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  August
08/01 (日)

歴月の英語名はほとんどローマ神話やギリシャ神話、
ローマ時代の英雄とか皇帝などから転じたものだ。
詳しく知らないけど、ローマ歴が元らしい。
8月のAugustも初代ローマ皇帝の名前からだ。
歴史教科書に出てきた、オクタビアヌスのことだ。

先月の名前の由来がジュリアス・シーザーだった。
(Julius Caesar 転じて、Julyとなった)
せっかくローマ元首制の基礎を築いたシーザーだけど、
親友に殺されてしまったので(ブルータス、お、お前もかぁ!)
シーザーの後継者といっても初代なんだ。

政治家の最初は結構マトモな場合が多い。
(そうともかぎらないなぁ・・・)
ローマ初代皇帝もマトモだったというか、
肩の力が入っていたというか、
張り切っていたというか、
いろいろな改革を断行した。
良い悪いは立場によって違うが・・・。

政治はともかく、
その頃のローマはどんな気候だったのだろう?
そして、どんな風景だったのだろう?
庶民の暮らし、雰囲気はどんなだったんだろう?
映画に出てくるようなグラマーでキレイなネーチャンばかりだろうか?

でも・・・何故8月が初代皇帝なのかワシにはわからん?

  壁の向こう側・1
08/02 (月)

いろいろな壁がある。
簡単には乗り越えられない。
乗り越えられるのは壁とはいわない。
乗り越えられるのは丘や山だ。

壁は目前に立ちはだかる。
乗り越えられる高さじゃない。
左右を見ても、ずっと続いている。
(ようにしか見えないんだなぁ)
しかも、厚い(としか思えない)。

どうする?
どうししよう?
そして・・・壁の前で悩むのだ。

壁の前で悩む時は
壁しか見ていない。
壁の高さ、長さ、厚さを、
「大きなモノと想像」して、ため息をつく。

壁はホントに有るのだろうか?
生きていれば壁にぶつかる。
「ぶつかる」のはホントだ。
だけど・・・「壁」は有るのか?

この世で一番強いモノは「幻」だ。
ワシが精神世界を30年も彷徨って得た結論だ。
現実と「幻」の関係は不可分だと思う。

「幻」の上に現実が建てられている。
これは単なるニヒリズムじゃない。
単なる事実だ。

「幻」の実力を認める事は
物事を「観る」のに必要不可欠なんだ。
森羅万象、諸行は無常なんだぜ。
そして「幻は心で創られる」モノなんだ。

ぶつかったのは・・・壁じゃない。
心で創った「幻」だと思うよ。
でも「幻」は強いぜ。
そして「幻」は不安定だぜ。
「気づけば消える」脆さがある。
気づかぬ限りは、とても強固だ。

そして・・・壁に悩む時は
壁の向こう側に何があるか、
想像してないし、想像できないようだ。

  壁の向こう側・2
08/03 (火)

幻で創りだした壁。
心で創りだした壁。
だからヤッカイだ。

物理的な壁は物理的な力で壊せる。
時間が経てば壊れる。
だけど心で創ったモノは
幻だから壊せないのだ。

創ったモノに目を向けると
幻は永久不滅な壁となる。
壊したり、乗り越えたりできるのは、
実在する壁の場合だけなんだ。

「壊すモノ」じゃなく「消すモノ」
「消すモノ」じゃなく「消えてしまうモノ」
壁を見ないで
心を観る。

壁の一つに「病気」がある。
病気の全てが幻じゃないが、
幻で創りだした病気は多いんだ。
病気がホンモノの場合でも、
幻で病気をホンモノ以上に大きくしている。

幻だから・・・治せない。
幻の部分は・・・治せない。
治らない病気に幻がある。
治せないけれど、消せる事はできる。
幻と気づけば・・・消えてしまう。

消す方法。
消える仕組み。
その一つにワシ流の氣功療法もあるが、
誰でもできる方法もある。

壁の向こう側。
ヒントは向こう側にあった。

  壁の向こう側・3
08/04 (水)

壁を消す方法。
「これは幻だ」と正体を観抜かれると、
幻は消えてしまうものなんだ。
そしてもう一つの幻の癖がある。

壁は不安や恐怖に支えられて存在する。
希望や光の中では生きられない。
夢を追いかけると
壁は見えなくなってしまう。

それは「いのち」の活性化になるが、
現実に暮らす事に障害となる場合もある。
壁と一緒に現実も見ない事があるからだ。
だから、良い・悪いの外側に
「夢を追いかける事」があるんだ。

たとえ勘違いでも幻でも
壁が有る事が「悪い」とは思わない。
ウソや間違いは
大事な役割をするものなんだ。
でもね
いつまでも壁で悩む必要は無い。

だから消えてしまう方法を知る事は
壁を見たり、無くしたり、
いつでも自由に生きる事であり、
いつまでも壁で悩む事じゃない。
壁にはラクガキだって出来るんだぜ。

壁の向こう側には
必ず「夢」がある。
壁があるのなら
向こう側に「夢」がある証拠だ。

壁にぶつかるのも悪くない。
ピンチはチャンスを含んでいるが、
壁は夢の方向を教えてくれる。
生きてる事はシンドイ事もあるけど、
その向こう側には楽しい事を用意している。

  壁の向こう側・4
08/05 (木)

病気という壁。
悩みという壁。
経済という壁。
能力(仕事)の壁。

壁は幻だから複合の壁となる。
歩いて来た道に立ちふさがる。
もっと歩きたいのに、
歩けない・・・。
もう先に行けないのか?
不安になるし恐怖になる。

壁の向こう側に「夢」が待っていても
どうしても壁を抜けられない。
壁は幻じゃなく現実になる。
現実に壁があるんだと思ってしまう。

痛いから
苦しいから
辛いから
現実に感じるから
幻と思えない・・・。

壁が幻は間違いないんだけど、
幻は「無い」わけじゃない。
幻は強固にもなるし儚くもなる。
幻は見る人の見えるように、
想像する通りに
自由に姿を変えるモノなんだ。

ならば・・・
壁を融かす要素は幾つもある。
壁を認める事もその一つだ。

この世はヒネクレている。
この世は幻が大きく影響するように設定されている。
(幻だけで出来ているわけじゃないけどね)
だから、幻はヒネクレている。
ヒネ坊・・・。
ヒネ坊は、優しくすると消えちゃうんだ。
認めると・・・消えちゃうんだ。

逆転の発想
壁は幻だからこそ
「無いモノ」と扱わないで、
「嫌なモノ」と扱わないで、
正面から認めてしまおう。

  壁の向こう側・5
0/06 (金)

自分にとっては強固な壁でも、
他の人には壁も無く通過できる。
自分が難無く通った道を
他の人が足踏みして悩んでいる。
壁は現実にあるのじゃなく、
その人の中にあるものだった。

壁は幻で創られていたのだ。
幻は永久不滅の強固な壁にもなるし、
一瞬で消えてしまう儚い霧でもある。
自由自在で変わるモノ。
内側の世界で創られたモノ。

自分には手の打ちようが無い、
と悩んだ壁の壊し方。
自分の力では乗り越えられない、
とため息ついた壁の高さ。

幻の壁ならば
壊す事は出来ない。
壊そうと思う事は強固な壁を認める事だ。
乗り越える事は出来ない。
高いと認めるとますます高くなるからだ。

壁は壊すモノでも
乗り越えるモノでもなく、
消してしまうモノであり、
消えてしまうモノなんだから。

現実の壁だと思ってしまった時には、
どんな方法も無力だった。
壁の前で途方に暮れていた。
幻の壁だと観てしまえば、
幻の消滅方法は幾つもある。
幻だから矛盾した方法もある。

@「幻と気づく」
A「壁の向こう側の夢を追う」
B「開き直って、壁を受け入れる」

@とBは一見矛盾しているが、
元の土台が違うんだ。
@は「気づき」
Aは「闇を見ず、光を観る」
Bは「愛」なんだ。

どの方法でもいいけど、
ワシはオトコだからAが好みだな。
壁の向こう側には夢がある。
壁があったら、ワクワクするぜ。
きっと、夢がある。

  ヒーラー論・1
08/07 (土)

今月末に昨年と同じ龍村師匠のセミナーがある。
(ガイア・サマーセミナー・イン・群馬)
テーマが「ヒーリング&ヨガ」で、
ワシはヒーリング講師として参加する事になっている。

そこで、自分の考えをまとめる意味で
「ヒーラー論」を書いてみる。
ホントは「ヒーリング論」にしたかったが、
ワシの「03年11月のコラム」に
「ヒーリング@〜E」が書いてあった。
今読み返しても、全く同じ考えだ。
だから、これに継ぎ足しの分と
「ヒーラー」としての心構えを紹介する。
普段不マジメなワシだが、
少し、マトモな部分を書いてしまおう。

氣功師になって10年。
プロとして9年。
振り返れば・・・
「氣」の質は基本的に変わらないが、
心構えなどは変わってきている。
何よりも「プロ」という世界に入った。
「プロ」を名乗っても、看板を上げても、
「プロの世界」にいるわけじゃない。
経験を積めば「プロの世界」に入れるわけじゃない。
何十年も治療師として仕事をしても、
「プロ」の治療師になれるわけじゃないんだ。

特にこの「ヒーラー」という立場。
とても特殊な世界の住人だと思う。
通常の仕事のプロフェッショナルとは違うのだ。
「見えない世界の住人」でもあるのだ。

ここではヒーリングをするプロを
「ヒーラー」として説明していこう。

最初に「ヒーリング」の訳だ。
アイマイに「癒し」とか訳されるが、
「癒し」には
「癒し効果」と
「癒し行為」がある。
例えば森林には「癒し効果」があるが、
森林が「癒し行為」をしているわけじゃない。
そして「癒し行為」があり「癒し効果」があっても
それだけで「ヒーリング」とはいわないのだ。
例えば、
恋人を撫でると「癒し効果」があり、
撫でる行為は「癒し行為」ではあるが、
恋人に「ヒーリング」をしているわけじゃい。

だから「ヒーリング」の定義を
「積極的な癒し行為」とする。

  ヒーラー論・2
08/08 (日)

相手が回復するために行なう。
相手が調和するために行なう。
相手が「元の氣」になるために行なう。
そういう意思があって行なうのを
「ヒーリング」という。

ここで混同されやすいのが「治療」だ。
「ヒーリング」の結果として「治療」にもなるが、
「ヒーリング」は「治療」じゃないのだ。
「病気を治す」という結果を求めない。
「治った」という結果で判断しないのだ。

だから「ヒーリング」が出来ても「治療者」じゃない。
ここはしっかり認識しておかないと、
「生兵法はケガのもと」だし、
「患者」としてくる人にも迷惑をかける。
「ヒーリング」が出来ても
「治療」としては「シロウト」なんだ。

「ヒーラー」を「ヒーリングができる人」にしてしまうと
ある意味、誰でも「ヒーラー」になってしまうんだ。
病気に対する姿勢がアイマイなままでは、
治る機会と時間が失われてしまう。
苦しむ期間が続いてしまうんだ。
「ヒーリングが出来ても、ヒーラーじゃない」

「ヒーラー」は「治療者」であり、
「ヒーリング」を「治療法」として応用するプロなんだ。
運転ができても、プロのドライバーじゃない。
車を動かす事が出来ても、プロじゃない。
絵を描けても、画家じゃない。
そこには目に見えない、レベルの差が歴然とある。

プロフェッショナルとシロウトの違い。
知識や経験や技術力の差じゃないんだ。
社会的な看板や地位でもない。
「それで食べていける」なんて、
経済的自立で判断する事でもない。

「自分の存在を重ねている」
(命懸けである)
「生き方と融け合っている」
(生きる事と不可分である)
「他の幸せに貢献している」
(この世に存在する意味を内蔵している)

一見・・・メンドウクサイ・・・。
かなり・・・マトモ・・・。
でも、自分に適っているなら、
自然体で歩いていける道でもある。
そしてプロとは
他人が判断するモノじゃなく、
自分で自覚できる立場でもある。

  ヒーラー論・3
08/09 (月)

「ヒーリング」のプロが「ヒーラー」だが、
通常の「治療」との違いをもう少し説明しよう。

通常「治療」は「病気」を観る。
特に西洋医学・東洋医学などは、
「病気の原因」を突き止めて、
それに対応する治療法を当てはめる。
つまり検査や原因判断に重点を置き、
「治療」自体はマニュアル通りで対応するのだ。
通常の医学・医療体系は
治療に重点(氣を込める)を置かないのだ。
(西洋医学と東洋医学では、
部分を見るか全体を見るかの違いはあるが、
原因から治療法を当てはめる、
という点では同じなのだ)

長所として、
体系が整えば誰でも治療できる。
(学べば誰でも医者になれる)
多くの人に同じように対処できるのだ。
地球の裏側でも同じ医療が受けられる。
条件として
原因がハッキリ掴めた病気やケガ、
それに対応する治療法が確立している事。

短所として、
個々特有の原因には対応できない。
(マニュアル以外に対応できない)
病気のプロではあるが、治療のプロではない。
だから原因不明だと治療法不明となり、
症状の対処療法しか出来ない。
痛ければ「痛み止め」や抑制する方法だ。
一つ一つの原因が判明しても、
複合的な病気には治療法が共栄し難くい。

「ヒーリング」は「原因を観ない回復法」だ。
「生命力」を還元化・活性化する方法だ。
だから「ヒーリング」は「医学・医療」じゃない。

でもね・・・
ここから、ちょっと複雑な説明だけど・・・
「ヒーリングは医学・医療じゃない」けど、
「ヒーリング」を活用する「ヒーラー」は、
「医学・医療」の一分野だと思っている。
つまり・・・
「ヒーラー」は論文化できない医学であり医療だと思う。
だから困るよねぇ・・・科学じゃないから。

  ヒーラー論・4
08/10 (火)

学校で学べる医学・医療の専門家が医師なら、
「(プロ)ヒーラー」は(現状では)医師ではない。
でも、論文化や技術を教える事は出来ないけれど、
医療の専門家ではあるし、
学問でもある。

教える事が出来ない学問。
教えても伝えられない技術。
誰でも努力すれば卒業できる学校では
「ヒーラー」は育たない。
勉強や努力と別な要素が大半を占めるため、
誰でも平等に「ヒーラー」にはなれないのだ。

「ヒーラー」は西洋・東洋医師とは
別な方向からの「治療師」なのだ。
別な次元からの「治療」なのだ。
(いわゆる先進国社会では認めにくいのだが、
最近はヨーロッパなどで再認されてきている)

それは「生まれつきの要素」かもしれないが、
ワシは「運命」だと思っている。
運命ならば・・・
ヒーラーになるのも、なれぬのも、仕方ないよね。
ヒーラーになっても、その先の道は果てが無い。
「意識」と同調して広がり、
「世界」と同調して深まるならば、
一生かけてもたどり着けない道なのだ。

その代わり、
広がるほどに、深まるほどに
魂は自由になり、世界を知る目は広がる。
多くの人の手助けが出来るようになり、
嬉しさは広がり、
喜びは深まる。

そして・・・その代わり

  ヒーラー論・5
08/11 (水)

「ヒーラー」の内臓する「智」は、
今の段階(時代・世界)で論文化できないが、
やがて「学問」として成り立つ。
(太古の時代には学問としてあったというが、
その「太古の世界」を証明できない)
その中の一つに「分かち合い」がある。

通常の医師ならば患者と接しても、
感染菌を気をつければ病気を貰う事は無い。
まして「痛み」や「苦しみ」を貰う事は無い。
患者と医師は同一体ではないからだ。

ところが「ヒーラー」の活用する「ヒーリング」は、
「分かち合い」で成り立っている。
「交じり合い」であり「調和作業」でもある。
当然、患者側からは「病気」も流れて来る。
「痛み・苦しみ・悲しみ」も流れて来る。
全体ではないが、相手と同一体となるからだ。

「ヒーラー」の能力の広さ・深さにより、
その「分かち合い」の広さ・深さも正比例する。
患者側からの「痛み・苦しみ・辛さ」も正比例して増すが、
「嬉しさ・心地よさ・幸せ感」も同調し正比例する。
そして調和(回復)時間は反比例するのだ。

患者側からは「ヒーラー」の「光」の
広さと深さが流れ込んでくるわけだ。
だからマニュアル通りじゃない。
「この病気・症状には、この療法!」
というわけにはいかない。

回復・還元する条件や時間の違いは
「治療者」としての「ヒーラー」の能力によるのだ。
「患者」と「ヒーラー」の同調度によるのだ。
「患者」の本気度によるのだ。
原因究明や出来上がった理論じゃないのだ。

今の医学・医療とは別方向からの医療。
相手と同一体になって、治療する医療。
だから「ヒーラー」には絶対条件がある。
それは能力の高さじゃない。

  ヒーラー論・6
08/12 (木)

能力は使わなければ、衰える。
使いすぎれば、消耗する。
デタラメに使えば、壊れる。
そして、普通に使っても能力は
維持は出来るが、上がらない。

能力は何十年使っていても、
効率が良くなるがレベルは上がらない。
そして「プロ」は常に上を目指す者。
レベルを上げる事はプロの条件だ。

能力が上がるのは、
ギリギリ、崖ップチに立たされた時。
つまり、それまでの限界を超える時なんだ。
だから、真剣。
そして「ヒーリング」は「分かち合い」だから、
ダメージもギリギリまで受ける。
ギリギリは・・・命懸けなんだ。

ヒーラーは余裕で出来る立場じゃない。
「優しい癒し人」では無理なんだ。
分かち合いだからこそ
命懸けだからこそ、
レベルアップより優先する絶対条件がある。

それは「セルフヒーリング」だ。
自分に「光」を分ける能力だ。
「自分が受けた闇」を「浄化」する能力だ。
これが出来ないと続けられないのだ。

「ヒーリング」能力はイキナリ付く事がある。
イキナリ授かる事がある。
学んで憶える能力じゃないし、
練習して付ける技術でもない。
(その部分もあるけど、プロから観れば
アマの力しか付かないのだ)

能力を発揮して成果を上げても、
年数が経つほど能力は下がり、本人は苦しくなる。
本来は「幸せ」のお手伝いの能力なのに、
幸せじゃなくなるのだ。
「能力がある」事が「ヒーラー」だと勘違いし、
そのまま「プロ」として仕事をしてしまうからだ。

  ヒーラー論・7
08/13 (金)

プロフェッショナルとして仕事をするのは、
通常は外側に向かって能力を発揮する。
能力の高さ、強さ、結果などを重要視する。
外側に向かって、自分の存在を賭ける。

医療従事者(医師等)も同じだ。
プロとして活躍する人は、
常にレベルアップを目指し、
自分の存在を賭けて仕事をする。
(そんなプロは少ないけど・・・)
この対象は患者に向いている。
当たり前だ。

ところが「(プロ)ヒーラー」は、
患者より優先する相手がいる。
自分だ。
「ヒーリング」を扱うプロは、
外側より内側を優先する。

調和・還元・回復の源は、
宇宙だか地球だか神様だか解らないが、
とんでもなく大きな存在から流れてくる。
しかし、通路口として「人」を使う。
その部品として「ヒーラー」がいる。
例えば・・・変圧器のようなものだ。
変圧器付きの通路(部屋)なのだ。

変圧器(能力)が優秀であっても、
通路は汚れやすいのだ。
ところが変圧器(能力)が特殊だから、
意識が変圧器に集中してしまう。
ここに「ヒーラー」の落とし穴がある。

変圧器からの何らかの力によって、
苦しむ人が変わっていく。楽になる。
「人の為になる」という大義が、
冷静に自分を「観る」事を濁らせる。
時には「患者を救う・救える」と勘違いし、
外側を変える事ばかりに意識を注ぐ。
冷静にみれば「変わる」のは、
「内側」に力が影響したからと知っているのに。

「外側からの力は外側に影響し、
内側への影響は内側からの力」という、
基本的なこの世の仕組み。

「ヒーリング」は一つの方法であり、
その仕組みは解らなくても使えるが、
「ヒーラー」は仕組みを理解しないと続かない。

「内側を観、内側からヒーリングする」
この「内側を観る」技術は、
古来から「ヨガ」と呼ばれていたものだ。

  ヒーラー論・8
08/14 (土)

「ヒーリング」は「分かち合い」。
だから患者からの様々な闇(病み)も受け取る。
「ヒーラー」は器だから、人により大きさが違う。
数人分の闇でいっぱいになる器もあれば、
数万人分の闇を受け止められる器もある。
その闇は器の底から積み重なっていくので、
闇を溜め込んでいる事に気づかない。

器が小さいヒーラーならば、
ある意味ラッキーなのだ。
すぐ、いっぱいいっぱい、になり、
それ以上のヒーリングが出来なくなる。
プロに進むか、辞めるか、選択できる。
重い病気に進んだり、
命が絶たれる事は少なくなる。

恐いのは能力が強く器が大きい場合だ。
強いほど、強い闇を引き受けるし、
大きいほど、多くを溜め込んでしまう。
古今東西、能力のあるヒーラー達の多くが、
突然のようにこの世から旅たってしまう。

能力が強く、器が大きく、
夢や意志に向かう実行力が優っている人ほど、
その途中で次に世界に行ってしまうのだ。
能力や器や実行力はケタ違いでも、
肉体の限度にそれほどの差はないのだ。
優れた人故の落とし穴ともいえる。

能力の強弱にかかわらず、
器の大小にかかわらず、
「ヒーラー」であり続ける条件は、
「セルフヒーリング」を優先する事だ。

やがて、「セルフヒーリング」する事が、
結界を越えた「ヒーリング」と同じになる。
究極の「ヒーラー」は
何もしない「ヒーリング」だと思う。
ただ居るだけで、
縁がつながるだけで、
この世に存在するだけで、
「ヒーリング」を行なう。

「24時間のヒーリング」
「空間の結界の無いヒーリング」
内側を観、浄化する事が
外側を調和する事と一つになる。

「ヨガ」という意味は「結び」
そして、
内宇宙(自)と外宇宙(他)の一如だとすれば
「ヒーラー」の目指す境地も
上り口が違っても、同じだと思う。

ところが境地は遥か遠い。
現実には日々溜まってしまう苦しい闇を
何とか浄化しなくてはならない。
「セルフヒーリング」といっても、
自分に向けての「ヒーリング力」は
他への「ヒーリング力」の数分の一程度だ。
これは多分・・・
自分を完全に「他」と思えないからだ。
あるいは同じ意味だが、こういう表現もできる。
「自他の区別があるからだ」

では現実的にどうしよう?

  ヒーラー論・9
08/15 (日)

「セルフヒーリング」が完璧に出来るのならいいが、
どうしても浄化しきれない闇(病み)が残る。
この闇は元々の原因が自分に無い闇だ。
「分かち合い」で他から引き受けた闇だ。
だから、通常の医療では治せない。
通常の医療は「原因探し」から始まるからだ。
原因が本人に無い「病み」は、
通常の医療では治せない。

「分かち合い」で引き受けた闇は
「ヒーリング」でしか祓えない。
しかも当たり前の事だが、祓えるのは、
自分より上位(ハイレベル)の「ヒーラー」でないと無理だ。
自分が引き受けたレベル以下のヒーリングでは、
「分かち合い」の法則が成り立たない。

「ヒーリング」は「分かち合い」ではあるが、
流れる光は高い所から低い所に一方通行なのだ。
その時に低い所の闇が高い所へと流れる。
光は常に上から下へ
闇は光が注いだ方向(上)へと浄化される。
だから、上位の「ヒーラー」が必要になる。
その「ヒーラー」と出会える「縁」が必要となる。

時には「ヒーラー」は「ヒーラー」の形をとらない。
特に上位の「ヒーラー」は「ヒーラー」に見えない。
本人も「ヒーラー」だと思ってない場合が多い。
そう、例えば・・・マザー・テレサのように。
例えば・・・ダライ・ラマ法王のように。

「精神の浄化を常とする本物の人」に会う事は、
誰にとっても、とても大きな意味がある。
「ヒーラー」にとっては、正しく命の救い主になる。
すべての「ヒーラー」は常に、そして時に、
最上級の「ヒーラー」に波動を合わせる必要があるのだ。

最上級の人はアヤシゲな新興宗教は起こしてない。
誰でも認める優しい人だ。
特定の人にだけ祝福するような偽の偉人じゃない。
地球上の生きとし、生けるモノ達に
平等に優しい眼差しを向ける人だ。

「セルフヒーリング」と「最上級のヒーラー」
これらは自分に向ける「ヒーリング」だ。
ここを基礎として、他へと「ヒーリング」する。
「最初は自分」
「自ら輝く」
それがプロとしての「ヒーラー」になる。

輝くといっても、立派になる事ではない。
聖人君子になる事じゃない。
輝くというのは、和らぎ、柔かくなる事なんだ
(不マジメなワシでもプロになれるんだ・・・)

  ヒーラー論・10
08/16 (月)

ヒーラーの上下関係で少し説明したが、
「ヒーリング」の「分かち合い」は「同情」とは違う。
同波動の共鳴による「分かち合い」じゃないのだ。
表現が適切じゃないかもしれないけど、
「同情」は「傷の触りあい」だと思う。
それは、それなりに必要であったり効果があったりするけど、
ヒーリングを意味する「積極的な癒し行為」じゃないんだ。

「同情」は時に「癒し効果」はあるけど、
気をつけないと、傷をヘタに意識してしまって、
「双方共に落ち込む」場合が多いんだ。
「同情」って心優しいようなイメージがあるが、
結局はお互いの為にならない。
回復のお手伝いにならない。

「優しさ」と「優しい行い」は区別しないと、
望む事の正反対になる事もある。
「優しい対応」で立ち直る人もいるが、
「優しい対応」でダメになるタイプの人もいる。
(「一人立ち」できない最近の男に多い)
「真の優しさ」は「厳しさ」の姿をとる事があるんだ。

「ヒーリング」は光を一方的に注ぎ、
闇(病み)を一方的に受ける。
そこには上下関係が必要不可欠なんだ。
(いわゆる霊性レベルの上下関係じゃない。
霊性レベルなんて、人間では同じだと思う。
単純に、専門的な立場の違いだ。
例えば・・・足の速い人と普通の人の違い)

「分かち合い」といっても、分ち合うモノは正反対のモノ。
だから「ヒーラー」は分けられるだけの「光の量」と
闇を受け入れる「容器の大きさ」が必要になる。
容器は「陽気」でもある。

「ヒーリング」と「同情」の違い。
「ヒーリング」が出来る能力がある事と
「ヒーラー」である事の条件の違い。

いずれにしても「セルフヒーリング・自己浄化」は、
闇(病み)と触れ合う場合には必要不可欠。
そして「セルフヒーリング・自己浄化」の道は、
人間の智慧として「ヨガ」がつくり上げていた。
「自己観」と「施行」の一如。

嘗てワシはお師匠様に
「氣功(ヒーリング)とヨガは車の両車輪」と指摘されたが、
「ヨガ」も道を進むと「セルフヒーリング」と一体になる。

また龍村師匠と同じ空間を過ごせる。
「(プロ)ヒーラー」としては恵まれている。
更に先の道を観る事が出来る。

  オリンピック・1
08/17 (火)

アテネ五輪が開催中だ。
マスコミ報道はメダル中心だが、
メダルは競技者本人の内部の価値であり、
他がアレコレ騒ぐ事じゃない。
そんな事より、肉体と精神力の可能性を、
世界の一流達が見せてくれる事が素晴らしいのだ。

可能性は「夢」であり「希望」だ。
そして限界線上で披露する姿は、
余計なモノを外さざるをえない故に、
美しい

どんな分野であれ、一流は魅力がある。
「プロ」は「存在を賭けて他に貢献する」が、
「一流」は「夢」を見せて「希望」を示し、
時に「気づき」を引き出してくれる人達だ。

各分野に「一流」は必ずいるものだが、
「一流」であっても「プロ」ではない。
必ずではないが、各分野に「プロ」もいる。
しかし「プロ」であっても「一流」は少ない。
「プロ」は全て「一人前」だが「一流のプロ」は極少数だ。

「プロの条件」の一つは「長く貢献する事」でもある。
何年も、時には何十年も続けていられる事である。
しかし、オリンピックは「最高」を披露する場であり、
それは一時的でかまわない「一流」なのだ。

「一流」になるまで凝縮された時を経たはずだ。
とても濃い時間を乗り切って来たはずだ。
「自分の為」かもしれないが「存在を賭けて」いたはずだ。
ならば・・・
できうれば・・・
その「一流」を「他へ貢献する為」に、
「プロ」となって欲しいと思う。

オリンピック選手の「一流」は選ばれた人達だ。
もちろん各自の努力でつかんだ「一流」だが、
それだけでオリンピックには出場できない。
「一流」+αが加わっていると思う。
そこでお終いにするのは、惜しいと思う。

ワシも一分野での「プロ」だ。
だが「一流」かというと・・・アヤシイ
この分野は人と比べる事は出来難いし、
目に見えない部分が多すぎる。
それでも解る事がある。
「プロ」であっても「一流」になるのは難しい。
だが「一流」であるなら「プロ」になるのは、
簡単とはいわないが、難しくもないはずだ。

「一流のプロ」
それは大きな貢献ができる人だ。
オリンピック選手には、
オリンピックの先に進んでいただきたい道だ。

  オリンピック・2
08/18 (水)

力と技
それらを最大限に引き出す
精神力
そして・・・「カン」

この「カン」は通常「感」だが、
オリンピック選手レベルでは「観」となる
つまり「見えないモノを観る」
その「モノ」の一つに「瞬間」がある。

あやふやな「感」も研ぎ澄まされた感覚では、
確かな「観」に昇格するのだ。
どの選手もずば抜けた力と技と精神力で、
オリンピック代表に選ばれてきたはずだ。
力と技と精神力に大きな差はない。
全員が「一流」の人達だ。

それでも「一流の中の一流」の区別がある。
その一つが「瞬間の観切り」
人間の神経速度を超えた次元で働く「カン」
この「カン」の差が「同じ一流」に差をつける。

解説者は「精神力の差です」と言うが、
それは大きな間違いだ。
精神力なら、通常は日本よりも他国の選手が上だ。
「生活」が競技に直結している国や、
底辺が広く、選考が厳しい国の精神力は大きくなる。
逆に風土として精神力の小さな国もある。
それでも「一流中の一流」になる選手はいるのだ。

違いは「観」
この「観」は実践でも磨かれるが、
(崖っぷち、ギリギリ状態を体験すると、
能力はレベルアップしてしまう。
これは緊張状態の持続からの覚醒だ)
逆方向の「超・やすらぎ」からでも覚醒する。

オリンピックを見る、楽しむという機会に恵まれたのに、
メダルの数や順位に意識をもっていくのでは、
とても、とても、勿体無いし、残念だと思う。
オリンピックに集まる「一流達」の全てを、
見て、感じて、驚いて、気づいて、愉しんで欲しい。

もちろん感動する「人間ドラマ」はある。
でも、誰にでも感動する「人間ドラマ」はあるのだ。
オリンピックはいろいろな問題も抱えてはいるが、
「一流達」が一同に集まる機会なのは間違い無い。
その「一流」は「夢」や「希望」や「可能性」で、
我々一人一人の「生命力」を活性化してくれる。

  親子関係の「氣」・1
08/19 (木)

来月茨城県で話す講演のテーマだ。
親子関係の「氣」については、
治療の場面でも大いに関係してくる。
だから整理しておこう。
ホントは整理は苦手なんだけど・・・。
ワシは、雑多ハチャメチャが好きだ。
性格・・・壊れているかなぁ・・・

「氣」は万物の元
量子物理学でいう分子・原子、
そしてその先のクオークの
更に先にあるものだと思っている。
万物だから物質だけじゃない。
心や音なども「氣」から出来ている。
そんな一つに「家族」もある。

物質的には、それぞれが別々であっても、
「氣」はとても濃く強く繋がっているグループがある。
その中で暮らしに直接影響するグループに「家族」がある。
「家族は一つの氣」と云われるほど、濃く繋がっている。
肉体は別々だし、心も別々だけど、
(心は一つ、というのは比喩であり体が別なら心も別だ)
家族は「氣」が融けあっているのだ。

家族って何だろう?
家族の始まりは夫婦からだ。
(男と女の絆があり、一緒に生きる)
どんな家族でも元は夫婦から始まっている。
元々は他人同士だが、特別な絆で結ばれると夫婦になる。
見た目は似ているが、恋人同士や愛人同士とは違う。
見えない(夫婦)縁が繋がって、夫婦となる。
だから、必ずしも一番好きな相手でもないし、
好きかどうかも判らなくても夫婦になる場合もある。
(結婚前提のお見合いや親が決めた夫婦など)
それらは見えない夫婦縁の絆が結ばれたからだ。

絆は氣綱の事だ。
夫婦の氣綱は夫婦縁だから、
切れる綱でもある。
離婚して他の家族を創り直すことも出来る。
離婚しても綱が切れていなければ夫婦のままだ。
離婚しなくても綱が切れれば、夫婦じゃない。
見た目の形じゃない。

その夫婦から子供が生まれる。
「親子」が家族に加わった形だ。
この「親子」の絆(氣綱)は切れない。
夫婦の氣綱と違って切れないのだ。
離縁しても勘当しても切れない氣綱。
とても丈夫で濃く強く繋がっている綱だ。
だが、親から子へと一方的に繋がっているわけじゃない。
見えない通路が出来ている。
一生壊れない通路がある。
そういう氣綱が親子関係にはある。

  親子関係の「氣」・2
08/20 (金)

夫婦は横の氣綱で結ばれている。
横の綱は切れる事がある。
結び目が解ける事がある。
それぞれの氣綱を「縁」で結んだからだ。
元が別々の個々の存在だからだ。

親子は縦の氣綱で繋がっている。
縦の綱は切れない。
結び目が最初から無いからだ。
一本の氣綱は共通のものだからだ。

縦の氣綱については説明が難しいが、
単純にDNAの共通という意味じゃない。
見えない世界(氣綱)から、
見える世界(DNA・血筋)が創られる事があるからだ。

同じ家族でも夫婦の綱と親子の綱は違うが、
「家族は一つの氣」と云われるのは、
子の氣綱の出発点が、
夫婦の氣綱の結び目から生まれているからだ。

夫婦の氣綱は結ばれていても共通じゃないのに、
子とはそれぞれと共通の綱があるのだ。
母親(母)と子の綱は共通だ。
父親(夫)と子の綱は共通だ。
だから子の綱を通じて夫婦の綱の結び目は強固になる。
「子はカスガイ(鎹)」という言葉は比喩じゃなく、
夫婦にとって、正しく事実なのだが、
カスガイにするかどうかは夫婦の意思次第だ。
カスガイに頼る夫婦関係も本物とはいえないが・・・。

子供やその他の家族がいなくても、
夫婦は特殊な結びつきができる。
友達や恋人と別な結び目がある。
夫婦の事は複雑になりすぎるから、
夫婦についてのみの詳しい話はパスするが、
親子関係と夫婦関係は密接に係わる。

基盤が揺らぐと人は「不安・不満・恐れ」を抱く。
これは大人も子供も同じだ。
幾つもの選択肢がある大人(親)に比べて、
子供は一人立ちできるまでは基盤が親しかない。
親との氣綱に頼る部分は、
親が想像するより大きいし、多い。

逆に基盤がシッカリしていると、
「不安・不満・恐れ」は小さくなる。
いろいろな問題の原因はあるだろうし、
その修正も必要だろうが、
解決するコツは本人の「生命力の活性化」だ。

子供にとって生命力は勝手にアップする期間だ。
だからある意味、とても解決しやすい。
基盤の整備だけで済む場合が多いのだ。
だから問題解決へのカギは親が握っている。

  親子関係の「氣」・3
08/21 (土)

本来、子供は常に「生命力」が活性化している。
「成長する」というのは「生命力の活性化」の別名だ。
子供はある時期まで自動的に成長するように創られている。
生物全般のDNAに組み込まれている設計図によって。
肉体の成長が基礎だが、体験を応用する能力が成長する。
それも、すごい勢いで成長している。
子供の一日は大人の一日よりケタ違いに密度が濃い。

大人になり肉体の成長は止まっても
体験応用能力は成長するが、残念ながら自動的じゃない。
本人の意思の力と、まわりのサポートによってだ。
通常は努力と根性が必要とされる。
もう一つの「成長の方法」があるが、
それは・・・又、別の機会に解説しよう。

子供達の正常時は活性化状態。
初めての体験ばかりが当たり前の子供達。
大人には想像し難いが(忘れてるし・・・)
難しい問題ばかりが毎日起こっているんだ。
(意識が柔かいので子供は難しいとは思っていない。
活性化の状態は意識は柔かい。
意識を柔かくすると生命の活性化になる)

だが、時に、子供もつまずく。
体の病気に関しては、
小児科という西洋医学があるが、
心の病気(病気なのか停滞なのか?)は
今の医学では手探り状態なのだ。
それは体の治療法と同じように
心も原因を診断しようとするからだ。
心は宇宙と同じ広さがある。
原因究明は・・・無理が出ると思わんか?

視点を変えて「生命力の活性化」を基準にすると
心の病気は、あきらかに停止や萎縮した状態だ。
まして大人と違い子供は拡大状態が正常。
成長が止まってしまうのは非常事態だ。
大人が考えるより、もっと、もっと深刻な問題なのだ。
その代わり、回復する速度は大人よりも速い。
体であれ、心であれ、子供の「生命力」は
基本的に活動したくてしょうがない状態だ。
動き出すキッカケがあれば、乗り越える。
少しの手伝いで、後は自動的に回復する。

(子供の)つまづいた状態からの回復法。
「生命力の活性化」の一方法が、
「親子関係の氣」「親子の氣綱」から可能だ。
親子の氣綱は共通の綱、共通の通路だからだ。

見えないけれど氣綱はダイレクトに影響する。
ヘタな治療法よりもずっと有効なのだ。
子供の回復は他人(専門医であっても)より、
親が中心であり、基本。
中心があり、基本があって、サポートとして、
その他のまわりの人達がいる。

  親子関係の「氣」・4
08/22 (日)

「親の言う事は聞かないが、マネはする」
手本として、親の行動の真似はする。
同時に親の深層意識も同調するのだ。
外側の真似だけじゃなく内側でも影響するのだ。
特に同じ通路(氣綱)から伝わる波動は、
そのままそれぞれの「生命力」に影響する。

子供に問題が起こった時、
親はどうしても「親としての」言行をする。
「子供の為」という意識が先になり、
「子供と同じ」という意識が後になる。

学校の先生をはじめ、いろいろな人がいるが
「子供の立場」に一番近く、早くたてるのは
同じ氣綱を持っている親なのだ。
同じ立場にたてるだけでなく、
直接、内部から回復への刺激も与えられる。

どんな有利な通路を持っていても、
活かす、活かせないの分れ目は、
親の意識のあり方がポイントとなる。
意識は理解すれば自動的に変わる仕組みだ。

今まで「子供の為」と思っていた言行は、
親と子は立場が違うとした意識からだった。
その意識を変える事なく、もう一つ加える。
親と子は同じ通路を使っている。
それが親子の氣綱。

親として子供に対し「心配・不安」を持つ。
感情を変えろというのは無理な話だが、
「心配するのは親だからだ」と思う事の裏には、
「心配」が「子供の為を思って」だから正当だとする。
「子供の為を思う」のと「子供の為になる」のとでは、
時には正反対の出来事を引き起こしてしまう。

単純な「事実」を知る事はとても大切だ。
事実を受け入れる事は(いい)未来を創る。
そんな「事実」として、親子の氣綱を知る。
親が(相手が誰であろうと)不安を持てば、
子供は不安を感じるようにできている。
親が心配すれば、子供は落ち着けない。
これらは、単純な事実。

子供の基盤は親の心にあり、
「安心」できれば自動的に回復力は増す。
本人の回復力(生命力)を活性化しないで
物事を解決しようとすると歪みが生ずる。
一時的に乗り切っても後でより大きくつまづく。
だから、優先順位として親の安定が必要だ。

「世界中を敵にまわしても、お前と一緒だ」
これは特に格好良いセリフじゃなく、
親子関係の氣綱からみれば
単純な事実なんだ。
力まないでも、普通に言える事なんだ。
この言葉で子供は活力を生み出せる。

  親子関係の「氣」・5
08/23 (月)

子供の土台を詳しく観ると、
父親と母親の真ん中にある。
母親でもなければ、父親でもない。
二人の「関係の真ん中」が土台なのだ。

そこから繋がっている親子の氣綱は、
共通であるが故に、ウソがつけない。
つまり、子供の生命力の活性化は、
夫婦の氣綱に大きく係わっている。

夫婦間の安定はそのまま子供の土台になる。
この土台は成長するにつけ、少しづつ小さくなり、
本人自体の土台がその分大きくなる。
親子の氣綱は切れる事がないが、
土台としては、やがて離れる。
それが「一人立ち」「成人」という事だ。

親の責任は幾つもあるだろうが、
親子の氣綱からは一つだけだ。
子供が一人立ちするまで、土台を強固に保つ。
夫婦の関係は良好に保つ。
夫婦の氣綱は夫婦縁で結ばれたが、
結び目を保つのはお互いの意志によるのだ。
それが子供の生命力に直接影響する。
問題解決への最大の基盤となる。

ここで応用問題だ。
現在離婚している、あるいは直前の場合、
(つまり、仲が壊れた夫婦の場合)
親の責任としての土台をどう保つか?

そんなに難しい事ではない。
氣綱は見えない世界のモノ。
見えない世界は意識で変わる。
時間も空間も左右できる世界。
事実として夫婦が良好だった時期がある。

今の相手は愛せなくても、
過去は愛していた事がある。
それなら、その強固に結ばれていた過去を
「今」に持ってくればいい。
それで子供の土台は安心できるのだ。

子供が元気になって欲しい時、
親は子供に働きかける事より優先して、
夫婦の氣綱を強固に保つ。
夫婦が壊れているならば、
夫婦が良好だった過去を持ってくる。

今、どんな状況であっても、
「愛されて生まれて来た」事実を知るだけで、
子供の生命力は活性化し、
同時に親の生命力も活性化するのだ。

  親子関係の「氣」・6
08/24 (火)

暮らしの中で親が子供に対する最多の行いは
「言葉」になるだろう。
(子供はしばしば、親に対して無言になる)
もちろん言葉は「氣」を含んでいる。
その「氣」は言葉本体から発しているので、
親の心よりも言葉の氣のほうが優先してしまう。

今まで云われてきた「言葉の使い方」は、
自分の思いを相手に上手く伝えるための、
「話し方」が重視されてきた。
言葉はコミュニケーションとしての道具として。

話す事は人と人が関わり合って暮らしていくのに、
一番大切で大事な事だと思う。
今、キチンとした話が出来ない人達、
子供達が増えているのは、これからの「社会」が
ふれあいの少ない未来に向かっている前兆かもしれない。

「話す事」についても、もう少し深く観れば、
話しても本当の気持ちは伝わり難いもの。
言葉はコミュニケーションの道具ではあるが、
「優れた道具」じゃないと思う。
コミュニケーションとしては「欠陥だらけの道具」だ。
否、だからこそ「優れた道具」なのかもしれない。

話しても、話しても、伝わりきれない。
だから人と人は更に積極的に相手と解かり合おうとする。
その気持ちが、本来のコミュニケーションを創る。
「言葉は話すだけでは伝わらない」事を知った上で、
上手に活用する道具だと思う。

言葉のもう一つの秘密
それは、言葉本体に「氣」が潜んでいる。
そして、その「氣」は状態を変化させる力がある。
宗教などでは昔から同じフレーズを唱えさせた。
それはこの力を知っていたからだ。
「思い」よりも優先して力を発揮する。
だから「話し方」も大切だけど、
「言葉の使い方」が更に大事になる。

「氣」は同波長の「氣」と共鳴する。
共鳴すると倍増して力を発揮する。

例えば「交通事故にあわないようにね」と
「安全に行くのよ」とでは親の心は同じだし、
コミュニケーションとしての伝わりも同じだ。
だが、見えない影響は正反対。
「交通事故」の言葉に反応して「交通事故」を呼ぶ。
「安全」に反応して「安全」を呼ぶ。

言葉の「氣」は「交通事故」にあるが、
「あわないように」や「行く・来る」には無い。
マイナス言葉として「○○してはダメ」というと
マイナスの影響が出るが、それは心理に働きかけ、
言葉の「氣」は事象に働きかけるのだ。
だから、マイナスもプラスも無く、
言葉の意味そのものを呼び込んでしまう。

一見、ちょっとした言葉の使い方の違いに見えるが、
親側の心理状態の現れでもある。
ここを覚えて修正するのは、
子供の生命力の活性化と同時に親の内観もあり、
さらに余計な悪運を呼び込まないコツでもある。

  親子関係の「氣」・7
08/25 (水)

無意識での言葉の使い方は
不安語や危険語で警鐘しがちになる。
現代の世相を反映しているのかもしれないが、
それは親の心理状態の反映でもある。

不安や心配を前面に出した言葉は、
本心とは逆の事象を呼び込んでしまう。
本心では不安や心配を取り除きたいのに、
不安は不安を呼び、心配は種を育ててしまう。
「思い」よりも「言葉」が優先するからだ。
だから「言葉の使い方」を覚えると、
不安や心配の心があっても問題ない。
それどころか不安や心配の解決を促進する。

「氣を使う」という事は難しくないが、
「心使いをする」事と混同してしまう。
「氣は心」という言葉があるが、
「氣」と「心」が同じという意味ではない。
「心(意識)」によって同じ「氣」を呼ぶ事が出来る。

強く、あるいは純粋に(静かに)思う事により、
「氣」は事象を変える事ができるが、
心を一定に保つことが出来るのは、
ある意味、達人でないと無理だ。
普通、心は揺れ動き、不安定なモノなのだ。
だから心使いをする事と
「氣」を使う事は分けて考えた方がいい。

「氣」を使う事は解れば難しくない。
目に見えないが、日常で使うモノに含まれている。
その一つが「言葉」だ。
良寛禅師はそれを「正語」といったようだが、
正しい・正しくないを判断するのは、
かなり冷静な目を持っていないと無理だ。
それよりも「明るい」か「暗い」かなら、
誰でも判断できやすい。

使おうとしているのが「明るい言葉」か
「暗く、嫌な言葉」かは誰でも同じく感じるものだ。
「事故」と「安全」なら誰でも判る。
閉じこもっていると「病気になっちゃうよ」と
外に出れば「元気が出るよ」なら、後者を使う。

心の使い方で「氣」の種類が違ってくるが、
「好い氣」を使う事でも心は影響され変わってくる。
明るい言葉は子供の心を変え、事象(体も入る)を変えるが、
同時に親の心も変えるのだ。
親と子には共通の氣綱があるので、相乗効果がある。
これは家庭が変わり、家族も変わるという事だ。
「氣」を上手く使えば、親子双方に同時にいい影響を出せる。

言葉だけじゃない。
「明るい」か「暗く・嫌な感じ」かで、
「氣」の種類を判断できれば応用がきく。
「明るい氣」は問題を融かす。
「暗らい氣」は問題を増長させる。
ならば、日の光など「明るい氣」の典型だ。
問題(闇)を分析するよりも、
何にもしないで日の光を浴びる方が、
結果として問題は融けるものだ。

  親子関係の「氣」・8
08/26 (木)

親子の氣綱でも父親と母親では太さが違う。
圧倒的に母親の方が太い。
どんなに隠しても不安や不満の母親からは、
子供にダイレクトに影響が出る。
子供の病気だと思っていたら、
母親の病(闇)が子供に移っているのは、
決して珍しい事でもないのだ。

心はウソがつけるのだが、
「氣」はウソがつけない。
誤魔化し様がないのだ。
特に母親は見えない臍の緒が、
未だ子供と繋がっているのだ。

母親から子供に病(闇)が移るのなら、
親子の氣綱を通して、元気だって移る。
(元気は新たに発生するのだが、まぁいいや)
「明るく見せる事」と「明るくなる事」を混同しなければ、
母親は子供の問題解決の最大最高の実力者なんだ。

基本を「正しい・間違い」に置かず、
「社会生活・皆と一緒」に置かず、
「明るい・暗い」で判断していけば、
ほとんどの子供の問題は回復する。

思い出して欲しい。
その子供の基本は赤ちゃんだった。
「暗い」赤ちゃんはいない。
「元気」と「明るさ」は一心同体。
「元気(生命力の活性化)」が問題解決のカギならば、
「明るさ」の刺激で取り戻せる。
「明るさ」を直接届けられるのは、
共通の氣綱がある親(特に母)だけなのだ。
(兄弟姉妹は横の氣綱で少し違う)

自分が明るく愉しくなる生き方。
子供の不調は親子で幸せになるチャンスでもある。
何故不調になったか、を探すのではなく、
どうしたら「明るく」なれるか、を探すのでもない。

「明るい事」「愉しい事」「素敵な事」を探すのだ。
世の中を見回せば、幾つでもある。
日常の中に幾つでもある。
そんな「いいとこ探し」の癖をつけていると、
いつの間にか、自分も「明るく」なってしまう。

「明るくなろう・明るくさせよう」では、
中々明るく(元気に)ならないものだが、
「いいとこ探し」をしているだけで、
勝手に「明るく」なってしまう。
親子の共通の氣綱というのは、
とても有り難い「神様からのプレゼント」なんだ。
神様は馬鹿丁寧じゃないから、プレゼントは呉れるけれど
使うのは本人次第だが、親子が恵まれているのは
マチガイナイ!

  やすらぎ・1
08/27 (金)

性格としてワシはダラけている。
根性は無い。
努力は・・・嫌いというより恥ずかしい。
懸命さが足りないのか見えないのか判らないが、
カタツムリやカメのようだと思う時がある。

この仕事、この能力の場合には、
「氣」を落ち着ける事は常に心掛けているが、
闇(病)をナメていることは無い。
常に真剣勝負でもある。
でも、常に余裕、幅、別次元を同時に持たないと
続けられないし、上質の「氣」も扱えない。

冷静のように見せても、必死の時はある。
余裕のように見せても、後が無い時は結構ある。
一瞬一瞬のデジタル状態をイメージし、
痕を引きずらないようにしているが、
底に溜まってしまう闇があることを知っている。

10年経った今年になってから、
また、変化している事に気づく。
以前と同じく、必死もある。
後は無い。痕は残る。闇も残る。
それなのに・・・
「やすらぎ」を何時でも感じる。

根性は無い。努力はしない。懸命でも無い。
依頼は少ない。金は無い。行動力も無い。
それでも、笑顔はあるし、ヒマもある。
本妻のウェストは大いにある。
愛人も沢山いる。
(勝手に愛人です。相手の同意は無い)
そして・・・「幸運」があると感じる。

変化したんだぁ。
変化できたんだぁ。
変化する事、させる事を仕事として選び、
どんな状況になっても魅力を感じた。
これって・・・「好き」だって事だな。
うん、ワシ、この仕事が好きだ。

最近は「好きな事」「好きな人」が、
どんどん増えているんだ。
「好き」だらけだから、
「隙」だらけになり、
「やすらぎ」が生まれたのかなぁ。

以前の必死の状況の時は
意識の中で「隙」を創らないようにしていた。
闇に入られるのが怖かったのだと思う。
自分の能力を信じていなかったのだと思う。

今の必死の状況の時は「隙」を創り、
相手(闇・病)を受け入れるのが、
そんなに嫌じゃなくなっている。
「来るもの拒まず」
それが闇(病)でも苦しみでも。
もちろん美女でも拒まない。
妖怪でも宇宙人でもOKだ。

この余裕は・・・何だ?

  やすらぎ・2
08/28 (土)

理由がわからない。
根拠も無い。
でも事実として「やすらぎ」を感じる。
脳の神経が切れたか(あ、ありうる!)
もう死期が近いのか(お、おい・・・^_^; )
あるいは・・・

5月に九州に行った時、宗像神社で写真を撮った。
宗像三(美)女神のうち、二女神様が写っていた。
ワシの「氣」を変圧器として使って、
(神様は高電圧のようなものだから・・・)
写真を本物の「御守り」として仕上げた。
縁のある人達に配っている。

なんかね
宗像の女神さんに少し褒められているような・・・
これは勝手な思い込みだと思うけどね。
そういえば・・・思い出した。
10数年前アメリカ本土に行った時、
ロス空港に着いた時から、アメリカを離れる2週間くらい
ず〜とワシに憑いたモノがあった。
(コラム2・03年7月「インナートリップ」参照)

それは・・・女神さん・・・らしかった。
ウィナーという女神さんでダンナか恋人がいた。
何をしてくれるのでも無いのだけど、
守ってくれているのは感じた。
ワシが氣功師になる数年前の事だった。
基本的に鈍感だったのだが、わかるのだ。
どうしてだか・・・わかるのだ。
(こういう話は、とってもアテにならない。
大いに勘違いがある事を知った上で書いているよ)

その時、ず〜と何かに包まれていた感覚だった。
その時の感じに・・・似ているのだ・・・。
この「やすらぎ」は、嘗て体験した感覚だ。
だから、別なモノだけど、やはり女神さんかなぁ?
それなら・・・宗像女神さんのような気がする。

宗像の美しい女神さまぁ〜
「やすらぎ」はとっても心地良いけど、
どうか、遠慮しないで、ついでに金運も・・・。

と勝手な理由の中で、一番の好みで決定しますわい。

  ガイアセミナー・1
08/29 (日)

27日から29日までセミナーがあった。
隣町にあたる月夜野町の湯治宿でおこなわれた。
龍村師匠主催のサマーセミナーだが、
今回は沖ヨガ・イタリア支部からの参加者と合同で、
「ガイア・国際セミナー・04」となった。
テーマ「生命との出会い・ヒーリング&ヨガ」
九州宮崎から青森までの参加者で総勢40名だった。

ワシは一応ヒーリング講師として参加したが、
する事は全員一緒だ。
ひさびさの龍村式実技。
しかも・・・強化法まで。
強化法というのは・・・易しいようで、
キツイ。

普段使わない筋肉を使い、
普段伸ばしていない筋を伸ばし、
普段刺激しない部位を刺激し、
そして・・・筋肉痛となった・・・。

10年ぶりの人との再会
9年前の人との再会
8年前の人との・・・
7年前の・・・
6年ぶり・・・
初めて会う人でも共通の知り合いがいる。
これから更に深い「縁」となる人と出会う。
「縁」で結ばれ合ったセミナーだった。
ここから、また、始まるんだなぁ。

見た目では特別なセミナーじゃないかもしれない。
(そ、そんな事はないか?・・・^_^; 。
かなり変わっているかも?
かなり・・・怪しげかも?)
ところが見えないレベルを観てみると、
とても濃く、高いセミナーなのだ。
これは自己自賛や身贔屓でなく、
事実として素直に表現している。
参加者もそう思っているかもしれないが、
更にその価値に気づくのは、もっと未来。

いいなぁ。こういうセミナーは。
参加できて・・・ラッキーだったなぁ。

  ガイアセミナー・2
08/30 (月)

イタリア・ミラノ在住40年の龍村恵美子先生。
龍村修師匠の義姉にあたる。
沖ヨガ(OKI-YOGA)を能力開発に応用し、
多くの成果と大きな評価を得ている。
特に芸術家の間ではとても有名な方だ。
日本でイタリアを紹介する多くの番組の
コーディネーターとしても有名だ。

頭部を中心とした独自の導引法を応用していたが、
その導引法が能力開発の引き金ではなく、
恵美子先生から直接、発せられる、
ある種の「氣」が作用しているんだけどなぁ。
多分・・・判る人には解るはず。

ワシも他力で「金運」の才能でも開発されればなぁ・・・
自力で「ヒーリング」のレベルアップは引き受けるから・・・
(女神さまに助けてもらっている事を忘れてる・・・
相変わらず、いいかげんなヤツだなぁ・・・)

それにしてもシンクロニシティというのか、
ワシも独自で能力開発の手抜き用として、
頭部のある部位に「氣」を送る事が閃いていたんだ。
だけどワシの事だから信用おけないし、
実践もするけど、熱心ではなかった。
それが恵美子先生が実績と成果を上げているので、
結構、当たっているみたい・・・。
もう少し自分を信用しよう・・・
(それは・・・無謀だし、無理だな!)

でもこれで自信がついた。
自分用に努力無しの能力開発法をしていこう。
他人に教えてもいいけど、出来ないと思うよ。
「氣」を送る事と何処に影響するかを同時に内観するんだ。
(努力無しでもやらないような根性無しでは、
成果は出ないかもしれんなぁ・・・
どんな能力が開発されるのかも判らないし・・・
マジメな能力なんて欲しくないし・・・)

講師をすると別の観方が出来る。
受講生の立場で先生を観るのではなく、
講師のお手本として観る事ができる。
自分の教える事に目をとらわれず、
受ける側を主として指導している。
声の出し方から、出すタイミングまで含め
指導者としての龍村師匠の凄さは、
別格だと、あらためて思った。
目指す道標がいる(師匠)というのは、
ホントに幸せな事なんだなぁ。
ラッキー♪

  ガイアセミナー・3
08/31 (火)

「ホリスティックヘルスコンサルタント養成講座」
第一期生として東京・北千住の龍村道場に通った頃、
同期だった人達と再会した。9年前だ。
ヨガ歴の無いワシがどういうわけか「指導員科」にいた。
ここは各地で教室を開き、生徒を指導している先生達が、
更に広く深く学ぶ為に集まってきていた。

その頃の集まるヨガの先生達の印象・・・
個性あふれているなぁ・・・
(クセがある人が多いなぁ・・・)
龍村先生を観ているから、ヨガを実践していると、
丸くなる、大きく、柔らかく、和らぐようになる、
そう単純に思っていたから、ある意味予想外だった。
(予想外は慣れっこになっていたし、
予想するワシに固定概念があったから予想外が起こる)

だから、龍村先生の下に学びに来ていたわけだ。
ワシは「人を観る」のが仕事の一部になっていたから、
「クライアントを観る目」でヨガの先生達も観てしまう。
問題を抱えているから「ヨガ」に出会い、続けている。
そのうちに指導員になり、教室を持つ。
でも、いろいろな問題は決して消滅していない。
人間だもん・・・クライアント達と変わらないなぁ。
そう思っていた。

あれから9年経って、同じ人を観る。
龍村先生の下に通っていても、
あまり変化を見つけられない人もいる。
(これは変化が無いのじゃなく、観るワシの力不足かも)
丸く、柔らかく、大きく、魅力的になった人もいた。

う〜m・・・人間だもん・・・様々だよなぁ・・・
どんなに優れた指導者に縁付いても、
長く教えを受けていても、
結局はその人が「目覚め」るかどうかは本人次第。

空海が唐に渡り青竜寺に入り
恵果より密教の継承者として認められたのは、
僅かの期間内の事だった。
何十年も同寺で修行している高僧が
何十、何百人もいたのだが、
少し居ただけの外国人(空海)が正統の継承者となった。

「目覚め」は時間でも継続でもない。
「質」と「レベルアップ」できる能力は、
その人自身に含まれる「生き方」からだろう。

「生き方」だから様々だ。
「縁」だけじゃ片手落ち。
「継続」すれば何時か「引き金」が来るかもしれないが、
一生来ないかもしれない。

再会した人を観て、いろいろな事を思った。
再会相手からは、ワシの事
どんなふうに観られているんだろうね?

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