でも
為政者は同じ事を考える
そして、愚かな歴史を繰り返す

今、デタラメに見える性の規制は
道徳の名の基に
締め付けが始まる
表現の自由を奪った
個人情報規制法のように・・・
(この事すらあまり表に出ない)

規制するのは
「道徳」なんてキレイ事じゃないぜ
今までの出来事を見てきて
政治家や役人が国民を「守る」なんて
信じる方が信じらんな〜い!

国益という名分に隠した
一部の為政者と利権関係者の私益の為に
彼等がキレイ事を言うのは
歴史が教えてくれる

キレイ事で他に干渉する人は
陰が薄汚いから隠す
キレイ事で他を自由にする人は
陰も隠さない

選挙時は皆さんキレイ事を言う
だから、そこから先を見抜こうぜ
干渉し規制するのか
規制を外し、自由にするのか
キレイ事だけで判断しないぞ

平和や自由は
大らかな意識だからこそだ

マジメで正論で道徳的なのは
とても危険でアヤシイんだ
ジョークが自由に言えない世の中は
不幸と悲惨な運命に向かう

面白き 事も無き世を 面白く(高杉晋作)

  浄化A
11/09 (日)

に、人間って、き、汚い〜!

汚い対象部分はいろいろあるけど
まぁ、例外無く事実ですね
「人間は清く正しくなければならない」なんて
人間の存在自体を無視する意見もありますが
汚いのは「単なる事実」だから
不服でも認めましょう

汚いのが「悪い」かどうか
「正しさ」を求めるのが目的かどうか
そういう難しいことはともかくとして
「綺麗」な方が「気持ちイイ」
これには異論がないでしょう

何故「綺麗」は気持ちイイか?
いや、顔やスタイルのことじゃないよ
「気持ちイイ」と感じるのは
見えない世界の話なんだ

澱むモノ、こだわるモノがあると
そこは「汚れ」となる
こだわりのない人間はいないから
例外なく、人間は汚い部分がある

でも、澱みが流れていったり
こだわりが融けていったりすると
「気持ちイイ」んだ
そして、そこは「綺麗」になる

「澱み」や「こだわり」の部分を
一つづつでも融かし、説かし、解かす作業を
「浄化」という
融かすのは「やわらぎ・やすらぎ・笑い」であり
「認め・許し・優しさ」なんだ

「清く正しく」する為に「浄化」するのではなく
「気持ちイイ」から「浄化」するんだ
「浄化」は難しくないんだ

「正しさ」を求める人の生き方には
「こだわり」があると思わんか?
だから「正しさ」を求めると
「汚くなる」・・・
そして、最大の汚さは「戦争」なんだ

「浄化」はとても大切な「意識と行い」なんだ
そして「浄化」には大事なポイントがある
それは・・・

  浄化B
11/10 (月)

病気は「澱み・こだわり」の塊なのに
「病気を治す事」を「病状を無くす事」として
考え違いをしている
だから、治らない・・・
一時的に治ったフリして、再発する
全く別な形で、現れる

病気は「治す」というより
ある条件で「消える」モノなんだ
その条件が「浄化」

病気の範囲は肉体だけじゃない
体と心だけじゃない
家庭・会社・地域・社会・機構・国・世界
全てに当てはまる
だから「浄化」も全てに有効なんだ

そしてポイントがある
自分で自分を「浄化」するのも可能だが
とても難しい
自浄作用も自浄努力も、難しいんだ

この世は多種多様なモノ達がいる
多種多様な魂達が同時に存在する
そう
交流し、循環する為に

「浄化」は自分の為よりも
他の為にする方が適しているのだ

この世では
自身の為だけの「修行」は
あまり意味をなさない
更に「正しさ」を大義名文として進めると
大きな間違いさえ犯す
「○○ねばならない」という言葉は
無知と無謀と暴力なんだ

「浄化」のコツは
他への大らかな意識
「認め・愛しさ・優しさ」の行

正しさの力は「かたくな」を増やし
「汚れの塊」を育ててしまうんだ
正しさからの厳しさは反発するんだ

「汚れ」は認め(自分も同じだしねぇ)
未熟さを愛しみ(自分も同じだしねぇ)
優しさで接する(自分もされたいしねぇ)
この基本があると
厳しさも受け入れるんだなぁ

実際の具体的な「浄化方法」は
もちろん相手によって千差万別だぜ

  浄化C
11/11 (火)

「いいかげん」は不マジメである
「いいかげん」ではこだわれない・・・
だから「澱み」「こだわり」という塊を解放する
すると穏やかに「氣の調和」が進み
「やすらぎ」という平和状態になる
しかも・・・気持ちイイ
(注:デタラメと区別が必要だよ)

他への強制干渉無しに「幸せ」を招くのが
本来の「浄化」という「調和作用」なんだ

ジョンレノンの「イマージン」をパクれば・・・

想像してごらん
平和な世界を
想像してごらん
悲惨な世界が平和な世界に変わる瞬間
そこには誰も「正しさ」なんて強制しない
そこでは誰からも強制はない
痛みは「正しさ」では救えないが
「気持ち良さ」で消える
苦しさを「正しさ」では消せないが
「優しさ」でやわらぐ
ワシを空想家だと思うかい?
君達も同じ思いになれば
この世は難しい事無しに
平和な一つになれるんだぜ

個人的な体と心も
家庭も会社も社会も世界も
自由で「いいかげん」な意識で
「浄化」される

独善かなぁ・・・

  ヒーリング@
11/12 (水)

22日〜24日まで龍村師匠からのお誘いで
「ヒーリングヨガ合宿セミナー」のゲスト講師だ
で・・・「ヒーリング」について整理しとこう

普通は「癒し」などと訳されるようだが
「癒し」がアイマイなままだ
アイマイは嫌いじゃないけど
ここではもっと積極的な意味で使う
「ヒーリングとは積極的な癒しだ」・・・
(そのまんまじゃねぇかぁ・・・)

波の音には「癒し効果」がある
でも波がヒーリングしているわけじゃない
だから「癒し」と「癒し効果」と区別するんだ
ヒーリングミュージック
ヒーリングストーン
ヒーリングスペース等々・・・
「ヒーリング」は安易に使われる
これらは「癒し効果」があるという意味だ

「療法」としてのヒーリングは
相手との「交流」が不可欠なんだ

南北アメリカやアフリカ、その他多くの国には
「メディスンマン」と呼ばれる独自の療法師がいた
彼等は「ヒーリングとは?」という質問に
「分かち合い」だと答えたという
とても意味深い言葉だ
ワシも今はそう思う

「分ち合い」は「分ち愛」でもある
双方の交流は「氣の交流」でもある
療法師としての基本姿勢だ
ワシは不マジメでも
プロフェッショナルヒーラーだ
だからクライアントからの
見えないモノを受け取る・・・
それがどんなに苦しいモノや
辛いモノであっても「学び」となる
「ヒーリング」は一方通行じゃないんだ

  ヒーリングA
11/13 (木)

いろいろな療法がヒーリングになるが
施術技術だけじゃヒーリングにならない
共通する基本姿勢・基本意識がある
それが「分ち愛」

ブッタちゃん(仏教)での「慈悲」
キリちゃん(キリスト教)の「愛」
そういった意識の上に乗った療法だ
この意識も一方通行じゃない

施術は一方通行だが
被施術者(患者)からのモノを受け止め
施術者の中を循環する

被施術者からは
「痛み・不安・悩み・苦しみ」
があるが、それだけじゃない
隠れて、見え難いけれど
それらを包む「愛」もあるんだ
被施術者からは
「愛」も分けていただいている
これに気づいて
何とか一人前の「ヒーラー」になる
だから「分ち合い(愛)」

リードするのは施術側だが
「観る」事ができなければ単なる治療師
それは療法であっても「ヒーリング」じゃない
治療師であっても「ヒーラー」じゃない

ワシは師匠のヨガ指導を受け
内側を「観る」事が技術として出来る
外側を「観る」事が出来る
ヨガとはそういう技術と哲学だった

だから師匠は言った
「治療とヨガは鬼に金棒」
(鬼に金棒は・・・例えがなぁ・・・)
もちろんワシは最初は意味が解らなかった
でも治療師として経験をさせていただき
「単なる治療」では「健康」になれないと知った
「健康」をお手伝いする立場なら
「ヒーリング」という世界が必要だと知った

「治療師」から「ヒーラー」へ

でもワシは「いいかげん」だから
(立派なヒーラーもいるけど)
偉くなれない平のヒーラー
通称「ヒラヒラ」・・・

  ヒーリングB
11/14 (金)

ヒーリングは「積極的な癒し行為」
ところで「癒し」とは?
ワシはHPでこんな視点から説明した

体のみが治る事とは違います。
では、体と心が治る事でしょうか?
結果的には起きやすいのですが、
「癒し」は過程を示す言葉のようです。

「癒し」は、自分の「氣」が
「調和に働きだす時」に起こるのです。

潜在意識レベルでは、自分が対象や環境と近づき、
溶け込みたいという願いや意思があるのです。

波動という言葉では、
「共鳴し同調する働き」
とも言えるでしょう。

病気の人が病気を受け入れる意識から
「癒し」が始まる事は多々あります。
病気との敵対から、
病気との調和に変化したせいでしょう。

「癒し」とは、自分と相手(人間に限らず)
を認める事から始まります。

「場」の「癒し」は、
「氣の和らぎ」で起こり
「個人」の「癒し」は、
「氣の柔らぎ」で起こります。

特徴の一つに、「癒し」は
他への「癒し」のお手伝いをする事によって、
自分も癒される性質があります。

癒しは「調和・共生」と
根っこが同じようだ

  ヒーリングC
11/15 (土)

「癒し」に「浄化」は必要条件ではないが
「ヒーリング」に「浄化」はセットだ

調和し安定状態であっても
それは「癒し効果」になるが
「積極的な癒し行為」の「ヒーリング」では
「不安定」に介入して調和させるから
そこには「浄化」が必要なんだ

いろいろな国の伝統治療師
「メディスンマン」と呼ばれるヒーラーは
人の治療以外に「場」の浄化をした
人の治療に対しても
「体や心の闇(病み)の浄化」としていた

ヒーリングという言葉が勝手に使われているが
「癒し効果」がある治療法を使う人が
そのまま「ヒーラー」になるわけじゃない
「ヒーラー」って、闇と接するから
「命懸け」なんだぜ
優しいだけじゃ「ヒーラー」になれない
といって
マジメは闇に呑まれやすいんだ
マジメじゃ癒されないしねぇ・・・

だからワシのような「いいかげん」は
「ヒーラー」としての素質に恵まれていたんだ
日常を「命懸け」な仕事とするなら
マジメじゃ続かないぜよ

「癒し」にイイカゲンを加えると
「ヒーリング」が出来る・・・

  ヒーリングD
11/16 (日)

自然界の「癒し効果」には
「1/fのゆらぎ」がある
波のリズム、星のきらめき、雨の音などだ
これらの現れ方は
確定法則でもなければ、デタラメでもない
不確定と確定の間の「ゆらぎ」がある
自然の姿は「いいかげん」で成り立っている

ワシ流の「いいかげん」の正体は
実は「1/fのゆらぎ」なんだ
(あ、半分ハッタリです・・・
ホントは1/fよりいいかげんです・・・)

固定された療法
マニュアル通りの療法
規定通りの治療法では
優れた「医療技術」であっても
「ヒーリング」ではない
部分的な変化は起こっても
ホリスティック(全的)な調和にならない


「ヒーリング」の基となる療法は
穏やかで微妙な技が多いんだ
現在の病気の多様化と緊急性において
太刀打ちできない療法も多いってことだ
だから「ヒーリング」だけでも対応できない

行き詰まってしまった医療・・・

だから今後の医学は
優れた医療技術とヒーリングとの
統合医学に変わる必要がある
環境問題や生き方まで含めて
統合医学なら対応できる

ヒーリングは自然界の姿を
積極的に応用する療法だ
そこには「分ち愛」という
平和への生き方がある

  ヒーリングE
11/17 (月)

ヒーリングに関して心掛けている事がある
「異同士が出会って、認めあう事」が
「分ち愛」だと思っている

病気回復や更なる健康には
今までの(固定概念上の)病気のとらえ方や
常識内の方法では乗り越えられない
だから、それまでの固定概念外の
意識、方法を示すんだ
「氣功療法」も解らん事だらけ
見えない世界との付き合い方も
その人の知らない○○療法も
今までと違っているから可能性がある
だから意識して
別な発想や思考方法を提示する

固定概念と自由概念の出会い
常識と非常識の出会い
「どちらが正しい」なんて無い
異なモノ同士の出会いから
認め、許し、分ち合いまで
意識や生き方を「やわらげる」事が
ヒーリングのポイントだと思っている

相手を認め、受け入れると
そこには
「やすらぎ」と「やわらぎ」と「笑い」がある
「ヒーリング」には
お互いの優しさがある

  一片(ひとひら)雪
11/18 (火)

ワシの住む北側に位置する谷川岳
3000メートル弱の山なのに
5000メートル級のアルプスに似た岩肌
氷河の爪跡さえ残す特殊な山だ
その岩肌にケーキの仕上げに振り掛ける
パウダーシュガーのような雪が覆った昨日

雨が時として雪に変わる
急な季節の変化に対応できない感覚では
特に寒さが身に染みる
多分・・・家自体も同じ感覚かも・・・

10代の頃
吐く白い息の上から
一片の雪が舞い降りる姿が好きだった

初めて成就した恋の相手が
長いマフラーをなびかせて
その一片を追いかけている
唇は冷たくても胸は温かかった
そんな映画のシーンが自分の思い出と重なる

見た目は中年、熟年、老年となっても
胸が温かくなる恋の人と
一片の雪が嬉しくなるようなシーンを
ワシは未来に求める

未来を決めるのは経験ではなく
夢であり
期待であり
想像である

今の胸が温かくなる、未来への思い

(まぁ、相手は相手の思いも都合もあるから
未来は思い通りにならないかもしれないけど
「今」の胸が温かいのは事実だしね
それにしても・・・
懐が寒いのも事実だしねぇ・・・
想像でどうにかならんかなぁ・・・
ん?今を努力しろ?・・・正論だなぁ)

  養生訓@
11/19 (水)

貝原益軒という人がいた
1630年生まれだから徳川家康の頃だ
「養生訓」という健康指導書を書いた
体と心と運命を鋭く「観」た人だ
「観」に鋭いと・・・時代に理解されない
その代わり、時代が変わっても通用するのだ
現代がやっと貝原益軒に追いついたともいえる
「養生訓」から学ぶところは多い
そういうわけで「温故知新」

貝原益軒は「氣」を意識して
物事を「観」ていた

「百病は皆「氣」より生ず
病とは「氣」の病なり
故に養生の道は
「氣」を調べるにあり」

どうです
「氣の調和がホリスティックな健康の鍵」とする
水上陽平流の解説と重なるでしょ

ただねぇ・・・
益軒は武士の生まれだし
マジメだったし・・・だから
「○○べからず」
「○○すべし」という
心に害をおよぼす書き方が欠点だった

どんなに正論であっても
○○してはならない
○○しなければならない
という「ならない」では
愉しい人生の音は「鳴(成)らない」のだ

「時々はいいけどね」
「こっそりならいいよ」
という「やわらぎ」が欲しかったね

ワシはあらゆるコトに
「いいかげん」を活用して
前に進めると思っている
(前進かどうかわからんけど
広がるのは確かだなぁ・・・)

  養生訓A
11/20 (木)

どうして「健康(養生)」が大切か?
この根本的な問いにアナタはどう答える?
いつか肉体の「死」は例外無しに訪れるのに
どうして「健康」が必要か?

どうして、この世は有限の肉体があるのか?

「養生の術を学んで、よくわが身をたもつべし
是人生第一の大事なり・・・
命短かければ、天下四海の富を得ても益なし」

難しくはない
養生してこそ
「いのち」が活用できるからだ

せっかく預かってきた肉体
活用してこそ「意味」が生まれる
「意味」の為に生きているのじゃなくて
活用すると「意味」が生まれるのだ
「健康」が先で「理由」が後なのだ
ゴチャゴチャ考えずに「健康」になれ!
その方法が「養生」なんだ

ワシの健康の観方の表現は
貝原益軒と違う
だが、根本は同じだと思う
益軒はマジメだから
「いかに生きるべきか」と
大上段から話す
ワシは根性無しだから
「とにかく元気で愉しく」と話す

そういえばエライ禅師も
「禅」を目的への方法とするか
ゴチャゴチャ考えんといいから
「ただ座れ」と話すか分かれていたなぁ・・・

ともかく
生まれて、生きているのなら
「健康が最優先」なのに
どうしても健康犠牲の生き方が流行る
「目的(その多くは欲だけど)」の為に

「目的」に気づく人も(少数)いるから
健康犠牲も例外的に有ると思うが
ほとんどの人に共通するのは
「健康最優先」なんだなぁ・・・
何よりもナニよりも
健康が最優先なんだ

  養生訓B
11/21 (金)

真の健康への道標として
益軒は「養生訓」を書いた

ところが人は様々な「質」の違いがある
「お酒は1合」といっても
「変化無し」から「死んでしまう」人までいる
陰体質と陽体質に同じ指導は出来ない
ヴェータ体質とピッタ体質とカパ体質に
平均的を求めるのは間違いなのだ
(アーユルヴェーダのドーシャ理論)
だから益軒は誰にでも当てはまる言い方をした
つまり「氣」からの指摘である
コツは「いいかげん」だとワシは観た

「楽しまずして天地の道理にそむくべからず。
つねに道を以って
欲を制して楽しみを失なふべからず。
楽を失はざるは養生の本也」

「生きる事を愉しむ」
これは基本だ
でも
欲に溺れると逆に愉しく無いよ
適当に愉しみながら「理」を観つけなよ

今のワシも同じ見解をしている
欲は愉しむ為にあるけど
少し抑えた方がもっと愉しいんだ
愉しければ「いのち」が元気になる
「元気」になると
生きる目的が出来る(解る)

禁欲的な修行の間違いは
2500年前からブッタちゃんも指摘している
修行とは日常生活の事だ
特殊な修行は「趣味の世界」だ
(水上陽平独善辞典)

とはいえ
ストレスからの反動で
欲に歯止めがかからないと
「いいかげん」ではなく
「デタラメ」になってしまう
「デタラメ」に未来はない
やがて苦しくなり、破滅してしまうのだ
「マジメ」と「デタラメ」は兄弟だ
「マジメ」な世界も未来は無いと思う
何かウソっぽいしねぇ・・・

明るく愉しい未来(健康)は
「いいかげん」という「養生法」で
何とかなる・・・と思う・・・
(頼りないけど、事実だと思うよ)

  養生訓C
11/22 (土)

益軒は治療家(医者)に対しても述べている

「其病と其治との当否をよくゑらんで用ゆべし。
其当否をしらで、みだりに用ゆれば、
あやまりて、禍をなす事多し。」

養生の一つとして
「病」との付き合い方と
「治療家」との付き合い方がある
(治療家(医者)は病とセットだが
病は治療家(医者)とセットじゃない)

治療家(医者)の言うがままではなく
自分が主体となって
「病に合う治療家(医者)」を観る
そうでないと治療回復どころか
かえって害になるというわけだ

これは特に現代では大切だ
あまりに医者まかせの風潮が大きい
自分の命は自分で守るもの
医者は守ってくれないのだ
医者(治療家)は「お手伝い」しか出来ない
しかも・・・
お手伝いも出来ない医者(治療家)は
想像以上にウヨウヨしているんだ

どの職業、職種にもアブナイ人も
無能な人も害を及ぼす人もいる
アブナイ医者(治療家)も同じだ
見えない世界(病)を扱うだけに
解りづらい、見つけ難い職業ではある
だから
自分の命は、日頃からしっかり見ておこう
毎日、大切に付き合おう

養生訓は
生を養うコツなんだ

  セミナー@
11/24 (月)

22日から今日までセミナーだった
「ヒーリングヨガと氣功」というテーマで
龍村師匠が主講師だ
(ワシの日頃のヒマさに気をかけて)
ゲスト講師として声をかけてくださった
仕事としての参加だった

場所は隣町の月夜野町の湯治宿(近くだ)
龍村セミナーは基本的にヨガを中心とした
ワークショップ(実技体験)と講義だ
参加者は関西から1/3関東が2/3
82歳の車椅子使用のご家族もいた

久しぶりの龍村師匠のセミナーは
「嬉しさ」が懐かしく、そして新鮮だった
これは例えれば母港のようなものだ
ワシの治療者・氣功家としての母港だ
そこには基礎がある
今の学びがある
そして未来がある
その母港の大きな部分は「龍村塾」だ

母港がしっかりある
それだけで安心して出ていける
治療は外洋に出ると同じだ
荒れた海、いつでも初めての海に出航する
でも、母港の方向
母港が充実してあるという安心
だから、命懸けの治療ができる

母港の再確認は
プロのヒーラーとして
とても大切なんだ

龍村師匠は
優しかった

  セミナーA
11/25 (火)

ワシの講義はここに書いた「ヒーリング孝」
参加型氣功体験講義と一応の説明はしたけど
説明が足りなかったろうなぁ・・・
あのスペースだと容易に氣功が出来る
すると・・・眠くなってしまうのだ
講義がつまらないから眠いのではなく
(ん? つまらないかも?)
氣功を受け入れると
吸い込まれるように眠くなるのだ
それでワシは満足なんだけど
「体験」を理解していただけたかなぁ?
(ワシはいつでも説明不足なんだよなぁ・・・)

龍村先生の実技は関連部位を活用した
「ペアヒーリングヨガ」や「ハンドヒーリング」
痛い箇所、固い個所を直接刺激しないで
末端などの部位を軽く刺激するだけで
痛い箇所が柔らかくなる
「体の神秘」を自分で体験するのだ

講義では新潟大学免疫学の安保教授
白血球自律神経関連の「安保理論」を
解りやすく紹介していただいた
(マトモな)氣功が「ガン」に有効な理由を
科学的に立証してくれた理論だ
同時に現代ガン治療が交感神経を増大させ
結果的にはがん治療に適さない指摘もしている

氣功療法は副交感神経を迅速に働かせる
しかも「いのち」エネルギーも増大させる
ガンに有効なリンパ球割合が理想形になる
速やかにガンが小さくなる

氣功療法で速やかにガンが縮小するのは
何度も経験している
その理由を理論づけていただいたわけだ
ワシ等のような「アヤシげな治療家」には
大変ありがたい理論なのだ

湯治用のぬるい温泉に入り
夜も講義と実技体験
その後は個人的な治療をしたが
時間が少ないので希望者全員は無理だった

  セミナーB
11/26 (水)

龍村道場での指導科や研究科は
龍村先生が指導者を養成指導する立場だ
何年も教室や学院を経営している「先生」が
更に学ぶ為に通う
ワシもどういうわけか、そのクラスにいた
だから指導者としての目で龍村先生の指導法を学ぶ
セミナー参加者でなく、講師として学ぶ

やわらかい!
一言で感じるのは、やわらかさだ
ワシの目指す方向のやわらかさだ
(ワシはもっといいかげんだけど・・・)
ワシが「師匠」と尊敬するのは
ワシの「観る」目がマトモな証拠だ
(目はマトモでも「行い」がなぁ・・・
 肝心なのは「行い」なのに・・・)

指導者はついつい自分の学んだモノを
そのまま相手に伝えようとする
相手を観ずに・・・
一方通行になりがちなのだ

龍村先生を見ていると
相手を「観」て少し先を指導する
これが指導者としての「やわらかさ」
自分でしてみれば解る
それがどれほど質が高く度量が大きいか
応用力は理解度の深さなのだ

指導も治療も同じなんだなぁ・・・
治療も相手を「観」て
相手から分けていただくモノを感じて
どうにかプロの治療家なんだ
療法を一方的にするのは
シロウトの療法士

「氣」を発するだけの氣功師など
迷惑の部類かもしれない

相手との「間」に
不可思議な「氣」が流れ
調和へと変化する
これがポイントかもしれないなぁ

治療も指導も同じ
でもワシにとっては
指導の方が難しい
治療はプロを意識できるが
指導はつい自分を一方的に出してしまう
独善が得意だしなぁ・・・

  セミナーC
11/27 (木)

1994年5月 生駒山
初めて龍村先生にお会いした
ある日「御来光行法」として
日の出前に山の中腹にいた

ワシは20代の頃、地元の山岳会にいた
僅かな経験ではあるが山に登った
何度か「御来光」を見た
太陽が昇る瞬間を見るのが御来光だと思っていた

龍村先生の「御来光行法」を指導されて
初めて「御来光」の意味と価値に気づいた
太陽を拝む前に
自分を太陽に近づける準備がいるのだ
イキナリ太陽を拝むのではないのだ
「儀式」が残るのは意味があったのだ

ここでは詳しく触れないが
キチンと日常生活に取り入れれば
「御来光」には「霊性」にとって
とても深く大きな効果がある事を知った
(知っても行為が無ければ意味ない
だからワシの霊性は進歩しない・・・)

そういう意味では初めての「御来光」だった
そして、とても不思議な体験が起こった
太陽が2つ見えたのだ
しかも長い時間・・・
帰り道に龍村先生に話すと
「そういうこともあるわなぁ」と
ニコニコしておられた
その後もしばらく太陽を直接見る事が
それほど苦にならなかった

そして今回の「御来光」
今回は特に「御来光行法」は無かった
ちょうどタイミングよく太陽が山から昇るから
皆で合掌をして拝んだだけだった
なのに・・・

ワシの今までの太陽の見方は間違っていた
直接見る事ができるからと
不遜にも直接見ていた
そう、不遜だったのだ

太陽は目で見るのではなく
その上で「輝く光」を感じるのだ
太陽は目の上で「観る」
これはワシにとって大きな「気づき」だった

  セミナーD
11/28 (金)

「いのち」に関係するセミナーは
「講師からの学び」だけじゃない
「参加者からの学び」がとても大きいんだ

本気で変わろうと参加しているから
それぞれの事情を少なからず公開する
そこでは取り組む姿勢が真剣なのだ
だから心打たれる
心に響く
そして
「いのちを教わる」
「人を学ぶ」

自分をさらけ出す事は
問題解決への第一歩でもある
それを受け止める事は
ヒーリングの第一歩でもある
だから双方に
学びがある

大部分を占める鍵に
「家族」がある
自分の「いのち」の問題も
「家族」が鍵となる
「家族」の問題は
自分が鍵となる

苦しむを生み出す原因を
他の参加者と交流して気づく参加者
「他人の振り見て、我が身に気づく」
これもセミナーの大きな利点だろう

まさしく「分ち合い」であり
「分ち会い」であり
「分ち逢い」であり
「分ち愛」なのだ

  運転中@
11/29 (土)

以前にも書いたが
車の運転中は想いが飛ぶ事がある
ワシは自画自賛し、思い上がった説明をすると
「冥想」の免許皆伝者だ
冥想に免許はないからハッタリだけどね

そしてワシの冥想活用法は
アカシックレコードへのアクセスで
百科事典代わりに使うだけなのだ

「冥想で高次元につながり自分を高める」
なんてのは無知無理無謀のシロウトだと思っている
もちろん人間だから例外があるが
例外になれるレベルは誰でもわかる
法王やマハリシなどだ
ただのニイチャン、ネーチャン
オジサン、オバサン、オジイサンは
例外より「勘違い」のレベルだろう
だから、いいかげんオヤジのワシは
冥想によって自分が高まるなんて思わない
これでも傲慢独善が得意という「自覚」がある

冥想なんてのは暮らしに役立てる
目に見えないグッズの一つなんだ
暮らしに役立てられないのなら
害になるだけなんだぜ
けっこう危険が伴うし
自分がエラクなったと勘違いするし・・・

で、免許皆伝のワシは
知りたい事をピピピと送信する
この間、1・2分(時にはもっと)
そして閉じる
この時間が一番無防備だから
短ければ短いほどベテランなのだ

アカシックレコードからの念波は
高レベルだから微であり妙だ
ワシらのバリアは突き抜けてくれる
だから安全のまま受信できる

ここが冥想にこだわる
精神世界スキスキ人間は理解していない
バリアを外したままで送受信しようとするから
粗悪な念波の影響を受けるのだ

運転中は鉄の車が走っているから
ボケ〜とするのは止めた方がいい
例え短い時間でも危険なのだ
でも・・・勝手に飛ぶ事がある
困ったもんだなぁ・・・
性格だな

  運転中A
11/30 (日)

その運転中にアカシックレコードに送信した
これは「宇宙データバンク」のことで
過去から未来までのあらゆるデータの記録がある
例えば自分自身の過去世から未来までの
とっても具体的な出来事まで記録されている(そうだ)
やだなぁ・・・
あんな恥ずかしいコトやミジメなコトまで・・・
神様も悪趣味だなぁ・・・

でも解らない事を調べるには便利だ
もっとも、アカシックレコードまでホントに
届いているか不明だからアテにならない・・・
インチキレコードの可能性の方が高い・・・

今回送信した内容は
「いのちの強弱と量と質は最初から決っているか?」
見かけは確かに変化する
出来事で「いのち」は変わるのだ
でも・・・本来は決っているのか?

こんな事を知っても意味ないけど
ギモンに思ってしまったし
地球上では誰も答えてくれないし・・・

で・・・返事は
「物事は全て決っている
だからこの世では変化する」
禅問答のようだがワシは納得する

次のようにもいえる
「運命は全て決っている
だから諸行無常のこの世が
生きる存在理由の場になっている」

言葉じゃ解りづらいよね・・・
ワシは解るけど・・・

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