04年12月のコラム           コラム2目次に戻る
  ボランティア・2
12/01 (水)

もっと「愉しみたい」からしている。
「純粋に愉しみたい」からしている。
その部分を進んでいると・・・
自由気ままな姿になる。

「ボランティア」を「奉仕」と訳すから、
そこに様々なモノが入り込む。
入り込むほど、重くなる。
同じ音でも「胞子」なんだと思うよ。
風に吹かれ、気ままに漂う「胞子」の姿。

以前にも御筆先様が「奉仕」について書いた。
「初期段階・他への行いは自己の気づき」
「奉仕には感謝が付きものだが、奉仕する側が感謝だ。
させていただくのは、こちら側の勝手な行為だから。」

気づきを受け取るのも、奉仕をする側なんだから、
出来れば、お金を払ってもいいくらいなのだ。
義務感や正義感や道徳感や憐憫感からでは「奉仕」にならないが、
この「胞子」なら、楽で温かい社会になりそうだ。
今までの社会常識って・・・変だと思わないか?

もう一つの表現の仕方がある。
「ボランティアは趣味」
これも一所懸命している人達からはモンクが出そう・・・。
マジメな人達は「場」が読めない欠点があるね。
「正しさ」にこだわると、息はつまりやすいんだ。

「楽」になるには「楽な場(雰囲気)」が必要なんだなぁ。
「心」はウソがつける。
「感情」も「理性」も芝居ができる。
「行い」もゴマカシがきく。
作り笑顔も声もできる。
だけど「氣」はウソがつけないし、誤魔化せない。

自分が愉しくなけりゃ誤魔化すしかないね。
それじゃあ、どんな行為も「奉仕」にならない。
社会的な評価はあるかもしれないけど、
相手と自分が愉しく変わってしまうのでなければ、
それは「建前立派な社会」しか作れない。
立派はねぇ・・・疲れるんだ・・・。

「好き」だから行う事を「趣味」というんだ。
そこには、どんな理由をつけても「好き」なだけだ。
だから、結果がどうであろうともガッカリはない。
次に続くんだ。いつまでも。
誰に云われるわけでもない。
他人の評価は関係ない。
金が無けりゃ、工夫するだけだ。
とにかく、することは愉しいしね。

  ボランティア・3
12/02 (木)

そもそも「社会奉仕」って何だろう?
人と人が支えあって生きていくなんて、
基本的に当たり前だし、それ以外で生きられない。
人と人以外のモノとも支えあわなければ、
この地球から「生命」は失われてしまう。
ことさら「社会奉仕」が流行る時代は・・・
かなり、末期症状なのかもしれないねぇ。

そもそも「仕事」って何だろう?
暮らしやすい社会を作り維持する為に、
いろいろな役割として尽くす。
それがお互いに個人や家庭を維持する糧となる。
役割は細分化しているがプロフェッショナルだ。

本来のプロになる事。
それが「社会奉仕」でもあったはず。
「はず」は、外れやすいからなぁ・・・。
「社会奉仕」にならないのなら、
それはプロの仕事じゃない。
迷惑が多いドシロウトの仕事なんだなぁ。

もう一度この国の現実、事実を冷静に観てみよう。
トップの政治からして、ドシロウト仕事。
行政界も誰も責任を取れない、ドシロウト。
経済界も大銀行があの有様のドシロウト。
ドシロウトが、大流行のこの国なんだねぇ。
プロ職人なんて絶滅指定されるくらい少ない。

お金は必要だし、心は多く欲しかったりする。
(ワシなど喉から手が出そう・・・)
すると、この国を導くエライ人達は、
自分達をモデルにして真っ先に仕組みを作るから、
ドシロウトの方が多く収入があるようにした。
結果・・・ドシロウトが蔓延し、プロが激減した。

そうかぁ・・・
そうだったのかぁ・・・
ワシの貧乏は、プロを目指したからなのかぁ。
ドシロウトになり、口先だけになり、
この国のトップ達を手本にして、
責任を取らない仕事をすれば安泰だったのかぁ。

でもねぇ、ワシは不安定が好きだという癖がある。
トップ達を揶揄したい趣味がある。
金は欲しいし、本妻も愛人も養いたいし、
どうしようかなぁ・・・
頑張って、ドシロウトを目指そうか・・・
あ〜、これが「悩み」というヤツなのかぁ・・・。

仕事がドシロウトだから、
仕事以外に「社会奉仕」をするわけでもないだろうが、
仕事のプロはそのまま「社会奉仕」になる。

  ボランティア・4
12/03 (金)

イチローという野球選手がいる。
その哲学から野球家といってもいいだろう。
他人の収入の詮索は好みじゃないが、
彼は年10億を越す収入がある。

彼が「社会奉仕」を意識しているか知らないが、
彼がひたすら野球をする事によって、
多くの人達が喜び、勇気つけられ、元気になる。
事実として、大きな「社会奉仕」をしている。

見返りを求めない行為。
ある意味、自分勝手な行いでもある。
好きな道を好きなように歩いているのだから。
その歩く姿から、多くの人達が「勝手に」喜びを得る。
「勝手に」勇気を受け取る。
「勝手に」元気を取り戻す。
「勝手に」意識をやわらげ、広げる。

「社会奉仕」は利権や収入の有無じゃない。
利益と別次元の事であり、
ことさら「無報酬」にこだわるかぎり、
ホンモノの「社会奉仕」は出来ないかもしれないね。
報酬・無報酬なんて超えたところからの「行」だと思う。

そのイチロー選手の言葉がある。
「どうしたら、イチロー選手みたいになれますか?」
「好きになる事!」

この世の仕組みだと思う。
「好きになる事」
相手が「道」だろうが「人」だろうが「モノ」だろうが、
好きになる事で、支えあう生命力が沸くのだと思う。

「好きに生きる」というのは、利己主義じゃない。
「利己」(自分の利益のみ)なんて考えてない。
利益なんて(ある意味)どうでもいいんだ。
「好き」だから行動してしまうのに理由はない。
そこには「社会意識」も関係ない。
だから「社会奉仕」も意識していない。

いつも書くように「この世はヒネくれている」
「社会奉仕」も「利己」も意識しない行為は、
結果として大きな「社会奉仕」になったり、
結果として大きな収入になったりする。
(必ずなるわけじゃない。ワシがいい例だぁ・・・)

この地球が住みよい世界になるなんて簡単だ。
「好きになる事」
様々な顔や性格があるのだから、
様々な「好き」があるのだ。
森羅万象が「好き」だらけになる世界。
それが「平和」ってやつじゃないのか?
そのときには「社会奉仕」なんて言葉も無くなるだろう。

  ボランティア・5
12/04 (土)

龍村師匠から聞いた話だ。
ワシが勝手に取り違えているかもしれないが、
脳は誰でも勝手に理解しているものなのだ。
異論があれば、脳の専門家の養老孟司氏と議論してくれ。
人と人は「勘違い」の上で世界を築いているものだ。
だから「正しさ」を主張すると争いになるんだ。

龍村師匠のお師匠様は「沖正弘」という人だ。
沖道といわれるヨガの本道を日本と世界に広めた。
求道ヨガともいわれ、心魂身の修正法として活用した。
1985年にイタリアにて入寂された。
龍村師匠はその後を道場長として任されていた。

故沖師は世界各国の医療法と宗教を研究し、
特にインドではマハトマ・ガンジーの下で修行した。
ガンジーが暗殺された後も数年間をインドで過ごした。
その数年間が「奉仕行」の本質を極めた時代らしい。
マザー・テレサがその後、同じ活動をした。

後に沖師は語った。
あらゆる「行」の中で「奉仕」ほど厳しいものはない。
その内容が重く厳しいものでも最初は誰でも出来る。
見返りを求めない行為を「奉仕」という。
見返りを求めない心を「奉仕」という。

ところが、年を過ごすほど、
「なんで自分がこれほどしてやっているのに、
感謝の言葉一つ言えないのか?」
「これほどの期間を奉仕しているのに、
どうして誰も評価してくれないのか?」
こういう心が沸き起こる。

何年も誰一人感謝せず、誰一人評価しない。
感謝や評価の言葉があるなら「奉仕」は続けられる。
だか、それは「偽の奉仕」なのだ。
ホンモノの「奉仕」は、とても厳しい行いである。

「奉仕」とは自身の傲慢な心に気づく行為であり、
その心を克服(浄化)する行為。
この傲慢な心こそが、心の中でも底にある部分だという。
だから「行」の中で最上位が「奉仕」となる。

こんな厳しい話を聞かされて、
根性無しのワシが簡単にボランティアなんて出来ない。
独自の言い訳をしなけりゃ「奉仕」なんて考えられない。
そこで「奉仕趣味論」が出来上がったわけだ。
これならワシでも参加できる。
ワシは偽の奉仕でもいいと思っている。

生きている人間なら誰でも、
「他の為にもなる生き方」をしたいのだ。
自分の為だけでは空しすぎる。
他の為だけでは、無理がある。
だから「(自の為にも)他の為にもなる生き方」
心の底には、その部分が結構大きいと思う。
だから「奉仕」したいのが本音だと思う。
理由はいらないんだよねぇ。

  December
12/05 (日)

いつも月の初日に書くネタだったのに、
続き物を先月の終わりから書き出したので今日になった。

相変わらずのワンパターン。
いいや、ワシの文章やテクニックの事じゃない。
(注:ワシにテクニックって程のものは無いだろ?)
ローマ暦の2ヶ月遅れの名前だ。
December は10番目の月名を意味する。

面白くも何ともない。ヒネリが無い。
ワビ・サビもない。ユーモアも無い。
なんて書くと、ローマ好きオナゴから抗議が来るなぁ。
その都度、あやまり、言い訳をするワシです・・・。
はい、ローマは素敵です・・・。
イタリア人はカッコイイです。クドイです・・・。
(オナゴには特にスケベです・・・マメです・・・)

24節気では「大雪」と「冬至」になる。
冬至は黄経(太陽の通り道の角度)が270度。
最も南限になり、北半球では昼が最短になる。
だから、この日は北半球では「祭り」になるんだ。
だって、後は日一日と昼が長くなるんだぜ。
ビバ! クリスマス! 祝福日だぁ!
(クリスマスを個人の誕生祝福日なんて、
狭い考え方をする人は、狭徒という教徒になる。
キリちゃんはもっと大きな祝福を望んでいるぞ)

これは各人の生き方にも応用できるなぁ。
どん底の暮らしに落ちた日は「祭り」なんだ。
ワシの家なんて、毎日が「祭り」だ。
ビバ! 綱渡り! 今日も祝福日だぁ!

昨日が「どん底」だと思っていたのに、
今日は「どん底」の蓋から下に行けた。
じゃあ、今日が最高の祝福日だぁ!
祝福日が続いている。ラッキー!

すると「どん底」の下には「奈落」があった。
ならば、チョーラッキー!
どこまでも落ち込む事ができる。
今日から上がる一方かもしれない。
そう期待し「祭り」を続けて10年間。

振り返ってみれば・・・
毎日がラッキーの祝福日だったなぁ・・・。
毎日が幸せだったなぁ・・・。
(生活は苦しいけど、それだけだものなぁ)

本妻は「こんなに毎日お祭りするのも疲れたから、
持つ者の苦しさを味わおうよぉ」
なんて罰当たりな言葉を言う。
ワシも罰当たりは言うのもスルのも好きだから、
全面的に賛成しているのに、
何故か神様にヒイキされているワシは、
今日も綱渡りの祝福日を与えられている・・・。

  師走04
12/06 (月)

12月だ。
ワシも氣功師という「師」の仲間である。
多分にアヤシイので「シッ!」と追い払われる。
他の「師」は偉い人や立派な人が多い(?)
「先生」と「師」はかなり違うのだが、
今日は説明する気分にならないから、まぁ同じでもいいや。

世の中にセンセイは多い。
欲脂ギトギトの政治家は全員センセイだ。
教師や医師などは試験さえ受かっていれば、
学校出たてのアンチャン、ネーチャンもセンセイだ。
中国に行くと、どういうわけか、ツアー全員がセンセイだ。

街を歩くと、妙齢のイロっぽい御婦人が、
「センセ!お久しぶり。寄ってらして」
などと、誰彼かまわずセンセイにしてしまう。
(注:我が町にはそういう御婦人はいない。
代わりに猿と狸と熊と狐がいるが声はかけてくれない)

そういうセンセ達が走り回る月だそうだ。
身分保障されて税金から給料の出るセンセ達は、
忙ナスという茄子を夏と冬に貰い、
先ほどの妙齢の御婦人達と食べるらしい。
本妻さんには内緒の食べ方があるらしいが、
ワシはその茄子を貰った事が無いので推測です・・・。
(ウワサでは食べたり、食べられたりするとか?
ど、どんな食べ方なんだろう?興味津々)

茄子はつかないが、ボーさんという「師」もいる。
正月は比較的ヒマになる職業らしいので、
12月中に「経」のバーゲンで稼いだらしい。
頭から汗をかくほど走り回るが、
ボーさんだから、ケガ無い。
(御仏様が守ってくださる?)
これが「師走」の最有力説だそうだ。

ワシだって見栄がある。
アヤシイ「師」としてのプライドがある。
今月くらい他の「師」のように忙しく走りたい。
「センセ、アタシも癒してね・ハート」
「センセ、今夜は私が癒してア・ゲ・ル。」
なんて次から次へと走り回りたい。
(ホントは色っぽいのは苦手です・・・。
って、何を言い訳しているのかなぁ、
ああ、忙しい・・・タイヤ交換が・・・)

師走だから忙しいわけじゃないが、
毎日の綱渡りに油を塗って、
自転車操業の自転車も壊れた。
今は一輪車に乗って渡ってますから、
慌てると危ないかも・・・
(い、いや、そうじゃなくてもヤバイと思う・・・)

  役割・1
12/07 (火)

本来の仕事は「生き方」でもあるし「奉仕」でもある。
それぞれの「生き方」があるように、
それぞれの「仕事」がある。
(ここでいう仕事は収入の有無を問わない)
本来のその人の仕事に巡り合い、
あるいは目覚めた人はラッキーだと思う。

本来の仕事ではなくても、
人はそれぞれの「役割」があり、
それで様々な出来事が変化し成り立つ。
それは、その時の「役割」であり、
その場限りの「役割」の場合もある。

ワシがワシの仕事(健康へのお手伝い)をする時、
いろいろなクライアントと出会う。
多くは「病・闇」を抱えている。
何とか抜け出したいから、ワシと係わる。

ワシにはワシの「役割」があり、
それはクライアントには出来ない事だ。
クライアントにはクライアントの「役割」があり、
それはどうしてもワシには手伝えない事がある。

本人の力では無理でもワシには出来る事がある。
本人がするべき事も指導できる。
だが、本人がしてくれない限り、
抜け出せない「闇・病」は多いのだ。
(病にはいろいろな種類があり、必ずしもではない)

そうねぇ・・・たとえ話にしようかな。

ドロドロの道がある。
平なアスファルトの道の時もあるけど、
最後まで平な道はありえない。
岩だらけや雪道や道が見えない道もある。

高い場所から行く方向を確かめる事が出来たとして、
最良の道を選んだつもりであっても、
実際の道はアクシデントが起こる。
そうでなくては・・・ツマラナイ。
生きていくのだから、アクシデントが起こり、
ハプニングが起こり、退屈しないようにしてある。
グレちゃん(創造主)って結構優しい(と思う)

で、ドロドロの道にはまり込む。
最後まで使う専用のレンタカー(肉体)は、
時々スタック(立ち往生)してしまう。
う、動けない・・・こ、困った・・・
ひ、日が暮れそう・・・暗いなぁ・・・
これが病(闇)状態だ。

よく観てみよう。
レンタカーが動けないから、
ドライバー(心)は困っているのだ。
ドライバーよりレンタカーを動かすのが先だ。

  役割・2
12/08 (水)

ドライバー(心)とレンタカー(肉体)は、
一体じゃないが、最後まで一緒だ。
レンタカーが動いてくれないとドライバーは喜べない。
動けない(見た目じゃない)車に乗っているとイジケてしまう。
単純な事実なのだが、普段は車が動いているから気づけない。
順調に動いているから(余計な)悩みなど愉しんでいる。
(悩んでいる人、きつく感じたらゴメンナサイ・・・)

レンタカーが泥道で立往生してみると、
ほとんどの悩みなど、どうでもいい事だと気づく。
仕事や、愛しい人や、金や、評価などは、
レンタカーが動いているのが前提だったわけだ。
これはなってみたら理解できる。
心の中だけの悩みは・・・結構贅沢な悩みなんだ。

例えば自分より大切な家族という。
その気持ちに偽りはないが、優先順位が違うのだ。
生きている時はレンタカーが最優先になる。
(死んでしまえば、家族の方を優先できると思う)
どんなに悩んでも、食べるし、寝るし、息もするし・・・。

心的には悔しいかもしれないが、事実なんだなぁ。
生きている人間は「動物」なんだ。
動いている(存在できる)物なんだ。
ドライバーはレンタカーが動いて存在できる。
(注:この世で生きている場合はですよ。
あの世の事はあの世に行ってから考えて下さいね)

泥道でタイヤが空回りして前に進めない。
ドライバーだけではレンタカーを脱出できない。
ドライバーはハンドルとアクセル操作が担当なのだ。
それがドライバー(心・本人)の「役割」だ。
だから、脱出のお手伝いが必要になる。
それが、医者や治療者やヒーラーなどだ。

もちろん運転の上手いドライバーもいる。
かなりの深い泥道でも運転だけで脱出できる。
車(肉体)の事を理解しているからだ。
ドライブ(心の操作)は車(肉体)との共同作業だ。
車を理解せず、大切に扱わないで、
マトモにドライブできるはずがないよね。

お手伝い側にもいろいろなタイプがいる。
力だけで押すタイプがいる。
泥道も車の状況も見ないで押す。
方向が合っていれば脱出できるけど・・・
横から押しても脱出はできない。
まして力が強ければ、車は横転して(死んで)しまう。
そんな例は残念ながら、あちこちで見られる。
「車は引き抜きましたが・・・廃車です・・・」

パワー(知識も含む)が有る事よりも、
もっともっと大切な事があるんだ。
「生命」「いのち」を観れなければ、
パワーのあるお手伝いは迷惑なだけだ。
技術や力や知識を詰め込むより優先して、
「いのち」を観る事をしてほしいよねぇ。
お手伝い側の「役割」は力じゃないんだぜ。

  役割・3
12/09 (木)

「病名」というのがある。
これを多くの人が勘違いしている。
多くの病人さんが勘違いしている。
病名は誰の為のものか?

病名は担当する医者の為にあるんだ。
その病に対処するための符牒(マーク)だ。
だから同じ人の同じ病でも、
病名は西洋医と東洋医では違う。
アーユルヴェーダ医もチベット医もエジプト医も、
それぞれ違う病名をつける。
だから対処の仕方も、それぞれ違う。

患者は「病名」が自分のモノだと思ってしまう。
病名を調べる事が自分の「役割」だと思ってしまう。
更に病気の治療法まで調べだす・・・。
難しい専門用語や薬名の知識も調べだす。
医者になる事を目指すなら、それもいいし、
知識を増やすのが趣味なら、それもいい。

病気はシロウトの半生知識で対処する相手じゃない。
それは「医者」という専門家が「役割」だ。
だから厳しい試験があり、資格が必要なのだ。
(本当の資格のある医者がどれだけいるか、は別問題だよ)
病気は対処を間違うと、危険な相手だ。

「病」を抱えているのは本人。
「病名」は医者(他人)のモノ。
共に、回復を目指す為に共同作業をする。
主導権は常に「生命」側にある。

つまり、共同作業をする相手(医者など)を
選び、決定するのは病人側の「役割」だ。
立ち往生した車を押してくれる(手伝う)人は、
ドライバー(本人)が決めるのが「役割」なのだ。

動けないレンタカーをそのままにしていいわけがない。
時間が経てば、自然に動けるわけじゃない。
何もしなければ、より深く沈んでしまうのだ。
だから、近くに適当な人が居なければ、
大声で探すのもドライバーの「役割」だ。
どんなに深い溝に入り込んだとしても、
あきらめないで探し続けるのも「役割」だ。

ドライバーが動けない現状分析をする事が、
無駄や必要外とはいわないが、
それを調べて対処するのは押す側の「役割」。
病名を知ってもドライバーには手が出せない。
それよりも対処しやすいように操作する必要がある。
押す側との呼吸を合わせて、ハンドルやアクセルを調整する。
それがドライバーの「役割」だ。

  役割・4
12/10 (金)

何故「役割」が必要か?
「生命」は「つながり」で回復するからだ。
一方向だけの力では生命力が湧き出ない。
双方、多方の協力と共鳴があると、
遥か宇宙か何処か、あるいは神様かは知らないが、
「生命」の大元から応援がある。
それは間違いないし、これが回復力でもある。

地球上のモノはほとんど「金」で買える。
人の心も、ある程度は買える。
プライドだろうが、運命だろうが、環境だろうが、
ある程度は買えるのが事実だ。
「生命」もある程度は買える。
(注:生命を狭い定義で使ってます・・・)
残念ながら、これも事実だ。

だが「生命」は買えても「回復力」は買えない。
どんなに「金」を積んでも買えないのだ。

極端な例を話そうか・・・。
「臓器移植」というのがある。
とても高額な医療技術料がかかる。
お金が無ければ、受ける事は出来ない。
有れば、優先して受けられる。
だが、世界一の金持ちでも「回復力」は買えない。
「回復力」が入ってこなければ「活かせない」。
意味が無いのだ・・・。

心の病でも同じだ。
押す役割の人にお礼をすれば解決するわけじゃない。
それぞれの「役割」を実行した時に
双方以外の次元から応援が来る。

体や心の闇・病からの脱却・回復は、
力や知識のある押し手(医師・治療者)だけでは、
「回復力」(免疫力を含む元氣)は湧き出ない。
むしろ病を抱える側の「役割」実行力にかかっている。
常に「生命」の主導権は本人なのだ。

このポイント(コツ)さえ覚えれば、
病からの脱却は、そう難しいものではない。
難病・重病・奇病といわれるものでも、
最重要は「回復力」であり、治療法じゃない。
治療法は「回復力」があって活きる方法だ。

正反対の治療法でも回復する人達がいる。
ワシはこの点が疑問だった。
でも「回復力」を土台にした時、
その疑問は氷解したのだ。
「回復力」の流れ方。
その一つに双方の「役割」があった。
(役割だけが全てじゃないけどね・・・)

  役割・5
12/11 (土)

泥からの脱却には、ドライバーの協力が必要だ。
適度なアクセル操作とハンドル操作があれば、
押す側としても、とてもスムーズにいく。
例え難しい状況でも何とか乗り切れる。
運転する側と押す側との合氣があれば、
かなりの不都合も解決できるものなのだ。

ドライバーが「役割」をしなくても、
時には、押す力だけで車を動かす事はできる。
時には、一時的に泥から車は出す事はできる。
しかしその先の泥道を乗り切れるわけじゃない。
すぐにでも同じような泥に落ち込むだろう。

車を運転するのはドライバーだ。
一生後ろから押すわけにはいかない。
一生付いてお手伝いは出来ない。
ドライバーがドライバーの「役割」に気づき、
それまでの運転を変える事に意味がある。
泥道にはまった(病気になった)事が活きるんだ。

動けなくなった状態からの脱却は、
未来に続かなくては意味が無い。
病気を治す事だけでは、意味が無いのだ。
いずれレンタカーは返さなくてはならない。
レンタカーから降りる事は決定事項なのだ。
病気を治しても、治さなくても降りるのだ。

意味は運転の仕方にあり、
ゴールでもなければ、スピードでもない。
スタックした事(病気)は失敗じゃないのだ。
運転の意味を覚える為に動けなくなる、ともいえる。
その最大の気づきが、
レンタカーを大切に扱う事なんだなぁ。

ドライバー(心)がどんなに成長しても、
レンタカーを粗末に扱うようでは、
この世(物質界)では、劣等生なのだ。
優先するのはレンタカーであり、ドライバーじゃない。
この点を逆に学んでしまうのは、頭のいい人に多い。

気をつけよう。
心の成長なんてどうでもいい。
そんな事はあの世にいってからで出来る。
この世は物質(肉体)界なのだ。
ならば、この世での学びの最優先は、
肉体(物質)への「愛」だろ。
素直に観れば、簡単にわかることなのに・・・。

生きているモノ達に共通の「役割」は、
肉体を愛しむ事なんだ。
心を愛しむのは趣味でやってくれ。

  セルフヒーリング・1
12/12 (日)

よく訊かれる。
1・「病気にならないですか?」
2・「自分で自分にも氣功治療ができますか?」
3・「氣功で宝くじがあたります?」
4・「氣功でオナゴにモテますか?」
(4の質問は無いなぁ・・・)

それぞれが別の質問だから、別に答えよう。
1番は「もちろん病気になる」

ブッちゃんという人がいた。
人として真理を観る事に最も近づいた一人だろう。
そこらの坊さんや学者さんの言う事は、
(悪気が無くても)(全く)あてにならないが、
ブッちゃんやキリちゃんのいう事は信用できる。
(注:宗教組織が引用する事はあてにならない)

人が真理を語るのは、通常はおこがましいのだが、
その例外が何人かいるものだ。
目覚めた人の意味を持つブッちゃん(仏陀)。
同じくイエスという称号のキリちゃん(キリスト)。
他にも何人もいるだろう。

例外はどんな場合もこの世ではある。
この世はヒネくれて創られている。
ヒネくれている、というのは「絶対」が無い。
だから、どんな場合でも希望があるのだ。
グレちゃん(創造主)は「愛」の形を「ヒネくれ」として現した。

そのブッちゃんが言った。
「人には生老病死が必ずある」
ワシはこの事が長い間解らなかった。
生老死の三つは納得できる。
でも「病」は間違わずに生きれば無いのでは?
そう解説している健康の達人達の本にうなづいていた。

達人であろうが所詮人間。
ブッちゃんと達人を比較するワシが馬鹿だった。
ブッちゃんのいう事が理解できないからと、
理解しやすい人の解説を信じようとしたワシが愚かだった。

ワシは愚かなままだが、一応「プロ」になった。
「人を観る」のが仕事(ライフワーク)になった。
すると、「正誤」にこだわる事自体が間違いだったし、
「間違い」というのなら、人の存在自体が間違いだと知った。
更に100歩譲って、間違わないで生きられたと仮定しても、
「病」は起こるように仕組まれていたと気づいた。

「生老病死」には大きな意味と仕組みがあったのだ。
やはりグレちゃんはタダモノではない。
(グレちゃんとはグレート・サムシングという偉大な御方)
創造主にむかって畏れを知らぬ、この書き方・・・
でもね、グレちゃんは、そんな事で腹は立てない。
腹があるのか、どうかも判らないけど・・・。

  セルフヒーリング・2
12/13 (月)

数年前に南インドに行った。
アルナーチャラ山という聖地に登った。
インドの聖地は裸足という約束がある。
上り口で靴を脱ぎ、裸足で登った。
ほとんどが岩の山だったが、岩が温かい。
多分・・・遠赤外線が豊富だったようだ。

この山は「マハリシ」と称される聖者がいた。
「マハ」は偉大という意味だ。
「リシ」はある境地に到達したヨガの称号だ。
つまり「マハリシ」は個人名じゃないが、
そう呼ばれる聖者は少ない。
ここのマハリシは「裸の聖者」と呼ばれている。
一生を半裸で過ごしたからだ。

ここのマハリシの最後が「癌」だった。
ワシは何故病気になったのか不思議だった。
しかも意識と関係の深い「癌」。
(癌は特に意識と係わる病症状なんだ)
これほどまでに自然と調和した生き方をして、
霊性を浄化し昇華し利他行をしたのに・・・。
それでも事実として「癌」になった。

今は理解できる。
「病気」は間違うから起こるのじゃない。
必要だから起こるのだと。
ワシの病気と聖者の病気はレベルが違うが、
人間としては同じように起こりうる。

ワシは体と心に悪い(不調和な)モノを食べ、
体と心に傷つける生活習慣を平気でし、
神を畏れぬフトドキな言行をして、
当然の結果として病気になる。
(いや、どういうわけか、未だなった事がない・・・)
不調和を行えば病気になる。
これも事実なんだ。

しかし病気はそれだけじゃない。
ブッちゃんだって腹を壊して入寂した。
人間だから、死ぬにはキッカケが必要だった。
より高いレベルに上るにはキッカケが必要だ。

間違いだから病気になるだけじゃなく、
更に素晴らしくなる為に病気になる。
これ・・・よく観ると、同じなんだ・・・。
だからブッちゃんの看破した通り、
人は平等に「生老病死」がセットで付いている。
生老死も同じなんだ。

ワシ流の言い回しなら、
「この世は経験する為にある」
正誤や正邪もあるかもしれないが、
経験・体験が優先するだろうと思う。

全てを体験・経験できないけれど、
基本的な経験は誰でも出来る。
それが「生老病死」だ。
だからワシのような欠陥人間でも「病」はある。
グレちゃんは、偉い人とアホな人を差別しないのだ。

質問1の答えになったろうか?

  セルフヒーリング・3
12/14 (火)

質問2
「自分で自分にも氣功治療ができるか?」
答え
「できるよ」(そ、そっけない答え・・・)

これは立場によってセルフヒーリングの意味が違う。
氣功は基本的には誰でも出来る。
運転や泳ぎや話と同じだ。
誰でも(基本的には)話せるし泳げるし運転できる。
しかし出来る事と「プロ」は次元が違う。
上手く出来れば「プロ」になれるわけじゃない。
(最近はあらゆる分野でシロウトのプロが活躍してる・・・)

氣功のソース(大元)によって大きな差があるが、
基本的には誰でも自分で自分を氣功治療できる。
一般的な中国気功は「自己の氣」をソースにする。
自分で自分を回復・保健するために使う保健氣功には、
中国気功は充分ではないが、適していると思う。
(医療氣功への応用は単純に適しているとは・・・)

ワシのようにソースを人間以外からつなげている場合、
自分で自分を回復・治療するといっても、
扱う「氣」は自分以外からだから、自分でも他人なんだ。
確かにセルフヒーリングではあるけれど、
「氣」側から観れば、自他の区別は無い。
自分も他人もイヌもミミズも場所もモノも区別無い。

ワシとミミズの違いなんて、立場が違えば区別無いんだ・・・。
それなら同じ人間で同じオナゴで同じく大切な、
本妻と愛人を区別するなんて変だよね。
心の狭い道徳主義者はもう少し魂の勉強をしろよなぁ・・・。
世界平和や正常な環境を心狭い道徳(正義)者達が阻害している、
とはいわないけど、暮らしにくい社会にはしているよね。
(絶対、異論反論があるよね・・・マジメな人達は怒りんぼだし・・・
すいません、ワシはグレてますのでマトモに相手をしないで下さい)

何度も書いているが、自分で自分を愛しむのは大切だ。
それも最優先して行うほど、重要な行為なんだ。
その手段が氣功であろうと、本質の大切さは変わらない。
ワシは「○○すべき!」という「べき」は使わない方がいいと思う。
でも例外として「自分で自分は愛しむべき」だと思っている。
(体が愛しいレンタカーと知れば、べきじゃなく、自然にするけどね)

実はこの「愛しい思い」がワシの扱うソースとつながる鍵でもある。
ワシは母親が赤ちゃんに寄せる思いに近いと観ている。
だから、誰でもこの氣功は扱える可能性がある。
ソースが遥か宇宙だか、地球そのものからだか、月や太陽からだか、
あるいは「神みたいな存在」からだかは不明だけど、
そんなようなトコロからの通路ではあるようだ。

自分で自分を氣功治療・回復するのは、
「プロ」立場を外しても、こんなに重要なんだよ。
「プロ」立場からは、更なる重要な行為となる。

  セルフヒーリング・4
12/15 (水)

「セルフヒーリング」はプロの治療者はもちろんだが、
医療従事者や他の癒し行為をする人達や、
他人の体に触れてしまう職業の人達も特に必要だ。
(理容・美容師なども相手からの影響を受ける職業だ)
この場合は、それぞれの「プロ」としての基本行為でもある。
(道具の整備をするようなものだが、もっと重要)

長い期間を続けられる事がプロの条件の一つだ。
1年で辞めました、ではプロじゃない。
常時体調を整えてあるのがプロの基本条件の一つだ。
ところが、他人の病(闇)をある程度引き受けてしまう場合、
日頃の体調管理だけでは不十分なのだ。
原因が自分のモノではないからだ。

プロ立場の「セルフヒーリング」は、
もっと積極的なメンテナンス行為となる。
自分を他人と見立てて治療回復をするのだ。
自分を一人のクライアントと同じ扱いをする。
ワシはそうでもないが、これが結構難しいようだ。

セルフヒーリングではあるが、自分一人だけで手に負えない場合もある。
なまじパワーや技術がある人はここでつまづいてしまう。
自分一人だけで何とか乗り切ろうとしてしまうのだ。
孤高の「プロ」は長持ちしない・・・。
「師」がいる事はとても重要だ。

ある日突然能力が付いてしまった人(師がいない)
あるいは・・・トップにいる、と思い込んでしまった人は、
そこから先に「気づき」が無いと、長続きしない。
年数が経つにつれ、不幸な顔になる。
自分が大病・重病になってしまう。
本来は「幸せ」のお手伝い役なのに、
自分が不幸になるようでは、プロじゃないのだ。

「師」を求め、巡り合ったならラッキーだ。
ラッキーが無ければ、運命じゃない。
別な道を歩いた方がいいと思うよ。
「師」は必ず存在するものなんだ。
この世は自分一人の世界じゃないからだ。
自分がトップだと思ったら・・・もう未来は無い。

特にこの職業の場合は「命」がかかっている。
更に大きな存在との通路を維持しておかないと、
メンテナンスは完全じゃない。
「命」は人間界のモノじゃないからだ。

大きな存在を仮に「神様」と名づけた時、
「プロは立派になれ」というわけじゃないようだ。
少なくてもワシの狭い経験と観からは、
立派になると・・・神様は見放す感じがするんだなぁ。
単に優しくなるほうが、双方浄化しやすいと思うよ。
(不マジメでもスケベでも神様は可愛がるが、
立派な人間には興味が無いようだ・・・)

  セルフヒーリング・5
12/16 (木)

質問2はあらゆる「プロ」に共通するテーマを含んでいる。
常時回復状態。常時正常状態。常時冷静状態。
テンションを上げる。
モチベーションを上げる。
これらは表現上使うが、本当のプロは上げない。
(上げたら・・・疲れるし・・・)

表舞台ではそれぞれのポーズもあるが、
裏舞台でメンテナンスにどれだけ重点を置くか、が、
共通する一流(プロ)とそれ以外(プロ風)の違いだ。
(注:ワシは1.5流のプロを目指しているけど・・・)
「セルフヒーリング」は最重要の基本であり、目標でもある。
だから、調整・回復の具体的方法は個性があるものだ。

ワシはそっち方面(回復)の「プロ」だから、
ワシ個人の「セルフヒーリング」が独自にある。
書いてもいいけど、ほとんど参考にならない。
だって、ワシの感覚・観覚がベースになるものね。
手段もワシの「氣」の使い方が独自にある。

ある意味、ワシ等は通常の人の10〜100倍の「病」を受ける。
マトモに溜めるわけにはいかない。
溜めると、コイツ等(病・闇)は勝手に増殖する。
現金なら勝手に増殖してもモンクないが、コイツ等はちと困る。
いちいちモンク言うのもメンドウだから、増殖する前に消えてもらう。
ワシは誰とでも仲良くしたいわけじゃない。

時間がある時は、一人のクライアントが終ったら、すぐする。
無いときは、一日分まとめて、する。
この時間が結構気に入っている。
ワシは相手が変わるのが好きだけど、
セルフヒーリングも好きみたいだ。
ワシの氣功はワシ自身にも「気持ちいい」のだ。

出張する機会が多いから、車の中や電車の中でする。
特殊なポーズをするわけじゃないから変人扱いもない。
濃くすることもできるから、数分でも可能だが、
基本的に「気持ちいい」から、出来るだけ長くする。
時々、寝てしまう・・・・あっ、乗り越しそうだ!

で、ワシは思う。
「こういう段階なら病なんて数分で治るのになぁ」
なんで、大きく育てるんだろうね?
大きくなると正常回復まで、多少時間がかかる。
苦しくならないと、なかなか治そうとしないよね。

「セルフヒーリング」の長所は、自分が最も身近にいる事だ。
レンタカー(肉体)から離れる事は死ぬとき以外にない。
だから、病はいつでも初期で回復行為が可能なんだ。
だだ、しないだけ・・・。ま、いいけど・・・。
日本の医療費問題・健康問題なんて簡単に解決できるけどなぁ。
その代わり・・・職が無くなる人が(医療・健康関係者と企業)
ま、別な職につけばいいことだ(必要な仕事は山ほどある)

  セルフヒーリング・6
12/17 (金)

ワシは根性が全く無いわけじゃないが、
少ないとは思うし、使うのが好きじゃない。
最近流行りのMでもないから(流行っているのか?)
痛い、苦しい、辛い、も好きじゃない。

病(闇)を抱える人達を偉いとは思わないが、
根性や辛抱強さはあると思う。
社会的にマジメで一所懸命働く人は病も多い。
抱え続ける根性があるからだ。
デタラメな社会生活で病を抱える人も、
仕事はダメだが、根性と辛抱強さはあると思う。
仕事や社会生活に活かさないだけで・・・。

ワシはメンドウくさがりやで、根性も少ない。
ちっとも辛抱強くない。
「えっ、もうダメなの? もっと頑張ってよ!」
す、すいません・・・淡白な性格ですから・・・。
だから病(闇)になる前に、処理してしまう。
暗い、苦しい、辛い、痛い時間は嫌なのだ。

そんなワシだから「セルフヒーリング」は欠かせない。
人の生き方は様々だと思う。
苦しい経験を味わって、乗り越えたい人もいるだろう。
痛いのが好きな人だっている。
「も、もっと、イジメテ!」
だから、押し付けるつもりはないが、
病は早めに底から綺麗にしてしまうと、
あまり苦しまなくてすむんだけどなぁ。

仕事もお金も家族も会社も見栄も大切かもしれないが、
常時正常状態の方が効率も気持ちもいいと思うよ。
自分の体の為に、あまりお金をかけたくない人が多い。
社会生活(外側)をキチンとしたがるタイプに多い。
それは、個人の好みだからいいけど、
それなら「セルフヒーリング」はうってつけだと思うよ。

さて、質問3だ。
「氣功で宝くじが当たりますか?」
答え「わからん」

「氣」は不確定要素が多すぎるんだ。
というより、可能性としてはオールマイティなんだ。
「森羅万物現象の元」ともいえるから。
宝くじに当たる「氣」の使用方法はあるだろうが、
今のところ、ワシには扱えないでいる。
(ワシの豚子はくじ運が強いけど、何か要素があるんだろうね)

今までの感触からだと、
ワシ自身に利益はあまり集まらないが、
クライアントがワシの氣功につながっていると、
仕事や会社は、そこそこの幸運はあるようだ。
店は、大繁盛ではないが、まぁ何とかまわる。
(客まねき、にはなるようだ・・・)
それまでより、少し上向き程度ってところかな。
ワシ、控え目だからなぁ・・・。
ワシと離れてしまうと、今の現実の厳しさに直面するみたい。
(事実だけど、この手の話はイヤラシくなるから・・・)

  好運・1
12/18 (土)

あえて「幸」の文字をつかわずに「好運」とした。
ホントの「幸」を判断するには、人は観方が狭すぎる。
一生が限られているし、心があるからだ。
心の容量は結構大きく広く深いものだが、
利用する部分はとても狭い範囲からズームしている。

しかも、心はどんな人もヒネくれているものだ。
「私は真っ直ぐだ!」という人は勘違いしているだけだ。
真っ直ぐなら、心にならない(心の本質は幻だし・・・)
ヒネくれているから、間違うとも限らない。
ヒネくれているから、ホンモノを判断できる場合もある。
ヒネくれている、というのは、あらゆる可能性を秘めている。
心って、ヒネくれがあるから、結構面白いのだ。
だから「人にとって都合の好い」という意味の「好運」だ。

テーマは心の話じゃない。
「氣」から観た「運」の話だ。
昨日の雑記の「氣功で宝くじが当たるか?」の関連だ。
宝くじに当たる事が「幸運」か否かは一概に判断できないが、
金が欲しい人にとっては間違いなく「好運」だろう。
ワシも(幸せでなくても)当たって欲しいと思う・・・。
(というか、好運を幸運に変える事は出来るもんね)

(好)運がついてる、という。
(好)運が巡っている時期という。
でも「運」はゴミじゃないし、霊でもない。
その人に付く、モノじゃないんだ。
エネルギー的なモノでもない。
運は湧き出てくるものだ。

何故「出会い」があるか?
イキナリ、こういう話になってしまう。
この世は「出会いの場」として創られている。
現代風に言えば「ゴーコン?」
(ち、違うような気がするが、未体験なので断言できない)

「出会い」は人と人だけじゃない。
人と人以外の生物。生物と生物以外のモノ。
モノとモノ。時間。空間。
それ以外との出会い。
(例えば、妖怪とか神様とか・・・。
妖怪と神様をあまり区別しないワシは、
とても心が広いと思わないか? 思わないのね・・・)

例えば、人と人が出会う。
例えば、オトコとオナゴが出会う。
すると・・・新たな生命が生まれる。
(いろいろな事を端折ってます・・・)
これは「出会った」から生まれたモノ。

「出会い」で「生命」まで新たに生まれるんだぜ。
「好」になるか「不好」になるかは別として、
「運」が新たに生まれるなんて当たり前だと思わないか?

  好運・2
12/19 (日)

「出会い」から新たな「運」が生まれる。
「好」か「不好」かは判らないが、
「運」は間違いなく発生する。
その「出会い」を「縁」という。

発生してしまった「運」は、
「好」であろうと「不好」であろうと、
その活かし方次第で「幸」にも「不幸」にも変えられる。
「幸せ」は他から一方的に受けるモノじゃない。
自ら変化させるモノなんだ。

つまり「好運」はあっても「幸運」は無いのだ。
「運」は発生しても「幸運」は発生しない。
「好運」や「不好運」を「幸運」に変える事が出来るのだ。
ここを理解していないと、幻に翻弄させられる。

「運」はいつでも発生する。
この世を創ったグレちゃんは太っ腹だ。
「出会い」さえ行えば「生命力」も「運」も恵んでくれる。
どんな人にでも恵んでくれる。
差別や区別をしないのだ。
(というより・・・差別・区別がメンドウなのだと思う)

「生命力」に、ある条件の塊が付随すると「生命」になる。
種の子孫だけでなく、条件次第で、新たな種も発生する。
条件がつかなくても「生命力」は必ず発生する。
(これはワシの仕事である「回復力」に関係する部分なんだ)
病気回復の一つの大きな方法は、誰にでも平等に用意されていた。
グレちゃんって、かなり、優しいと思うよ。

「運」は「出会い」によって必ず発生するが、
「出会う」相手によって、その質が違う。
「氣」は森羅万象の元だから「氣」の質が違うのだ。
というより、振動する部分が違うのだ。
(波動という言葉の方がわかりやすいかもしれない・・・)

「出会う」相手によって影響する「氣」の深さが違う。
深い部分から振動すれば「運」も大きく深い。
この世の現象も大きく影響する。
その人の生き方にも大きく影響する。
単純に好・不好という意味じゃないが、
深ければ、深い「幸」に変える事は出来る。

基本として、この世は「出会い」の場だ。
閉じこもっていては「生命力」も「運」も発生しない。
その「出会い」も「深い出会い」ほど大きく変われるが、
どの相手が「深い」か、一見ではわからない。
だから「出会い」を繰り返すのだ。
(今、流行のゴーコンとは違うと思うけど・・・)

「氣」と「氣」・「波動」と「波動」は、
同周波(同種類)が共鳴するだけじゃない。
類は類を呼ぶが、それだけじゃないんだ。
異周波同士であっても共鳴する。
それは「深さ」に関係しているようだ。

  好運・3
12/20 (月)

人は誰でも同じ大きさの宇宙を持っている。
同じ大きさなので共通という言い方でもいいと思う。
ユングという心理・精神学者は、
無意識の底にあるこの部分を「普遍的集合意識」と名づけた。
誰でも心の底にはとても広い世界が共通してあるのだ。

ワシが、とっても嫌いな卑怯な政治家ジジイとワシは、
残念ながら、同じ世界を共有している・・・。
しかも、活動している部分(「氣」の深さ)は、
「出会い」によって、ワシの同じ部分と共鳴する事さえある。
「朱に交われば紅くなる」とは、そういうことだ。
ワシも政界に入れば、リッパな無責任センセイに変わるかも・・・。
(い、いや、いまでも充分無責任だと思うが、卑怯ではないぞ)

10年前、ワシは故お師匠様と出会った。
お師匠様が活動(振動)している「氣」の部分は、
ワシの中では眠っていた深さだった。
その部分を振動させている人は、とてもマレだと思う。
偉いとか、レベルが高いとかの言い方は違うと思う。
偉人ではなく、異人・変人・奇人・珍人だ。
(ワシの中ではとても偉人だと思っています・・・)

「出会い」と「時期(タイミング)」が重なると、
眠っていた部分が共鳴して、目覚めてしまう事がある。
この10年の間に霧が晴れるように解った事が沢山ある。
今の素質がワシのルーツに備わっていたと知ったのも一つだ。
用意されていたが「出会い」が無ければ目覚めなかった。
その「出会い」も「時期」が熟してなければ、目覚めなかった。

「出会い」により「運」は新たに発生するが、
発生する元(タネ)は誰の中にも用意されている。
最初から誰の中にも備わっている。
現れる時の状況で「好」「不好」はあるが、
「幸」にするか「不幸」にするかは活用次第だ。
まずは「運」を発生させなければ話にならない。

買わない(出会わない)宝くじは当たらない。
買ったからといって、必ず当たるわけじゃない。
(確率論からは絶望的といってもいいのだ)
しかし、買えば券(運)は必ず発生する。
当たるには、どの部分の「運」(券)が来るかだ。
つまり振動する「氣」の深さ(種類・部分)が必要になる。

偶然はこの世には存在しない。
必ず対応する「氣」(波動)が存在する。
でも、わからないし、解明するのがメンドウな時は
「偶然だね!」という(それでいいと思うよ)。

「氣」は柔らかすぎて、確定しない。
「氣」が万物の元となるこの世界。
解らない事は「元氣」と対応する。
解らないことだらけだから、未来に生きられる。

  好運・4
12/21 (火)

今、生きている人は全て「運」がある。
更にいえば、全て「幸運」でさえある。
(死んでいる人に「運」があるかはわからない。
それは死んでから考えればいい事だ)
これは観念論じゃなく単なる「事実」だ。
思える、思えないは個人的だから勝手にしていいけど、
「運」「幸運」が有る事は、現実であり事実だ。

しかし人は「幸運」に気づかず「好運」を求める。
宝くじで大当たりが・・・
ハンサム・優しい・お金持ちのカレシ・・・
大きな仕事が舞い込む・・・
普通のダンナ・・・
(これが幸運だと思う人も・・・ん? ほ、本妻かぁ?)

宝くじを買うお金がある。
売り場に行ける足が動く。
口がきける。
目が見える。
欲しいと思える意識がある。
これらは、すごい恵まれた「運」であり「幸運」だ。

大病を患った人はわかる。
死の淵を彷徨った人はわかる。
今、不自由な体を自覚している人はわかる。
その人達の傍にいる家族達はわかる。
そして
大切な人を失った人達は充分わかる。

生きているだけで「幸運」だ。

ワシは難病・重病の人達と係わる仕事だ。
最後の時に立ち会ってしまう仕事だ。
だから「生きている事」を観てしまう。
生きている意味と価値を感じてしまう。
生きているだけでラッキー(幸運)というのは、
精神論じゃなく、奇跡のような事実だ。

だから安心していい。
自分に都合の好い「好運」を求めているのは、
その事自体がとても「幸運」だ。
好きなだけ「好運」を求めていい。
狭義の精神主義は自制・自省を促すが、
ワシは遠慮せず「好運」を求めるのがいいと思う。

ただし「好運」が叶えられなくても「不幸」じゃない。
「運」が無いわけじゃない。
そこを勘違いしないで次の「好運」を夢見ればいい。
誰でも、どんな状況の人であっても、すでに「幸運」だ。
不幸だと嘆くのは勝手にしていいけど、それは間違いだ。
生きていれば「不幸運」は存在してないのだから。

  好運・5
12/22 (水)

「幸運グッズ」というのがある。
困ったなぁ・・・。
ワシが正直に書くと営業妨害になるのだろうか?
ワシは独善世界を書いているのだから、
本気でモンクを言わないでね・・・。
(口が滑るけど、悪意は無いから・・・)

「持っているだけで幸運がおとずれる」
「宝くじに当たった」
「ベンツの王子様がやって来た」
「パチンコ・競馬が当たりまくり」
これらのうたい文句に騙されるのは、
騙されるほうが愚かだとワシは思う。
社会はこのくらいのウソは常識だから許されている。
TVコマーシャルなど、もっとオーバーだもんね。

「ウソ」って言っちゃったよね・・・。
口が滑りました・・・すいません・・・。
97%くらいは全くのインチキです・・・。
のこりの2.99%くらいは、勘違いです。
(この言い方の方が関係者は怒るかなぁ?)

このほぼ3%は何らかの影響があるんだけど、仕組みが解ってない。
意図的な詐欺ではないけど、これが害になるんだなぁ・・・。
最初からインチキなら害はお金だけだから問題ない。
価値の無いモノなど、資本主義社会ではあふれている。
お金を払って害になるものも巷にはあふれている。
政府公認のタバコだってそうだしねぇ・・・。
だからワシは正義感で書いているわけじゃない。
正義感が無くは無いけど、こんなところに使わない。

「好運」の仕組みは「氣」の共鳴だと書いてきた。
つまりあるレベルの「氣」の深さを振動しているモノは、
確かに「運」に影響を与える事ができる。
ただし「氣」は双方の共鳴だから一方的に影響を与える事はない。
買えば、身に付ければ「好運」が訪れるわけじゃない。

ほぼ3%が何らかの振動していると仮定しても、
本人側の同調する部分は「好運」ではなく「不幸運」だ。
何故なら、「幸」は調和に基づいて訪れるが、
本人が望んでいる事柄は「我欲」の塊だからだ。
「我欲」は「ほのぼの愉しむモノ」であり、
ガチガチの塊にすると「不幸」になる(戦争が象徴だ)。
こんな事ぐらい、社会の常識にしてくれよなぁ・・・。

我欲がいけないわけじゃない。
人間は我欲の部分も含まれて創られている。
グレちゃん(創造主)はイタズラ好きなんだ。
道徳主義の人は「我欲を失くせ」と無理難題を言うが、
我欲は(ほのぼの)愉しむ為にあるんだぜ。

世に言う「幸運グッズ」を身に付けると、不幸になりやすい。
(ほとんどはインチキだから安心してね・・・)
問題をややこしくしているのは、残りの0.01%〜0.0001%だ。
「万が一」「百万が一」というところにホンモノがソッとあるのだ。
ホンモノは少ないから商業的に売られる事はありえない。
冷静に考えれば判る事でしょ。
何らかの「縁」が無いと手には入らない。
(そうでないと双方の同調共鳴が起こらないから・・・)

お金で誰でも買えるグッズは、趣味として楽しんで下さいね。
風水・占い・その他の怪しげな事柄は、
全部がウソじゃないけど、通常ホンモノには出会えない仕組みだよ。

  好運・6
12/23 (木)

「好運グッズ」「お守り」を勘違いしているから、
「氣」の立場から仕組みをもう少し書こうかな。

出会った双方により新たに発生する「運」。
振動(活動)する、ある深さの「氣」よる共鳴作用。
共鳴は増幅作用でもあるから周囲へ影響し、
具象化して状況を変える、あるいは守る。

グッズにパワーが注入されているわけじゃない。
エネルギー発生器じゃないのだ。
「好運エネルギー」や「守りのパワー」の塊じゃない。
中継装置がグッズやお守りになる場合もあるが、
仕組みから観たなら、共鳴形物体となる。
作用する相手と出会わなければ、何も発生しないのだ。

だから運エネルギーが涸渇するような事はない。
何年使っていても減るわけじゃないのだ。
しかしモノも人もいろいろな影響を受ける。
しかも生きている人の「氣」がこの世では最強だ。
それが高度のホンモノのグッズでもお守りでも、
使う人の闇の影響からくすんで(変化して)しまう事はある。
上手く同調していれば、半永久的にも作用する。

例えれば・・・触媒のようなものだ。
触媒は新たな化学変化を起こさせるが、
触媒自体は何も変化しないし、減らないのだ。
しかし触媒が無ければ、新たな変化(運)は生まれない。
触媒(好運グッズ)だけ揃っても、
呼応するモノ(ある深さの氣)が無ければ、
新たな変化(好運)は起こらない。

好運グッズじゃないけれど、その作用が強い人がいる。
昔からいわれる「アゲ○ン」「アゲチ○」もそうだ。
誰にでも作用するわけじゃないし、
その本人自体が特別「好運」の持ち主でもない。
ある相手と出会うと「好運」が発生する組み合わせがある。
出会えたら、ラッキーだよね。

残念ながら、その逆のケースも多々ある。
出会ったばかりに転落の道を歩む場合もある。
男女間ばかりじゃない。
ある政治家が最高位になったら(出会ったら)、
「転落の運」や「不幸の運」を発生する事もある。
しかも世界規模で発生する事もある。
最近の日本や世界を観ていると、
「不幸(不調和)運」を発生させている政治家が多すぎる。
支えているのは、善良(考え無し)の国民達なのだが・・・。

「好運」の仕組みを観てみると面白い。
この世が多種多様なモノ達が存在していて、
出会う相手により新たな変化を起こす。
しかも基本となるのは相手ではなく、自分側だ。
自分のどの部分(氣の深さ)を振動(活動)しているかに、
自分とこの世の変化がかかっている。
世界の中心に、自分の「氣」の深さがある。

  年の瀬04・1
12/24 (金)

冬至も過ぎて陽の時が増えている。
闇(病)と陽(光)は敵対するものではないが、
ほとんどの生物は陽が好きなように創られている。
少数派だが嫌明性の生物もいる。
ドラキュラとかゴキブリとか幽霊とか泥棒とか・・・。

ワシはヘソ曲がりだから少数派にヒイキしがちだが、
陽に関しては多数派に属し、積極的に応援する。
闇(病)に光を流し込むのが仕事だしねぇ・・・。
残念ながら、ドラキュラやゴキブリは依頼してこない。
ワシ、闇の者達から嫌われているみたい・・・。

でも幽霊は依頼してくる場合がある。
(まだ拗ねている最中の霊は近寄って来ないが)
幽霊の本心は明るくなりたいようだ・・・。
いつでもいらっしゃい。
治療に関してはワシは相手を差別しないが、
幽霊の欠点は治療費を持って来ない・・・。
でも変わりたいのなら、引き受けるよ。
ワシは「来るもの拒まず、猿は追わず」

今夜はクリスマスイブ。
約2000年前の24日夜から25日にかけて、
「氣」に敏感な人達は心地よい動揺を感じていた。
何か、明るいモノが出現する・・・。
後に魅力的なオッサンに変身するキリちゃんは、
闇に大きな光を射し込んだ一人となる。

キリちゃんは魅力的な光を広めたが、
キリちゃんを教祖とした教会と信者達はそれほどでもない。
心の広さを示したキリちゃんに比べ、
信者達は教会の教え(キリちゃんの教えじゃない)を守り、
ますます心の狭い狭徒(教徒)となった。

「お〜、いいぞぉ。何でも許しちゃえ〜」
そう言ったキリちゃんなのに、信者達は違った。
「アレしちゃダメ! ソレをしなくちゃダメ!」
そんな事ばかり言って、関係者以外幸せになると思う?
関係者は満足かもしれないが、幸せの顔じゃない。
作り笑顔は・・・無理が表れている。

アフガン・イラクで赤ちゃん・子供・一般市民の上に
平気で爆弾を落としたのは、敬虔な教会信者達なんだ。
狂った大統領を支えているのは「愛と正義」を売り物にした、
信者という名の狭徒達なんだ。(事実でしょ)
狭徒は自分の判断を放棄したから狂徒となり、
キリちゃん信者以外からは凶徒となる。
キリちゃんが正義の為という名目の戦争を支持すると思う?

クリスマスイブに喧嘩を売るつもりはないが、
キリちゃんの教えを最も守らないし理解していないのが、
キリスト教会とその信者達だというのは・・・
まあ、よくある話か・・・・。
でも今夜も戦争で苦しんでいる人達が事実いるのだ。

回教徒は邪教か? 
民主主義以外は殺してもいいという教えか?
反論は聞かないよ。
反論するヒマがあれば、戦争を止めなよ。
こんなに長い間、正常な判断が出来ないのなら、
ワシの乱暴な書き方も訂正しないぞ。

  年の瀬04・2
12/25 (土)

今日はキリちゃん生誕祝祭日。
昨日の雑記はキリスト教関係者には、
辛辣な内容だったかもしれない。
(ワシは友人・知人にも信者がいる。
個人的に素敵な人達だからこそ書いている)
クリスマスという祝祭日だからこそ、
信者はキリちゃんが示した真意を見詰め直してほしい。

(教会の教えに)マジメで善良な行いをし、
道徳的規律を正しく守るのは個人の勝手だが、
他に押し付け広める事を望んだのはキリちゃんじゃない。
それは組織(教会)関係者の野望だ。

「隣人を愛してね。それだけで世界から苦しみが軽減する」
こんなにも深い言葉を理解していないのは、
残念ながら、多くの教会信者なんだなぁ。
もちろん信者の中にも理解し行う人はいる。
ワシがとても尊敬しているマザー・テレサ様もその一人だ。

「キリストの教えを広めよう」
これはキリちゃんの望みじゃない。
「世界から苦しみを少なくしたい」
(無くしたい、は無理だと思う)
ブッちゃんもその他の超偉人達も動機は同じだ。

キリちゃんは心がとても広いから、
信者も信者以外も差別しないだろうが、
(教会関係者はとても差別したがる・・・)
信者は少し困った人達だなぁ、と思っているよ。

「クリスマスは彼女と高級ホテルに泊まる日」
そんなワ(バ?)カモノには微笑むキリちゃんでも、
「イエス様を信じているから、七面鳥をたらふく食える」
暖かい暖炉の前で本気で祈る敬虔な信者には笑顔が曇るんだ。
「私の言う意味が解ってねぇなぁ・・・
信じる、信じないなんてどうでもいいから他に優しくしてくれ。
誤解を広められるのは、あまりいい気持ちじゃない・・・」

ワシは個人的にキリちゃんが好きだ。
(身だしなみに気を使わない)あのだらしない格好も、
(見かけや地位で)相手を区別しないモノグサな性格も、
裏切り者にさえ優しく接するお人好しさも、
超偉人に共通のモノがある。

言った言葉が幾つ正確に残っているかわからないけど、
聖書に書かれている言葉の裏からは、とても深い愛情を感じる。
だけど、教会や信者の解説は間違いが多いと思う。
自分の評判なんてどうでもいいから、苦しみを少なくしたい。
だから磔まで引き受けたキリちゃんの生き方を理解してない。
信者や勢力を広める事なんて、キリちゃんの教えに反している。

苦しみの少ない平和な世界に人類が貢献できるには、
宗教心はとても大切な智慧を内臓している。
だけど、宗教組織や一つの宗教を頑なに信じる信者は、
苦しみを増やし、争いの世界を継続しているんだ。

メリークリスマス!
(キリちゃん! 言いたい事を代わりに書いたぞ! 
褒美に○○をプレゼントしてくれぇ〜)

  年の瀬04・3
12/26 (日)

クリスマスの雑記が気分良く書けなかった。
あれじゃあクリスマスプレゼントにならないね。
メリークリスマスだから世界中のキリスト教信者が、
「隣人を愛してね。」
「右の頬を打たれたら、最良の解決方法は左の頬を出すんだよ」
と、叡智の塊のような言葉を理解してくれたら戦争は無くなる。
戦争は一日もかからず、たちまち消えるんだ。
それが世界中に配られるクリスマスプレゼントだ。

生きていれば苦しみは必ずある。
「生老病死」に係わる苦しみは誰にでもある。
でも、戦争で生まれる苦しみは無くす事ができる。
戦争を無くせばいいのだから。
それが本来ならキリスト教信者には出来るのに・・・。
クリスマスプレゼントは神様が信者にくれるのじゃないぜ。
信者が無償(見返り無し)で世界に配るモノだ。

頑なな思い入れや忠誠心は争いを生む事を知ってほしい。
それをキリちゃんは「右の頬を・・・」と示したのに。
○○教を理解しなくてもいいから、その真髄は理解してくれ。
せっかくのキリちゃんの生誕祝日だ。
キリスト信者じゃなくても祝えるし尊敬もできる。
キリちゃんの望みは「世界のやすらぎ」だ。
戦争下での苦しみの波動は、自己中のワシでさえ辛い。

クリスマス関係はこのくらいにして話は変わる。
ワシは「反省」を薦めない。
むしろ「反省はしないほうがいい」と薦める。
反省で未来を明るく出来る人は心のコントロールが出来る人だ。
そんな人は少数派だ。

反省すると(闇・暗に)落ち込んだり、
心を捻じ曲げたり、誤魔化したり、無理をしたりで、
ほとんどの人の未来は回復してくれないのだ。
回復は明るい方向にしか置いてないモノなのだ。

年末になると一年を振り返って「反省」する人が多い。
ときどき振り返るのはいい。
元気の元に振り返るのなら、なおさらいい。
笑顔を取り戻す振り返り方なら、とてもいい。
だけど「反省」は嫌な事柄に照準を当て振り返る。

年末だもの、一年を振り返るのなら、いい事に照準しよう。
ワシもいい事が沢山あった。
あんな事やそんな事もあった。
とてもこんな事は書けないほど、いい事があった。

いろいろな事がもちろん、あったが、
いい事探しもキリがない。
誰にでも思っている以上にあるものなのだが、
嫌な事や辛い事や悲しい事を振り返る癖がついていると、
せっかく体験したいい事が見つけられない。

「いい事」は、この年末に、
ご主人様(アナタ)に、もう一度見つけてもらいたくて、
(見えない)尻尾をふっている。

  年の瀬04・4
12/27 (月)

「いい事」を振り返ると嬉しくなる。
「お世話になった事」を振り返ると温かくなる。
お世話になった事は人の温もりが込められているからだ。
心や体が冷たい時は、いつでも振り返ればいい。

ワシの体、特に手は特殊な温かさを持っているが、
(物理的にも通常の人間より高い温度だ)
それはワシの温かさじゃないからだ。
ワシ自身なんて、結構冷たい。
クールガイ、と呼んでくれ!(誰だ!爆笑しているのは!!)

ワシはワシだが、手は「ワシの手」と「手様」がいる。
自由に入れ替わる能力が仕事(氣功師)でもある。
だから「手様」がどんなに立派な能力や温かさでも、
ワシは普通(以下)のオッサンのままなのだ。
(ハッタリが出来れば商売になるのに・・・
何しろ、普通以下の根性と、気ままな生き方を選んだ)

「手様」はかなり優秀だが、優秀なモノはオッチョコチョイが多い。
「手様」も間違ってワシに張り付いたが、
モノグサな性格でもあったようで、そのまま居ついている。
さらに「手様」は人間じゃないから「お金」を必要としない。
ワシに借家しているのに家賃を払う事すら思いつかないようだ。

ワシは「流される人生」を自ら選んでいるので、
金に不足して窮屈な生活でも、まぁ、いいか、と。
でも年末になると、人間界はアチコチへ支払いがあるのだ。
だからワシも無駄と知りつつ「手様」に言う。
「おい!たまには家賃払えよ!」
(聞こえないフリをしている。ネコみたいなヤツだ)

とはいえ「手様」が居ついて、いい事も沢山ある。
本当はワシがお世話になっているのに、
クライアントは「手様」と「ワシ」が同じだと思っている。
(まぁ、通常は当たり前だよねぇ・・・)
ワシに(勘違いして)感謝してくれる。
ワシも「役得」だと思って、いちいち関係を説明しない。
(しても理解してくれないし、謙遜だと更に勘違いするし)

「感謝」はする方にも、される方にも同時に力が働く。
「生命力」がプラスされるのだ。
具体的な感覚としては「温かく」なる。
ワシの体は(手を除いても)結構温かい。
「手様」のお陰でもある。

「役得」はまだある。
何しろワシの手に付いている。
ワシ自身を直接温める事が常時可能だ。
無料働きをいつでもさせている。

「手様」はエネルギー体ではなく、
エネルギー中継体なので、働くほど喜ぶ。
マゾみたいなヤツなのだ。
(エネルギー体だと、使うと消耗するが、
中継体は使う事で活性化するのだ)

一年を振り返って、たまには「手様」に感謝するか。
チュ!
「手様」が(生意気にも)嫌がった・・・。
オッサンのキスは苦手らしい(ワシと同じだ)
ラッキー!
手様の弱点を見つけたので、ワシが威張れるぞ。
来年は脅して、別な力を使ってやる。
(例えば、あんな事をさせるとか・・・)

  年の瀬04・5
12/28 (火)

本来なら年の瀬はワクワクする時だ。
新しいモノが近づくのはワクワクする。
新車・新築・新妻・新会社・新事業。
新年が近づく年の瀬は、忙しさの中にワクワクがある。

ところが「生命力」が低下していると、
新しいモノが「不安」に思えてしまう。
新車、新築の支払いをどうししょう。
新妻はいつ鬼妻に変わるのだろう。
新会社に入るのが怖い。
社会に出るのが怖い。
学校に行くのが嫌だ。

心の閉じこもりは不安からだ。
不安の原因は心の中にあるのじゃない。
そこを勘違いして対応しているから、
いつまでたっても治らない。
「生命力」の低下か不調和が原因なんだ。

状況が変わらなくてもいい。
過去を振り返らなくてもいい。
「生命力」を上げてしまえば勝手に治る。
上げる方法も幾つもある。
それを実践、指導する人が少ないだけだ。

今、日本全体の生命力が低下している。
その上に住む日本人の多くが影響を受けている。
会社も地域も学校も影響を受けて低下している。
個々の分析をしても、回復は出来ない。
分析ばかりしているこの20年間を振り返れば、
ほとんど役に立たなかった事は、事実としてある。

もう今までの概念や方法では行き詰っている。
「病気」になって耳を傾ける。
「苦しく」なって目を向ける。
今度の新しい年は、新しい概念を取り込む年だろう。

故お師匠様が言っていた。
「21世紀は「氣」を正面から応用する時代だ」
ワシは今になってわかる。
2000年になってすぐ切り替わるわけじゃない。
「病気」や「苦しみ」は新しい時代への前触れだ。

来年からは「氣」の取り入れの年になってくる。
(海外では、もうすでに多くの分野で取り入れている。
日本は医学も他の分野もとても遅れているのだ。
ハード機器は進んでいても、概念が古いから意味がない)

お〜!
ワシも飛び出す年が近づいてきたかぁ。
自画自賛、独善ではあるけれど、
年の瀬がワクワクしてきたなぁ。

  年の瀬04・6
12/29 (水)

02年12月のコラムにも書いたが、
「始まり」はいつが始まりか?
(龍村道場にて伊藤真愚先生から学びましたが、
次の世界へ旅立たれました。
直接教わる機会に恵まれて幸運でした。感謝・合掌 )
一日の始まり、一年の始まり、新しい生活の始まり。
始まった時が、始まりじゃない。

この「気づき」も深さがある。
深さによって「観」が変わる。
一日の始まりは「気持ちのいい一日」でなければ意味がない。
ただ漠然と生きていては意味がない。
(うっ・・・何故か、み、耳が、痛い・・・)

(ワシ流では)立派に生きろ、というわけじゃない。
何か生きてきた証を作れ、というわけでもない。
(そういう激励に導く話が多いけど、ワシ流じゃない)
一生は「気持ちよく生きて」こそ意味がある。
一日は「気持ちいい一日」が過ごしたいのだ。

だから「始まる前の過ごし方」で「始まり」が変わる。
例えるなら、前夜を徹夜して朝を迎えても、
あるいは、酒を飲みすぎて二日酔いで次の日を迎えても、
気持ちのいい一日とはならない。
一日の始まりは、イキナリ始まるのではない。

ならば一年の始まり、新年は、すでに始まっている。
「年の瀬」は新年のポイント(分岐点)を握っている。
それは個々の意識状態。
来年は更に「気持ちのいい」一年になると、
ワクワクしながら待ち望んでいる場合と、
今の不満や未来の不安を持ち続けている場合とでは、
実際の未来が変わってくるのだ。
未来は確定していない。
(確定部分もあるが、不確定幅があるのだ)

一日24時間が、僅か前夜の数時間で左右するように、
一年間が「年の瀬」の数日間で左右する場合がある。
「年の瀬」は想像以上に未来に大きな影響力を備えている。
もちろん「年の瀬」だけで一年が決まるわけじゃないが、
ある程度の期間を凝縮し、影響を与えるのも間違いないぞ。

簡単だろ?
「来年は更にいい事が待っている(かも?)」
「来年は更に飛躍するぞ!」
「何でもド〜ンと来い!」
そんな意識で迎えるだけで、事実が違ってしまうのだ。

この学びには、更に深い「気づき」があった。
ワシは「風に流される生き方」を好んでいた。
次の日の準備(意識)をするよりも、
出たとこ勝負!のイイカゲンな生き方でいた。
一見、この学びと矛盾するようだが、
最近になって、この学びの深さと一致したのだ。

  年の瀬04・7
12/30 (木)

「風に流される生き方」
人によってこのとらえ方が違うだろう。
単なる根性無し(うっ、当たってる・・・)
単なるメンドウクサガリ屋(同上・・・)
でもね、それだけでも無いんだなぁ・・・。

ワシは人生は自分で切り開くものだと思っている。
足は自分以外の力でも歩かされる事があるが、
息をするのは自分だけだから、
生きているのも自分からの力で生きている。
深く観れば「息」も「生き」も与えられているから、
生かされている、という言い方が適している。
与えられているが、管理者は自分なのだ。

この仕事をするようになって、
多くの「生きる」部分を観てきた。
生きようとする力を観てきた。
その力は人に属しているとはいえ、
人以外の大いなるモノからだと感じてきた。

最適な回復法や健康法を求め伝えるのは、
ワシの(プロとしての)仕事だ。
世の中の常識や道徳などと相反する事も多いが、
プロの治療者や指導者とはそんなもんだ。
世に迎合する方法は(プロ)商人の方法であり、
職人のプロじゃない(治療者などは職人型だ)。

最適な方法は幾つもある。
その人にとっての最適だから、同一ではないが、
「生き方」と深く連動しているは共通している。
独立した回復法や健康法では、一時しのぎにしかならない。
生活の中、暮らしの中、生命の中に溶け込んでこそ最適になる。

「生き方」はいろいろだ。人生イロイロ。
でも「回復・健康に適した生き方」は幾つも無い。
多くの場合は「自然体」が最適になる。
でも、これが通常は難しいようだ。

社会は「余計な力を使って」成り立っている。
力を入れるほど社会的評価や経済が高まる仕組みだ。
その癖が「生き方」にまで及んでいるのだ。
社会と個人の生き方は別にしなければ病むのに・・・。
ワシのように、社会的生き方をアキラメた場合は、
体や心は楽だけど、生活は苦しくなる。

「風に流される生き方」は
根性無しだけの理由じゃないのだよ。
ワシの「氣功状態」が「自然体」からだから、
24時間の氣功師を目指すには、
常時自然体で生きたいのだ。
目指せ!常時、根性無し!(そ、そうかぁ?)

故伊藤真愚先生の教えの「前夜からの始まり」は
この「流される生き方」状態が最適な行動をとるのだ。
無理の無い生き方は、よりよい未来を創りだす。
ヘタな準備よりも「力の抜けた日々」が最良かもよ。

  2004・感謝日
12/31 (金)

今日まで来られた。
ありがとう。
誰に対してだか、何に対してだか、
ますます、わからなくなってきた。
よくわからんが、感謝はできるし、したい。
ありがとう。

温かい体になってから、
少し涙もろくなった。
競争社会では「負け組」を選ぶワシだ。
「勝ち組」に成りたいとは思わない。
だから温かい体でいられる。
温かい何かを感じる事ができる。
ありがたい。

ワガママになったのだか、
自由になったのだか、
力が抜けるようになったのだか、
単に年老いたのか、判らないが、
ストレートで生きられるようになった。
ありがたい。

好きな相手に好きと言える。
ありがたい。
嫌いな相手と縁が切れる。
ありがたい。
愛しい相手に愛しくできる。
苦しい時には愚痴が言える。
嬉しくなると、笑顔になる。

目が見える。
見えないモノを感じられる。
聞こえる。話せる。歩ける。
恵まれている事を感じている。
何者かに抱かれていると確信できる。

何度も「ありがとう」と言われた。
そうじゃない。
こちらこそが、
ありがとう。
でも、そこは理解してくれないよね。

メチャクチャでモノグサなワシが、
崖っぷちの仕事を10年続けてきた事に、
今までは、自分で自分を褒めていたが、
どうやら勘違いをしていたようだ。

生きていられたのは、ワシの素質じゃない。
理屈じゃなく、そう思えるようになった。
ワシのイイカゲンだけでは乗り切れなかったはず。
生きていても、大ダメージを負ったはず。
危ない場面でも、回復は早かった。
氣功師としての能力の高さでもない。
ただ単に守られていただけだったと、
今、わかる。

守ってくれたモノは一つじゃない。
何人かの人。
何らかのモノ。
人以外の存在達が複合一してくれたのが、
今になって、わかる。

ありがとうございました。
嬉しいです。
とても、嬉しいです。

    翌月コラム(コラム3)へ      コラム2目次に戻る