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  May
05/01 (土)

日本は五月を皐月(さつき)といい
四月の「いのち」の卯月(うづき)を受け
さらに成長させる意味がある
同じ意味が英語のMayだ
繁殖や成長を司る女神
「マイア(Maia)に捧げる月」が語源だ

ワシにも女神様がいる
ヒュギエイアという名だ
会った事は無い
女神は何かを司る神様だ
ヒュギエイアさまは「健康神」だ

医学の神様はイムホテップ
ギリシャ神話ではアスクレビオス
でもワシの目指す方向は医療じゃない
「いのちの健康」が道の先にある

「いのち」は「美」だぜ
その健康女神さまなら・・・
見方によるだろうが
美を司る女神のビーナスより
ワシにとっては魅力的だ

詳しくはしらないがそう考えると
この五月の女神のマイアさまは
ヒュギエイアさまと親戚かもしれないなぁ

これだけ想っているのだから
たまには会いに来てくれてもいいと思う
一度くらい
触らせてくててもいいと思うがなぁ

  少食@
05/02 (日)

微食から少食になった
とはいえ、主食類の炭水化物
動物性タンパク類
その他のオカズ類・お菓子類
ジュース・コーヒーも摂らない

今まで野菜と海藻のスープと玄米茶だけだが
その煮込む野菜の量が多くなった
全て微塵切りなのだが(梅干も入れる)
お椀一杯でも結構満足する内容だ
少しづつ口に入れるて、ゆっくり咀嚼すると
とても美味しくて、満足するのだ

これなら何日でも続けられる
何日でも続けよう
そう思っていたのに・・・

美味しそうなコゴミが届いた
ウドが届いた
ワラビが届いた
本妻「どうする? 食べる?」
ワシ「た、食べたい・・・」

こうして山菜だけではあるが
スープ以外に食べたのだ
ワラビの辛子醤油
ワラビの油炒め
ウドの煮付け
アクの少ないコゴミは軽く茹でただけ
もちろん、少量づつ口にいれ
充分咀嚼して味わう
格別に美味しい

ワシは生き方として
「誘惑にはできるだけ負ける」
「誘惑には乗ろう」
「誘惑は味わおう」
「のめり込むのはメンドウだから遠慮する」
としている

どうやら、まだまだ誘惑はありそうだ
だから少食にしておいて
ある程度のモノを食べられる状態にしておく

それにしても
5日目だな

  少食A
05/03 (月)

次の誘惑があった
美味しそうなダブルシュークリームの差し入れだ
誘惑には負けるのがワシ流の哲学だ
でも誘惑に乗るにも今回は準備がいる

絶食・微食間は精製砂糖類は摂らない
甘いモノは精製砂糖類以外のモノで摂る
ケーキを食べるのなら
体を慣らさなくてはならないのだ
この状態でイキナリ体に入れると
「生命力」は弱くなってしまう

実はタイミングよく実家から貰ったモノがあった
「金時豆の甘露煮」
これを最初は一口食べる
時間をおいて、また食べる
う〜美味しいなぁ
こうして体を優しく砂糖と慣らすのだ
豆は微食・少食にも適しているし
「生命力」の塊でもある

和風の甘味類は洋風に比べ、牛乳・バターなどの
油脂類を使わない分、体に優しい
しかも、お茶と充分適している
これも、慣らすのにはありがたい
(洋甘味類は油脂が強いので
コーヒー・紅茶の刺激とマッチする)

もちろん環境によって体の適する食は変わる
チベットなどで普通に飲まれるバター茶は
ミルク・バター・お茶・砂糖・塩が
それぞれ、かなり濃厚でミックスされている
それで、そこの体には適しているのだ

以前にチベット仏教大学でご馳走になった
チベット伝統菓子とバター茶が甦る
あまり美味しくないと言う人が多かったが
ワシは美味しかった
多分、食べ方の違いと
意識の持ち方の違いだろう
基本的に一口を少しにして
充分咀嚼して味わえば
大抵は美味しいモノなのだ

コーヒーもイキナリは刺激が強すぎるので
かなり薄めにして少しづつにしよう

こうして準備が出来たら
誘惑に乗るのは
とても愉しい事なんだ
いつも以上の幸せ感が味わえるのだ

どうだ
ケーキ一つ食べるのに
それまでの数倍の美味しさを味わい
とても幸せを感じる事ができるんだぜ
うらやましいだろう

  少食B
05/04 (火)

なんだかんだで7日目だ
アツアツご飯に納豆
アツアツご飯にタラコ
アツアツご飯に焼き魚
そういうモノが食べたいと思ったのは
(特に強く思ったわけじゃないが)
3日目ぐらいがピークかもしれない

ワシは飢餓感が少ない体質のようだ
食べ物だけじゃないかもしれないが
特別困るほどの飢餓感は無い
「命が無くなるわけじゃないし・・・」
と大抵の事は過ごせていける

これはワシのダラシ無さでもある
「強い欲」は行動の原動力にもなる
それが薄いと、形になりにくい
ワシが会社員だったら
出世はしないだろう・・・多分
経営者なら、大きく伸びないだろう
好きな事と一致した時のみ
伸びるかもしれないが
これって・・・ワガママでもあるよなぁ

といって禁欲主義じゃない
むしろ、その反対側に近い
「欲は愉しむモノ」だと思っている
「いけない事」は適当に「する」方だ
だから厳格な絶食もしない

ガマンは適当にするなら
体や心や精神が進化(自由)するが
ガマンしすぎると
悪影響の方が大きくなる
体も心も精神もヒネクレたり
萎縮したり、壊れたりするのだ

今日は87歳の母が「草もち」を作るというから
それを食べられるように調整しておこう
これがまた美味しいのだ

それにしても
ウェストは細くなったなぁ

  子供の日
05/05 (水)

「子供」と「大人」の境は基準によって違う
行政上では生まれてからの年齢で線引きをする
自動的に「子供」は二十年経てば「大人」になる
一番意味の無い線引きでもあるし
一番判りやすい線引きでもある

「一人前」が「大人」の仲間入りなら
その「一人前」の基準が問題となる
身体的には「妊娠できる事」かもしれないが
これも絶対条件じゃない

「経済的に独立できる事」も
赤ちゃんタレントだっているしねぇ
だから絶対条件じゃない

精神的に・・・なんていうと
精神を計る事が人間には出来ないから
これも無理だね

生き方として
「親や他の人のメンドウを背負える」
これも側面としてならあるかもしれないが
無人島なら・・・絶対条件じゃないし

「子供」と「大人」の境が解らないのなら
「子供も大人も無い」という観方もある
いるのは「生きとし、生ける仲間」

あるいは・・・
誰が「大人」になっているかどうか解らないが
誰でも「子供」だったのは間違いない
だから
全員が「子供」であるという観方はできる

そして
「子供」より「大人」の方が進化していると
錯覚した固定概念を持っているが
明らかに「子供の時」の方が未来がある
夢がある
希望がある

夢や希望や未来がある方が
「優れている」のも間違いないだろう

そう
「子供の日」は
誰でも
明るい未来を夢見る意識に
戻る日かもしれない

  「氣流」と「血流」@
05/06 (木)

「氣流」と「血流」の関係
これはワシ流の解説だ
だから、どの人からも、どの本からとも違う

「氣」の解説は一つだけが正解であり
正確であり、真実というのは無理があると思う
人間が理解できる範囲を超えている部分が多い
だから観る角度で違う(別の)解説をし
その全てを取り入れてホリスティック(全的)に
理解しないと、狭い「氣」のとらえ方になってしまう

体の機能が不調だと特に末端が冷える場合が多い
(自立神経不調の場合は熱くなる時もある)
通常「氣功療法」をすると体は温かくなるから
その違いは感覚として本人が充分認識できる

何故「温かくなる」のか?

「氣の通りが良くなって血の巡りが良くなる」
と今までの解説などではいわれてきた
中医学では「氣の道は血の道を通る」
とさえいわれていた
これが間違いだとは思わないが
ワシは「その場合もあるが、別の場合もある」
と確信している

この「氣」というのは「いいかげんなヤツ」で
「意識するように働く」のだ
主体性が無い
個性が無い
「アタシ(氣)の人生、他人まかせ」
「アナタ色に染まるわ」
だから
「氣は血の道を通る」という固定概念下では
「血の道」しか通らない
律儀というより、何も考えてないのだ

「氣はツボから入って経絡通りに進む」
そう信じている場合はツボからしか入らない
故お師匠様のように
「何処からだって入る」と思っていれば
何処からだって「氣」は入る

ワシのように
「勝手に最良の方法と働きをしてくれる」
と思っていれば
「氣」は何とか考えて勝手に最良の働きをする

「氣の仕組み」は「この世の仕組み」と
全く同じだとワシは思っているのだ

何故温かくなるのか?
ワシ流の解説
ワシ流の表現は
世界の常識をひっくり返す
(いや、それほどのモンじゃないけど・・・)

  「氣流」と「血流」A
05/07 (金)

「氣」は空間を超えて働く
これは遠隔氣功でサーモグラフィや
脳波計やその他の体の変化を検査して
「何故だか解明できないが、変化した」
と証明されている

数メートルの距離じゃなく
何千メートルの距離でも変化は起こる
地球の裏側でも「氣」は届く
しかも一瞬にして届く

「氣」が電波のように空を飛ぶのか
それ以外の伝導方法によるのか
(故関英男先生は「念波」と言った)
あるいは
ワシの解説のように「次元を超える」のか
まだ証明はされていない

「氣」の(いいかげんな)性格から考えると
電波と思っている人の前では電波のように
念波と思っている人の前では念波のように
次元を超えると思っている人の前では
(次元って何だか解らないながらも)
次元を超えて働くのだと思う

だとすると・・・たかが体の中など
「血の道」や「経絡」など無視しても伝わるだろう
(こだわる人の前では無視しないだろうけど)

確かに血流は良くなる
これは事実だ
でも「氣」が力学的なエネルギーとして
直接血流を良くしたのでは無いと思う
(ここが「氣」の解説の難しさだ
直接エネルギー的に働くと思っている人の前では
直接エネルギー的に働くだろうし・・・
解説がやりにくいなぁ・・・)

ワシ流の「氣功療法」は刺激療法じゃない
ワシが言いたい事は
物理的に働かなくても
物理的変化は起こる、という事なんだ

モノの解説には
「方便(ウソ)」
「例え話」
「科学的証拠」などがあるが
最高なのは
「いいかげん」なんだ
最低というか
最狭なのが「科学的」という方法

真実を伝えようとする聖書や法書は
「方便」か「例え話」を使った

ワシはもちろん最高な
「いいかげん」で話す

  「氣流」と「血流」B
05/08 (土)

体には80兆の細胞がある
(たいてい60兆としているが
ワシは80兆あると思う)
その一つ一つの細胞にも意識があり意思がある
この事についてはワシ独自の考えじゃなく
かつて手塚師がコスモシステムとして指摘したし
足立郁朗氏が宇宙からの直観(直感じゃない)
で情報を得た原子の仕組み
「中性子は意識」
「陽子は意思」と発表している
(ちなみに、中性子は調和
陽子は愛ともいう)

おおざっぱに話そう
「氣」はツボや経絡を通らなくても
血の道(血管)を通らなくても各細胞に直接届く
共鳴するといってもいい
「氣」は共鳴するとエネルギーをも生む
ドラえもんの「どこでもドア」のようなものだ

細胞A「お〜、シビれるぜ、この感触!」
細胞B「腹の底からやる気が出るなぁ」
(細胞にも腹があるらしい・・・)
細胞C「どや? 血細胞を呼んでパーティするか?」
細胞D「賛成じゃ!」
こうして細胞側から血流を呼んだ
そして愉しくダンスなどをしているから
その場は熱くなる
体は温かくなる

ワシの常識外の画期的指摘がお解りだろうか?
@ 力学エネルギーで血流を良くしたのではない
A 細胞自ら「やる気」になった
B 細胞側から血を動かした
C 細胞と血のパーティ(交換・調和)により
体全体が活性化して温かくなった

各細胞はそれぞれの役目があり
血はその細胞にメシ(栄養と酸素など)を運び
ゴミ(老廃物とリサイクル品)を受け取る
細胞と血の交流が上手くいって体は活性化する

交流が上手くいく決め手は
どんな場合でも「愉しさ」なんだなぁ
だから氣功療法は
「気持ちいい」のだ

  「氣流」と「血流」C
05/09 (日)

「血液がサラサラになって血流が良くなる」
と、うたい文句にして
ある種の食べ物をアピールする

うたい文句は強調文句だから
言葉通りに受け取るわけにもいかないが
食べ物によって血流は変わる
ごく当たり前の事なんだが
血流写真などを見せられると
「お〜! こ、これは、スゴイ!」
などと簡単に驚く
ちょっと濾過した水を飲んでも
普通のナットウを食べても血流は変わるのだが
何か特別な力がある健康食品だけだと
信じ込んでしまうみたい
(こういう信じ込ませる方法が解っていても
ワシは自分に応用できないんだなぁ
もう少しの勇気があれば・・・
ワシは教祖様になれるかもしれない・・・
酒池肉林は好みじゃないけど
コーヒー池・和菓子・マンガ林のパラダイスが・・・)

「食べ物」は「その地の氣」の塊として
食事は「地氣を取り入れる行い」という説明もできる
この場合は「食材の質」も大切ではあるが
「食べ方」が氣功法となるから
同じ食べ物でも食べ方によって効果(変化)が違う

氣功法は単純な技術じゃないから
練功(練習)だけで差が出るわけじゃないが
重点は「食べ方」にある
だから、大方の健康食品の薦め方は
大切な点が抜けているんだなぁ
というか、体の変化の仕組みを観ていない
「食材の質」しか気づいていないんだ
(ワシをアドバイザー顧問にすればいいのに・・・)

「氣」によって変わる「血流の良さ」は
血液がサラサラに変わるわけじゃない
食べ物は変わってなくても血流は変わるんだ
(これは大きなヒントだぜ)

これは応用として
病気の原因を変えなくても
病気は解決する
そう、ワシは指摘しているんだ
(原因を無くさなくてもいいと言ってるのじゃない
原因を無くす解決方法だけじゃないと指摘している
「必ずしも」原因を変えなくてもいいと
言っているんだなぁ)

  「氣流」と「血流」D
05/10 (月)

食べ物の質によって「サラサラの血」になり、
血流が良くなる仕組み。
これはポンプ(心臓)が同じ力で働き、
血管が同じ大きさのままという条件がある。

「生きている」というのは、
「瞬間瞬間の変化がある」という意味なのだが、
最近の人間の思考パターンとして、
「固定された機械」のように認識している。
「生きている」意味が理解できなくなっているのだ。
だから「健康」という大きな概念にも、
「機械的発想」で理解しようとする。
とても淋しい人間社会なんだなぁ。
(いわゆる先進国の社会だけど・・・)

「食べ物の質」はとても大切だし大事だが、
それは機械的発想では理解できない。
「血がサラサラになるから血流が良くなる」のは
結果としての一部分だけなんだ。
「氣」と「いのち」との関係がメインであり、
意思と意識がある各細胞達の集合体が、
一人の人間として形成されているんだ。
ここから観れば・・・
「食べ物の質」と血流との関係を、
化学的変化や物理的変化で説明するのは、
枝葉であると気づくんだなぁ。

それに・・・
血液が流れるのはポンプ(心臓)の力だという
固定概念が強すぎる。
どこかの物理学者がかつて計算した。
「心臓の力学的圧力数値では
人体の末端まで血液を送り出すのは不可能」
これは、誰が計算しても無理との結論だが、
実際には人間の末端毛細血管は血を流している。
その矛盾点に今の医学界は答えていない。
口を閉ざしたままだ。
解らなくても、間違いは認める方がいいのにねぇ。
「自分は頭が良い」というプライドは、
間違いを認めようとしないし、
解らない、と言いたくないみたいだね。
プライドとコンプレックスは同一体だという事も
あまり知らないみたいだし・・・

話が横道。
固定概念をひっくり返せば簡単だ。
心臓はポンプじゃない。
(ポンプの役目も一部ある)
心臓は血液のセンターだ。
血液の港だ。
「行ってらっしゃい」
「お帰りなさい」
「アナタは、これを持って頭に行ってね」
「受け取った荷物はこっちに置いて!」
大忙しの24時間無休のセンターなんだな。
無理やり血液を送りだしているんじゃない。
血液が喜んで行きたいし、
末端からの要請があるからなんだ。

この話はいずれ・・・

  「氣流」と「血流」E
05/11 (火)

血は流れる。
これは間違いない。
だから「血流」に注目するのもいい。
だが・・・。
「氣」は流れるのか?
「氣流」に注目していいのか?

ワシの感覚や体験や直観では、
流れる「氣」と湧き出る「氣」がある。
流れて共鳴する「氣」と、
流れなくて共鳴する「氣」がある。

中国気功のように体に「氣」を巡らせ、
それを「手」に集めて照射する場合は、
流れる「氣」を扱った外気功だろう。

ワシのような氣功師の場合は違う。
体内に「氣」を巡らせていない。
「手」に集めるような意識も使ってない。
照射する意識は時に使う。
外気功でも「氣」の発生元が違うし、
その動き方も違うのだ。

ワシの場合は、
直接「手」に共鳴反応する。
だから、自分自身にも「外気功」できる。
「手」と「体」が独立しているのだ。

では「受け手」のクライアントはどうだろう?

「氣流」からの外気功の場合は、
「受け手」も「氣流」として働くと思える。
見えない「氣」とはいえ物理的だ。
「氣の流れが良くなって、血の流れも良くなる」
こう表現してもいいと思う。

ワシのような直接共鳴する外気功の場合は、
「受け手」も「氣流」として働くよりも、
直接各細胞が共鳴して活性化するようだ。
結果として「氣流」も起こるかもしれないが、
「氣流」が主の働きじゃない。
「細胞が血流を良くする」

氣功療法といっても、氣功師によって違うのだ。
扱う「氣」の種類も違うのだ。
意識の使い方も違うのだ。
単純に「氣流」が良くなるわけじゃない。

結果としては、
「血流は良くなり、温かくなる」が、
その過程は違うし、
その未来にも違いが出るだろう。

各細胞の自主的な活性化による変化と、
外からのエネルギーによる変化では、
未来に差が出るのは当然だ。

  空を飛ぶ@
05/12 (水)

数日前の夢だった。

ワシの夢は2種類ある。
すぐ忘れる夢と憶えている夢だ。
誰でも同じ?
そうかもしれないし、
そうでないかもしれない。

少しアイマイだが、こう表現しよう。
夢(ワシは普通は忘れる)と、
夢形態の冥想示唆(どういうわけか、憶えている)。
この何かの示唆が問題だ。

お筆先様と似たところがあるが、
映像だから、もっと解り難い。
意味に何年もかかる時がある。
単純に未来示唆なら、考えなくてもいいけど。
(考えなくても、なるようになるし・・・)

空を飛ぶ夢は何回も見る。
特に飛び上がる時の心理状態がリアルだ。
「飛べるかな?人間が飛んでもいいのかな?」
ワシの固定概念が戸惑っている。
でも、感覚がある。
飛べる確信がある。

思い切って、飛び上がる。
数メートルをジャンプする。
月の弱重力のジャンプのように、
フワ〜と上がり、ゆっくり下がる。

今回は何かが「違う」と感じている。
夢の中なのに、
「今までの夢と違う」と感じている。
夢と半分解っているのに、
ワクワクする期待があるのだ。
その具体的な先は不明だが・・・。

飛び上がると、ワシの実家の屋根の上を越す。
屋根を上から見ると、
「こう見えるのかぁ・・・ふ〜ん」と
感心している自分がいる。

どういうわけか、その隣の桜が満開だ。
2回目のジャンプでは、桜を上から見る。
「上から見下ろす桜も綺麗だなぁ」
中々、こういう角度からは見る機会が無い。
これで確信する。
「もう大丈夫だ。飛べる!」

  空を飛ぶA
05/13 (木)

「今回は違うぞ」
何が違うのだか判らないが空を飛んだ。
何度も夢で飛んでいるので、
飛ぶ時のコツは体に染み付いているというか、
意識に染み付いている。
旋回の仕方、上がる方法、下がる方法。
スピードもある程度はコントロールできる。

空を飛ぶのは気持ちいい。
何しろ束縛が嫌いなワシだ。
前後左右上下、自由に動けるのが好きだ。
転んで怪我をする事もない。
あの不安定な空間は安心できるのだ。

もしかしたら・・・。
胎児だった頃の感覚記憶かもしれない。
更に遥か古代の海に住んでいた頃の、
海洋生物だった頃の感覚記憶かもしれない。

もしかしたら・・・。
魂だけの世界(あの世・彼岸)の
自由な感覚記憶かもしれない。

未来の示唆なのか。
古代の記憶なのか。

感覚としては気持ちいいし、
精神は安心している。
でも・・・仲間がいない。
見渡すと、空を飛べるのはワシ一人なのだ。

地上には多くの人がいる。
そして、電柱の上の所から話かけると、
普通に会話が出来るのだ。
お互いに違和感がなく普通なのだが、
空を飛んで来ない。
空を飛べないのだ。
それが、当たり前になっている。

ワシも淋しいわけじゃないし、
同じ人としての付き合いがあるが、
立場が違う(ワシは電柱みたいな上に停まっている)。
「違う」と強制的に納得させられている。

空を飛べるのが偉いわけじゃない。
空を飛べるから幸せなわけじゃない。
単なる立場の違いなのだ。
立場の違いは、役目の違い。
でも、夢の中のワシは
立場の違いは納得できても、
「まだ役目が自覚できていない」というのも判る。
役目が解っても、実行する根性はなぁ・・・。
「根性無し」は充分に自覚しているんだけどなぁ。

  九州@
05/14 (金)

急に九州・福岡へ行く事になった。
依頼は直接氣功療法を個人にする為だ。
内容はプライバシーに係わるから書かないが、
ワシにとっては初めての九州本土だ。

20代の頃、沖縄に行った。
沖縄が日本に返還されて数年しか経っていない頃だ。
そう、沖縄はアメリカの植民地だったのだ。
今も、実質的には半分(以上)領土だ。

日本全土も、まだ植民地の部分が残っている。
特に政治家の意識の中は独立できていない。
「アメリカの下男として生きたい」
かなり多くの政治家は意識・無意識を問わず、
固定概念として
「アメリカが守ってくれなくては日本は生きられない」
そう「本気」で思っている。
政治かぶれの評論家や評論家きどりも同じだ。
その人達は沖縄で生活していない。
自分は楽な場所にいて、好き勝手を言っているのだ。

文章が荒れるから政治家の話は止めよう。

その沖縄から与論島に渡った。
考え無しのワシは与論島は沖縄だと思っていた。
だからワシは九州には行ってないと思っていた。
与論島が鹿児島県だと知ったのは最近だ。

知らないモノに触れるのは好きだ。
解らないモノに出合うのはワクワクする。
知らない土地に行くのは好きだ。
初めての「出会い」は「いのち」を活性化する。

何度か書いた。
我々のDNAの仕組み。
多種多様なモノが地球上にいる理由。
「いのち」の活性化。

人と人が巡り会い
人とチャンスが巡りあう
人とモノとが巡り遭い
それぞれの「いのち」が動き出す。

巡りあい、出あいは、
遥か宇宙の彼方からのエネルギーを、
次元を超えて出現させる。

だから、
いつでも、
何処にでも
誰にでも、
光は訪れる。

  九州A
05/15 (土)

九州は福岡のビジネスホテルから書いてます。
しかもロビーに置いてあるPCで、立ったまま・・・。
だから、簡単に、少しだけ・・・。

群馬県の最北の山の中を出たのが朝の6時半。
新幹線の駅まで本妻に送ってもらい東京へ。
東京駅から浜松町。
モノレールで羽田空港。
11時発、12.45着。

クライアントが迎えに来てくれて、
病院内にて氣功治療。
これから一週間続く予定だ。

初めての九州本土。
とはいえ大都市の様子は一見、
日本全国あまり変わり無いと思う。
ビルや駅やコンビニの区別はつかない。

遊びや観光なら違いを見つけるのだろうが、
ワシは人相手の仕事だ。
違いを見つけるつもりもない。
とりあえず今日はメモ替わりの雑記

  九州B
05/16 (日)

今日はビジネスホテル内での独身生活ぶり。
といっても2日目だけどねぇ・・・

ユニットの風呂に入った後、
ボディソープで洗濯だ。
体じゃないぞ。
下着(パンツ・靴下・Tシャツなど)の洗濯だ。

ワシはほとんど体を洗うのに石鹸は使わない。
使うのは頭を洗う時だけだ。
元々、垢があまり出ない体質だ。
(と思っているだけで垢だらけだったりして)
毎日風呂に入るのだから、
毎日石鹸類で洗うと、
肌の表面の保護膜を溶かしてしまう。
一見清潔げで、かえって清潔を保てない。
ワシは、そう思うがなぁ・・・

今回は滞在日程が確定していないままだった。
だから、日程分まで洗濯しながら滞在するのだ。
クライアント相手の仕事だもの。
清潔第一だ。

単なる一人旅や僻地へのツアーなら、
2日続けて着てもいいかぁ、と思うが
浄化や健康の仕事の時はそうはいかない。
(特別、清潔好きじゃないけど、
肌着類は毎日変えないと気持ち悪い)

もちろん、登山中などは別だ。
風呂だって、一週間も入れないしねぇ
そういう時は、ワシは人格が変わる。
野生に簡単に戻れる。
臭くたって死にゃしない。

そういうわけで洗濯をする。
コインランドリーもあるが、
それを使うほどでもないしねぇ。

ボディソープを洗濯石鹸として使い、
風呂の残り湯で豪快にすすぐ。
石鹸を落としたらキッチリ絞り、
備え付けのバスタオルに広げる。
端から海苔巻き状に巻いていく。
それをさらに絞る。
そしてハンガーにかけておけば
大体は一晩で乾くのだ。
ホテルは乾燥している。

ということで、
これからバスタイム&洗濯タイムだ。

  九州C
05/17 (月)

洗濯の仕方は、若い頃永六輔氏のエッセイで読んだ。
永氏はほとんど旅から旅の生活だった。
その旅の工夫の一つが、この洗濯方法だ。
ワシもやってみたかったが、
ワシの一人旅はそれほど長くないし、
もともと荷物は少なかった。

後年海外に行った時に、
一緒のツアー仲間の中に
極端に荷物の少ない女性がいた。
だいたい女性は荷物が多い。
着替え類で大きなケースが一杯になる。
だからワシは聞いたのだ。

その女性は一年に数度海外旅行をするそうだ。
で、だんだん工夫していった。
特に衣類の洗濯。
ちょうど、氣功を体験したいというので、
ホテルに着いてまもなく部屋に行った。
すると、もう洗濯が済んでいた。
「こうしておけば、次の日にも着られる」
2週間ほどの旅行でも普段着ならば
替え衣類はほとんど持たないそうだ。
どうしても、なら現地で買う。
同じTシャツを清潔にして、
次の日にも着ている彼女はカッコよかった。
(下着もだと思うが、見たわけじゃないぞ)

今のホテルはもっと楽だ。
コインランドリーもあるし
フォーマルでも即時仕上げのクリーニングもある。
コンビニが各地にあるので、
足りなくなっても何でもそろう。
それでも工夫するのは楽しいものなのだ。

そう
生きていくのに「自分流の工夫」は
楽しいからする。
「楽しみ」は「生命力を活性化」する。

何時でも、
何処にいっても、
「楽しみ」は自分から作る事ができ、
それは特別な事ではない。
ちょっとした工夫だけなのだ。

一人暮らしは結構楽しい。

  九州D
05/18 (火)

ホテル暮らしの続きだ。

洗濯さえすれば後はする事がない。
(ドライヤーを乾燥に併用すると
もっと効率がいいよ)
とはいえ、夕食を外に食べに出て、
戻ってからロビーにあるPCでこの雑記帳を書いたり
HPの掲示板にレスを書いたり、メールチェックをして
部屋に入り、風呂と洗濯をすると、もう眠いのだ。
(ホテルに戻るのは7時半〜だ)

ペットボトルのお茶を飲みながらTVを見るが
ニュースを見るくらいで特に見たい番組はない。
それにベッドに横になって見ていれば眠くなる。
あっ!喉が弱い人はその対策はしたほうがいいね。
容器に水を入れて置いたり、
タオルなどを濡らして、あちこち掛ける、など。
呼吸器系統が弱いわけじゃないワシでさえ、
喉の渇きに夜中に目が覚めるのだ。

このビジネスホテルは朝食だけは出る。
おにぎりと味噌汁とお茶・コーヒーだ。
ワシは自宅では夕食が遅いので(10時過ぎ)
朝食は摂らないのだが、ここではいただいている。
つまり・・・3食食べているのだ。
家に帰ったら太っているかも・・・

そういえば・・・
バスルームから出ると正面に一枚鏡がある。
普段めったに裸の全身を見ることはない。
で、ひさびさに見たら・・・
あっ!アバラ骨が出ている!
ヘソ付近は確かに痩せたなぁ
微食をした変化は体の線に出ていた。
これで、鍛えれば見られる体になるのになぁ
その根性は無いぞ・・・

  九州E
05/19 (水)

九州・福岡博多に来て5日目だ。
このホテルは12階・176室
ワシは11階にいる。
部屋で写真を撮ると「氣」が写った。
いつもと同じ「薄白色の丸い氣」だ。
長くいるし、ワシしかいないので当然だが。

行くのは九州大学病院だ。
大きな病院だが、新しい病棟の方だ。
通常は病院内でワシの「氣」は写りにくい。
大部屋では難しいだろう。
多くの病の氣が流動しているし、
不特定の人の出入りが多すぎる。

同じくオープンスペースでも写りにくい。
(景色を撮っても写りにくいのだが、
写らないというわけでもないようだ。
コイツ(氣)は気マグレなんだ)

でも個室ということもあり、試してみた。
長く氣功をした後なら、多分写るだろうと思った。
写真を撮ると「氣」の数は多くはないが
(氣は同時に幾つも写ったりするのだ)
いつもの「丸く白い氣」が写っていた。
部屋は「ワシ流の氣」が満ちているようだ。
(2日前の事だが、今日は写らないのだ
多少条件が変わったとはいえ、
コイツはまったく気マグレなヤツだ)

氣功をしても「場」が乱れていると「調和」が難しい。
荒れが強かったり、乱れていると(邪気が多いと)
「丸い氣」は写りにくい。
(出るまでに時間がかかる)
その場合は結界をその体のみにするのだ。
(肉体と肉体に沿った、まわり
精神世界ではアストラル体とかメンタル体とか
エーテル体とか○○体とかいうが
それを正確に判断する事はできない・・・
少なくてもワシにはできない)

部屋全体を結界としての「場」にしたほうが
調和しやすいのはもちろんだ。
だから部屋に「氣」の写真が写ったのは
対象の人の氣功治療がより進むということなのだ。
部屋の「場」が浄化し、調和するのは
その部屋に出入りする人達、
特に家族の「氣」が大きい。
だから「家族間の仲の良さ」は
「場」という角度からでも
健康回復の大きなポイントの一つなんだ。
更に「精神的」な角度からは最も大きなポイントだ。

家族の状態が良い「場」ならば
「氣」は簡単に共鳴して出現しやすい。

故お師匠様が言ったように
「お互いの(治療師と依頼者)協力によって
遥か宇宙の癒し波動が強力に共鳴する」

  九州F
05/20 (木)

博多で知り合いのM氏と会った。
今回こちらに仕事依頼したクライアントは
M氏の紹介からだった。
最初はメールでの相談質問からだった。
だからM氏の縁で初めての九州本土に来られた。
そのM氏もインターネット上からの付き合いだった。

お互い初めての実物との出会いだ。
M氏は大きな明るい声の持ち主だ。
いろいろな話をしたが、とても時間は足りない。
その中で「ダジャレを言う人は信用できる」
という点で一致した。
今のクライアントが一段落してからは、
M氏からの依頼がある。嬉しい。

う〜m・・・それにしても・・・
最近の雑記帳はギャグもダジャレも少ないなぁ。
これは修正しなくちゃならんぞ。
反省はしなくてもいいけど、
修正は必要なんだなぁ。

ダジャレから離れた日常をしていると、
ダジャレがすぐ出て来ない。
すると「元気」もイマイチ乗らない気がする。
ダジャレは元気を連れて来るようだ。
意識してアホな言動をする事と、
ほのぼのスケベは元気を引き出すものだ。

ある意味ワシはいつでも崖っぷち。
仕事内容も厳しい状況から引き受けるし、
個人的生活も崖っぷちだ。
ヒヤヒヤ、ドキドキが好きなのかも・・・
こんな時にダジャレやギャグが出ていれば、
崖から転落するのは結構防げるもんだ。
転落しても、ダメージは少ないし・・・

例えば・・・
愛人Aと抱き合っている時に愛人Bが来る。
ワシ「いや〜遭難している人を見つけたから、
こうして氣功しながら温めているんだ」
愛人A「そうなんです」
あまりにクダラナイ会話に
3人は笑って、いい仲間になるのだ。

ん?本妻?
本妻はこんな場に踏み込むほど未熟じゃない
それに本妻は最初から愛人達の味方だし・・・
本妻「わ〜い!仲間がふえた〜」

  九州G
05/21 (金)

九州に来てから1週間たった。
観光ではないので、博多駅付近しか知らない。
(食事でウロウロしただけだ)
博多駅構内はお土産店や食事街や地下街など広い。
イントネーションが大阪ほど癖がないせいか、
言葉の違和感は無い。
全体的に東京や大阪ほどのせわしさは無い感じだ。
歩く速度も東京よりも、ゆっくりだ。
生活はしやすいと思う。
証拠となるかどうかわからないが、
ホームレスの方々が多い。
多分、居心地がいいのでは?

昨日は地下鉄で移動した。
バスもひんぱんに動いているし、空港も港も近い。
歩道は広く街路樹も大きく、綺麗である。
博多付近は便利な場所のようだ。
(夜、頻繁に聞こえるパトカーや救急車の
サイレンは都市特有なのかうるさい)

泊まっているホテルの場所は祇園町といい
博多山笠がねりあるく・・・のかな?
駅前通りはビジネス街のようだ。
市民祭りとしては博多どんたくもある。

故お師匠様が「中川流氣功」として
「真氣光」(どこかの新興宗教と似た名前だ)
というのを創りあげた。
(創ったわけじゃないけど、世に出した)
日本各地にそのセンターがある。
今は「SASセンター」として幾つかある。
今日は午前中に近くの天神町に行った。
福岡センターがあるのだ。

ワシは水上流として、ワシ流に変換している。
龍村ヨガを組み合わせているし、
説明や理解の仕方は独自になっているからだ。
それでも、真氣光の波動は同じだと思っている。
で、グッズを利用しているのだ。

真氣光のワシ流の理解の仕方は、
他の真氣光の関係者と違うところもあるので、
必要以上に近づく事もないが、離れる事はない。
センターに行くと「いい氣」は満ちている。
が・・・ワシはプロになってしまったと、
つくづく感じるんだなぁ。
(この説明はメンドウだから突っ込まないで)

  九州H
05/22 (土)

今日は朝8:30に迎えが来て福岡空港方面。
午前中に依頼人の御母堂様に氣功。
一応その家で「氣」の写真を撮ったが、
ほんの小さなモノが、やっとだった。
(いきなりで写った事実を評価してね)
午後は九大病院に。

1週間前はどうなるかと思ったが、
何とか先の明るい見通しが出てきた。
ここまで呼んでいただいたわけなので
(プレッシャーはあまりないけど)
氣功した変化や成果や価値は
依頼者に納得されたいと思っている。

病室から博多湾が見え、
黄金色の夕日が海面に反射し
とても綺麗な景色を作り出していた。
綺麗な景色は明るい未来を予感させる。

今日はフライトチケットがホテルに届いた。
次に向かう(25日に)仙台までのだ。
広島に一時立ち寄るので、広島発だ。
すべてインターネットで手配し送金した。
こういう使い方は便利だと思う。

  九州I
05/23 (日)

今日はホテルがいっぱいだ。
ハングル語が飛び交っている。
そうかぁ、ここは韓国にとても近いのだ。
街の彼方此方にもハングル文字の案内が出ている。
韓国からの観光旅行や家族旅行や修学旅行のようだ。
今日のホテル内も韓国の子供連れが多い。

このホテルは全て女性スタッフだ。
男は客以外にいない。
心配りが女性の視線であり、
しかも必要以上の声はかけない。
それも居心地の良さを作っているようだ。
女性客の一人旅でも安心だろう。

部屋には電磁調理器とお湯を沸かすポットがあり、
カップはマグというのもちょっと嬉しい。
小さな冷蔵庫があり、道の反対側にコンビニもある。
ズボンプレッサーはいかにもビジネスマン用だ。
各部屋にはLAN接続が可能な設備になっていて
PCを持ち込めば、常時接続で部屋使用もできる。

今回の依頼者の氣功治療は今日で終わった。
済んでみると、あっという間の9日間だった。
だが、氣功治療の凄い点はこれからだ。
治療時間が終わっても治療は続いている。
本人や家族やその他の好転が起こる。

どう変わるか?
主体者側の生き方にも影響されるから、
速度の違いはあるにしても
好転するのは間違いないだろう。
好転の連絡を楽しみにしている。

明日は前述のM氏の関係で氣功をする。

  九州J
05/24 (月)

九州の氣功治療も今日で最後になった。
今日はM氏の紹介で宗像市という場所までいった。
その帰りに宗像大社に寄った。
ここは海の三女神様を祭ってある。

正面の広い駐車場に車を止め、
広い境内の案内図を見た。
すると少し離れた場所に護国神社というのがある。
正面から入るのを止め(意味が無い気がして)
そちらに車を移動していただいた。
そちらにホンモノがある気がしたからだ。

移動すると、小さな社だったが
こちらは誰もいない。
持っていったデジカメで写す。
二宮・三宮とまわって、
本宮には裏門から入る。
大木があり、それらには、しめ縄がある。
やはりデジカメで写す。

本宮は参拝用に広くなっていて、
お守り売り場が広くとってあった。
どうやら海の安全の神様という意味から
交通安全の神様として有名になったようだ。
でも本宮ではあまり感じるモノが無かった。

福岡のM氏の家に再び戻って写真を見ると
宗像護国神社の社に大きな丸いモノが写っていた。
野外のオープンスペースで
ワシ以外の「氣」がこんなに大きく写るのは珍しい。
ワシの多くの「氣写真」の中でも珍しい。
宗像三女神の御神体が直接写ったものだと推測する。
非常に珍しいのだ。
PCに取込めるようになったら公開しよう。

M氏のご両親を氣功し、楽しくお話をし、
美人な奥様と可愛いお嬢さんと会い、
夕食をご馳走になり、
本当に楽しい嬉しい時間を過ごさせていただいた。

いろいろな人との出会いがあった。
これを縁に再び九州に来る事ができるだろう。
特にキッカケをつくり、最後もお世話になった
M氏とその家族に、
感謝・合掌です。

  広島
05/25 (火)

今日は移動の報告

朝5:20起床
6:00チェックアウト
6:40新幹線にて博多駅発
9:00東広島・到着
T氏が車で迎えに来てくれた。
話をしながら、安芸という港町へ

T氏ご夫妻は生駒の研修所の管理人として
10年前から昨年暮れまで
多くの受講生のお世話をしてくれた。
ワシは第一回受講なので最初からだ。
その後、半年後、一年後とお世話になった。
9年前の時はボランティアスタッフとして
特にお世話になった。
その後もずっとメールや物や美味しいモノの
やり取りなどの付き合いが続いていた。
(コラム04・3月「1995年5月」参照)

そのT氏の奥様であるK子さんが
今年になって帰天した。
ワシがだらしないばかりに
すぐ駆けつける事も出来ずに
今日になってしまった。

小高い丘の上にあるK子さんのお墓は
安芸の港や町を一望できる。
ご主人のT氏に案内していただき
やっと会う事ができた。
「偲ぶ草」と書かれた墓石の隣で
K子さんの素敵な笑い顔が見えた。
そっと墓石を抱かせていただいた。

K子さん、笑顔を
ありがとうございました。

  仙台@
05/26 (水)

昨夜8:00仙台空港に着いた。
空港には「水上様」と書いた紙をもって
O御夫婦が迎えに来てくれた。
O宅にて夕食をいただき、部屋に案内された。
泊り込みで治療だ。

高校3年の夏休みに小さなバイクで
「東北一周一人旅」をした。
一人旅の魅力に目覚めた初めての旅だった。
その時に仙台を通った。
今泉で写真を撮ってもらった。
(ヘルメットを下げた写真がどこかにあるはず)
仙台市内の国道4号線がいきなり3車線になり
何処を走っていいのか迷った記憶がある。

あれから32年経ってのかぁ・・・
月日の経つのは早いなぁ・・・
美少年もオッサンになるはずだぁ・・・
(今回の出張で、あまり若い、若いと言われるので
特にオッサンを強調しています)

このお宅から一歩も外に出ないので、
仙台といっても何もわかりません・・・

  仙台A
05/27 (木)

クライアントとは話しながら治療する。
基本的にはワシから必要以上に話さない。
相談・質問・悩みなどを受けてから
ワシ流な答え方や話方をする。
もちろん、脱線や冗談はしょっちゅうだ。

すると気づく事がある。
この雑記帳などもそうだが、
勝手に答えた内容に、
改めてワシ自身が感心しているのだ。

「おっ!結構いい事言ってるなぁ」
「そうか、そういう意味なのかぁ」
「おお!そういう所につながるのかぁ」
「なるほど!いい話を聞いた」

確かに自分の口から出た言葉だし
嘗て学んだ内容でもあるんだけど
まるで他人から話を聞いているようだ。
無責任と言えば無責任だなぁ・・・

特に質問から、とんでもない所まで離れた話が
最初の質問にピタリと組み合わさった時など
我ながら見事だと拍手する(心の中で)
まるで小説の伏線のようだが、
ワシは決して計算して話す事はしない。
そんなのメンドウだし・・・

何度も書いているが
お筆先様はワシの手に付いている。
(ワシの表現力不足で、お筆先様は不服だろうが
モンクがあるならなら来なけりゃいいのに・・・)
同じように
お口先様(ワシの造語です)も付くようだ。
ワシとしては
オッパイの綺麗な金運の女神様に
張り付いて欲しいんだけどなぁ・・・

ともかく、
仙台のクライアントも何とかなったようだ。
今晩も泊めていただき、
明日は2週間ぶりの治療院に帰れると思う。

  ただいまぁ
05/28 (金)

仙台駅11:00
大宮駅12:30
上毛高原駅14:30
2週間ぶりに帰ってきた。

いろいろ感じる事があった。
いろいろ考える事があった。
いろいろ気づく事があった。
いろいろ教えられた事があった。

九州などの遠くから治療の依頼をしてきたのは
それだけ厳しい状況だからだ。
それだけ緊急でもあったからだ。
だから治療も厳しく早急な結果を求められる。

プレッシャーを感じたのでは
萎縮したり、力が入ってしまったりで
「氣」の質も量も下がってしまう。
いつでも「やわらぎ」を保って
最高を出せるようにするのがプロだ。

この仕事は厳しい状況下では
相手からのモノを受けてしまうのは当たり前だ。
そんな事を恐れていてはアマチャアだ。
自分で浄化できるからこそ手をだせる。

というわけで、
空いている時間は自己氣功に磨きをかける。
真剣だからこそ能力は上がる。
お陰様で、この2週間で
それまでの自己氣功より早く仕上がるようになった。
自分が元に戻るのに苦労しなくなった。

厳しければ、その分レベルが上がる。
意識が広がる。
もともとワシは崖っぷちになってから
動き出せるタイプだ。
本番に強いタイプだ。
(というと聞こえがいいが
努力や根性が人並み以下で
普段からダラシナイという意味でもある)

この氣功療法はお互いに浄化し合うところがある。
お互いに高め合うところがある。
本来の「癒し」でもある。
クライアントと出会うのは
ありがたい事なのだなぁ

  「氣」の写真@
05/29 (土)

今回訪れた九州・仙台では、
幾枚かの「氣」の写真を写した。 
自分のカメラだけじゃなく、
クライアントのカメラを使って写した。
デジカメもフィルムカメラにも写った。

病室内でも写った。
九州の個人宅でも写った。
仙台の個人宅でも写った。
ワシがある程度の時間を居た所や
氣功をした空間では写るものだ。

しかし、常時いる治療院内と違って
その「氣」の姿はとても小さいし少ない。
それでも、とにかく写る。

ところがM氏の店内では
ワシのデジカメで写らなかったのだ。
(氣功をしたわけじゃないし、
長時間いたわけじゃないが、
写ると思えたのになぁ・・・)
その二階の部屋ではシャッターを切った全てに
「氣」が数個づつ写っていたのになぁ。
(雰囲気が楽しく良かったので特に数が多い)

確かに不特定多数が訪れる店だが
「氣」を邪魔するような感じは無い。
むしろ「氣場」は良いはずだ。
でも、どうしても見つからない。

最後にM氏のフィルムカメラを使い、
記念にセルフタイマーでM氏とワシを写した。
現像してみると、
二人の腰から下は白い「氣」の帯で真っ白だった。
とても強い「氣」の帯の写真だ。
帯の上までモヤがかかっていた。
これが写りたかったのかぁ
「氣」は気マグレなヤツなんだ。

その写真が今日、M氏から届いた。
「氣」の帯は時々写るが、
これはしっかりとした写真だ。
でもなぁ・・・
モデルがオヤジ二人じゃなぁ・・・。
(M氏はワシより遥かに若いが・・・)

  「氣」の写真A
05/30 (日)

「氣」の写真は普通に撮れる。
その大小や、色(といっても白)の濃淡や
一度に出る個数の違いなどから、
いろいろが推測できる。

ワシは幾百のワシの撮った写真を見ていて、
それまでの「氣」の捉え方より範囲が広がった。
力学的なエネルギー
周波数・波形などの波動的
情報
これらの働きや区別はもちろんあるが、
その発生の仕方が新たに加わった。
「次元」という考えを入れたほうが説明しやすい。
それまでの説明しきれない現象も
「次元発生論」で説明しやすいのだ。
(あっ、これもワシの造語だし、
こんな説明はワシ流独自ですから
議論はふっかけないでね・・・)

「氣」の世界は自由なところがあり、
意識が広がると、実際のその部分の能力が広がる。
意識が広がると、実際の現象も新たに加わるのだ。
だから、それまでが間違いじゃなくて
さらにパターンが増えるのだ。

ワシはワシが扱っている「氣」が
強い再生力・回復力・復元力があると知っている。
それをワシは「調和の氣」と定義してきた。
「医療氣功」に使う「氣」も幾つかあるが、
ワシは「調和氣」を使う氣功師だと思っている。

それなのにワシ自身が邪気(病気)を受ける。
(病気になるという意味じゃないよ)
手が出口となって照射するのに
手から痛みや苦しみを受けてしまう。
何故、潜り抜けて来るのか?
どう説明しても、矛盾なところがあった。

それが「次元発生論」だと説明できるのだ。
でも、この話は雑記帳で書くとメンドウ・・・
そのうち、たっぷりと話す機会があれば話すよ。
とにかくモヤが一つ晴れたのだ。

これで、自分へのケアの方法も変わった。
自分も他人も同じだったんだなぁ・・・と
当たり前の結論だ。
当たり前は・・・深いなぁ・・・。

  04年5月
05/31 (月)

今日が今月の最終日だ。
今からちょうど10年前、
1994年5月。
ワシはマトモな道から外れてしまった。
(それまでもマトモとは・・・ねぇ)
「氣功師」という、実に妖しい立場になった。

ある時、故お師匠様に言われた
「10年はメシが食えないぞ」
ノーテンキなワシは思った。
「10年経ちゃ食えるのか。ラッキー!」
どちらも根拠無いし、
未来はワシの生き方とワシとの縁次第だ。
どうなるかは判らない。

それでもねぇ
今回の九州・仙台・四国からの依頼などが重なると
「もしかしたら・・・何かが変わるかも」
と思ってしまう。(他力本願)
宗像神社の御神体の御霊などが写真に撮れると、
「もしかしたら・・・導きがあるかも」
などと安易に期待する。(実に他力本願)

いろいろな「気づき」や
新たな意識が流れ込んだりすると
ワシとワシに縁付く人達は
「確かに変われる」と
根拠無い自信が湧いてくる。

10年経って、
ますますワシは妖しくなった。
理解されにくい場所へ更に進んだ。
理解してもらおうなんて、思わなくなった。
「縁のみ!」

「もう、ここまで来たら、どうなってもいいかぁ」
「何処へ流れても、勝手にしてくれ」
「モンクは無いぞ!(ちょっとあるけど)」
しょうがないじゃない。
来てしまったんだから・・・。

依頼は更に厳しい修羅場が来るだろうなぁ。
でも、何とかなれば、それだけ嬉しいし・・・。
崖っぷちを歩くのが仕事なら
それはそれでいいかぁ。

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