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駄心・2
3/01 (火)

「心」は「欲」で創られている。
「欲」=「悪いもの」という固定概念の人は反論する。
「優しい心、思いやりの心も欲か?」
それは「欲」じゃない。
(表現では使うけど)最初から「心」じゃないし・・・。

「向上心や奉仕の心も欲か?」
それは「欲」だと思うよ。
自分から動く、自分へ動かす心は「欲」だものね。
「自分」が中心なのは「欲」なんだ。
だから「欲」=「悪いもの」にすると苦しむ。
摩擦や矛盾が沢山出てくる。
自分も他も虐める。

「優しさ」「思いやり」などは、他を認める「やわらかさ」。
だから「心」じゃない。
「心」は「やわらぐ」と消えてしまう。
「心(欲)」が消えると、普遍的なモノが顕れる。
その普遍的なモノを、ブッちゃんやキリちゃんは、
「愛」とか「慈悲」とか表現したんだ。

だから「心を変える」のではない。
「心」が「やわらぐ・やすらぐ」と、
「優しさ」が使えるよ、と教えただけだ。
「正さなくてはいけない」と伝えたのは、不肖の弟子達。
そして「欲の塊」の組織維持者達(宗教組織関係者)
ブッちゃんもキリちゃんも苦笑していると思う。

「他を認める」というのは、
「他の心」を認めるという事だ。
「他のイタラナイ部分」を愛するという意味だ。
「アホな心」を愛しむという意味だ。
だから「欲(心)」=「愛するモノ」なんだ。
心の無いモノはない。
だから自他の区別なく愛しむ対象として「心」がある。
「アホな心」「欲の心」が存在する意味がある。

グレちゃん(創造主)はダラシナイけど完璧だ。
「アホな心」を創ったのは「優しい」からだ。
「欲」を創ったのは、「愛」だから。
グレちゃんは、ヒネクレているが洒落ている。

「欲(心)」=「愛する対象」だけど、
「欲(心)」=「甘やかす対象」じゃないぞ。
「愛する」は「認める事」だけど、助長する事ではない。
だって、助長すると「苦」になってしまう。
「欲」は「塊」だから硬くすると「苦しみ」になるんだ。

「愛する」とは「やわらげる事」であり、
変える事でもそのまま助長する事でもない。
更にいえば、「一緒にやわらぐ事」なんだ。
ここがコツなんだけどねぇ。

宗教関係者さん。
「教え」を押し付ける、紹介するより、
自分の心がどうしたら「やわらぐ」かが先だと思うよ。
布教という「欲の塊」を「やわらげて」下さいね。

  啓蟄
3/02 (水)

「啓蟄」

太陽の黄経345度。
360度(0度)で春分だから、もう少しだ。
この角度になると北半球では「陽氣」が地中に届く。
届くというより「共鳴」し始める。
地の「陽氣」の部分が振動しやすくなる。

天だろうが地だろうが人だろうが、
「陽氣」も「陰氣」も「中氣」もある。
グルグル、ゴチャゴチャ渦巻いている。
それぞれ影響分野が違うので一緒にくくれないが、
次元間を超えて、多少は影響し合ってもいる。

「天」の説明は精神世界の話のように、
アイマイでアヤシクなりそうなので省く。
「地」と「人」は見える世界という共通点があるので、
まだ何とか説明しやすいのだ。

ここでいう「人」は人ではなく、個々の物質体を表す。
特に地球上の生物、非生物、非物質も含まれる。
「地」は地球だけじゃなく、太陽系の星、
特に太陽と地球と月を主に指しているのだ。

「啓蟄」は「地の陽氣」が「人の陽氣」を刺激共鳴する話なのだ。
(ここでは地中の虫達が「人」として例えてある)
「春分」に始まる24節気は「地氣」と「人氣」の関係話だ。
天候・天気は「天氣」じゃないぞ。
天気は「地氣」だ。(あ〜メンドウくさい・・・)

天候(地氣)を人の行い(ここでは農業)に活かす智慧の言葉だ。
人(地球上のモノ達)は「地氣」に大きく左右させられる。
「氣」の規模が違うのだから、しょうがない。
それは当然、体・心・精神(魂)にまで影響がある。

あっ、ここで話は横道に逸れる・・・・。
「陽氣」が蠢き始めるこの時期は、心を刺激してしまう。
心が乱れる時期なのだ。
病院は「精神病」「精神科」などというけど、
あれは「心の病」であって「精神の病」じゃないからね。

「精神」が病むことはない。
ありえないんだ。
寝てる事はあるようだけど、大抵は起きている。
精神は最初から最後まで「健常」。

でも(ロクデナシの)心が精神を覆う。
元々、精神は(誰のでも)オシトヤカな性格だ。
心はデシャバリの性格だ。
だから精神は口を出せない。

精神に直接働きかけ、精神から心を治す(調和)方法もあるけど、
これは特殊すぎて(リスクがあり)お薦めできない。
施術者の能力不足が自覚できにくい方法だしねぇ。
やはり治療は安全が前提だと思うよ。

心は体(生命)からアプローチすれば消える。
変わるという表現でもいいけど、実際は調和だ。
調和は「(我が)消える」という現象なんだ。
心は我の塊だしねぇ・・・。
(テーマとはズレた横道話になっちまった・・・)

  優性思想・1
3/03 (木)

ワシは基本的には思想の違いで争いたくない。
対立から何も生まれないとは言わないが、
大したものは生まれない。
対立を融かしたのなら、大きなモノが生まれるだろう。
違いを気づきあったら、多くに笑顔が生まれるだろう。

糾弾するつもりもないが、気づいて欲しいとは思う。
社会常識化している「優性思想」の愚かさ。
国、民族、階級、地位、金、その他いろいろ。
区別を差別に応用してしまう愚かな思想。
最近は特にアブナイ傾向になっている。

ハンセン病患者に象徴される国の方針。
マスコミの意識。
国民の(優性・健常者)意識。
「優性」が目指す方向と思っている限り、
この国は優しくない。
優しさが無ければ、不幸な国だ。

強い、弱い、はある。
一つの才能や方向に優秀や劣等もある。
だが「強い」のが「弱い」よりいいわけじゃない。
「優秀」が「劣等」より価値があるわけじゃない。
多分、この言葉が理解できないのだと思う。

「勝ち組」「負け組」は趣味で選ぶ組だ。
組を選ばない生き方もある。
組を意識しない生き方もある。
何の疑問も持たずに「勝ち組」に価値があると信じるのか?
(ホームレスの一人と会社社長。
どちらに価値があるのか決められないだろ?)

多数の意見だから同調する。
強い意見だから賛同する。
「正しさ」を看板にしてモノ申す。
そんな心の貧しさに気づかない。
そこには少数意見、弱い意見に対する、
「労わり」も「思いやり」もない。
更に、本当の自分の意見も無いんだ。
大抵は受け売りの言葉しかない。

正しさを主張しない意見は声が小さいものだ。
小さな声を聞けない感性で、幸せは見つけられない。
いろいろなモノを認め合わずに、
みんなが嬉しい、愉しい、気持ちいい社会は出来っこない。
そんなこと、当たり前だろ?
威張って言える意見だけ取り上げる意識は、
苦しみの世界を創ってきた歴史がある。

人間の愚かさは108個あるという。
(108は無限という意味もある)
その中の一つとして、
(不幸な)歴史に学ばない愚かさが今でも抜けない。
多くの、大きな苦しみの歴史から何を学んだのだ?
「優性思想」は「苦しみの世界」を創ってきた歴史がある。

  優性思想・2
3/04 (金)

体、心の弱さはその人の弱さじゃない。
体の一部に弱い箇所があり、
心の一部の方向に癖があるだけだ。
それはどんな人にも当てはまる事柄だが、
自分が健常だと思っている人は気づかないだけだ。

人間は皆、例外無く完全体じゃない。
完全じゃないから人間として生まれてきている。
障害者という言葉を使うなら、障害者以外の人間は存在しない。
体、心が正常だと信じている人は、単に無知か鈍感なだけだ。
これは間違いない事実なんだ。

正常に働く箇所があり、サボる箇所がある。
得意な能力分野があり、不得意な分野がある。
一人の人間の中には様々な部分があるのだ。
そんな事は当たり前だ。
常に健全な心と常に健全な肉体は人間ではありえない。
そんな事もわからないほど「自称健常人」は心に障害がある。

基準を「強弱」「正誤」「優劣」にするから狂う。
いつかは自分の身と心で気づくだろうが、
それまで他の「弱」「誤」「劣」を差別し虐める。
ときにはこっそり自分の「弱」部分を責める。
あるいは「頑張れ!」と無責任な言葉を言う。
優しくないんだなぁ・・・。

基準を「調和」「やわらかさ」「畏敬」にすれば、
「生命」は喜び、「世界」は愉しめる。
ワシ流では基準を「いいかげん」にすることなのだがねぇ。
自分のアホさイタラナさを自覚するのが「自立」だと思う。
だから「自立」の問題でもあるんだなぁ。

「優性思想」が趣味の段階ならモンクはいわない。
「強い」が好きだろうが、「優秀」が好きだろうが勝手にして。
ワシだって、来世は格闘家にあこがれる。
(来世はナイスボディの小悪魔もいいかなぁ)
売れっ子女流漫画家の亭主にもあこがれる。
南国のそよぐ風に生まれ変わりたい・・・。
(だんだん、ナマケモノの本性が・・・・)
アマゾンで生息するナマケモノそのものでもいいや。

ところが「優性思想」はデシャバリなのだ。
「こうでなくてはいけない」と本気で主張する。
しかも正論みたいだから性質(たち)が悪い。
この世で性質の悪いのは「正論の主張」なんだぜ。
その性質の悪ささえ自覚できていない。
そして、エスカレートする性質も内蔵しているんだ。

戦争準備下、戦争状態下では必ず「優性思想」がはびこる。
あるいは「優性思想」の先には争いが待ち受けている。
今の日本の状態、もう一度見直そうね。
ワシ、オーバーに煽っているわけじゃないよ。
多少、未来予測は出来るけど、そういう意味じゃない。

体、心の弱い(敏感)な我々が暮らし難い社会は嫌なんだ。
性格の強い人には気づきにくいだろうが、気づいて欲しい。
頑張るタイプの人とも一緒に暮らしていくわけだし・・・。
「優性思想」は「優性嗜好」に直してくれないか?

  優性思想・3
3/05 (土)

「優性思想」が「優性嗜好」になれば楽になる。
「頑張れ!」「修行だぁ、精進だぁ!」「努力と根性!」
これらが趣味の選択だけになる。
頑張るのが好きな人が頑張り、
根性の無い人は根性ナシの生き方を堂々と出来る。
自分にも他にも無理を押し通さずにすむから、
社会がとても暮らしやすくなるのだ。

無理を通さなくてもよければ、
争いは無くなり、戦争で苦しむ事もない。
戦争を産みだす意識が無くなれば、
人間だけでなく、多くのモノが楽になると思わないか?

頑張らなくても社会の発展は出来るが、
仮に発展しなくても、平和な社会が優先する。
平和でなければ、未来などありっこない。
発展や進化など趣味としてやってくれ。
頑張って自滅を急ぐのは愚かというものだし、
他に強要するのは迷惑というものだ。

「イジメはいけない」と誰でもいう。
でも「優性思想」は常識だととらえている。
そりゃ、ヘンだろ?
「イジメ」の原因は「優性思想」だろ?
今の日本中で行われている弱者虐待は、
「優性思想」から起こっている。

「優性」は弱者にしか向かえない。
自分が優位になれる相手を虐める。
どんなに立派で正論(?)を述べても、
弱者(と思っている)側の見方(味方)にならない。
叛骨精神なんて「優性思想」には無い。
(そんなの無くてもいいけど・・・)
たまにはヤクザや政治家や警官を虐待してみろよなぁ・・・

「他(人)より優位に立とう、それが勝ち(価値)だ。」
競争で上位に行くことが価値があると思ったら、
下位や弱者への思いやりは失われてしまう。
「イジメ」「虐待」「虐殺」の無い社会にしたければ、
自分の中の「優性思想」を趣味に変えてくれ。

競争で勝つのも趣味にしてくれれば、
楽しみ(他)や愉しみ(自)として社会は和む。
勝者に価値をつけてしまったら、
敗者は小価値か無価値という意味になる。
勝者は一人だが、敗者は全員だ。
無価値ばかりの社会が幸せになると思うか?

「優性思想」というのはとても愚かな思想であり、
社会、世界を理解できない幼稚な霊性の思想でもある。
(ワシを含め)幼稚は可愛いと思うが、
その先に残虐が待っているのでは笑っていられない。
人類はこれだけ争いを続けてきたんだ。
そろそろ卒業しないかぁ?

  ウン○・1
3/06 (日)

ワシは有言不実行、知行混乱な人間だ。
反省はしないが、気まぐれに変えるのは好きだ。
意識の基準を「正誤」から「やわらぎ」に、
なんて書いているくせに、いつも題名が硬い。
最近、硬くあるべきトコロが柔らかくなっているが、
そこが何処だかはアナタが詮索するべきじゃない。

乱雑なのは頭だけじゃない。
昔から本を読むのは好きだった。
文字中毒症だった頃もある。
できるだけ厚い本でないと満足しなかった。
ナナメ読みはしないが、速読タイプだった。

月日は流れ、努力研鑽の成果が現れた。
乱読、積どく、メンドク(さい)の三位一体を極めたのだ。
表紙を見るだけで内容が解る。
手を当てれば、智慧が流れ込む。
これがウワサの求聞持法かぁ・・・。

片鱗でも触ってみれば意識は変わるが、
こんなの・・・ツマンナイ。
便利、早いは、ツマラナイものなのだ。
好きなオナゴはいつまでも愛でたい。
少し触っただけで、イッてどうする?

好きなマンガはゆっくり愉しむのがいい。
パラパラめくりで読んでしまったら、
一所懸命書いてくれた漫画家さんに失礼だ。
珈琲と和菓子が残っているのに、
マンガだけ終わっては調和がとれない。

人間、賢い人は稀で充分だ。
誰でも脳細胞は壊れるように創られている。
記憶も知識もボケてくるようになっている。
応用できないのに詰め込むのは無意味だ。
ワシはアホの人間で生きたい。

このように文章文体の乱れも趣味なのだ。
昔、書くのが好きなくせに苦労して書いた時期があった。
上手く書こう、という意識があった。
読んでいただく人が解りやすく、と思っていた。
自分の文才程度が観えてなかったのだ。

「氣」のプロとなって気づく事は多い。
「氣」は上辺、体裁が通用しない。
ウソも技術も通用しない。
ウソに「氣」は乗らないのだ。

この世の仕組みはヒネクレている。
ワシが書きたいように書く。
読む人の事など、知った事かぁ・・・。
そう変えたら、ワシの手から離れた。
御筆先様が勝手に書いてくれるようになった。
今では第一番目の読者がワシになったのだ。
(それにしても題名の「ウン○」は何処?)

  ウン○・2
3/07 (月)

最初から言行一致など守る気も無いが、
いつも言行不一致ではマジメすぎる。
(いつも不良なのはマジメなのだ)
たまに言行一致するのが「いいかげん」の道だ。
たまに知行も一致するのがワシ流だ。

本妻と愛人を差別しない生き方。
(一応、区別はしてます・・・)
ウソとホントも差別しない。
有言実行も有言不実行も差別しない・・・。
差別しないから、どちらでもいい。
どちらでも、いいところは沢山ある。

「やわらぎ」が基準だよ、といいながら
結構、硬い題名が続いた(有言不実行だ)
そうだ!やわらかな題名にしよう(有言実行)
そこで乱雑な本をながめていた。
内容がやわらかくても題名は硬いなぁ・・・。

「HOW TO SHIT IN THE WOODS」キャサリン・メイヤー著
これは題名がやわらかい・・・。
日本語名は「山でウンコをする方法」
内容は、野外でのウンコ・オシッコとの付き合い方だ。
表現もやわらかいが、内容はマトモだ。

自然愛好家でもある著者は、特に自然破壊に警鐘を鳴らす。
その一つとして最も身近で例外の無い排便を語った。
しかも、女性の目、女性の行動として語った。
硬く、重くはないが、深く、温かい本でもある。
こういう文章はワシの目指す方向の一つだ。

何しろウンコとオシッコだ。
「やわらかい」し「温かい」・・・。
もし真剣に正面から受け止められないのなら、
アナタは偽善者だ。
汚いと顔をしかめるのなら、
アナタは腹汚い・・・間違いない!
例外なく、人の腹はウンコとオシッコを持っている。

ところで、話は横道・・・。
この「ウン○」の題名にしたら、
アクセス数がかなり増えているみたい。
なるほどなぁ・・・。
上品な話は気が乗らないけど、
下品な話は興味があるんだなぁ・・・。

ワシは上品と下品を差別しない。
どちらも滑稽だと思っている。
上品に価値を付ける人は、抑圧されている。
下品だけに興味を持つ人も抑圧されている。
(その人も上品が上等だと思っているから)

そうだ!
明日は上品と下品の話を書こう!!

  ウン○・3
3/08 (火)

人は何故下品が好きか?
好きかどうか判らなくても、何故魅かれるのか?
わけがわからないけど魅かれるモノの中には、
とても重要なモノが含まれている。
例えば「いのち」「氣」「恋」「心」

ワシはわからないモノには素直になる。
わからないモノをヘタに考えると間違える。
下品に何故魅かれるのか?
下品に魅力があるからだ。
当たり前だよね。

魅力は何処から湧き出るのか?
魅力は「生命」が活性化するモノから湧き出る。
生き物は「生命」を大切にしているんだ。
生き物の本質は「生命」の活性を求めている。
生き物は全て「生きたい」「より元気に生きたい」のだ。

こんな当たり前のことを忘れて行動する。
当たり前に反した文明を築く。
「当たり前」よりも「欲」を優先する。
「生命」よりも「欲」を優先している。
近代以降、かなり歪んでいるよなぁ・・・。

まぁいい(よくないかぁ?)
下品に魅力があるのは、
下品の内に「生命を活性化」するモノがあるからだ。
下品に(本気で)魅力を感じないのなら、
「元気に生きていく」事にも、あまり反応が無いものだ。
下品に何故か魅かれるのは、正常な「生命」だ。

上品が好き(かどうかしらないが)な人達は、
バイタリティ(生命力)が少ない。
下品が好きな連中(!)は、生き生きしている。
それが社会的に良いか悪いかは別として、
「生命」は下品好きと相性がいい。

人の生き方は好き好きだ。
趣味のモンダイだ。
上品好きだろうと下品好きだろうと、
他人が口出すモンダイじゃない

だが勘違いしては困る。
「下品」と「下品に振舞う事」は別だ。
下品は人に最初から付いている。
それを哀しい性といおうが、
生命の賛歌といおうが、付き物ではある。
付き物は大切に愉しむものだと思う。
ワシは「下品」は好きだが
「下品な振る舞い」は嫌いだ。

下品に振舞う事の中には犯罪がある。
人の作った法律でなく、存在の理としてある。
「他を侵(犯)してはならない」
これが存在するモノ全てに共通の法だ。
これが無いと生物(と他のモノ)は滅亡する。
だからワシは戦争に正面から反対する。
争いは「下品な振る舞い」なのだ。

  ウン○・4
3/09 (水)

下の品だから「下品」
下品の代表として「性」がある。
「性」を正面から取り上げるのはワシでは無理だ。
とても深遠すぎて雑記で書ける相手じゃない。
肉体界と精神界(心の世界じゃないぞ)から、
聖界(真界)への乗り物としての能力を秘めている。
しかも生き物は全て備え付けている。

チベット亡命政府のある北インド、ダラムサラ。
かつての宮殿名ノルブリンカの名をつけれれた文化センター。
そこで見たチベット仏教の大曼荼羅図中心の御神体図。
男女交合神は腹の底が震えるほどの波動があった。
「性」の遥か深く、とんでもない世界がある。
グレちゃん(創造主)がオチャメだというのが、
これ(性)一つとってもわかるだろう。

ワシが話せる(書ける)のは「性」の極一部だけだ。
その更に一片として「下品」部分がある。
でも今回は書かないぞ。
興味のある人にしか話さないぞ。
聞きたかったら、講演依頼を申し込んでくれ。

「下品を愛する事」と
「下品な振る舞い」は正反対の位置にある。
ところが世の中は「下品」に眉をしかめ、
「下品な振る舞い」の政治家達に投票(応援)する。
常識って、かなりおかしい(可笑しくないか?)

ワシは上品はよく判らないが、
「上品な振る舞い」は判る。
ワシにはなかなか出来ないのだが、
「上品な振る舞い」は敬愛する。
「下品」好きと「上品な振る舞い」は矛盾しないのだ。

故マザー・テレサのフィルムを見た。
膿と垢だらけの病人を抱きしめていた。
あれが「上品な振る舞い」というものだ。
自他を融(解)かして行動する。
そこに塊(こだわり)はない。
「やわらぎ」と「やすらぎ」だけがある。

マザー・テレサの行動を評して誤解がある。
「自分を捨て、他の為に生きている」
そう語られ、書かれる事がある。
それは違う。
自分を捨てた行動で「生命」は続かない。
自他を融かした(解放させた)から偉大なのだ。
ワシが無条件で平伏する聖人の一人でもある。

また硬い話になったかなぁ・・・
ウン○話が硬くては苦しむなぁ。
明日こそ、軟かなウン○話を!
ファイト! オー!!(そんなことでファイトするのか?)

  ウン○・5
3/10 (木)

肝心のウン○がちっとも出演しないで話が進む。
やわらかい、温かい題名なのに、中身に偽りありだ!
ウン○友の会の皆様、期待させてゴメンナサイ。
ワシはブッちゃん(仏陀)の方便法を学び、
ウソをつくのが得意になりました(責任転嫁だな・・・)
ウンもウソも似た字だし、どちらも日常にあるということで・・・。

そういえばワシのHPに「インド・エッセイ」がある。
一番肝心な場面を書いてない。
書けないわけではないが・・・御筆先様が乗ってこない。
もう何年もほったらかしのままだ。
そこにウン○の一節がある。
題名を「ウン孝」としてある。

インドは混沌の国だ。
崇高な哲学とウン○が一緒に置いてある。
ワシは性格的にこの国の混沌が好きみたい・・・。
多種多様な民族や宗教や身分や歴史がゴチャゴチャ。
その中で暮らすには「おおらかさ」が不可欠となる。
ワシは「おおらか」なモノが好きみたい・・・。

朝、電車で移動した時のことだ。
冷凍庫のような冷房の列車は駅付近はゆっくり走る。
線路のすぐ脇を老若男女がゾロゾロゾロと歩いている。
背筋を真っ直ぐに、歩調はゆっくりリズムよく・・・。
実にインドの人達の歩く姿は優雅で綺麗な姿勢だ。

手にはビール缶のような入れ物を持ち優雅に歩く。
口は閉じ、おしゃべりはあまりしないようだ。
意思のしっかりした目というか、キツメというか、
歩く脇を通る列車をにらみつけるような目でもある。
(最近の日本人は半開きの口が多いがインドではあまり見かけない)

歩く列はアチコチで延々とある。
そして・・・アチコチで列を離れ、
アチコチでしゃがみこんでいる人がいる。
そう、ここは天然の野外トイレでもあるのだ。
トイレが無いのではなく、
何処でもトイレがある、国なのだ。

ちょっと道(?)から外れた雑草の中、
実に優雅に、実に自然に腰を下ろす。
毎日の自然な日常生活。
多くの人が溢れているのだが、
何故か静かな時間が流れている。

実に当たり前の光景であり、
「生きる」を意識してしまう光景でもある。
インドは不思議な国だった。
朝のウン○時間に出会って、
生物としての生きた哲学を学べる国でもある。
薄っぺらな精神論はオシッコで流される・・・。

文明国とよばれる国は紙(神)を使い、
自然を壊す(環境破壊や戦争をする)。
自分の汚れた(と思い込んでいる)モノを隠し、
正義の名目で常に優位に立とうとする。
「正しさ」は卑怯で薄情なモノなのだよ。

混沌の国、インドでは(伝統的な生活者のみです)
紙(神)もあるが、紙(神)は使わない。
日と水が浄化(調和)してくれる。
エコロジーは当たり前の日常なんだ。
学ぶこと、気づくこと、沢山あると思わないか?

  ウン○・6
3/11 (金)

インドでのウン○話は沢山ある。
この手の話をすると、とても「場」が活気付く。
どうしてこんなに盛り上がるのか不思議なほど元気になる。
思い出しても、可笑しくてしょうがない。
邪気の無い「笑い」は「生命」を活性化する。
皆さん、ウン○話をしたかったのねぇ・・・。

夜行列車で10数時間の移動があった。
列車内に売り子がくる。
(い、いや、売りオッサンだった・・・)
寝床は天上付近に設置できる。
子供の頃の秘密基地みたいだ。
隣から更に隣に天上伝いで移動できるのだ。

同行者達はヨガ指導者の女性が多い。
そこで列車内のトイレ談義に花が咲く。
列車の天上からウン○とオシッコの話が降り注ぐ。
聞いていた人は迷惑だったろうか、面白かったろうか?
今でも、ワシには判らない・・・。
ただ、話に加わる女性がどんどん増えた・・・。

インディアントイレだ。
直径10センチほどの丸い穴が床に一つ。
僅かに穴に向かって勾配があったのかなぁ?
もちろん垂れ流しだが、それはモンダイない。
モンダイはその位置だ。

壁から20センチほどに穴が一つ。
さぁ、微妙な位置になる。
大きい方はモンダイないだろう。
壁側がお尻だ。
座ったままで手が届くところに水がある。
つまり蛇口が床から40センチ上。

(ちなみに西洋便座でしか用便をしなかった人は、
お尻を支えるモノがないと、とても苦労するようだ。
和式トイレ用の筋肉は発達していないらしい。
だから野外での排便に西洋人は苦労する。
訓練と工夫をしなければ悲惨で滑稽な出来事を体験する)

オトコのオシッコもモンダイない。
キャサリン・メイヤーもその著書で書いていた。
野外でもオトコは威厳を持ってオシッコが出来る。
世界の未来を憂いながらオシッコが出来る。
当初の狙いさえ定めれば、ノーテンキに過ごせる時間だ。

オナゴはそういうわけにはいかない。
周囲に気を配り、自身の一部に気を配る。
姿勢、位置に気を配り、衣服や持ち物に気を配る。
そして態勢を維持する筋肉を緊張させ、
一部のみ緊張を解いて速やかに事を進める。
恋や仕事の悩みも、この時間内で煩う余裕は無い。

しかも西洋便器が無いということは、
あふれ出た液体の行く末の心配までしなければならない。
元の主にしがみつく場合があるからだ。
靴であったり足であったり、それは多いそうだ。
オナゴはまだまだ大変なハンディを背負っている。
男女は同権かもしれないが、同等じゃないのだ。

  ウン○・7
3/12 (土)

オナゴの「HOW TO SHIT」は隠されてきた。
オトコに比べ個体差が大きいオナゴは一人で対処してきた。
本来はオトコのワシが口を出す事柄じゃ無い。
それを認識した上で、あえて書いている。
結構、これでも気を使って表現しているんだけどねぇ・・・
ワシは「下品」は好きでも「下品な表現」は好きじゃない。


閉鎖空間でも然りだが、野外では尚更工夫が必要だった。
列車内トイレは閉鎖空間ではあるが、野外に似ていた。
日本の鉄道のように滑らかで振動が少ないわけじゃない。
揺れる移動空間内は穴から地面まで遮るものが無い。
外の車輪音がトイレ内に直接響く。

インディアントイレはシンプルだが騒音が酷い。
日本なら深遠なる真理に想いを寄せる空間だが、
哲学の本場の空間は、静寂とは無縁だった・・・。
「あ〜ウルセェ! 耳鳴りが未だ続いている・・・」
その代わりに、生活の中に生きた哲学が転がっている。

騒音の中、オナゴ達はそれぞれ必死に考えた。
さて、どっち向きに座ったらいいのだろう?
穴が真ん中にあったなら悩まない。
オナゴによって意見が分かれた。
どちらにも正当で性等で聖等な言い分だ。

壁に向かって座ると、膝が壁にぶつかる。
「あら、アタシ、ぶつからないわよ」
ヨガの先生方だから体は柔らかい。
180度開けば、ぶつからない。
でも手をつかないと、インドで初キスが壁になる。
とにかく揺れるのだ・・・。

大と同じに壁にお尻を向けて座る。
大ならいいが、小では飛び出る・・・。
「あら、アタシ、大丈夫よ」
「アタシは絶対無理!」
「穴が小さすぎてアタシは横にズレないと」
オナゴは様々な方向と角度があるらしい・・・。
いろいろ勉強になりました・・・。

ワシが思うに、
あの穴の位置を設計したのはオトコだと思う。
オナゴの意見など、一つも聞いてないのだと思う。
オトコの身勝手社会の弊害はこんなところにもある。
オトコ社会は強い相手(しかも同性)に媚び、応援するが、
弱い相手(病人・年寄り・オナゴ・子供)には冷たいのだ。
未だに「強いのがいい」と思っているからナサケナイ(情け無い)。
(もちろん実際に弱いのは、そんなオトコの心だが・・・)

穴から直接ウン○が外に飛び出るのだから、
ペーパーを使うと(環境に)迷惑だろう。
ワシは郷に入れば郷に従う(時もある)
インド式に左手で水のみで始末してみた。
尻の割れ目に沿って水を流すときいてたが、
これが難しくてビショビショになってしまった。

それにしても水で流すとはいえ節水だ。
床にイロイロ散らばるだろう。
裸足の人もかなり多いこの国は、
「おおらか」でないと暮らせないなぁ。

  やさしい話・1
3/13 (日)

「やさしい」雑記を書こうと思った。
「優しい」と「易しい」。
日本語ってかなり面白い。
音が同じだと意味も根が同じになる。
(違うこともあるけど、それは気にしないで・・・)

「やさしい」ことから学ぶモノは多い。
「優しい」ことは重要な意味を含んでいる。
この世の「存在」の意味を含んでいる。
ワシは30年以上かかって解った(つもり・・・)
この雑記でも、その断片を度々書いてきた。

この世は「優しい」から「存在」できていた。
そして「易しい」から「存在」できていた。
「優しい」歩き方をしないと苦しむ。
「易しい」方向に行かないと苦しむ。
実に当たり前だった。

実に当たり前に気づくまで30年もかかった。
ワシって・・・アホなのね・・・。
だからワシはアホの味方だ。
アホは可愛い。
自分を可愛いと思えないと苦しむ。
当たり前だよね。
これも「優しい」から学んだ一つだ。

嘗て今よりもアホだった大アホの頃、
「厳しくなければ成長しない」
と本気で思っていた。
「難しいから面白い」と思っていた。
実に薄っぺらな表面しか観ていなかった。

今も立派な(?)アホだけど、
「優しくなければ成長しない」
(まぁ、成長はどうでもいいんだけど・・・)
「易しいから面白い」と理解できる。
精神世界は表面に仕掛けがあったんだ。
表面の役割は「ヒッカケ」だったと気づいた。

「氣」というモノを体で扱うようになり、
「氣」はウソをつけないと気づいた。
表面を最初から通り貫けていた。
頭(理屈)はむしろ邪魔だった。
気づいてしまえば、簡単な事だった。

ブッちゃん(仏陀)はこの世を看破した(らしい)。
そして最初に話した相手は森のケモノ達だ。
ウサギや鳥やタヌキに理解できる話だ。
生きとし生けるモノ全てが理解できる話だ。
難しいわけがない。
当たり前だった。

「優しく・易しく、生きると楽だよ」
それだけだった。

  やさしい話・2
3/14 (月)

字が読めない、書けない。
生物は、それが大部分だ。
字を読んだり書いたりする生き物は特殊だ。
出来る人類種でも、ほとんど自国の言葉だけだ。
自国が他民族国家の場合、言葉も一部しか理解できない。
一部も読めない、書けない人類種だってかなりの割合だ。

言葉は素晴らしい発明ではあるが、
言葉で通じなくても理解できる話が「やさしい話」だ。
多分、ブッちゃんはそれをやってのけた。
「優しい」と「易しい」は深くて広い。
難しくも厳しくも無いが、とても大きい。

誰にでも、どんな段階でも当てはまる。
それが「優しい・易しい」ということ。
何処までも広く、何処までも高く、深くある。
考えなくても理解できる。
考えていては、理解できないかもしれない。

「優しい・易しい」事に比べたら、
厳しいことや難しいことなど薄っぺらだろ?
「有限の人生の無駄使いだよ」
ブッちゃんは自らの厳しい修行体験をそう語った。
ブッちゃんはその頃はマジメだったから、
ホントに厳しい(命懸けの)修行をしていたらしよ。

「やさしい」事の大きさ、高さ、深さに気づいたら、
ブッちゃんは「いいかげん」になった(と思う・・・)。
何しろ人間もタヌキも一緒に話をしているんだ。
ブッちゃんは「メンドクサガリ屋」になったのかもしれない。
ウソも平気で言うし・・・。

その行いは常に「弱いモノ」の味方(観方)だ。
苦しむモノ、困っているモノに目を向ける。
上を目指すことが「厳しさ」「難しさ」だとすれば、
それは「無駄使いだよ」とやさしく説いた。
でも・・・愚かな弟子達は解らなかったようだ・・・。
(教え方が悪いのかも?・・・ブッちゃんの・・・)

精神世界を彷徨すると「難しいモノ好き」が多い。
ワシもそうだったと思う。
だから迷っていたのだと思う。
「難しいモノ」「厳しいモノ」に価値があると錯覚し、
(自分が)上に行くことを目標にした時期があった。
「やさしい」ことに目を向けるなんて思ってもみなかったなぁ。

イキナリこの仕事に出会い、入ってしまい、
「苦しみ」と「死」に出会うようになった。
「悩み」と「悲しみ」の人達を触るようになった。
もう理屈遊び、言葉遊びの時期を通り過ぎていた。
「やさしい」ことの大切さに気づかされた。
「やさしい」ことの大きさに出会う事ができた。

  やさしい話・3
3/15 (火)

理屈で考えていた時期、
他(人)の手伝いなんておこがましい。
それは傲慢だと思っていた。
他(人)を救えるのは自分が完成してからだ。
自分が高いところへ行けたなら、他へ手を出せる。
自分が力を付けてから、他の役にたとう。
本気でそう思っていた、薄い情の時期があった。
それこそ傲慢だったのになぁ・・・・。

目の前に苦しむ人がいる。
目の前で溺れている人がいる。
そんな時に理屈を言うのは大バカヤロウだ。
自分の立場なんて関係ない。
すぐ抱きしめるのが当たり前だ。
すぐ飛び込むのが当たり前だ。
綱渡りのこの仕事を続けるうちに、
そんな当たり前に気づくようになった。
ワシは大バカヤロウだったんだぁ・・・。

(自分の成長や進化なんてどうでもいいが、)
「進化を意識して進化するはずがない」と気づいた。
ワシは一番肝心なことが、解っていなかったのだ。
この世の仕組みはヒネクレていたのだ。
オチャメに創られていたのだ。

進化や成長が必要だと仮定するなら、
それは死んでからの方が時間がたっぷりある。
あの世にいる期間なら、たっぷり修行できる。
この世は自分の成長を意識する舞台じゃない。
多種多様なモノ達と一緒に生きている舞台だ。

ブッちゃん(仏陀)はマジメで向上心の強い弟子に言った。
「悟ろうとするなよ。そんなのホットケ!」
このオヤジギャグがウケてホトケと言われるようになった。
魅力的なオッサンは笑顔とギャクで周りを融(解)かした。
でもブッちゃんが入寂するとオヤジギャグも少なくなった。

(愚かで)マジメな弟子達は小難しい理屈を書きとめた。
「やさしい話」に難解な解釈を付けていった。
「イロイロなモノを放そうよ」と説いた御師匠様に逆らい、
自分達でないと解説できないモノを「付けて」いった。
「フッ、頭の良い者だけが理解できるのさ・・・」
エリート意識は昔からイヤラシイなぁ・・・。
ワシ、イヤラシかったんだぁ・・・
いや、別の意味で今でもイヤラシイかも・・・

後にこのインドにマザー・テレサという聖女が現われる。
ブッちゃんと同じことをした。
同じことを言った。
「苦しみ」「深い悩み」「死」を目の前にして、
厳しさや難しさは邪魔になるが役に立たない。
プロフェッショナル・ヒーラーとして断言できる。

「やさしい」だけが必要で、
「やさしい」だけで充分だった。
(充分じゃないとは思うが、とりあえずはいいでしょう・・・)

  やさしい話・4
3/16 (水)

「やさしい話」は言葉でもできるが、
ただの言葉だけじゃ足りない。
「やさしさ」は相手が「やわらぐ」ことだ。
相手が解放できる事だ。
相手がその場で変われる事なんだ。

言葉を使うなら、言葉で感じるモノが必要だ。
言葉から染み入るモノが必要だ。
言葉で飾り立てると、内側に響かない。
見えないモノを言葉に乗せる。
ワシ流に表現するならば、
言葉という乗り物で「氣」を届けるのだろう。

同じ話でもブッちゃんと弟子達は違った。
一言一句、同じ話をしても、ブッちゃんほど響かない。
「話」を覚えても、乗せてある「氣」に気づかなかった。
難しい「氣」ではない。
「やさしい話」だから「やさしさの氣」だった。
実に素直なモノだった。

言葉には「力」があるが、「力」を使わない。
頭の良い弟子達は「力」にこだわった。
「力」は使わない為にもある事を理解できなかった。
「力」を身に付けても使わない使い方(?)がある。
使わない「氣」が「やさしさ」になる。

例え話にしよう。
力の強いレスラーが、その力をフルに使わない。
喧嘩相手をそっと抱きしめる。
(ちょ、ちょっと気持ち悪いかも・・・)
それが「やさしさ」というものだ。
すると、別の何かが発生するようだ。
(オトコ同士の愛・・・とか茶化さないで・・・)

ものすごい「力」がある。
あるから使わない。
そして、そっと抱きしめたから、
多くの奇跡が起きた。
マザー・テレサという聖女は、
そういう「やさしい」人だった。

言葉は道具の一つ。
時には「歌」が「やさしい話」になる。
「微笑み」が「やさしい話」になる。
瞳の温もりが「やさしい話」になる
手の温もりが「やさしい話」になる。

ワシは不マジメな生き方をしているが、
プロフェッショナル・ヒーラーとしては
「やさしい」使い方を学ぼう(気づこう)と思う。
とても頼りになる御筆先様という味方がいるが、
文章の言葉でなく、「氣」を言葉に乗せている。

時々・・・上手く乗せる事ができている。
そう思うことが多少増えたかな?(自画自賛)
だから文体が統一されてなくても、
コマギレな節であっても気にしないでね。
ワシはちっとも気にしてません・・・(開き直り)

  やさしい話・5
3/17 (木)

1997年9月。聖女帰天。
同じ年の7月にワシはインドにいた。
マザーテレサとは直接会えなかったが、
その時一緒だった龍村師匠の実姉、和子先生が、
直後に行ったマザーハウスでの「奉仕」を、
04年2月のコラムで書かせていただいた。
(本館のHPにありますよ〜)

マザーテレサの言葉は魂に染み込む。
不マジメなワシが姿勢を正してしまう・・・。
その中の一つにこういう言葉があった。

「私は正しくても不親切で冷淡な奇跡より、
間違いでも優しさと慈しみを選びます」

今のこの仕事をしていなかったら、
崖っぷちの人達と接していなかったら、
鈍感で独善のワシではこの言葉の深さが響かなかったろう。
考え方の違い、生き方の違いとしか思わなかったろう。
状況が理解できなかったろうと思う。

ワシが(一時)追い求めていた「正しさ」なんて、
とても、とても、とても恥ずかしいと思った。
ワシは怖くてマザーテレサを追いかけられないが、
プロフェッショナル・ヒーラーとして同じ方向を目指そう。
「いいかげん」なワシでも、魅かれる光には向かうものだ。

今でもワシには癖がある。
治療や指導に「正しさ」を持ち込もうとする。
その時、この言葉を思い出す。
(いや、思い出さない事も結構あるなぁ・・・)
思い出せば、一瞬にして光が観える。
光は・・・やさしい・・・。

「やさしさ」の姿を知らなかった頃、
ワシは「やさしさ」を固定概念で観ていた。
「優しさ」の大きさも柔らかさも凄さも知らなかった。
「易しさ」に深さがあるなんて思いもよらなかった。
「厳しい優しさもある」と勘違いはしていたけどねぇ。

ホンモノの「やさしさ」を受け取ると、
「やさしさ」の大きさに気づいてしまうのだ。
でも、それは受け取れる分だけの気づきだ。
「やさしさ」に底はない。
(あるかもしれないけど、ワシには判断できない)
だから、どんな人でも、いつでも「気づき」がある。
ワシが受け取れた量なんて高が知れている。
だから、いつまでも追いかけることが出来る。

マザーテレサは祝賀会の御馳走を前にして、
「今日は断食の日です」とウソを言った。
主賓が食べないのでは他の人が食べられるはずがない。
「では、お腹を空かせている子供達に配ればいいでしょう」
さっさと会場を後にしたマザーテレサの瞳は笑っていた。
「やさしさ」ってオチャメな姿だってするんだ。
残された人達のそれぞれは、何に「気づき」、
どんな「やさしさ」を受け取っただろう?

グレちゃん(創造主)がこの世を創ったのは、
「やさしさ」だからだと思っている。
だって、かなりオチャメに創られているもの。
生きているモノが可愛くって仕方ない。
たとえ、それが、どんな状況であろうとも。

  やさしい言葉・6
3/18 (金)

そういえば思い出した。
故御師匠様が何度も言った。
「考えるなよ。人間はバカなんだから」
御師匠様の言葉は素直だから深い。
意味が解る(気づく)まで何年もかかる。
そして、その言葉が「やさしさ」に溢れている事にも。

御師匠様に付いていたジャーナリストがいた。
何しろ、常に奇妙(奇跡)がおきる。
ネタに困らない(と思ったかどうか知らない)。
あるとき御師匠様に言われた。
「小学生がわかる文章にしなさい」
そして、そのジャーナリストは生まれ変わった。
ベストセラーが出て、一つの分野の代表となった。

中国で一緒だった時に親しく話を聞いた。
(故御師匠様と行った最後のツアーでした・・・)
プロのジャーナリストの姿勢を観た。(これも凄いけどね)
そして「易しく」書くことの難しさは、
それまでの頭が邪魔している事を語った。
「易しさ」は「優しさ」から出ている。

ジャーナリストは他人に解る文章が仕事だが、
ワシは独善世界を愉しんでいるだけだ。
他の人が解ろうが悩もうが知ったことじゃない。
ワシ独特の表現で好きなように書いている。
でも、ワシも低俗が好きな欲人間だ。
好きなように独善で書いて、売れないかなぁ・・・。
棚からぼた餅と抹茶とマンガ本が落ちてこないかなぁ。

もう一人の龍村師匠の指導が何故凄いのか、
この「やさしさ」に気づいたら解けた。
物凄い能力を「やさしさ」に変換したからだった。
誰にでも解る指導は、誰にでも出来るわけじゃないなぁ。
能力はストレートに使う為だけにあるわけじゃなく、
変換する為にもあるんだなぁ・・・。

昨年、一昨年とセミナーの(ヒーリング)講師を頼まれた。
受講生として道場に通っていた時に気づかなかったが、
講師の立場から師匠を観た時、別の凄さに触れた。
凄さの正体は「やさしさ」だった。

二人の師匠様に出会った。
それだけで、ワシはラッキーだった。
ワシは不肖で不マジメだが、ラッキーに変わりはないぜ。
そんなワシが一片でも受け継ぐモノがあるとすれば、
「やさしさ」以外にない。

とはいえ、ワシも勝手に頭を回す癖があるからなぁ・・・
(どうでもいいけど、自慢も卑下もしてないよ)
そこがハンディだが、ハンディは忘れるに限る・・・
替わりに天賦の才能もある。
「いいかげん」だ。
うらやましいだろう。(これは少し自慢だ!)

  やさしい言葉・7
3/19 (土)

またまた思い出した。
「素直になれ。素直になれば解る。」
この言葉の深さも何年もかかって染みている。
ワシの氣功療法は(自分が)空(カラ)でないと使えない。
(自分を隅にどけるだけで、仏教の「空」ではない)
素直度で流れ込む「氣」の大きさが変化する。

「素直になれば観える」
龍村道場での求道ヨガに通った3年間。
体で覚えたのも「素直」だった。
ヒネクレが趣味のワシは「素直」と相性がいい。
(注:歪みとヒネクレを区別)
「ヒネクレ」も「素直」も同じ根だと知った。
ワシの場合は氣功とヨガの相乗効果で加速した。

「素直」も奥が計り知れない。
何処までも進むことができる道だ。
その「素直」とは「やさしさ」の別名だった。
「優しさ」と「易しさ」の別名だった。
楽な道は「素直になれば解る」
求めるモノは「素直になれば観える」
(ストレートの素直じゃ恥ずかしいから、
ワシはヒネクレを愛用しているけど・・・)

この世はヒネクレている。
放せば、持っていることに気づく。
観えていたことに気づく。
誰でも「やさしい」ことに気づく。
何もかも「やさしい」ことに気づく。

師の師(故沖師)の師はマハトマ・ガンディー。
やっと聖ガンディーの生き方の一片と共鳴できた。
何故、あんなにも「やさしい」人だったのか、
全ての解決に「やさしさ」を使ったのかわかる。
(いや、わかってないかもしれないなぁ・・・)

師の師である故沖師が初めてガンディーに会い、
「ヨガとは何でしょう?」と尋ねた。
「知りたかったら、私の生活を観て実行しなさい」
そして生活を共にした。(だから生活ヨガともいう)
(ガンディー聖師にとっては初めての日本の青年で、
たいそう可愛がられたそうです。)

ワシには聖テレサと聖ガンディーがカブってしまう。
その質素な姿や行動力の素直さが同じに思える。
魅力的な笑顔がとても似ていると思う。
悲惨なモノを体で受け止めた圧倒的な大きさは、
「やさしさ」だけで融(解)かしていった。
素直な笑顔は「やさしさ」の大きさだと思う。

伝記などではマジメな表現が多いが、
実際はイタズラ好きなオチャメな偉人だった。
子供達が好きで、子供達に好かれるのも、
「素直なやさしさ」と共鳴するからだろう。

  やさしい話・8
3/20 (日)

ワシは「珍事」と「変」を求めてはいるけど、
ワシは「真理」や「愛」を求めなさいと言わない。
当たり前だよねぇ・・・いいかげんだもの・・・。
言う事とやる事が気まぐれなんだもの・・・。
「愛」を求めるより「愛人」を求めよ!
でも「変」な「愛人」は求めないぞ、オー!
(す、すんません・・・。
時々グレないとバランスがとれないもんですから)

そんなナマケモノのワシだって思う事はある。
もし「愛」が難しいものなら、
もし「真理」が困難な相手なら、
届くのは一部の人だけだろうなぁ・・・
少なくてもワシのような根性無しには無理だ。

もし「愛」や「真理」が「やさしい」モノなら、
誰でも理解し、使えるものだろうなぁ・・・。
「愛」や「真理」が「幸せ」への道ならば、
誰でも平等に理解し、使えるように用意しているだろうなぁ。
神様という超偉大な魂(?)があるなら、
人間だけとか、人間の一部だけに限定なんてことはない。
ナマケモノも根性無しも嘘つきも幸せになれると思う。

でも仕掛けはあるだろう。
神様はオチャメだと思うから。
そのカギが「素直(自然体)」なんだと思う。
そのカギを使った時にだけ「扉」は開く。

人の社会は「素直」だと利用され、ダマされる事もある。
「やさしい」から苦労する。
「やさしい」から泣く事もある。
人の仕組み(社会)と、この世の仕組み(自然)は別だ。
重なる部分もあるが、社会は「人の結界」内だ。

結界内(社会)で暮らせば、自然体は変わりモノになる。
素直に生きると、摩擦さえ生じる事がある。
「やさしい」生き方が難しくなる。
人の仕組み(社会)は、歪んでないかぁ?
自然の仕組みに戻した方がいいんじゃないかぁ?
それは一人一人の「意識」で戻せるぞ。

ワシは「愛」や「真理」はどうでもいい。
最初から最後まで持っているし、包まれている。
そんなことより、見失って苦しむ人を相手にしたい。
「難しいことはない」と無責任に言おう。
責任は・・・神様がとってくれている。
ワシは「神を信じている」

苦しみ、悩みから逃れるのではなく、
もちろん立ち向かうのでもない。
原因探しなんてツライ事もしなくていい。
「やさしくなる」
それだけでいい。
それだけで、楽になれる。

  やさしくない話・1
3/21 (月)

昨日までの「やさしい話」の続きとして書きたくなかった。
多少文章の「氣」が荒れてしまいそうだからだ。
1月の阪神大震災の悲惨な混乱が続いている最中だった。
無差別サリン事件という殺戮が東京であった。
あれから10年経った。

その前年の5月。
奈良県生駒山にて龍村先生のヨガに触れ、
目からウロコやら、耳から耳栓やらが落っこちた。
「これがヨガなら、学びたい!」
そして11月に再び触れ、その思いは強くなった。

ワシはアホのワガママだ。
当時、今より痩せていたが愛しいかどうか微妙な妻と、
三歳と一才の子供の事など(一時的に)忘れていた。
いや、今でもしょっちゅう忘れる。
ワシは特技だと思っている。

龍村先生に「弟子入りしたい」と直訴した。
アホのワガママでもワシは社会的常識を知らないわけじゃない。
生活はどうする? 生活費はどうする?
頭の隅には社会的常識があったが、口が勝手に言ってた。

その当時は故御師匠様(氣功)を追いかけていた。
時々は素面に戻る事もある。
何故こんな事をしているのか不思議だった。
一応一家の主(ワシのことです・・・)が仕事もせずに、
白髭のオッサン(御師匠様)を追いかけていていいのか?
それが、更にヨガも追いかけだしたのだ。

故御師匠様が急死し、やっと自分の行動の意味が解る。
そういう事だったのかぁ・・・
さっさと逝ってしまう予定だったのかぁ・・・
何とか間に合ったのかもしれない。
こうなると運命だか宿命だか知らないけど、
進むしかないのだろうなぁ・・・。

同じように頭で考えた行動ではなかった。
龍村先生に学びたいという衝動だけだった。
ワシなら断る!(可愛いオナゴならともかく)
だが龍村先生は優しい。
「考えている事があるから、後ほど連絡します」

サリン事件はその連絡が来た頃だった。
「ホリスティックヘルスコンサルタント養成講座」
10年前としては全く新しい試みだったろう。
四月から一期生を募集する内容だった。
もちろん、すぐ申し込んだ。
そしてワシにとって龍村先生は龍村師匠となった。

あの事件で「ヨガ」は社会的拒否反応が起こった。
「ヨガ」はカルト集団の入り口に利用されていた。
「ヨガ」を理解しないまま日本に広まった弊害だった。
「ヨガ式健康体操」くらいならまだいい。
本来「結び・調和」の意味を持つ言葉が、
「自己進化」や「能力開花」などと勘違いされたからだ。

(本来の)ヨガを生活の一部として融(解)かせば、
結果として自分の進化や成長はあるだろう。
だが目的をそこに置いたら絶対に成長はしない。
進化の仕組みは自己中では退化するように出来ている。
当たり前なんだけどねぇ・・・

調和(平和)を示した深い道標を理解しないで、
自分の進化、成長の為に修行と称し使っている。
自他を認め、融(解)かし合う技術と哲学なのに、
「霊性の進化を意識する」のが欲望だと気づかない。
あの狂団は「ヨガ」の正反対を修行(?)していたのだ。

  やさしくない話・2
3/22 (火)

独善なワシは常に言い、書く。
マジメ(硬い純粋)は自他を壊す。
あの連中がマジメでなかったら殺戮はしなかった。
事実として、不マジメの信者は存在しない。
狂(凶)人は社会に結構いるし、狂(凶)祖にもなる。
マジメは騙しやすいし、騙されやすい。

人の社会(組織)はどういう仕組みか、
人の社会の常識はどう作られているか、
素直になれば目が観える。
ある意思をもった組織を維持するには、
マジメな者達を利用するのが一番だ。
そしてマジメな者達を作り出す仕組みにする。

戦争はマジメじゃなければ起こらない。
争いはマジメじゃなければ起こらない。
マジメは実にたやすく「正しさ」に従う。
あの狂祖は「正しさ」で信者を集め、
「正しさ」の下で殺戮をしてきたのだ。
「正しさ」なんてどうにでも作れるのだ。

「人間は一時間先も解らんほどアホなんだ」
ならばどう生きるか?
多種多様な生き物、考え、生き方があるんだ。
「正しさ」が判断できないモノ達が集まった星だ。
それでも共生する方法がある。
「正しさ」を軸にしたらとても難しいが、
「やさしさ」ならば解決する。

自分(達)だけが「正しさ」を掴んだと思い込んだら、
他を導こうとし、従わせようとする。
「正しさ」にはその魔力がある。
そう「正しさ」は魔の力なんだぜ。
(こういうことを書くと各宗教組織からは、
ワシはサタンの仲間だと思われるかも・・・)

無血で社会を暮らしよくしようとした聖ガンディーは、
「ヨガ」という方法でインドを独立させた。
あの狂団が行った殺戮とは正反対だ。
「ヨガ」は自他が平和(調和)になる方法だ。
(自分の)能力を高める事を目的としたヨガは、
真髄の抜けたニセモノだと知って欲しい。

本来のヨガは「やさしさ」を学び、
「やさしさ」に変わる。
そこには「やわらぎ」と「やすらぎ」があり、
「正しさ」を求める「厳しさ」は無いのだ。
(段階があるが、ここでは無いとしようね・・・)

ヨガの達人、ブッちゃん(仏陀)のセリフを思い出そう。
「厳しい修行は害にはなるが、他の益にはならない無駄な道だ」
未だに自分(達)の為に厳しく修行している信者がいる。
そのマチガイから多くの人の命を奪ったのに、
未だ気づかないで修行する信者がいる。
TVに映った信者達の顔はマジメだった。
困ったもんだなぁ・・・。

  やさしくない話・3
3/23 (水)

イラク人虐殺開始から2年経った。
あれは戦争じゃない。
最初から圧倒的な力の差がある。
普通に暮らす生活者を意図的に殺している。
親、子供、赤ちゃん、老人、病人を無差別に爆撃している。
「正義」という虐殺は今もイラクで続いている。

その前年にはアフガン虐殺があった。
そして虐殺参加国は知らん振りをした。
今回のイラク虐殺参加国も同じ振りをし始めた。
「この戦争はマチガイかもしれない」
爆撃してから言うセリフか?

戦争はいつだってマチガイなのだ。
そんな、当たり前さえ判断できぬ国が大声を出す。
子供や老人や病人の上から爆弾を落とす。
「力」を基準とする者達は大声を出す。
「力」で無理やり従わせる後ろめたさを隠す為に。

「力」の無い者達は、いつも小声だ。
その小声を聞く感性が(明るい)未来につながる。
声無き声を聞く「やさしさ」が平和を創る。
そんな、当たり前さえ解らぬ段階の人間達だ。
人類に未来があるか、かなり微妙だぜ。

ワシは根性無しの「いいかげん」な生き方をしている。
だが戦争を支持するような卑怯な生き方は出来ない。
他(人)を犯(侵)す者達の理屈は聞けない。
それで平気で暮らす度胸は無い。

解決、解放は「力」では出来ない。
当たり前だよねぇ・・・。
当たり前なのにねぇ・・・。
「力」は「理屈」で武装する。
どんな「理屈」でも簡単に作れる。
そんな薄っぺらな「理屈」が通る社会だ。

「智慧」でなくては解放できない。
当たり前だよねぇ・・・。
「智慧」は「やさしさ」で行動するもの。
「理屈」に「智慧」は内臓してないのだ。
当たり前だよねぇ・・・。

あの狂(凶)団やあの巨大狂(凶)国達。
共通点は「正しさ」という「理屈」。
「力」という基準での「行い」。
支えているのはマジメな信者だ。
(戦争を支えているのは、いつでも敬虔な○○教信者達だ。
そして卑怯な従者達(日本など)だ)

ワシは信者にケンカを売るつもりも買うつもりもない。
マジメが悪と思っているわけじゃない。
(騙されやすいのは事実だし、マジメを押し付けるのは迷惑だけど)
「やさしさ」が解決だと、小声で書いているだけだ。
自他共に楽に息をしたいから、言う。
争いは「やさしさ」で融(解)ける。

  家族の話・1
3/24 (木)

ワシの家族の話じゃない。
ワシ一人でも充分恥さらしなのに、
一族や家族の恥まで書くつもりは無いぞ。
ワシはオープン系のスケベだがノーマルだ。
露出趣味のマゾじゃない。
(注:政治家に偏見はあるが、性事に偏見はない)

広辞苑だか後楽園だか東京ドームだかで調べると、
「氣は万物形成・森羅万象の根元」と書いてある。
我家より大きなモノが言っているのだから異議は唱えない。
「寄らば怪獣の影」というではないか。
(かなり今日はハチャメチャですぅ・・・)

「氣」が万物・万象を創りだすのなら、
「氣」の立場からなら、何でも言えるし書ける。
どうせ読む人、聞く人だって判断はつかない。
一応プロのワシだって解らないのだから、オアイコだ。
(オアイコって、こういう使い方でいいんだぁ・・・納得!)

物質だけじゃない。
音も心も縁も「氣」の影響下だ。
ワシの性格も首相の無責任も「氣」の影響だ。
話が果てしなく広がって収集がつかなくなるのも、
全て「氣」の影響であり、「氣」が創りだす。
あぁ・・・もう・・・わけがわからない・・・
これも「氣」の影響なんだなぁ・・・(しつこい!)

ワシは遅い晩飯を食べながらTVを見ていた。
ワシは一日二食だ。
本妻は一日四食らしいので、夫婦バランスがとれている。
(夫婦バランスって、そうなんだぁ・・・参考になるね!)
最近は凄惨なニュースが多いが、世の中マヒしているみたい。

殺人事件は現実が小説やドラマを上回っている。
勝負していたら現実の勝ちだが、勝ちに価値は無い。
わけもわからず「勝ち組」編入試験なんて受けない方がいい。
人生に「勝ち」「負け」を持ち込むのは、
ちょっと生き方が狭すぎないか?
それぞれの人生だから、余計なお世話だけど・・・。

話が進まない・・・
何の話だっけ?
人間20歳過ぎから脳細胞は死滅する方が上回るとか。
笑うとある程度復活するが、いずれにしても減少する。

話の途中で言葉が出てこなくなる。
そのうち、話そのものが分からなくなる。
分からなくなった事を悟らせまいと、アレコレ話す。
ますます何の話だか分からなくなる。
「じ、じゃぁ、そ、そういうことで・・・」
人生は勝ち負けじゃなく、老化との順応かもしれないぞ。

そうそう、今日のテーマを見て思い出した。
家族の話だったね。
でも時間がきたので、また明日・・・。
(明日になれば忘れているなぁ・・・)

  家族の話・2
3/25 (金)

脳細胞の減少萎縮の話の方が面白いのだが、
今更テーマ変更するのもメンドウだし・・・。
この「メンドウ」という気持ちは萎縮している証拠だ。
脳は体で感じる事を判断し、反応する。
でも萎縮すると判断も反応も放棄する・・・。

ワシのナマケモノは脳の責任だったのだ。
根っからのナマケモノじゃなかったのだ。
少し・・・ガッカリ・・・。
まぁいい。
都合の悪い事は脳が責任とってくれればいいや。
ワシに言わないで、脳に直接言ってね。

脳は体に反応という指令をだすが、
体の行動の進行を随時チェックしながら、次の指令を出す。
ところがそんな細かいチェックは「メンドウ」になる。
すると思わぬ不意打ちのようなアクシデントが起こる。
脳細胞の減少萎縮は他人事じゃない(あ、当たり前か・・・)

オシッコが終わり、一物をパンツの中に収めてチャックを上げる。
ところが脳がサボると、終わり切ってないのに、
「終わったと思うよ」と無責任に収める指令を出す。
収めてから漏れる水分に戸惑うボク・・・
何故か、揺れる眼差し・・・

あるいは一物が収まり切ってないのに、
「多分、大丈夫だよぉ」とチャック上げの指令を出す。
可愛い一物ちゃんはイキナリ柔肌を凶暴なチャックに挟まれる。
ウッ!!い、痛ぇぇぇぇ・・・・
何故か、潤う眼差し・・・

このように脳細胞の減少退縮は冗談事じゃない!
ホントに痛ぇんだぞ。
ナマケモノでいいわけがない!
「いいかげん」でいいわけがない!
しっかり働け!
人生は勤勉と快便が大切なんだ!

ワシの普段の主張など信じるな!
(い、いや、信じる人はいないと思う・・・)
ワシはチャックを挟んだ瞬間から、
「脳細胞、しっかり働け推進キャンペーン」賛同者だ。
リラックスなどと、寝ぼけているんじゃねぇ!!
ワシは鬼コーチになって、脳にムチを入れる事にした。

ピシッ!(ムチの音です・・・)
ますますイジケルなぁ・・・。
どうやら、快感の伴わないシゴキは逆効果だ。
トントン!
力を抜いてムチを入れる。
うん、これなら何とか「その気」になるみたい・・・。

という事で、脳細胞復活刺激法としては、
軽く脳に振動が伝わる程度のムチがいいようです。

今日もテーマの「家族」から外れてしまった・・・。

  家族の話・3
3/26 (土)

御筆先様の気が進まない。
ワシも気が進まない。
だからグレた文章でウロウロしている。
テーマの「家族の話」に乗り気にならない。
TVで毎日のようにニュースになっている、
悲惨な家族の話が発端だからだ。

でもねぇ・・・
たまには気の進まん事もしなけりゃなぁ・・・
家族を「氣」の立場から観る人は少ないようだし・・・
しょうがない、少しマトモに書くか・・・
イイカゲンだから時々「マトモ」にもなるのだ・・・

ワシは昨年、茨城県の小学校PTAで講演をした。
その時のテーマが「親子関係における「氣」の話」
閉じこもったり、殺傷するほど荒れる小学生を、
親として見詰めなおすヒントとして「氣」の立場から話した。
基本的には「家族関係の「氣」の話」だ。

「家族」というのは必ず夫婦から始まる。
例外は無い。
法律的な夫婦でなくてもいい。
オトコとオナゴのツガイだ。
途中からどちらか欠ける事もあるが、
始まりはツガイからだ。

家系図などで個人と個人を線で結ぶ。
その線を「氣綱(絆)」という。
あれは「氣」の「綱(通路)」で出来ている。
直線の横線がツガイの「氣綱」だ。
愛人が幾人いても、それぞれがツガイだ。
それぞれが直線の「氣綱」で結ばれている。

「横の氣綱」は結ぶ事でつながっている。
最初からほどけそうなユルイものもある。
嘗てしっかり結ばっていても、ほころびの氣綱もある。
最初ゆるくても、きつく結ばれていく氣綱もある。
細くなってしまったり、傷だらけの氣綱もある。

双方にそれぞれの氣綱があり、
お互いの意思で結んだのが「横の氣綱」だ。
だから意思が消えれば、ほどける事もある(別れ)。
ある意味、とても頼りない氣綱なのだ。
(意思が消えても、底でつながる事もある。
これがオトコとオナゴの不可思議な部分だ)

とても頼りない「横の氣綱」から始まるのが「家族」
「家族」は「一族」につながっている。
「一族」は全ての「人類」につながっている。
「人類」は「哺乳類」につながり、
やがて「生きとし生けるモノ」全てにつながっている。

  家族の話・4
3/27 (日)

オトコとオナゴのツガイが一緒に暮らす。
特別な仲間として一緒に歩く。
そこにあるのは「夫婦縁」というやつだ。
(社会的な夫婦という意味ではない)
「愛」や「恋」と別次元の話だ。
愛してなくても、恋してなくても暮らせるし、
憎しみ合っても一緒に歩く事もできる。

更にいえば、一緒でなくても始まる。
一度だけの関係でも家族は始まってしまう。
ワシは「家族のあるべき姿」を指摘しているのではない。
単なる事実を書いている。
好き嫌いと別な仕組みで「家族」は始まるのだ。

「心の結び」と「氣の結び」は違う。
好き嫌いの「感情」や「恋」は心の結びだが、
家族は「氣の結び」で作られるのだ。
ワシも美貌な両親の子供が好みだったが、
美貌と貧乏を取り違えられた・・・。
貧乏が嫌でもないが、決して好みじゃない。
それに・・・飽きた・・・。

「氣の結び」での「体の結び」は形を創る。
「氣は万物形成の根源」なのだ。
新たな生命という形を創りだす。
それが「子孫」という未来だ。
今の貴方だ。
それを取り巻くのが「家族」というものだ。

「心の結び」での「体の結び」は、
満足度や幸福感(幸福と区別してね)の確認になるが、
形は創らないし、創れない。
形が出来たなら「氣の結び」があった証拠だ。
もちろん「氣の結び」と「心の結び」の比較は意味がない。
別次元同士を比べる事自体、無理がある。

家族は「氣のつながり」で出来ているが、
必ずしも「心のつながり」があるわけでない。
「心」は不安定な幻のようなモノ。
「氣」は万物の根元となる確かなモノ。

人と人はほとんどが「心で結ぶ関係」だ。
だから別離がある。
だが、家族関係は「氣で結ばれた」特殊な関係だ。
だから別離は出来ない。(心的な別離はある)
出来上がった家族の中で離婚は別離にならない。
嫌かもしれないが、法律や心とは別な次元の関係だ。

確かなモノの証明として「縦の氣綱」がある。
親子の絆(氣綱)は縦の線で表す。
「横の氣綱」は双方の意思によって結ぶ氣綱だが、
「縦の氣綱」は結び目の無い「共通の通路」だ。

最近になり、DNAとして科学が研究しているモノだ。
肉体が無くなっても切れる事のない「氣綱」だ。
古からの智慧に、少し科学が近づいている。
「氣」に科学が近づいてきた。

いつでも不安定の心を信じるわけにはいかない。
人の心は不出来なモノなんだ。
だが、家族は信じていい。
「氣」はウソも裏切りも出来ない。

  家族の話・5
3/28 (月)

子(貴方)は何処から生まれたか?

家系図は智慧の応用図だ。
オトコとオナゴの「横の氣綱(絆)」の間からだ。
女親でも男親からでもない。
間から生まれている。

だからワシは「愛」はアイダ!
とシンプルに答える。
「愛」は「間」にのみ発生するし、間の無い物質はない。
この世は「愛」に包まれている。
(ちなみにワシの独善語録には、「恋」はコイダ!
「故意」な「好意」が恋だ、というのもある)

「愛」の無い子は最初から存在しない。
この世の「生きとし生けるモノ」は全て当てはまる。
「愛」から生またもの以外は、この世に存在できない。
今貴方がいるのなら、「愛」から生まれ「愛」に包まれている。
こんなの、当たり前のことなんだ。

ならば子(貴方)の親は誰か?

簡単でしょ。
「両親の氣綱」が本当の親であり、
両親はキッカケを作ったのオトコとオナゴだ。
子(貴方)はオトコとオナゴが介入したが、
本当の創り主(親)は間(愛だ)。
親(愛)のいない子(生物)はこの世にいないのだ。

ワシはキリストの言葉を解説しているわけじゃない。
単純な事実をいっているだけだ。
見えない世界からの事実を書いているだけだ。
キリちゃんは難しい言葉を話したのじゃない。
極当たり前の事実を話しただけだと知った。

親子関係に話を戻す。
子が回復する大きな要素として「縦の氣綱」がある。
「共通の通路」だから瞬時に影響する。
子にとっての親は生きている基盤でもある。

本当の親は(通常の)両親の氣綱の間(アイダ)。
両親の間がしっかりしていれば、
子にとっての基盤がしっかりしている。
不安定なら、子も不安定だろう。
地面が揺れる不安定を想像してみればいい。

これ以上のヒントはいらないだろうが、
肉体的や法律的に片親でも同じ事だ。
母子家庭でも父子家庭でも同じだ。
「氣」は時や空間に左右されない。
間(愛)があったから生まれているのは事実だ。
(心の感情より深い話をしているよ)

親は時を戻せばいい。
その時はしっかりしていたと思い出せばいい。
どんな状況下でも愛し合ったのは事実だ。
子にとっての基盤はその時に戻る。

  家族の話・6
3/29 (火)

「縦の氣綱(絆)」は親子にのみ創られる。
他のあらゆる関係と別な次元の関係となる。
「共通の通路」を持つという特殊な関係だ。
そしてこの特殊な関係を持たない生物もいない。
特殊は・・・普遍的なものだ。
この世の仕組みはヒネクレている・・・。

どんなに愛し合った男女でも「共通の通路」はない。
共通の根はあるだろうし、共通の思いもある。
「氣」の共鳴や時の同調(シンクロニシティ)もある。
だが常に開かれている「共通の通路」は親子のみ。
これが「親子における特殊な関係」となる。
そして、苦しみや幸せや生き方や肉体を左右する。

歪む事も修正する事も親子関係からならしやすいのだ。
難病や重病からの回復は親子関係がカギを握る事もある。
「共通の通路」で一生お互いに苦しむ事もある。
それは先祖や子孫まで影響することもある。
そして、いつでも今の貴方から修正する事もできるのだ。

「共通の通路」に流れるのは「いのちの氣」
最近の遺伝子解明情報を当てはめてみれば理解しやすい。
しかし今の科学では空間と時間に束縛されている。
「共通の通路」だから離れていても瞬時に影響するのだ。
時が経っていても、瞬時に変わる事もできるのだ。
この点は・・・まだまだ理解されてないなぁ・・・。
(先祖供養の本当の意味はここにあるのに・・・)

兄弟はそれぞれが親との「共通の通路」を持ち、
親がセンターの役目をしてつながっている。
「共通の通路」は親との「縦の直線(氣綱)」だから、
親とあっても兄弟同士の「共通の通路」はない。
しかし共通の親を支点としての通路があるので、
兄弟(姉妹)はかなり特殊な関係といえる。

同じ親でも流れる「いのちの氣」は別だ。
センター部分(親)次第で非常に似る場合もある。
兄弟でも、かなり違う場合もある。
生物(親)は様々な情報(遺伝子・氣)を内臓している。
流れる「いのちの氣」は似ているとは限らない。

ワシと本妻の間には豚児と豚子がいる。
似ているところもあるが、正反対な事も多い。
ワシは5人兄弟だ。
やはり共通の部分と大きく違う部分がある。

家族は「横の氣綱」と「縦の氣綱」の組み合わせ。
同じモノが流れ、同時に違うモノが流れている。
最近の悲惨な家族事件は「氣綱」の揺らぎが大きいと思う。
「家族」という特殊な関係の無理解が事件を引き起こし、
「氣綱」からなら様々な問題も解決できるのに、使わない。

「家族」という特殊な関係が何故あるのか?
それは「生きていく様々な問題」をやわらげる為にある。
意思という条件で結ぶ「横の氣綱」と、
無条件で共通する通路の「縦の氣綱」

  家族の話・7
3/30 (水)

我々(貴方)が何処から来たか?

一つの答えがここにある。
家族の間(愛)から生命が創られた。
この世に生まれる時に家族のいない生物はない。
一人ではこの世に来られない。
家族の間に生まれた・・・事実。
天涯孤独は心的に有っても事実ではない。

親が子を、
子が親を、
夫婦が、兄弟が、祖父母が・・・。
最近特に多くなった家族間の悲劇は、
通路を流れる「いのちの氣」の低下だと思う。

特殊な結びと通路を持つ関係故に、
「いのち」は家族に連動している。
一人では難しい状態でも家族の応援で乗り切れる。
しかし、家族の特殊性を理解できずにいると、
破壊の矛先は家族に向かってしまう。

思い出してほしい。
「氣綱」は「間(愛)」から創られた意味。
愛(分かち合い)で氣綱は太くなり、無関心で細くなる。
愛の逆は憎しみではなく、無関心なのだ。
細くなれば「いのちの氣」は流れにくくなる。
家族の応援が届きにくくなるのだ。

「いのち」の低下時には、不満・不安は暴力で誤魔化す。
対象とするのは、弱い相手か甘えられる相手。
「いのち」が低下しても、つながっている氣綱。
だから家族にすがる。
そして「いのち」の低下時に暴力は、
子供や女性や老人に向けることもある。

個々の原因探しをしても解決にならない。
ストレスは空気と同じにあるものだ。
そして妄想と同じに作れるものだ。
誰にでも、どんな時にもあるものだ。
それに左右されてしまう「いのち」の低下が問題なのだ。
回復・復活する方法の無知が問題なのだ。

家族の崩壊はありえないが、家族意識の無理解はある。
家族の特殊な能力を知らない故の無関心がある。
「個の時間・空間」を家庭に取り入れすぎた失敗がある。
「共通の通路」に完全な孤立(個立)はないのだ。
家族だけは・・・特殊な関係で創られている。

ワシは「家族のあり方」を書いているのではない。
社会常識的な家族だけが家族とも思っていない。
シングルマザーが立派な家族だと応援する立場だ。
そんな言葉は本当は無意味だと思っている。
生きとし生けるモノは、全て家族という特殊な関係内にいる。

我々(貴方)は何処から来たのか?

いろいろな立場と段階で答え方が違うだろうが、
最終的に行き着く真意に違いは無いと思う。
「家族」という全てに当てはまる要素からなら、
それほど難しい問いではないだろう。

  家族の話・8
3/31 (木)

我々(貴方)は何処に向かうのか?

「家族」という要素をヒントにすると、
ある事実が浮かび上がる。
生きとし生けるモノ達は家族の間に生まれ、
家族から一族へと広がる道の途中で生きている。

「生命」は「一つながり(縦の氣綱)」で連綿と続く。
枝分かれを繰り返して、繁栄する「生命の樹」
末広がりの形をして、滔々と流れる「生命の河」
我々は一つの超大家族の中に組み込まれている。

生きとし生けるモノが全て兄弟というのは比喩でなく、
「生命の家族」からなら、単なる事実なのだ。
この世はそれほど広くないのかもしれない。
生物はそれほど多種多様でないのかもしれない。

全生物のDNAの素は共通する4つの文字のみ。
組み合わせで分かれているが、同じ素なのだ。
人間だけが兄弟ではなく、生物の全てが兄弟なのだ。
天涯孤独な生き物はありえない。

ワシは「兄弟だから仲良くしろ」とは言わない。
単なる事実としてとらえればいい。
通路があるなら、使えばいい。
それだけだ。

「いのちの氣」は交流すると活性する仕組みだ。
「生命」は算数(科学)の世界ではない。
「氣」は科学法則にしばられない。
1+1=2ではない。
「エネルギー不変の法則」は当てはまらない。
「出会い」と「交流」は「いのち」を増やす。

「いのち」の低下から引き起こす様々な事件。
「家族」からでも「家族以外」からでも解決できる。
膨大に繁げった「生命の樹」の中にいる。
膨大なエネルギーの「生命の河」にいる。

目を開ければ、
手を伸ばせば、
「生命」に溢れている世界だ。
大丈夫。
皆、兄弟だ。

我々(貴方)は何処に向かう?

生きているだけで向かってくれている。
何も答えなくてもいい。
「生きとし生ける」(他を侵(犯)さない)
それが答えだと思う。

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