2003年6月のコラム         コラム目次に戻る
  水無月
06/01 (日)

6月は太陰暦と太陽暦のズレが大きいので
この時期は水無月とはいえないのだ
水無月は現歴では7月から8月に当てはまる
だから、6月用にもう一つ名前が欲しい・・・
水が無くなるどころか、
この月は梅雨などで水が多くなる
卯月で「いのち」が疼き、種まきなどして
皐月で「いのち」が伸び
この月で「いのち」は水をさらに必要とする
「いのち」と「水」は切っても切れない関係
「水」の意味と「いのち」の意味
ワシ風の解説なら・・・
「いのち」が活き活きしている状態は
「みずみずしい・瑞々しい・水水しい」のだ
肉体的には
赤ちゃんが最も「いのち」が強い
だから、最も「みずみずしい」
元気が無くなると・・・
潤いが無く、はりが無くなる
最後は干からびてしまう・・・
女性諸君!
ここでヒントだ
「潤い」と「若さ」の関係
自分でも引き出せる方法があるだろ

六月は水無月ではなく
水月

  危機管理
06/02 (月)

ある掲示板に書いた戯れ書きだが
コピーペーストしてみる

防衛庁「官房長官!い、今、北朝鮮が
    わが国に向けて・・・」
官房「うるせえなぁ!そんな事ぁ総理に言え!」
防「総理は外国です。その場合は官房長官にと・・」
官房「やっと大当たりなんだよ!しかも確変!」
防「どうしましょう?」
官房「ミサイル撃っとけ!」
防「えっ!いいんですか?」
官房「いいんだよ!備えあれば何とか、と
   総理が言ってたんだから・・・」
防「命令なら」
官房「さっさとやれ!いちいち来るな!」
防(北朝鮮が親善大使を送って来たんだけどなぁ
  パチンコ中は上の空だからなぁ・・・
  まぁ命令なら責任無いし・・・押しちゃおっと!)
こうして、ボタンは押され
ミサイルはわが国から周辺諸国に飛んでいった

この話を発表してから、軍と警察と内閣調査室の
裏組織に追われる事になった・・・
どうやらワシへの容疑は「国家機密漏洩罪」!
@ 危機管理システムの幼稚さをバラした
A 官房長官の性格と日常をバラした
B 防衛庁の役人根性をバラした
C 核がすでの配備されている事をバラした
D 発射ボタンは簡単に押される危険性をバラした
E 備えあれば・・・の危険性もバラした
F 先制攻撃のムチャクチャさをバラした
G 政治家の未来予測の無能さをバラした
H 政治行政共、国民の事なんか
  考えていない事をバラした
かなり、ワシは重罪のようです・・・

この中でマジメに修正する事柄は多い・・・
(というより、全部か?
 というより、全員を変えなきゃ無理か?
 などと書くから、本気でヤバイか?)

  危機管理 A
06/03 (火)

危機管理が危機を招く
今までも指摘された事もある
だが、危機管理が危機を
さらに招く理由がアイマイだった
システムと
準備意識と
不安意識・恐怖意識を
ゴチャゴチャに論じていたからだ・・・
不安・恐怖を煽って「コト」を進める・・・
政治家も医者も先生も親も社会もマスコミも
最低の方法論だということを
もっと認識して欲しい
不安を煽るのは
卑怯な方法なのだ
恐怖をあおるのは
「心」の強姦なのだ

危機管理はシステムの整備と
対処の意識
不安や恐怖心の逆の意識を
準備することなのだ
つまり
「落ち着く意識・冷静な心」が
危機管理意識なのだ

今の危機管理は
この逆をしている
不安や恐怖意識が
危機管理意識だと宣伝している
(そこには利権という
強欲が見え隠れしている)
だから・・・
「先制攻撃」という考え方に
正当性があるように思え
ミサイルボタンを押してしまうのだ・・・
危機を招くのは
そういう意識の方なのだ

危機管理が叫ばれ
その法律がどんどん成立し
世界は
人類は
滅亡へと進んでいる・・・

冷静で
やわらかい意識だけが
救い・・・

  危機管理 B
06/04 (水)

危機管理は危機に遭遇した後
いかにスムーズに危機からの回復へ
向かうかのシステムと意識の事だ
そこで
危機管理の範囲を
自身の心と体に限定してみよう
人は突然(じゃないけど、としか思えない)
病気や怪我や不運に遭遇する
それを、危機と考えると・・・

社会の危機管理システムは
病院・治療院・相談所等が
適切に整っている事だが
本人の危機管理意識は
不安・恐怖から
冷静・やすらぎ・やわらぎに
変える事がポイントになってくる
不安や恐怖意識では
回復し難いからだ
それなのに
多くの治療関係者は
危機に遭遇している人(患者)に
追い討ちの不安感や恐怖心を煽り
治療方針を納得させようとしている
故意に治療を遅らせたり
病気を深くしたいわけでも・・・
あるのか?
(無い!と言えないから・・・怖いなぁ)
安心感・やわらぎ・やすらぎの
できないような
危機管理者(双方共)は
もう一度
危機管理意識を
考え直して欲しいなぁ・・・

  不思議
06/05 (木)

本来は不可思議という仏教用語で
表面上は数の単位
しかも、10の64乗という
メッチャクチャ大きい数字だ
頭で考える世界では無いというわけだ
この不可思議・略して不思議は
我々人間がアホだから
いろいろな所で顔を出す
不思議は頭で考える次元ではなく
感じる世界・感性の次元なのだ
だから
不思議を感じる事ができるなら
アホな人間であっても
救いはある
逆な言い方では
考えるだけの人間には
救いは無い・救われない!
だから
学校などの
「頭で考える勉強」は
ほどほどにしておかないと
アホな人間のままで終りになってしまう
「勉強」は
魂を「勉めて(意思を持って)」
「強める」事であり
頭に理屈を詰め込む事ではない

不思議に出合った時
人間は「間が抜けて」人になる

不思議に出会って
不思議を感じて
人は
マトモに戻るチャンスを
与えられる
そのチャンスを
「救い」と
エライ先導者達は教えた
決して
特定の宗教組織に入れとは
言わなかった
このチャンス
活かすのは
本人次第

偶然こぼれ出た
「不思議に出会い、マトモに戻る」
というフレーズから
この雑記が生まれた
うん・うん・なるほど・・・
そうだったのかぁ・・・
と、ワシも感心する
ついでに「感心」だが
褒める言葉ではなく
「心で感じ取る」意味だからね

  不思議 A
06/06 (金)

人は何故「不思議に出会って、マトモに戻る」のか?
そのメカニズムを書こう・・・
時間的経緯だが
不思議に出会ってから
マトモに戻るまでの時間単位は
「刹那」!
これも仏教用語だ
約75分の1秒
つまり、瞬間だ
「瞬間の出来事は頭で理解しない」
というコトワザが(ワシには)ある
ついでに
「永劫も頭で理解しない」
ついでに
「刹那と永劫の間も頭で理解しない」
つまり、この世の全て出来事の理解は
頭ではするな!という事なのだ
「理解は感(性)でする」
本来の理を解(放)するのは
それ以外では無理なのだ

かなり哲学的な話になってしまった・・・

先ず基本的認識から・・・
「人間は不完全な段階である」
だから、通常は
人間自身の能力(頭)で
考え、行動しているが
これらは理(神)からは
「異常」な生き方なのだ
全ての人間は
間違っているのですよ〜
エラぶっても
アホぶっても
同じく異常なんだ
だから
人間でいる限り
皆平等・・・
ところが
不思議に出会うと
その瞬間(刹那)
魂は我から離れ
我を観る(感じる)
我を離れて我を感じる時
それが
「マトモ」という瞬間なんだ
つまり
不思議な出来事が
改めて有るわけじゃない
日常のどんな出来事でも
そこに不思議を感じる事が
マトモに戻るという事だ
そして
我々人間は
マトモを体験して
進化するらしい・・・

今日は
説法になってしまった
つまらん!  反省だぁ・・・

  「氣」と「いのち」
06/07 (土)

ワシはクライアントに施療(ヒーリング)しながら
いろいろな事を教わる
それは理屈じゃないし
瞬間的に感じ
時間をかけて
ワシ流に融合する
でも
説明するには理屈にする
(出来ない事も多いけど・・・)

未だ30代で
生命力が少なくなったクライアント
特に病状は出ていない
「元気が無いね」
そんなふうに思われているだけだ
このままでは
心の病気に進みやすい
そしてそのまま
体の病気も引き起こしやすい
そして、もっとやっかいな
ここでは書きにくいモノが
憑きやすい
そんな人から教わった
「氣」と「いのち」の関係

「生命力」といわれる
かなりアイマイなエネルギーは
闇・病みの「氣」を防ぐバリアーでもある
それが少なくなると・・・
心や体に闇(病み)側の「氣」の影響を
たやすく受けやすいのだ

この生命力は
その人個人の「いのち」の力
(「いのち」と「生命力」を別けてます)
それを高めたり、強めたりするのは
個人を超えた「氣」の力
「氣」と「いのち」は
肉体を持った人間では
いつでも一緒に影響し合う
生きている限り
この二人(?)は離婚しない

話は続く・・・

  「氣」と「いのち」 A
06/08 (日)

「生命力」は個人
「氣」は個人を超えて(含んで)
二人(?)は親密な関係を結ぶ・・・
この二人の間に割り込んで
強弱や質を左右するのが
「心」という
とてもヤッカイな曲者
つまり
人間の「いのち」は
「生命力」「氣」「心」が
それぞれ影響し合っている
三角関係・・・
とても上手くいっている状態を
特別に「三位一体」という
ワシと本妻と愛人の関係みたいなもんだな
(ち、違うか・・・^_^; )

本筋に戻ろう・・・
「生命力」が弱くなった時
「ある氣」によって回復できる
それは「心」の使い方で
不思議(10の64乗)ほどある
「氣」の種類の中から
「回復・調和の氣」を
呼び込めればだ
だから「心」の使い方は大切だ

心は「意識」で変えられる
意識は「気づき」で変えられる
気づきは「変わろうとする意思」でも
呼び込める
ああ、疲れた・・・
この説明は理屈にすると
とても疲れるわい・・・

じゃあ・・・また明日にしよう

  「氣」と「いのち」 B
06/09 (月)

果てし無い混沌の世界
「存在」の本質世界
しかし・・・同時に
妖しく・怪しい精神世界

アヤシイものに魅せられた
十代の美青年(ワシのことだってばぁ・・・)は
もう美(これはウソ)中年になっていた・・・(^_^;
そして
相変わらずアヤシイものに
惹かれつづけている
今は
説明不能な「氣」の専門家(プロ)として
仕事(ライフワーク)にしてしまった・・・

「いのち」も「心」も変な相手だが
「氣」というアイマイで
イイカゲンな相手と気が合った・・・
その「氣」の中でも
(何しろ種類が多い・10の64乗種類)
「調和系・回復系の氣」がワシの相手だ

出て行く「氣」と入る「氣」は
同じ種類の「氣」
この「氣」を相手にしていると・・・
人は・・・疲れる・・・
「生命力」が減少するのだ
「えぇ? 入れば元気になるじゃん!」
と単純に思うのは勘違いなんだなぁ・・・

何度も書いているが
この世の理(システム)は
ヒネクレているのだ
へそ曲がりなんだ
「○○を入れる」→「○○が出る」
「あなたが、欲しい」→「しつっけぇんだよ!」
と逃げていく・・・
「お願い、出て行って」→「いすわってやる!」
ね!
「思い・欲望」は叶うより
反対現象になるのが
この世の理なんだ

では「生命力」がアップするには?
それは、また明日・・・

  「氣」と「いのち」 C
06/10 (火)

「氣」を入れる
ワシはプロだから
これは出来る
でも
どんな業界でも
プロといってもピンからキリまでいる
そして
「ピンとキリは力の差ではなく理解度」
と看破しているのは
何らかの道でピンの近くにいる人だ
方向性が正反対な同業界のプロ達は
いたるところにいるだろう
マスコミという無知媒体は
「専門家・プロ」の肩書きだけで
使いやすい人物だけでコメントさせるから
それを見ている視聴者は
結局、何がなんだかわからない・・・
おっ! 話が横道・・・

「氣」に注目するなら
「入れる」事ではなく
「氣」の強さ、でもなく
「氣」の量でもない
何しろ10の64乗
(この不思議数気に入ったわい)
「質」が大切なんだ
そして
動き方としては
「出入」より
「循環」!
これがポイントだ

目的は体と心の「回復」
言葉を変えれば
「調和」
ならば・・・
「出入り」より「循環」のほうが
調和しやすいとわかるでしょ

だからワシは
「氣を入れている」が
「循環の氣」を入れている
(「循環の氣」に共鳴させている)
循環するように
クセづけのお手伝いをしている
単純にエネルギー(力的)を
注入しているわけじゃない
「質」が違うんだ
ここを
クライアント本人が(少しづつでも)
理解するにしたがい
自力で回復・治癒しやすいんだ

いつでも
我々人間は
自然の中で
生かされている
これは
単なる
事実なんだ
「氣」が循環している、というのは
この事なんだ

  「氣」と「いのち」 D
06/11 (水)

「循環の氣」
別名「調和氣」は「回復の氣」でもある
この事をマクロに観ると・・・

我々「存在する全てのモノ」は
全ての世界と繋がっている事を認識し
生かされて、生きている事実に沿って
調和に積極的に参加する生き方で
「いのち」は喜び、「生命力」は上がる

難しい話を書いているのではない
「あなたは一人じゃない」
「みんな(人間だけじゃなく)仲間」
「楽しく・仲良く・気持ち良く」
といってるだけなんだ
道徳論を書いているんじゃない
だいたいワシは
道徳とか倫理とか社会通念とか
破るほうが好きなタチだ
しかも
全く平気
心も痛まない
イケナイコトは上手くやろう・・・(^_^;
でも
上記は単なる事実であり
病気回復のプロのお手伝いとしては
「循環の氣」
「氣」の「循環」を意識してくれると
とてもやりやすい

「生命力」を本来のその人の
強さ・大きさ・濃さに戻すには
「氣」の使い方が大きなポイント

この話は細かく説明しだすと
何ヶ月も書きつづけなければならない
ワシでさえ、数冊分書かなければならない
疲れた・・・
だから
とりあえず、ここで〆

  絶食
06/12 (木)

二週間前から徐々に減食して
今日から絶食に入る
もちろんワシは
「健康指導のプロ」でもある
「イイカゲンなヨガ修行者」でもある
「アヤシイ氣功師」でもある
「ちょっとスケベな中年でもある・・・」
だから
単なる減食絶食ダイエットのような
メチャクチャな方法ではない
毎日の氣功療法は普通に行なっているのだ
行動範囲も変わらない
基本的に
健康法や治療法
生き方でさえ
個人に適わせて指導するものだ
だから
ワシと他の人と
同じ方法を薦めるわけにはいかないし
無理だ
ワシは自己氣功を併用するし・・・
でも、その一端を書こう

目的が無ければ
そんな事(絶食)はしない
目的・・・
これはどんな場合も対外的な
「タテマエ」や「いいわけ」や「カッコ付け」がある
メンドウくさがり屋のワシも
・・・一応ある・・・
お師匠さんの真似をして
「感覚を磨くため」
「食を感じるため」
「一段上の次元を感じるため」等々
特に「感覚磨き」は
プロ氣功師としては仕事の範囲
これらはウソではない
だいたいワシは
ウソは得意だが
必要ないのにウソを付くほどマメじゃない
じゃ、別の目的は?
・・・教えてやらない・・・
(そんなの教える意味が無いもん)

方法&経緯
思い起こせば数ヶ月前・・・
本妻「アゴが二重!脇腹出てる!」
ワシだって、少しは気にしてたのに・・・
(あっ!いけねぇ!キッカケを書いちゃった!)

そうじゃない・・・
龍村師匠が今年の1月頃
「絶食」に入った、とある人から聞いた
ワシ、こんなにチンタラ暮らしているのに
師匠はキチンと修行している・・・
自分を観、先に歩いている・・・
何か・・・悔しいし、恥ずかしい・・・
ワシもやりたい・・・
本音で
やりたい・・・
でもワシのような根性無しは
何かのキッカケがないと行動しない
で、
本妻の言葉がキッカケとなった・・・
ありがとう・・・本妻よ
(お前もどうだ?一緒に?必要だろ?)

明日に続く・・・

  絶食 A
06/13 (金)

今回のワシの目的ではないが・・・
「絶食」は一つの治療法でもあるんだ
説明しよう

ケモノ(注・人間を除く・人間はケモノだという
単純な事実を多くの人は認めてないねぇ)
社会に病院や医者(医獣)がいるかどうかは
意見の分かれるところだが(ワシはいる側)
基本的にケモノは
病気や調子を落とした時は
自力で回復法を見つける
(人間が他のケモノに劣る点でもあるね)
「智慧」は圧倒的に人間以外のケモノの方が多い
(人間には、ケモノと違って「智慧」がある、なんて
無知を話していると・・・恥ずかしいね)
その智慧の一つが「絶食法」だ

「いのち」は容量の決っている
「生命力」で肉体を機能させている
「生命力」のほとんどはエネルギーとして
姿を変え、細胞を応援している
「食」は使って少なくなった「エネルギー」を
補充するメイン方法だが
「食物」が「エネルギー」に変わるにも
大きな「生命力」を使ってしまうのだ
わかりますか?
食べると元気が出てくるには
「生命力」に余裕が無いとダメなんですよ
この点を多くの人が知らないようだ・・・

つまり
病気やその他で「生命力」が少ない時に
「ほら食べろ!やれ食べろ!」では
さらに「いのち」を縮めてしまうのです

思い出して下さいな
むかしは病気時、病後は
「おかゆ」などを少しづつ食べさせたでしょ
単純な栄養補給じゃないのですね
サイクルを助ける道標として
少しづつが、適した方法だったのです

このことを
さらに「療法」として積極的に応用すると
「絶食法」になるのです

もう少し詳しく続く・・・

  絶食 B
06/14 (土)

今日で3日目か・・・
腹へったぁ〜・・・
それでも普通の人とは
飢餓感がかなり違う・・・らしい
ワシが氣功師になった生駒山では
一日の食事カロリーは600〜800
誰でも「腹減ったぁ〜」となってもいいのに・・・
ほとんどの人が平気な気分
それだけじゃない
いきなり禁煙・禁酒にさせられた人が
ほとんど・・・平気なのだ
これはこの氣功(特に真氣光という)
が心(と魂)に直接届くためとおもわれる
今のワシも自己氣功しながらだから
飢餓感が薄いようだ(単にニブイ?)

昨日の続きで
「食べる」と「生命力」が減る話だ
これは代謝エネルギーとして使うからだが
普段は無駄に使いすぎている
早い話が
「現代人は食物が多い」
少ない食物を効率良く代謝する分には
「生命力」は減らない
今のようになってしまったのは
狭い栄養学の弊害でもある(成果もあるよ)
生命力・食・いのちの関係を理解していないと
「絶食」は危ない事もあるんだ

減食から絶食に移行するのは
難しい事ではない
でも
(下手に)食べると、生命力が減る事を理解しているか
あるいは
食べれば、生命力は付く
と単純な固定概念が出来ていると
絶食から平食に戻す時
「食べて」しまう・・・
食べるのは平食に戻った後なのに・・・
「食べる」のではなく
サイクルの道標なのだ

一週間絶食後に
いきなりカツ丼を食べ
亡くなったりする

最初から絶食法は「生命力」のある人向き
ある意味
元気な人用の健康法でもある
「生命力」が残り少ない状態からでは
「いのち」を縮めてしまう
元気な人でも
上記のような事故がおこる
「食」と「生命力」の関係を知らないために・・・

ワシは明日から
元にもどる段階になる
このほうが難しいのだ

  絶食 C
06/15 (日)

ワシは最低年一回以上の絶食をするが
今回も気づいた事は多い
というか・・・前回気づいても忘れるのかも・・・
体の調子(調和の様子・調和度)はいいと思うが
絶食に入るとスタミナというか根性というかが減少する
もともと、スタミナはともかく
根性は無い、進んで、無い!胸を張って、無い!
単に腹が減って、力が無いというわけじゃなく
その中でも足りない物があるのだ
それは、塩分だ!
水分は十分に摂る
ワシなりの補助栄養素も摂る
だが、塩分を摂らないと
「いのち」はしぼむ傾向にある
で、味噌汁を飲む
お〜!

美青年の頃、山登りをした
何人かのパーティで縦走
バテた時もあった
その時、体中塩を噴いていて、汗もほとんど出ない
脱水症状に近い
休息し、水を飲む、と
飲んだ瞬間から、汗が噴出す!
この速さは、かつて勉強した
「水分が胃と腸で吸収し、血液に入り・・・」
そんな悠長な時間ではないと、体感した
学問は為にもなるが、あてにならん事も多い・・・
で、水分だけではスタミナが続かないが、
塩分を同時に摂ると、違うのである
そんな事を思い出した

身体は必要な量の「食物」を代謝する時は
おそらく、「生命力」をそれほど使わない
「長生きしたけりゃ、少食にしなさい」
この言葉は本当だと思うよ

さて、微食・絶食にすると
今まで「食べる」と否応なく
代謝エネルギーとして使っていた
「生命力」が別な働きに使える
身体の不調・不良・障害部分の修復に、だ
これは自動的に切り替わる
自己治癒力・自然治癒力を引き出す
一つの智慧だ
だからケモノは絶食する

さらに続く

  絶食 D
06/16 (月)

昨夜の僅かのゴハンとおかず・・・
箸でチョコッとのる量を口の中で
いつの間にか融けて無くなるまで噛む
も〜・・・お・い・し・い!!!!
ワシはいつも食事を美味しく感じるし
「美味いなぁ」と何度も言いながら戴くが
これは別次元の美味しさだ
美味しいモノを食べたい!と思うのなら
しばらく「食べない」事と
その後で「僅かを口の中だけで食べる」事だ
こうしてみると
普段は口で食べてない
口で味わってない
口は入り口だけにしている事などに気づく
玄米を食べる時には意識して噛む
確かに甘味や美味しさを味わえるが
微食とは意識が違う
玄米は栄養とか食の質とか
噛む事による、酵素とか刺激とか
そんな理由がチラつく

微食はもっと素直だ
貴重だから、ありがたく戴く
もったいないから、飲み込めない
栄養も体の仕組みも関係ない
「食べる」とは
(心的には)ありがたい
(感覚的には)非常に美味しい!
それだけだ
微食でないと味わえない幸福
身体が悦ぶのが体感できる
身体が幸せを感じてる

これが
「感覚磨き」なんだ
決して難しい修行ではない
食から「欲」を観る
欲求不満を味わう
ここまでは簡単
その次の段階で
「欲」を活かせるか
「欲」を味わえるか

修行は「欲」を無くす事ではないと思う
ワシはそうとらえている
「欲」を観つめ、活かす
「欲」を味わう
つまり
主導権をこちら側に戻す事だと思っている
「欲」と直面した時
その余裕があるか
ここが分れ目だ
まだまだ、ワシは
(食欲に関しては)
余裕があるようだ

  絶食 E
06/17 (火)

単純に体重を減らす目的の
微食・絶食ダイエットなどは
「健康」からはお話にならん
(食べなければ、一番必要な「生命力」から無くなり
無くしたい脂肪などが残る・・・どうする?)
それでも
「体重は減る?」と気になるようだ
減ったよ、2.5Kg
脂肪から減らしたいのなら
脂肪になる分だけ除き
代謝に必要な栄養素は取り入れる
これが入らなければ体は身体から
大切な部分を変えてしまう
ダイエットに関する話はまたいずれするとして
以前もそうだが
結果としてワシ流の絶食では
ほとんど体重は落ちない
前に2週間絶食しても
それほど体重は落ちない
何故か?

肉体を動かすエネルギーは
確かに食物から摂り入れる
が、それだけじゃない
「氣」の分野では
食からの「氣」を「地氣」という
一番肉体を動かすエネルギーに適している
でも、「天氣」「人氣」でも
ある程度代用が効く
活用できるレベルによるだろうが
名人なら、食べなくても大丈夫・・・かも
それを示した言葉が
「仙人は霞を食べて生きている(しかも長生き!)」
現代にこれができる氣功師が何人いるか分らないが
転用がきくことは間違いない
ワシでさえ
ある程度は活用できているようだし・・・
ワシの使う「調和氣」は
どうやら「天氣」に属するようだ
武術氣は「人氣」に
保健氣は「地氣」に近いだろう

  「いのち」と「生命力」
06/18 (水)

ワシは不親切だから
こういった書き物の言葉の説明も
自分独特であっても説明しない事もある
昨日まで書いていた「絶食」の中で
「いのち」と「生命力」を区別して書いてあるが
少し不親切すぎるかなぁ、と思った
見えないし、正面から説明する人も少ないし
それぞれが「何となく納得」している言葉だから
こう書かれると、混乱しやすいよねぇ・・・
ワシは混乱・淫乱・反乱の三乱が好きだが
整理整頓が好きな人からは同調されない・・・
だから少し説明するけど
かえって混乱しても知らないよ

「いのち」とひらがなで書くのは
その人の本質体ともいう「魂」の事だ
じゃあ、「魂」とかけばいいじゃない!
でも「魂なんて無い!」
と科学的には教わっているらしいから
気を配って「いのち」と表現したんだ
同じモノでも
「いのちは無い!」と
教えるセンセーはいないらしいし・・・
(とても矛盾しているだろう?
マジメな人達は実は滑稽なんだ)

「生命力」は
肉体を維持する原動力
「いのち」は不滅だけど
「この世という時間と空間」に限定されると
物質体(肉体)内で
「生命力」が無くなるまで
留まる約束になっている
誰との約束か?って?
神様に決ってるじゃん!
神様の言葉にひっかかるなら
真理でも理でも宇宙の法でもいいけどさ

だから
「いのち」と「生命力」は
関連が多いにあるけど
同一じゃないんだ
ワシが問題にしているのは
いつでも「生命力」の方
「生命力」の輝きは
強弱というより
質なんだけどね

  食欲
06/19 (木)

微食・絶食すると
一般的には食欲という「欲」と対峙する
ところが意思(覚悟)を持っての微食や絶食時と
否応なく食べ物が無い時とでは
「欲」の出方、受け方が全く違う
食べたいのに食べれない状況では
食欲は強く押し出される
本人の意識も大きく影響を受ける

食べれるが、食べない時では
身体の内には同じく食物が入らないが
食欲は出ても少ない
当然受ける意識も小さい

ここが
「欲」って何だろう?
と観るチャンスなのだなぁ

普段は「欲」に対し
いつも受身
出る相手(欲)まかせ
出てしまったら・・・
@ 無理して押し込める
A 欲に支配される
B 代用で誤魔化す
C 寝る
などだが
いずれも主導権は「欲」側にある
ところが
「欲」も人の子?(真実を突いた言葉だなぁ
実は「欲」は人の子(生み出したモノ)なんだ)
@〜Cをしないで
D ひたすら観つめる
すると・・・
「いやん!あまり、観ないで〜」と
何処かに隠れてしまう
これが「欲」から
主導権をこちら側が握るという事なんだ
「欲」と対立しない
やっつけない
降参しない

観る
これがコツ!

  食欲 A
06/20 (金)

16日の「絶食 D」で書いたように
「欲」を観つめ、活かす
「欲」を味わう
これが本来の修行だと思っている
それを「無くす事」にこだわると・・・
出来ないから、無理するし、誤魔化す
しかも無意識に・・・
「欲(我欲)」は肉体とワンセット
無くしたけりゃ、死んでからすれば出来る
こんな単純な事も解らない
坊さんや精神世界指導者が多すぎるぜ
まぁ、他人の事はともかく
「いやぁ〜ん、恥ずかしいぃ〜」
と隠れた「欲」も可愛いと思う・・・
だから「欲(この場合は食欲)」をも可愛がる

「一を観て十を知る」
「十を知り百に広げる」
「百に広げ万(よろず)に活かす」
(ワシオリジナル格言だぜ)

絶食を体験し
食欲を活かす
平たくいえば
美味しく食べるコツ
美味しん坊になれるというわけだ
食べる事が好き
美味しいモノが好き
美味しく食べたい
ヒントは
絶食にあり
そこからの「観」が出来るか
活かすか、にある

さらに広げて
「我を活かす」
ここまで出来りゃ
ワシも聖人クラスなんだけどなぁ
聖人は窮屈そうだから
ごめんこうむる
ワシはいいかげんな人生を好む

 
06/21 (土)

どうも「観」の話をしないと
なかなか理解されない
もっともワシは理解される事を
ちっとも期待していない
誤解される事も恐れない
どうでもいいもんね

「観」についてはこの雑記帳より
講座のほうに書く題材だから
ここでは少しだけ

「見る」は目に見えるモノをみる場合だ
「観る」は目に見えないモノをみる場合だ
これが「観」
方向性が違うんだ
見るときは、自分から対象物に向かう
つまり、自分の知識その他で相手を判断する
ところが
観るときは、対象物からの「何か」をそのまま
自分に連れてきて、
本当の判断が出来ない事を自覚した上で
自分の学んだモノを通して表現する
「見る」のはある意味、独善・傲慢
「観る」には自分を離れる
だから
「観」は「愛」の観方でもある

観自在菩薩
通称観音様は
「観」が自在であるが故に
「愛・慈悲」の菩薩でもある

あれ?
いつの間にか説法になってしまった
おかしいな?

ワシ流に表現するなら
「観」は
自分がいいかげんを自覚した者の
観方でもある

これって・・・
ワシが実は
タダモノではないという
嫌味な文章だなぁ・・・
ん? 誰も思わない?
その通り
えらそうに「観」を解説しても
ワシはその通りに出来ていないのさ

  指導
06/22 (日)

昨日の「観」を下地にして
「指導」の話だ

巷に「先生」が溢れている
勧誘商売言葉にも
「センセー!シャチョー!ダイトーリョー!」
が使われる
脂ぎった政治家も「センセー!」
医師免許さえあれば
「いのち」を考えなくても「センセー!」
生徒か先生か区別できなくても「センセー!」
ワシのように妖しげな職業も
(呼び方が無いから)そう言われる
「センセ!そこ、押して下さる?あんN」
(注・これはジョークですよ!)
その他に
何かを教える立場の人は「先生」といわれる
ワシにも「先生」は多い
でも
「プロの先生」は・・・少ない
どの業界においても・・・
本当の「指導」という能力を伴う
「先生」という場合の話だが・・・

ワシは「先生」と「師匠」は
ハッキリ区別している
「師匠」は
「指導」という能力と
「縁」というモノが
個人の生き方に深く係わる
個人的な不思議な関係
ある人には「先生」でも
ある人には「師匠」になる

「先生」は
ある分野の未知な知識・能力を
教えてくれる人
早い話が
金さえ出せば誰でも生徒・・・(^_^;

ワシが「先生」と「プロの先生」に区別するのは
「指導力」の有無だ
あるいは
シロウトの指導力と
プロの指導力との区別だ

簡単にいえば
方向性(簡単じゃない?)
昨日の「観」の有無
プロでもピンからキリまである
「観」の理解度で
ピンキリがある

・・・続く

  指導 A
06/23 (月)

「治療もいいが、指導をしなさい!」
これは師匠がワシに言った言葉
言われた時は言葉の深さが解っていなかった
だから師匠なんだ
いつでも、その人の未来に役立つ先導のモノを
示してくれている
後で、理解できる言葉だらけ・・・

「指導」は
「教えるモノ」じゃない
「教わるモノ」のじゃない
「観る」そして「未来を示唆」する

「自分の知識・能力」なんてものを
他の人に「教える」なんて
おこがましいし、くだらない
でも、
一人一人を「観」て
その人の本来の力(能力)を引き出すのは
自己修正回復能力(自然治癒力)でもある
「治療」でもある
ここに
「治療」と「指導」の方向性が一致した

「先生」は生徒を選べないが
生徒は「先生」を選べるのだ
技術・知識を「教える」ような先生についても
先生より劣るモノしか学べない
でもその先生自身の技術・知識はともかく
生徒自身を「観」て、
少し先を示せるような先生なら
道は遥か先までつづくだろう

さて
ああ言われたワシだが
師匠が言ったのだから(責任転嫁だい!)
ワシに「観」と「未来示唆」の才能はあると思うが
「指導」を広める能力は無い!
(この才能の無さを師匠は見抜けなかったのね)
そうも言ってられないので
ワシを売り出せる人
遠慮なく売り出して下さい!!

  電力不足
06/24 (火)

原子力発電所の書類改ざんやズサンな維持管理
しかも体質としてあったからたまんねぇ・・・
全ての原発の点検のため電力が不足するという
でも不足するのは東京中心だけだ
いつも思う
原発が必要なら必要な場所に作ればいい
国会議事堂の隣に作ればいい
国会議員なら率先して
手本を行えよなぁ
米軍基地が日本を守るのなら
一番人口の多い首都に作ればいい
アメリカの下男として生きるなら
皇居の隣に作ればいい
沖縄に押し付けるのは変だろ?
ゴミ捨て場は出した所で作ればいい
どうせゴミだらけなんだから
永田町に作ればいい

使うのは自分
ヤッカイは他の場所に・・・
こういうクズな政治行政が
今の日本の象徴だ
「暮らす」というのは
自分のヤッカイを
自分で引き受け
智慧を出す
そういうことじゃないのか?
責任という言葉を知ってるか?
(注・ワシの事は棚に上げてます)
クズ政治家だけじゃない
都会に暮らす人は
卑怯だと思うよ
声を上げなよ
「東京に原発を!」
「沖縄から米軍基地を移転しよう!」
「ゴミの山を作ろう!」

  沖縄戦史
06/25 (水)

TVのドキュメント番組で
沖縄決戦末期や終戦後の「戦争」を
生き残っている人が証言していた
沖縄戦史の特徴は
民間人の虐殺と自決にある
米軍による殺戮もあるが
日本軍隊が民間人を虐殺し
自決を迫った方が多いようだ
「軍隊は国民を守らない」
「軍隊は軍隊を守るためなら何でもする」
これは旧日本軍に限った事ではない
どの国でも、どの時代でもある
特に末期状態では、必ずある
軍隊が組織を守るために
政府が党を守るために
議員が自分を守るために
国民を犠牲にするなど
「当たり前」なんだ
目を覚ましてくれ!
まして、自分の国民でない民間人など
軍隊が守るわけがない
米国が守ってくれる、などと
ネボケた事を言う人達よ
目を覚ましてくれ!
(沖縄人は意識上では日本人と思われていなかった)
それはそれは酷く惨い事を行なった
軍人も元は同じ人間だが
「命令至上」で動くロボットだ
戦争状態では人間じゃないんだ
その生き証人達が危惧している
今の日本の状態を
今の政府と国会の歩みを
今の日本人の意識状態を

目を覚まそうぜ

  ネタ
06/26 (木)

誰と寝た?
なんてツマラン導入を書くようでは
もう中年の息切れかぁ・・・
ワシは寝つきがいいから
どんな美女と裸で寝ても
本気で眠ってしまう・・・
これって・・・どうよ?

そういう話じゃない!
この6月は社会ネタが目に付き
バランスを取る為にも
下ネタを書こうと思ったのだ
沖縄戦史から
肉林戦士へ・・・
ところがワシは
昔からオクテだったのか
その気の強い欲求が無い
モンモンと過ごした青春の記憶も無い
若くして枯れていたのか
最初から未熟な性欲なのか・・・
本は節操無く好きだから
下話は出来るし書けるが・・・
でも、解らないモノに対する
興味はどうやら人並み以上
「性」は「いのち」や「氣」と
同等の、根元に関する
とっても、とっても興味深いモノ
ん?
ここまで書いて
せっかく下品な下ネタに発展させようとしたのに
マトモな文章になりそう・・・
ダメだ!
今日は不調だ!
一見マトモな言葉や文章は
簡単に誤魔化せて書けるけど
面白い下品話は
深い人間洞察と
深い愛情に共鳴しないと書けない
誤魔化しがきかない・・・・

マトモと下品では
あきらかに
下品が上品だな
軽く下品話も書けないようでは
ワシもまだまだ未熟だなぁ・・・

  パズル
06/27 (金)

ワシは○○ねばならない、とか
○○てはならない、とか
○○するべき、とかが苦手・・・
苦手というより、ヘソ曲がりのせいか
意識してやりたくない、やらない
クライアントにもそう指導する
世の中からマジメな
「○○すべき」「・・・てはならない」
が無くなれば
もっと体と心が楽になれるのに・・・
その代わりに
どうでもいい事ならするんだなぁ・・・
(それ、代わりにならんだろ!)

忙しい時は基本的に無いが
それでも、する事があるのに
パズルに手を出す・・・
美女とパズルが並んでいても
パズルに手を出す(多分・・・)
特に好きでもないけど
何となくシャープペンを持つ
(美女には仕事でいつも手を出しているし)

パズルでもいろいろある
ワシは「ナンバープレース」
「ナンバークロス」
「お絵かきロジック」
「推理ロジック」が好きだ
普通のクロスワードでは物足りない
最後にきて間違いに気づき
「全消し」するときなど(最初からやり直しだ)
悔しいのか、嬉しいのか不明だ
充実感は・・・感じるような・・・
これって・・・マゾ?

わけのわからない謎に惹かれるのは
どうやらワシのDNAのせいらしい・・・

  やだなぁ・・・
06/28 (土)

政治とマスコミは「氣」が荒れてるから
あまり近づかない方がいい
ところが多くの野心のある人は
この2つに近づき利用しようとする
すると・・・
せっかく光るモノを育てたのに
有名と引き換えに
薄汚いモノに塗り替える
利用しなくても意識を向けると
いつの間にか薄汚くなりそう・・・
だからこの雑記だって
政治家ネタは書きたいわけじゃない
下品な話の方がずぅ〜とマシなのに・・・

昨日のTVで
「レイプは正常といえる」と発言した
クズ政治家がいた
クズな人は政治家になりたがるのだから
クズな政治家が多いのは当たり前
しかし・・・
同席していた女性議員
元首相
その他の出席者
何故その場で
「クズ!」と教えてやらないのだ!
特に女性議員
昔はスポーツ界で
感服するほどの感動を国民に分けてくれた
それが政治家になったら
あんなクズなおっさんの言葉に
マトモな意見も言えないほどナサケナクなるのか
それなら政治家を辞めろ!
国民に夢や感動を分けていた立派な立場から
クズの仲間に落ちる必要はないだろう
元首相はしょうがない
もう、治しようがないほどだから・・・
だけど
あんな政治家達を辞めさせない
国会、政党、政治家達も同罪だろ
皆、辞めろ!
あんな政治家を選挙で選んだ国民も
人間辞めろ!とまで言わないが
「恥」とは思えよなぁ!

と、ワシも「氣」が荒れてしまうから
政治屋の話はしたくなかったのに・・・

  今日こそ
06/29 (日)

昨日はあんなネタを使ったので
荒れた内容だった・・・
「荒れる」と質は「粗い氣」になる
逆の「和らぐ・調和」と「微妙な氣」になる
心は柔かくなる
よし!
今日こそ「下品」に!
何でそういう展開に?
趣味だから、いいじゃない!

「下品」とは
下の品の話が中心だ
みんな、興味があるくせに
誰かが言い出さないとノッてこない傾向が・・・
興味の無い人は
人生はもう御終いに近い
これはとても深い
「いのち」「魂」「この世に生まれた意味」
などに関係しているから
「生まれた意味」に興味無くなったら
「いのち」はしぼむようにセットされている
病気や事故や老いるようにセットされいるんだ
象徴として
下の品がある
下の品を大切にする人
いつも意識を向ける人と
興味を失い
あるいは
汚い興味として意識する人では
人生が大きく違うのは当たり前
マスコミやマジメな人が
本来の道から外れているのは
大切に
やさしく
楽しく
嬉しく
扱わないからだ


ちっとも下品じゃない話・・・
ワシ
どうしても高貴なDNAが
下品話を邪魔するみたい
これじゃあイカン!
下品な人とキチンと付き合おう

  水無月最終日
06/30 (月)

例年に比べれば
水は少ない月だった
体や心
社会や世界も
「うるおい」は少なかったようだ
だから
「いのち」が細くなっている
健康の概念を修正しないと
健康だと思っていても
健康管理・健康増進と思っていても
逆に「いのち」を縮めている現状を
認めざるを得なくなっている
ドクターやその他の専門家と云われる人達は
「病気」の専門家であり
「病気」からの「健康」の見方であった
本当の「健康」の専門家は
日本の公では登場し難いのだ
いない、とは言わない
ワシは専門家だと自負しているし
お師匠様達をはじめ
多くの専門家を知っている
だが、日本の世論はまだまだ未熟なのだ
遡る事80年前
日本の学問の権威は東大だった
縦割りが染み付いた日本だ
「目に見えないモノ」に対し
「研究に値しない!」との態度をとった!
それからだ
日本の医学や科学やあらゆる学問が歪み
多くの時代や能力をかけて積み上げた
「証明でき難い学問」が無視されるようになった
まるで中国の文化大革命時代のようだ
目に見えぬモノを研究し
人々に役立てようとした人には
「暗黒の時代」が続いている

「健康」は
「いのち」と向き合う事なしに
指導できるものじゃない
「いのち」を
目に見える対象の面からだけしか
科学しなかった歪みが
今、噴出し、
気づき始めている

病院で健康になっているか?
健康どころか
病人自体が減っていないし
病気自体が増えている
どうして?

体を単純に鍛えている人が
幸せに長生きしているか?
毎日のように
発病し、短命で消えていく
どうして?

これらの答えと方向が
「いのち」の観方にある
新しい「健康の観方・生き方」
固定概念・既成概念は

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