05年12月のコラム           コラム3目次に戻る
  05・1
12/01 (木)

一年を振り返って、などというテーマではない。
そもそもワシは振り返らない。
いつでも未来しか興味が無いのだ。
過去を振り返って未来に活かす。
そんなメンドウな事はしない・・・。

振り返って、反省して未来が良くなるなら・・・
人類は遥か昔で平和な桃源郷を実現できている。
人は誰でも幸せになっている。
人間30歳になれば、ほぼ理想形になれるだろう。
30年も反省して修正できたならね。

だが・・・現実はどうだろう。
反省は修正につながらない。
これは、単なる事実、なんだ。
問題点は良くならない事じゃない。
反省に固執している事だ。
反省を勘違いしている事だ。

したり顔で「反省しましょう」
「振り返って修正しましょう」
この言葉が欺瞞なのは明らかだ。
なのに固定概念で受け入れる。
そして何千年経っても平和にならない。
何十年生きても幸せになれない。

反省を薦める、あるいはそそのかす人。
自分を、他を、幸せに導けない人だ。
反省しろよ・・・
(なんて、いいかげんな文章だろう・・・。
思わずワシを抱きしめてあげたい・・・
至らないヤツは可愛いではないか・・・)

まぁいい。
誰が何をのたまおうを自由だ。
そんな事をつっつけば、自分で自分の首を絞める。
アブネェったらありゃしない・・・。
ワシは口だけは・・・滑る。

振り返らないが、思い出す。
勝手に思い出すのだから仕方が無い。
振り返るのは確固たる意志がある。
ワシは意志薄弱道の準師範代だぜ。
思い出すのは意志の力じゃないのだ。

ワシは物忘れが酷い。
昔からだが、最近は老化で拍車がかかった。
だから思い出すのは自分の脳ではない。
ナニモノかが、勝手に思い出させるのだ。
ある意味・・・楽といえば、楽だなぁ・・・。

  05・2
12/02 (金)

昨日は書くテーマがあった。
だから書き出した。
ところが途中で無駄口を叩き過ぎた。
横道に入り込み過ぎた。
何を書きたかったのか・・・忘れてしまった。

多分、今年の思い出した事を書こうとしたようだ。
改めて振り返ったわけではない。
振り返れば、そこには恥ずかしいワシがいる。
驚くほど未熟なワシがいる。
ワシはMじゃない。
だから振り返らない・・・。

未来なら可能性がある。
過去や今がどんな状況でも。
だからワシは未来だけ興味があるのだ。
そして未来の為にこの仕事をしている。
未来は不確定。
ワシの未来もアナタの未来も同じ。

それでも思い出す事がある。
未熟を思い出す。
反省はしないが、活かす事は出来る。
未来の為なら、何だってやるさ。
恥ずかしいワシを観るくらい何でも無い。

プロとして11年目に突入した。
看板を上げ、今年の6月で丁度10年だ。
氣功師になって12年目だ。
故御師匠様の予言?通りだった。
「十年は・・・食えねぇなぁ・・・」

未熟で半人前に満たない10年間。
まだまだ未熟のこれから。
それでも「風」が変ったのを感じる。
11年目に入った6月からの「風」が変った。
「風」の変化を感じるくらいは出来るようになった。

10年経って半人前に成れた。
一人前に成れるのはいつかわからん。
だが、確実に近づける。
確信がある。
感じるのだ。

続けてきてよかった。
そう思えた。
何とかなるだろう。
この方向でイケる。
ワシは・・・不感症ではないようだ。

  05・3
12/03 (土)

不思議は慣れっ子だ。
オヤジだが慣れっ子だ。
生物だけでなく機械類が変化する。
壊れた機械が正常になるのも慣れた。

だがワシの根性は未だ治らない。
自分自身にも氣功はする。
毎日、何度もする。
一番身近だから贔屓する。
治療代も貰わない・・・。
誰よりも可愛い?かもしれない。
だが・・・根性は治らない・・・。

視点を変えた。
生物や機械だって回復する。
心も魂も回復できる。
ワシの根性が治らないはずがない。
ワシはこれで正常なのかもしれない。
うん、きっと、そうに違いない。
そういう事に決めた!

これで今後、ワシの根性を治そうなどと、
無駄な気持ちや時間をかける事はない。
来年は更に奔放な生き方が出来る。
これでも少しは遠慮していたのだ。
ワシは少しヘンかもしれない・・・と。

未来に生きるとはこういう事だ。
明るい未来だから明日なのだ。
自由になるから明るくなれる。
明日の来ない人はいないのだ。

暗い明日があるはずがない。
明るいと感じられない人はいる。
明るいと気づかない人もいる。
明るくならないと勘違いする人もいる。

だが事実は明るいのだ。
しかも森羅万象全てに共通。
グレちゃん(創造主)はかなり優しいぜ。
信じる者だけを贔屓するような事はしない。

「神を信じ、人を愛す」
故御師匠様の言葉だ。
ワシは年々この言葉が染み入る。
今年も更に染み込んだ。
もちろんワシ流のとらえ方だが・・・。

  05・4
12/04 (日)

引き受ける自信。
い、いや、自信じゃないなぁ。
引き受ける覚悟。
い、いや、覚悟もないなぁ・・・。
引き受けるのが当たり前。
そう思えるようになった。

ヒーリング。
分かち合い。
伝統的メディスンマンの言葉だ。
10年経って、腑に落ちた。
今は充分納得している。
だから引き受けるのが当たり前。
プロだから。

正面から引き受ける。
それをノーマルに戻す。
その作業が器をやわらげる。
だから結果として容量が増す。

自然体に戻す事が回復だ。
自然体になるのにパワーは必要ない。
必要なのは「やららかさ」だろう。
パワーじゃないんだなぁ。
パワーを求めるのは素人なんだ。

そういう事が腑に落ちた。
頭ではなく、腑に落ちた。
頭は更に働かなくなってきた。
いい傾向だが・・・
単なる老化かもしれないなぁ・・・。

いろいろな事が出来るようになった。
だが、簡単にしないようになった。
力は使わないが活用は出来る。
気負わずに力を使うから、
気負わずに力を使わない。

ナマケモノに似ている・・・。
そのものかもしれない・・・。
ナマケモノはそういう生き方なんだぁ・・・。
ワシはナマケモノの素質があるようだ。

  05・5
12/05 (月)

ワシはナマケモノになった。
すると、他人の生き方も何でもよくなった。
模範はあるかもしれない。
だが、正しさは無いかもしれない。
何でもいいわけじゃないが、
何でもアリだと思う。

病からの回復は生命力の活性。
生命の活性とは自然体の事だ。
だが、自然体でなくてもいいかぁ。
不自然も含めて、多種多様だぁ。
そう思えるようになった。

病の回復依頼をされる。
しかし本人が本気ではない。
気持ちは本気でも行動が伴わない。
ワシと依頼者にギャップがある。
治療者なら誰でもぶつかる壁だ。

だが・・・それもアリと思える。
そういう生き方もアリと思える。
迷っているんだもん。
いいじゃない。
ワシの人生でもないし・・・。

ワシは単純に薄情じゃない。
何でも認めるから多情だ。
関係無いから、何でもいいのじゃない。
関係有るから、何でもアリなんだ。

苦しんでもいいんだなぁ。
悲しみ続けてもいいんだなぁ。
怠けて、回復しなくてもいいんだ。
それも、その人の生き方だもんね。

依頼されたら期待に応える。
その力みがギャップで悩んだ。
(い、いや、ワシは本気で悩まない・・・)
でも、期待外れでいいんだ。
それが自然な結果だもんね。
いつか、気づいてくれればもっと嬉しいけどね。

ワシのこと。
解ってくれなくてもいい。
解ってくれれば嬉しい。
それだけだ。

  遊・1
12/06 (火)

心と体と魂(精神)。
幸せに生きる方法。
ワシの仕事はマトモ側から表現するとこうなる。
だが、特別な事ではない。

誰でも本当は同じモノを求めている。
愚劣な政治家も閉じこもりの子供も同じだ。
それを自覚、表現するかしないかは別にして。
誰でも「幸せ」を求めて生きている。

ワシの場合は「健康」を主軸にしている。
具体的には病(闇)からの解放。
光(慈悲)への示し。
ただし・・・あくまでワシ流(水上流)だ。
ワシは天上天下唯我独善者なのだ。

「幸せ」なんていうと曖昧だ。
少し固っくるしい。
正しい幸せ、そうでない幸せも出てくる。
どれが「幸せ」か判らなくなる。

そこでエライ人の言葉を信じる。
それが多くの「宗教」だ。
言葉を信じると・・・騙される。
「幸せ」を求めて「苦しさ」を得る。
それが多くの「宗教組織」の実体だ。

宗教組織は苦しみや争いを生む。
そして一部の人のみの幸せを導く。
宗教組織に属する人からの反論があるだろう。
だがワシは悪意はないし、対立する気もない。
単なる事実を示しただけだ。

嬉しい・愉しい・気持ちいい。
自分も他も同じ状態になる。
これなら誰でも判断できるだろう。
幸せは難しいモノじゃないぜ。

難しくないが、勘違いしやすい。
勘違いの大きな一つに「正誤」がある。
幸せに正誤は関係ないのだ。
関係あるのは・・・自然(体)だ。

  遊・2
12/07 (水)

グレちゃん(創造主)は優しい。
万物の幸せを(何となく)願っている。
幾つもの道を用意してくれている。
道は一つじゃないんだぜ。
唯一として指導するのが宗教組織の愚かな癖だ。
もっと他に目を開いてくれよなぁ・・・。

幾つもの道がある。
その道を見つける方法も幾つも用意している。
そして歩き方も幾つも示している。
どうだ。とてもとても優しいだろう。

幸せは他が手伝う事はできない。
各自が自力で歩く以外に方法はない。
だが、道や歩き方を用意してくれている。
あとは各自の選択(意志)だ。
不幸せの道を歩くのも自由だ。

歩き方の一つに「遊び」がある。
趣味や楽しみの「遊び」ではない。
(これも同じだけど、今は別にしてね)
ハンドルに「遊び」という余裕を入れる。
これがないと事故を起こしやすいのだ。

ハンドル(心)の「遊び」。
「遊び」の部分(範囲)は直接駆動に関係しない。
だから臨機応変の間が持てる。
生きている事は動いている状態だ。
常に変化している。
変化には「遊び」の間が必要なのだ。

生命は常に変化している。
変化し、安定に向かい、更に進化(変化)する。
安定というのも変化だ。
常に常に常に変化している。
だから「遊び」が必要だ。

「遊び」の少ない心。
生命は病や怪我ばかり起こす。
やがて生命は衰退する。
「遊び」は生命を救い、活性する。

「遊び(余裕)」の少ないマジメな人。
病み人になりやすい。
マジメが悪いわけじゃないが、
苦しみやすいのは事実だぜ。

  遊・3
12/08 (木)

最初から曲がり癖のハンドル。
人の心はそうできている。
ハンドルだけを直す事は出来ない。
心は治す事が出来ない仕組みだ。

勘違いしないでくれ。
心は治せないが、病にもならないのだ。
元々は単なる癖の塊だ。
治す対象から外れている。
心が病気になるなんて、勘違いだ。

心は病にならない。
だが曲がりすぎる事はある。
一見、元に戻らないように勘違いする。
だが安心していい。
心は曲がっても元に戻れるように出来ている。
心は最初から曲がっているが、病ではないぞ。

最初からヒネクレた創造物。
それが人の心だ。
それが心の役割だからだ。
曲がり癖がないと、人は「気づき」が出来ない。
曲がり癖があって、人は「学び」が出来る。

ハンドルは手を放すと曲がる。
縛ると曲がる。
力で動かそうとすると疲労する。
だから「遊び」が不可欠になる。

「やわらかさ」
ハンドルに隙間をもたせる。
すぐ反応しない「間」が大切だ。
この「間」は直接役に立たない。
だから、とても大切なのだ。

ワシは「愛」は「間だ」と書いた。
「愛」は「間」と書かされた。
とても偉い人は愛の重要性を指摘した。
心(ハンドル)の愛(遊び)の重要性を。

「愛」は「誠実」じゃないぜ。
「愛」は「遊び」だ。
その「やわらかさ」だ。
「愛」は直接役に立たない。
ただ、「やららかい」だけだ。
だから、とても重要だ。

心がロクデナシだから「間」が必要となる。
マジメな心には「愛」が無い。
マジメ心の人達が「争い」を起こす。
戦争は「遊び心」のある人達はしない。
「遊び心」は「争い」を浄化するのだ。

  遊・4
12/09 (金)

心と心を扱う仕組みがある。
ハンドル(心)を扱う手(意志)だ。
ここが間違いやすいところだ。
意思は心に組み込まれている。
意志は心から外れているのだ。

心(ハンドル)に自由はない。
そういう概念がない。
単なる癖の塊。
単なる記憶達の塊。
単なる感情達の塊だ。

自由は意志(手)にある。
手(意志)を使わないとハンドル(心)任せだ。
どこに行くのかわからない。
だから心任せだと不安になる。
心は意志を持たない・・・。

ワシとしたことが・・・
またマトモに書いてしまった。
悪い癖だ。
「遊び」が無かった・・・。

ワシの御幼少の頃。
ワシは曲がった松の木が許せない性格だった。
食事は正座でいただくもの。
人間は正しく真っ直ぐに生きるモノ。
ワシに流れる高貴な血がそうさせたのだろう。

だが幸いな事にワシの親父は不良だった。
ワシは本来の人間らしさを取り戻した。
人間は曲がった生き物だと気づけた。
曲がっていくから大切な人生だ。
曲がっているから愛おしい生物だ。

役に立たないモノの大切さ。
それは他を侵(犯)さない優しさでもある。
その役に立たないモノ。
それが「愛(間)」だと知った。
愛が無ければ、自と他は共存できない。

曲がった癖の心が無ければ気づけない。
人は未だ未だ未だ未だ、未熟な過程だぜ。
ワシは安心して曲がった心(ハンドル)を抱く。
このヒネクレた仕組みが大神の優しさだと感じる。

ワシはヒネクレた心が好きだ。
未熟だから、まだ余計な仕事をしているが、
ワシは役に立たない人物を目指す。
何の役にも立たない生き方。
いつかは、それが出来るかもしれんなぁ。

  遊・5
12/10 (土)

人間にとって言葉は大きな力を持つ。
だから「間」が必要だ。
力には「間・遊び」が必要なのだ。
そうでないと、ロクな事をしない・・・。

マトモしか表現してない言葉。
正しさだけを表現する言葉。
それを推し、薦める人物。
無知か謀略か詐欺かは知らないが、
ワシは信頼しないし、出来ない。

「遊び」の無い言葉。
「遊び」の無い心。
「遊び」の無い人物。
相手をしようとは思わない。
(仕事(依頼)は別だぜ。
それで病になっている場合は多い)

言葉を愉しめるし、楽しめる。
心を愉しめる。
生き方を愉しめる。
そこには「遊び」が必ずある。
そこには「間・愛」があるもんだ。

役に立たない「遊び」。
役に立たない「間」。
だから大切な「やわらぎ」が生まれる。
立派なモノばかりで「苦しみ」になるのだ。

役に立たないワシのモノ。
「やわらかな」ワシのモノ。
老化現象なんて思ってはいけない・・・。
ワシの「愛」なのだ・・・。
本妻よ愛人達よ、大切にしようぜ・・・。
(って・・・それが言いたかったのかぁ・・・)

「間」は「余裕」だ。
余裕は余った(いらない)モノじゃないぞ。
裕(豊か)が余ったモノだ。
「愛」は「余裕」なんだぜ。

そして「余裕」は誰でもどんな状況でもある。
無いと思ってしまうと、生まれないだけだ。
食べるモノさえ厳しい奴隷でも作り出せる。
「余裕」は生きとし、生けるモノ全てにある。

  遊・6
12/11 (日)

厳しい状況下に生活する者。
より「余裕」が必要だ。
生命は余裕で活性するのだ。
生命は「愛」で活性する。

「余裕・間・遊び」は時ではない。
物質(肉体を含む)でもない。
生活の保障でもないのだ。
「遊び」は「意志」で生まれる。
だから、誰でも、どんな状況でも可能だ。

金や時間があっても「余裕」の無い人は多い。
王様や皇帝や首相や大統領に「愛」の無い人は多い。
ストリートピープルでも「余裕」の有る人も多い。
いい笑顔のホームレスも多い。
赤ちゃんの「余裕」は万人が認めるだろう。
赤ちゃんは「愛」以外何も持ってないのに・・・。

誰でも「赤ちゃん」を経験してきている。
例外はない。
誰でも「余裕」で生まれてきたのだ。
例外はないのだ。
「余裕」の笑顔だから「愛の笑顔」だ。
今はヒネクレているアナタでも大丈夫。
例外はないから・・・。

生真面目になり「余裕」を失う。
効率を目指して「間」を捨てる。
求める事にとらわれて、「遊び」を忘れる。
でも大丈夫。
いつでも取り戻せるし、生み出せる。
嘗て、経験、体験してきた生き方だもの。

何も難しくない。
「遊びの人生」
誰でも難しくないぞ。
「余裕の人生」

ワシだって送っているのだ。
明日の米さえ危なくても・・・。
特に言葉の遊びは得意だぜ。
いつだって、余裕さ。

  遊・7
12/12 (月)

「遊び」を多くの人が勘違いする。
生活からの逃避として遊ぶ。
仕事の抑圧に反発して遊ぶ。
不安、不満の捌け口として遊ぶ。
それらは「遊び」じゃない。
それらは「幻」というモノだ。

「遊び」は本体から離れたモノじゃない。
本体の一部だ。
本体の余裕部分だ。
仕事が本体なら、仕事の一部だ。
生活が本体なら、生活の一部だ。

仕事と「遊び」があるわけじゃないぜ。
仕事に「遊び」があるんだ。
「遊び」だけの「遊び」じゃない。
仕事そのものが「遊び」だらけだ。

「ゲーム」が「遊び」じゃないぜ。
本来は「遊び」を拡大したのが「ゲーム」だ。
いつでも仕事(本来)の為なんだ。
息抜きじゃないんだぜ。

い、いや、本当は息抜きが「遊び」だ。
でもこの深い意味に気づく人は少ない。
ワシは数少ない一人だ。
だが・・・だからといって何の足しにもならない。
役立たずの事ばかり知っていても役立たずは変らない。

まぁいいさ。
ワシは仕事と遊びを区別しない。
区別できない。
遊び(余裕)が有って、いい仕事になる。
それを知っている。
だから生き方にも「遊び」を意識する。

生き方に余裕の無い人は非情だ。
他の生き方にまでモンクを言う。
不マジメがいい仕事をするのが納得できない。
不マジメは余裕があるから、当たり前なのに。
多分・・・不マジメとデタラメを混同している。

遊びがある相手は愉しい。
遊びがある人は楽しい。
だから自分も遊びを作る。
遊びを愉しむ。

遊びは難しくない。
息を吐けば何とかなる。
笑えば何とかなる。
自然体は「遊び」だらけだ。

  遊・8
12/13 (火)

「遊び」は「間」だ。
中身は何も無い「間」だ。
世間の固定概念の「遊び」とは違う。
世間でいう「遊び」も中身は無い。
だが「間」のある「遊び」は少ないぜ。

世間的な「遊び」もいいだろう。
そんなの好きにすればいい。
だが遊びの醍醐味は「間」にある。
「間・余裕」の無い「遊び」は遊びにならない。

「間」は回復力になる。
何も無い「間」が大切な力になる。
それは自他に同時に働く力だ。
同時に働く回復力を「癒し」ともいう。

本体の「遊び」部分は「癒し」となる。
どんな行為にも「癒し」の可能性がある。
「遊び」があるなら「癒し」となる。
役に立たない部分は「癒し」になる・・・。
(・・・そ、そうかなぁ・・・
あぁ・・・自己弁護という単語が・・・)

「疲れ」は「間」が無くなると起こる。
「間・余裕」が有る時は「疲れ」の状態にならない。
「遊び」の少ない人は疲れやすいのだ。
マジメな人は疲れやすい・・・。
その「疲れ」は相手まで巻き込む。
遊びの無い人は・・・迷惑をかけている。

誰でも赤ちゃんだった。
誰でも幼児だった。
誰でも童子だった。
誰でも「遊び」の生き方をしていた。

社会的という固定概念。
「遊び」が反社会的という固定概念。
ある時代に国民を動かす為に意図的に作った。
「遊び」は「心を自由」にしてしまうから。
各自が自由になると・・・国がまとまらない。
戦争に「遊び心」は不向きなのだ。

今・・・「遊び」が少ない時代になった。
一見「遊びだらけ」のようにも思える。
だが「間・余裕・愛」が無い「偽遊び」だ。
誰かが・・・意図しているとしたら・・・
この国や世界は再び三度、キナ臭い。

  遊・9
12/14 (水)

病からの回復。
道も歩き方も幾らでもある。
歩き方のコツの一つに「遊び」がある。
絶対必要条件じゃないけど、かなり有効だ。

病は本気で正面から向き合う。
逃げていては回復し難い。
だが、歯を食いしばって治すわけじゃない。
肩に力が入っても回復し難いのだ。

命がかかっているのだ。
本気が当たり前だ。
だが隙が無いと回復力が上がらない。
生命は「間」で生まれ、活性する。

真剣勝負を想像しよう。
真剣だから本気だ。
病の回復は勝負ではないが真剣だ。
デタラメでは怪我を深める。
あきらめたら、終りだ。

隙の無い剣士。
一見強そう・・・。
だが余裕が無ければ長く持たない。
隙が無ければ・・・動かないのだ。
動いて変化は訪れる。
これでは回復が進まない・・・。

真剣で本気だが、余裕がある。
意図して隙を作れる。
よそ見はしないが、息は安らかだ。
真剣の先に「遊び」がある。
真剣を持つ手に「遊び」がある。
これがコツになる。

真剣を捨てて逃げるのは「遊び」ではない。
真剣に耐え切れなくなるのは「遊び」が無いからだ。
真剣は、それほど重くない。
崖っぷちは、それほど緊張しなくていい。
緊張すると、怪我をする・・・。

真剣だから「遊び」が活きる。
「遊び」があるから真剣が活きる。
双方が活かし合う「間」が「遊び」となる。
そして、結果的には最短の道となる。

病からの回復。
それほど辛くないぞ。
大丈夫だ。
真剣に「遊び」を愉しもう。
よそ見する事無く。
逃げる事無く。
あきらめる事無く、進めるぜ。

  遊・10
12/15 (木)

雪道を走って気づく。
ワシは雪道歴30年以上・・・。
特に道路が凍っている場合。
これでも真剣に走っている。

ワシの愛車はポルシェだ。
嘗て山口百恵が歌った車だ。
ワシが乗っていたのでは似合わない。
近所からもヤッカミを受ける。
税務署もウルサイ。
だから特注国産中古軽四バージョンにしてある。

ボディも小さくした。
エンブレムも国産某社に変えた。
キズ、凹み、劣化風も特注だ。
もちろん外見だけではない。
ワシは外見だけを気にするようなつまらぬオトコではない。

325馬力、3600CC。
水平対向DOHCリアエンジン。
これを64馬力、660CCに乗せ変えた。
もちろんフロントエンジンに変えた。
これで誰もポルシェとは気づかない・・・。

タイヤも特別仕上げだ。
スタッドレスの6シーズン使用済み仕上げだ。
かなり磨耗してあるように見せてある。
見かけだけじゃないぜ。
実際にかなり滑る・・・。
さすがに金をかけて特注しただけのことはある。

だから雪道でも滑る。
凍った道は更に滑る。
ワシは崖っぷちの生き方が好きなのだ。
毎日の運転にもスリルを求めている。
否応無しに・・・。

スリルは・・・まぁ、仕方ないとして・・・。
スリップ事故は好きじゃない。
一応真剣に走らざるを得ない。
真剣だが・・・手は余裕だ。
真剣だからこそ、手に「遊び」がある。

ハンドルは、オナゴを掴むように優しく。
目は、オナゴを見るように一点に絞らず。
(ここは諸説あるが、ワシは一点主義ではない)
口は、微笑み、あるいはガム(最近ハマっている)。
鼻歌、妄想・・・でも真剣だ。

  遊・11
12/16 (金)

心は勝手に反応する。
特に感情は自分勝手だ。
怒りたくなくても、怒る。
悲しみたくなくても、悲しむ。
意志の言う事を聞かない部分が感情だ。

ハンドルに「遊び」が無かったら・・・。
雪道や凍り道では事故を起こすだろう。
勝手に反応した影響がストレートに出るから。
ハンドルは心。
反応にストレートに影響していたら・・・。
トラブルばかりだろうなぁ・・・。

「遊び」は抑制部分ではない。
誤魔化し部分でもない。
何も無い部分だ。
(カッコつければ、愛の部分だ)
だから・・・冷静を取り戻せる。

心には「遊び」があってコントロールできる。
「遊び」が無いと衝突する。
衝突は、自他共に痛い・・・。
衝突後も、やっかいだ。
ワシなら・・・やっかいは避けるぜ。

「遊び」が自然にある時が幼児や児童。
「遊び」を意志的に愉しむのが「オトナ」。

「遊び」が無いのが不幸な人達。
不幸な人達は替わりに「正しさ」を持つ。
「遊び」が無いから他の「正しさ」を理解しない。
「正しさ」は多種多様という事を認めない。
そして争い、自他の苦しみを生む。

「遊び」部分は何も無い。
何も無いから大切。
人は多くのモノを抱えている。
多くを負っている。
それらの一つ一つの境。

「間」がある程度ある人。
「間」がほとんど無い人。
同じ重い荷物でも大きな違いがある。
歩く時に大きな差が出る。
「間」があれば、何とかなるぞ。

  遊・12
12/17 (土)

「間・遊び」があるかどうか。
通常では判り難い。
人は口では嘘をつける。
心は誤魔化せる。
態度も作れる。

本人が言っても信用できない。
本来、人は信用する対象じゃない。
人は自分でも気づかぬまま、嘘を言う。
自分で信じても、間違いは常にある。
心を誤魔化すのは日常茶飯事なのだ。
自分だって信じられないのだ。
信用するのは無茶というものだ。

人は常に間違う。
故意に、あるいは無意識に嘘も言う。
だから、人は信じる対象でない。
人は・・・愛する対象だ。
未完成品だから、愛する対象なのだぞ。

ところが、ギリギリの「場」になる。
ギリギリの「時」に出会う。
すると「間・遊び」の有無が判るのだ。
崖っぷちでは本性が現れる・・・。

片足しか地に着けない状態。
「間・遊び」があれば、先に進める。
ここで駄洒落が言えれば、何とかなる。
目を瞑り、屁が出れば、笑える・・・。
笑えれば、何とかなるもんだ。

この世はヒネクレている仕組みだ。
大平原で作られた余裕は消えてしまう。
余裕での「遊び」は儚いモノなのだ。
だが崖っぷちの「遊び」は消えない。
「遊び」が道を切り開く。
余裕のない場・時の「遊び」は豊かになる。

今、崖っぷちの諸君。
君達はラッキーの真っ只中だ。
綱渡りの諸君。
君達は豊かな人生を手にしている。

手にした「間・遊び」。
離すも活かすも自由だ。
キリちゃん(イエス)は言った。
「貧しい者はラッキーだぜ。
一番天国(充実した幸せの人生)に近いぞ」

  価値・1
12/18 (日)

形に価値がある。
性能に価値がある。
行為に価値がある。
内容に価値がある。

価値は様々なモノにある。
あるには・・・あるが・・・
その価値を理解できなければ・・・。
「価値が無い」と思い込んでしまう。

普遍的な価値は少ないからだ。
最も普遍的な価値は「お金」かもしれない。
誰にとっても同じ価値を持つ。
(金持ちと貧乏人では同じ一万円でも価値は違うが、
同じ一万円として使えるという意味で・・・)

そのお金を物差しとして、価値基準としている。
ところが、人によりモノの価値は違う。
理解度が違うし、必要度が違うからだ。
だから「あるモノ」が高いと思う。
同じモノが他の人には安いと思う。
モノは変らず、値段も変らないのに・・・。

墨で書いた「書」がある。
10万円の値札だ。
ある人には1万でも高い。
「書」なんて縁の無いモノだからだ。

別の人にはとてつもなく安い。
その「書」が好きで、欲しいからだ。
その書家の作品は通常その20倍はするからだ。
200万なら手が出ないが、10万ならすぐ買う。
喜んで買う。

「議員」という肩書き。
ン千万積んでも欲しいオッサン達がいる。
ワシもオッサンだが理解できない。
ワシの中では、議員=ロクデナシだからだ。
ワシもロクデナシという点では同じだ。
だがロクデナシを人前でアピールする気にならない。
ロクデナシを威張れない・・・。

ン千万を払ってくれるなら考える。
ワシには本妻と子供が腹を空かせている。
いつも御馳走になっているが、
たまには奢ってあげたい愛人達もいる。
金の為なら目を瞑って議員になってもいいかなぁ・・・。
(多分・・・それでも無理だと思う・・・)

  価値・2
12/19 (月)

ワシが扱っているのは見えないモノだ。
形でなくても、舞やスポーツは見える。
性能も客観的に表す事が出来る。
だが「氣」は客観的ではない。
現れる事もあるが、気まぐれだ。

こういう「いいかげん」なヤツは価値が判り難い。
価値はある。
かなり・・・ある・・・と思う・・・。
時には、とてつもなく、あるんだけどねぇ・・・。
でもねぇ・・・判り難いよねぇ・・・。

見えないモノの価値。
値段は更に付け難い。
基準が無いからだ。
例えば・・・「愛情」。
値段は付けられない・・・。

愛情に値段は付けられないが、
愛情モドキなら、金で買える。
モドキとホンモノの違いが判断できる人は少ない。
ならば、モドキでも気にしなくていい。

プロスポーツ選手、タレント、IT企業家。
遠慮しないで、愛情を売っていいぞ。
ワシがオナゴなら、バンバン売る。
だがワシはモドキを買うほど人間が出来てない。
仮に買えても、ワシはそれほどヒマじゃない。

「氣」も本来は値段が無い。
値段は無いが、価値は有る。
この仕事の初期の頃。
ワシは値段を付けられなかった。
価値がとても有る事は知っていた。
値段が無い事も知っていた。

ワシも時々は純情(ウブ)になるのだ。
建前と本音と本来と応用とが混同していた。
活用という意味と手段が判らなかった。
今も時々は純情になる・・・。
混同と混乱と淫乱は得意な方だ・・・。
純情と淫乱は兄弟姉妹だぜ。

ワシは貧乏だ。
貧乏の悪い癖がある。
自分の貨幣基準で値段を決める。
価値が充分あっても値段をキチンと付けられない。
価値と自分の財布の状態を混同していた。
ワシも人の子だなぁ・・・。

  価値・3
12/20 (火)

あちらの世界では値段という概念が無い。
だがこちらは貨幣でほとんどが成り立つ。
ワシは、二つの世界と行き来する仕事だ。
無理やりでも価値に値段を付けなくてはならない。
システムの違いだからモンクは言えない。

自分に限ってのムチャクチャは好きなほうだ。
だが他と係わる無理やりは不得意の方だ。
ワシはSでは無いし、Mでも無い。
他との係わりでは控えめなワシだぜ。
係わりなければ、天上天下唯我独善だ。

ワシの感じる価値基準と現実にワシがつける値段。
実はかなりの差がある。
見えない特殊な世界だ。
単なる見えないエネルギーじゃない。
多分、他人解らないだろうと勝手に思っている。
ワシは(心は)横柄なのだ・・・。

心掛けている事がある。
目標だか目安だかはともかくとして、
ワシが付けた値段の100倍の価値。
ワシが係わる相手への効果だ。
いただく料金は100分の1でありたい。

これはワシがマトモという証拠ではない。
ワシのヒネクレた叛骨精神の部分だ。
誰も解ってくれなくてもいい。
いちいち説明するなど嫌なこった。
どんな人にもこの部分はあるものだ。

ワシの好きな坂本竜馬も言っていた。
「世の人は我に何とも言わば言え。
私が為す事は我のみぞ知る」
あの大らかな竜馬でさえ、時々は思うのだ。
ワシのような小さな器が溜息をつくのは当たり前だ。

プロとして11年目。
最近、少し解ってくれる人達が増えた。
解ってくれなくてもいいが、
解ってくれると、もっといい。
嬉しいものだ。
その一言で10年分が更に満足できる。

  価値・4
12/21 (水)

故御師匠様の値段の付け方がある。
ヒラメキ。
ただ、それだけだ。
ワシも様々なヒラメキを活用している。
だが、値段などは余計な考えが出てしまう。
ワシはまだまだまだまだまだだ・・・。

価値はあるが、価値の値段は様々だ。
人により違うのは当たり前だ。
一番適切な付け方はヒラメキだ。
多分・・・ヒラメキが最適だろう。
だが、ためらわずに実行し難い。

ワシはバカだなぁ・・・。
知っていても実行できなけりゃ、アホのまま。
知行は一致して活きるものだ。
ヒラメキだけで実行するのは大アホになる事だ。
中途半端なアホは役に立たない。
もっともっと精進して大アホになるぞ〜。

「いいかげん」を奨励して11年目。
これだけ他に言っていると、自分もその気になる。
だんだん染み込んで来る。
(自分は出来てないのに他人に言ってたんだぁ・・・
まぁ、いいかぁ・・・そのくらい・・・)
アホから大アホへの道は歩き始めている。

言ってみたいセリフがある。
少し大アホに近づいたから言えるかもしれない。
ブラックジャック。
そして魔界医師メフィスト。
どんなセリフか、って?
フッフッフ・・・教えてあげない・・・。

ワシは勘違いしていた。
価値を理解すれば、それを表せるのだと。
例えば、値段も付けられるのかと。
そうではなかった。
次元が違っていたのだ。

価値が解ると、他には伝えられない。
それが・・・判った。
価値は他に伝える事が出来ないのだ。
ならば、値段は「いいかげん」がいい。
最適なのは根拠の無い「ヒラメキ」だ。

  価値・5
12/22 (木)

日本人は見えないモノを大切にしていた。
大事にとらえていた。
明治維新は多くの概念を変えた。
坂本竜馬などは、意識の解放を目指した。
おおらかな日本をつくりたかった。

たしかに明治で大きく変った。
正誤でなく、大きく変った。
新しく得た意識。
失った意識。

西洋的思考法が急速に入り込んだ。
論理的であり、科学的でもあった。
だが、充分理解はしていなかった。
だから、科学的でないモノを「迷信」とした。
これは失ったモノの大きな一つだ。

それでも日本人に流れる血があった。
見えないモノへの畏れ(尊敬)。
それが敗戦時に転覆した。
アメリカに占領されたからだ。
日本はアメリカの従国となった。
もちろん、現代も従国のままだ。
日本が独立していると勘違いさせたまま。

第二次世界大戦で従国となった日本。
占領国は意識を変える事から始めた。
これは何時でも、何処の戦争でも同じだ。
占領国は現地の意識改革(改悪)から始める。
最近のイラク、アフリカ各地、皆同じだ。

アメリカにとっての日本の脅威。
それは日本にはホンモノを観る力がある。
見えないモノを感じる感性がある。
奴隷がホンモノを判断しては困るのだ。
だから、文化的、科学的という言葉で変えた。
そして・・・今の日本に続いている。

こうして多くの日本人から感性を衰退させた。
見えないモノを「嘘、原始的、迷信」と教えた。
識者といわれる、操り人形を前面に出した。
学校は占領国の言いなりになった。
「民主」の本当の意味を隠して「民主的」を教えた。

それでも、日本人には古(いにしえ)の血が流れていた。
見えないモノを畏れ、敬う血は微かに流れているのだ。
「価値」を見抜く力。
それは、見えないモノを感じる力でもある。

  価値・6
12/23 (金)

見えないモノを畏れ、敬う意識が無くなる。
見えるモノだけで判断する意識となる。
しかも判断材料が値段というお金。
いつしか「価値」を観ずに「値段」を見る。

値段は高い方が「価値」はありそう・・・。
でも自分が係わるなら「安く」手に入れたい。
同じモノなら「安く」ても「価値」は変らない。
安く買えるなら「得」だ。
判断基準、生き方基準は「損得」・・・。

見えるモノで、同じ製品ならいいだろう。
値段が変っても品物が変らないのなら同じだ。
同じ製品なら性能は変らない。
高くても安くても好みの問題だ。

だが見えないモノは違う。
値段が高いのが価値があるとは限らない。
値段と価値は別な次元なのだ。
だが値段に価値を持たせると影響が出る。
ここの説明はメンドウだけど・・・。

見えないモノは受け取り側が主体となる。
受け取り側が影響を左右するのだ。
モノからの能力や性能は変らない。
価値は、そのモノにあるかもしれないが、
価値の影響は、そのモノにあるのではない。
影響は受けて側の価値判断に左右する。

ある絵があった。
値段が1億。
それを100万円まで値引させた。
政治家の顔で・・・。

1億の価値がある絵。
1億の力がある。
絵の力は変らない。
だが100万円で買った政治家。
100分の1しか絵の価値が伝わらない。

政治家は100分の1で買って「得」したと思った。
意識の中に100分の1の価値を作ってしまった。
だから100分の1しか受け取れない。
絵は変らないのに・・・。
お金を値切って価値を台無しにしたのだ。

  価値・7
12/24 (土)

病がある。
病からの回復がある。
回復の価値がある。
回復の依頼は対価を支払う。
通常はお金で支払う。

対価はお金でなくてもいい。
モノや行為でもいい。
だが等価として支払うから回復がある。
支払いを値切ったら・・・。

何も等価以上に支払う事はない。
もちろん支払ってもかまわない。
それは好みの問題だ。
だが等価以下に値切るのはマズイぞ。
回復が値切られてしまう。

ワシも最初は解らなかった。
無償で治療するのはいい事だと思っていた。
浅い病なら、それでもいい。
ところが深い(複雑な)病は回復しない。
その関係が観えていなかった・・・。

故御師匠様も試した事があった。
難病、奇病の人は経済的にも苦しい。
苦しい人の心が充分感じてしまう。
だから出来る限り安く設定した事があった。

結果は思ったように回復しない。
回復の値段も最適な金額がある事を知った。
病の回復は「双方の思い」の合体波動による。
勝手に安くしては、病い人の為にならないのだ。
ちょっと高いと感じる程度がいいようだ。

意識は安いと「本気」が薄れる癖がある。
複雑な病は「本気」で向かわないと回復しない。
人は「値段」に「価値」の判断をゆだねている。
ここを理解しないと病い人も治療者も迷宮だ。

ワシの尊敬する故関英夫先生からも注意された。
「治療費はキチンといただきなさい。
それは苦しむ病人の為なんだよ」
言われた事を理解するのに数年を要した。

だがワシは不マジメでいいかげんだ。
値切りたいのなら、値切ってもいいと思っている。
その都度、丁寧に解説するのはメンドウだ。
その回復が遅れるだけだ。
いつか気づけばいいや。
「病はいろいろな気づき」を内蔵しているんだぜ。

  価値・8
12/25 (日)

現代の日本人は特に価値を値段に頼っている。
見えないモノを受け止める感性が鈍っている。
それはしょうがないかもしれない。
徐々に感性を高めればいいや。
感性は「幸せ」と深い係わりがある。

だが品物と同じ感覚で価値を扱ったら間違いだ。
支払いは「安く」したい。
それは見える品物を購入する場合の意識だ。
見えないモノとの係わりに持ち込んでは間違う。
係わる意味が無くなる事さえある。

病からの回復。
お金次第という意味ではない。
金額にこだわっているのは病い人なのだ。
本来は治療するのに金額は関係無い。
回復への価値を決めるのは病い人側なのだ。

では本当に貧しい人はどうか?
インドでは何も無いストリートピープルがいる。
道に病で倒れている人がいる。
故マザーテレサは無償で何十年も係わった。
多くの人達が身体と心を回復していった。
お金も払わずに、払えずに。

再びキリちゃん(イエス)の言葉を引用しよう。
「貧しい者はラッキーだぜぃ。
幸せの鍵を握っているんだからなぁ」
見えるモノは何も持ってない。
だから見えないモノを精一杯活用する。
ここに幸せへの鍵がある。

治療や介護するマザーテレサファミリー。
彼女達も何も持たない人達だ。
全財産が着替えとそれを洗濯するバケツのみ。
介護や治療された貧しい人達。
何をもって等価して支払うか。

治療は病み人側も等価のモノを交換して成り立つ。
これは金持ちも貧乏人も同じだ。
この世のシステムだからしょうがない。
モンクはグレちゃん(創造主)に言ってくれ。
ワシは何のギモンもモンクもない。

お金で支払う人が圧倒的に多いだろう。
だがインドの貧しき人達は「感謝」で支払った。
「(真の)感謝」は双方に影響し合う力が働く。
ワシは(ラッキーなことに)この大きな力を知った。

  価値・9
12/26 (月)

実は最高最強最大の等価。
それが「感謝」というヤツだ。
だがコイツは素直に出てこない。
何かを持っていると難しいのだ。

心は・・・かなり・・・ズルイ。
表面では何とでもなる。
本人もその気になれる。
だが心の底は・・・複雑・・・。
心の底までは意思が通じないのだ。

表面、あるいはある程度までの「感謝」。
社会にある「感謝」のほとんどはこの深さだ。
何を言ってもしょうがないじゃないか。
「感謝」はコントロールできる相手じゃない。
「感謝しなさい」なんて言うのは無茶な要求だぜ。
(表面の感謝なら出来るけど・・・)

ところが「貧しい人達」は「感謝」が出来るのだ。
真の感謝が出来る特別贔屓された人達だ。
神様(グレちゃん)は平等じゃないぜ。
平等なんてチンケな意識は無いのだ。
贔屓されたけりゃ貧しくなればいい。
マザーテレサはその事を知っていたのだ。

病み人への治療や介護は時には影響を受ける。
病み(闇)を受け取って治療となる場合がある。
「真の感謝」の力。
それは神様(が贔屓した)の力だぜ。
闇の影響から守る力となる。

マザーテレサは計算して行動したわけじゃない。
素直に、実に素直に行動しただけだ。
だが・・・ワシはズルイオトコだ。
知っているから利用する。
利用というより活用する。
ワシを守る力として活用している。

ワシもこういう仕事だ。
相手も様々だ。
中には治療費を払えない人もいる。
内緒だが・・・ワシは大歓迎だ。
だからプロとして続けていられる。

ワシもセルフヒーリングは欠かさない。
だが・・・いいかげんなワシだ。
きっと・・・手抜きに違いない。
そこを補ってくれているのだ。

ありがとうございます。

  今年・1
12/27 (火)

ワシはラッキーだ。
プロとして仕事はマトモだと思う。
だが経営はいいかげんで根性無し。
経営的な努力は嫌いで無計画。

経営は商才が(ある程度は最低)必要だ。
自慢じゃないが、ワシは商才が特に劣っている。
職人系仕事の質の高低と経営は別なのだ。
自営業としては素人のままなのだ。

それでも仕事は続けてきた。
だってライフワークだもんね。
するとラッキーは向こうから来た。
神様は平等じゃないし評価もしない。
だけど、気まぐれではある。

だからワシもラッキーを貰える事もある。
善人も悪人も関係ない。
神様はそんな事は気にしないのだ。
贔屓するとすれば・・・
明るいタイプは好きなようだ・・・。

楽観タイプといえば聞こえがいいが、
何でもすぐ忘れるアホ・・・。
人間社会ではほとんど評価されない。
だけど神様はそういうタイプに微笑む。
神様は物好きだなぁ・・・。
神様は人間じゃないからなぁ・・・

ラッキーはいろいろな形で現れる。
ワシは女神様の形が好みだ。
「幸運の女神よ、愛人になれ!」
どうせなら遠慮しないで要求しよう。
ダメ元なのだ。
神様相手に遠慮は意味が無い。

10年以上もアホな事を言ってる。
すると神様も苦笑する。
「わかった、わかった。ユニークだから採用!」
神様はこういう性格だ。

最近になり幸運の女神が少しづつ現れた。
ワシの予想と少し違っていたが。
神様は幸運の女神像にしたようだ。
しかも多くのパーツに分けていた。

  今年・2
12/28 (水)

神様はヒネクレている。
ワシの要求は「幸運の女神を愛人に」だった。
ところが面白がって採用したくせに素直じゃない。
幾つもの仕掛けを作って実現させてくれた。
まぁ、神様相手にモンクは言わないが・・・。

だが神様はいいかげんだが優しい。
よくみると仕掛けというより仕組みだ。
この世の仕組みと同じ仕組み。
ホログラフィーの仕組みと同じだ。
一部も全部も同じ仕組みで出来ている。

神様は(見えない)女神像を用意してくれた。
もちろん幸運の女神像だ。
ただし・・・組み立て式だ。
幾つものパーツがある。
そのパーツは用意してくれない。

ここが神様の真に優しいところだ。
パーツは自分で集めるのだ。
何やらRPGのようだ・・・。
(注:ロールプレイングゲームといって、
幾つものオーブを集める、とかあるのだ。
詳しくは子供に聞いてくれ)

ワシの場合はクライアントが持っている。
クライアント全員が持っているわけではない。
クライアントの誰かが持っているのだ。
そのクライアントに出会うには・・・。
ワシが自然体になった時・・・。

よけいな考えや計算があっては会えない。
会えるかもしれないが、判らない。
相手が接触して来ない。
天に任せると・・・会えるようだ。

もちろん出会っただけでは貰えない。
ワシの本来の仕事が出来て、初めて貰える。
相手が満足して喜んでくれて、仕事となる。
すると、見えないパーツが手に入るのだ。
ナマケモノのワシでも否応無しに仕事する。

最初は判らなかった。
パーツを貰っていた事に気づかなかった。
10年経って、何の事か解り始めた。
そういうふうになっていたのかぁ・・・。

ワシは商売を止めて入った道だ。
だが食べていけない。
それでも10年経てば・・・。
故御師匠様の根拠無い言葉だけが頼り・・・。
それが・・・この事だったとは!

  今年・3
12/29 (木)

ワシは勘違いしていた。
10年続ければ、ワシのような者でも何とかなる。
少しは知られたりするかも・・・。
バカでも要領を覚えるのかも・・・。
そう勘違いしていた。

そうではない。
少しづつ努力や経験が実を結ぶのではない。
こっちの世界ではそんなの関係無いのだ。
通常の社会通念が通じないのだ。
ワシのバカな言葉が当っていたのだ。
「幸運の女神」「棚からぼた餅」

目の前の「縁」。
肩の力を抜いて、全力。
命懸け、は例えじゃない。
だが、力が入っては活かせない。
この仕事は冗談半分で歩くものだ。
真剣だからこそ、冗談半分だ。

そして何とかこなしていく。
そもそもこの道に入った動機。
変わる瞬間の笑顔が見たい。
素直な気持ちになれた時、
「縁」が活きる。

最初から仕組まれた「縁」がある。
前世とか過去世とかいう人もいる。
それが有るのか無いのか、
ワシには判断出来ない。
だが、仕組まれた「縁」はある。

その中の幾人かがパーツを持っている。
そして・・・渡してくれる。
嬉しいぜ。
まだまだ女神像は完成しない。
だが、嬉しいぜ。

パーツを持って来てくれているクライアント。
彼(女)等が全て女神様だと思える。
だから全て大切で愛おしい。
ワシの仕事に対する基本姿勢。
神様はそれを教えてくれてもいる。

誰がパーツを持っているのか判らない。
だから会う人全員女神様・・・。
(オトコでもかぁ?)
会う人全員大切で愛おしく・・・。
綺麗事に聞こえるが、氣功時は難しくないのだ。

神様はメンドクサガリ屋だ。
だから一石何十鳥ものやり方をする。
かなり・・・やり手だ。

  今年・4
12/30 (金)

ワシの基本姿勢。
ワシのズボラな性格。
ワシの身の程知らずの望み。
この世の仕組みの教え。
全て一つに含まれていた。

幸運の女神像の仕組み。
(深い)病からの回復の仕組み。
出会い(縁)の仕組み。
ヒーリングの仕組み。
全てが同じ仕組みだった。

神様は・・・最高の存在だ。
最高だから・・・シンプルだ。
シンプルだから・・・深い。
深いから・・・優しい。

多種多様との出会い。
多種多様との出会い方。
多種多様との出会う姿勢。
全てに無駄が無く、遊が有る。

10年経って、やっと解った。
解ったと思う・・・。
多分・・・半分は解ったんじゃないかな?
解っただけじゃ、何の役にも立たない。
歩いた分だけ景色が変る。

全ては、これから先だ。
全ては、今にあり、未来にある。
全ては、歩き方と歩く道にある。
到達点は気にしなくていい。
向かっていれば充分だぜ。

「幸運の女神を愛人に」
ワシの戯言は間違ってなかった。
幸せを自分の力で掴むなんて傲慢だ。
多くの女神様達が集まって「幸運」となる。
多くの縁が集まって、生かせてくれる。

回復も同じだ。
多くの縁。
多くの条件。
多くの愛と慈悲(優しさ)。
そして遊と裕。

大丈夫だぁ。
多分・・・何とかなるから。

  今年・締め
12/31 (土)

故御師匠様の言葉。
「神を信じ、人を愛す」
意味が解るのは何段階もある。
深さに感応し、一段上がる。

ワシは御師匠様達と同じように、
宗教(組織)は必要無いと思っている。
だが宗教心は最も大切かもしれない。
故御師匠様は「神」という言葉を使った。
宗教は関係ない「神」だ。

宗教(組織)は信じない。
人間の組織だからだ。
人間は故意や無意識や無知で間違う。
人は信じる対象ではない。
(だから疑う対象でもない)

人は愚かの塊なのだ。
だから・・・可愛い存在だ。
人は間違うからこそ、愛する存在だ。
神は完璧だから、愛さなくてもいい。
向こう(神が)ワシ等を愛してくれている。
ただ・・・信じるだけでいい。

ワシは病み人を相手に仕事をしている。
ある意味、病(闇)は愚かの象徴だ。
氣功時、ワシのチッポケは心は隅にいる。
ワシのヒネクレた小さな心は動けない。
そして・・・人が可愛いと思える。
氣功時、ワシは強制的に慈悲の波動に包まれる。

ヒマとはいえ10年以上もしているのだ。
ワシも影響を受ける。
毎度毎度、慈悲と付き合うのだ。
「人を愛す」という感覚が解る。
ワシの心が変ったわけじゃないぜ。
ワシは相変わらず小さなヒネクレた心だ。

ワシは独善でスケベで無知で傲慢だ。
だが、氣功時は心が動けない。
動いても・・・上手く心が乗れない・・・。
上辺だけの独善やスケベでしか振舞えない。
不満足なのだが、不平は無いのだ。

「人を愛す」なんてワシらしくない。
だが、そう思うし、行ってしまう。
病み人に対して、素直にそう思える。
ワシ・・・頭が変になったのかもしれない。
元々気まぐれタイプだ。

「神を信じ」も素直にそう思える。
ますます「神を信じ」になってきた。
ワシは神様にタメ口をきくが、平伏もしている。
神様にモンクは言わないぜ。

ワシと縁の有った人。
新たに縁を結んだ人。
これから縁を結ぶ予定の人。
ありがとうございます。
これからも至らないワシを宜しくお願いします。

ワシは皆さんを愛してます。

    翌月コラムへ      コラム3目次に戻る