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  October
10/01 (金)

8を意味するOctaの月。
ローマ歴はずっと2ヶ月ずれている。
日本では神様が出雲に宴会に出かける月。
(し、失礼!会議出張だそうです・・・)
でもなぁ・・・建前だよなぁ・・・。

人間だってTV会議も携帯電話会議もできる。
まして神様なら離れていても会議くらいできる。
離れていて出来ないのは会議じゃなく、
お祭や宴会やスキンシップだろう。
あとは・・・妻やダンナに隠れてする浮気。

神様といっても様々だ。
日本の八百万(やおよろず)の神様は、
一神教の全知全能の創造主とは違う。
神様というから混同されてしまうが、
イメージとしては妖怪に近い・・・。

人間みたいな器の小さな存在だって様々だ。
本当に偉い、大きい、立派な人もいるけど、
その逆のタイプはもっと多い。
神様だから人間よりはマシかもしれないが、
八百万もいればレベルだって様々だ。
だから神様には位があるし、段階がある。
神様の世界は縦割り社会なんだぜ。

人間の縦割り社会と違うのは、
それぞれの専門職に分かれていて、
いくら位の高い神様でも他の分野に口は出さない。
一同に会すると、位があるから命令もある。
○○組合長と○○業の社長や職人の関係みたいかな?
さらに位の高いのは・・・村長とか。
(いいのか? 一番偉い神様が村長で?)

縦割り社会はストレスが溜まる。
それは神様社会でも蟻社会でも同じだ。
(いいのか? 神様と蟻を同じにして?)
だから一年に一回は建前をつけて遊ぶ。
(内緒で、もっと多く遊んでいると思う)

まして人間の前では偉ぶって振舞う。
偉ぶっている立場や職業は抑圧だらけだ。
人間社会など、そういう人達は欲求不満の塊だ。
そのままだと、アブナイ人に変身してしまう。
(センセーといわれる人達・・・あ、ワシもだ!)

神様でも夫婦では気の晴れない時もある。
(神様も既婚、独身がある)
お互いが偉ぶっている神様だしねぇ・・・。
だから会議と偽って、ダンナは出張する・・・。
嫉妬深い(嫉妬は欲求不満の現れなんだけどな)
妻神や彼女神から離れて、ハメを外す為に・・・。
(ホントにいいのか? こんな事をバラして?)

これ以上は・・・さすがに話せない・・・。

  馴染む・1
10/02 (土)

最初から馴染む人がいる。
最後まで馴染めぬ人がいる。
初めての場所で馴染めてしまう。
何年暮らしても馴染めぬ場所もある。

ワシはヒネくれ者だから、
こういう、どうでもいい事は考える。
必要な事は・・・あまり・・・考えない。
(一応考えるのだけど・・・続かない)
必要な事は「考える」より「行動」で変わる。
(その行動も大して続かないしなぁ・・・。
これじゃ、ダメ人間かぁ・・・。)

普通、馴染む(馴れて染まる)までは時間が必要だ。
実際、時間をかければ、馴染む事も多い。
でも絶対条件でも必要条件でもない。
事実として、初めてでも馴染む事があるからだ。

ワシはヒネくれ者。
だから逆に考えた。
馴染むのは・・・
馴染んだ事があるからじゃないのか?
馴染む時間は想像以上にかかるかも?
今生だけでは足りない、かも?

今生の時間は・・・アテにならない。
過去世だか前世だか知らないが、
多くの時間を費やして馴染んでいた。
今生での時間は、馴染む為の時間じゃなく、
それを思い出す為の時間かもしれない。

我々の本質体が何処にあるのか判らない。
「生命」の本体が何処にあるのか知らない。
そこに「記憶」があるのかどうかも判らない。
それでも過去から未来まで続く何かがある。
それぐらいは・・・判る。

馴染む事は「今」でなく「過去」の出来事。
それも必要があって時間をかけた出来事。
大切だから多くの時間をかけた出来事。
ならば、馴染む事、馴染んだ事柄は大きな財産。

「過去」に必要があった事柄なら、
「今」か「未来」にも必要がある事柄だ。
「馴染む」モノはとても重要な意味がある。
「今」や「未来」を助けてくれるモノ。
それが人でも、モノでも、能力でも、場所でもだ。

だけど「馴染みの店」「馴染みのネェちゃん」はなぁ・・・。
店側の経営を助けてくれるかもしれないけど、
こちら側を助けてはくれない、と思うよ。
それは「うわべの馴染み」だからねぇ。
ホントは馴染んじゃいないんだ。

  馴染む・2
10/03 (日)

馴染んだ事柄は気持ちいい。
居心地や使い心地がよく、安心できる。
落ち着けるから「次」に進める。
あるいは「回復」できる。
だから「今」と「未来」に大切な事だ。

初めての事に出会った時、
気持ちが前向きならば、ワクワクする。
多少不安があっても、ドキドキする。
逃げない限り、それは生命力を活性化する。
「異」なモノとの「出会い」によって、
「いのち」は喜ぶように創られている。

そして次の段階として、
その人にとって必要ならば、
「出会い」「交流」から「融合」に進む。
魂(本質体)は「融合」して大きくなる。
「馴染む」事は「融合」の段階に入っている。
だから、自分の一部でもある。

ここで前回の「馴染みのネェちゃん」の話だ。
人は「欠陥体」として創られた。
この「事実」が面白く無い場合は、
創造主のグレちゃん(グレート・サムシング)に
モンクを言ってくれ。(モンク言っても大丈夫だ)
ワシはモンク無いぞ(感謝はある)。
人間は欠陥だらけで、面白いと思う。

欠陥だらけの人間だから「勘違い」が起こる。
勝手に「馴染み」だと勘違いする。
あるいは「馴染み」だと勘違いさせられる。
「ここ、馴染みの店なんだよ」
こういうところに人間の悲哀と滑稽があるんだ。
ね、人間って可愛いし、面白いだろ。

ホンモノの「馴染み」と「馴染みゴッコ」の違い。
そのヒントは「この世はヒネくれている」
「馴染み」であるはず無いのに「馴染む」
「馴染み」だと思っているのは「無関係」
グレちゃんは・・・お茶目だよなぁ・・・。

ホンモノなら、最初から「馴染み」だと「感」が働く。
「あれぇ? 初めてなのに、初めてじゃない」
デジャヴュ(既視感)も含めて、底から感じる。
相手側も同時に共鳴しているのが、何故か判る。
「馴染み」は作ったモノじゃなく、
すでに、出来上がっていたモノ。

違和感が無いから自由を愉しめる。
自由を自覚すると、幸せを感じる。
幸せを感じると、他へ分けたくなる。
「馴染む」事は「平和」への行為でもあるようだ。
「融合・調和」と同意語だものね。

  馴染む・3
10/04 (月)

「馴染む」のは何となく解ったつもりだ。
「調和」を学ぶ為に存在している、
あるいは、体験する為に存在している。
又は、気持ち良さを体験する為に生きている。
全部同じ意味だろうと思う。
だから「馴染む」のは指標と確認でもある。

では「馴染めない」のは何故か?
多くの時間を共有した人や場所やモノでも、
違和感が無くならない相手がある。
どうしても「馴染めない」

ワシはヒネくれているから、
難しい相手には素直になる事にしている。
難しい事を複雑に考えるのは性に合わない。
(決り事を無視するのはB型の血か?)
解らない時にはストレートが一番だ。
(メンドウは・・・嫌いなだけだけ)

「何故馴染めないか?」
それは、馴染むのが嫌だからじゃない。
道が違うからだと思う。
別波動帯だからだと思う。
無関係だからだと思う。

「嫌よ嫌よは、好きの内」だから、
嫌な相手とは仲良くしたいのだろうが、
別波動帯なら道が違う。
嫌も好きも無い「無関係」の相手だ。

この世は物質界だから、あの世とは違う。
物質は接触できるのだ。
あの世なら別波動体とは接触できないのに、
この世では別波動体とも接触できる。
物質は許容範囲が広い。
その為に用意されたこの世(物質界)だと思う。
この世はあの世より優れているのだ(ある面)。

つまりね、
ワシとダライ・ラマ法王とでは、
あの世では絶対接触出来ないんだ。
波動レベルが違いすぎるからね。
法王は深遠な何かをしているけど、
ワシはロクでも無い事をしている。

ところが、そんなワシでも、この世なら、
法王と会う事が出来る(97年の謁見)。
この世なら多種多様な波動が接触できる。
たぶん、魂が成長できるように創ったんだろうが、
接触できたからって成長は出来ないんだなぁ。
(多少は影響あるけどね。ワシは大してなぁ・・・)

偉人は数多くいたが、接触できた人間がマトモになったか?
成長する人もいるけど、そうでもない人間が多い。
ブッちゃん(仏陀)やキリちゃん(キリスト)と会っても
ほとんど変わらん人間だらけだったのが事実なんだ。
ふっ、グレちゃん(創造主)も見通しが甘いね。

  馴染む・4
10/05 (火)

「馴染む」事がこの世に生まれた目的の一つなら、
「馴染まぬ」事を見分けるのも大切だろうな。
特にある程度、歳を重ねてからは、
誰とでも、何とでも仲良くなればいいわけじゃない。
そうワシは思った。

大切な相手は、より大切に。
どうでもいい相手とは係わっているヒマが無い。
残念ながら、この世では「生命」が有限だった。
誰とでも、何とでも係わる事が出来る世界だからこそ、
「馴染む」相手と「馴染まぬ」相手を区別する。

「出会い」は「縁」により、出会ってしまう。
こちら側からの生き方により「出会い」も変わるが、
「馴染まぬ」相手とも「出会い」はあるのだ。
望まぬ「出会い」があり、
望まぬ「別れ」もあるように。

でも「出会い」の先は自分で決められる。
「馴染む」か「係わらぬ」か決める事が出来る。
だから、相手を見極める必要がある。
「一期一会」とは、そういう意味も含まれている。
「出会い」を大切にすると「見極め」ができる。
誰とでも仲良くしろ、という意味じゃない。

「見極め」は力が入っていては出来ない。
自然体でしか「見極め」は出来ない。
見極めようとすると、見極められない。
この世は、とってもヒネくれているのだ。

「馴染む」モノも自然体で判る。
「馴染まぬ」モノも自然体で判る。
判っても素直に道は歩けない。
人は出来の悪い頭で考えるし、
ロクデナシの心は「欲」を出すし、
人間社会はシガラミがあるしねぇ・・・。

それでも「馴染む」モノ、
「馴染む」人、
「馴染む」場所があるというのは、
生きていくのに、とっても楽なんだ。
「楽」を追いかけるのが正道らしいしね。

友達、恋人、伴侶、先生・・・
仕事、道具、食べ物、家・・・
生活場所、仕事場所、拠所・・・
「馴染む」相手が増えればいいね。

  見極め・1
10/06 (水)

テーマが何やら名人の言葉のようだが、
相変わらずのキー任せで叩いている。
「いいかげん道」はハッタリも使いこなす。
中身が無いのだから、外側は着飾るのだ。
世間じゃ政治家をはじめ、よくある事だ。
(実は前日の言葉からの引用だったりして・・・)

最近は判断が出来ない人が増えている。
だから判断出来る人、特に「見極め」が出来る人に頼る。
だが、自分で判断出来ないので、
「見極め出来る人」を判断出来ない(ハハハ)。
簡単に騙されてしまう。
しかも、騙されている事も判断出来ない(ハハハ)。
笑い事じゃないよねぇ。

経験を重ね、データを集めたら「見極め」が出来る。
ある事の「見極め」が出来る人はその道に精通している。
「権威」「資格」「有名」な人なら間違い無い、とする。
そんな幻想がまかり通っているんだなぁ。

それね、間違いだと思うよ・・・。
特にマスコミからの情報はかなりアヤシイぞ。
というか・・・、
マスコミに判断能力があるとは思えない。
マスコミ自体が「権威」「有名」で通している。
報道の哲学なんてマスコミに無いしねぇ。

そもそも「判断」って、他人に任せる事じゃない。
運転は自分で運転するから運転なのに、
他人に運転されても運転にならない。
(ちっとも比喩にならない文章だぁ・・・)
他人に(仮に)正しい食事をしてもらっても、
自分の栄養にも、愉しみにもならない。
(うん、この方がいい文章だね)
ついでに・・・ウンコにもならない。
(書かない方がよかったのにねぇ・・・。
どうも今日は無駄言葉を書きたい日みたい)

判断で大切なのは「正・誤」じゃないだろ。
判断は「自分でする」。
正解でも間違いでも、自分で味わう為に生きている。
欠陥を仕込まれて創られた人間だぜ。
「間違い」は体験するように計画されている。
「間違う」事ぐらいで、臆病になる必要はないぜ。

ただし、間違いを犯すにしても、
歩く足を他人に任せていては、
生きている意味が無くなってしまうだろ。
それが正しい方向であったとしても意味は無いし。
だって、そこに意志が無いもんね。

つまり「判断出来ない」のじゃなく、
「判断する事」を放棄しちゃったんだね。
「正・誤」にこだわらなきゃ、誰だって判断出来る。
いつでも「間違い」より「正しい」方を選ぼうとする。
土台を取り違えて時代が進んでいる。

いつからだろうね。こんな基準になったのは?
原始の頃は無かった基準だろうし、
幸せに生きるには邪魔な基準なんだけど、
そこが「宗教関係者」や「立派な人」には理解されない。

  見極め・2
10/07 (木)

「正・誤」を要とした判断を求めると、
いつでも結果まで待たなくてはならない。
その結果にしても、判断は必要だ。
更に未来の結果を待たなくてはならない。

更に更に、未来の結果は変わるかもしれない。
正・誤は段階(時と意識)で変わるものだ。
人間の命が有限なので、未来には限度がある。
だから人間の段階で「正・誤」判断は適さない。
(絶対無理とはいわないけれどねぇ・・・)

例え話でいこうかぁ・・・
判断って、分かれ道の基点の事だ。
就職先がA会社とB会社に分かれた。
A会社がいいと判断した。
「大きいし、給料高めだし、活気もあるし」
5年後・・・A会社は倒産しB会社は伸びた。
「し、失敗したぁ〜判断の誤りだ!」

一念発起し失業仲間と独立会社を創った。
トントン拍子に業績が伸びた。
サラリーマンの数倍の収入が続く。
B会社、倒産のニュース。
「A会社でいい仲間と出会えたから、
結果的に判断はよかったんだぁ」

仕事も金も苦労せず入ると共同経営は難しい。
オキマリの内輪モメ、勃発。
当然、会社は空中分解。
B会社、再建、順調のニュース。
「いい仲間だと思ったのに、
判断の誤りだぁ〜」

気がつくと、50歳過ぎ。
いつの間にか、借金の山。
でも、A会社で知り合った優しい妻と子供がいる。
さて、この人の判断は誤り?

「判断」を「正・誤」にコダワルと、
いつまでも判断出来ないんだなぁ。
でも、自分で判断したのだから、
自分の人生としては面白かったと思うよ。
この判断を他人に任せてしまっていたら、
後悔という代償では釣り合わない。
大後悔でも釣り合わない。
特大後悔でも釣り合わない。
超特大後悔でも・・・しつこい・・・

判断は「正・誤」が要じゃない。
判断は「自・他」が要なんだ。
エラソウな学者や宗教家やセンセーの言葉は、
一応参考にしてもいいけど、
同じ人間だから、それほどのモンじゃない。
だって、エラソウな人達って、
幸せそうな顔はしてないぜ。

自分の人生は自分で判断しよう。

  見極め・3
10/08 (金)

「見極め」の基礎は自分で判断する事だが、
「正・誤」にこだわらず判断しても、
後悔する事は多々あるものだ。
「失敗ったぁ〜。あっちだった・・・」
いや、本妻の事じゃないぞ。
本妻は、そう思っているかもしれんが・・・。
「この人以外だったら、全部正解だったのに・・・」
(見る目が無かったということでアキラメようね)

後悔するのも生きている証。
なかなか、この感情も悪くない。
たまには、傲慢な自分を責めてみよう。
でも、後悔は続けても意味を持たない。
生きている時間に転換できないのだ。

後悔を早々に切り上げるコツは、
「根性無し」になる事だ。
後悔を何ヶ月も続けられる人は、
根性が有り過ぎだ。
(そんな根性はいらないだろ?)

根性が有り過ぎな人は「お根性」といい、
自他にイジワルなんだ。
自分を虐める事も他人を虐める事も
イジワルには変わり無いぜ。

「見極める」修行は力を抜く事。
後悔を愉しんだら、早々に切り上げ、
「よし、次、いってみよう!」
このノーテンキさが道を修正するのだ。

「見る」事を「極める」と、
「見る」事を卒業してしまう。
つまり「見なくなる」のだ。
そして・・・「観る」段階に入る。

「観る」とは
「目に見えないモノをみる」事をいう。

目に見えないモノは内側にある。
目に見えないモノは底にある。
目に見えないモノは後に隠れている。
目に見えないモノは滲み出る。
だから「観る」のは感じる事だ。

感性は誰でも持っている。
しかし、社会は感性を邪魔にしてきた。
頭で考え、固定概念を法としていたからだ。
個人の感性は出さない方が適合していた。
だから感性は埋没していた。

といって、感性主体の人は不安定すぎる。
社会生活に不適合でもある。
しばしば、優れた芸術家が社会的人間として、
とても不適合なようにね。
(偏屈を通り過ぎて、犯罪者になったりするしねぇ)

  見極め・4
10/09 (土)

こんなに長く書くつもりじゃなかったのに、
ダラダラと文章が続いてしまった。
しかも、まだシメもオチもないから、
もう少し書き足さなくてはならない。
ワシが「極め」ていないのだから、
これ以上は書きたくないなぁ・・・。
(だったら最初から書かなければいいのに)

「氣」を取り直して書くぞ!
どうせ、口(キー)から出まかせで書いている。
ハッタリやウソくらいは可愛いものだ。
戦争を始めた何処かの大統領や、
その飼い犬の首相に比べりゃ天使のようだ。
(言いたい事はあるけど、場が荒れるなぁ)

「見極め」は「観」のことだ。
「観」に時間は含まれない。
比喩としての時間単位に「刹那」があるが、
刹那も使えない時間で判断する。
正体がダイレクトに伝わってしまうから、
「直観」(直感ではない)ともいう。

まぁマトモに書くと、そういうコトなんだわ。
伝わる通路は極めて個人的なんだけど、
伝わるモノ自体は誰がしても同じモノなんだ。
ダイレクトだから、当たり前なんだけど。
だから「見極め」に「正・誤」は無い。
間違えようが無いから、正しいと主張する必要も無い。

「正しさを主張する必要が無い」って、
とても大切な意味を持っているんだぜ。
他を説得する必要が無いんだから、
力まずに自分の道を歩ける。
他(人)を無理に巻き込む必要もない。
「正しさ・正義」の主張から争いは起こる。

つまり「見極め」が出来るのなら、
争いや戦争の必要は無いんだ。
禅や冥想で「観」を目指すのは、
幸せ(平和)への道の歩き方だからだ。
(お〜!こういうふうにオチがつくか!)

「見極め」は自他の判断能力じゃない。
素直な「自然体」からの贈り物だ。
相手(モノ・人・出来事)との融合であり、
照れくさいけど・・・「愛」が成り立った時、
自然と一瞬に理解してしまう事でもある。

それは真の「自立」でもあり、
真の「共生」でもある。
(何とかテーマの形がまとまったねぇ)

  氣の銀行・1
10/10 (日)

「氣」の事を解説するのは難しい。
複雑だから難しいのではなく、
見えない世界の話だから難しいのだ。
今までも見えない世界を伝えてきた人は、
いろいろな方法で解説してきた。
経典・聖書・仏書・神書・神言などだ。

解説といっても、本来は言葉では無理だ。
そんな事は解っている。
「悟った」人(?)達だぜ。
キリちゃん(キリスト)やブッちゃん(仏陀)は
「理解するというのは、頭じゃない。
生き方に活用してこそ理解だ。」
と悟ったから、無理を承知で話してくれたんだ。

「アホな人間だから可愛い!」
この生き方をキリちゃんは「愛」と言い、
ブッちゃんは「慈悲」と言った。
そして、そういう生き方をしていったのだ。

偉人達の凄さを、内容の言葉で紹介しがちだが、
偉人の凄さは言葉じゃなく、その行為なんだぜ。
優しい気持ちを持つのは難しくないけど、
優しい生き方を続けるのは、とても偉大だと思う

だから内容の解説としてではなく、
「行為」として、皆に話をしたんだ。
「どうせ内容は伝わらない。だけどキッカケにはなる」
キリちゃんやブッちゃんは経典を書かなかった。

アホで愛しい人間だから、経典にとらわれ、
その中に「真理」があると、勘違いするからだ。
だが、弟子達が書きとめた。
輝く言葉を、広く、後世に残す為に。

弟子だから不肖に決っている。
師匠よりも不出来なんだなぁ・・・。
だから経典・聖書などに「真理がある」と言っちゃった。
師匠が聞いていたら、きっと怒られたはず・・・。

でも、キリちゃんもブッちゃんも、もういない。
しょうがないよねぇ、自分の弟子だもん(ハハハ)
まぁ、ホンモノは正しさにこだわらないから、
間違っていたって、それほど気にしないかもね。

ホンモノの偉人達には共通する癖がある。
オチャメ。イタズラ好き。
これは、多分、神様がそうだからだと思う。
結構、ヒョウキンなのだ。
明るい冗談が好きなんだ。
見方によっては・・・ヒネくれている。
この世の仕組みと同じなんだなぁ。

話をするにも、マトモにしなかった。
ウソ(方便)を言うのは当たり前。
言葉に仕掛けを作って、パズルにしたり、
幾つも意味を被せた、多重構造の言葉や、
空想、幻想、ファンタジー、SF。
それらを織り交ぜた物語を聞かせた。
もちろん、笑いを引き出すジョークやギャグは欠かせない。
(弟子は出来が悪いから、マジメで冗談が通じない。
だから経典や聖書からジョークやギャグが消えたんだ)

その方法の一つに「例え話」がある。
(氣の話は何処に行ったんだぁ?)

  氣の銀行・2
10/11 (月)

ワシは話をしても、迷う事が趣味なのか、
横道から横道に流れる事が好きみたい・・・。
放っておけば、何処までも漂流してしまう。
ああ、このまま宇宙の果てまで行ってみたい。

でも根性は人一倍無いので、戻ってしまう・・・。
「氣」の例え話をしようと思ったのに、
前振り話で一仕事したような気分になってしまった。
キリちゃんやブッちゃんの話は好きなんだ。
魅力的なオッサン達だと思うなぁ。

今回は「氣」のソース(源)を銀行に例えてみた。
しかも超ギガバンク(ギガの上の単位を知らない)。
個人が使用するには無尽蔵といってもいいだろう。
(我家では1000万あれば無尽蔵だ・・・。
まてよ? 借金も無尽蔵ってことか?)

つまり「お金」が「氣」だと思ってくれ。
ならば、ワシは大金持ちだ。
何時でも何処でも札束を自由に使える。
なんか・・・気分良くなってきたぞ。
例え話は相手に解りやすくする為より、
自分が気分良くなる為かもしれんなぁ・・・。

一般的な中国式気功は個人の金庫だ。
一所懸命働いて、努力して財産を増やした。
お金は個人の金庫にしまってあり、
やはり自由に使ったりするようだ。
努力と根性により、お金の量が増えていく。
でも・・・使うと減る。

ワシは努力と根性が嫌いなナマケモノ氣功師。
そんな我家にも金庫はあるが(無い人はいないから)、
自慢じゃないけど金はほとんど無いぜ。
だから使う時は自分の金庫は開けないんだ。

現実の銀行では、自分のお金を預けてあり、
それを引き出して使うのだから自分のお金だ。
もし自分以外のお金を勝手に引き出して使うと、
アレコレ怒られたり、逮捕されたりしてメンドウだ。
だから銀行強盗は止めよう・・・。

ところが「氣の銀行」は自分のお金じゃない。
誰のだか知らないけれど無尽蔵にあるから、
勝手に使っても誰にも怒られない銀行だ。
幾ら使っても、どんな使い方をしても、
誰からもモンクは出ない。
ラッキー♪

だから自分のお金は自分用として使い、
他人には銀行のお金を使う。
引き出すパスワードを知っているからだ。
ワシはそういうタイプの氣功師だ。

  氣の銀行・3
10/12 (火)

相手に現金を直接渡す。
直接氣功というのは、そういう事だ。
「お金、持って来て!」
こう依頼されれば、直接渡す。
「あぁ、これで楽になったわ」
相手の喜ぶ顔を見るのが好きだから、
直接氣功はやりがいがある。

このお金(氣)は万能じゃないけど、
ほとんどの事はお金でカタがつく。
「世の中、銭や、銭次第や!」
氣功師の中にはこう叫ぶタイプもいる。

確かに「氣は万物の元」ともいえるけど、
ヘッポコ氣功師が扱えるのは一部だぜ。
ワシはそこを踏まえているから、
偉くないヒラのヒーラーでもプロなんだ。

世の中、全て銭次第とも思わないが、
他で解決できなかったクライアントは、
直接お金を渡すと安心するし、喜ぶ。
「大丈夫ですよ、これで何とかなるから」
(ホンモノのお金をこう言って渡してみたい。
その前に・・・渡されてみたい・・・)

このお金はワシのじゃないから安心だし、安全だ。
人間を超えたナニモノかのお金らしい。
お金なんて活用して存在価値があるものだ。
使わなけりゃ、屁のようなものだ。

この銀行からのお金は、幾らでも引き出せる。
パスワードさえ合えば、誰でも引き出せる。
引き出す人の今のレベルによって、
一回に引き出せる限度額はあるものの、
何回でも引き出せるから便利だ。

レベルが上がれば、引き出せる金額も上がる。
一回に沢山のお金が必要なクライアントもいる。
一度に大勢のクライアントに渡す必要がある時もある。
だから、レベルアップは常に意識している。
ヘッポコといえど、プロとしては当然なのだ。

自分のお金は努力と根性で稼いでも、
扱える金額はたかが知れている。
せいぜい数人分がいいところだ。
ワシなら・・・半人分も無いかも・・・

ところが銀行から直接引き出すのだから、
数万人分でも可能なのだ。
自分のお金じゃないというのは、
とても大きな意味と仕事ができる。
「金は天下のまわりモノ」
自分の金にこだわるなよなぁ・・・

  氣の銀行・4
10/13 (水)

そもそも、この例え話をする目的は、
「遠隔氣功(ワシ流)」の説明の為だった。
遠隔氣功は直接氣功よりアヤシげだし、
実際にアヤシイのもかなりあると思っている。
ワシが遠隔氣功をするから、ウソも判る。

見えない世界のことは実にアヤシイ。
例えば80%くらいはインチキだ。
残りもウソじゃなくても勘違いがある。
そして数%が・・・マトモかもしれない。
その数%があるから、この世は面白い。
全部がウソで全部がアヤシイわけじゃない。

見えない世界の一つに「心」がある。
誰でも「心の世界」を持っている。
「心」は80%くらいはウソがある。
残りも勘違いが沢山ある。
そして・・・数%マトモ部分がある。
だから「心」は面白いし、大切でもある。

あっ、言っちゃった・・・
心がウソだらけなのはホントだけど、
ウソに厳しい人達は、抗議・非難するだろうなぁ。
自分がウソ付きなのが許せないから、
他人を非難するんだけどなぁ・・・。
ウソくらい、許してあげなよ。
自分も他人も楽になるぜ。

まぁ、勘違いは自分で判断できないものだ。
だからワシの事は棚に上げて書いている。
小さな事を突っつかないのが愉しく生きるコツなんだ。
アレコレ突っつく癖はツマラン人間を創る。
インチキに出会うのもホンモノに出会うのも、
全て、身から出た波動に対応する「縁」だ。
「縁」は出会ってしまうモノで、考えるモノじゃない。

遠隔氣功もアヤシイけれど、たまにはホンモノもある。
仕組みはこうだ。
「氣の銀行」からパスワードで引き出したお金は、
そのままATMで相手の口座に送金する。
(そのまんまの説明・・・ヒネリがない・・・)

直接との違いを(少ない脳みそで)考えよう。
直接氣功は現金を相手に直接手渡したが、
遠隔氣功は、相手の口座に送金した。
口座から引き出さないと、現金は無い。
引き出さなくても、お金は届いている。
(この違い、わかってくれるかなぁ・・・)

引き出さなくても、お金はあるから楽になる。
引き出せば、目の前に現金があるから確認できる。
安心は心と体を一層楽にしてくれる。
確認できる(認める)と更に安心できるのだ。
だから、お金は引き出した方が役に立つ。

  氣の銀行・5
10/14 (木)

お金(氣)の引き出し方法は簡単だ。
送金主(つまりワシ)に意識を合わせればいい。
ワシが依頼を受け、送金しているのだから、
安心して受け取ればいいだけだ。
引き出す分くらいのお金は充分に送っている。

お金が必要な本人が意識不明でも大丈夫。
依頼した家族が引き出せばいいことだ。
すると、便利な事がおこる。
今まで上手く使えなかった家族のお金(氣)も、
ワシから送金したお金と合わさって使えるのだ。
つまり、遠隔氣功はワシからだけじゃなく、
家族のお金(氣)も合わせて使えるのだ。

これがワシ流の遠隔氣功の特徴でもある。
一方的にエネルギー(お金)を送るだけじゃない。
家族のお金(思い)を使えるように(活用)する。
この事が一番大切な部分じゃないのかなぁ。
そして、本人も家族も一番喜ぶ使い方だと思うよ。

お金は天下のまわりモノ。
お金がどれだけあるかは、二の次だろう。
使って(活用して)こそ、お金の存在意味がある。
しかも自分の為に使うよりも、
相手に使う事の方が満足できるのだ。
誰でも心の底は、相手の為に使いたいのだ。

(ワシ流の)直接氣功も同じだが、
遠隔氣功には、もっと便利な機能がある。
「氣の銀行」を使うからできる機能だ。
無尽蔵で、誰でも使える銀行だからだ。

直接であっても、遠隔であっても、
ワシからの氣功を受けるというのは、
「氣の銀行」からのお金を受ける事だ。
ワシのお金じゃない。
好きに使ってくれ。
遠慮するなよ。

これはキャッシュカードを渡される事でもある。
ワシはそのカードの暗証番号を伝える。
ワシ流の氣功って、そういう事でもある。
一回だけの人もいるが、
何回も氣功を受ける人もいる。

そのうちに自然と暗証番号を憶えてしまう。
つまり、暗証番号を憶えれば、
ワシに依頼しなくても、お金は引き出せる。
(あ〜あ、バラしちゃった・・・
ワシ、商人じゃないからなぁ・・・
でもね、依頼すれば直接現金を手渡すよ)

  氣の銀行・6
10/15 (金)

「氣の銀行」のキャッシュカードは、
世界中、あちこちで手に入れられる。
気がついたら、自然に手に持っている事もある。
ワシでも渡せる事ができるのだ。

でも、ほとんどの人は使い方が解らないようだ。
1.2回使って、忘れてしまう場合も多い。
キャッシュカードを貰った事に気づかない。
だから暗証番号も憶えない。
暗証番号はATM(変圧器)を通して使うものだ。

「氣の銀行」は超巨大ギガバンクだ。
直接、銀行には行けない。
普通の人間は、守衛さんに追い出されてしまう。
「これこれ、人間が来る所じゃない!」

そこで仲介役をするモノが必要なのだ。
仲介役(変圧器)は人やモノであるけど、
ようするに、レベルを下げなければ使えないのだ。
仮に一億円札を渡されても日本では通用しない。
一万円札にレベルダウンして使えるのだ。

何かのキッカケで「氣の銀行」のお金を使えると、
自分がレベルアップしたと勘違いしやすいが、
そのまま続けると、疲れるか、壊れてしまう。
高圧電線に触れば、ヤケドじゃすまない。

「私は人間を超えた! 神様が付いた!
だから神力が使える! 逆らうと地獄に落とす!」
こういうタイプの将来は悲惨なものだ。
近寄ると影響を受けるから、気をつけようね。
「私はアホやぁ。人間はアホだから人間だぁ」
このくらいの常識は持って欲しい・・・。

「氣の銀行」が神様の管理かどうか判らんが、
謙虚な波動にはヒイキする気がするなぁ・・・。
(ならば、ワシには使えない・・・(^_^; 。
ま、まぁ、例外は付物だし、世の中の仕組みは、
いいかげんで、ヒネくれているから・・・)

そんなわけで人間には暗証番号が必要だが
それは一つの種類だけじゃない。
例えば・・・ワシとの縁で使う場合、
ワシのアホ顔を思い出すと、自然にレベルが下がる。
「人間って・・・アホね」と謙虚になる。
(何か少し腹が立ってきたぞ・・・)
すると少額かもしれないが、お金が使えるのだ。
(ウソや冗談じゃない。事実なんだからね)

荘厳な自然に出会った時も同じなんだ。
「あぁ、なんて人間はチッポケなの・・・」
これで謙虚になる。
すると、お金が降ってくる・・・。
(ワシとの縁よりも絶対いいと思う・・・)

  氣の銀行・7
10/16 (土)

「氣の銀行」からお金を引き出す条件。
暗証番号を使う時の共通点がある。
「謙虚になるとお金が降ってくる」と
ワシは表現してみたが、
「謙虚」とはどういう状態だろうか?

傲慢で独善でヤケクソでいいかげんな、
もっともワシに似合わない言葉・・・。
それでもワシと「謙虚」の共通点がある。
その共通点が「氣の銀行」のパスワード。

ワシは決して「謙虚」じゃないが、
天賦ともいえる才能がある。
それは・・・「輝く、いいかげん」
これがある為に「氣功師」が天職となった。
「氣の銀行」からのお金がいつでも使える。

故お師匠様とは違う性格だが、
「氣の銀行」の管理者は面白がったようだ。
自我を無くし、高潔な志の魂は貴いが、
「氣の銀行」からお金を引き出すだけなら、
高潔や高尚な聖人で無くても関係ない。

要は、空っぽの通路があれば流れる。
「氣の銀行」の管理者は太っ腹だ。
超お金持ちはケチケチしない。
ヘタな条件(高レベルとか)は付けない。
受け皿(通路)さえ用意すれば、
幾らでも恵んでくれる。

超お金持ちと、超貧乏は似ている。
どちらも所有観念が無いか、薄いのだ。
(これもワシには有利に働いたのかも)
この世はヒネくれている。
欲しい気持ちを諦めると、恵んでくれる。

ワシはいろいろな「欲」もあるのだが、
維持する根性が無いのと、気まぐれなのだ。
すぐ諦められる、というか、メンドウになる。
お陰で「氣の銀行」から、フリーパスになった。
もちろん、汚れた魂だから一回の限度額はある。

でもね、こういう立場になると少しは性格も変わる。
いや、性格はいいかげんのままだが、
生き方は変わる。
エラソウにモノを言う(変わってねぇ・・・)
自分じゃ「謙虚」のカケラも無いくせに、
他人には「謙虚」を薦める。

それは魂が高貴になるからじゃない。
無理な(偉くなる)修行の為じゃない。
「謙虚」になれば自我が引っ込み通路ができ、
「氣の銀行」からのお金(天氣)を使えるからだ。
タダでお金が使えりゃ、ラッキーじゃないかぁ?
単純に、ワシはそう思うぞ。

  氣の銀行・8
10/17 (日)

八は日本では末広。
横にして∞(無限大)。
メビュウスの輪。
いつまでも続く象徴。
象徴形はその波動を出す。

「氣の銀行」というテーマだから、
いつまでも使えるように8回目を書こう。
ただそれだけの理由でキーを叩いている。
原稿料が欲しいなぁ・・・なんて思いながら。
何処かの出版社がコンタクトしてくれないかなぁ。
(棚からボタモチが好き!)

「氣の銀行」のお金は無限大。
(注:人間にとっては無限大)
だから銀行内だけに収まらず、
アッチコッチにこぼれて落ちている。
超お金持ちは、そんな事は気にしない。

人間が普通の暮らしていれば、
いろいろな場面でお金にぶつかってしまう。
イキナリ、天から降ってくる。
イキナリ、プレゼントされてしまう。

だけど目に見えるモノにトラワレていると、
しっかりと拾う事が出来ないのだ。
プレゼントされた事にも気づかない。
ラッキーに感謝出来ないのだ。
山のように、目の前にあっても観えない。

「氣の銀行」からこぼれ落ちたお金は、
拾うも使うも持ち帰るのも自由だけど、
踏み潰し、無視するのも本人の自由だ。
誰もモンクはいわないし、非難もない。
無視しても無くなる事はない。
何しろ、山のようにあるのだから・・・。

ワシのように「これが、お金ですよ」と届けるのは、
本来は、お節介なのだと思う。
キャッシュカードや暗証番号を教えるのも、
本来は、お節介なのだと思う。
ワシのお金じゃないし、誰でも使えるし・・・。

でもねぇ・・・不思議でしょうがない。
ワシがお金を届けると「不思議ねぇ・・・」と言うけれど、
ワシからすれば、目の前に山のようにあるお金を、
どうして踏み潰して無視するんだろう?
その人間の心の方が、はるかに不思議だと思う。
人間は不思議だし、奇妙だと思う。
不思議なモノは興味があるし、好きだ。
だから、ワシは人間が好きだ。

ワシはゴミのような目に見えるお金も好きだが、
相手(現実のお金)は、ワシを無視する・・・。

  傷と病・1
10/18 (月)

「傷」というと外傷を思い浮かべるが、
ここではもっと広範囲の意味を持たせる。
内臓の傷、心の傷、精神の傷、魂の傷。
目に見えない「疲れ」という傷も含める。

「傷」に広範囲の意味を持たせると、
「病」との違いが無くなる。
部位や症状の違いで区別しない。
そして「傷と病」を別な角度から観る。
別な区別の基準から回復を観ようと思う。

ワシの仕事は健康への導きだ。
病気回復もその一つだが医者と違う。
医者は「病気のプロ」だが「健康のプロ」じゃない。
(プロの医者は決して多くない。
資格免状があっても、プロとはいえない)
だが、ワシは「健康のプロ」を自負している。

医学は「病気の正体」を研究し、解明し、
そして対策を研究し、臨床して発達してきた。
だから、原因を解明しないと回復への道標が無い。
つまり「病気のプロ」が前提条件なのだ。
検査・解明すれば、あとはマニュアル(医学)がある。

病気の正体(名前と原因)を見つける事が最重要。
検査・解明するのが主の仕事で、治療は後始末。
(病名は医者の為にあり、患者の為じゃない。
つまり同じ人の病状でも、
西洋医学者と東洋医学者とアーユルヴェーダ医者は
違う病名を付けるのだ。
病名はその医学に対応させる符丁なんだ。
患者に病名は意味をなさない、というのは重要な指摘だぜ)

最近では優れた検査機械に頼り切っていて、
そのうち、生身の医者は入らないのじゃないかと思う。
検査機器オペレーターさえいれば、
あとはコンピューターが最適な薬や治療法を選んでくれる。
(近い未来はホントに、そうなるだろう)

ワシのような治療者(ヒーラー)は医者じゃない。
病気の名前や原因を解明するのが仕事じゃない。
治療そのものをするのが仕事だ。
治療じゃなく、回復補助かもしれない。
結果として、治療になってしまうが・・・。
その先の「幸せに生きる手伝い」が本職だ。

だから病名が無くても、原因不明でも方法があるのだ。
「治療法不明」というのは、今の医学側の言い分で、
ワシ等に「治療法不明」はありえない。
むしろ、病名にトラワレると回復が遅れるようだ。

この立場からなら「傷」と「病」の観方が変わる。
「傷」と「病」の正体の違いなんて無視する。
だが「回復」する為にという視点からなら、違いがある。
それは「回復」の本質条件に関わる違いだと思う。

  傷と病・2
10/19 (火)

回復する力。
それは「自然治癒力」。
療法でも、薬でもない。
療法や薬がどんなに優れていても、
死んだら回復できないのだ。
こんな当たり前の意味を忘れている。

「自然治癒力」を高めないで、
薬や医者や治療法に頼ろうとする。
西洋医学や東洋医学から離れた人も同じだ。
自然志向や民間療法好きであっても同じだ。
○○セラピー・驚異の○○健康食・波動グッズ。
自分を高めないで、他に頼ろうとする。

「自然治癒力」が何処から沸くのか理解しないから、
「自然治癒力を高める」というセリフに踊らされる。
(騙しているとは限らないが、勘違いはある)
「自然治癒力」は「自己治癒力」だ。
それは日々の暮らしや生き方で左右する力だ。

自然治癒力を高めるのは「暮らしの中」であり、
特別な方法や食品やグッズは補助的役割なのだ。
この基本が理解されていないから、
(開発した人や会社も理解していない)
優れた補助のモノ達が充分、活かされてない。
開発に力を入れても、総合的に観ないと活用は出来ない

その自然治癒力の範囲内だけで解決できる「不調和」を
ここでは「傷」と定義してみよう。
自然の暮らしのリズムで回復する「不調和」だ。
通常は、日々良好になっていくレベルだ。
「不調和」を日々の回復力が上まわる範囲までだ。

一日は活動帯と休息帯の時間で成り立つ。
活動帯は主として交感神経が受け持ち、
体や心を傷つけ、疲れさせながら何かを生産する。
休息帯は副交感神経が受け持ち、
傷つき疲れた体や心を回復させるが生産をしない。
大きく分ければ、この二つでワンセットだ。
(もちろん、どちらにも属さない部分もある)

だから「傷」付くのは活動帯に限る。
「回復」は必ずしも休息帯に限らないが、
自己治癒力としては休息帯としておこう。
(ここの説明は複雑なんだ)

「傷」は日々の暮らしで塞がるのだから、
「傷」付く事を恐がらなくてもいい。
「傷」は「痕」が残っても恐くないが、
「恐れる心」は新たな「傷」を作り、
日々の暮らしでは治らない。

日々の暮らしで治らない「傷」。
それを「病」という。
「回復」が「傷」の上で空回りをする。
「回復」よりも「傷」が深く進行する。
日々同じ状態が続くか、悪化するのは「病」。

  傷と病・3
10/20 (水)

日々の暮らしだけでは回復しない「病」。
だから自然に回復する「傷」と違って、
「病」には意志が必要になる。
「意思」ではなく「意志」が必要なのだ。

本気で治す、絶対治そう。
「強く思う」だけでは何にもならない。
具体的行動が必要になるのだ。
生活を整えれば自然に回復する「傷」と違い、
「病」は積極的に生活を変え、
積極的に「治療」する行動をとらなければ、
とても苦しい結果を体験しなければならない。

「病」は自然回復しないだけじゃない。
日々の暮らしだけでは進行してしまうのだ。
何も対策をしなければ、毎日「病」は深く広がる。
この自覚が本人や家族に足りない場合が多い。
だから、手遅れになる。

「病」は、今、川で溺れている最中なのだ。
「傷」と違い、ガマンすれば乗り切れる事ではない。
溺れている最中に「じっくり考える」ヒマはない。
溺れているのに「そのうち対策します」もない。
「病」は「進行形」だという認識が足りない。

「傷」からも「病」へと進行するが、
それは日々の暮らしがデタラメすぎるからだ。
このことは本人達が自覚している。
「そのうち生活習慣を直さなくちゃ」
「傷」の段階なら、この余裕がある。
だが「病」まで進んでいるのに
意識は相変わらず「傷」だと思っている。
「病」と「傷」の違いが解っていない・・・。

自分の人生に責任を負う「大人」ならいい。
そういう生き方もあると思う。
「短くとも太く」「苦しくても濃い人生」
好きにしてくれ。
それも勘違いだけど・・・。
(長短と太い、濃いは別モノだ。
つまり太く、濃く長い人生にすればいいのに)

だが「子供の病」に関して親の無理解がある。
溺れている最中なのに「困った」と思うだけ。
「誰か助けてくれる人がいないかなぁ」と言うだけ。
「自分は助け方を知らないから出来ない」と
言い訳を堂々とする。
溺れている最中に「助け方」ウンヌンもあるものか!
子供が溺れていれば、すぐ、飛び込め!

泳げない親なんていないのだ。
飛び込む事が「泳ぐ」という意味なんだ。
飛び込む事が「助ける」という意味なんだ。
そんな事さえ知らない親が増えている。
子供達からの「助けて〜」の声を聞かない。
(ワシ少しは怒っているんだぞ!)

  傷と病・4
10/21 (木)

「病」は何らかの積極的な行動が必要だ。
「病は気づきのメッセージ」を内臓しているが、
大切なのは「気づき」より「行いの変化」だ。
それにより回復への道が開ける。
しかし、自分だけの力では回復できない事が多い。

「気づき」を得るキッカケを含めて、
「病」には他からの応援が必要になる。
他には人や人以外のモノとの「縁」がある。
「治す意志」があれば必ず「縁」がある。
あるいは解決への「道」が示される。

しかし「縁」を掴むか否か、
「道」を選ぶか否かは本人次第だ。
人間はいつでも自由だ。
苦しみを続ける事も、解消する事も自由だ。

溺れている我が子を見ているだけの親もいる。
「心配しているんだけどねぇ」
「私も苦しいんだ」
こんな言葉は意味が無い。
すぐ飛び込む以外は意味が無いのだが、
「病」を進行させる自由もある、と思う。
哀しいけれど、不幸になる自由もある。
ワシは子供を不幸にする親なんて、
とても納得できないけどねぇ・・・

特に「閉じこもり系の病」に行動しない親が多い。
「心の病」は観ようとしないと見えない。
行動しない親は「わからない」と言い訳をするが、
溺れている姿から目をそむけ、逃げている。
飛び込むには不安もリスクもあるが、
助けたいのなら飛び込む以外の選択肢は無い。

「病」は計算で回復する部分と、
計算できない部分がある事を知って欲しい。
少なくても、最初の一歩は計算では進まない。
計算をしていては、川に飛び込めない。
頭の良い親ほど計算をする。
頭が良いのは長所でも短所でもないが、
計算をして飛び込まないのなら卑怯というものだ。

「必ず助けてくれる人を探している」
「助ける保証があれば、どんな謝礼もする」
こういうセリフを平気で言う親さえいる。
溺れている子供にとっては不運な親だが、
大声で助けを求めれば、親以外でも飛び込む人はいる。
親から離れるチャンスでもあるのだ。

それでも言おう。
泳げなくても飛び込む親を見て、
子供は自力で泳げるようになるのだ。
理屈を超えて一直線に飛び込むから、
そこに「道」ができる。
タノムよ、親さん。
もう少ししっかりしてくれ。
親次第で、助かる子供は多いんだ
(今回はこの最後のフレーズが言いたくて書いた)

  おとぎ話・1
10/22 (金)

先日までの雑記がマジメすぎた。
マジメになると説教っぽくなる。
ツマラン。実にツマラン。
ワシらしくもあるが、ワシらしくもない。
ワシは多重ハチャメチャ人格なのだ。

で、反動が来る。
いや、反動なんて無いけど、作るのだ。
(反動があるほど、シッカリしてないなぁ)
計画性は自慢じゃないけど、無い!
とりあえず、どうなるかわからんけど、
「おとぎ話」というテーマだけ決めた。

おとぎ?・・・まてよ?
おとぎはお伽といって、
さる御方(猿のような偉い人)のフトンの中に入り込み、
あんな事や、え〜!そんな事まで〜!
という、ハードだかソフトだか判らない役目だ。
権力(金)のまわりにはイロイロな仕事があるんだなぁ。

どうやら、お伽話というのは、
お伽を仰せつかった賢いネ〜チャンが、
変態オヤジ(金と権力持っている政治家)から逃れるため、
面白くて、しかも眠くなるような話を聞かせる事のようだ。
(これは・・・かなり難しいぞ。相反する話だし)
いや、そうじゃなくて、最後まで聞きたくなる話だ。
つい、話に夢中で手を出すのを忘れる内容だ。

千夜一夜物語(アラ、イヤ〜ンナイト)がそうだ。
あれも(飽きたらすぐ相手を殺す)王様に、
御伽を仰せつかったネ〜チャンが作った物語だ。
殺されないように面白いところで切り、
「あっ、もう朝ね。じゃ、続きはこの次ね」と、
いつまでも引っ張るテクニックだったのだ。
今では各業界の顧客確保の常識的手法となっている。

ホント、余計なお世話だが・・・
オトコもオナゴも単純な動物だ。
だからこのテクニックをもう少し活用した方がいい。
単純には単純なテクニックで充分だ。
「釣った魚には餌をやらない」なんて
ダンナだろうが本妻だろうが愚かすぎるんだ。
(釣った魚は配偶者の事だ。妻からみればダンナが魚だ)

せっかく釣った魚(ダンナや妻)だもの、
上手く飼育すれば美味しくなる。
時には・・・高く売れるかもしれない。
餌をやらなければダメになるか、逃げていくだけだ。
その餌の与え方に千夜一夜物語方式を取り入れればいい。

「いつまでも一緒ね(ハート)」なんて言っても、
最後まで一緒の方向を歩く二人は少ないものだ。
双方がお互いに相手を惹きつけるテクニックを使って、
一生を一緒に歩けば、ヤッカイな出来事も軽くなる。
愛している、なんて理屈じゃない。
一緒に同じ方向に歩いていれば、それで充分だ。

そうそう。
千夜一夜の二人ね。
御伽噺を言って、聞いているうちに、
どういうわけか、大勢の子供も出来た・・・。
暴君だったのが優しいダンナに変わったらしい。
一緒にいれば、何かが生まれるもんだねぇ。

  おとぎ話・2
10/23 (土)

元々オトコとオナゴの色事が「お伽」だから、
「おとぎ話」もソッチ系が多くなる。
「性」が「底を意味する」言葉なら、
ホントに面白い話には「性」がまとわるのも当然だ。
子供相手の童話じゃないのだ。

「昔々、おじいさんとおばあさんがいました」
これではオトナのオトコは燃えない・・・。
夜伽係りを首にするか、首を切るか・・・。
スリル、スピード、セックス、冒険、ロマン。
これらが混線しながら、一つのストーリィが進む。
しかも聞き役が、いつの間にか主役と重なる。

「インディ・ジョーンズ」「007」の世界。
そうか! そうだったのか!
御伽噺が書ければ、ベストセラーだ。
「おとぎ話」という発想からなら・・・。
夢の印税生活者だ。
(この展開しか思えないのなら、無理だろうなぁ)

ワシに足りないもの。書くのが苦手なもの。
オトコとオナゴの色事と、タフなオトコ。
何も自分が不屈の根性オトコになるわけじゃなし、
世界の美女を相手にするわけじゃなし、
想像、空想なら何とかなるんじゃないか?

話は出来なくても、空想は出来る。
結構、それって愉しい。
この世はヒネくれていると再三言ってきた。
物質(肉体)が主役のこの世界だから、
考える事よりも「行い」が優先する。

でも「行い」が出来なくても「想像・空想」が出来る。
想像や空想は物質(肉体)を想像で動かす事なんだなぁ。
ベッドの上で一生を過ごす人にも、
この世は究極の愉しみを得られるようにしてあった。
それが「想像」であり「空想」だと思う。

「おとぎ話」は想像や空想の話だ。
リアルな話では「御伽話」にならない。
リアルは愉しい事も沢山あるけれど、
苦しい事や退屈な事や話にならない事もある。
それではワクワク、ドキドキ、興味津々にならない。

次が聞きたい。先が愉しみだ。
それは「生命力の活性化」の事だ。
(そういう展開になるのかぁ・・・)
目がイキイキとする。肌に張りが出る。
オナゴはすぐ綺麗になる。

イロイロな部分が元気になる。
オトコは一部分、特に元気になる。
どういうわけか・・・子供が出来る・・・。
(生命力が活性化してるなぁ・・・)
「おとぎ話」は人類の未来を繁栄させる。

  おとぎ話・3
10/24 (日)

「ここは故郷に似ている」
ジョーは低い夏草の土手に座ると、
小川を見つめて呟いた。
「しばらく帰ってないなぁ」

ジョーの後方から声が聞こえる。
振り返ると髪の長い女性型生命体だ。
そう、ここは同じ銀河系でも地球からは遠い。
「サ、サッちゃん!」
ジョーを見つめるこの星の生命体は、
ジョーの初恋の人にそっくりだった。

「恋」は不思議な作用がある。
どんなに異生物間でも、作用する力がある。
そして、恋の結界内に入るのに時間はいらない。
響きあう波動に言葉もいらない。

ただ「いる」だけで、二つ(二人)は融け合う。
ただ「いるだけ」で、二つ(二人)は幸せになる。
初めてのキスの時、彼女は戸惑ったようだった。
「これは僕の星では、愛の行為なんだ」
言葉が理解できたのか、彼女は嬉しそうだった。
何度も何度もキスを繰り返した。
そして二つが一つになるのも、自然の形だった。

しかし、彼女(?)は夕方になると慌てて帰る。
どんな事情があるのか、ジョーには解らない。
短い夜が明け、小ぶりの二つの太陽が昇る昼間になると、
いきなりジョーの後方に姿を現す日々が続いた。
お互い交わす言葉は通じ合わないが、
お互いの行為は何も言わなくても通じ合った。

深くて高い悦びの後、彼女の目からピンクの涙が流れた。
ジョーは唇ですくいとった。
甘い味がした。
彼女は・・・行為を理解したようだった。
とても、とても喜んだ。

また夕方になり、彼女は急いで帰ってしまう。
今日のジョーは基地に帰りたくなかった。
いつまでも小川の側に座っていた。
もうすぐ、地球に帰らなければならない。
調査はもう終りに近づいていたのだ。
それは彼女との別れを意味していた。
地球は異生物受け入れ不適合星だったからだ。

(この後、物語は急展開を迎える。
恋する二人の運命は!
って・・・スピードもスリルも冒険も無ぇ・・・
これって・・・おとぎ話かぁ?・・・
やはり創作の才能も無ぇなぁ・・・
でも・・・次回に続くのだ・・・)

  おとぎ話・4
10/25 (月)

スリルもサスペンスもミステリアスもなく、
冒険もロマンも過激なセックスもなく話は進む。
ジョー・・・お前ぇの明日は、どっちだ?(丹下段平・談)
(そ、その前にワシの明日が無いかも・・・)


「夜は危険だから出歩くな!」
調査隊長からは、そう言われていたが、
今まで危険因子が見つかった事は無い。
夜間レーダーにも動くモノは無かった。
温度が若干下がり、視界が落ちるが、
空気圧、空気質とも変化は無かった。

この星の衛星は五つある。
夜間とはいえ、それほど暗くは無い。
ジョーは五つの月を見上げていた。
「別れなければならない・・・」
とても辛い感情がジョーを包んだ。

人型生命体といっても人間じゃない。
人間じゃなくても恋には落ちる。
恋に熱中している時の別れは、
生身を裂かれる痛みを伴う。
(冷めてからの別れならラッキー!)

イキナリ左手の非常警報ランプが点滅する。
「何だ! 何者かが近づいている!」
振り返ると背の高い男が立っていた。
どこかで見覚えがある。
「お、お前は、力石徹!」

グローブを付け、トランクスをはいた男。
無表情、ノーガードで近づいてくる。
ジョーの頭の中でも警報装置が鳴る。
「おかしい!変だ!何か狂っている!」
この星に力石徹がいるはずがない。
しかも・・・ボクサースタイルで・・・。

同時に閃いた事があった。
「サッちゃん! 君もか!」
(白木葉子じゃないのか・・・)
「この星の生命体は・・・」
変身能力の生命体は珍しくないが、
人間の脳波に合わせて変身するタイプだ。

擬態を見破られると消えてしまうのは、
遠く離れたこの星でも同じパターンだ。
力石徹は「フッ」と笑うとそのまま前に倒れた。
地面にぶつかる瞬間に消えたが、
それはリングの上での最後の姿と同じマネだった。

ジョーは複雑な気持ちになった。
「愛し合っていたわけじゃないのか・・・
僕の脳波に反応しただけなのか・・・」
だが、あの女性型生命体に恋をしている。
相手の正体がどうであろうとも恋してる。
「それでも・・・好きだ!」

その頃、昼間の変身能力の限界から元の姿に戻り、
休養をしていたサチコ型生命体も恋していた。
どうしてもジョーに会いたい。
会いたい・・・会いたい・・・。
元の姿のまま、ジョーとの逢瀬場所に飛んだ。
そこにはジョーが座ったまま居たのだ。

昼間、ジョーから教えてもらった「愛の行為」。
心を込めて、ジョーに行なった。

ペチッ!

「こんな星にも蚊がいるのか」
ジョーは恋していた。
「それでも・・・会いたい・・・」
恋する相手がジョーの頬でつぶれているとも知らずに・・・

(お、おい! こういう結末でいいのかぁ?
ワシはハッピーエンドが好みなんだぞ・・・)

  おとぎ話・5
10/26 (火)

書いてみて、いろいろ解った。
詩や句ならば感性だけで書ける。
エッセイやコラムもキー任せで書ける。
ましてワシは御筆先様が付くタイプだ。
(作品は決して優れていないが・・・)
書くだけなら、準備も計画もいらない。

だが「おとぎ話」は完成形が出来てから、
もう一度、書き直す作業が必要だ。
相手の反応まで計算に入れた展開だ。
自分からだけのアピールじゃない。
相手の反応との共同作品にならなければ。

それには設計図が必要だ。
伏線も必要だろう。
全体のリズムも大切だ。
切るところは、計算されていなければ。
相手を喜ばす事を考えての創作。
つまり、独善志向のワシは苦手だった・・・。
これで印税生活は諦めよう・・・。

面白くなければ、明日の生活(命)は無い。
ギリギリの生活だったから創り上げる事ができた。
千夜一夜もハリーポッターも考え抜かれている。
そして、一度壊してから、自由に遊ばせたのだ。
計算と自由が一緒の物語。
それが「おとぎ話」のようだ。

ワシがオナゴだとして・・・
「御伽」相手が嫌なら脱走する。
嫌じゃなければ、話をしないでナニをする。
せっかく作る話なのに、
嫌なおっさん一人に聞かせるなんて耐えられない。

出発点は個人相手の「おとぎ話」だが、
内容の面白さは万人向きだ。
普通の「御伽」なら一人しか愉しませられないが、
「おとぎ話」なら多くの人を楽しませることが出来る。
他を楽しませる事が「幸せ」の一部(大部分)なら、
「おとぎ話」を想像し空想し創造するのもいいなぁ。
毎日書いている駄文よりも、はるかに貢献できる。

「おとぎ話」や物語を創る。
それは子供相手の遊びじゃない。
ブッちゃん(仏陀)やキリちゃん(キリスト)が示した
人の生き方にも通じる作業だ。
(おお!この大げさな表現が好きだなぁ・・・)

それには、先ず・・・
「御伽」を命ずる側の体験もしなくちゃ!
(そ、そういう方向に行くのかぁ?)
「話はいいから、こっちにおいで!ウヒヒヒ・・・」
(ウヒヒなんて言うからヒヒジジィなんだな・・・)

そうだ!前回のラストシーンを書き直そう!

ジョーの血を吸ったサチコ型生命体の体液は、
蚊と間違われて潰された圧力で混じり合った。
ジョーの「想い」が込められた地球人の血液と、
変身能力が含まれたサチコ生命体液の混合は、
変身能力が固定される化学変化をおこしたのだ。
そう、地球人としてのサチコが誕生したのだ。
「サ、サチコ!」「ジョー!」
言葉も意識も地球人と同じになったサチコは、
ジョーと共に太陽系第三惑星への宇宙船に乗り込んだ。
(う〜m・・・書き直さない方がよかったかなぁ・・・)

  氣功音楽論・1
10/27 (水)

以前に「氣の銀行」という題名で書いたのは、
「氣」のソース(元蔵)を銀行に例えてみた。
今回は「氣」の出口の例え話だ。
ラジオやプレーヤーのような音が出る機械が氣功師で、
音楽が「氣」となる。
(題名がイマイチ決まらないけどねぇ)

いろいろな音楽(氣)がある。
気持ちのいい音楽もあれば、悲しい音楽もある。
荒れた音もあるし、不快な音もある。
(例え曲が付いても、音楽とはいえない。
音があっても楽しくなければ音楽じゃない。)

いろいろなプレーヤー(氣功師)がある。
特に大きな音を出せるプレーヤーがある。
(いわゆるパワーのことだけど、
迷惑な音ならパワーが大きいのは困り者だね)
音を変質して出してしまう機械もある。
出せる事が役目だと勘違いしている。

「音の質」と「音の量」は様々だ。
そのことを踏まえた上で例え話を進めよう。

いい音楽とは「気持ちのいい音楽」だ。
単純明快。
音楽は考える対象じゃない。
音楽は体で感じ、心が変わるモノなのだ。

その音楽の電波をつかまえたとしよう。
発生元の放送局は遠い。
宇宙かもしれないが、判らなくても困らない。
それを中継できる周波数をつかまえたわけだ。

だが、電波をつかまえても音楽は聞こえない。
鳴らす機械(転換機)が必要だ。
それがプレーヤー・ラジオ(氣功師)だ。
転換すれば地球(人)用の音楽となる。

「素直」というのは「我」が入ってない状態だ。
空っぽの状態で転換できれば、いい音楽になる。
ところがクセのあるラジオが多いんだなぁ・・・。
「素直」の意味が解らず、ヘタに編曲までする。
でも聞かされる人には元の音楽を知らない。
これがそうだ!と言われると、そうかと思う。

いろいろ問題点が多いんだ・・・ハァ・・・。
プレーヤー・ラジオの基準が決められないからね。
いい音楽を判断できる聴衆もまだまだ少ないから、
マスメディアの判断や宣伝を信じてしまう。
マスコミって、判断力は無い業界だぜ。

ま、それはともかく・・・
この世にはいろいろな電波が充満しているが、
電波を転換して初めて役に立つ。
TVや携帯電話やモロモロのリモコンなどなど。
音楽(氣)も同じだ。
音楽の電波が充満していても、音楽じゃない。

  氣功音楽論・2
10/28 (木)

本来、生きとし生けるモノ達は、
充満する電波から音楽を感じ取る事が出来た。
自然に調和するモノ達は音楽とも調和していた。
自然と音楽は共通の波動から成り立っている。
だから、自然からの音楽を聞けなくなったのは、
人類達が「退化」している証明なのだ。

「退化」か「進化」は見方による。
どっちだっていいけど、変化したのは事実だ。
音楽(氣)を感じ取る能力が劣っているのは事実だ。
判断を感性から理屈に変えてしまったのも事実だ。
まぁ、いいけどねぇ・・・

以前のように波動から直接音楽を感じ取れたなら、
ワシ等のようなラジオ(氣功師)は必要無い。
余計なお世話だもんね。
(ワシもこんな貧困な暮らしをしなくて済む・・・
まてよ? それは・・・ワシの性格の問題か?
努力が嫌いで根性が極端に少ないワシの問題か?)

ワシは性格はヒネくれているが、アホだと知っている。
知った上で独善をしているのだ。
いわば・・・独善は趣味だ。
つまり・・・シロウトの独善家だ。

ところが変換に関してはプロだ。
どんな業界でも当てはまるが、
「素直」になる、近づく事がプロなんだなぁ。
ヘタな技術や力を取り払う事がプロなんだ。
技術を加えたり、経験を積んだりするのは、
「素直」になる為にする事なんだなぁ。

だから波動は素直に変換する。
ワシが編曲できる相手じゃないし、
元々、技術を磨くタイプでもないしね。
偉く無いからプロでいられるんだ。
(でもね、世間はプロより偉くなる方を評価するんだ。
本妻はとにかく、稼ぐ方を評価する・・・)

ただの機械に成りきった方が優秀なラジオだ。
個性は趣味(シロウト)の問題として、
いかに手を加えずに変換できるかが、プロなんだ。
決して音量(パワー)の大きさじゃない。
パワーなんて必要なら後から付いてしまう。
(ここを理解しないラジオが多くてねぇ)

優秀なプロのラジオはスイッチさえ無い。
オン・オフのスイッチも無いし、
音量つまみも無い。
音楽、垂れ流し・・・
(24時間、気持ちのいい音楽だよ)
相手を差別・区別しないんだ。
故お師匠様がこのタイプだった。

  氣功音楽論・3
10/29 (金)

ラジオの理想型はシンプルなものだ。
シンプルがベストかどうか知らないが、
この世はつくづくヒネくれていると思う。
シンプルは単純・素直だから難しくないが、
自分がシンプルになるのは、とても難しい。

「それって、世の中がヒネくれているのじゃなく、
自分がヒネくれている証拠じゃないのか?」
まぁ、そういう言い方も出来るけど、
世の中は自分の世界でもあるからなぁ・・・
(自分が目を閉じれば、世の中は真っ暗なのだ。
自分の理解したようにしか、世の中は見えない)

自分の事は棚に上げよう。
そうでなくては話なんて出来ない。
大事に棚の上に置いただけだから、
気が向いたら掃除すればいい。
(政治家達は自分達の事を棚の上には置いてない。
何処かに埋めてしまったんだ。
だから、反省なんて出来ようハズがない。)

話が進まない・・・
地震のせいだ・・・
政治家が悪い・・・
(地震のせいじゃないけど、政治家は悪い)

ラジオから音楽が流れる。
音楽は振動も伝えるが、
それは近くじゃないと感じない。
直接氣功療法の特徴の一つは、
近くで音楽を直接聞ける事だ。
音と振動を同時に感じる事だ。

手を触れる。
あるいは近くから受けると、
熱や光や電流が流れるのを感じやすい。
近いから力が強いわけじゃなく、
別の要素を感じる事ができるのだ。

遠く離れた所に音楽を流すのは、
遠隔氣功療法というが、
決して力が弱くなるわけじゃない。
直接でしか伝えられない振動は無いから、
「聞く」事はできないが「感じる」のは同じだ。
自分から「感じる」事は「聴く」という字を使う。

遠隔氣功療法ではないが、
例えば、ある家で氣功療法をすると、
クライアント以外の家族にも自動的に流れる。
家族以外でも、その時、その家にいたのなら、
やはり自動的に氣功を受ける事になる。

これは部屋が別であっても、
一軒の家は一つの結界内になり、
別の部屋にいても音楽が聞こえるようなものだ。
隣の家も近ければ音楽(氣)を聞く事も聴く出来る。

  氣功音楽論・4
10/30 (土)

「感じる」事が鈍くても大丈夫。
直接なら音楽(氣)は「聞こえる」。
接触か極近ければ振動も体験できる。
いくら鈍くても直接の熱ならわかるだろう。

音楽(氣)は音の大きさじゃないし、
直接聞こえなくても影響も変化もある。
でも、聞こえれば確認できるし、
自分の感覚を信じられる。
(感性に自信の無い現代人だものねぇ)

さて、ここからが複雑な部分の説明になる。
何故、氣功療法に差がでるのか?
それを音楽論で説明しようと書いているのだ。
(えっ! そうなの? そんな理由があるのかぁ?
惰性でキー任せに書いていると思うけど・・・)

人間の感覚は自動選択装置が付いている。
つまり、聴こうと思う音は優先認知しているのだ。
機械のマイクでは全部の雑音まで拾ってしまうが、
人はそこから先にフィルターを通して認知している。

外の工事の音は気にしだすと大きく聞こえ、
何かに夢中だと聞こえないと思ってしまう。
実際は同じ大きさで鳴っているのだが、
受け方で大小や有無まで変わってしまう。

例え、気持ちのいい音楽が鳴っていても、
聴こうとしなかったり、音楽を認めてないと、
「聞いてない(効いてない)」と言う。
あるいは「聞こえない」と言う。

直接氣功療法でクライアントにすれば、
だいたい家ごと氣功療法をしてしまう。
別な部屋であっても聞こえる人と
聞こえない人が出来る。
聞こえなくても家に音楽(氣)は染み込む。
出張先の結界内(建物)はラッキーなんだ。

それが病院だったりすると、
音楽を聴く人は少ない。
自分の事(病状)に気をとられている。
綺麗な音楽を聴く余裕が無い。
聴く気がなければ「聞こえない」

病院は氣功療法をするのに困難な
更に複雑な要素が幾つもある。
いずれ説明するが、音楽を流せないわけじゃない。
むしろ、積極的に音楽を流す「場」だと思うよ。
「病・闇」から回帰するには音楽が有効だし、
音楽はその為にも用意されていたんだ。

音楽(氣)は聴こうとするモノに響く。
キリちゃん(キリスト)は、その事を示し、
「問いなさい、さらば応えるでしょう」と言った。
実際はいつでも応えていたんだよね。
応えっぱなし(垂れ流し)だったんだよねぇ。

  氣功音楽論・5
10/31 (日)

キリちゃん(キリスト)はニコニコしながら、
ホントはこう言ったのかもしれないね。
「聴いてみな・・・綺麗な音楽が流れてるぜ」
ギターを爪弾きながら、歌って話したろうね。
シンガー・ソングライターなんだな。
あの長髪と髭面もライブに似合っているしね。

ブッちゃん(仏陀)は得意のウソ(方便)で、
観音ちゃんが如何にイイオンナか説明した。
「観音ちゃんの名前を呼べば、すぐ来るよ。
マグマ大使の笛みたいだねぇ」
(観音という名前からも、音を観るのがコツなんだ。
ちなみに・・・観音様はオンナではないけど・・・)

同じ音楽でもライブとCDの違いもある。
同じCDでもプレーヤーによって音質に差が出る。
しかし、全てに共通するのは、
「聞く」より「聴く」事により本質が観える。
多少の間違いや音質の不出来よりも、
音楽の元にあるモノを感じる事が大切なんだ。

最初は解らなくてもいい。
音楽は聞く。
そして感じる。
そして聴く。
そして、観る。

そして・・・音を楽しみ、
そして・・・気持ちを愉しむ。
体で受け止め、
心で放す。

音楽(氣)は、
大宇宙(自然)から伝わってきたモノだから、
体と心に循環させたなら、
大宇宙(自然)へと放していくモノなんだ。
この一巡りの作業で、音楽は完成する。

音楽(氣)は人間が創れるモノじゃないが、
人間が聞こえるように変換するのは、
音楽を扱えるモノが必要だ。
作曲家や演奏者や歌手。
ラジオやCDやプレーヤー。

だから音楽(氣)を扱う時だけは、
素直、ストレート、空っぽが重要だ。
(性格に問題があっても大丈夫。
扱う時だけ素直になればいいのだ。
何しろ、欠陥だらけのワシでさえプロだ)

自分が音楽(氣)を創れると思ったら、
エセ音楽家に成り下がってしまう。
(だから優秀な人は向かない仕事だ。
偉くなると、ダメになる仕事だ)

これでは音楽論が中途半端だった。
また、いずれ音楽論として書いてみよう。

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