05年9月のコラム         コラム3目次に戻る
不空・3
9/01 (木)

「不空」の元の意味は、
「色即是空」
「この世の実体は空なんだよ」
などと生齧りの理屈を戒める言葉だ。
ほとんどの坊さんを戒める言葉だ。

般若心経はもっと深く解いている。
その後の言葉だ。
「空即是色」
これを「空が実体である」
などと重複した説明をするから間違う。

おっと、ついマジメに書いてしまった。
いつか、水上流解説の般若心経を書いてみたい。
ワシはヒネクレているのだ。
経もヒネクレて、素直に示してある。
だから、相性がいい・・・。

「空も実体も乱交パーティだ」
「空だと思ったら、空じゃないぞ」
そういう意味だ。
ヒネクレているだろ?
これは、深い生き方を示した言葉だぜ。

「オトコと思ったら、オトコじゃない」
や〜ねぇ、アタシ、心はオンナよ。
「政治家だと思ったら、政治家じゃない」
政治を商売にする、商人でございます。
「賢いと思ったら、・・・・」
そういえば、賢人サミットとかあったなぁ。
顔の厚さが・・・素晴らしい!

「不空」
「本質はいいかげんだぁ」
ワシ流の表現なら、こうなる。
本質が見えた、と思ったら、それは真実じゃない。
本質は、いつでもフニャフニャとしているものだ。
(おっ〜と・・・ワシのナニの事ではないぞ。
ぜったい、ぜったい、違うもん・・・
と、と、時々は、実体になるもん・・・)

精神世界を齧ると「空」に当たる。
犬だって棒に当たるのだ。
そんなに大した事じゃないのに。
目が覚めたような錯覚をする。
そして確信してしまう。
「この世の仕組みは空だ!」

「確信」と「空」は夫婦になれない。
まして一体にはなれない。
ここが宗教の間違いやすい解釈だ。
「禅」は「冥想」だ。
宗教に関係しても宗教ではない。
(この説明も・・・メンドウだからパス!)

  不空・4
9/02 (金)

(少し自慢だが)ワシはいいかげんだ。
説明など、平気で途中で止めてしまう。
ワシが納得しているなら、それでいい。
気まぐれで好き勝手に書いている独善雑記だ。
無料読者に親切にするつもりはない。

全てこの世は金次第。
ワシなど金で、すぐ転ぶ。
信念も人情も義理も軽いのだ。
三遍回ってワン!だって言える。
有料なら嘘でも丁寧に説明する。
これが「空」というものだ。

こだわらない。
「空」にこだわらない。
それが「不空」の教えだぜ。
真実にこだわらない。
本質にこだわらない。

ワシが会った高僧の爺っちゃん達。
平気で嘘を言うタイプだ。
嘘を愉しく活用できる。
嘘も真実も同じ扱いだ。
物事を差別しないのだ。

ワシは偉くなりたくない(心配無いって)
徳なんて低くありたい(そのままで完璧)
下品、大好き人間でいたい。
霊的レベルを上げるつもりはない。
上がると思ったら、上がらない。
この世の仕組みはワンパターンだ。

ワシはプロのヒーラーだ。
高みからクライアントに接する事は出来ない。
闇(病)の底で分かち合いが起こる。
ワシも同じ所にいるのだ。

クライアントとワシの違い。
ただ、一点のみ。
「こだわらない」
ワシ流なら「いいかげん」・・・。
あとは同じだぜ。

闇で苦しむ、恐れるクライアント。
同じ闇にいても、あまり苦しまないワシ。
不マジメのアホだから・・・。
だから、苦しさや辛さを引き受けられる。
それらを消す事ができる。

  不空・5
9/03 (土)

高みに上ろうとする人がいる。
ワシも時々上ろうとする。
だが、ワシは低いところも面白いと思う。
どちらも興味があるからだ。
高いだけが価値があるわけじゃない。

趣味の問題だ。
上ろうと潜ろうと好きにしてくれ。
ワシも気ママに愉しんでいる。
ワシは上品も下品も愉しめる。

エライ人達の勘違いがある。
「人は進化するべきだ」
だからレベルを上げるのだそうだ。
エライ人達は・・・自分勝手だなぁ・・・。
何となく、威張るし・・・。
(注:ワシの事は押入れに・・・)

闇(病)に苦しむ人達と接する。
すると、自分の勝手さに気づく。
自分の薄情さに気づく。
そうしてワシは病み人から教わる。
こんなワシにも気づきを与えてくれる。

更にお金までくれるのだ・・・。
病み人こそ、偉いと思う。
高みにいる人が偉いとは思えないが、
闇(病)の底にいる人は偉いと思える。
ワシの代わりに苦しんでくれている。
そう思う事が幾多もある。

ワシはプロだと意識できたのは、
高みを目指す間違いに気づいてからだ。
高いも低いも底も関係ないぜ。
人もケモノも妖怪もモノも関係ないぜ。
時間も空間も業も関係ないぜ。

ただ、一点のみ。
「こだわる」か「こだわらない」かだ。
誰でも、いつでも、何処でも成れる。
幸せに成れる。
努力も才能もその他の条件もいらない。
そうでなくては、変だろ?

特に「正しさ」。
これに「こだわる」と自他に苦しみを招く。
「正しさ」は理屈で説こうとする。
「理」は融通無碍なモノなのだぜ。
法則は固定されている、という固定概念。
いいかげんに、気づけよなぁ・・・。

  不空・6
9/04 (日)

「不」をどう訳すか?
「非」ならば「あらず」だ。
「○○じゃないかも」
ワシなら、こう訳す。

「不マジメ」なら、
マジメじゃないかも・・・。
そういう「やわらか」な言葉とする。
「不幸」なら、
幸せじゃないかも・・・。
無理に「苦しみ」を押し付けなくていい。

マジメになる時もある。
幸せにもなれる。
固定や確定はしてないぞ。
それが「不」だと思う。
否定の決定ではないのだ。

「不良」「不良品」
ワシのことだ。
だから、ワシには未来がある。
「良」を目指すわけではないが「良」の時もある。
でも「良」だけじゃ嫌だ。
「変」や「番外」とも付き合いたい。
ワシは「良」より「不良」でいたい。

生きているんだ。
いろいろな体験をしたい。
イロイロな経験もいいなぁ。
それが生きている証だ。

生きているんだ。
望まなくても体験する。
いろいろな経験をしてしまう。
苦しみや辛さや悲しみがある。
勝手に体験させられる。
それが生きている証だ。

良や正や善や高だけに価値を付ける。
すると余計な苦しみを増大させる。
良や正だけに偏る倫理観は苦しみを創るのだ。
良や正を主張すると争いを創るのだ。

良や正にだけ価値をつける社会。
多くの人に苦しみを押し付ける社会だ。
ブッちゃん(仏陀)はそれを見抜いた。
そして「中道」という言葉を使った。

気取りすぎだよ、ブッちゃんは。
解り難いだろ。
「中」を「中」と訳してしまう。
それでは真意は伝わらない。

ワシなら
「道は、いいかげんに歩け」という。
解りやすいだろ。
これが「不空」に通じる言葉だ。

  不空・7
9/05 (月)

この世の法則がある。
多分、あるだろう。
黄金律もあるかもしれない。
いろいろな法則もある。
あるには・・・あるけど・・・。

法則がある事が判っても、理解したとはいえない。
一部を理解しても、充分でない。
法則には範囲が付きものだ。
範囲と法則はセットで売られている。
範囲が広いと、範囲外を想像できない。
つまり、法則は絶対ではない。

「理解」
「理」は法則の意だ。
「解」は解放の意だ。
法則を理解したと言いながら、
法則に縛られているのが現状だ。

理解したら、法則は無くなる。
無くならないけど、手から放れる。
法則に縛られなくなる。
法則を振り回している時は、理解していない。
こんなの、当たり前だろ?

当たり前が判らない人用に示した言葉。
それが禅語だ。
(それなら、もっと判りやすくしろよなぁ)
「不空」
「法則に縛られたら、法則が活かせない」
そういう戒めだ。

生齧りで、聞き齧りで、半齧りの言葉。
沢山、沢山あるよね。
何処からかの丸投げ引用。
誰かの受け売り。
消化してないから、自分の言葉じゃない。
(う〜m・・・耳が痛いぜ・・・)

法則を如何に解放していくか。
それが、この世の仕組みを解く鍵となる。
解放した範囲は自由が増す。
放せば、広がってしまうのだ。

ワシは「氣」のプロを自覚している。
プロとして未熟でもシロウトとは別次元にいる。
その一つが法則を解放し続ける事だ。
だから理屈屋のシロウトと同じ土俵に上がれない。
ゴメンネ。ワシはプロなんだ。

  不空・8
9/06 (火)

ワシにとって、この戒め言葉は大きい。
天上天下唯我独善を自認するワシだ。
つい、これでいい!と思ってしまう。
それではプロ失格だ。

プロにはいろいろな条件がある。
それらを乗り越えても、止まったら落ちる。
解放し続けている間だけが、プロだ。
流動している間だけが、プロだ。
ワシのようなナマケモノは綱渡りだから続けられる。

プロの世界には無限の階段がある。
シロウトの坂道とは違う。
プロだから厳しいのは当たり前だ。
プロだから「やわらかい」のは当たり前だ。
そして、プロだから「いいかげん」が使える。

余計な文章を書いてしまった・・・。
プロはこういう事もあまり書かないものだ。
ワシはプロだが、未熟なプロなんだ。
多分、この先も未熟なプロでいる。
いつまでも、未熟を自覚するプロでいる。
それが「不空」に込められている。

留まってしまったモノがいる。
自縛霊、浮遊霊たちだ。
肉体の無い霊を「オバケさん」。
肉体の有る霊を「人間」という。
ある意味、どちらも大した違いは無い。

問題は肉体の有無ではない。
留まると幸せでないのだ。
苦しみがあり、それを自他に向ける。
闇は止まった時から始まるものだ。

法則を知る。
その時は明るい。
しかし、法則に縛られると闇が始まる。
「空は不空」

法則は「いいかげん」という使い方で活きる。
法則が解ける(融ける)からだ。
マジメに取り組むと闇に入る。
そして、争いを始める。

そろそろ、気づこうぜ。
受け売りの法則は役に立たない。
法則は解放する為にあるものだ。
霊も(人間も)解放する為にいる。

解放すると、解放されている。
この世の仕組みはヒネクレている。

  忘れる・1
9/07 (水)

最近、更に加速度が付いた。
い、いや、我家の借金の額ではない。
我家の借金額は順調に右肩上がりだ。
それほど気にするほどじゃない。
この国の借金に比べれば微々たるものだ。
銀行は、小さな借金にこだわわりすぎる。
我家の借金は忘れてくれ。

そ、その「忘れる」だ。
加速度が付いたのは。
昔から、ワシは「忘れる」のが得意だった。
インターハイにも出場した事がある。

通常は加齢するにつれ、記録は衰える。
しかし「忘れる」は加速度がつく。
毎日のように新記録が出る。
オンリーワンで、ナンバーワンだ。
ワシにも自慢できるモノがあるのだ。

もうすぐ豚子の小学校運動会だ。
何年も前になる。
ワシは本妻からビデオを渡された。
「豚子、撮ってあげてね。私はPTA役員だから」
本妻は偉いなぁ・・・そんなの引き受けて・・・。
(アンタがしないからじゃない!)
(・・・そうでした・・・ゴメンネ)

で、その出場種目にレンズを向けた。
お、あれだな、豚子は。
スイッチ、オン!
ズーム、イン!
豚子、一生懸命だな。
誰に似たんだろう? 
一生懸命のDNAはワシにない。
ま、まさか、本妻の、う、浮気の果か?
おっ、抜かれた、三着でゴール!

まぁ、こんなもんだろう。
ビデオ撮影は完璧だね。
フッ、ワシだってやるときにはヤル!
良き父親の役くらい、ちょろいもんさ。

運動会が終わって、ビデオを再生した時だ。
ワシは旧KGBかKCIAの陰謀だと思った。
ズームアップした豚子は別人に入れ替わっていた。
どう見ても、豚子には見えない。
強いて類似点をいうなら・・・女子小学生ではある。
へ、変だなぁ・・・。

一生に一度かもしれない、徒競走での一位。
スタートからゴールまで一度も映されていなかった豚子。
(はぁ〜・・・とうちゃんじゃ、しょうがないよね・・・)
豚子は、とても、とても出来た子だと思う。
だが、その目に少し軽蔑の色があったような気がした。
ワシの被害妄想ならいいのだが・・・。

  忘れる・2
9/08 (木)

まぁ、我が子の顔を忘れる事はよくある話だ。
かの偉大なナガシマ氏は我が子の存在さえ忘れた。
B型人間では珍しい事ではない。
忘れるというより、憶えてないだけだ。
悪気は無いし、それほど被害も無いだろう。
気にしないでくれ。
ワシの方は、気にしないで生きられる。

「忘れる」から生きられる。
生命はアナログ(変化の連続)だが、
意識(心)は本質がデジタル(変化の断続)だ。
心をアナログと勘違いして継続すると苦しむ。
そこでグレちゃん(創造主)は仕掛けを創った。

本当に優しいんだなぁ・・・。
だから、一応の救済システムだ。
何から何まで面倒を看たら人間がダメになる。
あまり苦しみ過ぎないようにしてくれた。
それが「忘れる」という機能だ。

せっかくのグレちゃんの好意。
アホな人間は本当の好意が判別できない。
物事を表面で判断してしまう。
真意は底にあるものなのに・・・。

アホな人間はグレちゃんの好意に逆らう。
忘れないように努力する。
忘れる事が「退化」だと思ってしまう。
「忘れる」意味を理解できないでいる。
人間界ではそういう人を「有識者」というらしい。

肉体の退化に沿って「忘れる」加速度は増す。
肉体の退化の意味。
意味を知ったら「忘れる」加速度の意味も知る。
肉体は退化するように仕組まれている。
あの偉大なグレちゃんが創ったんだぜ。
大きく深く広い意味があるに決ってんだろ。

ならば・・・加速する「忘れる」意味も深い。
グレちゃんは「叡智の塊」だ。
ブッちゃんは叡智を「般若・パーニャ」と言った。
加速する「忘れる」は、摩訶般若なのだ。
(か、かなり強引だぁ・・・)

「忘れる」
そこには偉大な智慧が秘められていた。
「忘れる」素質のあるワシは、
偉大な智慧のすぐ側で生きている・・・。
(独善というより妄想だね・・・)

  忘れる・3
9/09 (金)

人間社会は固定概念がデカイ顔をする。
物事を憶えているのはシッカリ者。
忘れるのはナマケ者だと決めつける。
それは、半分は当たっているとワシも思う。

ワシはナマケ者だから、正直だ。
シッカリ者は、社会優先意識だから嘘つきだ。
建前(嘘つき)でないと、社会は成り立たない。
社会を正直で通したら喧嘩か混乱するのだ。
だから、シッカリ者は社会に適合している。

でもナマケモノが退化しているわけではない。
これが自然体なのだ。
人間の歴史でここ数千年が異常なのだ。
急ぎすぎている。
進化に急いで、進化するわけないのに・・・。
頭を発達させると・・・アホだな。

力を付ける事が無条件で「いい」と思うらしい。
迷惑なんだけどなぁ・・・地球にとっては・・・。
学力が増すのが「いい」と思うらしい。
無駄なんだけどなぁ・・・ボケるし・・・。

一所懸命生きる事。
一生懸命生きる事。
これらはワシも異論無い。
生命を観ていると、その通りだと思う。

だが・・・
一所懸命努力して前に進むのはなぁ・・・。
ちょっと勝手過ぎないかぁ?
多種多様な人がいるんだぜ。
他種多様な生物が生きてるんだぜ。

生きる事は勝手に前に進む事じゃない。
調和を学ぶ事だろ?
精進の真意は調和だろ?
勝手に努力しないでくれよなぁ・・・。

でも、まぁ、しょうがないかぁ。
また、今度もリセットになるのかなぁ。
何度も繰り返して、やり直していくらしい。
急いだ生物は心身精神も滅亡する。
当たり前なんだけどなぁ・・・。

滅亡しない為。
滅亡させない為。
グレちゃんは「忘れる」機能を取り付けた。
幸せを「自他のゆっくり」に溶け込ませた。

  忘れる・4
9/10 (土)

ワシはある日を境に、イキナリこの道に入った。
本妻や子供達やそれまでの借金があった。
収入はほとんど無いが、学ぶのにお金はかかった。
銀行を騙して、土地・建物で借金をした。
(い、いや、ちょっと将来に期待を持たせたけど・・・)

約10年は使う金が上回っていた。
(今まで、ず〜と・・・という意味ね・・・)
銀行以外からも、当然、借金した。
子供の通帳や保険は当然、使った。
(親とは、そういうものよ、フッ!)

もう昔の話だ。
過ぎた事なのに、金を貸した方はいつまでも憶えている。
ワシは普段忘れているのに・・・煩わしい。
銀行は肚の小さいヤツだ。
それでは幸せになれん。
過ぎた過去にすがっては、未来は来ないぞ。

このように「忘れる」事は未来がある。
「忘れぬ」事は過去にすがる。
どちらが「幸せ(嬉しい・愉しい・心地よい)」かは一目瞭然だ。
金貸しが「忘れぬ」と双方に支障が出る。
金貸し(銀行)は「おおらか」でなくては社会貢献できない。
不幸の元の記録は破いて捨てようぜ。

「忘れる」と「忘れぬ」。
心はデジタルの仕組みだ。
刹那(約75分の1秒)で次の世界に入る。
それを無理やり「忘れぬ」から苦しみがある。
「忘れる」のが自然。
「忘れぬ」のは不自然。
苦しみは自然から外れると鳴る警告なのだ。

忘れようが、忘れまいが、過去の事実は変わらない。
だが、未来の展開は変わる。
「忘れる」ほど明るい未来に変る。
それでもアナタは「忘れぬ」方の味方か?
ワシは「忘れる」側を応援するぞ。

人はいずれボケる。
努力してもボケる。
忘却は誰でも平等に与えられる。
ジタバタしても、忘れるものなのだ。

だが「嬉しさ・愉しさ・気持ちよさ」の体験。
「苦しさ・悲しさ・辛さ」の体験。
これらは積み重なるものだ。
体験の数や深さは魂に刻まれる。

  忘れる・5
9/11 (日)

体験は魂に刻まれる。
思い出は心で記憶する。
体験の感想は心だ。
心は嘘つきで当てにならない。
だから体験の感想は変る。

あの時は辛かったと思ってたのに・・・
今となっては懐かしい。
甲子園を目指して血と汗と涙の日々。
「オトコは顔よ」
振られた思い出・・・。

体験は消せない。
忘れても、消えない。
だが、感情や感想は変るのだ。
感情や感想は「忘れる」対象なのだ。
「忘れぬ」出来事があってもいいが、
「忘れぬ」感情は苦しみを生むだけだ。

喜び、悲しみ、嬉しさ、辛さ。
その時に出会う感情がある。
喜びに出会ったら、喜ぶ。
悲しみに出会ったら、悲しむ。
それで充分だろう。

今、悲しみに出会ったわけでもないのに、
悲しみを「思い出して」嘆く。
今、怒りの場面でもないのに、
怒りを「思い出し」腹を立てる。
生きている「今」を犠牲にして。

心は体験を味わう為にある。
心だけ取り出すのは歪みになる。
多くの人が勘違いする。
心が単独で大切だと勘違いする。

心はいつでもオマケなんだ。
体のオマケ。
出来事のオマケ。
心はセットで味わうモノだ。

だから、その都度「忘れる」のが活用。
心は「忘れる」と活きてくる。
意志は心からアプローチするが、
魂に刻むから、忘れても大丈夫だ。
(いったい、このテーマで何を書きたかったのか?
・・・・忘れてしまった・・・・)

  弘法は・・・1
9/12 (月)

アネゴが言った。
「弘法は筆を選ばずって、嘘よね〜」
「なんで?」
「道具を使うなら、絶対選ぶって!」
無意識でも道具は選ぶらしい。

アネゴは陶芸家だ。
道具で決るわけではないが、
道具でより意に沿って表現できる。
だから道具はとても大切だ。
言ってる事はワシでも判る。
でも「弘法は・・・」は、そうだと思う。

今から10年前になる。
ワシは奈良国立博物館の中にいた。
開館100周年記念の年だった。
狙って行ったのではない。
偶然だった。
普段は公開しない国宝が並んでいた。

阪神大震災で混乱中の関西だった。
ワシがいた5月にやっと中国高速道が復旧した。
ワシは3回目の生駒山からの帰りだった。
奈良・姫路に寄り道していた。
観光ではない。

奈良は偶然、時間があった。
看板に「超特別公開」の匂いを感じた。
ここで遇ったが100年目。
ホントに100年目の記念公開だった。
こういう偶然は絶対モノにする。
ラッキーが向こうから飛び込んできたのだ。

期間限定の国宝公開だぜ。
そうでなくてもワシは素直だ。
公開してくれるモノならナンでも見る。
(覗き趣味はないが、見せたいのなら遠慮はしない)
ナマケモノだが好奇心は人並み以上だ。

珍しい国宝だから・・・珍宝か?
自信無くしたらどうしよう・・・。
なんて心配は無用だった。
(最初から自信は無いぜ!)
それは、それは、圧倒される国宝だった。
古の像や道具や書の類だ。

どんな時代でも「氣」の塊は凄い。
全て「氣」の塊で創られていた。
その中に「書」があった。
弘法大師の書もあった。
「氣」の塊の書だった。

  弘法は・・・2
9/13 (火)

この言葉は勘違いしている。
ワシは弘法大師の書を見て、そう思った。
「弘法は筆を選ばず」
字の達人はどんな筆でも立派に書いてしまう。
技の優れた人はどんな道具でも立派な仕事をする。
そんな意味で受け止めているだろう。
ワシもそう思っていた。

「違う!」
ワシは空海(弘法)の書から感じた。
この人は・・・
いいかげんだ。
「すこぶる」付きの「いいかげん」だ。
とても立派な「いいかげん」だ。

文字に「氣」を乗せているが、
文字を見てもらいたいわけではない。
そんな事ァ、どうでもいい。
「筆を選ばず」というのは、
技が優れているからではない。
強いていうなら・・・性格だ。

その書は力強いが自由闊達だった。
筆を選ばず。
筆が無ければ、指で書いたろう。
何でもいいんだ。
別に綺麗に書こうとは思ってない。
技なんざァ、屁みたいなもんだァ。

ワシの小さい小さい理解は飛ばされた。
空海の書からは、おおらかな「氣」が溢れていた。
書なんざァ、書けりゃいいんだよ。
筆じゃなくてもいいんだ。
小枝で地面にだって書ける。
消えたっていいんだ。
いずれ、どんなモノも風化するさ。

この年から氣功療法院の看板を上げた。
だが、龍村道場にも通っている最中だ。
まだ修行中もいいところだ。
ワシは小手先の技を磨くところだった。
出だしで、空海の「氣」に教えられた。

ワシは、ナマケモノのスケベなオッサンなのに、
とてもラッキーに出会う。
小手先の技はどうでもいい。
以後の10年は、本質を磨く年月となった。
(と一応、勝手に思っている)

二人の御師匠様の教えがストレートに入る。
技を観なくてすむからだ。
出会った人は技を教える先生では無かった。
だから、先生ではなく、御師匠様となった。
技に頼っては進めない道だった。
ワシは不相応なほどラッキーだった。
感謝・合掌!

  弘法は・・・3
9/14 (水)

空海(弘法)がいいかげんな証拠がある。
いくつもある。
「弘法も筆の誤り」というのがある。
名人でも間違えるという意味にとられている。
でも、それも間違いだ。

空海は元々いいかげんなのだ。
点が一つ抜けていても気にしない。
それが天皇から命令されて書いたモノでも。
だが、周りはウルサイ。
「弘法が字を間違えたぁぁ〜」

点一つくらい、どうでもいいじゃん!
「よくない、よくない、よくない!!」
頭の固いマジメ人間が多い中、空海は苦笑した。
あ〜、うるせぇ。今、直してやるよ。

そして、筆を投げつけた。
ストライク!
「お見事!さすが、弘法!」
(さっき、ワシをけなしてたじゃん!)
字なんざァ、まぁ読めれば充分だぁ。
颯爽と背を向ける空海はカッコイイ!

つまらん事にこだわるなよ。
空海は生き方でそれを示した。
書でそれを示していた。
偶然に訪れた奈良。
ワシは1200年前の空海と出会った。
そして、教えを受けた。
ラッキーだぜ。

  弘法は・・・4
9/15 (木)

技を磨く人は道具にこだわる。
技で人を幸せにする人はそれでいい。
道具を発達させるのも必要だろう。
道具を磨くことも必要だろう。
立派なモノを作るには必要だろう。

だが、空海の書は違う。
技を見せたわけではない。
作品を作ったわけではない。
生き方を示したのだ。
だから、筆は選ばなかったのだ。

選んでも選ばなくても、どっちでもいい。
あれば選ぶ。
無ければ、あるモノでいい。
モノも無ければ、指でもいい。
メンドウならば、言葉でもいい。

融通無碍な生き方。
ワシは空海の書にそれを感じた。
その方法(歩き方)で道を進んだ。
道も歩き方もワシは満足している。

  弘法は・・・5
9/16 (金)

何故か好きな相手がいる。
最初に断っておくが、ワシはホモではない。
好きになるのに同性も異性もない。
人間も妖怪も宇宙人もない。
好きは好きだ。
ワシは節操が無いだけだ。

ワシは「いいかげん」だ。
だから「いいかげん」な相手と相性がいい。
昔、同じ星に生まれていたのかもしれない。
とても幸せだった気がする。

グレちゃん(創造主)はグレートに優しい。
だから幸せなワシ等をアチコチの星に配った。
それなら、自分で創ればいいのに・・・。
グレちゃんはグレートに「いいかげん」だ。

もちろん全員が同じ格ではない。
どんな世界もレベルというか段階がある。
同じタイプだが、格が違う。
格は違うが、同じタイプ。
格なんざ、違ったっていいじゃん。

  弘法は・・・6
9/17 (土)

ワシは空海や役の行者などが好きだ。
理屈でなく、同じタイプの匂いを感じる。
(この無謀で驕慢で狂慢な言い方・・・はぁ〜)
しかし、彼等はあまりにも有名だ。
「いいかげん種族」は有名と無縁なのに・・・。
この地球は・・・少し、狂っている。

同じタイプだからわかる。
彼等は「いいかげん」だけじゃない。
「氣」の扱い方のプロだった。
氣功師などというケチなレベルではない。
(ワシはず〜とケチなレベルだな・・・)
存在の自由を探り当てたのだと思う。

存在が存在たる条件に「氣」がある。
無から有。
有から無。
どちらも「氣」を介して変化する。
無と有は単なる変化(へんげ)なのだ。

「氣」を扱うには「いいかげん」が最適だった。
「念」では「自由」に扱えない。
この点に気づいたから、未熟者でもワシはプロ側だ。
だが・・・ワシはまだまだまだ固定概念に縛られている。
解ければ、ステージが変る。
愉しみではある。

  弘法は・・・7
9/18 (日)

ワシは字が下手だ。
我が一族でワシだけが下手だ。
そんなワシが空海の字ウンヌンをいうのはなぁ・・・
ヘソで湯を沸かして、珈琲を淹れちゃうぞ。
電磁調理器より便利なヒネクレたヘソだぜ。

奈良国立博物館100周年特別公開。
空海(弘法)とくれば、最澄の書もあった。
空海の字は曲がっているが、最澄は整っていた。
ワシが上手、下手の判断をするのは無謀だ。
だが、字は最澄の方が上手かもしれない。

字の上手、下手はわからないが、
「氣」はある程度、判断できる。
空海の字は上手、下手から外れていた。
上手でもいい。下手でもいい。
そんなことァ、どっちでもいい。

オレの字はなぁ、意味じゃねぇんだ。
「氣」のグッズだぜ。
字が読めなくてもいいんだ。
ケモノでも虫でもいいんだ。
「氣」を文字に乗せただけだ。
石コロでもよかったんだけどよォ。
天ちゃんが(天皇)が頼むからよォ。

天ちゃんも結構苦労してるんだぜ。
この国を背負ってるんだぜ。
国家守護・鎮守の役目だ。
少しは手伝わねぇとな。

字には「守護・破邪」の「氣」を込めといたさ。
一応、オレ(空海)も僧だしよ。
万物の幸せに貢献しねぇとな。
まっ、理解してくれるヤツは少ねェけどな。

だから、ワシは空海の方が好きだ。
優しさが桁外れに大きい。

最近はワシも上手、下手から外れているといわれる。
空海が上手から外れたのに対し、
ワシは下手から外れている違いがある。
外れているなら、仲間だぜ・・・。
(注: 本妻はこの意見に賛成してくれない・・・

  弘法は・・・8
9/19 (月)

1995年5月。
空海の書を通じて、空海に出会った。
実は・・・この数日前にも会っていたのだ。
だからこそ、奈良で出会えたのかもしれない。
数日前・・・生駒山にワシはいた。

1200年前
生駒山は浄化修行の場だった。
御瀧場が幾つもあった。
御籠り窟が幾つもあった。
特殊な「場」がこの山には幾つもあった。

生駒宝山寺の奥の院の奥。
般若窟とよばれる岩壁がある。
今は一般立ち入り禁止区域だ。
1350年前に役の行者が開いた。
そして1200年前に空海が籠った。

人間界には様々な想念の塊が溶けている。
その中に「闇族」と「光族」がある。
浄化というのは、闇を解放する事だ。
生駒山全体が「浄化の場」の御神体だった。
闇族にとっては、邪魔な場所だった。

誰が決めたか知らない。
生駒山の山頂を削った。
このような霊山を破壊したい想念がある。
日本を闇の国にしたい連中だ。
名目は天文台付き遊園地。

霊山、霊峰は国の光だ。
国の宝だ。
宝とは光が溢れているモノだ。
国宝とは、浄化を司るモノなのだ。
光を見ることを「観光」という。
観光地は荒らしてはならない場所なのだ。

こんな「当たり前」が通らない日本。
未来を観通していただろうな、役の行者は。
そして・・・何を思う・・・。
空海は何を思う・・・。
そんな事を考えながら、幾つかの霊場を巡った。

僅かに残る何者かの「氣」。
これが空海ならいいな。
これが役の小角(行者)ならいいな。
ワシと通じるわけがないか・・・。
そうして生駒山を歩いていた。

  弘法は・・・9
9/20 (火)

国の宝でもあった生駒山。
頂上を削られ、結界を壊された。
この国は聖地を排除する力が働いている。
それでも生駒山は山全体が聖地だ。
まだ浄化の力は残っている。

山頂を削られたのと関係あるのかも知らないが、
小さな御瀧場には水が落ちていなかった。
この山は・・・中に何かあるかもしれない。
山の内部、地の内部に、何かがある。
ワシは歩きながら、そう感じていた。

1350年前の記録がある。
龍に乗り、空から生駒に何者かが降りた。
龍は空飛ぶ乗り物だろう。
降りたのは人間だったか、宇宙人だったか。
あるいは・・・役の小角(行者)だったか。
(年代的には小角が覚醒していた頃だ)
いずれにしても、その頃は更に更に特殊な「場」だ。

時代が下った1200年前。
空海が生駒山に籠った。
役の行者の生まれ変わり。
あるいは同一人物とさえいわれた。
真相は解らない。

両人とも屍骸を残さない。
原子の波動(氣)をコントロールできた二人だ。
原子の分解、再生は可能だったろう。
未だ地球にいるのか、他の星にいるのか。
あるいは、他の存在になっているのか判らない。

真の自由自在の両人だ。
時々は日本にも現われるだろう。
現代でも空海に出会った人はいる。
多分・・・役の行者に出会った人も。

ワシでは判らない。
判らないが、出会っていた。
判らなくても、出会っていた。
大慈悲の塊のような空海だ。
ボンクラなヤツ(ワシ)には優しい。
判るように奈良で呼び止めてくれた。

ワシはラッキーだけで生きている。
ワシが優秀だったら慈悲をかけてくれないだろう。
ボンクラだったからラッキーだった。
そして・・・「いいかげん」だから波形が合った。

  弘法は・・・10
9/21 (水)

【空海】
お前ぇ、バカだろ。
バカは考えちゃダメだ。
バカは小せェ事、考えるんじゃねェ。
小さくまとめるのは、小利口がする事だ。
人間はバカか小利口しか居無ェんだからな。

バカは限度が無ェんだ。
小理屈、使うんじゃ無ぇぞ。
どうせバカなんだ。
常識にとらわれるなよ。
他人の目なんざァ、気にするタマじゃ無ぇだろ。

【ワシ】
はぁ・・・おっしゃるとおりです・・・。
バカが小理屈使ってもサマにならない。
ワシの仕事は理屈を使ったら活かせない。
技や知識から外れたモノを相手にしている。
「生命」だけ観ていればいい。
ナニモノかが、手伝ってくれる。
空海さまは適切に優しい言葉を伝えてくれる。

【空海】
おい、「さま」は止めろよ。
他人行儀になると、波動が届き難いんだよォ。
お前ぇバカだから、オレと繋がって無ェとマズイだろ。
能が無ぇんだから、一人立ちできると思うなよ。

【ワシ】
はぁ・・・ごもっとも・・・。

というわけで、ワシは何の才能もありません・・・。
バカです。
ナマケモノです。
いいかげんです。
スケベです。
だから、空海は繋がってくれているようです。
ラッキーです。

【空海】
もう少しマトモなら世話ァしねぇんだ。
バカのくせに「生命の浄化」に手を出すからさァ。
しょうが無ェだろ。
オレは僧だし、行者は優婆塞(うばそく)だしよォ。
お前ぇ、バカでも身内みたいなものだしなァ。

【ワシ】
どうやら、ワシの仕事は治療者じゃないらしい。
そっち系統だったんだ・・・。
何となく近いとは思ってたけど・・・。
まぁ、何だっていいか。
ヘマがあれば、空海のサポートが下手ということで・・・。
(この畏れを知らぬ言い方はバチが当ると思う・・・)

【空海】
バカにバチを当てるヤツァ、居無ェよ。
安心しな。

  プラーナ・1
9/22 (木)

このテーマはなぁ・・・。
少し抵抗あるんだよなぁ・・・。
ワシは一応プロだしなぁ・・・。
シロウトの機嫌取りは趣味じゃない。

それでも、いつか、どこかで書かなきゃ・・・。
誰がどんな書き方をしてもいい。
正誤を主張するのも趣味じゃない。
だが、ワシのとらえ方も公表しなきゃ・・・。
ワシの仕事(ライフワーク)に関係しているし。

アレコレ言い訳を書いてます。
少し「氣」が乗らないです。
どこから、どのように手をつけようか・・・。
カッコつけてもしょうがないのに、ワシらしくない。
そのくらい、書き難いテーマですわい。

サンスクリット語といわれてます。
そういわれれば反対する根拠も無いし・・・。
ギニア語でもサル語でも、何でもいいし・・・。
プラナでもプラーナでもプーラナでもいいや。
プータローは・・・ちょっと違うか・・・。
今となっては正しい発音も証明できんやろ?

プラーナとは宇宙エネルギーです。
生命エネルギーです。
氣です・・・。
こんな書き方でいいのなら・・・楽だ。
楽な生き方なら、立派なもんだ。
こういう解説者は立派な生き方をしている。
ワシも楽に書いてみたい・・・。

ワシは立派とはいえない。
立派でないとは・・・いえる。
お粗末とも・・・いえる。
自慢にゃならんなぁ・・・。
何がいいたいのやら・・・。

プラーナかぁ・・・。
わけがわからん「○○エネルギー」は論外。
「氣」も多種多様多段階があるし・・・。
そういう角度からは止めとこう。
他人の受け売り、コピーも趣味じゃない。

ワシ流の表現。
何とかならんか?
と、いうわけで・・・。
「活かす元」
どうだろ?
味の素というのがあったなぁ・・・。

  プラーナ・2
9/23 (金)

ワシは「氣」とプラーナの区別をする。
もちろん重なる部分もある。
双方で影響も仕合う。
それでも次元の違うモノとする。
その方が理解しやすいからだ。

「氣」もプラーナも見えない。
そして変化自在でもある。
だから固定した説明は出来ない。
多種多様多段階多変大変なのだ。
性質とか方向性で示すだけだ。

「氣は存在の元」
「プラーナは活かす元」

ワシの仕事(ライフワーク)。
生命力の活性化。
普段ワシは「氣」としか表現していない。
だが丁寧に表現するなら・・・

「氣」にプラーナを乗せて活用している。
プラーナ上位だ。
これが正常位・・・。
プラーナに「氣」を乗せているわけじゃない。

「氣」というヤツは無節操だ。
相手は誰でもいいらしい。
誰でも乗せてしまう・・・。
尻軽オンナとも云われる。
(い、いや、誰も言ってないだろうな)

節操の無いヤツはワシと相性がいい。
ワシは壁を超えるプロの氣功師だ。
隔てをしない尻軽は好きなタイプだ・・・。
優しさが大きい。

無節操な「氣」は「闇・病」も乗せる。
イヤ、とか言わないのだ。
それが「病気」というヤツだ。
ヤーサンは暴力を乗せる。
それが「殺気」というヤツだ。

イロを乗せる「色気」
食欲を乗せる「食い気」
弱いのを乗せると「弱気」
アホを乗せると「呆気」・・・。

素のままの「氣」もある。
存在の素でもある。
それが「元気」というヤツだ。
これが本来の正常位。
「氣」はプラーナと夫婦だったのだ。
プラーナが乗って「元気」でもある。
ファイト、イッパーツ!!

  プラーナ・3
9/24 (土)

ヨガの龍村師匠の師匠、故沖正弘氏の言葉。
「生命即神」
この言葉が解けて気づいた事がある。
沢山、沢山、ある。
言葉一つの深さに溜息が出る。
畏れが出る。

その解けた一つに「存在」がある。
(もちろん一部しか解けていない)
存在の元に「氣」がある。
古代中国では「氣は万物の元」と表現した。
看破する人はどの時代でもいたのだ。

ワシは中途半端な知識で思っていた。
原子→素粒子→トップクォーク→氣
こんなレベルだけで「存在」を観ていた。
アホだもん・・・しょうがないじゃないか!

「見えない世界と見える世界の間」
そんな部分で「存在の元」を観ていた。
忘れていたんだな。
この世は物質界と非物質界でで成り立っている。

非物質界には更に多くの層がある。
多重構造で成り立っている。
それらを別々の層だと思い込んでいた。
物質界と非物質界。

「色即是空・空即是色」
固定概念で観ていた。
「生死即涅槃・煩悩即菩提」
ここにもヒントがあったのに・・・。
仏典の中、多くの答えがあった。
優しいなぁ・・・優れた人達は。

多重構造が溶け合っている。
そこまで親切に書かれていたのになぁ。
ワシ・・・素直じゃなかった。
一つ一つは無く、全て一体だった。
層は別々にあるのではない。

「見える世界」と「見えない世界」
違いは無い。
存在の元にはプラーナがあった。
存在の元は活かす元と溶け合っていた。

この世に存在する事。
この世に存在するモノ。
全て「活かす元」で成り立っている。
全て「活かされて」存在している。

  プラーナ・4
9/25 (日)

活かす元がある。
活かされる存在がある。
我々も活かされる存在の一つだ。
プラーナという概念。
活かされる存在という概念。

生命エネルギー。
宇宙エネルギー。
ワシも恥ずかしい説明をしていた。
今も変らぬアホだが、
アホと気づかぬアホの時代だった。

「氣」のプロ側になった。
プラーナを「氣」である、とはいわない。
言うかもしれないが、それはメンドウだからだ。
メンドウはコテに勝る・・・意味不明・・・。

だんだんとメンドウ菌が繁殖してきた。
・・・いいよ。なんでも。
表現の自由は守りたい・・・。
自由の女神ならいいが・・・
某アメリカにあるのは銃の女神だしなぁ・・・。
いったい、何がいいたいのやら・・・。
メンドウ菌が脳ミソで繁殖している・・・。

閑話休題。アカンは落第(意味不明・・・)
意識は「氣」やプラーナを左右する。
意識しなくても影響下にあるのだが、
意識は見えないモノを濃くするのだ。
濃ければ、更に影響が強くなる。
それだけだ。
だけど・・・違いは大きい。

「活かす元」
プラーナを意識すれば、活性する。
包まれる意識。
呼吸で取り込む意識。
生命は活性化して自然体になる。
自然体とは生命の活性化でもある。

プラーナの、もう一つの呼び名もある。
「活かす元」のもう一つの呼び名。
「愛」
この世の存在にはプラーナがある。
この世は「愛」で満ちて(包まれて)いる。

それにしても・・・
今日の雑記は、メンドウで満ちている・・・。

  プラーナ・5
9/26 (月)

プラーナは・・・「愛」
そういう展開になるのか・・・。
まぁいい。
どうせ御筆先様の気まぐれだ。
なるようになる。

愛はアイダ。
愛は間。
間には愛が満ちている。
私と私以外の間。
心と体の間。
プラーナは満ちている。

何も心配ない。
存在している事は活きている事。
生きている事は活かされている事。
故御師匠様が言った。
「生きてりゃ大丈夫だ。何とかなる」

生きる事は活かされる事。
それは間にプラーナ(愛)がある事。
ならば、濃く反映させるのが回復になる。
闇・病からの回復・還元には「愛」が必要だ。

愛を使えない治療者はなぁ・・・。
国家試験で区別はできんなぁ・・・。
まぁ、他人の事はどうでもいい。
ワシの問題だ。
不マジメなワシの問題だな。

「愛」というと少し苦手だが、
プラーナなら何とかなる。
「氣」なら、もっと何とかなる。
何とかなれば、何とかなる。
あとは・・・グレちゃんにお任せするぜ。

「氣」使い。
使っているのやら、使われているのやら。
ワシの力じゃないから・・・わからん。
空っぽだから使える力だ。
力めば薄くなる力だ。

それでもプラーナは意識する。
力まないように意識する。
それには「いいかげん」が最適だ(と思う)。
プラーナもワシの力じゃないから安心だ。
ワシは妖しいオッサンだ(目指している)。
だが「氣」もプラーナも人事じゃない。

  プラーナ・6
9/27 (火)

「氣」もプラーナもワシの力じゃない。
ワシのモノじゃない。
ワシは他(神か何か知らん)のフンドシで相撲をとる。
まぁ誰だって自分のモノなんてほとんど無いけどね。
この概念はアボリジニやホピやナバホの人達に学ぼうぜ。

他のフンドシだから良く洗ってから使う。
洗うのはフンドシじゃない。
フンドシはいつも綺麗なのだ。
洗うのは、自分の汚れた体と心だ。
それがセルフヒーリングという事なのだ。
(解る人のみの説明だなぁ・・・)

プラーナは受けるモノ。
受けるモノは感謝するモノ。
感謝で濃く反映するモノなんだな。
「感謝」で活用できるようだ。
つまりプラーナの意識の方向は「感謝」だ。

プラーナを単純に生命エネルギーとすると、
感謝抜きにして受け取ろうとする。
しかも出来るだけ多く取り入れようとする。
元気になるぞ、健康になるぞ・・・。
欲張りは感謝知らず・・・。

入るのはプラーナでなかったりして・・・。
毒素の方だったりして・・・。
どちらも見えないからなぁ・・・。
どちらも一見力強くなるしなぁ・・・。
中途半端な呼吸法を覚えるからだ。
まぁ、他人の趣味ならモンクはないが・・・。

プラーナを入れる事より感謝する。
入れる事より、他に使う。
他に使っていただく。
愛は独占しようとしても無理だと思うよ。

あまり難しい事じゃないけどなぁ。
最初から自分のモノじゃないし。
自分の力でもないし。
ありあまるほど満ち溢れているし。
どうせ包まれているんだ。
力んで取り入れる相手じゃないぜ。

  月餅・1
9/28 (水)

9月の満月、月餅の思い出。
11年前、1994年9月上海。
ワシは故御師匠様に随行して中国にいた。
国際気功シンポジュウムがあった。
もちろんワシは単なる参加者だ。

故関英夫先生や帯津先生や深野先生が一緒だった。
御師匠様や先生方は発表者やゲストだった。
故関先生とは成田空港で個人的なお話ができた。
ワシには、貴重な時間だった。
おだやかで、やわらかで、万物に興味をもたれる優しさ。
故関先生はワシの目指す方向となった。

二人の御師匠様も目指す方向。
ダライ・ラマ法王に敬服し、
マザー・テレサ聖女に平伏し、
ヒュギエイアを崇めたて、
若ぇね〜ちゃん以外のオナゴを愛で、
犬もネコも妖怪も雑多な神様も抱きしめる。
ワシはこうして節操無いオトコとなる・・・。

ちょうど旧8月15日にあたっていたらしい。
満月の祭りだ。
中国でも特別な日だ。
月餅ってそういう日の御馳走だったのだ。

食べた。
!!・・・ポト!。
目からウロコが落ちた。
御師匠様達と出会って、何度ウロコを落とすのか。
ワシの目はウロコだらけだったのね・・・。
ウロコというけど・・・垢だったりして・・・。

メチャクチャ、う、美味い。
(もっとも、ワシは普段が粗食すぎるからなぁ・・・)
それまで日本で食べたのは月餅という名の御菓子。
モドキでもニセモノでもない御菓子。
だって、全く別物だからニセモノにもならない。

後から知った。
この日は中国の人には特別な想いがある。
だから作る時に「氣」が入る。
日本人が作るモノや日本向けのモノとは別物だ。
どんなモノでもホンモノと出会うのはラッキーだ。

  月餅・2
9/29 (木)

この時のシンポジュウム最終日。
スタジアムに特設会場を作った。
外国人向け(ワシ等)だけに用意した土産品。
外貨稼ぎの真っ最中の中国だ。
高級品がかなり並べられた。

お、おい!
金に余裕のある暇人の外人ばかりじゃないぞ。
ワシのように借金を踏み倒して参加するのもいるのだ。
それでも、アレコレ見てまわった。
交渉次第で半分以下になる品物だ。

ニセモノの水晶球が並ぶ。
水晶を粉末状にして、鉛を加えて加工する。
同じ珪素でもガラスではない。
確かに水晶球だ。
でもニセモノだ。

中途半端に高い金額になっている。
これらは香港なども多かった。
水晶の事を学べは簡単に理解できる。
あれだけの大きさの透明な水晶球を作るには、
どれだけの大きく育った水晶原石が必要か。
それは世界でどのくらい見つけられるか。

  月餅・3
9/30 (金)

ホンモノの大きな水晶球は特殊なのだ。
簡単に売られているようなシロモノじゃない。
怪しげな占い師がもてるシロモノじゃない。
水晶球側にだって、選ぶ権利があるのだ。

ある人が大きな水晶球を買った。
すぐ故御師匠様に「氣入れ」を頼んだ。
これもツアーの利点だ。
普段は超忙しい御師匠様にお願いは出来ない。
そんな人が次から次へと購入品を持ち込む。
故御師匠様はニコニコと「氣入れ」をしていた。

今なら判る。
能力の強さではない。
(パワーの強さと勘違いしやすい)
本人の容量の大きさ、深さだ。
10年経って、やっとワシも観えた。
容量は「やわらぎ・優しさ」で増える。

御師匠様は「氣入れ」も速い。
数秒単位で仕上げていく。
ん?
御師匠様の手が止まった。

水晶球でもガラス球でも区別しない。
「氣入れ」はできる。
ワシも今では同じだ。
紙でも布でも板でも鉱物でも出来る。
ホンモノ、ニセモノ、どちらでも出来る。

    翌月コラムへ     コラム3目次に戻る