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2005年・開
01/01 (土)

おめでとうございます。

祝いの言葉で新年が開ける。
お互いに祝い合う習慣は素晴らしい。
とても深い智慧がそこにはある。
智慧は生活を幸せにする為にある。

ワシにもマジメな考えの時期があった。
マジメは基準を「正しさ」に置き、こだわる。
だから異論を認めようとしない。
ぶつかるから、平和と幸せになれない。

なんで一月一日だけ「おめでとう」なんだ?
どこが変わった?昨日の続きじゃないのか?
12月に「おめでとう」と書く年賀状は偽善だ。
真冬なのに初春はウソだろう?

正論です・・・。
とても正しいと思います。
でも、幸せや平和にはなれないでしょう。
何が大切なのかも解らなかった。
「正しさ」を求めていたアホな頃がありました。

今更ですが、
ごめんなさい・・・。
ワシ・・・とてもアホでした。
今もアホですが、
おめでとうございます、と心から言えます。
おめでとうございます、と素直に言える人を
素敵だと思えるようにはなりました。

リセットチャンスとして新年がある。
そして、お互いに一年を祝福し合うと、
明るい未来に変わりやすいのだ。
とても深い生活の智慧なのだ。

「正しさ」を求めていては「智慧」は理解できない。

そして今年、新たな智慧を学んだ。
九州快男児からのプレゼントだった2005年暦。
沖縄の版画家・名嘉睦稔氏の一月。
題は「みるくゆぬしるし」

意味は書いてないし、知らないが、
何となく・・・解る。
感謝の言葉だろう。
畏敬の言葉だろう。
讃えの言葉だろう。

(神様)ありがとうございます。
そんな波動が伝わってくる。

感謝の言葉で新年を開ける。
これも素敵で素晴らしい智慧だ。

おめでとうございます。
ありがとうございます。

この世には素敵な言葉が沢山溢れている。

  祝言
01/02 (日)

普通は「しゅうげん」と読むが「しゅくげん」とする。
今年の一月の雑記も昨年と同様に祝い言葉を続ける。
最近は祝い合う習慣が少なくなっている。
祝い合うのは未来を創る智慧なのに、
「智慧」が何なのか知ろうともしない。

人間は理論や現象を解明するのと引き換えに、
とても、とても、愚かになってきている。
(社会上では頭が良いと思われている・・・)
科学は使い方で智慧になるが、
科学的思考が正しいと主張したら愚かにしかならない。
今の人間社会の主流は、愚壁へ自爆する事を選んでいる。

時代が暗い、社会が険悪だ、景気が悪い。
世界中で同じ「氣」を呼び出している。
原因探し(科学的思考)は不必要とは言わないが、
原因探しをしなくても回復はできる。
正体をしらなくても幸せになれるのだ。

お正月だもの、リセットしよう。
今年は始まったばかりだ。
これから今年を新たに創るのだ。
暗い、険悪な、重苦しい社会を創るのも、
嬉しい、愉しい、気持ち良い社会を創るのも、
人間の生き方や意識で方向が変わる。

社会は個人じゃない。
ワシやワシの知人だけがノーテンキであっても、
社会全体は愉しく、おだやかに変われない。
(個人的にはどのようにも変われるけどね)

言霊(ことだま)は合わさると加速度を増す。
影響力が剰倍増する仕組みなんだ。
1+1=2の世界は科学の世界だ。
この世は科学部分だけじゃない。
1+1=4になり、1+1+1=8や16になる。

微妙な言霊振動でも集まれば影響が現われる。
祝い合う習慣の智慧は、とても深く重要なんだ。
「祝言」は婚礼言葉だと思われがちだが、
婚礼に限らない祝いの言霊(ことだま)だ。

結婚生活は最小単位の社会生活だ。
当然いろいろ起こるし、いろいろある。
だからその始まりの婚礼に祝言を送る。
皆で祝言を送り未来を明るくする手伝いだ。

冷静に考えれば、誰と誰がくっつこうと、
あれほど祝言ぜめにするほど御目出度いわけじゃない。
(少しはおめでたいとは思うけど・・・)
無理やり祝言しないとマズイのか?
祝言の深さを知らなかった頃は、そんなふうに思っていた。

でも、今は素直に祝福できる。
未来を創るお手伝いをするのは気持ち良いぜ。

 
01/03 (月)

日本語は深い仕組みを宿している。
字が違っていても、音が同じだと意味も同様になる。
また、部分の組み合わせで意味の深さを表す。
ワシが多用する「愉」の字もそうだ。
これも「祝言」の一つなのだ。

左のリッシンベンは「心・精神」を表し、
右のユは「やわらぐ」意味を合わせている。
「楽しい」と「愉しい」は心の状態が少し違う。
「楽」は「場」が(弾む)嬉しい状態だが、
「愉」は心の底が(やわらぎ)嬉しい状態だ。

どちらも多くなると嬉しいものだが、
「楽」が与えられる場合が多いのに対し、
「愉」は自ら作り出すことができるのだ。
心がやわらぐ生き方をすれば、いつでも愉しい。

ワシはこれでもラテン系の生き方が好きだ。
他に頼っているよりも、自分で勝手に愉しみたい。
どんな状況下でも愉しみたいと思っている。
苦しくツマラナイのは好きじゃない。

生き方は様々だから固定も強制も無いと思う。
苦しいのが(嫌と言いながら)好みの人もいるだろう。
「しょうがないじゃない」と言いながら、
歯を食いしばる生き方を選ぶ人もいる。
精神的なマゾだと思う(反論あるよね・・・)

「しょうがない事」は確かに沢山、勝手に降りかかってくる。
でも心の状態はその人が主導だ。
その人の心の中は誰にも動かせない。
「しょうがない事」の中でも、心の状態は作り出せる。
苦しい状況下でも厳しい状況下でも心を愉しくする事は可能だ。
どんな悲惨な時代でも、笑顔を作り出す人はいたんだぜ。
(今はかなり楽な時代だと思うよ・・・)

「愉」の字は幸せへの、多くのヒントをくれる。
そして「癒」も関連している。
ヤマイダレの中でも「やわらぐ」と癒しになる。
病気を治す、という考え方から、
病気下でも、心や体や魂を「やわらげる」。
それは治癒に進むことができる。

病気の原因を調べなくても、治癒は可能なんだ。
ワシの仕事はここにある。
治療というより「癒し(ヒーリング)」。
もちろんプロだから治癒を見据えての「癒し」だ。

「癒し」は深さによって、影響結果が違うのだ。
表面の「癒し」から、底の「癒し」まで多種多様だ。
どこまで関わっていいのか見極めながら接していく。
(勝手に治癒させるのは失礼(ルール違反)な場合がある。
病気は勝手に治していいモノじゃないんだ。)
プロのヒーラーはこういう仕事をしているんだ。
ワシがノーテンキなのも素質の一つなんだ。

 
01/04 (火)

体も心も楽になりたい。
経済的に楽になりたい。
楽な仕事をしたい。
楽に生きたい。
最近の世の中の指標が「楽」になっている。

楽になることは一見よさそうだけど、
「いのち」の愉しさ
「生命力の活性化」からはズレているんだ。
昨日書いたように「愉」は自分でつくる状態だけど、
楽は与えられるモノで、追い求めるモノじゃないんだ。
「楽」は感謝するモノなんだ。

指標は何か? というと
「楽」ではなく「快」。
人生は自分の足で進むもの。
ナマケモノで根性無しのワシでもそう思う。
与えられるモノを追い求めれば、
愉しい人生にはならないのだよ。

体や心を元気にしたい。
(元気じゃない状態だよね)
その時にいろいろ変化させる。
間違いやすいのが、
「頑張って」回復しようとする。
心の底は「嫌」なのに無理して行う。

「楽」を基準にしていると、
楽じゃない事が「嫌」なのだ。
あるいは・・・楽になりたい為に、
心を誤魔化す、ウソをつく。
体を動かす事は(言い訳をして)サボる。
つまり、回復の邪魔になる。

楽になりたい為に楽でない事をする。
自己矛盾に陥る。
「人生、苦あれば、楽がある。頑張れ!」
なんて無責任な言葉を信じるし、
自分でも他人に言うようになる。

「苦」があるから「楽」があるのではない。
「苦」は自分で作り出すが、楽は与えられる。
「苦」は進行中だが、楽は結果なんだ。
「苦」と「楽」は対象じゃない。

ところが「快」を指標にすると、
いろいろな矛盾が解決できる。
「快」は「いのち」の羅針盤なんだ。
楽じゃなくても「快」はある。
痛快もあるし、快楽もある。

人の心は不器用だ。
対象をズームさせるから、
「快」を求めると「苦」が消える。
「苦」なんか無くても「快」はできるし、
「快」の周りは「楽の場」ができる。
苦の反動で楽や快があるわけじゃない。

昨日の「愉」に続けて
「愉快」になるのだけど、書き足りないのでまた明日。

  愉快
01/05 (水)

どちらもリッシンベンで心が関係するが、
「愉」は心の底がやわらぎ、穏やかになる。
心の大部分は幻だから、消えるという表現でもいい。
すると、本来の心は誰でも明るい方向にいきたがる。
心は鎮まると、愉しくなるのだ。
ワクワク、ドキドキもするが、底はやわらいでいる。

「快」は体からのメッセージだ。
体が心にサインを送っているのだ。
「これ、いい!」
生命が喜び、生命力が活性化する行いは、
心と必ずしも一致しないからサインを送るのだ。

心では「動くのメンドウだし、少し痛いし・・・」
と思っていても、体からは「気持ちいい」波動が伝わる。
心の声と体の声が対立した時には、体を優先する。
「愉」で「快」は引き出せないが、
「快」は「愉」を引き出すものだ。

心を心で誘導するのは、一部を除き困難だ。
でも体からなら心を変える事ができる。
「快」を基準にした生き方や行動の仕方は、
理屈や考えで行き詰った闇(病)や悩み(奈闇)を変える。

ワシが基準にする「嬉しい・愉しい・気持ちいい」では、
「気持ちいい」を最優先すると、あとの二つも引き出せる。
そして体の声に耳を傾けるというのは、
単に体や心の気持ちよさで終わらない。
「体」は「自然・神・調和・宇宙」へのドアなのだ。

「気持ちいい」は、とても深いヒントだ。
例えれば・・・神が生物に与えてくれた道標だ。
その方向に向かえば、誰でも調和できる。
ある境地までもたどり着ける。
神(というものがいるなら)は決して意地悪じゃない。
頭のいい人や深い考えの人だけヒイキはしない。
誰でも解るような仕組みを最初から与えてある。

ワシ流の説明では
グレちゃん(創造主)はメンドウクサガリ屋だ。
だから、簡単な仕組みを全員に与えた。
一部のモノだけが旨い汁を飲めるなんて区別はしない。
生きているモノが全て旨い汁を飲めるようにした。
ただし・・・背負って連れて行くほどマメじゃない。
「飲みたいモノは勝手に飲んでくれ!」
寝転びマンガを読みながら、そう言ったと思う。

体や心を治す、回復するのは難しくない。
誰でも、ある状態までなら一人でも可能だ。
ヘタな知識はかえって邪魔になる。
必要なのは、素直に体の声を聞くこと。
体への愛しさ、優しさを行えることだ。
(思っているだけでは役に立たない)

「愉快」になる。
とても多くの問題解決への道でもある。
そして、他へ「楽」の場を提供できる。
そして、そして、平和への最も近道でもある。

 
01/06 (木)

単なる喜びの意味ではなく、
心の底、あるいは魂の喜びを示す。
「愉」「快」「愉快」を生き方に取り入れると、
「歓」の扉が開かれる。
その先は新たなる世界だ。

「歓」はその場限りの感情じゃない。
感情を超えた別の感覚があり、
その感覚により心は開放(浄化)する。
そして「体の変化」を伴う深さがある。

心の部分においては、
悩み、迷いの壁を一つ抜けた世界でもある。
原因を探さず、原因をいじらなくても、
悩みや迷いは消滅できるのだ。
元々、悩みや迷いは幻なのだから、
生命力を活性化するだけで消滅するのだ。

「喜び」は「いのちの喜び」だ。
「苦しみ」は「いのちの苦しみ」だ。
喜べば「生命力」は活性化し、
苦しめば「生命力」は衰退する。
「いのち」はとても素直なヤツだ。
誤魔化しや嘘がつけないヤツだ。

人の心や意識や思考は嘘だらけだ。
間違いや勘違いや逃げや誤魔化しを含む嘘だらけだ。
というより、多種多様なモノが混沌と点在する仕組みだ。
どれが間違いだか、勘違いだか、逃避だか区別つけない。
その中にマトモも混同しているからややっこしい。

そんな心で「生き方」を決めようとすると、
迷うし、悩むし、行き詰るし、落ち込む。
その都度「生命力」は消耗し衰退する。
「いのち」は素直でシンプルだ。
ストレートで反応するように創られている。

「喜び」と「苦しみ」は誰でも判断できる。
どんな生物も判断できる。
「いのち」が進む方向は誰にでも判断できるのだ。
心や思考で決めないで「感覚」で決めると、
「いのち」は活性し、間違いも少ない。
(ただし社会概念に反する事が多いんだなぁ・・・)

更にもう一段高いレベルでの活性化が「歓」だ。
闇(病)からの回復にも加速度が増す。
悩みや迷いは一瞬で消し飛ぶ。
心も「快」の方向なら逃避しない。
「場」も「楽を超えた楽」になる。

「歓」は誰でも行ける道の先にあり、
しかも、とても高貴な境地でもあるのに、
社会的評価はそれほど高くない。

 
01/07 (金)

この言葉も上辺だけが横行しているが、
とても、とても深い幸せに通じる扉だ。
単なる感情の一つとしてとらえてしまうと、
「喜」の力、意味、濃さに気づかない。

どうしたら幸せになれるか?
それを求めた哲学が「宗教」であり、
特定の「神」を崇め奉るのは謀教だ。
やわらぐほど幸せになるのに、
考えや生き方を固定固持して幸せになれるはずがない。

本来の宗教の一つに「仏教」がある。
ブッちゃん(仏陀)個人の教えにこだわらない仏教は
「大乗仏教」といわれるが、同じなんだ。
ブッちゃんは森のケモノにも理解できるように話した。
「喜ぶ生き方をしようぜ!」
簡単な言葉だった。

嬉しい・愉しい・気持ちいい(快)
誰でも判断できる生き方を薦めただけだ。
それは「いのちが喜ぶ」事だった。
「悟り」を「幸せの境地」と訳せばわかる。
ブッちゃんは難解な教えを示さない。
でも、簡単だが、とても深いモノを示したのだ。

「喜び」はありがたい事を喜ぶ意味であり、
ありがたい事は当たり前の事でもある。
当たり前の事は奇跡の連続でもあり、
それは、有り、難い(奇跡)でもある。
ここにこうしている、その事自体が奇跡でもあり、
当たり前でもある。
それを「喜ぶ」生き方をしようぜ、と言ったのだ。

心静めて喜べば「感謝」でもあり、
他を喜べば「賛美・畏敬」でもある。
喜びは「認め・大肯定」でもあり、
キリちゃん(キリスト)の話と一致する。
キリちゃんは「喜」を「愛」と表現した。

どんどん「喜ぶ」生き方をすると、
「もう、何でもオッケー!」となり、
「何があっても嬉しくなっちゃう」
そんな世の中を「極楽」というんだ。

思うだけでは意味がない。
そういう行動をしてみれば、わかる。
結構・・・難しい。
ワシはノーテンキな楽観主義でもあるが、
それでも毎日毎分を喜ぶ生き方にできないでいる。

できなくても、そんな事はいい。
未熟で未完成の欠陥だらけの人間だ。
したいのなら、していけばいいだけの事。
していく行為が「喜」なら、
誰でも嫌な事じゃないから続けられる。
ワシのような根性無しでも歩いていける。

  歓喜
01/08 (土)

「歓」と「喜」が合体すると「歓喜」になる。
(ヒ、ヒネリもオチもねぇ・・・そのまんま・・・)
壁を抜けた喜びの世界での喜び(し、しつこい・・・)
飛びぬけた美人だらけの国の美人みたいなものか?
(美人じゃない方がモテるかもね・・・)

ワシのイイカゲンな直観によると、ある意味が浮かぶ。
「歓」と「喜」は合わさると完成するようだ。
例えれば、ある条件が揃ったオトコとオナゴ。
1+1=不確定多数(∞じゃないが2や4じゃない)。
同時に幾つもの別な世界の扉が開く。

人として最も高い世界は第六天界。
(それ以上は完全に人でなくなる)
そこの代表取締役が他化自在天という。
そのオッサン(仮オトコです)と
観自在菩薩(仮オナゴ)という観音ネ〜チャンがくっつくと、
歓喜天という更にスゴイ存在になる。
ここまでは、人でも何とか垣間観られる世界だ。
つまり、多少の恩恵を受ける事ができるのだ。

話をブッちゃんに戻そう。
ブッちゃんは、「喜び」の生き方を説いた。
それは人として最高の境地までを示したのだ。
優しい言い方だったが、とても深い叡智だった。
誰でも出来る歩き方と方向を説いた。

「歓喜」は人として最高レベルにタッチする方法なんだ。
(到達するのは困難だと思うが、触るくらいなら出来る)
「歓」も「喜」も自分一人で出来るが、
「歓喜」は相手と融けあって発生する。

歓喜地という言葉もあるが、普通の人は行けない。
精進を重ねる根性が必要というよりも、
単純に「どうしても行きたい」という好奇心が強ければ行けるかも。
ワシはそんな遠くまで行きたくないが、
楽園という世界には行きたいと思う。

無理も苦しみも好きじゃないから、
嬉しい、愉しい、気持ちいい世界に住みたい。
ブッちゃんが示したから行きたいわけじゃないし、
最高レベルなんてどうでもいい。
喜びだらけの毎日なら、我侭なワシでも住める。

「歓喜」の方法には、
この雑記ではとても書けない内容もある。
マトモなんだけど、ワシが説明したのではアヤシイだけだ。
どうしても聞きたかったら仕事として話すから依頼してくれ。

 
01/09 (日)

飛ぶ事にアコガレがある。
昔、爬虫類の頃・・・
無理やり高いところから飛び降りるヤツがいた。
頭が軽いヤツだから、何度も繰り返した。
飛ぶなんて無理だと思わなかったのだろう。

次第に体も軽く変えていった。
広げた腕も改造していった。
そして、ついに「降りる」から「上がる」に変えた。
頭が重い(頭のいいヤツ)は、自由になれない。
ワシは重い体と頭で、羨ましく見上げた。
ワシはブラキオサウルスで体重が80トンだった。

「飛ぶ」とは「自由」になる象徴だ。
自由は暮らしが不安定になる事と引き換えだ。
なにしろ・・・風任せの暮らしでもある。
地に足をつけた生き方をするか、
不安定でも自由な生き方をするかは趣味の問題。

飛ぶヤツは地上に降りる事も出来るが、
地上生活者は空を飛ぶ事が出来ない。
だから地上生活者は飛ぶ事にアコガレが、
「飛ぶ」のは何も支えが無いのだ。
とても不安定な状態なんだ。

安定しているヤツは「自由」にアコガレる。
自由が欲しい、と思っているのは、
とても恵まれた生活をしている事を忘れてる。
安定と不安定は一緒にいられない。
当たり前だよね。

ところが「不安定」でも「安心」はできる。
安心はどんな状況でも可能だ。
逆に、どんなに「安定」していても「心配」もある。
「飛ぶ」事は不安定ではあるが、安心もあるのだ。

自由と安心は同時に手に入る。
だから飛ぶヤツは自由に地上に降りても、
そこで生活しようとはしないのだ。
地上の方がメシは豊富なんだけど、飽きるのだ。
不安定に魅かれてしまうのだ。
飛ぶヤツ等は、精神的マゾだ・・・。

重力というのがあるから、落ちる事は誰でも出来る。
上に跳ねる事も出来る。
でも、自由に飛ぶ事は出来ない。
そう思っていた恐竜は最後まで飛べない。

「飛」は
「固定概念」から解放する事なんだ。
飛んでみれば、世界は広い事に気づく。

 
01/10 (月)

心が、もうどうにも止まらない。
静かに! と言っても逸ってしまう。
感情で動くのではなく、
湧き上がる「いのち」で動いてしまう。
それが「躍」だ。

何で動くのか解らないから、
「嬉しいから・楽しいから」と一応言うが、
理由や理屈は心側に無いのだ。
体でも心でも、本人にも解らない行動がある。

例えれば、太古の頃の「生命」の記憶。
アフリカ民族に伝わる大地のリズム音楽。
何かの条件で発生する、曙光直前の黄金の空気。
深海における無音の圧力。
地球を見下ろす大気圏外での無重力状態。
(行ったことが無い、ワシの想像だけどね・・・)

地球鼓動との共鳴時には「生命の高揚」がある。
「生命」は通常、肉体に宿っている。
体が勝手に動き出すのは、幾つかの種類があるが、
「躍」は「生命」が高揚し弾む時の表現だ。

「生命の高揚」は地球鼓動との共鳴だけじゃない。
いろいろな条件との「出会い」により発生する。
個人的な「出会い」でも起こる。
運命の出会いの瞬間・・・
「会った瞬間に、ビビビッと感じました」
色恋沙汰のセリフは、あてにならないけどねぇ。

「踊る」は外側からのモノに合わせておどるが、
「躍る」は内側から勝手に動いてしまう。
意思や意識で躍るわけじゃないから、
「踊る」より「躍る」方が深く変化が起こる。
何よりも嫌な部分が無いから楽だ。

体や心の病は「躍」でも回復する事がある。
自然治癒力が一時的に増大するのだ。
「生命の高揚」なのだから当たり前なのだが、
意識して応用し難いのが欠点なんだ・・・。
以前に書いた「快」でも「喜」でも回復する事がある。

「病は医学の分野」という固定概念の社会だから、
ほとんど、医学の分野でしか治療・回復出来ない。
「いのち」の専門家がいないから指摘しないけれど、
「いのち」の分野からなら、方法は沢山用意されている。
しかも、誰にでも平等に扱える方法でもある。
この世は平等に創られているんだなぁ。

  飛躍
01/11 (火)

「飛」と「躍」の合体技。
固定概念からの解放で「飛」
「生命の高揚」で「躍」
つまり一つの壁を通り抜けるより、
一つ階段を上るよりも強烈なんだ。

一度に幾つもの壁や階段を過ごす。
順序よく、一つ一つクリアーしていくのは、
この世の常識内での成長の仕方だが、
「飛躍」はこの世の法則に縛られない。

イキナリ、飛び抜かしてしまう。
二段目から真打までゴボウ抜き。
というか、順序が無い世界の動き方だ。
インターネットの仕組みのようなものだ。
上下関係は無く、空間関係も無い。

固定概念からの解放とはいえ、解放度がある。
全て解放してしまったら、何も無くなる。
「存在」さえ無くなるから、話にならない。
話の意味も無くなっているのだからね。
だから「飛躍」とはいえ、飛躍できる範囲はある。
上下、左右の距離は無くても範囲(世界)はある。

ワシはレベル(そんなモノがあるとして)を上げたいわけじゃない。
(表現の仕方では)レベルを下げたい、という方が近い。
霊性レベルとか進歩とかそんな事はどうでもいい。
気持ちよく、やわらぎたいのだ。
その為の解説をしているのだ。

ワシ流の「飛躍」は
愉しめる範囲での「飛躍」だ。
表現の矛盾があるが「抑えた飛躍」だ。
飛躍しすぎると、他との調和から無縁になる。
低俗を愛するワシが、飛躍しすぎたら哀しいぜ。
何の為の人生だ!

今生は「人生を愉しもう」として来ているのだ。
立派に成る為に生きているのじゃない。
「飛躍」というと、社会的評価の高いイメージがあるが、
そういう「飛躍」を薦めるのは立派な人の役目だ。
ワシの役目じゃない。

今の悩み(奈・闇)からの解放。
気持ちよく生きるためのワガママ。
赤ちゃんは、ツマラナイモノに縛られていない。
やわらかなワガママな生き方をしている。
気が向いたら「おっぱい、欲しい」とねだる。
ワシもそういう生き方を目指している。

さて、今年はどこまで「飛躍」できるか、愉しみだ。

 
01/12 (水)

「感」は感じる事だ。
生きていれば、誰でも何かを感じる。
だが、感じる対象は皆同じではなく、
感じる深さや広さもそれぞれが違うのだ。

体で感じる世界があり、
心で感じる世界があり、
魂で感じる世界があり、
それ以外で感じる世界さえある。
(「氣」「霊」「運」「縁」など)
そして、それぞれの世界の中でも、
ある部分、ある範囲を強弱・濃淡で感じる。

体で感じる世界では主として五感がある。
ある人は見る世界に敏感であったり、
音の世界や味の世界に敏感であったりする。
その音や色の世界でも得意の分野がある。
どの世界でも、とても広く創られている。

心で感じる世界は自分の内世界を感じている。
他のモノの内世界と共鳴する事で、自分を感じる。
他を感じているように錯覚するが、自分を感じているのだ。
心は自分を離れては感じる事が出来ない。

心や体を離れて感じる事もある。
それは魂で感じる場合だ。
何かの条件が揃った時にイキナリ感じる。
意識して感じる事の出来ない感覚だ。
その場合は誰でも感じるが、その後の認識が素直じゃない。
「勘違いだと思う」人がとても多いようだ。

それ以外の感覚もあるが・・・ここではパス!

体で感じる世界は物質界を感じているから、
他のモノと共通、共感を得る事ができる。
体は個々であるが、底は共通しているからだ。
深くなればなるほど、他との共感を得る事が出来る。

心で感じる世界は共感しているようで、実は共感はありえない。
共鳴・同調と共感は別物だ。
「心が通じ合ったね!」などというが、
双方の勘違いだ(すいません・・・ホントです)。
体が通じ合う事から魂が通じ合う事はあるが、
心は幻なので、触れ合っても勘違い同士なのだ。
深く感じれば感じるほど、離れていくのが判るはずだ。
(ここの説明は難しいかなぁ・・・)

感性は能力ではない。
誰でも基本として完成している。
「感性は完成だ!」(すいません。こういうのが好きで・・・)
余計な服だか殻だかを重ねすぎているから、
マトモの働かないだけなのだ。

脱げばいいだけの事。
完成しているモノを伸ばそうとすると、
イジケルのが当たり前だ。
優れた指導者は壊さないようにする。
素直を現すように指導するものなんだ。

 
01/13 (木)

あやまる・わびる、という意味だが、
間違いを認めるというのとは違う。
「気づき」が遅れた事を「謝り、わびる」のだ。
「ありがとう」という思いが込められている。

「気づき」があれば必ず「謝」がある。
気づかなかったマヌケを詫びるからだ。
「謝」の対象は人やモノや自然や神や諸々だけど、
「謝」の無い「気づき」はニセモノだ。

「ありがとう」を言うのが遅れちゃってゴメンナサイ。
「謝」の時、人はとても素直になる。
「謝」の時、人はとても素敵になる。
イイオンナやイイオトコは「謝」で判断できるんだ。
見た目や勢いの態度じゃないんだぜ。

ワシのように傲慢な場合でも「謝」はある。
節操の無さを趣味にしているから、
傲慢なくせにして、傲慢にこだわらないのだ。
いつでも下座になれる。
上座も遠慮しないが・・・。

むしろ普段が傲慢だから「謝」も多い。
独善だから謝ってばかりでもある。
「謝」集めも趣味なのかなぁ・・・。
何よりも力まなくて済むから楽だ。

以前は「ありがとう」と「ごめんなさい」が一致しなかった。
何故ペアなのか理解できなかった。
「ごめんなさい」を「正・誤」の世界でしか認識できなかった。
「ごめんなさい」は間違いを認めた時だけだと思っていた。

別な世界があるんだぁ・・・。
「ありがとう」も「奇跡」も「当たり前」も同じだ。
そう気づいてから、別な世界も観えるようになった。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も同じ思いなんだ。
同じ思いの世界があり、その世界の方が素敵だった。

ワシの仕事姿勢は(肩の)力を抜くこと。
素直になる事。空っぽになる事。
いつの日か、成りたい目標がある。
24時間の氣功師。
故お師匠様のような。

趣味で傲慢や独善をしていても成れると思う。
趣味でイイカゲンやスケベであっても大丈夫だ。
24時間の素直。
24時間の「謝」。
どれも同じ事だと知っている。

  感謝
01/14 (金)

「ごめんなさい・ありがとう」の「謝」を、
その人なりの「感性」で表現すると「感謝」になる。
つまり「感謝」は表現しなければ完成しない。
思っているだけや、感じているだけでは「感謝」にならない。
また通り一遍の形でも「感謝」にならない。

動作で、声で、文で、画で、お金で表現する。
例え同じ「ありがとうございます」の言葉でも、
一人一人違う部分からの行為なんだ。
筆の一字に思いを乗せて書く場合もある。
長文に思いを乗せて、伝える場合もある。

如何に自分が感じたか、ではなく、
如何に相手に伝えられたか、が「感謝」の役割だ。
心の中で手を合わせている、だけでは、
「感」や「謝」であっても「感謝」にならない。

「感謝」は双方が共鳴しする仕組みだから、
一方通行の「感謝」もありえない。
された側も「感謝」が起こってしまう。
「調和」に属する事柄は「お互い様」なのだ。

少し綺麗事だがエピソードを紹介しよう。
ある苦しんでいる人を治療した。
とても苦しかったのだと思う。
電話が出来るようになってから
「ありがとうございます。本当にありがとうございました。」
涙声だった。
聞いているこちら側に瞬間的に流れる思いがあった。
「そうじゃない。苦しい思いをしてくれたのは相手だ。
そして楽になったのも相手だ。
自分は苦しかったわけじゃないのに、
その嬉しい思いを伝えて(分けて)くれるなんて、
感謝するのは、こちら側だろう」

「感謝」は、される側も「感謝」してしまう。
だからこそ、表現し、伝えて成り立つモノなんだ。

「回復」に関して故お師匠様の言葉を思い出す。
「回復は感謝して一区切りになる」
「治った事を感謝しないと、また病むぞ」
そんな意味の言葉だった。
その通りなんだなぁ。

病と回復の間にあるのは「感謝」。
でも医学のほとんどはそれを知らない。
上辺だけの言葉があっても、
実際に大きな影響が有る事を信じていない。

 
01/15 (土)

圧縮されていた(と思い込んでいた)事が、
解放されると別の姿が見(観)える。
圧縮も解放も、そのモノではあるが形が違う。
圧縮時は硬(固)くて暗く狭く小さい。
解放時は柔らかく明るく広く大きい。

意識のやわらぎ。
固定概念からの解放。
これらは未来を開く鍵だ。
解放は開放だ。
放してみれば壁や扉は無かったと気づく。

体のやわらぎ。
抑圧からの解放。
病は圧縮されていた闇状態だから、
「やわら氣」は病を開く鍵でもある。

病気を治すのではなく、
体や心をやわらげる、もう一つの医療方法。
病(闇)と係わる事をせずに、
全体を開き明るさ(光)と係わる方法。

「開」は「快」より始まる。
気持ちがいいから、やわらぎ、やすらぐ。
「やわら氣」はもう一つの世界への鍵でもある。
病と闘う事をせず、
「いのち」の喜ぶ行いをする。

開く(あく)は「明く」や「空く」と同じ意味だ。
「空」は空っぽでもあり、「調和」でもある。
(色即是空をワシ流に訳すと、
物質界(色界)は即ち調和世界である)
(別訳では、
頭の空っぽの色っぽいネ〜チャンは、
とても調和がとれている女神様のようだ・・・)

「明」は光の世界であり、「調和世界」でもある。
そして「明(めい)」は「冥(はかりしれない世界)」でもある。
「調和」は、はかりしれない素敵な世界でもあるんだ。
日本語は・・・深い意味を内蔵している。
そして開く事はとても深く重要な行いでもある。

まずは・・・目を開こうぜ。
他からの力では開く事は出来ない。
自らしか開けない。
社会常識とかマスコミ情報とかで世の中を見ていても、
自分の目は開かない。
ホントの姿は見(観)えない。

自分で開いた目で見れば、判断力は必要ない。
開けば解るから、分析する必要もない。
赤ちゃんの目は
開いた目なんだ。
そして誰でも赤ちゃんだった頃がある。

 
01/16 (日)

最高最良と他が認める、状態、時期、形など。
種でも蕾でも枝でも根でも、それぞれ最高の存在だが、
「社会」は「認知」で成り立っている。
だから「花」の時期はそれなりに重要ではあるが、
他人任せの「花」の時期だけが「花」じゃない。

社会的な「花」だけに価値を感じていたのでは、
その人は、とても寂しく、寒い人生だ。
否応なしに社会とは係わるが、
「社会はあてにならないモノ」は事実だ。
社会の常識や基準を自分に当てはめるのは、
自分を愛しむ行為に反するのだ。

いつでも「花」。
生きていれば「花」。
生きとし、生けるモノ、全てが「花」。
あるいは、全ての時期は「花」になる。
「花」に変える事が出来る。

「花」は姿形じゃない。
勢いや結果でもない。
「輝き」であり「温もり」だ。
全ての時期で「輝き」も「温もり」もある。
輝かせるか、温かくなるか、
それは本人次第なんだ。

そして「花」はイキナリ「花」にならない。
愛しむ、労わる、大切に扱う行いで、
輝き、温もり、「花」となる。
さぁ、オナゴ諸君、どうする?

「輝き」は自ら光る事。
他からの刺激で格好はつくが、輝く事は出来ない。
「温もり」は相手を愛しむ事で発生する熱。
自他への愛しみがなければ「花」にならない。
さぁ、オナゴ諸君、どうしよう?

ヤローにも「花」はあるが説明する気にならない。
ヤローは「花」などどうでもいいから「夢」を追いかけよう。
オナゴにモテなくても、充実の人生を送れるぞ。
オカマさんは・・・ワシの管轄外だから不明だ。

花の人生。
人生は花。
そう感じられる生き方。
「花」は内側から開くようだ。

隠すつもりもないが、
内側で開いた「花」は表に香りを漂わす。
多分・・・素敵なオナゴは自分を愛しんでいる。
そして、他を慈しんでいる。

  開花
01/17 (月)

花が開く事だと思われているが「開」が先なんだ。
開く(解放する)から「花」となる。
素直になるから「花」が咲く。
明るくなるから「花」開く。
温かくなると「花」が増えるのだ。

「花」を意識する事ではなく、
「開(空・明・温)」になると、
いつでも勝手に「花」が咲く。
「開」には「花」がもれなく付いてくる。

全てオープンよん♪
そういう人の笑顔は「花」だ。
頭、空っぽだから・・・
そういう人の笑顔は温かい。
「開花」は社会評価(見える世界)じゃなく、
幸せ(見えない世界)基準なんだなぁ。

学校や試験の成績優秀を目指す頭の良さは、
社会に出ても隠し事が得意になる。
優秀な成績者が官僚や政治家になると、
隠し事が「デキル」仕事だと思い込む。
そして・・・今の日本の状態となった。

TVに出てくるエライ人が、素敵な「花」に観えるか?
ワシには陰険な顔にしか観えない。
欠けているのは「開」じゃないのかなぁ。
人を導く役目というものがあるなら、
それこそが最重要な資格だと思うけど・・・。

素直でオープンな政治家が出現したら、
(温かく、笑顔が明るい、自然体)
世界のリーダーになれるだろうね。
(嘗てマハトマ・ガンディーという偉大な政治家がいたが、
笑顔が素敵な自然体は闇の勢力が排除したがる。
世界はまだ闇側が主導権を握っている。
アメリカやその奴隷国の日本の政治家達のように)

闇(病)の対岸に「開花」がある。
ならば闇(病)からの回復へのヒントもあるんだ。
闇側いたければ、苦しんでいてもいいが、
明るく笑いたければ「開花」側にくればいい。
そう難しい事でもない。
解放は、素直に手放すだけでいいのだから。

「開花」は個人の装飾じゃない。
自他が「嬉しく・愉しく・気持ち良い」世界に生きる目安だ。
想像してごらん。
個性ある「開花」の人達の集まりを。
ジョン・レノンも想像していたろう。

 
01/18 (火)

人間は未熟だから人間でいられる。
完熟したら神になるか素粒子に戻るか判らないが、
ドジでスケベで心の不安定な人間ではいられない。
ちょっとした事で感激できる素敵な人間ではいられない。

そんなアホな人間に「真」が判断できるかというと、
驚いた事に、誰でもできるんだ・・・。
誰にでも「真」は判断できるけど、
どんな時でも判断できるかというと、それは無理。
だって・・・アホなんだもの・・・。
アホに「真」は判断できない。
すごい矛盾な文章を書いているなぁ・・・。

どうやら人間はアホとアホじゃない部分とで成り立っているようだ。
「アホ」はわかるよね。
アナタの心や考えや意識だもの。
「アホじゃない」のは「立派」や「優秀」じゃないよ。
立派や優秀は「アホ」の延長であり、本質は同じだ。
ドングリの背比べ。

「アホじゃない」部分は「自然」。
人間の考えや心以外の部分だ。
目に見える部分では、肉体だ。
肉体を持っている人間なら、誰でも判断できる。
でも、頭や心を使ったら判断できない。

ワシがエラソウに「真」を語れるのも、
ワシは頭や心が優秀じゃないからラッキーだったのだ。
「役に立たない考えや心なんて、ほっとけ!」
(「ほっとけ!」を日常に広げた人を「仏」様という。
水上流、我田引水・独善辞典より)

どうやら「真」はヒネクレモノのようだ。
グレちゃん(創造主)がヒネクレモノなのも、
この世の仕組み(法則)がヒネクレているのも、
全て同じ質から出来ているからだ。

最近は学校などで勉強などするから、
ますます「真」を判断できなくなった。
優秀な人間は「コマッタちゃん」なのだ。
何故「真」を判断できないと「コマッタちゃん」かというと、
「真」は「自然」の姿だものね。
自然を判断できないから、迷惑ばかりかけている。
(人間同士は連帯責任かもしれないが、
他の生物はトバッチリで大迷惑だよなぁ・・・)

「素直」は社会的には「ヒネクリモノ」となる。
素直に感じ、素直にモノを言うと、変人奇人扱いされる。
「真」を判断すると社会的には評価されない。
でもヒネクレモノにはグレちゃんが味方してくれるぞ。
味方してくれても、特に都合のイイコトはないけどね。

まぁ、いい。
そのうち世界は変わらずにいられない。
価値観がひっくり返らずにはいられない。
ワシが存命中に変わるかどうか判らないが、
自然はいつでも回復するものだ。

 
01/19 (水)

基本形としては丸い玉だ。
いろいろな種類や意味があるが、
ワシ流として取り上げる「珠」がある。
ワシ流だから「見えない珠」の話となる。

いつも書くように、この世はヒネクレている。
「見えないモノ」を観ると「見えるモノ」が理解できる。
見た目で判断していた頃のワシは、
丸い宝石の何が素敵なのか、ちっとも判らなかった。

「綺麗だけど・・・役に立たない。
そこらに転がっている美人みたいなものだなぁ」
美人を見た目でしか判断できなかった頃の話だ。
世間が美人だというから「美人」だと思っていた。
自分の基準(観る目)が塞がっていた頃の話だ。

「綺麗」「素敵」だと思ってなかったのに、
「美人」という肩書きで思い込もうとしていた。
だから、イマイチ「美人」に気が乗らないでいた。
「美人って、何がいいんだろうねぇ?」

この頃の悪しき思い込みが今も影を引きずる。
「美人に縁がない(縁付こうと思わない)」
ゴメンナサイ。ワシ流の表現です。
現実は、ワシに縁のある人、ほとんど美人です。
内面も見た目も美人が圧倒的に多いです。
(不思議で理不尽かもしれないけど、本当です)

ワシは(ホントの)美人が好きです。
いつでも愛でたいと思ってます。
そこで、この世はヒネクレているという法則を活用し、
「美人とドビンの区別がつかない〜」
なんて言って、美人が寄ってくる仕組みにしています。
最近になり「ヒネクレ」と「素直」が同じだと気づき、
メンドウな時は、素直に表現する事にしている。

「珠」も同じ。
磨いて磨かれて丸く(調和)なる。
内側にある輝きは、素直に外にも解き放たれる。
内側からの輝きは優しく温かい。
例え外側が壊れても、優しく温かい。
(でも、時々、つ、冷たい・・・)

丸い形には理があった。
見えない世界は見える世界の形を創る。
丸い珠なら綺麗で素敵だ。
やっと、素直に「珠」が見えた。

そういえば・・・
いつでもワシは「氣」を写真に撮ることができるが、
そのほとんどは「白い丸い珠」型をしている。
ワシはヒネクレていても「氣」は丸い。

  真珠
01/20 (木)

「真」はアチコチに転がっている。
マガイモノも多い世界だが、ホンモノも沢山ある。
この世は玉石混交、玉石人造物幻乱交パーティの世界だ。
「真」があっても区別はつきにくいものだ。

「真」の特徴として「控えめ」があり、
「偽」の特徴として「ハッタリ」がある。
だから世間に出回り、売れるのは圧倒的に「偽」が多い。
「偽」だって良く出来ているし、愉しめればモンク無い。
でも「偽」に味わいは無いが「真」には味わいがある。

そんな地味な「真」だが、磨けば輝く。
「偽」は磨くと、ボロが出る。
「真」と「偽」の区別がしたければ、磨けばいい。
ワシ流では、どっちも愉しめればいいんじゃないか? と思う。
「真」が「偽」より偉いわけでもないだろうし、
(真)本人も区別はいいけど、差別など望んでないと思うよ。

磨いても磨かなくてもいいが、
磨いてしまった「真」は「珠」になる。
(磨いてしまった「偽」はクズになる・・・)
磨くと「真」は白く(透明)なる。
磨くと「真」は丸く(調和)なる。

人間は「真」と「偽」で創られている。
磨いてみると「真」の部分は輝いてくる。
「偽」の部分は壊れてチリになる。
(消えるわけじゃないが、形は無くなる)
つまり「磨く」と「真」だけが残るのだ。

宗教組織関係者や道徳関係者や偉い人は、よく言う。
「人は立派(正)になるのが使命だ」
ワシは、特にならなきゃいけない訳でも無いと思う。
そういう事を言う人が輝いているとは思えない。
磨き方や磨く所が違っているんじゃないか?

ワシ流では、グレちゃん(創造主)と約束があると仮定するなら、
立派(正)になるのではなく、進化することでもないと思う。
多分・・・「愉快」を体験する(魂に刻む)事だと思う。
嬉しい・愉しい・気持ち良い、を味わう事だと思う。

人は「真珠」になれる。
それは清く正しく変わるわけじゃない。
明るく、温かく、楽しい人になる事だと思う。
嬉しいと温かくなる。
愉しいと楽しくなる。
気持ち良いと明るくなる。
「磨く」って、そういう事だと思うよ。

どうする?
アナタは綺麗(輝)になりたい?
なった方が、幸せだと思うよ。
そんなの、難しくないから。

 
01/21 (金)

字を分解すると「心に良いモノ」という意味になる。
「羊」は「心」の事なのだ。
日本語(漢字)は結構面白い。
分解してみると、深い意味が隠されている。

例えば「美しい」は「心が大きい」という意味で、
「美人」は、容姿がキレイ、という現代の意味とはちょっと違う。
本来なら「心がやわらかい人」が「美人」だと思う。
ツンケンしている美人は、ありえないんだぜ。
心がやわらかい人は、見た目も美人に見えるものだ。

「養」は(健全に)育てる、という意味に使われるが、
ワシは「ゆっくりと愉しんで」という意味だと思う。
「心に良いモノ(養)」は「心が喜ぶモノ・愉しむモノ」だ。
それが心を大きく(やわらかに)育てる事だと思う。

「心」は構造も質もヒネクレている。
(異論がある人が多いでしょうが、よく観るとホントだもん)
多くの人は「心」を誤解している。
「心」は基本的に「ロクデナシ」なんだ。
心の無い人はいないから(少ない人はいる)、
人間は皆ロクデナシ、とも言えるなぁ・・・。

「ロクデナシ」に必要なのは更正じゃない。
心は広く複雑だから、更正するのはこの世では無理だ。
肉体の命は有限に設定されている。
心を正しく変更する事は、人生の無駄遣いだ。
肉体が無くなってからなら時間がたっぷりあるから、
更正は、あの世に行ってから充分出来る事なのだ。

「ロクデナシ」に必要なのは「慈しみ」だろ。
「ロクデナシ」は結構、ツライんだ。
「心」は毎日ツライ思いを背負っている。
ならば、愉しませてあげようよ。
それが「養」という意味だと思う。

グレちゃん(創造主)はオチャメだ。
この世の仕組みも、心の仕組みもヒネクレて創った。
ゆっくり愉しむと歪みが消えてしまう。
嬉しいとシコリは解き放たれてしまう。
明るいと闇は幻に戻るんだ。

「正しさ」追い求めると、闇(病)は増え続け、
「更正」しようとすると、歪みは苦しみに変わる。
ワシ、プロとして苦しむ人を観ていて、そう思ったよ。
世界の争いを観て「正しさ」は「苦しみ」だと思う。

「正しい食」をするのが「食養」じゃない。
「ゆっくり美味しいと愉しめる」のが「食養」だ。
「正しい生き方」が「養生」じゃない。
「いつまでも、ゆっくり愉しめる」のが「養生」だ。
「正しいモノ」は決して心に良くない。

 
01/22 (土)

「老」のイメージが暗い。
衰える、錆びる、力や勢いが無い。
ある意味その通りなのだが、その深さを誤解している。
「老」は「生」の別面であり、「生」の衰えではない。
「生」即「老」なのだ。

この世では「生」から「死」までの期間を「老」という。
「死」までは「生」の世界だ。
「生の世界」を「老」という。
生きとし生けるモノ、全ては「老」として生きている。

ある生命体の「生命力」を観ると、生まれた時が最大だ。
これはどんな生命体でも同じだ。
徐々に体や能力が育っていても「生命力」は減少する。
更に体や能力が衰えていくのにも「生命力」は減少している。

「生命力」が減少するから衰えるのではなく、
「生命力」を使いながら、育ったり衰えたりする。
育つのも衰えるのも、どちらも同じ仕組みなんだ。
「いのち」は無限かもしれないが(人間に無限は判断できない)
「生命力」は有限であり、徐々に使っていくモノなのだ。

この単純な事実が理解できれば「老」の誤解も解ける。
今生きているモノで「老」以外のモノは存在しない。
誰にも避けられない、ナサケナイ状態ではなく、
避ける概念さえない、当たり前すぎる状態なんだ。

中年のオッサン、オバハンだけが老いているわけじゃない。
小学生は幼稚園児より「老いて」いる。
ジョシコーセーなど、かなり「老いて」いる。
でも、そんなふうに表現するのはアホだろ?
育つも老いるも「細胞」の生命力(若さ)からなら同じだ。
赤ちゃん時より若い時は無い。

「老」は「生」。
だから「生き方」は「老い方」なんだ。
「生き方」とは「愛し方」が中心になる。
この世は肉体が主役の舞台だ。
(あの世は多分精神・魂が主役だと思う)
ならば「肉体への慈愛」は「生き方」の土台となる。

「生き方(愛し方)」が観えない。
迷う。戸惑う。悩む。
そうだよね・・・アホだもの・・・人間だもの。
ワシなど迷いっぱなしの50代・・・アハハハ。
でも健康でいれば観える時があるかもしれない。
アホじゃない人は、いつ死んでもいいけど、
アホな人間は、命を大切に使う方がいい。

「健康」は「老」に方向を示している。
単に「病気にならない元気がいい」というものじゃない。
生まれてきた意味を示す鍵が「健康」なんだなぁ。
意味が解ると、もっと幸せになれる。
「老」は誰にでも平等にあるが、
「老い方」は個々で方向が別れる。

  養老
01/23 (日)

今回は簡単だよね。
「養」は「ゆっくり愉しむ」。
「老」は「生きている事」だもの。
「老」も「生」も同じだから、
「養生」も「養老」も同じなんだ。

「養老」なんていうと、ある年齢からみたいだけど、
幼児から当てはまる「生き方」なんだ。
そして死ぬまで当てはまる「生き方」なんだ。
優しい、温かい言葉だと思うよ。
だから、これも「祝言」だ。

毎日の暮らしの中には様々な事がある。
誰にでも共通の事柄もある。
「寝る事」「食べる事」「出す事」。
この三つが欠ける人間はいない。
王様も乞食さんも(中身は違っても)必ずする。

いろいろな「ゆっくり愉しむ」事はあるし、
どんな事柄でも「ゆっくり愉しむ」事はできる。
それが辛く苦しい事でも、変える事ができる。
でも基本として、三行為は誰にでも可能な「養老」だ。

「ゆっくり」は時間の長さじゃない。
「心のやわらかさ」の表れだ。
「愉しむ」は感覚じゃない。
「心の明るさ」の表れだ。

ゆっくり愉しんで、寝る。
ゆっくり愉しんで、食べる。
ゆっくり愉しんで、出す(大小と息だよ)。
それだけで「養老」になる。
難しくないだろ?

「養老」は「若返り」の基本にもなる。
「生命力の慈愛」だもの当然だよね。
「養老」は病からの自己回復の一方法でもある。
一方法だけど、最大の方法でもあるなぁ。

難しい病であっても回復のコツがある。
「養老」を実践してくれていれば、
治療する側としては、最高のお手伝いが出来る。
「奇跡」は「当たり前」に転がっているが、
「当たり前」をしてくれないと、通り過ぎる。

治療回復の「奇跡」の扉は治療側にあるのではなく、
クライアント側の「養老」に付いているんだ。
お互いの「生命に対する慈愛と行い」が共鳴すると、
遥か宇宙の彼方から、一瞬にしてやってくるモノがある。
「ラッキー!」という光がやってくる。

 
01/24 (月)

「まん・ばん・よろず」と読む。
数がとても多い時や、多すぎて「全部」という意味にもなる。
どこまでも、とか、無限とかの意味にもなるし、
万能・オールマイティという意味にもなる。
「満」の「みつる」という意味にも使われる。

字も言葉も事象に影響を与える。
言霊や呪文は特殊な世界にあるのではない。
一般の社会の中に沢山、さりげなく解け込んでいるのだ。
でも、せっかく解け込んでいても最近の日本は無知になった。
頭の良い人が増えたから、愚かになってしまったのだ。
成績が上がると、智慧が下がる事を知って欲しいなぁ。

数字の千の位が10個集まったのも「万」というが、
千円札が10枚よりも一万円札が一枚の方が遥かに大きな力を発揮する。
(経済理屈では同じ一万円の価値なのだが、見えない力がプラスするのだ)
アヤシげでアイマイな御札(おふだ・お守り)より、
万札(一万円札)の方が現実に役に立つし守ってくれる。
我家では間違いなく役に立つし、守ってくれる・・・。

万能の意味をもつ「万」の言葉や字は、
万能の性質をもつ「神」と少し共鳴する。
(少しだけ、たまに、きまぐれにだよ)
だから「万」の言葉や字を使う時には、
「畏敬」「感謝」が伴って能力が発揮する。

無闇に一万円札を集めても、畏敬や感謝が無いと不幸になる。
単なる成金や金持ちの顔が幸せに観えないのはそういうわけだ。
「金は不幸を呼ぶ」なんていうけど、そんな事はない。
金があるから不幸なのではなく「畏敬と感謝」が足りないだけだ。
そういう時は(札束を)ワシに預けなさい。
手厚く畏敬と感謝で使ってあげるから・・・。

「万が一」「万に一つ」も結構起きる。
「奇跡」は日常茶飯で起きる事をワシは知っている。
「畏敬と感謝」にナニカが共鳴すれば、
数の多さの「万」から全能の「万」に変わる。
すると「万に一つ」は「万能の一つ」になる。
奇跡は「畏敬と感謝」で普通に起きるんだ。

そうか!
ワシも「金策に走るのも万策尽きたぁ」
なんてスリルを味わってなくていいのだ。
「畏敬と感謝」で策を練ろう。
「万策」は「奇跡の逆転満塁ホームラン」を生む。
イキナリ棚から現金が落ちてくるかもしれん。
それも万札ばかりで・・・

 
01/25 (火)

単純に年齢を表す言葉だけじゃない。
「歳」は「一巡り」を表している。
形としては「円」となる。
「螺旋」の方がいいけど、説明がメンドウ・・・。

ミクロに観れば「一段階」なんだろうが、
人間はそれほどハッキリ段階を区別できない。
毎年、同じような恥ばかりで進歩が無いように見える。
マクロに観れば「衰え」と「進歩」は同じだけど、そう思えない。
人間はミクロな観方も、マクロな観方も苦手なようだ。

最近では「才」を代用して使うが、
「才」と「歳」は意味が全く違うのだ。
「才」は「個」に属している(その人だけのモノ)。
「歳」は「個」から離れている(その人のモノじゃない)。
自分の事を自分で表現するには「○○才」でもいいが、
公に表現するには「○○歳」となる。

「歳を重ねる」
単純に一年経った、という意味じゃない。
段階を経ている、という意味になる。
人は質も能力も変化力も様々だ。
だから人と人を比べる事は出来ないが、
「歳を重ねた」事実は尊い。

「歳」は重ねるモノなんだ。
重ねるほどに、自由になる。
この世の仕組みはヒネクレている。
ホンモノ(自然体)を重ねると軽くなる。
ニセモノ(思考・心)を重ねると、苦しくなる。
どちらも貴重な体験になるが、ワシは軽い方が好きだな。

この世はヒネクレているから、
キチンと「歳を重ねる」と「若返る」。
余計なモノを落としていくと、
「歳を重ねる」事になってしまう。

欲望は(ほんのり)愉しむモノであり、
増やし、重ねるモノじゃない。
財産や地位や諸々の未練を重ねると「歳」にならない。
「一段階」も進めないって事だ。
歳を取らなくても、肉体は有限だ。
次第に醜く腐り、やがて朽ち果てる。
多くの政治家達を観れば実証されている。

進歩するというのは、脱ぐ事なのだ。
進歩するとイロイロが消えてしまうのだ。
肉体界は有限なので一度の人生では限度があるが、
先の先の先は、多分、何も無くなると思う。
魂達は、解放に向かって、皆歩いている。

  万歳
01/26 (水)

ワシが御幼少の頃、不思議だと思った。
「バンザ〜イ!バンザ〜イ!!」
皆さんはアレ、不思議に思わなかったですか?
違和感を感じなかったですか?

公式の場でする、建前の儀式の一つだけど、
何か、格好が悪いというか・・・素直にできなかった。
今までも多くのバンザイを見てきたが、
綺麗(自然体)に出来る人はとても少ない。
韓国、中国系の人達には違和感を感じないが、
あの手を上げる仕草は、日本人には適さないと思う。

仕草はその土地や人種の性質で適不適がある。
ロシア式挨拶(キス)は日本人のオトコ同士では適さない。
肩をすくめる仕草も格好がつかない。
外国人の御辞儀も格好がつかない。
自然体ではないからだ。

でも「万歳」の言葉は素敵な祝言だ。
「万」の「歳」には深い意味がある。
「いのち」を大切に(愉しんで)巡らす。
いつまでも、何段階も喜んで進める。
進む(歳を重ねる)ほど幸せ(自由)になるのだから、
大きな祝いの言葉なんだなぁ。

ワシ流に表現するなら・・・
(幸せに向かう)「永遠の旅人」
「無限の円(縁)、螺旋」
「愉しみの満る、渦巻き」(目が回りそう・・・)

「バンザイ」には、もう一つの意味もある。
「お手上げ」「もう、為す術が無い」「アキラメだぁ」
これ、よく観ると、そんなに悪くないぜ。
「アキラメ」からは新たな道が観えるものだ。
「アキラメ」は「明らかな目」となる瞬間だ。

「バンザイ」はそれまでの価値観から、
もう一段階別の価値観に広がる。
「バンザイ」しきれないと、苦しむ。
「未練」は「苦しみ」とセットで付いてくるからだ。
「バンザイ」はアッサリ、サッパリしよう。

ツマラン男やツマラン女と別れるのは「バンザイ」なのだ。
お祝いの一つなんだ。
そうでないと、次の素敵な相手と出会えない。
アッサリ、サッパリとした「バンザイ」には明日がある。

(注:ワシの事じゃないぞ。
相手がワシをどう思っているか知らないが、
ワシはツマラン男やツマラン女と縁がない。
素敵な人としか出会えない・・・
少なくてもワシよりマシ・・・)

 
01/27 (木)

「合、会、逢、遇」
個別の波動が接触する、という意味だ。
モノとモノ。
人と人。
人と人以外のモノとの波動の接触。

目に見えるモノ(物質・肉体)と、
目に見えないモノ(非物質・意識)にも個別の波動がある。
それらが適合するか反発するかは別として、
接触すれば「出会い」なのだ。

「出会い」を「縁」ともいう。
「出会い」は「愛」ともいう。
この世は「縁」を結び合う次元であり、
「愛」に満ち溢れている次元でもある。

「縁」や「愛」は必ずしも都合の良い事じゃない。
単なる「出会い」であり、必要な「出会い」でもある。
出会いたくない相手もいる。
苦しみを引き出す「愛」もある。
人の「愛」は別面で「哀」になる。
この世は「哀」でも満ち溢れている。

だから、面白い。
出会いがあるから、面白い。
面白い事を体験する為に、この世に存在する。
「哀」があるから、波動は接触したがる。
「合い」と「哀」は連鎖する。
その仕組み自体を「愛」ともいう。

「人は支えあわなければいけない」かどうか判らないが、
合い、会い、遇い、逢うように創られている。
そして「あう」と、何かが生まれる。
何かが起こる。
何かが変わる。

大きく影響する「合い」がある。
ほとんど影響無い「合い」もある。
変わる、生まれる、起こる事の為に「出会い」がある。
変わる、生まれる、起こる為には「別れ」も必要となる。
「合い」には「別れ」が必ずセットとなる。
「別れ」の無い「出会い」も無い。

この世に生まれる時に出会った真のパートナーは、
「肉体と精神」だ。
この最強、最高、最適のパートナーとさえ別れる。
いつかは「死」によって離れる時が来る。
相思相愛の相手でも、別れるように仕組まれている。

「別れ」は人が思い煩う出来事じゃない。
この世の仕組みは、思い煩う対象じゃない。
人が左右できる対象じゃないのだ。
貴方が神様なら、創り変えてもいい。

しかし「合い」は人が左右できる余地がある。
ここに「合い(愛)」の妙味がある。
「生き方」は「合い方」であり、
「愛し方」でもある。

 
01/28 (金)

体はとても不思議に満ちている。
それぞれの部分に特徴や特技があり、
それらが集合総合複合して一体の肉体となっている。
その中でも「てのひら」はちょっと特殊な箇所だ。

人には心の場所が幾つかある。
ほとんどの人は頭にある。
「まごごろ」は胸にある。
オナゴは子宮にもある。
(注:オトコの下半身に心は無い)

通常の「心」は幻であり、ロクデナシだ。
だから迷い、混乱し、不安定なモノだ。
でも、一番本人に影響しているモノでもある。
これは「本人の意識(幻)心」。

人は意識(通常の心)と肉体で創られている。
肉体は神(自然)からの借り物。
いわば神の分身ともいえる。
その肉体にも「こころ」がある。
「(神・自然からの)通路」といってもいいだろう。

禅の世界では人の心を「心」と書き、
神(偉大な世界)からの心を「こころ」と書いた。
「心」と「こころ」で区別したのだ。
現代は「こころ(智慧)」を使わなくなった。
「心(頭)」だけを使うようになった。

体(肉体)の中でも「こころ」を強く反映する箇所がある。
「たなごころ」がそうだ。
「掌」には「こころ」が宿っている。
「手の甲」には「こころ」が無いが、
「手のひら」には「こころ」という通路口がある。

でも「心」で一番操作しやすい体の部分も「手」だ。
つまり「手」は「心」と「こころ」の共用部分でもある。
だから「掌」は魂の成長の象徴でもある。
「掌」は自にも他にも「行(為)」が可能だ。
「心」や「こころ」を反映できるのが「掌」だ。

人間の欲(心)は「掌」で発達した。
それを文化といい、他の生物から突出した。
その事に正誤は無いが、偏ったのも事実だ。
もう一つの使い方が発達しなかったから・・・。

「掌」には温かさがある。
「掌」には優しさがある。
それを伝える事ができる。
ただ「掌」を置くだけで伝わるものがある。
人間の未来は「掌」の使い方が握っている。

  合掌
01/29 (土)

ワシの花言葉・・・じゃなかった。
合言葉・・・でもなかった。
座右の銘ってほどでもない、三つの言葉がある。
「笑顔」
「ありがとうございます」
そして、この「合掌」だ。
「最高、最強、万能の氣」を引き出す言葉だ。

この三位一体は、それぞれに意味がある。
単独でも浄化力の強い言葉や動作だが、
合わさると(多分)完璧に近くなる。
誰でも、何処でも出来る魔法なんだが、
自然体で出来る人は極めて少ない。
人は・・・歪んでいるんだなぁ・・・。

「合掌」は印だ。
印とは種々の「氣」を引き出す方法の一つで、
それぞれの象徴形から波動を共鳴させる。
その中でも手だけで形作る「手印・印契」といわれるものだ。

いろいろな手印がある。
仏像などの手はほとんど手印を結んでいる。
その中でも最高といわれる手印がある。
金剛印(ダイヤモンド印)といわれる印だ。
それが「合掌」という形なのだ。

複雑に指を絡ませる印が多いが、
「最高」はいつでも共通点がある。
最高はいつでも、シンプルなんだ。
シンプルだから、とても深く広くなる。
金剛印「合掌」も両の手を合わせるだけだ。

シンプルはシンプルな人には簡単だが、
複雑な人(歪んでいる人)には難しいようだ。
単に手を合わせる事が出来ないのだ。
「ありがとう」「ごめんなさい」
こんな簡単な言葉さえ、とても難しいらしい。
この世はヒネクレているし、とても素直でもある。

歪みは不自然体だが、ヒネクレは自然体でもある。
素直が一見ヒネって見えるだけのこと。
グレちゃんのように趣味のヒネクレもある。
簡単な事は簡単に。
複雑な事も簡単に。

「合掌」が最高だから多用しているのじゃない。
ワシは複雑な印がメンドウだから「合掌」を使う。
そんな(ヒネクレた)ワシでも形さえ出来れば使える。
最高、最強の印は簡単なんだぜ。

「掌」を合わせる。
「心」と「こころ」を合わせる。
「自」と「偉大なモノ」を合わせる。
そこに、イキナリ「浄化の氣」が発生する。

 
01/30 (日)

人の思いには「欲」が含まれる。
「欲」は「悪者」にされがちだが、
そんな事いったら人間全て悪者だぁ・・・。
「欲」が含まれない人間は存在できない。

単純に「欲を捨てよう」なんていう澄ました顔は、
よく観ると歪んでいるか、無知(愚)かに分かれる。
欲を悪者にする人は、結構歪んでいる。
正誤で綺麗事をいう人の私生活は歪んでいる。
陰で酷い欲を行っている場合が多い・・・。
(ゴメンナサイ。でも本当ですよね・・・)

「良い・悪い」は「調和・不調和」に対応するが、
「欲」の強弱には対応しない。
「不調和の欲」を押し進めるのがコマッタちゃんで、
「調和の欲」は当たり前(自然)なんだ。

「世界が平和に」「世界が幸せに」
こういう「欲」は本来は「調和」が中心なのだ。
精神世界では大欲(真欲)と小欲(我欲)とに分けるが、
大小や濃淡じゃないだろう。
人間は大義名分で「世界平和」を使って戦争までするから、
「調和の思い」ではなく「調和の行い」で判断しよう。

心は「欲」で作られている。
生命維持に必要な欲や種の存続に必要な欲もある。
破壊や混乱の欲も沢山作られている。
「欲」は多種多様がゴチャ混ぜ状態だ。
心は多種多様の「欲」でゴチャゴチャなのだ。

その一つ一つに「調和」か「不調和」が付く。
「調和付きの欲」を「望」といい、
「不調和な欲」を「我欲」というのだと思う。
つまり「欲」の種類ではなく、
「欲」の行い方で区別するモノなんだ。

そのことを踏まえてワシの今年の「望」がある。
発表するのは控えるが(言うモノでもないし)、
「望」は有ると無いでは大きな違いだ。
「欲」は誰でも生きている限り必ず持っているが、
「望」は持つ人、持たぬ人がいる。

ワシは「生命力の活性化(回復・若返り)」が仕事だ。
暮らしの中で活用できる方法を指導するのも仕事だ。
その大きな一つに「望」がある。
「調和の欲」を持ち、行う事には、
グレちゃんも(こっそり)応援するようだ。
未だ、今年の「望」を持たない人がいたら、
どんな「欲」でもいいから「望」に変えよう。

その他の「我欲(不調和)」は、ほんのりと愉しもう。
(他に迷惑をかけない程度なら許容範囲だと思うよ)

  一月
01/31 (月)

ワシは反省をしたくないし、薦めない。
反省って、「悪いところ探し」をしたがる。
暗い部分や、見たくない部分をガマンして見る。
サドマゾ系の人は好きみたい。
(正義が好きな人はサドマゾ系が多い)

でも「良いところ探し」や「嬉いところ探し」ならいい。
体でも心でも「気持ち良いところ探し」など、とてもいい。
そういう意味で一月を振り返る。
思い出せば、嬉しい事があったなぁ。

数年前にアーユルヴェーダのクリシュナ先生の講義を受けた。
アーユルヴェーダとはインドの完成された古典であり、
「生命の科学」「寿命の哲学」「幸せの医学」などと訳される。
通常の研究研鑽された学問は、ある意味常に発展途上だ。
新しい何かが発見されれば加えられ、間違ったものは訂正する。
ところが、アーユルヴェーダにはそれが無い。
リシの称号を持つヨガのある境地の聖人が、
人以外から授かった智慧を紹介したものだからだ。

アーユルヴェーダは膨大な応用学でもある。
医療関係だけ取り上げられるが、それは一分野だ。
その中の「改善法」として「良いところ探し」がある。
悪い原因を排除する方法もあるが、
良い原因を繰り返す方が「幸せ」には近づくと思う。

心が悪く、根性無しで、努力が嫌いなワシは反省法が向いてない。
ナマケモノにはそれなりの方法があり、
しかもこの世はヒネクレているのだ。
ナマケモノの方が楽に幸せになれるようだ。
理不尽で不公平のようだがしょうがない。
モンクはグレちゃん(創造主)に言ってくれ。
ワシならモンクは言わないぜ。
(い、いや、結構平気で言ってる・・・)

愉しかった事、嬉しかった事、気持ちよかった事。
それぞれ思い出して、ニヤニヤする。
柳の下で二人目の美女(ど、どじょうじゃないのか?)。
できれば二度有る事は三℃(意味不明だぁ・・・)。
三回有れば、通路ができる。
通路は使えば、自動歩道に昇格する。
ナマケモノは歩かなくても、目的地に着けるのだ。

ワシの一月は、いろいろあった。
探せば、いろいろあった。
でも個人的な事なので、ここには書けない。
アナタだって、絶対にいろいろあった。

「嬉しい、愉しい、気持ち良いなんて無い!」
そういう事を言う人がいるが、それはない。
目を瞑っているだけだ。
生きていれば誰にでもある「いいところ」。
「いいところ」を努力して作るわけじゃない。
気づくようになればいいだけだ。

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