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2006年・始
01/01 (日)

今年は始の年。
鍵は解けた。
そして、扉が開き始める。
2006年。

扉の向こうには光。
だから

あけまして(開ける・明ける)
おめでとう(芽が出るだろう)

こちら側は未だ闇がある。
扉から光が漏れる。
光が闇(病)に当る。
闇は混乱するかもしれない。
2006年は始まりの年だ。

混乱があっても大丈夫。
闇が多少暴れても大丈夫。
一見、辛いかもしれないけど、
それは本当の苦しみじゃない。
苦しみが消える時の幻の苦しみだ。

今までの常識が混乱する。
常識は闇の影響があったからだ。
正誤にこだわるのは闇の影響だ。
光は正誤を問わない。
光は暖かく、温かい(優しい)。

光には身を任す。
光には心を任す。
ただ、受けるだけでいい。
自然に体と心と精神が反応してくれる。

始を感じる人。
何か、ワクワクしている人。
期待していい。
多分・・・何とかなる。

今年から、見えない力はますます増大する。
闇の力も強くなるが、安心していい。
扉は開き始めている。
関(かん)の扉だ。
向こう側に行ける道が開いたのだ。

こちら側まで光が届き始める。
光を感じたら、少し進めばいい。
あせらなくても大丈夫だ。
もう、扉は開き始めているぞ。

(光に)包まれれば、解る。
(闇を)放せば、解る。
元々は生命(光)の存在だった事を。

向こうへ進むのも自由。
こちらに退くのも自由。
光を浴びるか隠れるかは自由だ。
扉は開き始めている。
ラッキーが更に広がり始めている。

2006年 初日。

  雑記の行方・1
01/02 (月)

2002年12月1日。
そこから毎日雑記を書いている。
ヒマだったんだ・・・。
今もヒマな時間はある。
だが、雑記を書く時間が少なくなっている。

この雑記はパソコンで書く。
ヒマな時間があってもパソコンの前じゃない。
昨年中古のノートパソコンを買ったが、
常に持ち歩ける大きさと性能じゃない。
ホテル滞在用だ。

まだある。
今までは御筆先様が常駐していた。
ワシはキーボードに手を置くだけでよかった。
最近、御筆先様は旅行に目覚めたらしい・・・。
帰ってこない日が多くなってきた。

昨年から、少しだけ仕事依頼が増えた。
その分パソコンをいじる時間が無くなった。
御筆先様もいない。
雑記が更に雑な書き物になった。
少し、方向を変えようと思った。

ワシは書きたいテーマがある。
そして、少しづつ書き出している。
しかも、同時に4つの別な書き物だ。
だが、雑記優先で途中で止まったままだ。
少しマトモに書いているのだ。
御筆先様が乗るのにも時間がかかる。

そうだ。
毎日書く、この雑記と兼ねよう。
話もテーマもアチコチ、跳ぶ。
読む人の事など、知ったことか。
元々、独善雑記だ。
勝手気ままに書いているのだ。

更に更に、読む人は解らないと思う。
ワシだけが納得していればいい。
ワシだけが整理つけばいい。
時々は「閑話」も入れる。

本来は一冊分の文章だ。
だが最初から順序良く発表しない。
気まぐれに4つのテーマが入り乱れる。
だから、何が何やら、判らない・・・。
そういう一年にしようかと思っている。

  雑記の行方・2
01/03 (火)

一冊分の文章が4つ。
四冊分の文章をコマギレにする。
しかも前後もバラバラにする。
一日分は僅かな字数だ。

つなぎ合わせるのは難しい。
書いているワシは(多分)判る。
読む人・・・減るだろうなぁ・・・。
何の事か判らなければ、ツマランだろうな。

まぁいい。
ワシはお笑いブームから外れた芸人だ。
読者の機嫌取りなど、まっぴらだぁ。
だが根性も人一倍無い。
い、いや・・・人の五倍は無い。
根性無しはワシのオリジナリティだ。
「閑話」でグレた文章を時々入れる。

基本的にはマトモな文章だ。
ワシ的にはマトモという意味だ。
世間的にはグレた文章だと思う。
どうなるか、わからない。

4つの文体が違う。
整理整頓の苦手なワシだ。
そのうち・・・混乱すると思う。
そのうち・・・混合するかもしれない。
何が何だか判らなくなりそうだ。

元の題名はある。
だが題名は教えない。
「ヒーリングについての考察」
「仮想座談会の形」
「愛について」(のグレた話)
「エッセイ」

どれか一つにした方がいいだろうなぁ。
その方が書きやすいだろうなぁ。
でもワシはハチャメチャが好きだ。
理性よりも感情が優先するのは当たり前だ。
好きな事をしていれば、何とかなる。
というわけで、ハチャメチャな方法で行こう。

  雑記の行方・3
01/04 (水)

4つの文章の一つ。
「B女の話」は05年7月に一部を載せた。
雑記を書く時間が無かったからだ。
あの時は順序よく載せた。
だが途中で尻切れにした。

あの続きも載せる。
更にバラバラにして載せる。
書いていれば、何とか一冊分になる。
それがワシの目的でもある。

一番書きたいのは「ヒーリング」
プロの道に入って10年以上。
ワシがどうにか触れたモノだ。
もちろん解り切ったわけではない。
その道を歩く人。
その道に関係する人用かもしれない。

愉しんで書いている「座談会」
ワシの独善の舞台だ。
キャラクターの使い分けに多少の不安がある。
まぁいい。
後で直せばいいじゃないか。

さぁ
始まりだぜ。

  「R・1・1」
01/05 (木)

「楽園座談会」

登場人(?)

グレちゃん: グレートサムシングという、この世の創造主。
ブッちゃん: かつて仏陀といわれた。
キリちゃん: かつてイエス(キリスト)といわれた。
ゲシュはん: かつてゲシュナム・リンチェンといわれた。

(注: これはフィクションであり実在する、あるいは実在した特定の個人や団体を示すものではありません。
たまたま似た名前の人・偉人・団体等がありましても、気にしないで楽しんで下さいね)


     序章

「師よ。まだ逝かないで下さい。」
「師よ。目をお開け下さい。」
 チベット亡命政府がある北インド、ダラムサラ。ある寺院の一角にある部屋に多くの僧侶が集まっていた。
 今まさに逝こうとしているのは、チベットの智慧とよばれたゲシュナム・リンチェン師。
103年間の波乱の生涯を閉じようとしていた。
 い、いや・・・目を、開けた・・・。
「チ、チベットは、永遠に、ふ、不滅だ。」
「師よ。それは・・・パクリですぅ・・・」
「フォフォフォ。人生は、お、面白かったぞ。」
 悪戯っ子の輝きをした瞳は再び閉じられ、そのまま二度と開くことはなかった。

「出発(たびだた)れたか・・・。共にチベットからヒマラヤを抜けて亡命し45年。
師の明るさはチベット国民と僧達の最高の糧だった。
師がおられたから、生き延びる事が出来た。
感謝!合掌!オン・ドルジェ・タクデン!」
 一人籠った瞑想場で、ダライ・ラマ法王が呟いた。
やがて無言の経が空を明けるまで続いていた。

  「R・1・2」
01/06 (金)

  第一章

   出会い

 丸顔で背の低い中年と、痩せて無精髭長髪の中年の男が二人。
ブ:「おっ、誰か来たぞ。」
キ:「久々だね、ブッちゃん。」
ブ:「何でこう間が空くのかなぁ?ワシ達、教え方が下手だったのね・・・」
キ:「ブッちゃん、気取りすぎたんだよ」
ブ:「ハッハッハ、若かったしねぇ〜」
キ:「ブッちゃんは80年もいたじゃない。ボクなんて、33年だぜ。」
ブ:「まぁ、いいじゃない。人間界は年数じゃねぇから。」
キ:「ここに来れば、人間界で何歳であっても皆中年の姿になるんだもんなぁ」
ブ:「ワシなんて、40歳くらい若返った感じぃ〜」
キ:「ブッちゃんの言葉使いは10代だよ。」
ブ:「昔から、こんなもんだったよ」 

 そこに若返った中年姿のゲシュナム・リンチェン師、登場。
ゲ:「こんにちは」
ブ・キ:「いらっしゃ〜い。待ってたよ〜」
ゲ:「貴方達は・・・も、もしかして・・・」
ブ・キ:「わ、判るぅ?」
ゲ:「私は正統仏教としてチベット仏教を学んだ者です。
 祖を思い浮かばない時など、一瞬たりともありません。
 私ごときがお会いできるなんて、夢みたいでございます。」
ブ:「う〜ん・・・夢っていうかぁ、もう死んでるしぃ〜・・・」
ゲ:「ん?誰が?」
 ゲシュナム師、相手の二人と自分の足を見る。
 足はある。
 
キ:「じいさん、まだボケているんじゃない?」
ゲ:「そういう貴方は・・・」
キ:「わ、判る?」
ゲ:「その髪、その髭。痩せた体。・・・床屋にも行けない、プータロウ?」
 一応礼儀にのっとり、キリストはずっこけた。

ゲ:「ありがとうございます。こんなジジイのボケに付き合っていただきまして。
 キリスト様ですね」
キ:「キリちゃんでいいよ」
ブ:「ワシ、ブッちゃんて呼んで」
ゲ:「そ、そんな、畏れ多い・・・そうですか、では遠慮なく。
 私はゲシュはん、でお願いします」
キ:「このノリのよさ!そうでなくちゃここには来られないもんねぇ」
ゲ:「ところで、ここは何処でございまいしょうか?」
ブ:「楽園だよ。桃源郷でもいいし、極楽浄土でもパラダイスでもいいよ」
 ゲシュナム、周りを見渡す。
ただの野原にも見えるが、清浄な空間であるようだ。
ゲ:「ジジィだった私がこんなに若返って・・・。
 確かに極楽浄土のようですね。あとは若ぇね〜ちゃんが・・・」
キ:「ゲシュはん。さすがに高僧といわれるだけあるなぁ。」

  ネアカ
01/07 (土)

「ネアカの人は得ですねぇ〜」
長い病い人は次第に暗くなりがちだ。
外見を明るく振舞うタイプも多くいる。
でも、心の中は闇(病)を見つめてしまう。
ネアカでいられる人は極僅かしかいない。
彼女もそう思っていた。

「人間はネアカ以外の人はいないよ」
ワシは常にそう言う。
根、つまり心の底は皆明るいのだ。
根が暗い人は生まれて来ない。

物事が判らなくなったら自然に学べ。
ワシの判断基準だ。
人間の自然体。
それは「赤ちゃん」だ。
暗い赤ちゃんはいない。
明るいから、明ちゃんでもある。

基本的な自然体が明るいんだぜ。
誰でもだ。
何も無くても笑っていられる。
それが人間の自然体だ。
誰でもだ。

その後の人生の環境。
笑えなくなった人はいるだろう。
闇(病)を見つめ、闇(病)に暮らす人もいるだろう。
だが、根は明るい。
これは、単なる事実だ。

根は変らない。
いつでも根に帰る事ができる。
性格が暗いと勘違いする人は多い。
性格は皆、明るい。
生き方が暗いだけだぜ。

生き方は自由だ。
暗く生きるのも自由だ。
拗ねて生きるのも自由だ。
笑って生きるのも自由だ。

ただねぇ・・・
根が明るいのだ。
明るく生きるのが、一番楽なんだ。
そこに無理が無い。

無理して暗く生きるのは疲れないかぁ?
と、そんな事を話しながら、
(病・闇を)放す手伝いをしているんだ。
ワシは単純な事実を話している。

  白の世界
01/08 (日)

空が白い。
空気が白い。
大地が白い。

身体が白い。
心が白い。
魂が白い。

感情も白い。
理性も白い。
法則も白い。

悲しみも
苦しみも
喜びも
快も

意識が
ホワイトアウト。

私が・・・白。

(こ、これって・・・
そ、雪遭難?)

  「R・1・3」
01/09 (月)

極楽浄土・・・。
それにしては仏陀とキリストの超二大偉人が肘を付けているテーブルは白いプラスチック製だし、四脚置かれている椅子はバラバラに寄せ集められた安物だ。
もっとも、超豪華なテーブルセットに座る偉人なんてウサンクサイだけだ。
この二人が座れば、どんなモノでも似合っている。

キ:「ゲシュはんも座りなよ」
ブ:「ちょっと古いけど充分使えるぜぇ」
ゲ:「何処からか拾われてきたのですか?」
キ:「うん。日本だ。あそこには使える家具が道に落ちている」
ゲ:「キリちゃんが拾ってきたのですか?」
キ:「そうだけどさぁ、ヒデェんだ。あそこは。」
そのとたん、仏陀が破顔で笑いこけている。

ゲ:「どうされたのですか?」
ブ:「キリちゃんさぁ、この姿だろ。椅子とテーブルを担いでいたら、近所の人に通報されたんだよ」
キ:「誰に危害を加えたわけじゃなく、まだまだ使えるのに捨てられているモノ達に手を差し伸べただけなのにねぇ・・・」
ブ:「キリちゃんだから、愛に区別しないだろ?それが通用しないんだ」
キ:「警官に連れて行かれて、それからが大変だったんだ」
ブ:「何しろ地球では住所不定だし。年齢は2000歳を超えるしね。
 名前はキリストだし。この格好だろ?警官もブタ箱に入れるわな。」

キ:「久しぶりにマトモなお話をしてあげようとしたのに・・・」
ゲ:「今の文明国といわれる国では無理ですよ。
 肩書きと見た目でしか判断できないですからね」
ブ:「キリちゃんより小奇麗なワシでも捕まるだろうなぁ・・・。
 仏教関係者でも話は聞かないだろうね。
 どこの宗派にも寺にも属してないで説教したって・・・」
ゲ:「で?どうしました?」
ゲシュナムは興味津々、子供の目で話の続きを聞きたがった。

ブ:「ゲシュはん、その目をしている人間が少なくなったんだよ。
 仏教なんて子供の目と耳で学ぶもんだ。
 ワシは最初は森のケモノ達に話たんだぜ。
 小賢しい理屈なんざ誰が聞くか。
 そんな事も判らなくなっているんだなぁ・・・」
キ:「キリスト教なんてもっと酷いもんさ。
 積極的に差別し戦争してるもんね」
ゲ:「まぁ、御二人の教えがヘタということで・・・。
 そんな事より、どうしました?その続きは?」

ブ:「ゲシュはん、その切り替えの速さが、ここに来られた要素だよ」
キ:「そ。いつまでも学んだ事にとらわれてないし、陽気だしね」
ブ:「どんな状況でも愉しめるから極楽に来られるのに・・・あまり来ないねぇ」
キ:「ゲシュはんが続きを聞きたがっているから」
ブ:「このへんでメシにするかぁ?」
ゲ:「はい、御相伴いたします」

  愉しむ・1
01/10 (火)

「面白かった〜」
一日が終わって、そう口に出る。
生命力が活性化している時のセリフだ。
病を持っていても回復方向だ。
活性化とは方向なのだ。

雨が降っても「面白かった〜」
大雪でも「面白かった〜」
槍が降っても「面白かった〜」
ぼた餅が降ってきても「面白かった〜」

トラブルがあっても「面白かった〜」
アクシデントは「面白い〜」
困った事は「面白くなるかも〜」
わからない事は「面白い事」

唯一つの条件がある。
生きている事。
それだけで充分と思えるなら・・・
あとは全て「面白い〜」

病からの回復。
生きている事。
それ以外は「面白い事」
そう思えれば、ほとんど完成だ。

回復は
回復しなくても
回復が決る。
「面白い〜」で決る。
いずれ回復するに決っている。

方向なんだなぁ・・・。
状態ウンヌンじゃないんだなぁ・・・。
方向が転換すれば先が観える。
あとは歩くだけだ。

共通は「面白い〜」の言葉だ。
生きている事を面白がれる。
生きている事を愉しめる。
すると、生命は活性するようだ。
活性は回復力なんだ。

  愉しむ・2
01/11 (水)

「愉しむ」は自力だ。
他は関係ない。
楽しめる場所や相手やモノや機会もある。
だが、それは「楽しむ」だ。
受身の楽しみだ。

他が有っても無くても「愉しむ」。
何時でも、何処でも、どんな状況でも。
まるで・・・アホ。
理屈無し、条件無し。
アホだから、愉しめるのだ。

生命は理屈や条件で喜ぶモノじゃない。
ただ(生命が)有るだけで「喜ぶ」。
生命が有るだけで「愉しめる」。
この状態を「自然体」という。

何も無くても「愉しむ」事。
それを「絶対積極」と解説した人もいる。
名言だと思う。
深い言葉だと思う。
アホは・・・深いのかもしれないなぁ。

断トツの最優先は「生命」だ。
生命の為なら、死んでもいい・・・。
(オ、オイ!死んでもいいんかよ!)
そのくらい、大切な基本。
それを全員が持っている。
だから全員が「愉しむ」生き方が出来る。

病からの解放。
全員が鍵をもっているんだぜ。
使わないだけだ。
それも自由だけど・・・。

何も無くても「愉しい」人。
最近は少なくなっている。
条件が無いと楽しめなくなっている。
だから楽しみは・・・浅い。
浅いモノは・・・つまらん。

  愉しむ・3
01/12 (木)

闇(病)からの回復。
幾つもの方法がある。
心配も絶望も無用だ。
深い闇(病)からなら幾つかの条件がある。
条件が重なると開ける仕組みだ。

「愉しむ」。
方法の一つであり条件の一つでもある。
闇(病)の大部分は愉しくない。
ならば放せばいいのに・・・。

見つめる事は掴んでいる事だぜ。
病み人が病み人でいる時、
闇(病)ばかり見つめている。
闇(病)は嫌だ、といいながら・・・。
嫌なら放せばいいのに・・・。

ワシは個人の自由を尊重する。
闇(病)から回復しなければならない、
とは思わない。
好きなら一緒に居てもいいと思う。
「嫌」と言いながら一緒にいたがる人も多い。
それも自由だ。

「闇(病)から解放されたい」
そう依頼を受ける。
「ならば・・・その闇を掴んでいる手を離して」
でも闇(病)を見つめる癖がある。
何かを見つめていないと不安なのだ。

見えない世界の仕組みがある。
見えないからこその仕組みがある。
見えない相手を見つめる(意識を向ける)と、
相手は存在してしまうのだ。
もう一つの仕組みもある。
見つめた(意識)相手が優先する。

闇(病)を見つめると闇は大きくなる。
光(自然体)を見つめると闇は減少する。
どちらも無くなる事はない。
どちらを見つめる(意識)かは自由だ。

回復は自然体と同方向にある。
ワシなら・・・どうせ見つめるのなら、
輝くヒュギエイア(健康女神)のネ〜チャンにするぜ。
「愉しむ」と、この(輝く)オナゴは見えるようだ。

闇(病)の中にいても大丈夫だ。
輝きの方向さえ判れば進めばいいだけだ。
輝きへ歩く事を「愉しみ」という。
何も難しい事はないんだぜ。

  自愛・1
01/13 (金)

ワシは病み人と接する仕事だ。
病み人から、いろいろと学べる。
病になる幾つかの条件。
人により、回復の違い出る条件。
なるほどなぁ・・・。

最近、ちょっと気になる癖が増えた。
病み人の意識の癖だ。
意識の癖は社会風潮で付くようだ。
最近の日本社会の癖だと思う。

見えないモノに対する姿勢。
見えないモノへの価値観。
とても貧しい意識になってしまった。
大切なモノは
見えないモノなのになぁ・・・。

見えないモノの中でも特に重要なモノ。
それが「生命」だ。
この世では「心と体と魂」だ。
建前では「大切だぁ!」と言う。
でもなぁ・・・。
意識では低く思っている。

見えないモノへの癖なんだ。
価値が観えなくなっている。
見えないから、判らないと思っている。
時間も労力もお金も少なくしようと思っている。

「生命」を値切る。
平気でしている。
病になる条件を作っている。
回復し難い条件を作っている。
自分の生命なのに・・・。

飾るモノなら金をかける。
欲しいモノなら時間もかける。
手に入れる努力もする。
服でも車でも食べ物でも。

ストレス発散の為なら金をかける。
身体に負担がかかってもいい。
酒もギャンブルも趣味も熱心だ。
だが「生命」をケアするのは不熱心だ。
ガマンできるなら、ガマンさせる。

生命は、
一番大切で、
一番優先する相手なのになぁ・・・。
安く手軽にしたいらしい・・・。

  自愛・2
01/14 (土)

ワシは不思議な気持ちになる。
回復を願うのに何故「生命」を値切るのかなぁ?
安上がりの「生命」でいいんかい!
バーゲン品でいいんかい!

「生命」に金はかけたくない。
「生命」に労力や時間をかけたくない。
それは「生命」を安く仕上げたい事だ。
自分の「生命」を安く仕上げたい事だ。

「生命」に自他は無い。
だから他人の「生命」も安く思える。
簡単に「生命」を消してしまう・・・。
最近の日本の社会風潮だと思う。

自分を大切にする。
それは「生命」を大切にする事だ。
他人に見せる為じゃないぜ。
外観じゃないぜ。
能力でもないぜ。

自分を愛する。
それは「生命」を愛(いと)おしくする事だ。
「生命」に自他は無い。
他の全てを愛さなくてもいいが、
他の「生命」は愛おしく思える。
それが「自愛」だぜ。

ワシは博愛じゃない。
誰でも愛するなんて出来ない。
嫌いな欲脂ギラギラ政治屋なんて愛せない。
だがそんなオッサンの「生命」は愛せるぜ。
自分の「生命」と変わりないと思える。

う〜m・・・
表現が不足だな・・・。
氣功時はワシの軽薄な思考や心は動けない。
ワシの氣功時は「生命」の区別が出来ない。
区別出来ないのが、自然体なのだと思うぞ。

区別出来ない。
比較出来ない。
「生命」は至高なモノだ。
「生命」は社会風潮や社会常識と別次元だ。
本気で「生命」が愛おしくなる。
ここが回復速度の分かれ道となる。

  自愛・3
01/15 (日)

自分が嫌い、という人がいる。
だが、自分が嫌いなのではない。
自分を好きになりたいのだ。
それを素直に表現できないだけだ。

素直は自然体。
自愛は自然体だ。
自然は「生命」を基盤にしている。
「生命」の共存共栄が自然体なのだ。
自愛は共存共栄の基本的姿勢だ。

「生命」を愛しむ。
この姿勢が生命力を活性する。
免疫力を増大する。
回復を速やかにする。
「生命への愛」は万能だぜ。

病になったら、気づく事がある。
生命を愛しむ。
自分(の生命)を愛しむ。
そういう「自愛」に欠けていた事に気づく。

この気づき無しで回復だけを願うと・・・
「生命」の安売りになる。
上辺だけの回復になる。
病は繰り返さざるをえない。
せっかく病になったのに・・・。

大切な「生命」だ。
たっぷり時間をかけて愛しむ。
元気になる為なら、何でもしよう。
最愛のパートナーは「生命」なんだ。

「生命」は身体側に多く付いている。
心側は少しだけなんだ。
心の満足を最優先すると「生命」は困る。
大抵は「生命」にダメージを与えるからだ。
心の満足より身体の満足を優先してくれ。
それが「自愛」のコツだ。

  「R・2・1」
01/16 (月)

  会食

ブ:「ゲシュはん、何が食べたい?」
 ゲシュナム師は従座し偏袒右肩(へんだんうけん)で合掌する。
ゲ:「き、教祖様。そ、尊師自ら料理しはるのでっか?」
ブ:「あったりめぇじゃねぇか。自分達のメシだもん。」
キ:「それより、ゲシュはん、イキナリ関西弁になってるよ。」
ゲ:「実は・・・私はチベットの関西人ですねん。」
 ゲシュナムは雰囲気に慣れるにしたがって、言葉は関西弁に似てくるらしい。前世は大阪の漫才師だったのかもしれない・・・。

ゲ:「私は何でもいただきまっせ」
ブ:「ん〜じゃあ・・・今日はイタリアンでいこうかぁ」
 仏陀は料理が好きらしい。愉しそうに魚をさばいている。
キ:「サバをサバく。カニは好きカニぃ?イタメシは食イダメシてね」
 キリストのダジャレはD級だった。もちろん誰も笑わない・・・。それでもめげずにダジャレを飛ばしていた。

キ:「ブッタがブッタ。イエスがイェ〜ス。ん?ダジャレになってないな?」
ゲ:「キリスト様〜。そ、その辺で止めたほうが・・・」
キ:「様はよせよ。意識レベルに差をつけると波動が通じなくなるだろ?」
ブ:「そうなんだよなぁ。弟子はそこが解ってねぇ」
キ:「同じ人間でレベルに差はない。生者も死者も同じなんだ」
ブ:「差は無ぇけど、気づいてるか、気づいてねぇかの違いはあるんだ」
ゲ:「立場は同じ。でも、向いてる方向に違いがあるんやねぇ」

  「B・2・3」
01/17 (火)

  兄弟姉妹の愛

 兄弟(姉妹以後略)って、とても不思議な関係なのよ。
 親子のような無条件の魂の愛情契約はないわ。
無条件感謝付きでもなくてよ。
でも、友人愛やもちろん恋人愛や夫婦愛などの「行い」は必要ないわ。

 一番近い表現では自己愛かしら。魂の自己分裂した部分があるから、似ていても似ていなくても自分自身とつながっているのよ。
自分自身の一部があるの。
 自分自身だから、意識しない愛情かもしれないわ。
時々憎しみ合う兄弟もいるけど、愛も憎しみも表現が別なだけで同じなのよ。

 憎しみ。妬み。嫉み。みんな「愛したい」と言っていると同じなのに、愛と反対の感情だと思い込んでしまっているわ。
 どうして人間は素直に観ることが難しいのでしょうね。
いいえ、赤ちゃんの時は素直な反応をしていたわ。
大きくなるにつれて、周りの人間感情の影響を受けてしまうみたいね。

これが仏教的には「業(カルマ)」という奴ね。
カルマって、浄化(解決)しないと続くぞ、という理のこと。
 でもカルマを背負っている本人でなくても浄化できるのよ。
これが仏教とアタシの違いよ。もちろんアタシの言う事の方が素直よね。

当然ブッダさんも解っていたけど、「教え」は聞く人の理解度に合わせてを説くから、その時は「本人がカルマを浄化せよ」というほうが適していたのよ。
 それなのに、後に続く者たちは出来が良くないから、開祖の言葉を絶対視してしまうのよね。
真の開祖の心を汲み取れないのよ。
だから開祖が正反対の言葉などを伝えると混乱したり、勝手に削ってしまったり。

宗教の間違いはここにあるわ。
キリスト教も回教もその他の宗教も同じ過ちを踏んでいるわ。

  「B・2・4」
01/18 (水)

 言葉は真実を顕せないのよ。
大きな力はあるけれど、事実を伝えるためのグッズの一つなのよ。
この次元でしか使えないし。

大きな力があるから、それに気づいた人がびっくりして勘違いしちゃうのよね。
(この世に限ってだけど)事実を創れる事と真実の区別くらいして欲しいわ。
真実へのキッカケにはなるけど、言葉自体が真実を顕すことはできないわ。
当たり前よね。真実は言葉じゃないもの。
言葉はもっと柔らかく使ってこそ威力を発揮するのよ。

あっ、今、突然閃いたわ。アタシってチョーすごい。
浄化はジョーカー(魔女)かもしれないわ。
ああ、アタシの役割って人間の救済だったのね。
宗教を始めちゃおうかしら。
アタシのような美しい教祖様なら信者はたちまち増えて、きっと大きな組織になるわね。さっそく衣装を考えなくっちゃ。

(皆さん、心配ありません。
妻は思いつきを口に出すだけで、実行する根性はありませんし、私以外に誰も相手にしてくれません。
しかし、妻はこのまま空想に入り込んでしまいましたので、たまには私が鏡と遊んでみます)

「鏡よ鏡、兄弟の意味を教えておくれ」
「ああ、ダンナはん。ワイ、前項のB女はんの言葉がショックで・・・」
「君は親コンプレックスか?」
「ワイ、可愛くないやろ。見捨てられてもおかしくない」
「大丈夫。妻をごらん。あんな妻でさえ私は見捨てたりしないだろ。
まして親なら」
「そ、そうやな」

「ところで、兄弟の意味は?」
「ワイ、兄弟いるんやろか?
 や、やっぱり見捨てられたんとちゃうやろか」
(どうやら鏡は肉親関係のコンプレックスが大きいようです。
コンプレックスはこの世に存在するモノに必ず有るようです。
 歪みからこの世が生まれた、というのは本当のようです)

  「H・0・1」
01/19 (木)

 少し前まで精神世界などの分野などでしか通用しなかったヒーリングやヒーラーという言葉が、今はマスコミなどでも普通に使うようになりました。でも、その意味するものは依然として曖昧なままです。
 
 「癒し系」「癒し的治療」「癒しの治療師」そんなイメージだけで使われているのが現状でしょう。ギリシャ語の語源から「全体」「健康」「聖なる」「自然回復」などの意味と重なりますが、はっきりした定義はなされていません。

 ヒーリングやヒーラーという言葉が西洋医学から胡散臭い扱いを受けてきたのも理由があります。科学的根拠が証明できないからです。現象の変化を認めても、その仕組みが解明されなければ「科学的」でないからです。科学的で全てが解明できるわけではありませんが、多くの人を納得させる力はあるでしょう。

 まして治療分野は生命を左右する特別な世界です。「治療」と「ヒーリング」の違いと重なる部分を認識しないと、一番肝心な病む人まで迷惑を被りかねません。ヒーリングが安全で状態の改善に役にたっても、病人には治療も必要だからです。

 問題をややこしくしているのは、医師や治療者が無自覚にヒーリングをしている場合があります。名医と呼ばれる医師や優れた治療者は、その技術や知識以外にヒーリングを重ねていました。治療者だけでなく、ヒーラー(ヒーリングをプロとして行う人)として治療に係わっていました。

 重なる部分を持ちながら、治療とヒーリングは別々の次元の行為です。病人に危険性はありませんが、常時病人と接するヒーラー側には大きな危険性があるのです。ですから無自覚の名医や名治療者ほど、早く亡くなる傾向があります。

 多くの患者やクライアントや弟子を残して、優れた師とよばれる人達は次の世界に旅立ちます。まだまだ活躍していただきたいのに。この本を書く動機の一つが、ここにあります。

 優れているが故に、早逝する。ここに「ヒーリング」の大きなヒントがありました。そして優れていたが故に、「ヒーリング」を見落としていたのです。何故なら優れた人達には「ヒーリング」が当たり前だったからです。

 ヒーリングは見えない世界と深い係わりがあります。精神世界と深い係わりがあります。科学的でない世界と深い係わりがあります。それだけに曖昧で勘違いの余地も多く残されているのも事実でしょう。科学的でなくても、大切なモノはあるし、知って欲しい事もあります。

 私は実践者として体感し、事実としてクライアントの変化をみてきました。理屈ではなく、できるだけ事実から仕組みを観ようとしてきました。そしてヒーリングがこの世の仕組みと重なる事に気づきました。

 多くの偉大な先達達が残した言葉にそのヒントがありました。現実の仕組みと合致しました。ヒーリングは特別ではなく、古代から東西南北の何処の地域でも行われていた事でもありました。そして地球の未来を導くキーワードでもあったのです。

  「H・1・1」
01/20 (金)

 曖昧な言葉

 ヒーリングとは「癒し」である。
 よく、こんな説明がなされています。しかし「癒し」はかなり曖昧に使われています。
最近ではちょっと優しいだけで「癒し系」の冠さえ付けられています。
「癒し」が何であるか定義されないまま一人歩きしてしまったからです。

 見えない世界からの言葉は無理解のまま使われ、曖昧な分、応用範囲が広くなります。
使う方とすれば都合のいい言葉なのです。
見えないだけに、言い逃れもしやすい言葉です。

 しかし、これからは見える世界と見えない世界は融合していく時代に入りました。
現代はその変革時期かもしれません。
変革時期に混乱が起こるのはやむを得ないかもしれませんが、混乱が続くのは決して未来が早まるわけではありません。

「癒し」の説明を調べると、
心を中心に、体と心の両方に回復効果があるもの。
自然治癒力を促す働きをもったもの。
浄化作用。
おおよそ、こんな感じですが、心も自然治癒力も浄化も何となく曖昧な言葉です。

 多くの見えない世界の言葉は、更に曖昧な言葉を重ね、イメージでそれぞれが勝手に受け取るようにしてあります。
見えない世界は安定も固定もしていません。
揺れる波動の世界です。対応する意識などである程度変わってしまうのです。
どうしても多少の曖昧さは内蔵しています。

 しかし言葉を使用する側や、受け取る側の理解度によって変わるのも困りモノです。
多少の自由度は残しながらも、ある程度の枠内で納まって欲しいですね。
そうでないとインチキや勘違いが入りすぎます。

 インチキや勘違いはこの世の常ではありますが、それを指摘できないほどの曖昧さのままでは、いつまでも胡散臭い言葉といわれても仕方ありません。
精神世界で多く使われる言葉にはそういった曖昧さの枠を絞りきれない部分があると思っています。
まして「癒し」は体と心の健康や回復に係わる言葉です。
今後は徐々に共通の意味を定義するのも大切だと思います。

  「H・1・2」
01/21 (土)

 「癒し」と「治療」

 「癒し」が曖昧な言葉でも、人々の生活に影響を及ぼすほど重要でなければかまいません。
しかし、「治療」との混同や重なっている部分があるなら、とても大きな問題に発展しかねません。
体と心を如何に回復するか、健康を目指し維持するかは、誰にも当てはまる人生の最重要の関心事でもあるのです。

 また「治療行為」は生命を左右する場合も起こりえますので、幾つかの法律で規定されている行いでもあります。

 「治療」側として、医師(医療行為者)と医師以外の治療者(按摩・鍼等)とそれ以外の施術者(各種療術)の相互理解と協力も大切だと思っています。
この関係は法律などで改善されて、資格制度などの新設により解決できる問題だと思っています。

 こういった「医療・治療」側の改善点とは別に、「癒し」側としての混同があるのです。
この本は「癒し」と「治療」の混同をさけ、重複する部分の理解を深める目的で書いています。

 今までは「癒し」の治療的部分を各種療術の一つとして押し込めていたようですが、それでは本来の「癒し」の活用にもなりませんし、「治療側」の危険性まで引き起こしてしまいます。

 「癒し」の無理解は患者やクライアントに直接的な危険はありませんが、「代替医療」ではありません。
代替医療の一つとして勘違いしますと、治療を怠ってしまう間接的な危険もあります。
治療的効果があるからといって、医療に組み込ませるのは無謀だと思います。

 しかも受ける側に直接的な危険はなくても、無特定多数を扱う治療行為者には危険を蓄積してしまう仕組みがあるのです。

  「H・1・3」
01/22 (日)

 「治療」ではない「癒し」

 治療を目的としての行為は「治療」の世界ですが、やすらぎを目的にした行為は「癒し」の世界です。
「治療」を意識していませんから、「癒し」は「治療」ではないのです。
結果として、不都合部分の回復や修正や治癒が起こっても、あるいは起こらなくても「癒し」としての行為に変わりがありません。

 「治療」は結果を重視します。
しかし「癒し」は結果を目的としていません。
「癒し」はその過程の「やすらぎ・やわらぎ」が目的といえるでしょう。
この「やすらぎ・やわらぎ」は言葉の柔らかいイメージと違い、とても強く巨大な影響をもたらします。

 影響の範囲も個人だけではなく、人類、生物、地球といった広がりを秘めています。
「癒し」を穏やかな治療類似行為と同等に考えていたら大きな間違いです。
「治療」とは全く別の仕組みです。
最初から別世界の行為として理解していただきたいと思っています。

 「癒し」と「治療」との混同は大きな間違いを引き起こす危険性さえあるのですから、曖昧のまま野放しでは、癒し行為をする人(ヒーラー)と治療行為をする人(ドクターや他の施術者)と受ける人(クライアント)の三者が迷惑になってしまいます。

 その逆に、お互いの立場を認め合い、協力し合えば、クライアントの病状回復、病気予防、健康増進や維持などに相乗効果となって貢献できるでしょう。

 「癒し」を理解し活用するならば、今の医療における問題点を多方面にわたって解決するだけでなく、国としても地球全体としても住みやすい明るい未来の道標になるのです。

 「癒し」も「治療」も人が幸せになる為の智慧として存在しているものです。

  「H・5・1」
01/23 (月)

  治療と癒しへの道 @

 私が治療の道を歩き始めた動機に、母親の病気がありました。
検査しても異常が出ませんから原因不明です。
顔面や頭部に痛みがあるから三叉神経痛といわれました。
病気名でなく病状名です。
痛みを抑える方法として神経ブロックなどがあるそうですが、治癒するわけではありません。

 痛みがあるのは常時ですが、時に、全く痛まない時があります。
一日痛まない日もあります。
そんな時の母親の顔は別人のように晴れやかな笑顔で、肌もツヤがあります。

 人は変わる。苦しみから離れると、気持ちよく変わる。
その変わった姿は周りも嬉しくさせる。
嬉しさや幸せは伝染するものだ、と知りました。

 後に、お師匠様となる故初代中川雅仁氏の治療風景で、多くの病み人がたちまち笑顔になり、人が変わる姿を見ることができました。
その変わる瞬間に立ち会うと、私の気持ちが躍動するのです。

 「こういう場面に出会いたい」
 「こういう場面にかかわりたい」

 当時四十歳を過ぎていたのですが、どうしてもお師匠様のような治療師になりたいと思いました。
後先も考えず、そこからまっしぐらにお師匠様を追いかけました。

 しかし、追いかけ始めて十ヶ月後、お師匠様は倒れるのです。
 そして、三ヶ月後に復帰し、更に半年後、次の世界に旅立ちました。
 必要だから次の世界に行ったのでしょう。次のステージが用意されたから、そこでまた活躍するのでしょう。
それは理屈でも感覚的にも納得できるのです。

 でも、残って治療や教えを受けたい人達が沢山いたのも事実です。
 故お師匠様のような人は多いようです。
優れた治療者ほど早く倒れる傾向があります。
その運命はその人が運びますから半分納得するのですが、半分は間違いがあるのではないか、とも思っています。

 どんなに優れた人でも、所詮人です。間違いも勘違いもあると思っています。
その一つが「ヒーリングの仕組み」だと思っています。
優れているからこそ見落とす仕組みです。

 私の方が至らないのは充分承知していますが、優れていないからこそ気づく事もあるようです。
ヒーリング能力の高さと、ヒーリングの仕組みを理解する事は別だと思っています。

  「H・2・1」
01/24 (火)

  癒しの構造

  癒し効果・癒し行為

 「癒し」という言葉で表現するものには「癒し効果」と「癒し行為」があります。
この二つの混同が癒しの曖昧さを助長しています。
だからヒーリングという言葉の使い方も混同されたまま使われています。

 例えば森林の中にいると「癒し効果」がありますが、森林が「癒し行為」をしているわけではありません。
ラベンダー畑にいると「癒し効果」はありますが、移動して来たのは人間の方で、ラベンダーが積極的に人間を癒しているわけではありません。

 森林やラベンダーはただ「ある」だけで、ヒーリングを行っているわけではありません。
でも森林やラベンダーが「癒し効果」を発揮する事を知った上で、意図的に行ったならば、それはヒーリングといっていいでしょう。

 ヒーリングは「癒し効果を意図して利用する」
あるいは、「癒し効果を行う(創りだす)」場合に使う言葉だと思います。

 注意すべきことは、「意図して癒し効果を利用」しますが、「意図して治療効果を利用」しているわけではないのです。
ここの履き違えは多いし、また大きな問題点となります。

(注 森林もラベンダーも全員に癒し効果があるわけではありません。
本人の状況で逆効果となる場合もあります。何らかの刺激による場合は、厳密には「癒し」と分けるべきでしょう)

  「H・2・2」
01/25 (水)

  「場」と「方法」 

 「癒し効果」を、もう少し注意深く観てみましょう。

 「癒し効果」の場合、特定の区切られた「場(空間)」に起こる場合と、特定の「方法」による場合があります。

 「特定の場」には「自然界の場」と「人工の場」があります。

 修験道などで昔から霊場といわれた御滝場や岩洞などは、体や心が安定する特殊な効果の「場」でした。
昔からある神社の境内が清浄なのも、そういった自然の場を人間が利用し、後で社を築いたわけです。

 人工的に「癒しの空間」を作り出す場合も、水晶などの天然の物質を多用しています。
人工的な物質からも効果がありますが、その仕組みや大元には自然の仕組みと天然物質を応用しているわけです。

 「特定の方法」にも「(天然)物を用いた方法」と「生物(人間)が媒体となる方法」があります。
どちらも「自然界のエネルギー的なもの」を活用しているといっていいでしょう。

 人間が媒体の場合、自らが中継器的になるのと、発生器的になるのとの違いがありますが、いずれも何らかのエネルギー的なものを活用するのに違いはありません。
もちろん量や強さや周波数はそれぞれ違います。

 「場」でも「方法」でも活用しているエネルギーの種類があります。
中継にしても発生にしても発生源の違いもあります。
発生源が違えば、その量や質も当然違ってくるわけです。

 その癒しエネルギーの種類を「天・地・人」と私は分けてみましたが、生命が多重構造になっているのなら、発生源の違いにより生命の各層に作用する種類も違うわけです。
単純にどちらが強いとか適しているとか決められません。

  「H・2・3」
01/26 (木)

  癒しエネルギー

 私はエネルギーという言葉を用いるのに抵抗があります。
何だか解らないのに科学的な言葉のような気がして、何となく判ったような錯覚をするからです。

 でも使うにはとても便利なのも事実です。
もともと見えない世界の説明は曖昧なのです。
曖昧でしか説明できない部分が多すぎるのです。
イメージでとらえてもらうより仕方ない事が多いのです。

 「癒し」が心や体を変化させるのは事実です。
方向が「回復」や「還元」である事も事実です。
では、何が作用して変化を起こさせるのでしょうか?

 目に見えない何らかの力をエネルギーという言葉で代用させるなら、この場合は「癒しエネルギー」として説明していきましょう。

 エネルギーというとどうしても力学的に想像してしまいますが、「パワー」と「情報」を兼ね備えた見えないモノとして下さい。
「パワー」だけにしてしまうと、質の変化を説明できなくなるのです。

 エネルギーの中に「情報」というと、何となく違和感を持つかもしれませんが、ほとんどの「パワー」に情報は含まれているのです。
作った人・使う人の「思い」も情報なのです。

 ここでは「祈り・願い」などと「浄化」も情報として扱っていきます。

  「R・2・2」
01/27 (金)

ブ:「トマトを入れて〜♪、オリーブオイルを混ぜる〜♪」
 仏陀は即席の歌を歌いながら料理する。
実に・・・軽い・・・。
だが声は結構いい。
歌う時は高い声になるようだ。
笑いながら、実に愉しそうだ。

ブ:「トマトとオリーブさえ入れりゃ〜、イタリアンの出来上がり〜♪」
 仏陀の歌を聞いていたキリストが、ダジャレから歌に変った。
実に・・・軽い・・・。
しかも声も音程もかなり・・・酷い・・・。

キ:「ホワイトソースをかけりゃ〜♪、フランス料理になるよ〜♪」
ゲ:「キリちゃん・・・ダジャレも歌も才能無いやんけ」
キ:「それでも好きなら〜♪、歌ってるのが幸せってもんさ〜♪」
ゲ:「上手い下手は関係ないのやね。歌えば幸せは集まるもんやね」

ブ:「ゲシュはんも〜♪、歌ってみれば〜♪」
ゲ:「オッサン三人が〜♪、即席の歌〜♪、笑って歌う〜♪」
 透き通った低音が響く。
ゲシュナムは本格的な声楽家のようだ。
仏陀もキリストも一瞬聞きほれた。
そして、微笑んだ。

  「B・2・4」
01/28 (土)

 友人愛

 その前に「友人」って何?

 「鏡よ鏡、友人の定義は?」
 「どうせワイなんて可愛くないワイ」
 「あっ、薄ら寒い、いいえ、面白いダジャレ。
ねぇ、機嫌を直してよ。後で磨いてあげるから」

 「友人なんて幻想や」
 「アンタね〜。友達いないでしょ」
 「だから、もともと友人は幻想なんや」
 「本気で答えているの?」
 「本気や」

 実はアタシもそう思っていたのよ。
でも友人、友達、親友、友よ、なんて言葉は、社会では優等生の単語でしょ。
優秀だと認知されているモノを否定するのは、結構風当たりが強いものなのよ。

アタシ、強い風は好きじゃないのよ。
肌は荒れるし髪は乱れるから。
でも鏡のせいにすればOKよね。
非難は鏡に、美男はアタシに。

えっ、ダンナ? ダンナは現実よ。
美男美女は幻想の世界。
一緒にしちゃうからゴタゴタが起きるのよ。

  「B・2・5」
01/29 (日)

友人も幻想なら、友人の愛も幻想ね。
走れメロスは幻想のお話よ。
治ちゃん、友達が欲しかったのね。
太宰なんてダザイぜ、なんて相手にされなかったのね。

 えっ、アタシもそんなダジャレじゃ相手にされない? 
フン!これでもダンナがいるのよ。
オヤジギャグはダンナの悪影響なのよ。

 友人が幻想だからって、別に虚無的ではないわよ。
よく聞いてね。
友人は特別に条件をつけて存在する関係じゃないのよ。
人間関係のベースになるのが友人なのよ。
そこに遺伝子条件が付いて肉親になったり、
魂契約に基づく夫婦や、性条件が伴う恋人になったりするのよ。

早い話が、知り合いは皆友人なのよ。
縁の濃い関係を親友と呼ぶことがあるけど、
同じ人間ならば特に友人という言葉で囲わなくてもいいのよ。
えっ、さみしい? そうなのよ。
人は、「さみしさ」から幻想を創ったのよ。
友人という幻想もその一つよ。

  「日常と非日常・1」
01/30 (月)

ワシの仕事は「生命力の活性」の手伝い。
結果として、身体や心の病からの回復が起こる。
つまり「生命力の活性」の研究も仕事だ。
そして解った事を応用する。
応用していただく。

「生命力の活性」は幾つも用意されている。
「生命即神」
生命の活性はこの世の仕組み(神の企み)でもある。
意たる所に活性の仕掛けがあるのだ。

この世は・・・優しい仕掛けで満ちている。
ワシは、そう思う。
この世の仕組みは優しさで創られている。
「辛い、苦しい」のは仕組みではない。
それは人間側が作りだしたモノだ。
この世は、苦しみを減少する仕掛け。
あるいは消滅する仕掛けを用意してある。

「生命力の活性」
多種多様の苦しみからの解放。
神様はシンプルだが、深いぜ。
そして・・・優しいぜ。

ドジでノロマでオマケにスケベなカメ。
それでも10年以上も天職として歩いている。
「生命力の活性」を常に意識して歩いている。
だから幾つもの活性の方法がある事を知った。

誰でも、どんな状況からでも方法が用意されている。
その中の一つを新たに発見した。
い、いや・・・以前から知っていた。
ただ応用範囲が狭かったのだ。

今回知った方法の一つ。
それが「日常と非日常」の関係だ。
何故「日常」と「非日常」があるのか?
解ければ・・・優しさの仕掛けだと知る。
あらゆる仕掛けは、
「生命」の(活性の)為に用意されている。

  「日常と非日常・2」
01/31 (火)

「日常」は日々の暮らしだ。
そして・・・ほとんど固定概念で作られている。
「日常」は「生命」を使う。
肉体は時間と共に老化する。
(ある期間までは成長という)

「生命」を使うが、活性も起こる。
消耗と活性を繰り返しているのが「日常」だ。
消耗や活性の変化幅は少ない。
全体的には、穏やかに生命(身体)は老化する。

「日常」において時間は一方向へ一定速度で流れている。
(例外があったり、細かくは一定でないが無視しよう)
「日常」は、この世(物質界)の基本となっている。
基本を受け入れ、大切に扱わないと「意味」も無くなる。
この世に存在する意味は「日常」の中にある。

「日常」があるなら「非日常」もある。
基本があるなら、例外もある。
「例外の存在理由」
それは「基本の補助」だ。

「非日常の存在理由」も然り。
「日常の補助」なのだ。
精神世界スキスキ人間は、ここを理解していない。
「非日常」は「日常」の為にあるのだぜ。
「非日常」を追いかけるのは・・・アホだ。

「日常」が基本。
だが「日常」しか見ない、知らないのもなぁ・・・。
この世を半分しか見ないと同じだ。
固定概念は視野も意識も狭く浅くするだけだ。
「日常を活かす」ことが「生活」なのだぜ。
「生命を活かす」ことが「生活」なのだぜ。

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