04年9月のコラム           コラム2目次に戻る
  September
09/01 (水)

seven(7)を意味する言葉。
9月なのに「7の月」。(ハッキリいうと7月だ)
ローマ歴の月名はかなり、いいかげんだ。
神話の神様の名前だけなら、まだよかったのに、
皇帝の誕生月だから皇帝名とか入れるし、
皇帝が12名を超えるから(当たり前だ)すぐ止めちゃうし、
そしてこの9月からは2月遅れの数字を使う。

古代ローマの年の始まりが3月なので、
そこから数えると「7の月」となるらしい。
とにかくローマ歴の月名は、その場しのぎ・・・。
一貫性なんて、ちっとも無い。おっつけ仕事。
発明者のシーザーが暗殺されちゃったから、
混乱のままローマ歴を発表しちゃたんだろうなぁ。
(歴史に詳しくないから、違うかもしれない・・・)

24節気では白露と秋分が今月だ。
何度もいうが、24節気は歴じゃないので、
南半球では例えれば、啓蟄や春分になる。
同じ地球上だが季節は地域で変わるもの。
時は螺旋形で巡るかもしれないが、
季節は場所を移動すると・・・巡らないのだ。
いつまでも夏や冬でもいられるのだ。

秋。天は高く、心は深くなる。
深い心に畏れをいだくと・・・。
人は人に恋をする。
あるいは・・・
不安を解消させようと食欲で補う。
秋は・・・デブの季節・・・。

秋の深まりの前には秋雨がある。
でも・・・その前に、今年は残暑がある。
残ってしまった、熱い思いを、
秋雨で冷やす事ができるだろうか?

罪なオナゴだなぁ・・・
(何やら、意味深のようだが、
ホントはそれほどでもないと思うよ)

  龍ヶ崎
09/02 (木)

茨城県の龍ヶ崎市に行った。
龍ヶ崎西小学校PTAからの依頼で講演をした。
テーマは「親子関係の氣の活用法」。
「氣」から観る親子関係。
夫婦・親子の「氣綱」(絆)の話だ。

それにしても・・・
小学校の生徒数350人。
豚子の通う小学校総数40名
子供の社会である学校の大きさで、
いろいろが違うだろうなぁ

どちらも長所・短所もあるだろう。
いろいろが違うからいろいろな人になれる。
それは社会全体、日本全体、地球全体にとっては、
とても正常な事だし、大切な事だ。
違うからこそ「思いやり」が発生する。

多種多様な思いが交流するから「いのち」は活性化する。
多種多様な考え方が交流するから文化は活性化する。
多種多様な生き方が交流するから平和は生まれるのだ。

それが・・・どうもヘンだ。
最近の日本はヘンだ。
学校まで「効率化」を進めるらしい。
生徒より予算が優先するらしい。
未来より立場が優先するらしい。

エライ政治家や役人様は
学校の価値が解らないらしい。
頭のいい人達は価値観が統一されている。
・・・困った人達だなぁ・・・
迷惑な人達だなぁ・・・

効率化を進めると価値観は統一する。
操る側にとっては、楽な相手だ。
とても利用しやすい国民になる。
効率のよい社会は、とても不幸だと
チャップリンだって映画で教えていたのに・・・

おっと!
ひさびさに愚痴っぽくなってしまった。
政治・行政ネタは控えていたのになぁ。

今回の茨城では
気持ちのいい政治家さんとも知り合いになれた。
つい政治家には辛いコメントを書くが、
いろいろな政治家がいる事は承知している。

来る者拒まず、サルは追わず、
オナゴは優しく、イナゴは食わず、
サカナはあぶったイカでいい〜♪
いろいろだなぁ・・・

  浅間山噴火
09/03 (金)

9月1日の夜8時過ぎだった。
地震とは違う響きだった。
元々ワシの住む群馬県北部は岩盤が固いのか、
地震はあまり揺れないのだ。

玄関のガラス戸がビリビリ響けるのだが、
室内は少しも揺れないし、感じない。
でもガラスは結構長く強く響けていたのだ。
ちょうどクライアントがいて、
「えっ! 何? これ?・・・」
「う〜m・・・地震かなぁ?自信無いけど」

治療院にTVは無い。ラジオも無い。
金もないが、力もない。色男でもない。
でもヒマとパソコンがあるので、調べてみた。
奄美大島で地震? 変だなぁ?
まぁ、いいや。とりあえず屋根は落ちてこないし。

UFOが野天風呂の美女に見とれて墜落したのかなぁ?
(久米仙人じゃあるまいが・・・ありえるかも?)
いいや、美女なら注意深く操縦したかもしれないが、
デブの毛ムジャラの脂ぎったオッサンだったら・・・
しかも・・・見せるな!っちゅうモノをこちらに向け・・・
おぇっ! 節操の無いワシでも落ちるかも・・・
(注:完全に自分の事を棚に上げています・・・)

時間が経ってから、もう一度調べてみたら
「浅間山21年ぶり噴火!」
納得だぁ。昔体験した衝撃波だ。

ワシが幾つだったろう。
御幼少の美童子だった頃は間違いない。
(美童子は完全に間違いだな。
鼻を垂らして、頭の上にクルクルマークが付いていた。
賢いとか、可愛いとか、小奇麗とかは縁がなかった)
ドン!と腹に響く衝撃を受けた。
振り返ると、青空にきのこ雲が吹き上がっていた。
「浅間が噴火した!」
浅間も噴火も意味がよく解らなかったが、
大人達が言う事を丸ごと憶えた。

とても田舎の山の中のガキだ。
遠くの山が爆発したらしいけど、
珍しい事は少し嬉しい事だと思っていた。
地震・雷・火事・洪水・・・
今になると自然の圧倒的な大きさ強さに
「恐れ」と「畏れ」を抱くが、
その頃の自然は味方だし友達だと感じていた。
もう一つの自然の顔を知らなかった。

自然は味方でも友達でもなく、
もちろん敵でもない。
自然の中の一部が自分だった。
不可分の関係だった。
強いていえば・・・
体は自然だが
心は不自然

  不透明・1
09/04 (土)

この治療院内は水晶が多い。
見えない床下から隅にも壁にもある。
あちこちの棚においてある。
籠に詰め込んである。
そこらへんに転がっている。
数とすれば・・・300〜500くらい?
全部に「氣入れ」をしてある。
欲しい人には売ったりプレゼントしたり。

ほとんどは天然原石で置いてある。
もちろんトップがしっかりしているモノだ。
ここは水晶で一番大切な部分になる。
ここを割らないように壊さないように運ぶから、
加工品よりも原石は貴重なんだ。

加工品には最近、溶練水晶が多いから、
(粉にして型に入れて固める。
鉛を入れると透明になる。)
本来の水晶の価値が無いんだ。
これは人工水晶とは違う。
人工水晶なら結晶が一方向だが、
溶練水晶はデタラメになってしまうから、
水晶の特徴である増幅と出力と正確なリズムが無くなる。

水晶は長い時をかけ、一方向に結晶を伸ばす。
(だから天然のままのトップが大切なんだ)
必ず平行面を3つ持つ(つまり6面)。
周波数リズムが安定している(時計に応用)。
丸く加工した水晶にも上下があるんだ。

増幅作用があり調和作用があるから、
「氣入れ」をすると、氣功石になる。
(「氣入れ」といっても氣の質が問題だね)
モノグサなワシは余計な力を使わないように、
治療院のアチコチに「氣入れ」水晶を置いて、
浄化の手伝いをさせているのだ。

その水晶だが、透明と白い半透明がある。
結晶が固まる時に単一で育つと透明になり、
幾つもの微結晶の集合体が白くなる。
(隙間があるから光が乱反射して白く見える)
成分は同じSio2(二酸化珪素)だ。

透明と白透明。
どちらがヒーリング(調和)に適しているか?

使用目的によって違うから単純な比較は出来ないが、
どうやら白い方がより適していると思う。

では「浄化」目的ならば・・・
これは透明な水晶が力が強い。

こんな事をボンヤリ考えていたら、
とても大切な事に気づいた。
透明と不透明の違いかぁ・・・
単純に透明がいいと思っていたなぁ

  不透明・2
09/05 (日)

「透明」は深い意味での単純だ。
妥協が無いマジメ・・・。
純粋な波動。
そして孤高の美しさがある。

思い込んだら一直線・・・
「巨人の星」の星飛雄馬とその父一徹
「あしたのジョー」のジョー・オッサン・力石
「愛と誠」の岩清水「君の為なら、死ねる」(でも脇役)
「空手バカ一代」「柔道一直線」そのまんま・・・。
透明の心は梶原一騎の世界と似ているなぁ・・・。

相手の迷惑かえりみぬストーカーの心を
純粋・透明と表現するのは抵抗あるが、一理ある。
(間違っても、美しいとは表現できんな)
戦争状態の国民感情も・・・似ている・・・。
お国の為に心を一つにして・・・。

「透明」は純粋だから使い方が重要になる。
導き方が重要になる。
純粋を自分の欲望に利用する腐敗した人達は、
古今東西、立場選ばず、多いもんだぜ。
純粋は、純粋故に騙しやすいんだ。

ワシの仕事は「生命力の活性化」
「透明・純粋」はイキイキしているか?
「透明・純粋」は「いのち」を活性化するか?
影響や関係があるかと思っていたんだが・・・。
透明や純粋は活性とは別次元なんだな。
ワシの観方がヒネクレて感じようとも、
基準がこういうところなんだからしょうがない。

透明・純粋な湖は生物が住めない。
透明・純粋な社会は生命が低下する。
「いのち」は多種多様雑多で活性化するからだ。
そういえば・・・
心の純粋な人は何処か弱々しい感じがする。
無菌状態では生きていけない。

これって、結構大きな指摘かもしれない。
体でも心でも・・・魂でも、かもしれない。
精神世界では魂の純化を目指したりするが、
ゴールは純粋・透明になる事ではなく、
雑多を目指し、雑多を愛する(認める)事かもね。

 
09/06 (月)

ワシの好きなオッパイの話じゃない。
呼吸に関係する胸(肺)の話だ。
ワシが常に求め、心掛けているのが、
「いのち」の活性化。
肉体的には「生命力」の活性化だ。

オッパイも生命力の活性化や、
その一部である「若返り」に大いに影響するし、
精神世界の「神」への扉へも関係する重要な話だが、
そういう話は小グループで講義するほうがいい。
(秘密じゃないけど、密(深遠)な話だからねぇ)

呼吸も肉体的な「生命力」だけでなく、
「吐く息は神に近づく」
「吸う息は自分を見つめる」
「呼吸は神我(真我)一如への道」
などと、深い部分もあるんだ。
(深いけど怪しい方向にも行きやすいね)

呼吸は「いのち(肉体と精神)」に直結している。
呼吸だけでも、とても深く遠い道があるんだ。
その呼吸の基礎というか土台が「胸」なんだ。
当たり前なんだけどねぇ・・・。
どんな優れた呼吸法を知っていても、
胸が自由に柔らかくないと、呼吸を活かせない。

胸の「柔らぎ」は「他との和らぎ」にも通じる。
胸が柔らかく自由な状態ならば、
呼吸は自然体でも深く適切な状態となる。
呼吸法の最優先のコツは胸の柔らかさなんだ。

肉体的には横隔膜と肋骨の広がりだ。
上下左右前後、ゴムのように広がる柔らかさだ。
深い呼吸は意識(だけ)で行なえると勘違いされるが、
肉体の柔らかさが基礎条件となる。
あるいは、胸を柔らかくする「体の動かし方」や
胸を広げる「生き方」こそが本筋かもしれない。

ついつい狭くなる。
ワシなんて自分勝手だから尚更だ。
胸を広げるのが大切、なんて書いていても、
自分からの行動は積極的じゃない。
受け入れは抵抗なく出来るが(仕事柄ね)
動く時に二の足・三の足を踏んでる。
臆病だし、面倒くさがり屋だし、ダラシナイ。

胸の痛い出来事に感応し、胸が縮まる。
この時に、更に広げる生き方をしたいのに。
ワシはアホのノウテンキを目指しているが、
痛さや辛さに怯えるナサケナイ自分がいるなぁ。

胸を縮めては、自も他も愉しくなれない。
幸せになり、幸せのお手伝いをする事が、
この世に生まれた証だし、仕事なんだけどね。
辛い事、悲しい事、寂しい事、
どんどん引き受けるよ。
感応していても、胸は広げていたいしねぇ。

  生を愛しむ・1
09/07 (火)

03年11月のコラムに「養生訓」がある。
この「養生という生き方」はとても深い意味がある。
意味がある、というよりも本質かもしれない。
この世に生まれた本質そのもの。

死は必ず訪れる。
人間の致死率は100%。
それなのに何故「健康」が必要か?
生きている間に一所懸命・一生懸命生きればいい。
健康を目指さなくても、意味はある。
健康を目指しても、死は必ず訪れる。
こういう生き方もある。
だが・・・間違いだ。
ハッキリ断言できる。
これは・・・間違いなのだ。

「人の生き方は多種多様
どんな生き方も自由だ。
どんな生き方も間違いは無い」
これは精神世界の話なんだ。
正論かもしれないが、この世では間違いだ。
舞台の上で本名を名乗るのは間違いなのだ。

この世は仮の世界。
有限の世界は仮の世界だからだ。
仮の世界では、仮の法が適用される。
「生きている」という条件があるから、
その条件を主体とした法則がある。

仮の世界だろうがホントの世界だろうが、
ここに存在する間は、ここが世界だ。
そして、どんな世界にも必ず「法則」がある。
ここでは「生きている事」あるいは
「生かされている事」が事実の世界。

「生命を観る」と
「生命」は生きたがっている。
生きる事、生き続ける事が中心にある。
生きる事、そのものが生命の意味であり、
その他に「生きる事の意味」を付けるのは、
「傲慢」というものだ。

人間は傲慢という癖がある
(ワシなんて傲慢が趣味でもある)
「傲慢」は道を外れる運命を負っている。
「傲慢」で道を外れぬ事は無い。
(ということは・・・
ワシは外れっぱなしの人生だな・・・)

ところが人間には理屈があり、感情がある。
傲慢の大義名分が立派だと傲慢に見えない。
立派だと感動もあり、意味も付けられる。
「生きている事」よりも立派な意味に思える。
「立派な事」が価値が有ると思ったりする。
「生きている」だけじゃ、価値が無いように思える。

立派だろうが、人類の為だろうが傲慢は傲慢。
価値があろうが無かろうが、それは別次元の話。
「生きている世界」では「生きている事」が
基礎であり、土台であり、全てである。

  生を愛しむ・2
09/08 (水)

「何の為に生まれたのか?」
「我々は何処から来て、何処に向かうのか?」

こういうテーマで哲学するから、
「生きる意味」を解明してしまう。
ワシも長い間、この間違いに気づかなかった。
人間はヘンな生き物だ。
現在立っている場所以外を想う事ができる。
この世以外の場所から考える事ができる。
(其処は本来の場所かもしれないが)
それが万物の霊長と自画自賛する根拠となった。

「真の目的」「真の意味」
これらを解明したり悟ったりする事と
今の立場(この世に生きている事実)との混同で
人間は未だに人間のまま進化できない。
もっと素直になればよかったみたい・・・。

多くのとっても偉い人達が
とっても貴重な「人間の真理」を悟った。
そして、多くの人に広めた。
「人間の真理」は土台の話だ。
土台が不明だったら、解明されると安心できる。
多くの不安を宗教や哲学が救った。

でも・・・間違いだ。
ワシより遥かに偉い人達だから、
伝えた内容は、多分・・・そうだと思う。
(正しいとか間違いとか判断できる段階じゃない)
イチャモンなんて、畏れ多い。
「真理」についてワシが話せる立場じゃない。
天地神明に誓って、わからんもんね。
(アホを誓ってもいいんかいな?)

でも・・・間違いだ。
(ちっとも畏れ多い態度じゃないけど)
ニセモノとホンモノがあると、
ホンモノを知った人はホンモノを推薦する。
「アホ」と「智」ならば、
偉い人は「智」を紹介する。
人の生き方の話だ。

ワシはこういう仕事をするようになり、
それまでの精神世界の「真実」というのと
どうしても違和感が生まれてしまったのだ。

この世はヒネクレている。
神は・・・ヘソ曲がりだ。
あるいは、シャレっけががる。
ヒョウキンかもしれない。
そう、思うようになった。

人の真実の生き方は・・・
この世の生き方ではない。
真実の生き方をすると・・・
この世では間違ってしまう。
(いいのか?こういう事を書いて・・・)

  生を愛しむ・3
09/09 (木)

「真実は間違いだ!」

こういう矛盾した言葉をいうのはアホに違いない。
「間違いない事」が「真実」なのに、意味をなさない。
本人がアホと言うのだから・・・まてよ?
ワシの言う事なんか間違いだらけだ。
ならば・・・ワシはアホじゃないのかもしれんなぁ。

ワシの事なんか、どうでもいい。
「真実の生き方は間違いだ!」
あらゆる宗教の教理や精神世界の基本に
畏れ多くも異を唱えるけど、しょうがない。
無謀と無知はワシの得意技だ。

「どんな生き方をしてもいい」も間違いだ。
この世で生きるには、
基本であり全てである生き方があるからだ。
でも、それは「真実の生き方」じゃない。

この物質世界(この世)は特殊な舞台だ。
真実の生き方からわざわざ離れた世界だ。
(離れたわけじゃなく、一部かもしれないが、
ヒネクレているのは間違いないだろう)

大体ねぇ「真実」って人間が係わる問題じゃない。
それこそ傲慢じゃないのか?
ゴーマン・マイ・ウェイは人間の癖かもしれないが、
身分を超えた分野まで手をだすと滑稽になる。
傲慢と滑稽は裏表だぜ。
(と言いながら真実は間違いだと宣言するのは、
ワシが傲慢と滑稽の見本サービスをしているからだ)

真実はともかくとして、
基本は踏まえて生きなけりゃ問題が起こる。
問題好きな人は勝手にすればいいけど、
問題は厄介だし、苦しみを伴う。
「真実の生き方」をこの世でしようとすると、
やはり苦しみを伴うから、ヘンだと思ったのだ。

ワシの仕事は苦しみを祓う、ともいえるから、
あえて偉い人の説法に楯突いて
ここにこうして書いているのだ。
結構、健気だと思わんか?

苦しむのは・・・ヘンだ。
素直にそう思った。
愉しく、嬉しく、気持ち良く生きたい。
素直にそう思う。

  生を愛しむ・4
09/10 (金)

苦しいのも辛いのも痛いのも嫌だなぁ。
そんな生き方が真実だとは思えない。
「苦難を乗り越えて生きる」
立派に見えるけど・・・何か・・・ヘン?
「神は試練を与える」
誰も神じゃないから「ち、違う!」と、
反論は出来ないけど・・・何か、ヘン?

「苦労するから、何かが成し遂げられる」
多分、そうだと思う。思うけど、
「何かを成し遂げる為に、この世がある」
というのは・・・納得いかないなぁ。
ならば、生きとし生けるモノ全てが苦しむ。
苦しむ世界は・・・間違いだろ?

ひょっとしたら・・・
今まで云われてきた「この世の真実」は
全部・・・逆だったのかも?
アホになったワシは、そう思えてきた。

何故だか解らない。
深い理由があるのかもしれないが、
偉い人達は「真実・真理」を逆に教えていた。
逆じゃなく、ホントなんだろうけれど、
現実を観ずに「真実・真理」を観た。
偉い人達はヒネクレていない。
立派だ。
だから・・・この世のヒネクレがわからなかった。

あの世は何かを成し遂げる為に
それぞれが苦労している。
苦労ばかりだと、魂だってイジケるから、
時々、生身で過ごす「この世」に降ろす。
愉しく、嬉しく、気持ち良く、を体験する為に。
魂のリフレッシュの為に。

それなのに魂の苦労する癖は、
この世に降りても続く。
「何かを成す為に生きる」
「真実の道を生きる」
それらは「あの世の癖」だったのに。

ここでは、そんな難しい事は忘れ、
ひたすら「生きる」事を愉しむ。
その為に降りてくる時の条件が、
「以前を忘れる」なのにねぇ。

偉い人達は、とても偉いから、
あの世での真実まで届いてしまった。
到達したのかもしれない。
サトリとかいうもので。
その事は、多分、正しかったと思う。
間違いは無いと思う。
でも・・・この世に当てはめたのは、
ミスだったんじゃないのかなぁ・・・。

宗教を深く研鑚する人は
愉しさよりも「真実」を選ぶようだ。
嬉しさよりも「真理」をつかみたがる。
気持ち良さなんて、敬遠しがちだぜ。
ワシのような「いいかげん」から観ると、
・・・少し、心が狭くないか?

  生を愛しむ・5
09/11 (土)

享楽主義。
そんな主義主張をしているわけじゃない。
「今さえよけりゃ、それでいい」
それは間違いだと知っている。
浅い享楽は高利貸しから金を借りるようなものだ。
ツケは何倍も苦しみとして払わなければならない。

過去も現在も未来も愉しい。
自も他も愉しい、嬉しい、気持ちいい。
過去と未来と今は共通のパイプを使っている。
ならば、未来が幸せになる為の苦しみなんて、
何か・・・ウソくさい・・・。

体と心。
この世の主人公を取り違えていた。
あの世なら、心か魂か知らないが、
目に見えない本質体が主人公だろう。
でも、この世では肉体が主人公だ。
舞台の上の役者名が主人公なんだ。
本名でもなければ、ホントの性格でもない。

肉体の役目。
この世の役目。
生命力の役目。
そんなの簡単だ。

役目が終わるまで「生きる」事。
「生きとし生きる」事。
生きる事を最優先する事。
その道を歩いている証拠として、
愉しい・嬉しい・気持ちいいと、
心や魂には感じられる。
難しい事じゃない。
誰にでも判断できるようになっている。

だいたいねぇ、
生きる事が難しかったり、
大変だったり、
苦しかったりするのは万人向きじゃない。
神はヒネクレているかもしれないが、
底意地が悪いわけじゃない。
アホでも判断できるような生き方を、
それとなく仕組んでいてくれる。
結構・・・優しいんだぜ。

ほとんどの人は自分の心を主体にして
体を奴隷のように扱う。
体は黙って、耐えている。
でも苦しいし、辛い。
それは心にも伝わるけれど、
相変わらず心が主体だと思っているから、
心を晴らす為に、更に体にムチ打つ。

ホント、人は鬼のようだ・・・。
自分の体に対して、
鬼のようだ・・・。
とても・・・冷たい・・・。

  生を愛しむ・6
09/12 (日)

「生きる」とは何か?

それは肉体を維持する事だ。
肉体を自然体に維持する事だ。
それが肉体を喜ばす事でもある。
生きる意味を肉体から離し、
心に求めた時から間違いが始まる。

意識ある側(本人の心)からなら、
「肉体が愛しい」と本気で思い、
本気で日々の行いを成す事が、
「生きる」目的も意味も結果も得る。

死んでから理解できるかもしれない。
あの世に戻ってから理解できるかもしれない。
(こういう書き方は卑怯だねぇ。確める事が出来ない)
肉体世界にいる時間が有限の理由と、
「生きる」意味や目的がとても貴重だったと。

太く短く生きる?
ちょっと格好いいけどねぇ。
本人の心の満足や関係者の思い出や、
人間社会的な評価はあるかもしれないけどねぇ。
他人の生き方までアレコレ言うのは、
余計なお節介だとも思うけどねぇ。
それでも・・・間違いだ。

太い、細いは個人差だけど、
短く生きるのは間違いだ。
(この場合の短いとは単に年齢じゃなく、
本人の意思で天命を縮める事だ)
肉体はもっと生きたいのに、
心の満足(欲)の為に肉体を虐待するのは、
とても、とても傲慢で失礼なんだ。

もっと生きたいのに、
生きられなかった肉体がある。
その肉体の声無き声を聞いてしまうと、
「短く生きる!」なんて格好付けているのは、
何もわかっていない、バカモノだと思う。
とても哀しい生き方だと思う。
その人に直接関係する人に淋しい思いを押し付け、
直接関係しない人にも哀しい思いを押し付ける。

生き続けるのは、基本であり、全てなんだ。

この世で精一杯する事は、
何かを成す事じゃない。
精一杯、自分の肉体を愛しむ事だけだ。
自分の肉体を愛しむ事は、
他の肉体を愛しむ事と同じ生き方になる。
それこそが生きる意味であり、
この世に生を受けた人として、
成すべき事でもある。

アホなワシだからこそ、
いいかげんなワシだからこそ、
ヒネクレているワシだからこそ、
気づいてしまった。
しまったら・・・しょうがない。
お節介でも言う。

世界の幸せは
自分の肉体を愛しむところから。

  生を愛しむ・7
09/13 (月)

淋しい事、苦しい事、痛い事。
心が感じてしまう辛い思いは沢山ある。
嬉しい事、感動する事、楽しい事。
心が喜ぶ出来事も沢山ある。
でも、それは心の中の事。
「生きる」事と連動しているが、
「生きる」事と混同しないほうがいい。
心は脇役。体は主役。

心がどんな状態であっても、
体が生きてさえいてくれれば、
心は変われるし、必ず変わる。
心は不安定な幻なんだ。

心を変えたいのなら体からだ。
体を愛しむようになれば、
心は喜ぶ側に変わっていく。
心は静かに落ち着きを取り戻す。

心が辛い時、
体に辛くあたっても、
心は喜ばない。

心が嬉しい時、
体に無理させては、
やがて心も疲れてしまう。

心は体から「いのち」を分けてもらっている。
そして体に「いのち」の御礼をする。

どうしていいか、わからなくなったら、
体を愛しむ行いだけすればいい。
ひたすら「生命」を愛すればいい。
グジャグジャになった心の糸は、
柔らかく解けて温まる。

心に心を奪われないで。
心が迷い、苦しみ、疲れている時には、
何も出来ない、する気にならないと言うけれど、
それでも息はしているんだ。
それでも(少しは)食べるし、
それでも(少しは)眠れるんだ。
「生命」の主人が体にいることを、
素直に事実として認めよう。
「生命」は苦しむ事を嫌がっている。

「生命」は愛される事で幸せになる。
空間(自他)と時間(過去・今・未来)は
「生を愛しむ」事で幸せになる。

大丈夫。
人は誰でも愛する事、愛しむ事は
出来るように創られているんだ。

  恋・1
09/14 (火)

生命がどうした、とか、氣綱がこうだとか、
いつも面白くも無いテーマばかりなので、
ウケねらいで、このテーマで書いてみるわい。
ワシの苦手部門なんだけどね。

ワシは煩悩が落ちていれば拾ってみる。
誘惑があれば積極的に乗る。
バカな真似はとりあえず体験してみる。
倫理や法を破る事に良心が痛まない。
(そんな良心は最初から無いが、
メンドウはメンドウだから上手く誤魔化す)

男女のイロ事は嫌いじゃないけど、
心や感情がもつれるイロ事は苦手だ。
男女の駆け引きもメンドウだから止める。
ラテン系のオープンでストレートなイロ事なら、
かなり好きなほうかもしれない。
だから通常の「恋」は苦手な部門だ。

ワシは朴念仁じゃない。
好みのオナゴなら沢山いる。
サカナはあぶったイカでいい〜♪
オンナは太めの人でいい〜♪
年齢、人妻、独身の差別もしない。
(ホモさんはゴメンナサイ。オナゴに限る)
それでも「恋」の参加は消極的だ。

ところが、ワシのライフテーマである
「いのちの活性化」に「恋」は深く係わる。
係わるのなら・・・しょうがない。
仕事なら、好きになるのが幸せへの近道だ。
(恋をするのに、そういう理由でいいのか?)

「いのち」の半分以上を占める「生命力」
「生命力の活性化」には方法や道が幾つもある。
おおざっぱな言い方をすれば、
生物は「わけのわからんモノ」と接触すると、
「生命」は活性化するようにDNAが創られている。

「恋」は立派な(?)「わけのわからんモノ」だ。
多少グチャグチャになる危険はあるが、
「している時」に細胞が活性化するのは間違いない。
病気で悩むくらいなら
「恋」で悩むほうが人生は幸せになる。

ガンバレヨ!
ワシは敬遠するくせに、
クライアントには無責任にたきつける。
要は、体や心がイキイキすればいい。

  恋・2
09/15 (水)

恋についての格言は多い(と思う)。
それぞれの立場から恋を観るから、
いろいろな捉え方になって面白い。
恋愛中と失恋中では正反対になる。
昔を振り返って恋を静かに語る。
他人の熱病(恋)を冷ややかに観る。
恋に恋して夢を乗せる。

ワシもワシの立場から(無責任に)観る。
「恋は突発的な外傷だ。そして愛と混同するから悩む」
(愛についても後で書くね)
外傷は生きている刺激として有効なんだ。
死んでいたら外傷は出来ない。
(こういうところは深読みして下さいね。
ワシは「恋」にとっても好意的立場です)

もう一つ、言っちゃうかな。
「命短し、恋せよ、オナゴ!
金は少なし、夢見ろ、オトコ!」
(う〜m・・・語呂が悪い・・・再考だね)
「オナゴは恋に生き、オトコは夢に死ぬ」
(これ、結構いいけど・・・誰かが言ってそうだな)

そんなわけで、ワシから観る「恋」は、
どうしても「オナゴの大切なモノ」だと思う。
オトコも時々狂うけど・・・あれは病気だな。
「オナゴの大切なモノ」の犠牲だと思うよ。
オナゴにとっては必要不可欠なモノだが、
対象となったオトコでも「恋」は一時的な熱中症だ。
オトコにとっては必要不可欠じゃない。

つまり「恋」は、オナゴとオトコとでは違うモノだ。
生物の基本はオナゴだ。
オナゴは「生命の活性」を素直に求める。
生物として「恋」は必要不可欠なモノではあるが、
生物としては奇形なオトコは価値が解らない。
「恋」の代わりに「(バカな)夢」を求める。
(だからオナゴもオトコも可愛い生き物だ)

脈々と続く生命の連鎖に必要な「恋」。
本来は明るく堂々と謳歌してもいいのに、
最近の人間界は「恋」が暗いなぁ。
不満や不安や抑圧の「逃げ口」として使っている。
使い方、違ってないかぁ?

「恋」は一見、個人的出来事なので、
軽くみられがちだが・・・実際軽いんだ。
(当事者は重いと勘違いしているけど)
軽い事は「いのち」は愉しいんだぜ。
「いのち」が喜ぶ事は何よりも重要なんだ。

それにね「忙しい者の仕事」は社会的評価は高いけど、
「恋」に比べれば、とっても愚かだと思わんか?
忙しい者の仕事は地球上の生物にとって、
かなり迷惑な行為なんだけどなぁ・・・。

社会的評価はほとんどが男の固定概念から出ている。
男優先社会は「生命」を軽視しすぎているよ。
(ワシもオトコだけど、世の中をリードしたがる男より、
「恋」に悩むオナゴの方がマトモだと思っている

  恋・3
09/16 (木)

このテーマで媚びを売って、ウケをねらったはずなのに・・・。
いつもの生真面目なワシの文章になってしまった。
(そうでもないという意見もあるが、ワシ的には面白くないのだ)
24時間、仕事(生命力の活性化)を考えてる健気なワシ。
自分で自分を褒めてあげたい・・・。
ワシが女神様なら御褒美に○○させてあげたのに・・・。

まぁいいか。
通常は「恋」と「変」は似ていると説くワシだ。
恋人と変人は第三者から見れば区別はつかない。
「あんなオトコの何処がいいのかねぇ?」
「あのオンナの正体が判らないの?バカねぇ」
夢中になる、ってそういう事だ。
変人になる事なんだ。
冷静になったら・・・人類は絶滅する。

生きとし生けるモノ達が好きなワシは、
「恋」の重要性を知っている。
重要は・・・滑稽だとも知っている。
アホは・・・可愛いと知っている。
「恋」をするオナゴは、とても可愛い。
「恋」をする生き物達は、とても素敵だ。

ワシも目指す境地がある。
目指す人物像もある。
好きだから目指す。
ついでにメザシも好きだ。
(熱々ご飯にメザシ♪)

成りたい人物像に、
魅力的なオッサンがある。
素敵なオッサン、ジイサンに成りたい。
計算して生きるようなオトコが
魅力あるオッサンに成れる筈が無い。
今はダダのオッサンだが、
大丈夫だ、まだまだ成れる!

計算外の生き方。
アホな生き方。
そんな一つに「恋」がある。
でも、もともとはオナゴのモノだ。
だから、オナゴの「恋」に付き合うのだ。
今のクールなワシからの脱却!
(ジョークですよ。もちろん・・・
心配だなぁ。ワシを買いかぶらんでね。
って、いらぬ文章だなぁ・・・)

夢には夢中になれるが、
(そのまんまの字だもんね)
恋には恋仲にしかなれないオトコ。
(意味、通じてないよね、多分・・・)
それでも「恋」のパートナーとして、
時々はアホ(魅力的)なオトコになろう。

本妻とも愛人とも時々は恋仲に。
初めての人や人妻とも恋仲に。
(注:ワシは本妻、愛人の差別はしない)

  恋・4
09/17 (金)

「恋は気まぐれなキューピットの矢」
確かにそうだ。
必ずしも好きなタイプに恋するわけじゃない。
それどころか、そのまま結婚しちゃった夫婦など
気がつけば、嫌いなタイプだったりする・・・。
アハハハ・・・。
他人事なら恋は「お笑い」が満載だぁ。

「お笑い」が多ければ平和な世界。
「生命」が満ち溢れている地球は、
ミジンコから虫や魚や爬虫類や哺乳類まで、
「恋多き素敵な青い星」だったんだ。
恋が多ければ「生命」が活発だし、
新たな「生命」が次々生まれていた。

もしも生き物達が、好きなタイプや、
最高の組み合わせの相手としか結ばれなかったら、
地球は死滅している。
人間も滅亡している。
「恋」は人類を救うし、地球を救っている。
「恋」の本性である「気まぐれ」が地球を救うのだ。

正しい事を追い求めると、争いになる。
正義は戦争を生み「生命」を殺す。
正確さを追い求めると、窮屈になる。
窮屈は「生命」を衰退させる。

最近の人間社会。
正義と正確(科学的)ばかり追いかけている。
だから「生命」を殺し合い、
全体で「生命」を弱化させている。
自分で自分の首を締めるのは、
利口ぶった人間なんだなぁ・・・。

「恋」はとても不確定な出来事だ。
正しさなんて関係無いし、科学的でもない。
思い通りにならないヤツなんだ。
それが人間の未来を救っているのだから、
ワシが「この世はヒネクレている」というのも
まんざらデタラメでもないだろう?

生命は「気まぐれ」が好きなんだ。
生命は「いいかげん」が好きなんだ。
ワシは「生命」が好きだから、
「気まぐれでいいかげん」を目指すのだ。

いくら恋をしてもオナゴは堕落しない。
恋多きオナゴは素敵さが増すだけだ。
(オナゴの欠点である虚栄心は、
だんだん堕落させるから注意しよう)
でも、恋多きオトコはなぁ・・・。
何か違うんだよね

  恋・5
09/18 (土)

「恋」は未来からの仕掛けだ。
だから「今」の時点では理解できない。
「縁」の一種だが、求心力が特別強いんだ。
「縁」を一時的に無理やり結ぶ為のもので、
成就か失恋かは、大した問題じゃない。
(当事者にとっては、とっても大きな問題だけどね)

「恋」は恋愛中にしか意識が働いていないが、
成就しようが失恋しようが冷静に観れば、
「その結果」に起こる出来事の方が重要なのだ。
その結果、何かが変わる。
意識が変わる。
運命が変わる。
家族を含めた人垣が変わる。

ほとんどの人が当てはまるはず。
「あの時の恋が・・・」
今の家族かもしれない。
そして、その子孫達に続く。

あの過ち(恋)が結果的に生命を繋ぐ。
冷静で無かった判断力が、
結果的に「幸せ」をもたらす。
若気の至りは生命を活性化する。
アホでマヌケでドジな行為が、
生物達を存続させる。

「恋」って、スゴイんだなぁ・・・。
(褒めてます。けなしてません。ホントです)
ワシ、今まで「恋」の利点として、
「いのち」の活性化は認めていたが、
判断力が狂う熱病の一種だと軽く考えていた。
こう書いてくると考えを改めますわい。

ワシはモノグサだから御筆先様に手伝わせる。
(最近は御筆先様もキーボードを叩くんだ)
だから見た目は自分で書いていても、
内容はワシの考えだけじゃないのだ。
こうして時々、知らない事を教えられるのだ。

どうも「恋」はわけがわからなかった。
人間が理不尽な行動をするのは納得する。
しかし生物全般で理不尽な行動をするのは、
とても奇妙な事であり、不自然なのだ。
実際には生物全般で「恋」をする。
不思議だった。

それが、今回のワシの文章で明らかになった。
う〜m・・・やはり、たまには御筆先様を褒めよう。
アンタは、エライ! スゴイ! だから・・・
つ、ついでに、
金運も、
お、ね、が、い!

  恋・6
09/19 (日)

「恋」は多くの勘違いから成り立っている。
勘違いは相手にも勘違いを誘い、
更に「わけがわからなく」なる。
「わけのわからんモノ」はとても有効だ。
「生命力」を活性化させるから。
でも、勘違いは悩みの原因ともなるんだ。
悩みが悪いわけじゃないけど、
続くと・・・苦しくなるからなぁ。

「わけがわからんモノ」はいいけど、
「勘違い」は解放したほうがいいのだ。
この二つは関連があるが、区別しよう。
(この文章が、わけがわからんかなぁ?)

「どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙して♪」
勘違いに気づかなければ「悩み」は無い。
「あれ?違うかもしれない・・・」
現実と勘違いのギャップに気づき始めると、
「恋」は悩みを生んでしまう。
せっかく元気一杯だったのにねぇ・・・。

勘違いに気づく前の「わけがわからん」時は、
好奇心や期待心という元気が出ているが、
勘違いだと認識しだすと元気はしぼんでしまう。
「エクボじゃなくて・・・アバタみたい・・・」
(どっちだっていいと思うけどねぇ。
エクボが良くてアバタは悪いという固定概念があるね)

勘違いからの解放。
それは現実を認める事でもあるんだ。
「勘違いでも正しくとも大した違いは無い」
これが、現実であり、未来でもある。
アバタもエクボも、どっちだっていいんだな。
それぞれに意味があり、自分にどう係わるかは、
自分の生き方、観方で変わってしまうものだ。

仮に美男・美女と一緒になっても
それで幸せになれるわけじゃないし、
嬉しく愉しく気持ち良くなれるわけじゃない。
未来はどう変わるか、
自分はどう変わるか、
相手はどう変わるか、
全て、わからん、のだよ。

「わからない」から面白い。
人生は「わからない」事だらけだ。
「わからない」から「生命」は次に進みたがる。
「恋」は次に進む力を生み出す。
それが「生命力の活性化」の一つだ。

正しいモノを追いかけるのもいいが、
そこに価値があるわけじゃない。
正しさであろうとも、勘違いであろうとも、
追いかけるのは趣味(人間の癖)なんだ。
正しいモノにしか価値が無いと思ってしまうと、
「生命」は徐々に衰退する。

  恋・7
09/20 (月)

「恋」に付きまとう勘違いの親分。
それは「愛」との混同。
これが・・・ヤッカイなんだなぁ。
愛と恋は「混同しているのが常識」だからね。
「恋愛感情」などと昔から混同していたんだ。
だから「常識は当てにならない」んだ。

「恋をしている」
そもそも、この言い方から勘違いだ。
「恋」は主導権が「気まぐれ側」にあり、
自分側は「翻弄されている」だけなんだ。
「恋に陥る」これなんだなぁ。

「恋」は異常な状態だ。
主導権も無い(思うようにならない)くせに、
相手の事を自分勝手に思っている状態だ。
それなのに「愛している」と勘違いする。
「自分勝手では『愛』にならない」
こんな基本的な事さえ忘れられている。
今の世間は「愛」の事を知らないんだ。

まぁ、しょうがないかぁ。
「愛」が理解できたら「人間卒業」らしいし。
アホやマヌケやドジや失敗をしながら、
試行錯誤を体験する為に「人間」やってるようだし。
その中でも飛び切り錯誤状態なのが「恋」なんだ。
だから錯誤すると・・・「生命」は活性化する。
この世は誰が創ったかしらないけど、
かなりヒネクレた性格の持ち主だと思う。

ワシは「愛」は「アイダ」と解説する。
「間」にあるのが「愛だ!」とする。
この世はモノとモノが存在する世界。
だからこの世は「愛」でいっぱいなんだ。
「愛」で包まれている、ともいえる。
「愛」は自然体なんだ。

ならば「恋」は「コイダ」な。
「故意」にウヌボれ、落ち込み、熱を上げ、
「間」を無くそうと接近する。
「愛」(自然体)を無くそうとするのだから、
とても不自然で、奇妙な思いと行動なんだ。
(おい、おい、結構スゴイ文章じゃないかぁ。
しかし、残念ですねぇ・・・
御筆先様は優秀でも、付いた相手が悪かった)

「恋と愛」は「水と油」
同じ液体でも混じり合うのは困難なんだ。
そのままでは、どうしても違和なままだが、
絶対に混じり合えないわけじゃない。
乳化剤さえあれば「水と油」は一体になれる。

でも乳化剤まで解説するほど、ワシは親切じゃないぞ。
勘違いや滑稽は多いほど愉しい世の中だ。

  月・1
09/21 (火)

十五夜が来る。
もう・・・帰らなくちゃ。
月明りの中、
白い裸身が呟いた・・・。

と、いうわけで(何なんだ?これは?)
帰る故郷の「月」について話そう。
(いや、ワシはかぐや姫じゃない。
って、断る必要も無いけど、オヤジだし・・・
でも、月は故郷かもしれないなぁ・・・)

地球の秘密も太陽の秘密も月の秘密もある。
秘密は白日の下に、なんて主張する人もいるが、
それはあまりに無知というものだ。
本来オープンであるべき事を隠すのと、
「秘密」は違うモノなのだ。
(表に出すべきでない意味ある出来事)
政治家のオッサンが企む事は秘密じゃない。
あれはオープンにするのがヤバイ事なのだ。
そういうのは遠慮しないで白日の下にどうぞ!

「秘密は持ってはいけません!」
人はいろいろなタイプがいていいけど、
こういう浅い正義人ばかりだと、
世の中はつまらなくなり、また操られやすくなる。
秘密も持てない、オトコやオナゴは、
魅力無いから・・・モテない。
秘密を大切に出来ないような人は、信用おけない。

そういうワシがオープン系なのは、
秘密がいけないと思っているのではなく、
隠し続けるのがメンドウなだけで、
単なる根性無しなのだ。
(決して正義人じゃないし、正義人になりたくない)
だからワシはモテないのかぁ・・・
だから信用されないのかぁ・・・納得だぁ

秘密を暴く事は乱暴なのだ。
誰にでもオープンにしていいわけじゃない。
秘密はたどり着いた人だけが甘受する事なんだ。
空海が密教を最澄に授けなかったのは当たり前なんだなぁ。
(ワシが本妻やHPに愛人の事をオープンにするのは、
秘密というほどの深いモノが無いからで、露出趣味じゃないぞ)

閑話休題。
(全部が閑話でもあるけど・・・)
月には大きな秘密がある。
人類全体に係わるほどの大きさだ。
でも暴くと・・・某巨大国際組織から抹殺される。
ワシなんて簡単。明日からの日記は無い。
本妻は少し泣き、愛人は大いに泣くから秘密は守ろう。
本妻でも人妻でも、オナゴを泣かすのは違反だろ。

でもなぁ・・・ワシの悪い癖でなぁ・・・
つい、つい、書いてしまうんだよなぁ・・・。
まぁ、いいか。どうせ誰も信用していないし・・・。
ワシが書いたのじゃなく、御筆先様が書いたのだし。
抹殺するなら、御筆先様からやってくれ。
(そういう事を言ってもいいのかなぁ?)

  月・2
09/22 (水)

月は人類の故郷かもしれない。
訂正しよう。
月は人類の故郷の一部かもしれない。
遥か古代、何者かの意図により、
ある生物を太陽系第三惑星に着床させた。

その生物をサポートするシステムも同時に設置した。
第三惑星は地球であり、
生物は変化を遂げ、人類とよばれた。
そしてサポートシステムは「月」とよばれた。

何者かは古代神話で「神」とよばれたが、
人間以上の者は全て「神」とされているので、
この何者かは「宇宙人」とよぶほうが適切だろう。
「創造主」と「進化した宇宙人」を混同すべきじゃない。
愚かな人間でさえ今ではDNAを扱うようになったのだ。
古代にタイムスリップすれば、
愚かな人間だって「神」になる。
霊性と科学力は別次元なのだ。

月の自転と公転は一致している。
(いつも同じ面を地球に向けている)
衛星は引力により自公転が一致する、という
科学的説明を受け入れたとしても、
それを応用して常に地球の生物に、
ある種のエネルギーを注入し続けている事実がある。

地球から見た時に月と太陽の大きさが同じなのは、
「偶然の一致」とするのは無理があるんじゃないかぁ?
月の質量から今の位置で留まるのは計算が合わないけど、
この件で黙ってしまうのはズルくないかぁ?

ホントは知っているのに混乱を招くというだけで、
本来オープンにすべき事を秘密にするのは、
秘密にする事によって利得する何かがある、と
下賎なワシは疑ってしまうのだよ・・・。
公式発表に異を唱える科学者が行方不明などになると、
「下衆の勘ぐり」は拭えないのだよ。

人類皆兄弟じゃマズイのか?
争いが無くなると、利権が無くなるからか?
差別が無くなると、威張れないからか?
常識が覆ると、権威を維持できないからか?
一つの地球、一つの種族になると、
国が無くなり政府も無くなるからか?

もう一つの人間社会がある。裏の社会がある。
月の秘密は人間社会の闇の秘密と繋がっていた。

故郷は近くて遠いなぁ。

  月・3
09/23 (木)

人類の発生を何処に求めるか?
自然科学の分野か?
「神」の分野か?
「宇宙人」の試作品か?

生きているワシ等にとっては、
一番夢が無く、認めたくないのが、
この「宇宙人」説だ。
(ワシ等、人工生命体だもんね)
その同じ事を、すでに人間はしている。
人工授精は動植物から同じ人間までされている。

人工か自然か神か?
「自然」と「神」が同じモノで、
違う側面からの観方であるなら、
「人工」は「自然・神」に内包される。

宇宙人だろうが妖怪だろうが「自然」の一部。
発生のキッカケが何であろうとも、
「生命」は大らかに歌うモノだ。
今を大切にするのが「生きている」という事だ。

生まれた原因(キッカケ)を気にするような生物は、
地球上では、ツマラン人間の一部しかいないぜ。
(酔っ払ったハズミで生まれても気にする事はない。
気にする事自体がツマランのだ)
ツマラン人間は・・・ツマランが(文章になってねぇ)
人間は変わる事ができる。
変身できるのが特徴なんだ。

月を見上げる。
特に満月を見上げる。
ワォ〜ンと吼えてみる。
これだけでツマラン人間も愉快になれる。
ノーテンキな狼男や狼オナゴにもなれるんだ。
変身できなけりゃ、もう一度吼えてみよう。
ワォ〜ン

月は「生命」を活性化する。
「生命」が元の「氣」(元気)を取り戻す。
生物として元気になる。
ある意味「野生」に戻る。
だから、社会的性格は少し狂ったようになる。
自然になる。明るくなる。オープン系になる。
「元気」って、そういう事なんだ。

月の裏側に何があるか?
月の内部に何があるか?
月の秘密はそんな事じゃない。
「我々は何処から来たのか?」
そんな事もどうでもいい。
「人類はどう進化してきたか?」
(進化・退化は当人じゃ判断できんだろ?)
それより今の自分を変えろよなぁ・・・

月の秘密は他のあらゆる秘密と同じ根源に向かう。
「いのち」の秘密という根源に向かっている。

  月・4
09/24 (金)

ワシは題名も本文もキーまかせだ。
十五夜が近いから「月」としただけだ。
書いていれば、ワシの知らない「月の秘密」が
暴かれるのかと思っていた。
どんな秘密なのかと期待していたのに・・・。
それが「生命の秘密」になるのかぁ・・・。

仕方ないよね。
ワシの文章なんて秋空と同じ。
思うようにならない。
だから、時には面白い展開になる。

地球に向けられた月の面の内部には、
「生命エネルギー供給装置」があった。
「生命」の大元は、宇宙の何処かにあるか、
宇宙外(という観念でいいのかわからんが)か、
人間の段階では解らないが、
その分身であり、一部が月にあった。
(地球用の装置であり、別の惑星には別の装置がある。
装置が無い惑星には生物がいないのだ)
月の秘密は生命の秘密らしい・・・。

月本体が太陽系外から飛んできたのか、
地球の一部から飛び出したのかは関係ない。
それを「月」として活用して配置したモノがいる。
このやり方は「神」というより「宇宙人」だろう。
人工的な、実験的な方法だからだ。

少し、しゃくにさわるけれど、
我々は実験(?)から生まれているようだ。
でも「生命」はもっと根源からだ。
我々の基礎を創った「宇宙人」と、
我々の根源である「生命」の大元の「神」。
この二つを混同して「神」としてしまったから、
「肉体」と「魂」の間での矛盾があった。

月に到着した者達は瞬時に感じてしまう。
「我々は何者かによって創られている。
そして、何者かによって生かされている」
月に到着できる者達は、宇宙飛行士だけじゃない。
月に到着できるのは「肉体」だけじゃない。
古今東西、月に行けた者達は多いんだ。

そして・・・ほとんどが勘違いをする。
「偉大なる神」は、一つのものだと。
せっかく行けたのにねぇ・・・。
ここが人間の可愛いところなんだ。
偉くても・・・オッチョコチョイ。

月よりの使者は「生命」の事。
「生命」を応援するエネルギーは、
リズムを持っている。
f/1のリズムを持っている。

ススキ野から見上げる月に心澄ませば、
月と地球が奏でる音が聞こえる。
音に乗って体を浮かせば、
月にいる自分に気づく。

  月・5
09/25 (土)

月には故郷が観える。
月を通して故郷を感じる。
月に恋しさを想う。
その理由がここにあった。
月は故郷の一部だったし、
故郷からの風を運んでいる。
「生命エネルギー」として。

月は「生命」の大元からの中継装置だろう。
そのエネルギーは力学的なものでなく、
空間と時間を超えて共鳴するものだろう。
それは「氣」とよばれるモノと似ている。
(えぇ!こういう展開になるのか!!)

月は地球上の生物に「生命」の応援をしているが、
単なる生命エネルギー発生装置じゃない。
「生命の秘密」を内臓している。
「新たなる生命の発生」
「生命力の活性化」
詳しく無い説明ならワシにも出来る。
(詳しい説明は、わけがわからなくなる)

「新たなる生命の発生」は陰陽二元論からだ。
陰陽が合わさった時に月の波動が加わると、
地球上では新たな生命が発生する。
どうして?って言われてもなぁ・・・。
生命は神秘に満ちている、ということで・・・。
この話は性(底にあるモノ)に関係するから、
理由は深くて難しいけど、行いは簡単だ。

「生命力の活性化」は幾つも方法がある。
その中の一つに「観月」がある。
簡単に言えば・・・「相思相愛」。
(簡単じゃないかなぁ・・・)
月を想うと、月が愛してくれる。
(理由は簡単じゃないけど、行いは簡単)

「生命」の正体は、深くて複雑で神秘に満ちているけど、
誰にでも生み出す事や活性出来るようになっている。
つまり理解は難しいけど、行いは簡単なんだ。
難しいモノは「考えるな!」というサインだし、
簡単なモノは「やってみよう!」という意味だ。

ゴチャゴチャ考える前に、
「月に吼える」
これだけなんだなぁ。
「月夜に愛する人を抱く」
これでいいのだ。

「月の秘密」は暴くことじゃなく、
愉しく(ちょっと狂い気味に)行う事なんだ。

もうすぐ十五夜が来る。
陽気な(これがポイントなんだ)
狼オトコと狼オナゴに変身しようぜ。
月は「生命」を祝ってくれる。

  相思・1
09/26 (日)

ワシは医療氣功師という立場で、
体や心を回復・調和する仕事だが、
物事を「氣」で観る、役目もある。
まだまだ、今の社会ではアヤシイと思われている。
(妖しいのは嫌じゃないけどね)

アヤシイところは沢山あるから、
(見えない世界の事はホンモノでも理解できないし、
インチキも結構多いし、勘違いも多いんだ)
だから、世間は間違っていない、とも思う。
それでもワシを信用する人は「縁」がある。
その人達は案外ラッキーかもしれないよ。

その(アヤシイ)立場からは、
いろいろな事が観える。
いろいろな事に気づく。
アヤシイのは・・・とても活用できるぜ。

今回は「相思」。
お互いに思い合う事。
この重要性に気づいたのだ。
無論、男女関係に限る事じゃない。
人と人だけじゃない。

氣功療法でちょっと特殊なのが、
「遠隔氣功療法」という方法だ。
遠く離れた相手を治療する。
そんな事をしてワシも10年目になった。
そして、少しはレベルが上がっている。
それまでの空間だけじゃなく、
時間も超えて治療が出来る事に気づいた。
「気づく」と次からは能力として使える。

「氣」の共鳴に関しての話だ。
空間も時間も超える事は出来るが、
それには、ある条件が必要だ。
最初から「氣」を合わせる事ではなく、
(意識して「氣」を合わせるのは素人じゃ無理だ)
「お互いが思う事」つまり「相思」だ。

誰でも「氣」を発する事は出来るが、
意識して自由に扱う事は出来ない。
意識してある種の「氣」を扱える人を、
区別して「氣功師」というが、
「氣」の質や種類によって様々な氣功師がいる。
どの業界も同じだ。
ロクデナシから素晴らしい人までいる。

つまり、氣功師が介在していなければ、
「相思」によって共鳴するのは「氣」ではない。
それは「通路」になる。
「通路」が繋がる条件として「相思」がある。
「通路」には様々なモノが双方に流れてしまうのだ。

  相思・2
09/27 (月)

「相思」によって「通路」が出来る。
見えない共通の「通路」が創られてしまう。
それぞれ違った「思い」であろうとも、
お互いが思い合ったなら「通路」は開く。

この通路は「氣」の通り路。
それぞれの「思い」が呼んだ「氣」が流れる。
恋しければ「恋の氣」。
心配ならば「心配の氣」。
憎しみ合っていれば「憎悪の氣」。

「相思」というと「思いやり」のイメージだが、
「双方が相手を思い浮かべてしまう場合」は、
残念ながら愛し合っている場合よりも、
憎しみ合ったり、嫌っていたりする方が多い。
上司と部下、ライバル、嫁姑、隣の人・・・。
だから「相思」による「通路開設」は大事なんだ。

好きじゃないのに「思って」しまう。
好きな相手より、嫌な相手を「先に思う」。
相手は人だけじゃない。
仕事、食べ物、場所、出来事・・・。
「相思」の仕組みは、もう一段階あるんだ。
この世の仕組みはヒネクレている。

嫌よ、嫌よは、好きの内。
「相手を思う」事に「嫌」も「好き」も区別ない。
「思えば叶う!」これはウソだが、
(それぞれの欲が叶って世界は成り立つわけがない。
こんな当たり前の事に騙されるなよなぁ・・・)
「思えば通路が出来る」のはホントなんだ。
ただし、思った事が通じる通路ではない。
「思い」の根元の「氣」が通る路だ。
そして「思い」と「氣」は正反対だったりする。

例えば・・・
「来ないで!」と思う事の裏側の「氣」は、
「来るかもしれない」の「恐れの氣」だ。
「恐れの氣」が共鳴するなら「来る」だろうね。
嫌な相手は寄って来る・・・。

この仕組みには、さらに困った事がある。
片方からだけなら「一方通行の思い」のはずなのに、
相手側の通路のドアを叩いてしまうのだ。
ドアも叩かれ続ければ、つい、開けてしまう。
「片側からの思い」も続ければ「相思」になりやすい。
(必ずなる、わけじゃない。)

「好い思い」より「嫌な思い」を優先しがちな現代人。
「アホな陽気」より「考える陰気」な優秀者ばかり。
一人からでも「相思」が始まるとしたら、
普段の意識の使い方で、大きな差が出来てしまう。

  相思・3
09/28 (火)

世界がどう創られているか?
いろいろな表現があるだろうが、
「相思」によるネットワークともいえるだろう。
多種多様なモノ達が、それぞれに繋がっている。
そして、そこから先も「相思」で繋がっている。
離れて観れば、世界は丸いネットワークだ。

人であろうと動物であろうとモノであろうと、
「相思」関係の無い存在はありえない。
孤独というのは心の中の勘違いの言葉で、
この世にあるモノ全て「思い合って」いる。
だから、それぞれは共通の「通路」があり、
双方向に「氣」が行き来している。

ネットワークとなると責任重大だと思わんか?
個人的な「相思」によって開いた通路は、
「相思通路」を次々に渡り歩く可能性がある。
世界中に影響する可能性がある。
個人から発する「明るい思い」は「明るい氣」となり、
「暗い思い」は「暗い氣」となって通路を走る。

同波動は共鳴する。
類は友を呼ぶ。
「明るい氣」は「明るい氣」を呼び、
「暗い氣」は「暗い氣」と共鳴する。
「明るい氣」に囲まれた個人と、
「暗い氣」に閉じこもる個人。
世界は個から創られ、個に戻る。

そうなの?
貴方と私の関係だけじゃないのね?
二人だけの秘密だと思っていたのに。
世界中に広がってしまうのね・・・。
・・・・・・・ヤバイゎ・・・。
(小節ごとに書き足すから、文体がメチャクチャね)

言葉はウソで飾れる。
心はウソがつける。
顔も行動もウソが出来る。
でも「氣」はウソが付けない。
そして「通路」は「氣」しか通れない。
この通路は誤魔化しが出来ないのだ。
世界に秘密もウソも通用しない・・・。
(・・・とっても・・・ヤバイゎ・・・)

嫌な相手と「相思」になってしまうなら、
ウソも付けない「通路」が開いてしまうなら、
開き直ってしまおうぜ。
「こうなりゃ、ヤケだぁ・・・。
好きな事、好きな相手、明るい思いで生きてやる!」
開き直るって、こういうことだ。
暗く生きる事じゃない。

  相思・4
09/29 (水)

「相思」は「相愛」と熟語になる。
「相思」は表面の軽い意味じゃなく、
深い意味で「相愛」になるんだ。
どんな思いでも「相思」は「相愛」だ。
憎い、嫌な相手でも「相愛」になる。

「好き」なだけが「愛」じゃない。
嫌な相手、憎い相手を思う事は、
「愛したい、仲良くしたい」からなんだ。
(認めたくないかもしれないけど、ホントだよ)
「愛」の反対は「無関心」なんだ。
どんな内容でも「思う」のは「愛」と同じ。
「相思」は「相愛」の意味を含んでいる。

この世に生まれて意味の無い行為が一つだけある。
その他は、どんな行為にも意味がある。
意味は過去か今か未来かに分かれる。
今、意味が解らなくても、未来に解る事など沢山ある。
否、そのほとんどは未来に意味が生じるのだ。

たった一つの「意味無い行為」は「無関心」。
意味が無いのであれば、存在の価値も無い。
だが、この世は意外と親切な仕組みでもある。
アホが前提で人間を創ったのだから間違いばかりだ。
その「方向性の間違い」の自動アラーム装置として、
「苦しみ」というヤツが備わっている。

「生命」は「興味津々」に贔屓をするのだ。
いろいろに反応するほど、イキイキする。
赤ちゃん、幼児、子供の頃を思い出すがいい。
何にでも関心を示すモノは生命力に満ちている。
何にでも「相思」を求めるほど生命はアップする。

逆に無関心が増えるほど「生命」は衰退する。
早く老化し、早く長く苦しみたかったら、
遠慮せず「無関心」に励めばいい。
他(人)は関係無いと本気で思うのなら、
遠慮せずに孤独の真似事をすればいい。
(つ、冷たい言い方・・・)

「相思」は生き方の指標となる。
他を思い、接触し、交じり合い、循環する。
「生命」と「相思」と「氣」の関係。
遠慮せず、相手を思おう。
多くの相手を思おう。
どうせ思うのなら、明るく思おう。

  相思・5
09/30 (木)

「相思」は閉じた関係だと思われてしまう。
「男女の秘めた想い」のイメージを引きずる。
ところが、これが全くの逆!
「相思」はオープン系の行動なんだ。
「共通の通路」が出来てしまうのだから、
否応無しに、心を開けてしまう行為だ。

人間の生き方なんて「癖」で左右する。
心で思っていても、理屈で解っていても、
「癖」が優先してしまう哀しい動物なんだぜ。
振り返ってみれば思い当たる事ばかりだろ?
ならば「癖付け」で新たな方向にもいける。
しかも・・・付いちゃえば「楽」だ。

心は広がるほど、
柔らかくなるほど、
明るくなるほど、
愉しく生きられる。
難しい哲学は要らない。
愉しい人生を体験する為に生きている。

「相思」がオープン系ならば、
「相思」の癖を付ければいい。
思う相手が多いほど幸せな時を過ごせる。
コツは「多くの相手」であり、限定しない。
(ストーカーは行為であり、思いじゃない。
しかもストーカーは一人にこだわりすぎだ)

「相思癖」を阻むモノ。
それは「裸の自分を見せたくない」事だ。
「嫌われるのが恐い」という意識だ。
これは「孤独」への恐怖からなのだが、
その閉じこもる意識は更に孤独に向かう。

「ええぃ!見るなら、見ろ!
隠すほどのモノじゃないやい!」
この開き直りが「光」を呼ぶ。
実際、秘密にする程の深いモノなど、
普通の人は持っていないのだ。
自意識過剰・・・ゴメンね。

他(人)を「思う」事に遠慮もモンクも無い。
他(人)を愛する事は対象が多いほど、
その人と相手達の豊かな人生になる。
「相思」は多いほど世界が豊かになる。

(少し意味は違うが)
多情な世界は幸せだが、
薄情な世界は寂しいだけだぜ。

    翌月コラムへ      コラム2目次に戻る