12/01 (水)
もっと「愉しみたい」からしている。
「純粋に愉しみたい」からしている。
その部分を進んでいると・・・
自由気ままな姿になる。
「ボランティア」を「奉仕」と訳すから、
そこに様々なモノが入り込む。
入り込むほど、重くなる。
同じ音でも「胞子」なんだと思うよ。
風に吹かれ、気ままに漂う「胞子」の姿。
以前にも御筆先様が「奉仕」について書いた。
「初期段階・他への行いは自己の気づき」
「奉仕には感謝が付きものだが、奉仕する側が感謝だ。
させていただくのは、こちら側の勝手な行為だから。」
気づきを受け取るのも、奉仕をする側なんだから、
出来れば、お金を払ってもいいくらいなのだ。
義務感や正義感や道徳感や憐憫感からでは「奉仕」にならないが、
この「胞子」なら、楽で温かい社会になりそうだ。
今までの社会常識って・・・変だと思わないか?
もう一つの表現の仕方がある。
「ボランティアは趣味」
これも一所懸命している人達からはモンクが出そう・・・。
マジメな人達は「場」が読めない欠点があるね。
「正しさ」にこだわると、息はつまりやすいんだ。
「楽」になるには「楽な場(雰囲気)」が必要なんだなぁ。
「心」はウソがつける。
「感情」も「理性」も芝居ができる。
「行い」もゴマカシがきく。
作り笑顔も声もできる。
だけど「氣」はウソがつけないし、誤魔化せない。
自分が愉しくなけりゃ誤魔化すしかないね。
それじゃあ、どんな行為も「奉仕」にならない。
社会的な評価はあるかもしれないけど、
相手と自分が愉しく変わってしまうのでなければ、
それは「建前立派な社会」しか作れない。
立派はねぇ・・・疲れるんだ・・・。
「好き」だから行う事を「趣味」というんだ。
そこには、どんな理由をつけても「好き」なだけだ。
だから、結果がどうであろうともガッカリはない。
次に続くんだ。いつまでも。
誰に云われるわけでもない。
他人の評価は関係ない。
金が無けりゃ、工夫するだけだ。
とにかく、することは愉しいしね。 |