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清明
4/01 (金)

24節気は360日を基準としている。
暦は太陰暦だ。(だから太陽暦と月名がズレる)
そして一日を一度の黄経(太陽の角度)としている。
つまり360÷24=15
15日毎、15度毎に季節を表した言葉を作った。
始発日は春分の日で、黄経は0度。

ちなみに5日を一侯とし、三侯(15日)が一気だ。
月(太陰暦)の初めの気を「節」といい、次を「中気」という。
12ヶ月×2(気・節と中気)=24節気になる。
何故だか知らないが、中国では初と中だけみたい。
(上とか高もあるのだろうが、基準が違うのかな?)

もちろん、この言葉は地域で違う。(北半球用だし)
日本で使われている言葉は中国揚子江中央付近が元だ。
日本でも北海道と沖縄では緯度が違いすぎる。
24節気は地域によって適した言葉を使うモノなんだ。
それを踏まえた上でなら、風情と智慧が含まれている。

「清明」は黄経15度。春分(始日)から数えて15日目。
最初の気だ。(日本で4月4,5日頃)

万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也

ワシ流の訳だと、
「生命の氣」は「場」が清浄で明るくなると活性化し、
いろいろな命の芽が吹き出す。
この時期は、皆、元気ハツラツだぁ!
あるいは、
「百花百草が喜んでいるわい。わぉ、善き哉」
となる。

そう、何だかウキウキしてくる時期だ。
理由なく、ウキウキしていい時期だ。
「生命が躍る」から心も動く。
こういう時はドンドン進んでいい。
新しいコト、始めてみよう。

「生」は「性」に深い係わりをもつ。
オトコとオナゴの出会いの季節でもあるぞ。
大丈夫だ。
相手も正常な判断が(多少)狂っている。
これは・・・チャンス!
勇気を出して、アタックしてみよう。
ダメでもともと・・・(お、おぃ!・・・)

子の出来にくい夫婦は、朗報が訪れる気節だ。
上手く治療すれば回復しやすい気節だ。(季節じゃない)
心の病は多少、辛い時期でもあるが・・・。
(心が勝手に騒いでしまうので・・・)

いずれにしても、気節は短い。
15日〜30日だ。
ガンバレよ〜!!

  持たざる者・1
4/02 (土)

ワシはマジメな話が苦手というわけではない。
マジメを続けるのが苦手なのだ。
何事も続ける根性が少ないのだ。
だから途中で文章がグレるのは、ワシが素直な証拠だ。
「素直は・・・モノにならない・・・」
(これも深い言葉なのに、世間的にはウケない・・・)

マザーテレサのよく使う言葉で
「プア イズ ビューティフル」というのある。
この人達が使う言葉は、意味が幾重にもある。
受け取る人の段階で、それぞれ必要な意味を引き出せる。
言葉は一つでも意味は多重構造になってしまう。
意識して使ったのではなく、深い観方から素直に言うからだ。
「素直は(モノにならなくても)深い・・・」

実際にインドでチョー貧しい人々と係わる。
マザー達の仕事(ライフワーク・生き方)だ。
そこでの実感なのだろう。
「貧しい人は、とても美しく素敵だ」
(貧しいとは、金銭的な貧しさだけじゃないぜ)

金持ちの笑顔より、貧しい人は「いい笑顔」をする。
(一般的にであり、もちろん個々で違いはある)
「いい笑顔」の環境で働きたい(生きたい)。
だから貧しい人々との係わりは幸せでもある。
貧しい人が幸せを感じる事が少なくても、
深く、素直な幸せになる事は多い。
「幸福感」と「幸福」の違いがここにある。

「幸福」が解らない我々は、
替わりに「幸福感」を求めてしまう。
「苦しみ」と引き換えに「幸福感」を得る。
「幸福感」として「持つモノ」を求める。
「幸福感」は続かないから、次を求める。
赤い靴が得られたら、青い靴が欲しい。

同じく「幸福」が解らないまま、
「幸福感」も得る事ができない持たざる人々は、
やはり多くの「苦しみ」を受けてしまう。
だが、持たざる故に、持てない故に、
「幸福」を直接つかんでしまう事がある。
「幸福」は深く人を変えるから、
一瞬でも・・・永遠になる。
なんてこの世はヒネクレているのだろう。

「持たざる者は幸いだ」
キリちゃんの言葉もシンプルだから深い。
観念論でなく、単なる事実だから深い。
深いけど・・・
事実だけど・・・
「幸福」も「幸福感」もあっていい。
このほうが素直だと思うけどなぁ・・・。

「素直には段階があるようだなぁ・・・」

  持たざる者・2
4/03 (日)

マザーテレサは観てしまった。
真(神)を求めて素直に行動した結果を。
人の幸せと悲惨の関係を観てしまった。
「持たざる者は幸せだ」
慕い従うイエスの言葉の真を観てしまった。

マザーハウスのシスター達の全財産は、
白いサリー2枚と洗濯用のバケツ1個のみ。
だからシスター達はいつも笑顔だ。
マザーもいつも笑顔で暮らした。
持たざる者の幸せを知っている。

プア イズ ビューティフル
貧しい者の仲間になる事を誇りに思い、
貧しい者達と暮らす事に満足する。
何も心配は無い。
幸せをつかんだ聖女達。

マザーテレサの生き方。
プア イズ ビューティフル
多くの気づきやヒントがある。
古今東西の人の苦しみからの解放。
人の未来の道標でもある。
目指す方向を輝く光で示している。

家が欲しい。
いい車も欲しい。
人からも評価されたい。
金は幾らあっても困らない。
その為には才能も伸ばしたい。
いい仕事にステップアップしたい。
いい仲間を増やしたい。

その全てを放棄した生き方がある。
そして最高のモノだけを手に入れる生き方がある。
そこには精進も努力も勉強もない。
自然体の日々の暮らしだけがある。
才能も伸ばさず、仕事も同じままで、
幸せだけが積み重なる生き方がある。
「持たざる者」の意味は深いなぁ・・・。

貧乏を目指しなさい、とは言ってない。
持たないのが最高!とも言ってない。
持たない生き方をしなさい、とも言ってない。
「持たない者達は美しい」と、
単なる事実を呟いただけだ。

プア イズ ビューティフル

ワシは少ない体験の中ではあるが、
死に逝く人達を観た。
崖っぷち上の人達を観た。
ビューティフル
とは思えなかったが、
素敵な人達ではあった。
その言葉の何分の一かは解る気がする。

マザー達は持たない者が美しく見えるのだろう。
それはマザー達が美しいからだ。
マザー達が持たざる者に昇華したからだ。
「美しい者は美しさを観る事ができる」
持たざる者の瞳は真美を見つけるようだ。

  持たざる者・3
4/04 (月)

持てたいオトコ。
持てたいオナゴ。
いい異性も、いい暮らしも、いい家族も持ちたい。
持ちたいよねぇ。

結果的に持てるかもしれない。
結果的に持てないかもしれない。
持つ者を目指すのも一つの生き方だ。
だが、結果が思うようにならなくても大丈夫だ。

「持たざる者は幸せだ」
昔のワシなら、この言葉はとても厳しいと思っただろう。
「あ、ワシでは無理無理無理。だって欲人間だもん」
オナゴに特にモテたいとは思わないが、
才能やら、幸運やら、好仕事を持ちたい。
したい事が出来る程度の金を持ちたい。
綺麗事を通す生活の窮屈さは好きじゃない。

少し精神世界を彷徨していた時も、
ツマラン理屈でとらえていただろうなぁ。
(大切な心や真理を)持たなくては幸せになれない。
そう思っていただろう。
宗教関係者なら
(信仰を)持たなくては幸せになれない。
そう言うだろうなぁ・・・。

「持たざる者は幸せだ」
だが今のワシには違って聞こえる。
とても優しい言葉だと解る。
キリちゃんだもの、優しいにきまってるさ。
苦しむ者、迷う者、心弱い者を救う。

「持ってはいけない」などと言わない。
「持てなくても大丈夫」と言うだろう。
持たざる者は何もかも無くした状態だ。
それでも幸せになる、それだから幸せになれる。
なんて優しい言葉だろう。

「いつでもどんな状況からでも幸せになれるよ」
絶望の淵から笑顔を生み出す魔法の言葉。
「どんな生き方をしても大丈夫だよぉ」
体や心や財産や家族や社会的なモロモロを失っても、
大丈夫。大丈夫だぁ。
何もかも無くなっても、大丈夫だぁ。

キリちゃんは無精ひげの中から、
とても優しい、やわらかな言葉を伝えた。
いつでも、誰でも、包まれている。
その事実を伝えた。

  持たざる者・4
4/05 (火)

ワシは特に美しくなくてもいい。
充分綺麗だし・・・
(本気にしないで下さいね・・・アホの言うことだから)
多少・・・幸せを削ってもいい。
「幸福感」が虚しいモノでもいい。
ワシは虚しいモノも結構好きなのだ。

持てるだけ持ちたいとは思わないが、
たまには持ってみたい。
その、虚しいモノを味わってみたい。
プア イズ ビューティフル は
きっとその通りだと思う。
でも、リッチの虚しさも捨てがたい・・・。

精神世界では「心の豊かさ」を競うところがある。
競う(自他どちらでも)自体が貧しさなのだが、
精進しちゃうんだなぁ・・・。
マジメだから、マジメは心が貧しいから、
「心の豊かさ」「魂の大きさ」を持とうとするんだなぁ。
ワシも貧しかった・・・今も立派に(?)貧しい・・・

持たない・持てないを「俗欲」に限定する。
「豊かな心」は持っていいんだ、と納得させる。
「立派な心」も持っていいんだ、とうなずく。
「正義な志」は持つべきだと、思ってしまう。
「優しい心」を持つ事に異論はないだろう・・・。
どうも都合のいいことは理屈になるなぁ・・・。

「持たざる者」に限定があるのだろうか?
この言葉の深さに気づいたのは、この疑問からだった。
深い言葉は素直に受け取るものだと知っている。
ならば「何もかも持たない・持てない者」だろう。
心の豊かさや魂の大きさも、持たない・持てない者達。
それは・・・誰にでも当てはまるかもしれない、と思った。
人間って・・・かなり貧乏かもしれない。

「持たざる者が幸せ」
「持たざる者も幸せ」
ワシはどちらか判らなくなっていた。
ワシの小さな脳ミソと小さな心と小さな魂は、
判らなくなり続けることに耐えられない。
で・・・ヤケになる。

どっちでもいい。
どうせ何かを持とうとする。
物質でも満足でも精神的なモノでも。
そして、思うように持てない場合が大半だ。
それでも、大丈夫だぁ。

「幸福」は「持つモノ」の対象ではないようだ。
持とうが持つまいが、どっちでもいい。
いずれにしても貧乏な人間(心・魂のことだよ)だ。
皆、美しい・・・かもしれない。
(そ、そうは思えない?
ま、まぁ・・・思えないこともあるけど、
深い言葉は、いろいろあるのだよ・・・)

  デジタルとアナログ・1
4/06 (水)

あれぇ・・・まいったなぁ・・・。
またマジメげなテーマを書いちゃってるよ。
確かにワシは御筆先様の自由にさせている。
ワシよりマトモだと認めてる。
でも、ワシの好みとズレがあるんだ。
ワシはグレた下品な題名が好きなのに・・・。

いいさ。
御筆先様の書くことはそのまま通用しない。
ワシ流に下品にアレンジして何とか文章になる。
話が横道に入り、迷い、脱線転覆するから、
わけがわからなくなって、バランスがとれる。
御筆先様、ワシ、読み手の三者全員が平等に迷惑する。
一人で迷えば不安だろうが、一緒に迷えば笑いもおこる。
笑えれば、たいていの事は何とかなるもんだ。

早速テーマから外れた文章が一歩リードしている。
他よりリードすることに価値(勝ち)があるとは思わないが、
見栄にはなるよなぁ・・・。
たまには見栄もひけらかしてみたいし・・・。
ようし、このままグレた文章でブッチギリだぁ!

競争って、競争している者以外からは、
誰がリードしようが勝とうが、どうでもいいんだよねぇ。
この世の仕組みはヒネくれているからなぁ・・・。
価値(勝ち)を求めると、価値(勝ち)無いかも・・・。
ワシ、頑張る根性が無いので、御筆先様に道を譲ります。

「デジタル」は個立したモノ達の寄せ集めで変化を表現する。
「アナログ」は変化を連続したモノとして表現する。
デジタルは最小部品の個と個に境があり曖昧は無いが、
アナログは部分が個立してなくて曖昧があり境が無い。
故にデジタルの表現は虚(きょ)となるが、
アナログの表現は実(じつ)となる。
(どうです。御筆先様の文章なんて解り辛いでしょ)

つまりね、
デジタルの最小単位部品に嘘が無いから、
表現は幻(嘘)になってしまうんだ。
アナログは最初から最小部品が個立してないから、
最小を決められず、部分は全体の一部分となって、
表現は本物との相似象(対応)になるんだ。

表現したモノから判断すると、
デジタル写真は信号数字の寄せ集め。
だから人間の目の錯覚を利用した作り物だけど、
アナログ写真は本物と同じモノが宿っている。
作り物であって、本物でもある。

モノの表現にはアナログが適しているだろうね。
モノは元々曖昧で創られているんだ。
生命も曖昧だから「生きて」いられるし・・・。
アナログは物質界の表現には適しているんだなぁ。

  デジタルとアナログ・2
4/07 (木)

デジタルは曖昧が出来ない。
融通のきかない石頭。
ヤボなヤツ。
曲線が出来ない不器用なヤツ。

曲線を表すには小さな直線の組み合わせで階段を作り、
それを遠くから見させて、曲線と錯覚させるのだ。
だから嘘(錯覚・誤解)は作れる。
この世に直線は無いから、嘘しか作れない。
誠実(曖昧を排除)を通すと、嘘になる・・・。
この世はヒネクレているのだよ。

嘘と嘘つきは違う。
嘘つきは嘘(錯覚)を知っている。
だから、嘘(錯覚)を利用できるんだ。
曖昧を排除するデジタルは、嘘つきじゃない。
嘘(錯覚)を知らないのだ。
判断できないから、嘘を作ってしまう。

アナログは曖昧を知るから、嘘つきだなぁ。
曲線といえば、オナゴのたおやかな曲線。
その肉体(アナログ)でオトコを騙す。
ワシは騙されるくらいでモンクは言わないが、
曖昧な部分を沢山もっているオナゴは嘘つきだと思う。
嘘つき(曖昧)は・・・可愛いのだよ。

石頭のヤボなオトコはマジメだから、
オナゴの曲線に簡単に騙される。
マジメな石頭役人が嘘つきオナゴの曲線に騙され、
何億も横領をするのは不思議じゃないのだ。
マジメは嘘(錯覚)を見破る力が少ないのだよ。
重要なポストのマジメタイプは大変だと思うよ。
常識って、どこか間違っているよなぁ・・・。

曖昧が無いデジタルだから、
曖昧の無いモノの表現には適している。
社会から離れたモノなら適している。
例えば・・・神とか・・・。
ワシの心とか・・・

心について異論がありそうですねぇ・・・
ワシの心と神を同じグループにするなんて、
マジメ教信者からは許せないでしょう。
ワシは(そんな些細な事は)許せるけど・・・
多少の引け目は感じるなぁ・・・
抗議を受けるのもメンドウなので、
やはり、ワシの心と神は別ということにしましょうね。

(神は曖昧が無いが、神様は曖昧なんだ。
神と神様は区別した方がいいなぁ。
でも、テーマから離れすぎるからその話はまた後で)

ワシも心は曖昧(アナログ)だと表現するが、
実は・・・あれは嘘だ!
ゴメンネ・・・ワシは嘘つきです・・・。
衝撃の告白をします・・・
心の仕組みは曖昧の無い、デジタルなんだ。

  デジタルとアナログ・3
4/08 (金)

ワシはかなり嘘を書く。
い、いや、ホントなんてホトンド無いかも・・・。
い、いや、真実が判断できないのだから、
実は、ホントも結構あるかもしれない・・・。
嘘は意識して書くから、罪は少ないだろう。

嘘と知りながら嘘をつくよりも、
知らないで嘘をつくほうが大罪だぜ。
騙される方はどちらが多いと思う?
無邪気な嘘は警戒しないから騙されるものだ。
しかも張本人も騙した事に気づかないから、
自身の良心の呵責も無い。
無責任なんだ。

だからエンマ様は、知らずの嘘を許さない!
善男善女や敬虔な信者が時々地獄に落ちるのは、
知らずの嘘による苦しみを他に与えたからなんだ。
正義の為の戦争なんて、知らずの嘘が多いんだ。
悪気が有る、無しじゃない。
それによって苦しみ、殺される(犯される)なら、
「知らず」は大きな罪となる。

知っての嘘は、許すと思うよ。
だって、神様も大偉人も嘘つきだよ。
幸福への道標は、嘘でないと伝わらない。
残された言葉を読み直してみればわかる。
受け取るのが愚かな人間だもの。
ヒネクレているんだもの。

ということで衝撃の告白の続き。
「心は曖昧(アナログ)ではありません!」
元々悩み(曖昧)なんて無いのでした。
一つ一つの事柄は独立して連続してません。
多種多様な出来事はアナログで起こりましたが、
それを受け止める心はデジタルでした。
アナログをデジタルに置き換えていました。

でもねぇ・・・
わかりずらいでしょ。
心の仕組みがデジタルだと言っても。
昔から達人は言っていたけどねぇ。

「飯を食う時は飯を食いなされ」
「ウ○コの時はウ○コしなされ」
これが心のデジタルの仕組みを指摘した言葉だけど・・・。
禅や冥想で心を「観」すると、
単なる事実として「心に迷い無し」となる。
デジタルなんだから、当たり前なんだ。

じゃあ・・・迷ってばかりいるワシの心は何?
という疑問があるよね。
デジタルとアナログの履き違え。
心の感情は個立したカケラ(デジタル)なのに、
アナログの「情」が好きだから、なんだ。

  デジタルとアナログ・4
4/09 (土)

「心はデジタル」は言い過ぎだと思う。
偉い禅僧のことだぜ。(ワシも書いたけど・・・)
でも高僧は言い過ぎくらい気にしない。
知っての嘘だから、確信犯だ・・・。
高僧の言葉は冗談(嘘)9割だ。
イチローなんて目じゃない。

苦しみからの解放法に固定概念の転覆がある。
だが固定概念をひっくり返すのは大変だ。
優しく説明してひっくり返るわけがない。
言い過ぎくらいで、ちょうどいいんだ。
だから、ワシの言い過ぎも責めないで・・・

心についての説明はどう書いても充分じゃない。
ワシもメンドウになってきた。
でも乗りかかった船。
乗りかかった美女。
もう少し、付き合ってみようか。

(注:美女に乗りかかったのはワシではない。
ワシに乗りかかってきたのは美女だ。
誤解は止めようね。
ワシが船に乗り込んでも問題ないが、
船がワシに乗りかかってきたら・・・困る。
ワシが美女に勝手に乗りかかったら問題だが、
美女がワシに勝手に乗りかかっても問題ない。
日本語はいろいろあるのだ・・・)

閑話休題・・・
心の仕組みはデジタルだが、
仕組みを活かして使う人は少ないのだ。
使い方は「意思」による。
仕組みは「意識」によるのだ。
つまり「意識」はデジタル。
「意思」はアナログなのだ。

意識と意思の両方を「心」とするならば、
心はデジタルとアナログの混合世界だ。
だから・・・迷う、迷いがちになる。
デジタルのカケラに意味をもたせるからだ。
デジタルのカケラをアナログと履き違えるからだ。

明鏡止水の人も・・・タマにいる。
「意思」の使い方を自然体にすると、
相手の仕組みに逆らわないからだ。
禅僧はそれを言ったんだなぁ・・・。
「ウ○コするのに飯をもちだすな!」
(高僧なら、このくらいの下品は言うと思う)

わかりづらいよねぇ・・・
心のデジタルとアナログの話。
明日は例え話でいってみよう。
そうねぇ・・・
失恋の話でいってみよう。

  デジタルとアナログ・5
4/10 (日)

何故か失恋に惹かれてしまう人。
何故か失恋から好かれる人。
そして失恋の痛手から抜けない人
お待たせしました。

暖かい春の日。
「キモイ!バイバイ。」
彼女は会うなり、こう言った。
(ボキャブラリーの少ないオナゴだ)

アナタの心には幾つものカケラがある。
天気は暖かい。
季節は春。
彼女(十人並み)。
「キモイ!バイバイ。」
振られた事実。
悲しい感情。

幾度も振られた経験を持つアナタは、
思い出すたび悲しみに暮れている。
これがデジタルを理解しない心の使い方。
心は傷を負わないし、負えない。
傷が無くても痛みは感じるし、辛くもなれる。

これが心のやっかいな性能だ・・・。
傷があるから痛いのではない。
痛いと感じるから傷があると思い込む。
辛いと感じるから、辛い出来事に変える。
出来事は単なる事実のカケラなのだが・・・。

冷たい雨が頬を打つ。
美人の彼女といつまでも歩く。
何度も話し合った結果だ。
愛しながらも、別れる二人。
最初で最後の愛しい人よ。

暖かい晴天は冷たい雨天に。
十人並みも微妙だった彼女は美人に。
会ってすぐ別れたのに・・・。
ボキャブラリーは無いのに・・・。
はっきり嫌われたのに・・・。
何度も失恋しているのに・・・。

心の思い出はデジタル写真と同じ。
カケラ(信号数字)を入れ替えれば、
思うような場面を作ることができる。
心って・・・そういう風にできている。

しかも、振られたのは過去の出来事。
悲しい感情は振られた時(過去)のもの。
なのに、今のこの瞬間に悲しむ。
今振られたわけじゃないのに。
(というか・・・あれから彼女もいないし)

大きな間違いどころがある。
それは「感情」の扱い方だ。
心の中にある感情は「感情のカケラ」だ。
生きている感情じゃない。
「感情の記憶」はデジタルのカケラだ。
今の生きている感情(意思)はアナログだ。

デジタルとアナログの履き違え。
それがアナタの失恋の痛みだ。
今の痛みは幻なんだ。
幻は好みだから、追ってもいいけど・・・
立ち直る事は難しくないよ。
アナタには、自由に選べる意思がある。

  デジタルとアナログ・6
4/11 (月)

失恋の例え話は失敗だった・・・
原因はワシにある。
ワシは失恋の経験が無かった・・・
いや、あるけど・・・特に感想が無い。

財布を落とした時は残念と思うが、
しょうがないじゃない・・・。
そういうこともあるし・・・。
まして、相手は生き物だし・・・。

「アナタ(ワシ)には心が無いのよ!」
う〜m・・・そ、そうなのかなぁ?
「心がデジタルなんて機械みたいじゃない?」
う〜m・・・その部分もある、と思う・・・
「心は傷を負うわ。私の心は傷だらけ!」
う〜m・・・じゃ、そういうことで・・・

心の解説はとても難しい・・・
仕組みは簡単なのに、伝わらない。
ワシは心に傷があるか、無いかはどうでもいい。
ワシは明るい笑顔に変わっていく様が好きなのだ。
その為には、平気で嘘を言う。
本当か嘘かは問題じゃない。
嘘は幸せの為に意思で使うものだ。

どうしたら傷が回復するか?
先に明るい光が見えればいい。
傷なんて幻だと思えればいい。
(心の傷は幻なんだけどなぁ・・・)
心がデジタルなら修復できる。
連続してないから、引きずらないのだ。
傷は(後が残っても)治るものなんだぜ。

「時は続いている」という固定概念がある。
デジタルに「時」は無い。
現象に「時」は有る。
現象はアナログでも、仕組みはデジタルだ。
「時」からの解放があると、
デジタルは理解しやすいみたいだね。

個立は一つだけでは意味(存在)しない。
個立は共存して個立できる。
デジタルは冷たいイメージがあるが、
それは違うぞ。

「自立は共存意識の覚醒」
ワシの造語だが、デジタルのことでもある。
そして「空間」のことでもある。

「生命は一つながり」
これがアナログの意味だ。
そして「時」のことでもある。

心は単純なアナログじゃないだろ?
アナログ(生きている)は今だけの部分だ。
過去の心はデジタルになっている。
理解してもらえるかなぁ・・・

この世(心)は
デジタルとアナログの混合世界。
個立と連続の混合世界。
「共存(空間)」と「いのち(時)」の混合世界だ。

御筆先様が仕切ると、少しマトモ・・・

  デジタルとアナログ・7
4/12 (火)

生命も二つの仕組みが融合している。
見える物質・肉体(アナログ)と、
見えない精神(デジタル)が融合している。
「生命」がどういうものなのか、
アナログとデジタルの「仕組み」。
そして「融合」にカギがありそうだ。

ここの詳しい解説は雑記ではしないぞ。
いつか本として、もう少しマトモに書くと思う。
雑記は雑記だ。
片言の雑言として話している。
そろそろ同じテーマも飽きた。
ワシは尻切れトンボで飛行する・・・。

デジタルとアナログはこの世の仕組みの話だ。
一冊分の本の内容をマジメに書くことは出来ない。
いきなり結論!
ワシが高僧の爺ちゃん達に学んだ「手抜き法だ」・・・。
あの爺さん達はメンドクサガリ屋だなぁ・・・。

「生死即涅槃・煩悩即菩提」

(ワシ流の蛇足を少しだけ加える)
この世はアナログの流転世界(生死)だが、
デジタルの絶対世界(涅槃)と重なって(即)いるわい。
遠くに(真実を)求めても無駄だぞ。
命短し、恋せよ乙女じゃ。
フォフォフォ(爺さんだから歯が抜けた笑い・・・)

肉体や肉体が元となるアナログの心(煩悩)と、
悟りの境地の精神(デジタル)は一緒(即)にいる。
それが人間(生命)じゃ。
煩悩を愛しむと生命は元気ハツラツじゃ。
ファイト、イッパーツ!!
(爺さんの右手を突き上げるポーズは可愛い・・・)

ま、そういう優しい言葉なんだけどねぇ。
デジタルとアナログの言葉はいろいろあるよね。

諸行無常・万物流転(アナログ)
神は永遠(デジタル)
真実は動かない(デジタル)
色即是空(アナログとデジタル)
愛(デジタル)と恋(アナログ)

この世も人間(生命)も複合次元体。
別れられない、性格の違う夫婦・・・。
離婚できないのなら・・・
混合を融合にするか、
それぞれを活用するか、だね。
多分、楽に生きられる・・・と思うよ。

もちろん、苦しみが趣味なら、
履き違えて生きるのもアリだと思う。

  デジタルとアナログ・8
4/13 (水)

もうアキタ、次は青森、北海道。
(おぉ、季語も森や海も入ってリッパな句だ!)
もう終わりにしよう、と言ったのに、
また手をつけてしまった・・・。
ワシの決心、薄氷。
ワシの理性、砂の塔。
(デジタルとアナログの話だ。
オトコとオナゴのゴタゴタ話じゃないぞ)

なんだかなぁ・・・言い足りない。
口から出任せで書いている雑記だ。
ポロっとこぼれたテーマだからこそ、
「何のために生きているのか?」
こういう大げさなテーマで締めくくりたい。
ハッタリは龍頭蛇尾ではツマラナイ。
蛇頭龍尾で、余韻を残すから味がある。
ということで、もう一回書かせてくれぇ。

人生はアナログだ。
いろいろな連続を引きずっている。
「生きる」ってそういう事だ。
割り切れないから、人生だ。

その経験、その出来事、その過去。
この一つ一つはデジタルのカケラだ。
デジタルは「愛」
とても大切で消えないモノ。

「アナログで生き、デジタルを残す」
(水上陽平独善辞典に入れよう♪)

仕組み(理・神)側からの視点ならば、
何のために愚かな人間が生きているかというと、
神(デジタル)に近づく為かもしれない。
デジタルのカケラは神の一部になるから・・・。
人間側としては、そんな事は意識してないけどね。
(タマに意識する人もいるみたい・・・。
でもこの世はヒネクレているからなぁ・・・
リキんで目指すと逆方向に行ったりして・・・)

アナログな生き方でいい。
でも残した経験、体験、思いは、
デジタル(愛)のカケラとなる。
デジタルに終わりはない。
デジタルに大きさもない。
果てしなく膨らむ「愛」でもある。

どんな生き方(アナログ)も、
デジタルのカケラを創るんだなぁ・・・。
今回、いいかげんな出任せで書いたこのテーマは、
ワシ的には、とても大きな学びとなった。

「いいかげん」は、あなどれない、ぞ。

  異との遭遇・1
4/14 (木)

ワシの仕事は「生命力の活性化」だ。
一応プロとしのての特殊な事もするが、
暮らしの中で応用できる方法を知らせるのも仕事だ。
というわけで、こういった雑記を書いている。
息抜きでも、ストレス解消でも、お遊びでもない。
ワシにはそういう事が必要ないし・・・
全て本気、全て冗談だ。

どんなテーマで、どんなクダラナイ雑記を書いても、
読んだ人が気づかなくても、誤解しても、理解できなくても、
何故か「生命力が活性」するように仕掛けている。
仕掛けは「結界付き」なので、無理強いは一切無い。
安心して読んでくれ。
ワシは余計なお世話までするほどマメじゃない。

アチコチに(何かが)散らばっている。
まぁ、後は受け取る側次第ということで・・・。
持っていきたい人は勝手に持っていけばいい。
更に触りたい人は連絡すればいい。
ここでの詳しい説明は無しだ。
何しろ、ワシは天上天下唯我独善・・・

活性化の方法は幾つでもある。
元気になる方法なんて、山ほどある。
ワシの住んでいるのは山の中だ。
山ほどあると・・・海にあこがれる。
元気になる方法は、海ほどある。
どこにいても、空ほどある。

山は海と出会うと元気になる。
空と出会うと元気になる。
いいや、元気の素が生まれるんだ。
山と海が和(輪)になると、素は育つ。
この世の生命は、とても素直で変わり者。
異なモノと出会うと、新たなモノが生まれる。
和になると、モノは育っていくものだ。

今まで出会った事のない異性。
それだけで、生命力はうずく。
出会った事のない考え方。
それだけで、生命力は動き出す。
(受け入れる・認めるという条件で)

同波動は共鳴する。
共鳴は気持ちいい。
「嬉しい・愉しい・気持ちいい」
ここから生命力を活性化する事もできる。
だが、異波動からも出来るのだ。
この世は・・・何でもアリの世界だ。

まずは、第一歩踏み出してくれ。
そこから生命は動き出す。
異なモノとの遭遇から、何か始まる。

  異との遭遇・2
4/15 (金)

ワシは十代の終わりに「精神世界」に触れた。
とてもアヤシイ世界だ。
今は「アヤシイ」と「当たり前」が多少は区別つくが、
自分が無知だと気づく前は区別が出来ない。
この世の仕組みはヒネクレている。
自分が無知・アホだと知ったら、少しは目が見える。

そういう世界に行き来していると「奇」と遭遇する。
ワシは母方の祖母の影響で免疫力があったのが幸いした。
祖母は特殊な能力を自然体で使っていたのだと思う。
それでも、スゴイ事を体験した、と勘違いしがちだ。
神秘体験なんて言葉で包むとアブナイ・・・。
(そんなのに惹かれて狂団に入る人達がいたなぁ・・・)

後年、この道に入るキッカケとなった生駒山。
故御師匠様の毎日、毎回の「奇跡」を見ていたら、
「奇跡は日常」と思えるようになった。
こちらは「奇」でなく「当たり前」だった。
奇跡と見えたのは、
ワシが「無知」であり「未知」だったからだ。

龍村師匠と初めて言葉を交わしたのも、ある出来事だった。
詳しい話は書かないが、朝のとてもありえない体験だった。
龍村師匠はニコニコと笑い、
「まぁ、そういうこともあるわなぁ」と言った。
あまりに軽く、肩透かしをくったような気がした。

その真意が理解できるのは、更に後年だ。
龍村道場に通って、いろいろな学びをした。
当然、龍村師匠も奇体験をしている。
龍村師匠の師匠、故沖先生に「あれは何でしょう?」と尋ねた。
「そういう事に惑わされない心が大切だ!」
故沖先生の奇体験は更に多かったろうが、
何が大切かを見失う事はなかった。

精神世界は落とし穴のワナがある。
試験のようなものだが、落ちると本当に「落ちる」
現状維持にならないのだ。
手は二つ。試験を放棄するか、クリアするかだ。
解答はいつも同じ「とらわれない・惑わされない」
答えはシンプルでも実行は難しいぞ。
特殊な体験と感覚だから心を奪われやすい。

「奇との遭遇」には
「まぁ、そういうこともあるわなぁ・・・ハハハ」
ワシも、今ならそれだけだ。
あれこれ、氣を向けない意味がわかるからだ。
今回のテーマは「奇」ではなく「異」だ。
師匠達のお陰で「奇」と「異」の違いは判る。

昔「未知との遭遇」という映画があった。
宇宙人を登場させていたが、意識の「未知」を描いた。
「未知」との対応法を描いた作品だと思う。
人が「未知」に出会った時、どう行動するか?
それによって「未来(明日)」が開ける・・・かも。

宮崎駿監督のアニメの多くは、この部分が底辺にある。
主人公達は「未知」や「異」を素直に受け入れる。
「異との遭遇」を、日常へ溶け込ました。
トトロと友達になり、カオナシに優しくし、
オームを守り、カルシファーとも仲良くする。

「異との遭遇」で主人公達の「生命力」はどうなった?
心の「やわらぎ」がどんな力を生むか、
あの作品は教えてくれている。
激しさではなく、力強さでもない。
生命の活性化は「やわらかさ」が引き出すようだ。

  異との遭遇・3
4/16 (土)

「未知との遭遇」の他にも遭遇はある。

仕事にマジメで酒も博打もオナゴ遊びもせず、
会社と家の往復の人生。
可もなし不可もなしの妻と子供達。
あと幾年かで定年になるオッサン。

フッと何気なく入ってしまった店。
美女がいた。
衣服の面積は少ない。
普通の服を買えないくらい貧しいのか?
オッサンの服を脱がして、
ニコっと笑う。
何か・・・期待していいのかな?

いきなり、ビシッ!
背中に衝撃が走る。
その瞬間、
オッサンの全感覚にも衝撃が走る。
こ、これが・・・悦楽かぁ!
「ムチとの遭遇」・・・・


森の中でワシは迷っていた。
目の前に小さな泉があった。
イキナリ、美女が・・・。
薄い布が濡れて、素肌に張りついている。
わぉ!ラッキー♪

「お前が落としたのは、金のオチか?」
いつも尻切れトンボの文章書きは首を振った。
「いいえ、め、滅相もございません」
結構、己を知っている・・・
「では、銀のオチか?」
ブンブン(首を振る音)
ゴクリ(美女の姿を見て、生唾を飲む音)

「お前は正直者だな。褒美をやろう」
そう言って、美女は光輝くオチを取り出した。
「これはクリスタルのオチだ。存分に使うがよい」
駄文書きのオッサンは、ヨダレを拭きながら受け取った。

こうして水上陽平の文章には、
時々クリスタルのオチが使われた。
だが・・・クリスタルが透明すぎて、
誰もオチに気づかなかった・・・。
「オチとの遭遇」だったのだが・・・

す、すんません・・・
今日は御筆先様がお休みしています。
有給休暇だそうです・・・。

  異との遭遇・4
4/17 (日)

「異」とは固定概念外のモノだ。
だが工夫次第で暮らしに取り込める相手だ。
異国にも異星にも暮らす事ができる。
宇宙人や妖怪なら工夫次第で仲良くなれる。
まして同じ地球上の生き物同士が、
考えや肌の違いや宗教の違いくらいで、
仲良くなれないはずがない。

「奇」ならば日常生活に取り込めない。
心を奪われるから、生活からは離れる。
心奪われるから、自立できない。
「自立は共生共存の自覚」だ。
自他の共生共存の自覚が無ければ、
「いのち(生命と魂)」は衰退する。
この世は自分勝手では生きられない。

共生共存とは、異種異様なモノ達と暮らす事だ。
同種族や同波動だけが仲良くなることじゃない。
それは、多分、あの世の仕組みだろう。
あの世は、同波動帯の世界だろうね。
天国と地獄が分かれているのなら・・・。

この世は、多種多様、異種異様なモノの混合世界だ。
混合は混合するから生命が活性化する。
純粋培養は活き続けられない世界だ。
天国も地獄も同空間、同時に存在している。

異のモノと触れ合う事ができる世界。
触れ合い、認め合うと、生命力は活性化する。
異のモノを知り「やわらぎ」を自覚する世界。
ここに病からの脱却の大きなヒントがある。
行き詰まった壁が消えていくヒントがある。

心はの行き詰まりは、
同情では元気になれない。
かといって、叱咤激励では壊れてしまう。
優しさがあっても空回りするのだ。
同情も激励も関係ない「異」なモノ。
「異との遭遇」は活路を開く・・・かも。

最近、アブナイと思う。
アチコチの国の政策。
国民全体の思考パターン。
同じ考えが集まる「場」は必ず衰退するのだ。
それが、どんなに正しく思えても・・・。

各業界、各地域、一つの企業内、学校、家庭。
それらの情報を扱うマスコミ。
国全体が、同じ思考経路だと・・・
国は衰退する・・・。

まぁ・・・いいけどさ。
(よくないかなぁ??)

  異との遭遇・5
4/18 (月)

「異との遭遇」には条件がある。
「縁」というヤツだ。
「縁」はネットワークの仕組みだ。
中継点(相手や出来事)を幾つか通り、
やがて「異」に出会う。

それらの中継点を受け入れる(面白がる)と、
普段なら出会えない相手や出来事に当たる。
わけがわからんモノと出会えたのだ。
さぁ、どうする?
ここが分岐点になる。

既成のモノなら安心かもしれないが、
生命力は穏やかな衰退に向かう。
だが、異のモノなら期待できる。
安全か危険かはどちらも同じだ。
既成は安心に思えるが、安全とは限らない。

既成だけだと不安は増していく。
いや、不安が増すのではない。
生命力があると「不安を気にしない」のだ。
生命力が衰退するから、不安が大きく感じる。

同じ場から動こうとしない事を「閉じこもり」という。
何も部屋だけが「閉じこもり」じゃないのだ。
同じ意識から動こうとしないのが「閉じこもり」だ。
今や、日本中のほとんどの人が「閉じこもり」傾向だ。
閉じこもりは・・・生命力を衰退させる。
不安を取り除く力が衰退する。
不安だらけの・・・国の意識。

人間は5分先の事さえわからない。
時間的未来が安全だと確信できる人間は無い。
誰でも、いつでも、不安が当たり前なんだ。
不安の道を歩くように創られている。
だから・・・不安がどうした?
不安は普遍にあるものだ。

問題は不安がある事じゃないだろう。
不安に「氣を取られる」事が問題だ。
問題には・・・答えが必ず用意されている。
解答用紙にはこう書こう。
「生命力の活性化」(98点!)
(何も100点取らなくてもいいだろ?)

答えを書いたら、実行だ。
実行には幾つも方法がある。
活性化には幾つも方法がある。
その一つが「異との遭遇」

  関・1
4/19 (火)

精神世界は多重次元構造だ。
(もう、これだけで、わけがわからん世界だなぁ。
まぁ、本気にしないで読んでね・・・)
深さ(濃さ)だけじゃない構造だ。
層や場は重なり合うが、そのまま行き来は出来ない。

別の世界に行くには門がある。
気づかねば、見えない門だ。
見えない塀が結界だ。
塀の幾つかの箇所に門がある。
その門は「関」になっている。
「関」とは結界の結び目だ。

精神世界にはワナがある、と書いた。
落とし穴というワナだ。
ワナは門に仕掛けられている。
「関」は門の形をしている。
その門が開く場合がある。

「アナタの為に、開けたわよ(ハート)」
そうか、ワシもいいオトコになったのかぁ・・・
苦しい修行したもんなぁ・・・ご褒美だぁ。
鼻の下を伸ばして、入り込む。
もちろんルンルンだもの、足元なんて観ないさぁ。

門をくぐる時の常識
「看脚下」
門が開いた嬉しさに・・・忘れてる・・・
ここがワナなんだなぁ・・・
つまづき、落ちている事さえ気づかない。
浮かれると、状態が観えないもんね。

「門」は開くけど、「関」は開かないんだ。
ここを最初から見抜けないと、ワナに落ちる。
「関」は通行手形が必要なんだ。
開いた門には小さな貼り紙がある。
しかも・・・足元に・・・。
「お帰りはこちら」

精神世界は・・・根性が悪い世界だねぇ。
あるいは・・・度のすぎたイタズラの世界だ。
ヒネクれ、ネジれ、嘘(試験)だらけの世界だ。
精神世界が素晴らしい世界だと思ったら、
ほとんどは・・・落とし穴に落ちる。

精神世界を創ったモノは、性格が悪い・・・。
神様というのは、性格がヒネクれている。
オチャメという表現でもいいけどね。
(ちなみに、ワシはこういうの、好きなタイプです・・・。
って、神様に好意を告白して、どうするつうの?)

門は何の為にある?
そして、関を通るにはどうする?

関は関所のことだ。
関所を通るには、通行手形が必要だ。
性悪(オチャメ)な相手が降参するモノ。
それが精神世界の通行手形になる。

  関・2
4/20 (水)

精神世界のもう一つの落とし穴。
それは・・・マジメに説明する事だ。
マジメにすると、迷宮になる世界だ。
ヒネクれているよなぁ・・・。
正しい言葉で理論的に表せられない世界だ。
だって、科学的の裏側の世界だもん。

立派で正しい(ように思える)言葉は、
簡単に人を欺くことができるんだ。
宗教組織の勧誘だけじゃないが、
古今東西、山ほど騙されている事実がある。
立派な言葉は政治家でも言えるんだぜ。
目を覚ませよなぁ・・・。

と、いうわけで、話は下品に進めることにした。
(一部の下品ファンの人、お待ちかねです・・・
マジメな、すぐ怒る人はここから先は読まないでね。
ワシの話は間違っています。下らないです。ハイ)

(注1:オナゴの胸元が門です・・・)
ある日、広く胸元を開けてニコッと微笑む美女がいた。

(注2:ワシは美女を多く登場させるが、ワシの好みというわけじゃない。
どうでもいいのだが、美女しか寄って来ないので仕方無く登場させている。
ちなみに、ワシは美男ではありません・・・。
美女と美男は、それほど相手が好きじゃないようです。
全国の美男でない、美女好みのオトコ共、朗報ですよ。
全国の美女でない、美男好みのオナゴも朗報ですよ)

しかも、何故かワザとらしく屈んだりして。
(その心使いは、とてもイイと思う・・・)
日々の努力が報われた(な、何の努力だぁ?)
ボクの運命が好転する♪

話はイキナリ現代へワープします。
ワシはオナゴに質問した。
「胸元の開いたオナゴの何処に目が行く?」
「胸の谷間でしょ」
以上、極めて狭いアンケートから結論です。
「人間はオトコもオナゴも胸元が開いていると、
谷間を覗きたがる本能を有している」

精神世界というのは、意識する事が「行動」となる。
オナゴの胸の谷間に意識すると、その世界に行く事になる。

「門は開かれた。求めよ、さらば開かれん」
おお、キリちゃんの言葉は本当だった!
思えば、叶うのだ!
(注3:意味、間違えていると思う・・・まぁ、いいけど)
胸の谷間に氣をとられ、更に谷間の奥を覗きたいと思った。

ここまでで、幾つかの出来事を整理しましょうね。
A 努力すると美女が胸を広げる。
  (表現の仕方が、少しヘンだなぁ・・・)
B 最初から谷間が見えるのはイイ事だと思い込んでいる。
  (固定概念・・・条件反射・・・耳が痛い・・・)
C 谷間が見えると、更に奥を覗きたくなる。
  (谷間に氣を盗られている事に気づかない)

  関・3
4/21 (木)

今更・・・ナンだけど・・・
今回のテーマの読み方ね「カン」なんだ。
「セキ」でも同じ意味だから、いいけどね。
ということで、昨日からの下品な例え話の続きです・・・

胸を広げて微笑む美女に誘われた。
ルンルン♪ ニャンニャン、ワンワン、メェ〜・・・。
次の世界にステップアップだぁ!
そして谷間に近づき、身を乗り出して・・・落ちる
(しかも、落ちながら、まだ笑っている・・・)

谷間の奥には・・・胸毛がウジャウジャ・・・。
更に底には・・・あぁ・・・恐ろしくて書けない・・・。
ソレを見るまで、多分、気づかないだろうなぁ・・・。
美女が・・・アブナイ、オッサンだとは・・・
(まぁ離れて見ていれば笑える話だけど・・・)

この世ならば騙されるのもいい。
いろいろな経験をする為に生きている。
この世(物質界)は「時」が支配している。
変化を促進してくれる。
だから「気づき」が容易い世界なのだ。

ところが精神世界に「時」は無い。
自力で「気づき」を呼び戻さなければ、
いつまでも迷宮を彷徨う世界だ。
美女の胸の谷間だと思い続ける・・・。

勘違いだけならモンクはないけど・・・
ウジャウジャ胸毛をウットリと擦りながら、
他の人を「エエトコやでぇ〜」と誘う。
「素晴らしい世界やでぇ〜」と本気で言う。
すると、その気になる人が出てくるのだ。
(まぁ、いいかぁ。もうメンドウになった・・・)

いろいろな事が起きる。
アブナイ出来事なら、最初から「氣を付ける」
ところが、美女が微笑んで胸を広げると、
最初から「氣を取(盗)られる」のだ。
ワナは甘い香りで誤魔化している。

この世(肉体界)ならば、
ワシは誘惑には、積極的に乗る。
面白がって誘われる。
ウブなふりで最後まで騙される。
オナゴが嘘を言うなんて当たり前だと思っている。

だが、精神世界で誘惑に乗るほどウブじゃない。
精神世界のワナはキツイ事を知っている。
這い上がるのが、とても大変なのだ。
「氣を付ける」
「氣を愉しむ」
「氣を取(盗)られる」
この違いを自覚しないで歩くほど無謀じゃない。

(精神世界では)
開いた胸には気をつけろ!
マチガイ無い!(長井秀和風に・・・)

  関・4
4/22 (金)

門が開く時はワナだと思ってくれ。
「そ、そんな、疑う心は寂しいわ・・・」
あのねぇ・・・精神世界はヒネクレているんだ。
建前論が通じない世界だと認識してくれ。

「疑う・信じる」が通じる世界じゃない。
マジメで誠実な人がいられる世界じゃない。
常識外れの人じゃないと無理な世界だ。
だから敬虔な信者は騙されるんだ。
そして現実世界の迷惑者となっていることに気づかない。

門は「関」となっている。
関は自動的に開かない。
関は通行手形がなくては通れない。
だから門が開くのはワナ以外にないのだよ。

関があるのには理由がある。
自由に通るのはマズイからだ。
各層界が混乱と滅亡しない為だ。
精神世界では住んでいい世界はそれぞれにあるが、
全員が同じ一つの世界じゃない。

全員が同じ一つの世界は・・・物質世界だ。
だから、この世はとても特殊で貴重な世界だ。
この世に生きているのはとても特殊な出来事だ。
もう少し、大切にしたほうがいいぞ。
(って、ワシに言われたくないよなぁ・・・)

この世は確かに精神世界と物質世界が重なっている。
(メンドウな時は、この世を物質界としているが)
色即是空 空即是色
玄奘(三蔵法師)が手抜きで説明した言葉だ。
こんなの説明するのメンドウだもんねぇ・・・
気持ちはわかる・・・。

だけど、もう少し説明してもよかったと思うよ。
(肉体が)生きている主舞台は色界(物質界)にある。
この世が仮の舞台だとしても、生きている間は主舞台になる。
ここを精神世界だと勘違いするから、落ちるんだ。
精神世界スキスキ人間は・・・「氣」を付けようね。
舞台上で本名を名乗るのは・・・アホなんだ・・・。

精神世界に氣を取(盗)られない。
これが精神世界との係わり方だ。
性悪オンナや性悪オトコが降参するのは、
(深い意味での)素直。
イタズラ好きの神様だって同じだ。
素直にゃ、かなわない・・・。

自分を持っている(「氣」を付けている)のが、
自然体であり、素直であり、通行手形になる。
甘い誘惑に乗るのは、肉体界(物質界)だけでいい。
執着しないで、愉しめよぉ〜。

(今回のテーマは途中で「氣」が乗りませんでした・・・
ワシが親切するのは似合わない。
余計なお世話でしたね・・・ごめんなさい。)

  エスカレーター・1
4/23 (土)

ワシは毎週東京経由で千葉県に治療に行く。
ワシが住んでいるのは群馬県北部山岳地帯だ。
まず、里まで降りなくてはならない。
ツタにつかまり、木から木へと下がる。
「ア〜アァ〜ア〜」
奇声を発するのは決まりごとだ。

その声でミーという美女が送りについてくる。
以前はケーという娘とユニットを組んでいた。
ケーはどうやら結婚したらしい・・・。
ミーは健気だが、ワシは期待に応えられない。
ごめんね・・・。

ミーは里まで見送りにきて、そこで別れる。
切なく潤んだ瞳でワシを見つめるが、
その先の進展は今後も無いだろう。
美女だけれど・・・お前・・・日本猿だし・・・
まぁ、節操の無いワシのことだ、
どうしても、というのなら相手もするが・・・。
(だけど猿は興奮すると引っ掻くからなぁ・・・)

里に降りると愛車が待っている。
ワインレッドのポルシェだ。
ここで靴下やら靴やら服やらを身に付ける。
(ふ、普段は、裸かぁ・・・・)
一応、人前に出るのだからしょうがない。

人というのはヘンな動物だ。
車が高級というだけでも嫉妬する。
ワシもそんな煩わしい事は避けたい。
そこでポルシェは改造してある。
超カスタム仕上げだ。

寒冷地仕様のコンパクトカーに改造した。
排気量も660CCに抑えた
外見も国産中古軽自動車仕上げだ。
これで、無用なトラブルは避けられる。
誰もポルシェとは気づかないだろう。

ちなみに本妻の愛車はフェラーリだ。
シルバーメタリックが眩しいぜ。
だが、やはり無用のヤッカミを避けるため、
国産中古軽自動車キズ模様特殊加工仕上げだ。
排気量も660スペシャルだ。
フェラーリと見破る人は、多分いないだろう。

本妻は服にもこだわっている。
オートクチュールだが、
ファッションセンター「しまむら」調だ。
もちろん誰一人気づく人はいない・・・。
ワシの愛人達に気を使っているのだ。
愛人より本妻はめだっていけない。
オナゴの気配りとは、こういうものだ、エライ!

  エスカレーター・2
4/24 (日)

我家は何かにつけ、控えめだ。
(ワシの仕事量が筆頭だ? 放っといてもらおう!)
子供達にも常々言う。
「遠慮しないでヘマをするんだよ。
テストは全力を出すものじゃないぞ。」

でも油断すると100点ばかり取ってくる。
油断は誰にもあるから叱りはしないが
「う〜m、イマイチだなぁ。92点でよかったな」
もちろん、ワザと間違えるのはイヤラシイと教えている。
自然体でヘマをするのも結構難しいのだ。

そんな控えめなポルシェカスタムに乗って、
ワシは新幹線の駅へと向かう。
寒冷地からは気温がみるみる上がる。
桜の蕾が少し膨らみ、やがて一つ二つ開く。
新幹線駅に近づく頃には満開の木も出てきた。
そこで一句。

満開に すぐなる桜は ラテン系

ちょっと優しく(暖かく)されると、
すぐ開いてしまう桜は恥じらいが無い。
しかも・・・満開まで開く・・・。
ワシもオープン系だから相性はいいが、
桜が日本的というのは間違いだろう・・・。

色彩は単一だが、桜花が皆で開く様はリオのカーニバル。
その下で行われる傍若無人な宴会も、
狂祭(カーニバル)というほうが相応しいと思わないか?
桜は人を(少し)狂わせるのだ。
西行や梶井基次郎が指摘したとおりだと思う。

そんな「春の哲学」を思考しながら駅に着く。
コマギレの田畑と雑林と数軒の民家。
何もない山に寄りかかった新幹線駅は、
政治家達の欲望から生まれた孤独な駅だ。
タヌキや猿や熊に混じって人も来るが・・・。

無駄使いしか出来ない政治家を選ぶのは国民だ。
本当の迷惑はタヌキや熊や小生物達だ。
何しろ選挙権も無いのに好き放題されている。
人間達は、地球上で、かなり勝手に生きている。
ごめんね、タヌキさん熊さんタニシさん・・・。

ここから東京駅まで1時間20分。
「移動する空間は冥想場に適している」
ワシ以外でこれを指摘した人を知らない。
(ワシは独自で気づいたが、指摘している人もいると思う)
これには「冥想」のシステムに関係した理由がある。
だが、ワシのいいかげんな雑記で書くのはなぁ・・・
講座でなら話すことにしよう・・・。

だからワシは移動する時間がとても愉しいし貴重だ。
プロフェッショナル・ヒーラーとしても必要な場だ。
いいかげんでもスケベでもプロはプロの日常がある。
毎日、何処かで必ず設けなければならない時間と場だ。

それが出来なくなったら、プロから降りる。
というより・・・愉しいモノを手放すはずない。
だから、多分、一生プロ・ヒーラーでいられるだろう。
これはワシの天職だし、その他の生き方をしたいとは思わない。
(来世、オナゴに生まれたら、別の生き方をするぞ)

テーマの「エスカレーター」は未だ出てこない・・・・

  エスカレーター・3
4/25 (月)

東京駅だ。
光たちと戯れる時間を中断して降りる。
ここからは総武線だ。
駅に着く度に毎回思う事がある。
エスカレーターだ。

ホームから階段とエスカレーターがある。
階段の方が幅が広い。
圧倒的多数は狭いエスカレーターに乗る。
ワシは不思議だと思っている。
足の悪い人がそんなに多いのかなぁ?
心臓の悪い人がそんなに多いのかなぁ?

例えば新幹線。
ほとんど座っていられるのだ。
足を動かせないまま、1・2時間座る。
動かない筋肉は硬くなり、血流も滞る。
階段は絶好の回復場所だ。

乗客の体の回復を計算にいれて階段を作ったのなら、
駅構築関係者に特別賞を出してもいい。
実に素晴らしい。
中には階段が辛い状態の人もいる。
エスカレーターはそういう人用だろう。
そう思っていた・・・。

人は健康を保ちたいと言う。
楽な生活もしたいと言う。
言うだけじゃ変わらない。
思うだけじゃ変わらない。
ならば、両方を満たす方法を実行すればいい。
方法はいつでも山ほど用意されている。

無条件でエスカレーターに乗る人達は、
階段を上る方が体が楽になる事を知らないのか?
年代に関係なく進んでいる日本総白痴化現象。
だから学校で教えるような事とは思わないが、
学力がどうの、こうの騒ぐより大切な事があるだろう。
体と心の白痴化は滅亡へ向かうのだぜ。

白痴化は固定概念から始まる。
「エスカレーターの方が楽だ」
固定概念だから改めて考えない。
脳ミソは生ものなんだ。
動かさないと・・・すぐ腐る。

白痴化を学力や知識量だとしている専門家達。
「アンタのその固定概念が白痴化ですからぁ・・・残念!」
(ギター侍 波多陽区風で・・・)

固定概念は脳ミソを腐らすだけじゃない。
体や心や生き方を腐らせる。
そして未来を腐らせる。
回復できる可能性を腐らせる。

人、それぞれの生き方があるから、
体や心をダメにしたいというのもアリだ(かなぁ?)
依頼されないのにお節介を言うつもりはない。
だけど、皆が皆、早く衰退したいわけじゃないだろう?

  エスカレーター・4
4/26 (火)

固定概念の象徴としてエスカレーターがある。
(そ、そうなの?・・・)
そんなつもりで書き始めたのではないが、
御筆先様の暴走は止まらない・・・。
ワシのハッタリも果てしなく広がる・・・。

エスカレーターは動かなくても移動する。
人間は動物だから、動かないと衰退する。
動物というのは動くと生命力が活性化するモノだ。
固定する、固定される弊害は致命的なのだ。

心の感情部分は固定されると破壊し始める。
内側に向かうと自分を痛める「閉じこもり」
外側に向かうと他を傷つける「暴力」となる。
最近、とても多くなっていると思わないか?

体だけじゃない。
体と心だけじゃない。
体と心と魂(精神)だけじゃない。
個人の未来、運命だけじゃない。

人はどんなにエラソーな事を言っても軟弱だ。
人の心は、とてももろい部分がある。
エスカレーターを作ったのには意図がある。
エスカレーターを浸透させた社会には謀略がある。
(注:機械のエスカレーターではないぞ・・・)

自由な発想は生き方は、国を統一するには邪魔なのだ。
皆が同じ意識のまま、動かないのが操作しやすい。
「楽」と思い込ませて、親切と思い込ませて、
エスカレーターで運べば、反発しないで操作できる。

それぞれが勝手に歩いてもらっては困るのだ。
自由になっては困る、と考える人達がいる。
被害妄想じゃないぞ。
古今東西、いつでも為政者は同じだ。
国民の為、の言葉の底を覗くがいい。
(注:為政者の中には自由を求める人もいるが、
歴史を振り返れば、暗殺されてしまっている・・・)

地球はアホな人間を含めて相互共生で成り立つ。
地球は多種多様なモノたちと交響曲を奏でている。
人間だけがエスカレーターで腐るわけじゃない。
どうしても他の生きとし、生けるモノ達にも影響する。

固定概念の転覆は大きな意味をもっているんだ。
エスカレーターか階段かを選ぶのは、
自分の未来の分かれ道でもあるし、
地球の未来の分かれ道でもある。

(ハッタリもここまで書けば満足だなぁ・・・)

  独・1
4/27 (水)

こんなテーマを書いたのはドイツ(独逸)だぁ?
という意味ではありません・・・。
(す、すいません、思い切りスベッてます・・・)
テーマなんて出任せで、デタラメですから・・・。
デタラメは、出たら芽になる可能性もあります。

芽になったら、上手く育てればモノになります。
モノにならなくても、大抵は食べられます。
ほとんどの芽は、結構美味しいと思います。
育てるのも食べるのも読み手ですから、
ワシの知った事じゃありません。
ワシはオトコの本能のまま、種をバラ蒔くだけ・・・。

今回は禅語の「独」をヒントとしています。
禅語はヒネクレ爺さん達の趣味の言葉です。
ヒネクレていますから、固定概念の転覆にはもってこいです。
社会常識を外れたヤンチャ坊主・・・(ウマイ!座布団一枚)
禅語は言葉遊びの段階で使うモノではありません。
実生活、暮らしに活かして使うモノです。

固定概念の転覆は生命力を活性化しますから、
ワシは体や心の闇(病)からの脱却に使っています。
読み、受け取るだけで回復できる。
そんな独善雑記を目指して、今日も書く・・・。
あぁ、なんて仕事熱心なオッサンだろう・・・
ワシが妙齢の御婦人ならチュしてあげる・・・。
(う〜m。。。また狂ってるなぁ・・・)

「独」は常識的には「一つ・一人」という意味です。
闇(病)に入ると、誰でも思い込んでしまう感覚です。
「孤独・・・私だけ」(だいたひかる・・・)の世界。
この世の仕組みを観れば「孤独」なんてありえません。
常識は・・・かなりアテにならないものです。
「孤独」と感じる事自体が「思い上がり」というものですが、
病み人というのは自分勝手な空想家に変わるのです。

どうせ自分勝手な空想するなら、
ワシのように独善家になればいいのにねぇ。
大抵は独悪家になってしまいます。
悪い空想が好きなマゾ的性格になります。
(生命力の低下ですから無理もありません・・・)

「きっと最悪の出来事が待っているんだわ」
ところが、良かったり、それほどでもないと、
「これは、間違いよ。もっと悪くなるわ」
運命の神様は、結構素直です。
本人の望むように方向を修正してくれます。
だんだん、悪い出来事が起こると、
「ほ〜ら、当たった!」

「私、悪い予感は当たるの・・・」
(自慢にならねぇし、人が離れるぞ・・・)
「いいの。私なんて孤独。一人だし・・・」
いいけど・・・一人は間違いです。
「独」は一人という意味じゃないのです。

  独・2
4/28 (木)

昨日の「ます。です。」調は疲れた・・・。
今日からは横柄な「だ。である。だぞ。」に戻す。
ワシは天上天下唯我独善の水上陽平だぁ!
雑記で威張らなくて、何処で威張ればいいんだぁ・・・。
(雑記でしか威張れない実体が・・・。
でも威張り続ける根性もない・・・。更にナサケネェ・・・)

天上天下唯我独善
天上天下youが独走
天井床下唯我独尊(ち、小せぇ世界だぁ・・・)
これらの「独」はタダの一人という意味じゃない。

「たった一人、一つだから尊いのです」
大抵の解説は単純に「独」を一人としている。
更に「一人だから尊い」という理由を説明してない。
何となく了承してね、という解説法だ。
これが固定概念というヤツだ。

「一人は尊い」のではないぞ。
「独」だから尊いのだ。
「独」と気づくと尊い以外に無いのだ。
「独」は尊い存在と一体という意味だ。

「神は何時でも、貴方と共にいます」
そんな偉い存在が何時も一緒だと思うと気が重かった。
やだなぁ・・・トイレも一緒に入っているのかぁ?
秘密でしていた、あんな事まで一緒だったのかぁ?
ちょっと、悪趣味だよなぁ・・・。
そう、思っていた・・・。

神でも仏でも梵天でも大宇宙でもいいが、
とてつもない尊い存在がアホな自分と重なっている。
ナマケモノでスケベなオッサンと溶け合っている。
一人は一人でなく、一体だった・・・。
一体なら・・・しょうがないじゃない?
今更「離れてくれ」と言っても無理だろうし・・・。

「独」が解ると「天上天下唯我独尊」が解ける。
(注:唯我は自分という意味じゃないぞ)
ワシの「独善雑記」の真意が解る(これはウソだな・・・)
孤独の静寂さが「いい感じ」の状態だと知る。
独活(ウド)が素敵な名前だと思える。
(そ、そうかなぁ? ウド鈴木も素敵な名前なんだぁ・・・)

「独」はその疑問を解決してくれる。
そして孤独感の勘違いを修正してくれる。

別れたオトコやオナゴがいても、
最後まで一緒にいてくれる存在がいる。
しかも・・・かなり優しい存在らしい。
いつも包んでくれているらしい。
だから「孤独」は一人じゃない。

  独・3
4/29 (金)

普段なら愛人Aが微笑む。
愛人Bも来る。愛人CもDも・・・。
本妻だって、何となくいる。
愛しい人達とはいえ、毎日はうっとうしい。
社会生活というのは煩わしいものなのだ。
(誤解されるのは嬉しいから黙っていようかな?
でも一応・・・世間的な愛人という意味じゃないよ)

ところが、ポカっと空く時間がある。
「孤独」の時がある。
人間やその他のモノや出来事と係わる時から、
「独」の世界に変わる。
「独」は尊い存在と二人きりの新婚空間だ。

「独」に気づいてしまったら
「孤独」が甘美な時間だと知る。
普段なら外側に使う「氣」を内側に配る。
尊い存在からの「優しさ」を十二分に感じる。
観えなかった自分を抱きしめる事ができる。

愛人達や本妻を抱きしめるのは生活の営みだ。
心はこもっているが、ある意味、義務のようなものだ。
人と人は支え合って生きている。
人と人は抱きしめ合って生きられる。
愛しい人達と生きるのは幸せなことだ。

ところが「孤独」には次元の違う「幸せ」がある。
社会生活の幸せではなく、絶対幸福の世界だ。
人と人ではなく
自分と、とてつもなく大きな自分。
「孤独」は寂しがる世界じゃない。
絶対安心の安らげる世界だ。

人は人の中で生きている時間と
「孤独」で過ごす時間がある。
その両方が、とても素敵で貴重な時間だ。
それぞれは、質の違った幸せに満ちている。
どちらの時間を過ごせても奇跡なんだなぁ。

「独」は一人ではない事に気づく言葉。
どんな状況になっても、一人ではないと知る言葉。
自分には、もう一つの大きな自分が常に一緒にいる。
何をしても、包んでくれる存在がいる。

この世に生まれて、生きているというのは
とても
ラッキーだと思う。

  卯月05
4/30 (土)

ワシは意識して時事ネタを書かない。
特に社会時事ネタは避けるようにしている。
理由はあるが、ワシ流の方針だ。
それでも言いたい事はある。
時には皮肉と溜息を込めて書くが、
戦争に係わる事以外は抑えているほうだ。

だが、季節の時事ネタは書く。
日本の季節の移り変わりの綺麗さは、
多くの人と分かち合いたいものだ。
どの季節も、どの季節の変わり目も美しい。
風も光も香りも空も海も山も美しい。

日本のチベットと(個人的に)称される、
ワシの家の周りにも桜が咲き出した。
2日続きの異常な暑さ(28度)で、
根性の無い桜達は一斉に膨らみ、そして開いた。
(根性が無いと、ラテン系になるらしい・・・
ケセラセラ、なるようになる♪ いいやぁ、開いちゃえ♪)

コブシの花と梅の花と桜の花が競演している。
花の開いている期間は短いが、
花の命が短いわけじゃない。
花の美しさが終わるわけじゃない。
毎年、同じ木がより大きくなって美しく咲く。

命は見た目の形を変えて、続いているのだ。
そして再び花となる。
花は自分の命が短いなどと思っていない。
再び花を開く事ができると知って生きている。
枝も根もつながっていると知っている。
他の地へ離れた種も家族だと知っている。
だから、再び花開く。

それは「生きとし生けるモノ」全てにあてはまる。
命が続くというのは、花が開くという事だ。
花は一つじゃなく、つながっている。
花の命が短く、終わったと思えば・・・
花は開き難いものなのだ。

「美しさ」は「命」そのもの。
命を輝かせるのは、本人の意識。
桜の花は一年待たなくては咲かないが、
人の花は、いつでも、何処でも咲く事ができる。
人は、いつでも、美しくなれる。

どんな状況でも「命」があれば素敵な事だ。
悲しまないで・・・美しさが曇るから・・・
枝も根も種も家族でつながっている。
そして、花は、必ず開くものだ。

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