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芒種・夏至
6/01 (水)

今月の24節気だ。
黄経75度「芒種」
(アブネェ。。。
とても下品なダジャレを書きそうになった・・・
ツキが変わったのだ。
「氣」を引き締めよう)

人間の基本食として穀物がある。
その種まきの時期という意味だが、
日本ではもっと早い時期に蒔くようだ。
競争社会は早い方ばかりに価値を置きたがる。
早くちゃダメなコトもあるのに・・・

下品な想像したなら、アナタが下品なのだ。
もちろん下品な人には魅力がある。
魅力が無いのは、品の無い人だ。
下品と無品は区別してみよう。
ツキが変わって「氣」を引き締めようとしたのに、
ちっとも下品が変わらんワシだが、魅力も無い・・・
今日は・・・御筆先様、有給休暇らしい・・・

ジューンブライド・六月結婚。
種蒔きの時期に最適なのかぁ・・・。
(オ、オイ・・・そ、そんな即物的な・・・
ロマンチックは何処に行った・・・)

実は、既婚の最高女神Junoの月だからなのだ。
だが既婚の女神はキマジメで嫉妬深い。
人生にはイロイロある。
間違いを許さぬキマジメ女神に守られても、
幸せになれないかもしれないぞ。

黄経90度「夏至」
ご存知、昼が最も長い一日。
(白夜はどうする?)
「陰陽氣」からなら、
「陽極まり、陰生ず」となる。

意外に思われるかもしれないが、
夏至は陰氣が生じ、次第に大きくなる日だ。
万物は流転しているのだなぁ・・・。
陰陽にこだわっても流転しているのになぁ・・・。

風水・氣学・易学・占学
それぞれ趣味で追いかけるのはいい。
だけど「流転」がこの世の理だ。
固定した考えは無理がある。

六月の花嫁も一月の花婿も
生涯独身も多情多婚も
流転している。
誰にでも、同じ条件で幸せはある。
大丈夫だぁ。

  献血考・1
6/02 (木)

「献血」のテーマで03年5月に書いた。
(注1:本館HP コラム1にあります)
あれから2年・・・。
相変わらず、同じ時期に献血している。
年3回の献血は定期健康法の一つだ。

03年は「若返り」の面から献血を書いた。
意識の方向で現象は変化する。
この世のシステムは「ヒネクレ」である。
このことを看破すれば、活用できる。
生命を奉げれば、生命は流れ込んでくる。
生命を欲しがれば、老化は進む。

「若返り」も同じだ。
「若返り」を欲しがる行為では
中々「若返り」は上手くいかない。
だが「若返ってしまう」行為なら出来る。
どうでもいいけど・・・
若返ってしまうんだよなぁ・・・。

何度も書いている内容と同じだ。
捨てれば得てしまう・・・。
離れれば、観えてしまう。
この世のシステムはそう出来ている。

とはいえ、心は得意、不得意分野がある。
ワシは「いのち」が専門だ。
専門でプロだから、簡単に捨てられる。
もっと大きな世界がある事を知っているからだ。
だから、ワープ(時の瞬間移動)も可能だ。

不得意分野は捨てられない。
何かを解放してないから不得意なのだ。
何かに「こだわり」「引っかかって」いるのだ。
ワシの場合・・・愛人だ。
(これは冗談ですよ〜)

ワシは家族も愛人も友人も「いのち」も捨てられる。
(注2: 深読みして下さいね。)
しかし貧乏道宗家某亜流の立場を捨てられないでいる。
道を捨てられないのだ。
だから、金持ちになれない・・・。
(成金願望があるわけね・・・
貧乏道なんてエラソウに書いてもナサケねぇなぁ。)

このように話がドンドン横道にそれるのも、
雑記テーマなど、いつでも捨てられるからだ。
(って、威張れることじゃないなぁ・・・)
そう、献血の話だった・・・。

どんな理由があろうとも献血は献血だ。
心の中までモンクをいう筋合いはない。
キチンとした血液を必要として「場」がある。
緊急医療は理屈を話している時間がない。
だから、献血の心構えを説いているわけじゃない。
まずは献血に参加してくれればいい。

  献血考・2
6/03 (金)

誰でも心の底に共通して、ある思いがある。
「誰かの為に役立ちたい」
素直に表し行動に移せる人と、そうでない人がいるだけだ。
誰でも、他の役に立ちたいのだ。
誰でも、優しさがある。

「誰かの為に」
この思いは大切だからこそ、捨てる。
この世は、捨てると実になる仕組みなんだ。
「自から離れる」から「他の為」になる。
当たり前なんだけど、気づき難いよね。
特に大切だったり、培ったりしたモノは捨て難い。

キリちゃんも何処かで言っていた。
「一粒の種、もし死なずば。もし死なば」
同じ種でも、捨てるか、捨てないかで結果が違うのだ。
大切だからこそ、捨てると役に立つ。
とても深い言葉だと思う。
理解できても実践が難しい言葉だ。

献血はどんな思いがあっても、実行するのが優先。
その上で、更に役に立つ方法がある。
同じ献血だから、目に見える成分に変わりは無い。
だが「いのち」は成分以外のモノで変わる。
「氣」というヤツだ。

「氣」を呼び、発生させる方法は幾つもある。
その一つに「意識」がある。
「意識」の使い方も幾つもある。
その一つに「捨離」がある。
キリちゃん(イエス)の言葉が示した内容だ。

「大切な自分の血を犠牲にして」という思い。
間違いなく「大切な自分の血」だ。
だが「犠牲」は間違いだ。
「捨離」は犠牲じゃない。
活かす方法だからだ。

捨てられなくて、する献血。
捨ててしまえる献血。
「自分の温かい思い」の話だ。
「温かい思い」だから捨てる。

もうお前(注:B型の血だ)はワシの血じゃない。
これで親子の縁を切る。
(お、親子かなぁ?)
何処に行こうが好きにしろ。
元気でありゃ、それでいい。

こうしてワシから独立(?)した血は、
何処かの誰かの体の中で生きる。
少し・・・心配もある。
輸血された人にも影響がでる。
いいかげんな性格になるかもしれない。

  献血考・3
6/04 (土)

大切な血(思い)。
温かい血(思い)。
だから、自他の役に立つ。
冷たい思いは、自他の役に立たない。

大切な血(思い)を自分の為に使う時、
捨ててはダメだ。
死んじゃうぞ・・・。
だが、他の為に使う時には、
捨てれば更に活かす事ができる。

自他では意識の使い方が逆になる。
この点が理解され難いようだ。
(深い表現なら、自他の意識の使い方は同じになる。
しかし、深く自分を使える人はマレなのだ・・・。
理屈で解っても、実行は難しい。
他より、自の方が、難しいのだ)

親が子供を思う。
とても大切に温かく思っている。
それは・・・親側の気持ちだ。
それは大事にとっておこう。
自分の為だから。

同じ思いを、そのまま子供に使うと、
子供は自立し難くなるのだ。
自立できない子供は苦しむ。
子供は「大切な他」なのだ。
他に使う時には、捨ててこそ活きる。
親心は捨ててこそ、親心が活きる。

本当に大切だから捨てる事ができる。
「捨てる」のは「冷たくする」のではない。
「厳しく」するのでもない。
「無関心」になることではない。
相手を最高に思えば、捨てる事ができる。

捨てなければいけないわけじゃないが、
捨てれば更に活かせる。
同じ献血をするなら、捨てる方が元気になる。
使われる相手が、更に元気になる。

そして、ここからが不思議な仕組みだ。
「生命」は不思議に満ちている。
中途半端な知識で語るモノではない。
ワシは「不思議な仕組み」を「ヒネクレ」と表現する。
この世は、ヒネクレている。
生命の仕組みは、この世の仕組みと相似している。

血は「生命の氣」を宿している。
捨てれば、不思議の仕組みが動く。
(捧げると表現するのは、少し恥ずかしいだろ)
生命は捨てると、流れ込んでしまうのだ。

  献血考・4
6/05 (日)

献血後に体と対話する。
ヨガは「結び」だが段階がある。
初期段階に体と心の結びがある。
慣れれば、体の声を聞くことができる。
たいして難しいことじゃない。

「難しい」のは「難しいと思う心」があるからだ。
「難しいと思う心」は肩の力を入れてしまう。
たいして難しくないモノを、難しくしてしまう。
自然体になる事を目指しているのだ。
無駄な努力はいらない。

献血後の体は嬉しがる。
ワシは何故だか解らなかった。
「お、お前(ワシの体)は、マゾヒストか?」
大切な血を抜き取られたのだ。
少し、はしゃぎ過ぎじゃないのか?

(注:以前は自分の脈で自然に献血していたが、
最近は機械が吸い出すようだ・・・。
これって、「氣」の観点からは問題アリだ。
今の西洋医学は血の「生命の氣」の部分を理解してない。
自分から流れ出る血の方が生命は多いのに・・・)

この世がヒネクレている事。
「生命」がヒネクレている事を知ると、
献血後、体が喜ぶ理由が解った。
「コ、コイツ等(注:ワシの肉体です)、
新しい生命が生まれ、はしゃいでいる・・・」

血が出て行き、新しい生命が発生する。
一見、矛盾。
嫌な上司が転勤すれば、職場は活気付くかもしれない。
(注: ワシは組織勤め経験ありませんので想像です)
しかし、嫌な上司でも役にたっていたはずだ。
(ん? そんなことはない? 役立たずが多い?
ま、まぁ、建前論でもいいから・・・)
力(血)が抜けて、活気付くのはヒネクレているからだ。

「生命」と付き合うと、矛盾が起こる。
というより、今までの固定概念が間違っていたからだ。
矛盾はない。
あるいは、矛盾が、当たり前。
どっちだっていい。
「生命の氣」は次元を超えて発生するのだ。

ワシの体が生命の活気に喜んでいる。
同時に、何処かで使われる、
嘗てワシの体にいた(少しいいかげんな)血達。
共鳴して喜んでいるのを感じるのだ。

献血って、
わるくないぜ。
体も心も。
自も他も。

  半魚人・1
6/06 (月)

ワシは幾度も目からウロコが落ちる。
あまりに多いので変だと思っていた。
そして、気づいた。
ワシは・・・半魚人だった。

十代の終りから精神世界という怪しい世界を観た。
あるいは「観た、と勘違い」してきた。
ウソや勘違いが判断しにくい世界だ。
理解段階の違いで観えるモノが変化する。
「これが真実!」などと力んでしまう。
困ったもんだなぁ・・・

怪しいけれど、ウソだけでもないようだ。
知ると世界の観方が変わる。
いろいろが解決することもある。
かえって迷うこともある。

知ろうが知るまいが、迷うのは同じ割合だ。
ここが観えないと迷っていることにも気づかない。
精神世界スキスキ人間の陥りやすい点だ。
知ったことで、自分が一段高くなったと錯覚する。
精神世界は錯覚だらけの世界だ。

後年、二人の御師匠様と御縁をいただいた。
すると、ポロポロ、ボロボロとウロコが落ちる。
目だけじゃない。
耳も(それは・・・ミミクソ・・・)
身体も(それは・・・アカかもしれない)

落ちるウロコが沢山あるのなら、
ワシがウロコだらけ(アカも)だったのは事実だ。
「ワシ、未だ、人間じゃなかったのか・・・」
そう思っていた。
ならば(マトモな)人間になるのが目標だと思っていた。

ある時、この世の仕組みがヒネクレだと知った。
神もヒネクレていると知った。
ヒネクレはワシの得意分野だ。
体質として持っている。
「そうか、ワシは神に選ばれた子なのかぁ」

とは思わなかった。
理由は謙遜でも、冷静だったからでもない。
(ヒネクレた性格だけで神の子とは思わんな、普通)
堕落した人でいる方が楽だからだ。
偉く立派になんて、絶対、絶対なりたくない。
普段使わない根性や努力を使っても、グレてやる。

「人間じゃなくてもいいやぁ」
実は、そう、思ったのだ。
この地球上には多種多様な存在がある。
人間が特別に偉いわけでもなさそうだ。
むしろ・・・偉くない方の優勝争いをしているかも。
「人間以外でもいいやぁ」

  半魚人・2
6/07 (火)

捨てると褒美が貰える。
その時はそんなことは知らなかった。
まぁ計算して捨てても褒美は出ない。
ホントに捨てた事にならないからだ。

ワシはウロコだらけの半魚人だった。
脳ミソなんて、人間の半分だ。
計算ができなかった。
根性もなかったら、あがきもしなかった。
人生(半魚人でも人生だな・・・)
何が幸いするか判らん。
脳ミソが半分で、根性が無いのが吉と出た。

「(マトモな)人間じゃなくてもいいや」
アッサリ捨てたから褒美が出た。
建前上、捨てたからには褒美を出す。
神様は「いいかげん」だから律義な時もある。
「いいかげん」には律義も入っているんだ。

褒美は・・・ワシの体を変えた。
何だかわからないが、とにかく、変えてしまった。
これって・・・褒美かなぁ?
罰だったりして・・・。
(注1:変えたのが神様かどうかはわからないが、
この世の出来事は全て神様の仕業、という考え方なら、
こういう言い方でもいいのだと思う・・・)

まぁ、いいか。
神様のする事に抗議しても仕方ない。
ワシは神様には逆らわない生き方だ。
強いモノにはへつらおう・・・。
(注2:人間の権力者は強いとは思ってないから、
ワシは平気で逆らうし、モンクも言う)

故御師匠様が媒体となって変えてくれた。
今はそう思っている。
普通の人より劣っていても生きているのだ。
少しはマトモにならなくては可哀想だ。
偉大なナニモノかが、そう思ってキッカケをくれた。
氣功師の体とはそんなものだ。

氣が出る能力と氣功師の体は次元が違う。
これは説明して解る話じゃない。
氣功師の体の人は最初から解る。
今回の「半魚人」は、その違いの一端を書いている。
雰囲気で、何となく(違いを)感じてくれればいい。

体が変わったら、世界が変わった。
二つの世界を行き来できるようになった。
海と陸だ。
ワシは半魚人を自覚し出した。

  半魚人・3
6/08 (水)

海に興味がある人がいる。
いろいろ勉強などする。
成分はナトリウム、カリウム、カルシウム、
マグネシウム、その他アレコレ・・・・
温度、海流、深さ、濃度、アレコレ・・・。
マニアというか・・・詳しい・・・。

海の知識が溜まると、海の住人のように話す。
「海とは、アレコレ・・・」
ワシもそうだった。
半魚人を自覚し、実際に海に入るまではね。
思い出すと、恥ずかしいというか、可愛いというか・・・
今もアホだが、大アホだったなぁ・・・。

海の中から観る景色。
知識や理屈では絶対解らない。
知識や理屈があると、かえって観え難い。
海に詳しくなればなるほど、海の事が解らない。
「理屈じゃないんだ。頭を使うな」
御師匠様の言う通りだった。

陸の世界は陸の法則がある。
例えば、上と下が判りやすい。
リンゴが落ちてくるからだ。
ニュートンが海に住んでいたら、
リンゴから万有引力は思いつかない。
沈むリンゴも浮かぶリンゴもあるからだ。

海の世界は陸の感覚で言うなら・・・
不思議
わけが、わからん。
何でも、アリ。
だから、とても、ワクワク。

居るだけで、ワクワクする感覚。
海は「生命」を揺り動かす世界のようだ。
「生命」に直結しているようだ。
ワシは半魚人となり、陸と海に住む。
仕事は「生命」を活性化する役目だ。

海を泳ぐ人間もいる。
泳ぎは上手い人も下手な人もいる。
力強く泳ぐげる能力がある人間もいる。
でもねぇ・・・魚人じゃない。
海の世界に触れる事と
海の世界に住める事は違うんだ。

泳ぎは能力だ。
だから泳げるのがスゴイと思うかもしれない。
それは、そうかもしれない。
でも、泳ぎの延長が海の住人になる入り口じゃない。
わかって下さいね。
半魚人は、マトモな人間より劣っているのです。
それでいいやぁ、と納得している根性無しです。

  半魚人・4
6/09 (木)

泳ぐ能力があり、海の知識がある。
海通・・・海オタク・・・海バカ・・・。
海は素敵だなぁ♪ 恋してるからさぁ♪
(かなり年代が限られるフレーズだと思う・・・)
海って、そんなもんじゃないんだけどなぁ・・・。

どんなに努力しても海中で息はできない。
立派な人間になるほど、魚人にはなれない。
中途半端な人間だけが、半魚人の資格を得る。
劣っていると自覚できたら、海の水で息ができる。
この世は、とても、とてもヒネクレているのだ。

陸上で海の話をするのは趣味だ。
海関係で商売だって出来る。
上手く儲けてね。
ワシの知ったことじゃない。
でも、本気で魚人だと思わないでね。
海の中では溺れちゃうよ。

海の生物は理屈を言わない。
そりゃそうだ。
理屈を覚える意味がわからない。
必要ないから。
理屈は陸の人間だけが言う。
解らないから、必死で言う。

半魚人になってみると解る事がある。
人間は・・・リキミすぎだよ。
それでは、海の中では溺れてしまう。
法則にしばられれしまうと、海中では自由に動けないぞ。

陸上の道は立派な人間を目指すのかもしれない。
でも、海の中で立派な人間にはなれないぞ。
海の中でなれるとしたら、魚人だ。
魚人になると、半分しか人間になれない。
海の中にあるのは、人間の道じゃない。
人間の道のヒントにはなるかもしれないが・・・。

海にも道はあるけれど、陸の道とは構造が違う。
陸は平面に道があるけど、海は立体に道がある。
法則にとらわれては、道を歩けないんだ。
だから人間として半分失格な「いいかげん」が、
半魚人の素質となるんだ。

「思い込んだぁら試練の道を♪」(注:巨人の星)
これは陸の人間の歌だ。
成り上がる事を目指す努力と根性の歌だ。
(最近は巨人の星を目指すのはダサイといわれる)

海の中からも星は仰げる。
巨人の星ではなく、魚人の星だ。
魚人の星は「自由」を目指す方向に輝く。
海は道を試練にしない。
海の道は力を抜くと楽に泳げる道だ。

  半魚人・5
6/10 (金)

半分ウロコを残した中途半端な生き物。
海中でも陸上でも息をする節操の無い生き物。
脳ミソが少ないので、考えるより感覚で動く。
根性が少ないので、無理が出来ない。
自然体でしか、生活できないのだ。

海中にいると体も心も楽だ。
陸に上がるとよく解る。
陸は重い・・・。
それは固定概念という鎖のせいだ。
いろいろな鎖を自分で巻きつけている。
鎖で作った社会が陸の生活のようだ。

固定概念は重力かもしれない。
海は重力がないわけじゃないが、少ない。
そして、生命を発生、育成、応援する。
海水自体が、生命を包んでくれている。
「場」に抱かれて「いのち」が楽なのだ。

だが人間は海の生物として生まれなかった。
陸の生物を目指したからだ。
進化する事を選んだ生物だ。
「いのち」より進化を選んだ。
そういう生き物もアリだろう。

ところが大勢の中には、必ず外れモノがいる。
外れモノがいないと社会が成り立たない。
(これは社会構成上、必要だからだが、
専門家以外あまり知らないみたいだね)
外れモノは、中途半端な生き物だ。

半魚人は最初から外れモノとして生まれた。
マトモな人間が堕落すれば成れるわけじゃない。
最初から半魚人として生まれていたのだ。
海中に入って、それが理解できる。
進化でも退化でもない。

人間社会に生まれた半魚人だ。
少しは・・・悩む。
どうして、マトモな社会人に成れないのだろう?
どうして中途半端なんだろう?

親や周りの人も言う。
「アンタがだらしない・・・」
「努力が足りない」
「常識が無い」
ごもっともです。
半魚人だったのですから・・・。

  半魚人・6
6/11 (土)

「文明」は陸の生物の特徴だ。
「自然」は海の生物の特徴だ。
どちらも進化する。
あるいは、変化し続ける。

だが「文明」は進化を促進する。
変化・進化を急ぐ。
人間は「進化したい」と思っているからだ。
急いだ先に何があるか、わからない。
あまり・・・そこまでは考えないみたい。

「自然」はゆっくり進化する。
基調が「調和」だから急がない。
急げない。
「なるように、なるさ。ケセラセラ」
「アッシラーム。神のおぼしめし」
少なくても・・・根性は無いな・・・。

陸が急いで進化したがっているのに、
海は急ぐのが苦手だ。
だが陸も海も同じ地球の一部だ。
どうしても、影響がある。
ノンビリ屋の海。
セッカチ屋の陸。
海側が押され、侵されてしまっている。

陸上の人間が海に口を出す。
海に関心がある人間はマジメが多い。
マジメは「正・誤」を基準にしている。
そして誤りを許せない性癖を持っている。
だから・・・攻撃的になる癖を持っている。
「正・誤」は立つ位置によって違うのに・・・。

魚人は攻撃も反撃も苦手だ。
だから・・・少しづつ引っ込む。
根性が無いのだ。
議論は苦手だ。
というより、議論する意味がわからない。

海は「正・誤」を基準にしていない。
海は「生命」を基準にしている。
だから・・・魚人は思う。
海の解説をする人間に思う。
「そ、それ、違うんだけどなぁ・・・」
声は・・・小さい。

ワシは半魚人。
ワシと同じ半端人間も多い。
皆、声は小さい。
(ワシは大きい方かもしれない)

  半魚人・7
6/12 (日)

海を語る人間の勘違いがある。
海は真実の世界だ、と思っているらしい。
海も陸も真実だよ。
あるいは・・・
海も陸も多種多様だよ。

基準が違う。
海は「真実」なんてどうでもいい。
ただ、ある。
それだけだ。
それで充分だと思えないかなぁ?
魚人になれば解る。

「生命」に理屈はいらない。
真実を求める必要もない。
だから「正・誤」をもちださなくていい。
嬉しい・愉しい・気持ちいい、が方向だ。
「生命」は誰でも判るようにできている。

「真実」は動かない(らしい・・・)が、
「生命」は常に動いている。
「生命」は「いいかげん」なのだ。
海の世界は「いいかげん」なのだ。
海の世界は不マジメなのです。
わかって下さい。

頭のいい人間やマジメな人間は魚人に向かない。
もちろん悪気は無い(と思う・・・)が、
「生命」をいじってしまう。
すると自由(自然)が栄養の「生命」は弱化する。
気づいて下さい。
直接「生命」に触れる役目には不適です。
できれば・・・手を引いてほしい・・・

これは頭の悪い根性無しの半魚人のつぶやきです。
でも海の中に入れます。
海で半分暮らせます。
そういう体ですから、当たり前です。
理屈や法則や知識は知らないけど、
海の世界を肌で知ってます。

半魚人は、話が苦手。
魚貝海草は好き。
獣肉は苦手・・・。
いつも裸だから、隠す事が苦手。
いろいろが、少し・・・足りない。。。

  半魚人・8
6/13 (月)

半魚人は生命を活性化する能力がある。
海が生命を活性化するのだから、当たり前だ。
努力や精進して得た能力じゃない。
魚人の体なら当たりまえの能力だ。

例えばアメリカの5歳の子供は英語を話す。
フランスの子供はフランス語を話す。
努力で覚えた能力じゃない。
他国の頭のいい人が努力しても話せるようになる。
しかし、努力無しの子供にはかなわない。
比べる事が出来ない当たり前の能力だからだ。

人間が努力して海中に潜れるようにもなる。
けれど無理している。
いつまでも潜っていられない。
無理は生命を弱化するだけだ。
魚人は無理も努力も無しで海中に潜れる。
海中にいると、生命が活性化する。
違いをわかって下さいね。

泳げる事、潜れる能力がある事と
魚人の体は別次元。
比べる事が出来ない。
ある意味・・・申し訳なく思う。
努力し精進して潜れても、
根性無しのワシ等と同じ能力にはなれない。

どの分野でも同じだ。
能力は不公平なのだ。
半魚人のワシにダンスの能力は無い。
経済的能力も地位獲得能力も僅かしかない。
半人前の人間では努力しても無理なのだ。
(努力もしないけど・・・)

ゴメンネ。
海中に関しては、魚人でなければ解らない事が多い。
立派な人間の間違いを一々指摘しないけど、
あまり出しゃばらない方がいいと思う。
海は・・・そんなに甘くない。
結構、塩辛いんだ。
思い込みだけだと、シッペ返しがある。

海を目指そうとする人間がいる。
趣味の段階でいるならいい。
海中に潜るのも趣味ならいい。
でも気づいて下さいね。
陸から海には住めない。

半魚人は
ある日、半魚人だった事に気づく。
気づいた半魚人なら、
海中に潜っても溺れない。
そして、自分の役目を普通にこなす。

  代償・1
6/14 (火)

人と人が出会う。
人と人以外が出会う。
人以外と人以外が出会う。
そこに交流が生まれる。
この世は「出会いと交流の場」だ。

出会えば、否応なく流れるモノがある。
ある人は、それを「氣」と言う。
ある人は、それを「因」と言い、
ある人は、それを「果」と言う。
森羅万象は「流れ」で創られている。

出会えば、否応なく流れるモノがあるが、
その「質」や「方向」は決ってない。
影響し合う、当事者の「意思」による。
「思えば叶う」というのは未熟なセリフだが、
(半生知識者を騙す場合にも使われる。
ほとんどは単なる受け売りで話している)
「思えば変わるキッカケにはなる」

ワシは病からの回復を目指す人にこう言う。
「思っただけでは変わらない。
行動に移して、変わり始める」
この世は、あの世じゃないんだ。
「思えば変わる」のはあの世の法則だ。
この世は「行い」が優先する。

更に(当たり前を)言う場合もある。
「思い通りに叶うとは限らない。
しかし、行えば、必ず何か変わる。
マチガイナイ!」

更に更に(当たり前を)言う場合もある。
「プラスに思えばプラスの出来事。
マイナスに思えばマイナスな出来事。
そんなに単純じゃないからね。」
理屈だけの甘チャンの言葉を信じて、
希望を無くす人が多いからだ。

希望は無くす必要がない。
「未来はわけがわからない」からだ。
生命力が弱ると、どうしても暗く考える。
「マイナスしか考えられないから、マイナスが起こる」
そんな事はない。安心してくれ。
それでも「いい事」は起こる場合もある。

生命力を活性化する方法は幾つもある。
山ほどあるけど、行うのは本人。
その中の一つに「代償」がある。
「代償」の使い方がある。

  代償・2
6/15 (水)

人間の分際で、真のプラスやマイナスは判断できない。
自分勝手な「プラス」が「真のプラス」とは限らない。
それ以前に、プラスとマイナスがあるかどうかも判断できない。
人間の段階は・・・アホなんだ。
だから、希望はもてる。

プラス・マイナスは判断し難くても、
明るい・暗いは判断しやすい。
未来はわからなくても、
「明るく思えれば、その時は明るい」
これは、当たり前だ。

未来は「今」に隠れている。
過去も「今」に隠れている。
「今」この瞬間は、結構幅がひろい。
だから、いつでも、希望が持てる。

多種多様な生き物が、それぞれ「思う」。
自分だけが優先して思い通りになるわけがない。
思い通りにならなくても、今を生きる事は出来る。
今を明るくする事は出来る。
する、しないは本人の行いだけだ。
たまには暗くても風情があるし・・・。

出会いと交流に影響し合う、
お互いの、その「思い」
お互いの、その「行い」
そして未来の形が創られる。

自分が積極的に変わろうとするなら、
「思い・行い」の「流れ」を濃くする必要がある。
濃くする方法の一つが「代償」だ。
この「代償」が人間の社会を形成してきた。
「代償」をあまり使わぬ他の生物との違いだ。

変化の為の代償として、いろいろ用いる。
労力・生命・時間などだが、
近代になり「お金」が多く使われる。
代償の共通代用だ。

共通の価値を代用するお金は便利だ。
だが便利すぎて、あくまで「代償」だった事を忘れる。
その為「お金」だけを求める本末転倒が起きた。
今では、本末転倒が「常識」になった。
人間って・・・かなり・・・変わっている・・・。

どんなに変わっていようが、そんな事はいい。
趣味で集める「お金」も、それぞれの勝手だ。
だが「変化」を求める代償だ。
代償を使わず、変化だけ求める風潮が多くなった。
それでは、変化し難いぞ。

  代償・3
6/16 (木)

お金は変化を促進する「代償」だ。
変化しないモノを購入するのならどうでもいい。
例えば、100万円の車を買う。
騙されて200万を払ってもいい。
オークションで10万円で買ってもいい。
高くても安くても無料でも、どうでもいい。
車は変わらない。

しかし変化を求める場合は違ってしまう。
「○○が欲しい」と「○○になりたい」の違いだ。
そして未来は変化によって方向が決る。
濃く生きたいのなら「代償」が必要だ。
何でも安けりゃいいわけじゃない。
有料より無料がいいわけじゃない。

有料と無料の違い。
お金の有無じゃないのだ。
「変化」の濃さの違いだ。
タダではタダ分の変化しかない。

ボランティアを単純に無償とする愚かさ。
社会を住みよくしたいのなら、
もっと深く物事を観て欲しいと思うぜ。
(反論があるだろうなぁ・・・
まぁ、解る人には解るから、いいか・・・)

濃い変化が必要な一つに病気回復がある。
積極的な健康がある。
回復や健康をモノと同じに考えてしまうと、
少しの変化で止まってしまう。
単純に金額の多寡ではないが、
「代償」をせずに変化は濃くならない。
(双方に「思いと行為」があるのが前提。
インチキや能力の少ない相手は論外)

何でも金額の多寡で判断する風潮になった。
「お金は多く欲しい。
払うのは少ないほどいい。」
本気でこう思っている限り、
味気ない未来しか訪れない。

「代償」という意味。
自分の人生の変化の代償だ。
お金は有効に使うモノだ。
変化しないモノに使うのか?
変化する為に使うのか?

生き方を変える。
誰でも変える事ができる。
それには代償が必要だ。
しかし「お金」が必要という意味ではない。
「お金の代償」も山ほどある。

  代償・4
6/17 (金)

ワシが「氣功療法院」を開院する前の話だ。
いろいろな人の体に氣功療法をさせていただいた。
ワシの経験をさせていただくのだから料金は無し。
とにかく、あらゆる事が初めてだらけだった。

いろいろな体がある。
いろいろな家庭がある。
いろいろな考えがある。
いろいろな悩みがある。
そして、いろいろな反応があった。

まだ氣功の御師匠様が存命の頃だ。
「治療費をもらわなくてはダメだぞ」
そう言われていたが、イマイチ意味を理解できなかった。
自分の能力も不明のままだ。
料金なんて言い出せない。
経験させていただく、こちら側が払いたいくらいだ。
(今でも、学びが大きいと、そう思う事がある)

数年前に亡くなったが、ワシの尊敬する人がいた。
関英夫先生だ。
(亡くなる一週間前に手紙をいただいた・・・)
故関先生の御著書の中にも書かれていた。
「適切な治療代は患者の為である」
初期は、本当の意味が解らなかった。

「代償」という意味を理解するようになり、
「お金」の意味が理解できるようになった。
ワシは理解できるが・・・
クライアントが充分理解しているわけでもない。
料金はワシの為じゃないのになぁ・・・

ワシがこんな体(氣功師)になる前の話だ。
ワシの母上は持病があった。
原因不明だから病院では治せない。
健康食品やら健康器具やら買った。
とても高額だった。
だが・・・変化は無かった。

「お金が代償」となるわけじゃない。
「代償としてお金」が使えるだけだ。
変化を求めて、幾らお金を注ぎ込んでも
「代償」でなければ変化はない。
変化は相手との交流・共鳴が前提だ。

変化できる相手と出会い交流した時、
「代償」は最後の条件になる。
そういう相手と出会えるのは
いろいろな意味を含め・・・「縁」だ。

例えば病気回復の場合
治療側が差し出している「病を受け取る覚悟」
(注:覚悟のある治療側のみの話ですよ〜)
それに対応する「代償」はクライアント側だ。
単純に金額の多寡じゃない。
お金に乗せた「思い」が「代償」だ。

  代償・5
6/18 (土)

ワシは「代償」に時間は関係しないと思っている。
というか・・・「思い」は時間を超える。
つまり、今、この場で具体的な代償行為が無くてもいい。
代償行為が出来ない状況も沢山あるのだ。

代償の代用、お金が無い場合はかなりある。
(我家では慢性的に大ピンチ・・・もう慣れた・・・)
それでも「代償」はできる。
「代償」の本質は「思い」だからだ。
全くお金が無くても、病は回復できる。
大丈夫だ。

お金は魔力がある。
有っても無くても判断を狂わす。
息を吐いて、冷静になろうね。
有ったら、キチンと使う。
使う事によって、代償が出来る。

無かったら、キチンと「思い」を残す。
代償は済んでなくても、借りる事ができる。
「思い」が借契約書だ。
いつか、出来る時に完結すればいい。
「代償」は堂々と借りていいのだ。

社会的にはどんな事でも誤魔化す事はできる。
だが内面の「思い」は嘘がつけない。
その内面の「思い」が「代償」だ。
だから「代償」は魂の契約書になる。

社会的な約束は破っても大丈夫だ。
トラブルがあるだけだ。
(それがメンドウなら破らない事だね)
だけど魂の契約書を破ると・・・
とても大きな反動が来る。
とても、とても割りが合わない。
絶対破らない方がいいぞ。

故御師匠様や故関先生はそれを知っていた。
だから「治療費を貰え」と言った。
治療師の生活の為じゃない。
故御師匠様はあくまでも患者の味方だ。
患者の回復の為を教えてくれたのだ。
「本気で治すなら、キチンと貰え」と言った。

ワシも今なら理解できる。
だがクライアントに細かな説明はしない。
有るのに使わない人もいる。
それは、それでもいい。

「金より命」と誰でも言うが、
実際は「命より金」を大事にする場合が多い。
そういう生き方もアリだと思っている。
いろいろなパターンを経験する為に生きている。

  代償・6
6/19 (日)

お金は「代償の代用」ではあるが、それだけじゃない。
お金は多くの人の「思い」を込められる。
「人の思い」は、ほとんどがワガママだ。
だから「お金」はどんどん性格が悪くなる(ハハハ)。
だけどお金の話は、また後で・・・。

代償は「離捨」のシステムだ。
離す・放すと得てしまう。
得ようとすると、逃げてしまう。
形だけ、放しても代償にならない。
惜しみながら捨てても代償にならない。
二兎を追う者、一兎も得ず。

「離捨」は「感謝」で手放すモノだ。
別離は感謝すると、得る。
別れたオトコ(オナゴ)に未練を残すと、
良縁を得ることができないぞ。

「ありがとうね。バイバイ」
あっさり別れよう。
あっさり捨てよう。
その方が、お互い幸せになる。
(話が・・・ちょっと横道だ・・・)

命を差し出す行為を「奉仕」というが、
簡単にできるわけじゃない。
「代償」は命の代わりだ。
それで通常は充分なのだ。

矛盾した表現だが・・・
生命の回復に命を投げ出す。
すると変化がワープする。
奇跡の仕組みは単純だ。
この世の仕組みはヒネクレている。
ヒネクレているが、ワンパターンだ。

でも、命を(あっさり)投げ出せるのは、
モロモロの条件が無いと通常はできない。
未練無しで命は・・・投げられないよね。
だから「代償」を使う。
「代償」って、使う側の為なんだ。

遠慮なく「代償」を使おう。
命は一つしかないし・・・
誰でも「代償」で支払っている。
そして「代償」を受け取っている。
お互い様だ。
あっさり、さっぱりとした交流をしようぜ。

  富豪・1
6/20 (月)

経済的に綱渡りをしていた。
綱に油が塗ってあった。
自転車操業から一輪車に変えさせられた。
一輪車のタイヤの空気を抜かれた。
時々、銀行が棒で後ろから突っつく・・・。

常に綱渡りをしていれば、これが日常だ。
落ちないように、なんて気は使わない。
スリルは愉しむ為にある。
ワクワクを毎日愉しめる。
これって、結構・・・ラッキーかも・・・。

誰だって、いつ落ちるかわからない。
石橋が安全というわけじゃない。
石橋だって壊れて落ちるんだぜ。
磐石のように見えるだけだ。
石の下は空が広がっている。
生きるのは誰でも同じ条件だ。

とはいえ嫌味を言われるのは面白くない。
関係ない、と切れない相手だ。
銀行と縁など結ぶもんじゃない・・・。
もちろん、悪いのはワシの方だ。
ワシの不徳なのだ・・・。

未来はわからない。
石橋が安全でないように、
綱渡りが幸運に変わる事もある。
何時、何が起こるのか、誰にもわからない。
予言も占いも不確定要素が多すぎるのだ。
全てウソとは言わないが、
本気に受け取るのは愚かだぜ。

何が起こるかわからない。
ある日、億の金が降って来た。
気まぐれで買った宝くじ。
綱渡りだから、買った宝くじ。
ワシだって、弱気になり、宝くじも買う。

交通事故も飛行機事故もあるんだ。
宝くじだって当たる事がある。
どんな人だって、結婚できる・・・。
(励ましになってねぇ・・・)

とりあえず、銀行とは縁が切れた。
(借)金の切れ目が縁の切れ目だ。
もう・・・アナタ(銀行)と一緒に歩きたくない。
アナタと出会って幸せだった、とは思わないが、
お礼の言葉は心から言おう。
「過ぎてしまえば、結構愉しかったぜ!」

  富豪・2
6/21 (火)

由緒正しい貧乏道宗家某亜流の末裔だ。
億の金くらいで性格が変わるわけじゃない。
ワシは筋金入りの「いいかげん」な性格だ。
富豪にふさわしい生き方なんぞできるわけがない。
今までと同じ天上天下唯我独善だぁ。

銀行という、うっとうしい「縁」が切れたのだ。
「金でつながる縁」は、うっとうしいのだ。
ワシが富豪という理由で近寄るならば、
間違っても「縁」は結ばないぜ。
ワシは今までの縁だけでも充分幸せだ。

一夜にして富豪になったのだ。
一夜にして貧乏に戻って不思議はない。
お世話になった友人知人愛人達がいる。
金でよければ、持っていってくれ。
「感謝の氣」は込めてある。

たかが金でも役に立つ。
気持ちを込めれば役に立つのだ。
たまには富豪も悪くない。
笑顔が増えるのは、悪くない。

ワシのライフワークは生命の活性化。
生き方が富豪で変わるわけがない。
富豪でも貧乏でもワシの仕事は同じだ。
生命が喜ぶことは、生命との交流だけだ。
富豪や貧乏はオマケみたいなものだ。

いつでも崖っぷちを歩いていた。
ワシのようなタイプは安全が苦手なのだ。
広い道は飽きてしまう。
だから、この仕事をしていける。
安全を求めるなら、この仕事は無理だ。

「いつでも命懸けだぞ」
故御師匠様の言葉が理解できる。
ダラシナイしナマケモノだから出来る。
崖っぷちを歩いて、一人前が保てるのだ。
富豪で安心できるほどマトモじゃない。

そうかぁ・・・
ワシ・・・マトモじゃないなぁ・・・。
本妻さん、ゴメンネ。
愛人さん、ゴメンネ。
ワシは、危ない道が好きみたい・・・。

由緒正しい貧乏道宗家某亜流水上一族の末裔だ。
富豪になるのが恥ずかしいとは思わないが、
富豪であっても崖っぷちから綱渡りで歩きたい。
いつでもギリギリで生きていたい。

ふと足元を見ると、まだ綱の上だった。

  活かす・1
6/22 (水)

「い、いく〜!」
「ふっ、いかせたぜ!」
という興味ある妖しげな言葉ではない。
それを語るにはワシでは役不足だ。
ワシは半元気なオッサンだぜ・・・。

ワシはとても不マジメなのだが、
ワシの御師匠様達がマトモだった。
残念?ながら、多少の影響は受ける。
ワシのような半端者でも影響されてしまったのだ。

生き方として不マジメを修正する気はないが、
「いいかげん」だからマトモも入る。
不マジメとマトモの「結び」もヨガだ。
マトモだけの存在は信用おけない。
綺麗事だけ言う人は胡散臭い。

逝かす(死ぬ〜というからこの字かな?)でもなく、
イカス(ナイス?)わけでもない。
もちろん、イカの酢漬けでもないぞ。
「生命を活かす」というマトモな意味だ。

そんなの・・・面白くないよね。
それを何とか工夫して面白く書くのがワシの役目だ。
だが・・・ほとんど失敗している。
お笑いの道は遠い・・・。

世界の観方はいろいろある。
「これが正しい!」
と力むと、歩き方がギコチない。
自然体で歩けなければ、道は外れる。
正しさにこだわると、道を外しやすいのだ。

そんな観方の一つに「活かす」がある。
「生命を活かす力」がある。
「生命を活かしてくれる存在」がある。
生きとし、生けるモノ達は、
活かし、活かされて、生きているようだ。

生命を科学的にとらえる、現代の大きな欠点。
つい、習慣的に理屈で理解しようとする欠点。
生命を理屈で理解しようとするのは、
大きな、大きな「愚かさ」なのだ。

活かし、活かされる。
活かし合う仕組み。
活かされる存在。
この感性が欠けていては「生命」に近づけない。
(解らん人には何をいっても解らんよね・・・)

  活かす・2
6/23 (木)

活かされている。
活かされていた。
ここに気づくと何も言えなくなる。
手を合わせるのみになる。

ギリギリで生命と付き合うと、
理屈は消えてしまう。
理屈で理解できないのだ。
何が起こるかわからなくなる。
経験も体験も役に立たない。

生命は人間を超えた管轄だ。
それだけは感じる。
だから、いつも、未来はわからない。
だから、いつも、希望が持てるのだ。

絶望を宣言するドクターがいたら、
そのドクターは愚かだ。
生命を理解できると思い上がった愚か者だ。
立場からの意見と絶望宣言は違うだろ。

ケンカをするつもりはない。
(トラブルは苦手だしドクターは権威がある。
権威が威張ると、メンドウだ・・・。
簡単に謝ります。ゴメンなさい・・・)
ワシは生命は理解できぬが、
愚かな人間は判断できるぜ(と独り言)

ワシも人一倍愚かな人間だ。
だから予想もしてしまう。
だが、予想が外れる事も知っている。
ワシは愚か者だと知っている。
正しさを判断できるとは思っていない。

ワシの仕事は正しさを知らせる事じゃない。
生命力の活性化だ。
未来は判らないが、今すべき事は判る。
活性化の手段も持っている。
理屈は解らなくても、使えるのだ。

ここにきて、何となく納得する事がある。
何で、ワシだったのかと。
「いいかげん」で根性無しのワシが、
何で、今の仕事が天職なのかと。

立派な人では・・・向いていないのかも。
生命を応援するのは、根性無しが向いているのかも。
理解する事をアキラメるタイプが向いているのかも。
マジメだと生命力が抜けてしまうのかもね。

何だかなぁ・・・
いいのだか、けなされているのだか判らんが、
兎に角、しょうがない。
何時、どうになっても、嫌じゃない。
これに関してなら、辛い事が嫌じゃない。

  活かす・3
6/24 (金)

生命力を特殊な力で活性化する方法がある。
(自然でなく、人為的にという意味だ。
しかも自分の生命力のみを上げる方法だ)
古代から伝えられてきた。
だが、通常の人間がしてはダメだ。
廃人になるのがオチだ。

「俺は通常の人間じゃない。
修行を積んだ。選ばれた人間だ。」
手を出す輩は、皆そう言う。
だから・・・通常だっちゅうの!
自分だけが上がる修行は落とし穴。
だから・・・通常だっちゅうの!

まぁ・・・廃人になるだけならいいけど・・・。
時々狂人になる。
それが困る。迷惑だからだ。
多少特殊な力は付くが、暴走させてしまう。
コントロールは最初から出来ていないのだ。

長年、妖しい世界を彷徨っていた。
不マジメだったから、入り込まなかった。
それがワシの「いのち」を救った。
「いいかげん」が守護してくれていた。
「いいかげん」だったから、守護するモノがいた。
だから、危ない方法も少し知っている。

精神世界を修行する者は、ほとんど落とし穴にはまる。
趣味なら勝手にしてくれ。
マゾが悪いわけじゃない。
暗い穴が好きなら、ず〜と修行してればいいさ。

その中で「生命」に手を出す者がいる。
「活かされている存在」という認識が無い者だ。
生命力に属したパワーを身に付けるつもりらしい。
魔に魅せられて、愚になる・・・。

身に付くのは、ゴミかホコリか霊かミエくらいなのに。
身から解放する事を忘れているなぁ・・・。
力は付けるものじゃない。
「活かす」ものなのになぁ・・・。
「活かす」には解放だぜ。
方向が逆だ・・・。

非難もしないし、説得するつもりもない。
素直な耳は途中で落としただろうし・・・。
余計なお節介だと自分でも思う。
勝手にパワーとやらを身に付けてくれ。

だが自覚なしのハッタリは騙す道具になる。
騙されて泣くのは、病み人だ。
それが・・・困るのだ。
ワシはプロだから、病み人の味方だ。

二匹の眠っている蛇は、
今の人間がつっつく相手じゃない。
(心当たりがあるマニアック用の文章です・・・
一人でも目が醒めてくれればなぁ・・・)

  活かす・4
6/25 (土)

自分で書いておきながら一日で厭きる。
昨日の文章の内容だ。
余計なお世話はしたくない。
病み人の為という名分があってもだ。
お節介な分は、ワシの未熟分だなぁ・・・

パワーに魅せられた人達と合わない。
荒れた波動を求めると肉食獣の臭いになる。
根性無しのワシは逃げだすのだ。
積極的に撒き散らされるのは迷惑だが、
この世は様々な生き物で成り立っている。
まぁ・・・しょうがないかぁ・・・。

気分一新。
天真爛漫。
浮雲流水。
浮気公認。
ジタバタしても死ぬ時は死ぬ。

「活かしてくれる存在」と、
「活かされている存在」
「活かしあう力」と
「活かし合うシステム」
神様は・・・優しいなぁ・・・

右手と左手の合掌。
生命即神

龍村道場での学びが甦る。
そして新たに気づく。
故沖先生(沖道ヨガ)の言葉が輝る。
そうかぁ・・・
ヒントはヨガ(結び)だったんだなぁ。

最初は意味がわからなかった。
その後、ある段階で理解した。
そして、今回、別の段階で気づいた。
気づかされた。
合掌。

深い言葉は多重構造になっている。
参ってしまうよね。
解放だけだと気づき難い時もある。
緊張(歪み)から解放で気づく時がある。
ヒネクレているなぁ・・・

今回気づいた「生命即神」
ワシの(プロ)仕事に即応用できる。
合わせ、結び、融合する。
厳しい状況の人が多いのだ。
何とかするのが仕事だ。
一つでも多く未来は増やしたい。

  活かす・5
6/26 (日)

根性無しのノラ犬が彷徨って棒に当たった。
棒は氣功師に変化する菌を持っていた。
ノラ犬は菌に侵された・・・。
(可愛いメス犬に犯されたかった・・・)

棒や石が無い道もある。
棒に当たらぬ歩き方もある。
しかし当たってしまったらアキラメよう。
何故だ〜と叫んでも、もう遅い・・・。
原因探しは解決にならない。

根性無しだからモテない。
この世は力(金や能力)か根性の有る者がモテる。
「アナタって(有るから)素敵!」
持てないから、モテない。

この世は逆ギレだってある。
モテるのは・・・うっとうしい。
モテれば・・・メンドウじゃないかぁ!
持たない生き方だってある。
(モテないと持たないでは違うが、
そんな些細な事を気にするような男は嫌いだ)

持てない、持たない生き方であっても、
必要なモノは必要だ。
それなら「活かす」事をすればいい。
持てないから「活かす」。
持たないから「活かし合う」。

モテないノラ犬だからできる事がある。
適職だし、天職だ。
持てない体だから、天職でも食えない。
持たない生き方だから、適職でも貧しい。
(適職や天職は必ずしも社会的に安定しない。
が、長く続ければ感謝してくれる人は増える)

それでも結構幸せだ。
苦労は本妻と愛人と子供が引き受けてくれる。
ワシは・・・ラッキーだ。
来世はワシが恩返しをしよう。
一応、する予定でいる・・・。
忘れてなかったら・・・ね。

ノラ犬でも活かしていただく存在だ。
この世にいる限り少しは役に立とうぜ。
「活かし合う」を軸にすれば、大抵何とかなる。
何とかなれば・・・何とかなる。
(日本語になってねぇ・・・)

生命は活かすと活性化する。
(字、そのまんま・・・)
加えるわけじゃない。
(でも、固定概念でこう思っているよね)
病からの回復に大きなヒントになるだろ。

  名・1
6/27 (月)

故御師匠様がいた頃だ。
氣功をすると浮かび上がるモノがいる。
嘗て人間だったモノだ。
霊とか魂とかいわれている。
肉体が無い意識体だ。

肉体が無いだけで、あとは変わらない。
見えないけど人間と同じだ。
多少、根性が歪んでいるのが多いが、
現実の人間だって大して変わらない・・・。
むしろ生身の人間の方が性質が悪い。
実際に害を及ぼすのは生身が圧倒的に多いし大きい。
霊よりアナタの方が怖い・・・。

故御師匠様はひょうきんだった。
そして優しかった。
霊と生身の人間を差別しなかった。
普通に話しかけていた。
霊も普通に答えていた。
側で聞いているワシ等もいつしか違和感は無かった。

故御師匠様は霊をイジめる事はなかったが、
時々、からかう事はあった。
もっとも普段から冗談は欠かさなかったから、
特別に、からかったわけでもなかったが・・・。
冗談相手でも霊を差別しなかっただけだ。

師匠「お前、おばけじゃないのなら、名前言ってみな」
おばけ「・・・・」
師匠「どうした?」
おばけ「・・・わ、忘れた・・・」
(言葉につまる霊は・・・可愛い)
師匠「ハッハッハ」

ある時、ワシ等にこんな事を教えてくれた。
「おばけ(親しみを込めてこう呼んでました)は、
名前を聞いても答えられないんだよ。
名前は肉体側に付くようだな」
この意味の深さに気づくのは10年後だった。

「名」がモノを決める。
「名」がモノの結界を表す。
「名」がモノを縛る。
いろいろな表現ができるが、
結界が定まらないモノに名はつけられない。

人の本質体は名前が付けられない。
結界が定まらない。
本質体の限度は無いようだ。
我々の未来は果てがないようだ。

  名・2
6/28 (火)

氣功は多くの種類がある。
細かくいえば、全て違うといっていい。
人を転がす氣功もある。
エネルギー注入!みたいなのも多い。
病気や殺気や荒れた氣功もとても多い。
体や心に有効も害もある。
人の気持ちと同じ種類があるのだ。

無条件に信用するな。
無条件に疑うな。
当たり前の目で人を判断してくれ。
基本的には普遍的なモノだと思っている。
誰だって使えて当たり前なのだ。

故御師匠様の氣功は浄化を中心としている。
それを医療・健康関係に応用している。
病(闇)の浄化(調和)に必要な場合、
霊が浮かび上がる事がある。
そのケースに必要だから出てくるだけだ。
霊を媒体(必要)とする霊能者とは違う。

霊が関係する病は意外に多い。
しかしその度に出現するわけではない。
何も言わず、浄化される場合の方が圧倒的に多いのだ。
やたら霊を出現させる人は、未熟か歪みだと思う。
ワシは「あまり近づかない方がいい」と助言する。
この世にはこの世のルールがあるのだ。

ワシも話せる相手以外には話さない。
霊が関係していても、黙って浄化する。
そんなモノに気づかなくてもいいのだ。
気づく必要があるのは霊の方だ。
生身の人間が必ずしも知る必要がない。

時々出てくるのは、我々にメッセージがあるからだ。
それ以外は、よほど激しい性格でなければ出ない。
生身の時よりも、控えめになるようだ。
結構、生身の人間に気を使っている。
まぁ・・・肉声が通常は使えないからなぁ・・・

故御師匠様は魅力的だった。
だから霊もつい出てきてしまう。
(浄化の)お礼も言いたいようだ。
ついでに世間話も少しはする。
(浄化力が強いから嘘は無くなる)
それが側で聞いているワシ等に学びとなる。

生身と霊の違い。
一番大きいのは「名」だろう。
性格の良さも悪さも同じだ。
頭の良さも悪さも同じだ。
執着心もアキラメ心も同じだ。

  名・3
6/29 (水)

肉体(物質)は幅広い波動帯だ。
この世は周波数の違う相手との「出会いの場」だ。
わざわざ「出会いクラブ」に入会しなくてもいい。
幅が広いから、嫌な相手とも会える。
自分より遥かに高級な相手とも会える。
世間は広いぜ。

ところが霊には肉体が無い。
会える相手は同波動か近波動だけ。
霊の世間は狭いのだ。
あの世は(ある意味)狭いのだ・・・。
この世で彷徨う霊も肩身が狭い・・・。

だから霊は、いつでも淋しい。
自分に向いてくれる人がいたら離れたくない。
一時的には誰にでも憑くが、
憑き続けるようならば、人間側の心の欠陥だ。

「アタシ、霊感体質なの」
そんな事、自慢げに言うなよなぁ・・・。
浮遊するほとんどの霊は歪んだ波動なんだぜ。
その霊が憑けるのは、歪んだ心の持ち主だぜ。
少しは恥ずかしいと思えよなぁ・・・。
しかもこの体質は進行性だから、どんどん悪くなる。
体質は改善できるぜ。どうする?

霊感は極少数の人だけが、持っていい感覚だ。
浄化する役目と方法を備えている人だからだ。
怪しげな霊能者は、霊感体質だけで商売にする。
だから幸せな生き方が出来ないで苦しむ。
病の真ん中だから、治した方がいいと思うよ。
(ハイ、余計なお世話です・・・ゴメンナサイ)

「名」は肉体(物質)側に属す。
とても大きな指摘だ。
でも、その前に霊の言葉の補足を・・・

霊は淋しがり屋で根性悪だから嘘つきだ。
そう、生身の人間と変わらない。
それなのに、霊の言葉を信じる人が多い。
死んだら聖人や正直者になると思う?
アナタと同じ嘘つきなんだぜ。

「私は○○よ」
少しミエを張って、有名な名前を出す。
「ワシは織田○○の家老だった」
「私はある武家の奥方だったわよ」
人間には判断できないものね。

海外ではナポレオンなどが多い・・・。
日本は有名な武士かお姫様が好きみたい・・・。
知られていない山の中の「くま」や「とめ」などと名乗らない。
(昔は武士以外で苗字は通常は無い・・・)
霊が名前を言う理由、お分かりだろうか?
名前を言ったら、嘘だと思っていい。
(嘗て○○と呼ばれていた事がある、という言い方はある)

  名・4
6/30 (木)

生身の人間だって同じだ。
誰にも自分の正体が判らなくて、
しかも確かめる事もできなければ、
少しはミエを張って名乗る。
未開の地で名乗るのに脚色するようなものだ。

現に「私は○○の生まれ変わりよ」
と平気で言う人はとても多い。
嘘を言ってる意識はなく、信じ込んでいる。
確かめられない事は言っても聞いても無意味だ。
それでも圧倒的に勘違いが多いのは事実だ。
(仕組み上、ある程度の勘違いは指摘できる・・・)

霊が名前を名乗るのは確信犯だ。
嘘を自覚している。
まぁ、嘘くらい可愛いもんだ。
この国の政治家の行う害と比べようも無い。
あんちゃん、ね〜ちゃん、ダンナ、おくさん、
じいちゃん、ばあちゃん、せんせ〜、みんな、うそつき・・・。

ところが浄化力の氣功で浮かび上がった霊は、
(不本意だと思うが)嘘がつけない。
嘘をつく気にならない。
これは生身の人間も同じらしい。
自然体というか、力みが消えるというか・・・。

初めてのクライアントがあまりに正直に話し出す。
ワシも最初は何故だか解らなかった。
そ、そんな事まで正直に話さなくてもいいのに・・・。
そのうち、力みが消えると嘘やミエは消えると解った。
何でも話してもいいかぁ。
そんな風になるようだ。
(だから、この氣功は心の病にも適している)

霊が嘘を言わないで話してくれる。
これは、とても大きな機会だ。
生身の人間では判り得ない事を話してくれるのだ。
とても貴重な情報になる。

霊が話す事は幾らでもある。
しかし、嘘が入り混じっているのが通常だ。
その内容をマトモに受けるわけにはいかない。
ところが、嘘をつけない状態なら、
霊が話す事は大きな指摘や情報となるのだ。

その霊が「名」を使えない。
悔しいけど・・・名乗れない・・・。
これは大きな情報なのだ。
「名」は物質(肉体)に属している。

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