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  ヨク・1
10/01 (日)

「ヨク」って面白い言葉だなぁ。
良く・好く・善く・欲・浴・翼がある。
それぞれが関係している言葉に思える。
最近「欲」を冥想してみたのだ。
すると、もう一層が観えた(ような気がした)。

元々、ワシは「欲」を悪者扱いしない。
それどころか、アチコチで書いている。
「物質は欲から成り立っている」
つまり、全ての根元が「氣」だとする。
(量子物理学のクォークのようなモノ)
それらを集め、形にした意識が「欲」だ。
ワシの理解ではそうなっている。

だから(この世では)欲の無い人間はありえない。
欲以外の物質は存在できない。
この世を構成した基本必要不可欠要素なのだ。
だが、この世はヒネクレている。
「欲」は普遍だが、扱い方で違う結果になる。
当たり前だ。
だから、千差万別、一つとして同じモノは無いのだ。

  ヨク・2
10/02 (月)

「欲」を無くす。
それは不可能だと知った。
だが扱い方がデタラメでは破滅する。
「欲」は自爆装置が付いているのだ。
深く、濃くなるとスイッチが入る。

スイッチが入っている人は見た目でも判る。
人相が・・・悪い。
「あたし、欲が深いの」
平気でそういう人もいる。
・・・いいのか、それで。
まぁ、いいか、ワシの顔じゃないし・・・。
放っておいても、いつか破滅するし・・・。

「欲」は無くしなさい。
そういう宗教家達は無知と無理を押し付ける。
人相が悪い宗教家や教育家は欲深を隠している。
政治家や役人や財界人の人相の悪さも欲深からだ。
もちろん、悪いわけじゃない。
ワシの顔じゃないし、いつか破滅するし・・・。

そういうワシの顔・・・。
良くは無いけど、欲は深くない。
欲深は・・・根性がいるのだ。
ワシは・・・根性無しなのだ。
根性無しは、自他に悪さをしないのさ。

  ヨク・3
10/03 (火)

根性無しでも欲はある。
メンドウだけど、あるから仕方ない。
無くせないなら、上手く使えばいい。
使われるのではない。
適当に使うのだ。
当たり前だなぁ。

いつもだけど、当たり前が難しい。
難しいと思うと難しい。
当たり前の境地に入ると易しい。
難しいモノは易しい。
難有りは感謝すると優しい。
有難う、は優しく、易しい。

「欲」も同じだ。
グレちゃん(創造主)のヒッカケ問題だ。
落とし穴だが、落ちなければ褒美がある。
「欲」は上手く使えば、生きる応援をしてくれる。
嬉しさ、愉しさ、気持ちよさを味わえるのだ。

  ヨク・4
10/04 (水)

ワシはツキの研究をしていた。
根性無しのナマケモノだ。
それでも愉しく生きたい。
楽に暮らしたい。

頑張れば、それなりの変化はある。
だが、必ずしも楽で愉しいわけじゃない。
それどころか、歪みが出やすい。
頑張る能力が無くても、幸運があればカバーできる。
バカはカバーがあれば、社会でも暮らせるものだ。
それには・・・ツキ(幸運)が使えればいい。

幸運はツキの女神という気まぐれ神様が仕切っている。
その神様と「欲」の関係に思い当たったのだ。
「欲」の使い方は、結構微妙なのだ。
微妙は・・・ワシの分野だ。
微妙は・・・意識の分野だ。
そして、性格によっても左右する。

  ヨク・5
10/05 (木)

「欲」は根性を引き出す。
「欲」は頑張りを引き出す。
だが、先天的に根性が少ないのもいる。
頑張れない体質もあるのだ。

ワシの場合、根性が無いのが幸いした。
「いいかげん」は生きる術となった。
「欲」はあるのだが、根性が出てこない。
「欲」に頑張りたいのだが、続かない・・・。
ワシは・・・社会人として劣等だと思う。
だから、幸いだった。

ツキの研究で判った事が幾つかある。
ツキの女神は、気まぐれだ。
「欲」が無くては相手にされない。
「欲」を求めても相手にされない。
どうやら「いいかげん」と相性がいいのだ。

  ヨク・6
10/06 (金)

ツキの女神様の好みもある。
強い綺麗好きではないが、汚いのは嫌いらしい。
外見も、肉体の外側も、肉体の内側もだ。
更に、見えない心。
まぁ、人間の心はそれほど綺麗じゃない。
だが、意識して汚いのは嫌いらしいぞ。

汚い生き方をしている人には近づかない。
そういう人はツキなど当てにしないで生きている。
社会人としては・・・立派なんだろうな。
ツキの女神様を当てにしているのは・・・劣等だ。
だが、この世は優等も劣等もいる。
ワシは劣等でも愉しく、嬉しく、気持ちよく生きたい。

どうやら「欲」の扱い方で何とかなりそうだ。
「欲」に使われない。
「欲」なんて、適当に相手をする。
有れば、有ったで使えばいい。
無ければ、無くても平気だ。
追い求めなければ、結構可愛いヤツだ。

  ヨク・7
10/07 (土)

「幸」と「不幸」の違い。
心のあり方といわれる。
でも、心の定義がアイマイのままだ。
皆さん・・・結構無責任だなぁ・・・。

「幸」の状態を「満足」とする。
ならば・・・「不幸」は不満だぁ。
「満足」と「不満」の差。
それは「欲」の扱い方だと思った。
「欲」とどう接するのか?
ヨ〜ク考えよう〜。

ヨク考える・・・。
ここが間違える分かれ道だ。
人間の考えは間違えだらけで成り立っている。
考えては・・・間違えるのだ。
ヨ〜ク観る。
自分の考えを脇にどけて、「観」る。

  ヨク・8
10/08 (日)

欲をヨク観ると気づく事がある。
「欲」の本体は意外に小さい。
力も少ない。
大した事はないのだ。
欲の発生元を観れば、当たり前だ。

発生元は「肉体」だ。
心じゃない。
肉体が活動し続ける為に備わったモノだ。
だから、必要だが大きくなくていい。
むしろ、大きく強ければ破滅する。

必要不可欠な「欲」を増大させたのは・・・。
「心」だ。
心は・・・ロクなものじゃない。
心は、ロクでなし、なのだ。
必要以上に大きく見せた。
力が強いと錯覚させた。

  ヨク・9
10/09 (月)

「欲」のほとんどは幻なのだ。
着膨れしている部分だ。
誇張している部分だ。
チンピラヤクザと同じだ。
勘違いしているのだ。

「欲」の本体に気づくと対処できる。
「満足」と「不満」の差。
僅かなものだった。
その僅かな差で「幸・不幸」が決る。
気づくか、気づかぬかで決るのだ。
努力も精進もいらない。

元々、肉体を維持する為のモノだ。
種を存続させる為のモノだ。
自然でいい。
自然体がいいのだ。

「欲」で人生を振り回される。
それは・・・心に振り回されたからだ。
「欲」のせいじゃない。
「欲」は「良く」出来ている。

  ヨク・10
10/10 (火)

ホンの少し「欲」を追いかける。
追いかければ、不満が生じる。
実体は少しだけの不満だった。
だが、不満は増大し増殖する。
幻は焦点を当てれば大きく見えるものだ。

あった分だけの「欲」を愉しむ。
すると、満足が生じる。
実体は軽い満足だ。
だが、満足は他の不満まで消してくれる。
満足は幻から覚醒させる働きがある。

「欲」を無くそうとする。
多くの精神指導は無くす事が出来るとしている。
だが、それは間違いだ。
「欲」の本体を観れば、明かだ。
肉体を無くせば、可能だが現実向きじゃない。
生きていながら肉体を超える事は例外なのだ。

「欲」は浄化や昇華できると勘違いする。
それは・・・意識下に圧し込める結果になる。
意識下だから意識出来ない。
だから克服したと勘違いする。
圧し込めたモノは、必ず圧力となり表面化する。
病を誘発する原因の一つだ。

  ヨク・11
10/11 (水)

様々な障害の出来事がある。
だが、それはまだ「幸・不幸」が決定してない。
その出来事には「幸・不幸」が含まれない。
「幸・不幸」は心が決める。
例え理不尽な戦争に巻き込まれてもだ。

困難な出来事はある。
厳しい出来事もある。
痛い出来事もある。
悲しい出来事もある。
だが「幸・不幸」は決定してない。

「幸・不幸」の差。
ホンの僅かの「欲」の使い方。
「欲」は肉体(物質・この世の構成物)にある。
そして、心によって幻を見せやすいモノだ。

万物にある「欲」だから使い方がある。
心の「欲」ではないのだ。
体を存在させる「欲」なのだ。
「欲」は深く底にある土台だ。
生命を応援する為に創られたモノだ。

  ヨク・12
10/12 (木)

「欲」は良く使うと生命力を上げる。
「良く」というのは「調和する」という意味だ。
人間社会の「正しい」という意味ではない。
「調和する」とは「自然」という意味だ。
「自然」とは「いいかげん」という意味だ。

「自然体」とは「いいかげんに生きる」という意味なのだ。

「欲」は自然体で使うと生命力を上げる。
「自然体」は頭を使わない。
心も使わない。
追いかけない、逃げない。
感性で使うのだ。

「欲」に重きを置くと生命力は下がる。
追いかけると、生命は壊れやすい。
「欲」は軽く使うモノだ。
「欲」は「翼(ヨク)」の使い方なのだ。
(ん?翼を使った事が無い?
翼は誰でも持っているのに・・・)

  ヨク・13
10/13 (金)

「欲」は感性で使う。
感性は頭を使わない。
心を使わない。
体の深い底で感じるまま。
自他の共通する微にして妙な感覚。

「欲」は自ら発している。
だが自他の共通感覚で使う。
自だけで追いかけて使うと破滅する。
この世の仕組みだ。
自がある。
そして他との共通共存。
すると自他の共栄になる。

「欲」はとても上手くできている。
なんて面白い仕組みだろうと思う。
グレちゃん(創造主)の傑作だ。
とてもオチャメな仕組みだ。

  ヨク・14
10/14 (土)

「欲」は一見ワルモノに見える。
確かに、落とし穴の機能を備えている。
だが上手く(自然に)使うと生命力を応援する。
生命力を増大させる。
自他の繁栄につながる。

「欲」は「翼・ヨク」になる。
そして「翌・ヨク」(未来)につながる。

翼は強く使うと飛べない。
翼にしがみつくと、落ちる。
翌は追いかければ逃げる。
今をおろそかにするから自滅する。

この世にある全てのモノは無駄がない。
全てが活用できるように用意されている。
使い方。
全ては、それだけだ。
特に「欲」は使い方で空を飛べるか、穴に落ちるかが決る。

  仕事・1
10/15 (日)

仕事の目的。
お金の為。
生きがいの一つ。
大きく分けて、この二つになるようだ。
だが最近、この目的の割合が変わってきたようだ。

嘗て、仕事は社会に生きる役目だった。
社会に「仕える」「事」が仕事だった。
自分が出来る事、したい事が仕事となった。
もちろん生活の為でもある。
その二つは、同時進行するのが当たり前だった。

生活の為というのは、お金の為だけはなかった。
その人にとっての仕事は、家族にとっても重要だった。
お金さえ儲かればいい仕事では、家族は心苦しく生活するのだ。
嘗ては・・・心苦しく思っていたのだ。
まだ、心にバランスがあった頃の話だ。
最近まで、何とか心にバランス感覚はあったのだぜ。

  仕事・2
10/16 (月)

心にバランス感覚があった頃。
それは心の余裕があったからだ。
余裕は生命力の余裕だ。
バイタリティがあれば、未来を必要以上に杞憂しない。
生命力が少ない程、不安は増し余裕は無くなる。

最近は、その頃に比べお金はあるのだ。
モノもあるのだ。
欲しいモノも手に入りやすい環境なのだ。
だが、余裕は無くなっている。
生命力は以前よりも少なくなっているのだ。
不安と不平の現代社会。

信じられるのは、お金だけよ・・・。
そんなのは勝手に思ってもいいけど・・・。
お金で満足は買えないのだ。
満足は自分の内部の問題だ。
お金は外部との関係だ。
満足感は買えるけど、満足にはならない。
この違いが解らない世の中になってきた。

  仕事・3
10/17 (火)

一生の大部分を働く。
どうせ働くのなら、本来の仕事がいい。
仕事は「満足」の扉の一つだ。
その扉は、結構大きな扉だ。

働くか、働かされるか。
同じ仕事でも、全く違うものとなる。
幸せは「満足」とペアでやってくるからだ。
働かされて「満足」は味わえ難い。
報酬のお金の多寡で味わえる相手ではない。
高収入は一時的な「満足感」にしかならない。

もう一つ大事な影響がある。
生命力の増減に係わるのだ。
無理して働く。
それは働かされるという事だ。
当然、代償として生命力を使ってしまう。

  仕事・4
10/18 (水)

本来のその人用の仕事。
それは(喜んで)働くという事だ。
当然、褒美として生命力が増す。
だが、必ずしも高収入にはならない。
逆に低収入になる場合もある。
元々、本来の仕事と報酬は別次元の問題だ。

そんな事ぁ、微々たる事だぁ。
とは言わない。
社会生活は、メンドウだけどお金が必要だからだ。
どうして、こんなにメンドウな社会にしたのだろうね?

貨幣が無い時代。
本来の仕事をしていた者達は多かった。
本来の仕事でないモノ達も、もちろんいた。
だが、夜は皆で焚き火の周りで歌い踊っていた。
おおらかな縄文の時代がなつかしいぜ。
食えない、なんて、ありえない時代だった。
支え合って生きるのは、地球の生物の仕組みだ。

  仕事・5
10/19 (金)

食う為。
辛くても、嫌でも働く。
好きな仕事で食えりゃ、誰でもする。
そうだよねぇ。
好きな仕事は・・・食えないのが多いのだ。

でも、仕事は本来、好きな働きだ。
フリーターもニートも一概でくくるわけにはいかない。
だが「仕事は辛いモノ」という固定概念がありそうだ。
仕事は本来ウキウキするモノ、という事を知らないようだ。

仕事が無い。
それは、給料を貰える仕事が見つからないだけだ。
仕事はどの人にもある。
その人用に、用意されている。
気づかない、か、見つけないだけだ。

  仕事・6
10/20 (金)

ワシはいいかげんだ。
だが、生命力の増減とお金の多寡を交換できない。
それほど、デタラメ(マジメ)には生きられない。
いいかげんだから、無理が出来ないのだ。
根性がないから、いい暮らしの為に働けない・・・。

〇〇の為、働く。
家族の為、いい暮らしの為、社会の為。
そういう働き方もアリだと思う。
アリは働きものだ・・・。
〇〇の為、だから、辛い事込みで給料をいただく。
体や心を壊さぬ程度に頑張って下さい。

〇〇の為、では働けないタイプもいる。
自分勝手なヤツだ。
すいません。
ワシは〇〇の為に生きる事が、本気で出来ない。
好きなようになら、生きられる。

自分勝手ではあるが、他を押しのける根性も無い。
本当の自分勝手だから、他との競争もありえない。
生命を削って仕事なんて出来ない。
ワシは我が身が可愛い。
同じく他の身も可愛い。

  仕事・7
10/21 (土)

生きていくために働く。
インドで見たストリートピープル。
毎日、食べるモノを得る為に働く。
毎日、生きる事に必死だ。

物乞いも働きの一つだ。
ドロボウだって働きの一つだ。
そういう状況下もある。
好きな仕事で・・・なんて戯言だ。

生きる為の働きと仕事。
分けて考えた方がいい。
ワシはここでは「仕事」の話だ。
食う為の話は出来ない。
今の日本では幸せな事に「仕事」の話ができる。

  仕事・8
10/22 (日)

しなければいけない、のではない。
したい、なら出来るという日本だ。
ここは古より「和」の国だったのだ。
「仕事」は「和」という土壌で成り立つ。

古来より「仕事」が出来やすかった国。
だが、最近「仕事人」が激減している国。
そして、皆「奴隷」となった。
誰の強制もない。
奴隷は自分で選んだ道だ。

もちろん、奴隷もわるくない。
ある意味・・・楽だ。
自分で決めなくても報酬がいただける。
我慢すれば、暮らしていける。
その分、体と心を犠牲にする。

  仕事・9
10/23 (月)

「仕事」は自分勝手を優先している。
生活を考えないわけじゃない。
だが「仕事をしたい」という心を止められない。
困ったヤツだ・・・。
困ったヤツだが・・・それも他人がアレコレ言う事でもない。
それに・・・イキイキしているし。

そう、イキイキするのだ。
活き活きするのだ。
生き生きするのだ。
生命力が増えてしまうのだ。
「仕事」は存在の証でもあるようだ。

生命力が増えれば、不安は減少する。
不満も消えていく。
不安と不満が少なければ、生活は出来るのだ。
生きる意欲が増せば、何処でも暮らしていける。
裕福な閉じこもりにはならない。
裸でも笑顔があれば、何とかなるさ。

  仕事・10
10/24 (火)

アレコレつっこみを受けるのがメンドウ。
だから、架空のお話ということで・・・。

ワシは昨日、東京・新宿にいた。
映画の試写会があったのだ。
来年春から公開される。
といっても、自主上映のの形だ。
これは、そういう映画なのだ。

ヨガの御師匠様の実兄が監督だ。
ワシは極僅の一口スポンサーで参加させていただいた。
ありがたい事に招待状が届いた。
特殊な映画だ。
行ける時は是非見ておきたい。
見て、観て、感じて、学び、気づき、育てる映画だ。

初めての試写会だ。
舞台挨拶の監督はミラクルを呼ぶ。
ガイア理論のラブロック博士が来日していた。
偶然だそうだ。
ガイアの名付け親だ。
86歳になる博士は心に染みる挨拶をしてくれた。

  仕事・11
10/25 (水)

第六番目の今回のテーマは「音」だ。
「音」というより「震動」だ。
あるいは・・・「波動」だ。
だが内容はもちろん、ここでは書かない。
機会があったら、自分で見てほしい。
来年の4月からだ。

上映が終わってからもラッキーが続く。
映画に出演していただいた「音」の奏者。
その中で日本人の4人が舞台で協奏してくれた。
生で聴けるのは、ありがたいのだ。

第一番は15年前になる。
その時からナレーションをしている俳優さんも挨拶した。
俳優は・・・一般人と・・・見た目が違うなぁ。
俳優以外の職についたら、目立ってしまいすぎる。

ラッキーは更に続く。
〇〇宮妃殿下が舞台上でお話をして下さった。
日本の皇族は清らかだと感じる。
権威とか立場でなく、人として段が上だと感じる。

  仕事・12
10/26 (木)

素晴らしい試写会だったが、ワシは「仕事」だった。
イキナリ、仕事になった。
ワシはワシの意志以外でも「仕事」をする。
自動的に「仕事モード」に切り替わってしまうのだ。
元々、ワシの能力じゃないからだ。

会場のシアターに入った時からだった。
だが、席に座ってから更に重くなっていた。
頭と左肩から重さが加わった。
ワシは「人当たり」だと思っていた。
誰か、特に重病者が近くにいるのかぁ。
まぁ、いいか。

ところが予想以上に厄介だった。
これは・・・生きている人間じゃないな。
それも数十人から百人分のものだ。
結構・・・キツイぞ。
ワシはワシの意識で映画を見ていた。
もう一つの意識じゃない意識で「仕事」をしていた。

  仕事・13
10/27 (金)

その会場で昔の知り合いにも何人か会った。
だが、ワシはそのまま東京駅に向かった。
新幹線で帰る為だ。
どうやら・・・かなり疲れていた。
依頼以外の「仕事」だ。
ワシは帰る。

あの場所だ。
新宿南口の近くだ。
多分・・・戦争時のモノだろう。
ワシは除霊・浄霊師ではない。
嫌がる相手(霊)をアレコレしない。
積極的にボランティア(浄化)はしない。
それは、ワシの生き方じゃないのだ。
(結果として浄霊になってしまうだけだ)

向こうが来るから治療するだけだ。
自動的に治療(浄化作業)になってしまう。
それが、肉体の無い相手でもだ。
肉体のある相手には依頼されてからする。
(い、いや、自動的な時もある・・・)

  仕事・14
10/28 (土)

依頼されてないのだから途中でも帰る。
ワシはワシが居た時間だけ「仕事」をした。
プロとしての「仕事」をした。
だが最後までメンドウをみるわけじゃない。
それは、肉体あるクライアントでも同じだ。
「仕事中」は「プロ仕事」だ。

つまり・・・
報酬の有無と「仕事」は別次元だ。
報酬の有無や多寡と「プロ仕事」は別次元だ。
本来は、様々な人の「仕事」が多重に集まって社会が成り立つ。
ワシは自分の履くクツでさえ、作れないのだ。
貨幣が無い時代でも「仕事」や「社会」は成り立つのだ。

それにしても・・・キツイ仕事だったぜ。
新幹線の中の1時間半。
治療院に戻ってからの3時間。
セルフヒーリングに専念してやっと頭と肩は軽くなった。
これだけ残るのは久しぶりだ。
かなり多くを相手にしちまったらしい・・・。

  仕事・15
10/29 (日)

今から12年前の中国。
この道への許可を故御師匠様に伺った。
その話の中の一つ。
「僅かの金額で生命を懸ける事になる。
それでも、やりたいのなら・・・」

「命懸け」という言葉は一生懸命。
いつでも真剣だという意味だと思っていた。
マジメにやれよ、という意味に受け取った。
ノーテンキなワシは甘く考えていた。

だが「生命」を「賭ける」場合もあるのだ。
これは実践し、実感している。
「生命」を相手にするのだ。
当然、こちらも「生命」を賭けてしまう。

だからワシは弟子を作れない。
(希望者はいるのだぜぇ)
想像以上にキツイ、厳しいという事が理解できない。
命を懸けるより、命を賭ける「いいかげん」が素質かもしれない。

  仕事・16
10/30 (月)

「仕事」と報酬は交換できない。
「仕事」と「生命」は交換できる。
プロは「存在を懸ける」という条件がつくのだ。
だから、料金は勝手に思いつくままの設定でいいのだ。
10円でも100万円でも仕事の区別は出来ない。
ワシはプロだからワガママなのだ・・・。

「生き甲斐」ともいえるが・・・。
「(プロ)仕事」は存在と融けあっている。
だから、人生そのもの、ともいえる。
だが、それほど大上段に構えるモノじゃない。
長い人生なら大冗談で歩く方が愉しい。

「(プロ)仕事」は冗談や鼻歌でするものだ。
真剣だからこそ、ジョークがある。
肩に力が入っていて、「プロ仕事」は出来ない。
愉しくなければ、仕事じゃない。

  仕事・17
10/31 (火)

「仕事」は「仕方なくする事」の略じゃないぞ。
「仕事」は厳しくても、辛い働きじゃない。
「仕事」は厳しくても、愉しみがある働きだ。
「仕事」は厳しいから、面白みがある。

生活の為の働きは辛く、苦しい場合がある。
辛く苦しい事が込みで給料になるのだ。
ある程度の生活を望むなら当然だ。
だが、生活の為の働きと「仕事」は別次元だ。
別次元だから、重なる場合もある。
重ならない場合もある。
この世は多重次元で成り立っているのだ。

生活の為の働きと「仕事」を同一視する。
すると「仕事」が辛く苦しい働きだと勘違いする。
だから「仕事」をしない。
しないでも親が食べさせてくれる。
あるいは、ちょっとしたアルバイトをする。
嫌になったら、気軽に辞められる。

それは・・・もったいない。
人生の愉しさを放棄している。
無知故に、深い愉しさを知らずにいる。
「仕事」は生きる喜びの一つなんだぜ。

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