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日常と非日常・3
02/01 (水)

生命を活かす。
それを「生活」という。
「日常」は生活の基本だ。
だが「日常」は、時に苦しくなる。
時に辛くなる。

苦しみ
辛さ
ネガティブな感情は生命力を衰退させる。
だが、感情は通常コントロール出来ない。
沸き起こる時間が極端に少ないからだ。
沸き起こってからなら、静める事は出来る。

もう一つ。
感情は繰り返すと癖になる。
何度も苦しみを味わうと、すぐ苦しみを呼べる。
ウソだと思ったら、試してごらん・・・。
アナタは苦しみの達人になれる・・・。

人は幸せを呼ぶより、苦しみを呼ぶ方が得意なのだ。
子供の時はそうではなかったのに・・・。
子供(素直・自然体)は幸せを呼ぶ方が得意なのだ。
大人になるほど、人はヒネクレている・・・。
苦しみが好きなのかなぁ・・・。

まぁ、苦しみを集める趣味は各自の勝手だ。
だが、ワシの仕事は「生命力の活性」だ。
依頼されれば、治療も指導も引き受ける。
苦しみからの解放。
それほど難しい仕事ではない。

方法は山ほどある。
海ほど広く用意されている。
ワシが出来るのはその一部だ。
それでも、幾つもある。
その一つに「非日常」の使い方がある。

  日常と非日常・4
02/02 (木)

「非日常」は非常識だ・・・。
社会通念が通用しない。
時には時も通用しない。
ありえない事がありえる・・・。
デタラメなヤツだ・・・。

「非日常」との出会い。
固定概念が解放される。
概念は「生命」を縛っていた。
「生命」が解放される。
「生命」は躍動が本性だ。
「生命」は活性する。

ただし・・・。
ここが大事な点だぜ。
「生命」は「日常」で生きるモノだ。
つまり「日常」に戻らなくては意味がない。
「非日常」は「日常」の為にあるのだ。

「非日常」はタマに出会うモノだ。
そして「日常」に帰ってきて活きるモノだ。
「非日常」は薬味のようなモノだ。
薬味だけを味わおうとするのは、アホだ。
薬味は薬味の存在理由がある。

「非日常」は受身で出会う事もある。
だが創り出す事もできる。
「非日常」の意味と役目が判れば、
「日常」の愉しみ(幸せ)を引き出せる。
「生命」の活性を引き出せる。

マジメな人は生命力が弱い傾向がある。
マジメな人は病になりやすい傾向がある。
固定概念(日常)だけにしがみつくからだ。
いい、悪いの問題ではない。
「生命」の問題なのだ。

  日常と非日常・5
02/03 (金)

「非日常」を使いこなす。
それは、とても愉しい事だ。
それは、とても嬉しい事だ。
それは、とても気持ちいい事だ。
「生命」が愉しい、嬉しい、気持ちいい。

しかし・・・社会常識の範囲外だ。
社会と非社会を往復して愉しむ。
それを「いいかげん」という。
社会的評価、他人の目を気にするタイプは無理だ。
一本、外れている事を自覚してこそ愉しめる。

だが外れっぱなしのタイプは自滅する。
人は社会の中で生きるように創られている。
社会の中で生きるように創られているが、
社会の中だけでは弱化する。
この世を創ったグレちゃんはオチャメなんだぜ。

オチャメにはオチャメで合わすのがいい。
どうせ大した人生を送るわけじゃないだろ?
ならば、オチャメに生きようぜ。
神様ってのは、そういう人間に微笑むもんだ。

神様の微笑み。
それが「生命力の活性」なんだ。
「生命即神」
この言葉の意味は深いぜ。

「非日常」は「非常識」。
だが「非常識」な人間になるのは間違いだ。
「非常識」な生き方も間違いだ。
ウソだと思ったら「非常識」で生きてみな。
とても生き難いはずだ。
生き難くて、幸せになれるはずがない。

  「B・2・6」
02/04 (土)

心が満たされた人に友人はいないわ。
だって皆大切な相手ばかりで、友人と友人以外の人に分ける事ができないからよ。
友人が多い、少ないって悩む必要はないのよ。
という事は、「孤独」なんていうのも幻想というわけよ。
安心してね。一人でこの世は存在できないわ。

この世は多種多様が集まって、すべてに関係できる仕組みになっているのよ。
関係できたら友人よ。ここが理解できれば戦争は無くなるわ。
すべてと仲良くなるために、この世があるのよ。

「鏡よ鏡、アンタの友人に対して、いつまでも拗ねていては良くないわ」
「アンさん今まで、ご主人様とお言い! と威張っていたやないか」
「や〜ね、ささいな言葉を覚えるものじゃないわ。
人間が小さくなるわよ」
「ワイ、鏡や!」

「ほら、鏡だとか人間だとかにこだわらないの。
つまらないモノしか映せなくなるわよ」
「うっ、言い返せない自分が悲しいわい」
「スランプね。手加減してあげましょうか?」
「そ、その追い討ちが、更に悔しいわい」

  日常と非日常・6
02/05 (日)

「非日常」は生命力を活性する。
活性するが生命は「日常」が舞台だ。
だから「日常」を基本としないと壊れる。
「非日常」世界にいたままでは「生命」は壊れる。

「生命」は活性したままだと「狂う」のだ。
使う場(日常)があるから螺旋状に流れる。
「流れない生命」は壊れる(狂う)。
最初から、そのように仕組まれている。

精神世界(非日常)が本当の舞台だと信じている人達は、
「一見、イキイキ」するとホンモノと勘違いする。
立っている「場」が違っている事に気づかない。
生涯が「イキイキ」ではないのだ。
浅い知恵は持たない方が幸せになれるんだぜ。

「生命」は肉体側に付いているんだ。
「生命即神」だ。
この世(肉体界)の存在理由がここにある。
「非日常」は肉体界から離れる事が多い。
だから勘違いしやすいのだ。
「肉体即神」という事に気づかない。

「非日常」は追いかけるモノではない。
愉しむモノだ。
味わうモノだ。
学ぶモノじゃないぞ。
気づくモノだ。

「気づき」はそれだけでは意味がない。
「日常」に戻って応用して活かされる。
「気づき」が多くても意味がないんだ。
「日常」で活かして、幸せになれる。
そして、それは他の人に押し付けるモノでもない。

  日常と非日常・7
02/06 (月)

「非日常」の凄さに呑まれる。
すると他に紹介したくなる。
時には自慢したくなる。
精神世界(非日常)は罠に満ちている。
浅はかな知ったかぶりは、穴に落ちる。

ワシは穴があったら覗く趣味だ。
だが落ちる趣味はない。
落ちる趣味はマゾだ。
マジメにとらえると罠に落ちる世界だ。
精神世界とは「いいかげん」に付き合うのがコツだ。

落ちたい人はそれでもいい。
趣味ならいい。
だが「素晴らしい」と誘うのはなぁ・・・。
「非日常」は他を誘う場所じゃないぜ。

地(智)に足を着ける。
それは「日常」を基本にしろという意味だ。
「日常」を健康(幸せ)に生きる。
それには「非日常」が一役買うということだ。
精神世界なんて、脇役だぜ。

そもそも精神世界なんて言葉が勘違いを誘う。
人間はアホだもの、誘われればついていく。
(ん?ワシだけ?・・・
ワシはもちろん、誘いには乗るさぁ)
ロクデナシが大部分の精神だぜ。
精神世界なんて、煩悩がほとんどなんだぜ。
ちっとも偉くないんだ。

だから「煩悩」は「日常」で活かす。
「煩悩」は使い方で生命を活性する。
「煩悩」だけを追いかければ壊れる。
精神世界を追いかける事自体が煩悩なんだ。

  日常と非日常・8
02/07 (火)

特殊な場。
特殊な方法。
特殊な出会い。
特殊な世界。

特殊だから強烈に感じる。
特殊だから刺激も強い。
強烈や強力は「少し」でいいのだ。
追いかければ、壊れるのは当たり前だ。

「修行」と称し、追いかける。
趣味ならいい。
「日常」が基本だと踏まえているならいい。
修行はアホのする事だと知っているならいい。
だが、特別素晴らしいと勘違いすれば、
先にあるのは、自他の迷惑だ。

本来は「日常の中」で気づく事だ。
だがアホだから、特殊を使う。
「特殊な修行」はアホだから行う。
アホだから、行じても実は少ない・・・。
こんな事、当たり前なんだけどなぁ・・・。

オマケに「生命」を活性する事を忘れている。
本末転倒ってやつだ。
「生命を削って修行した」・・・。
大アホ丸出し・・・。

2500年前にブッちゃん(仏陀)は言った。
「苦行するのはアホだぁ〜」
その意味も解らず、今も続けるのがいる。
精神世界は苦しむ場じゃないぜ。
愉しみ、嬉しさ、喜び、気持ちよさの活性の場だ。
宗教信者は、そんな基本的な事さえ忘れている。

マゾは精神世界に係わらなくてもいいのになぁ。
現実社会でも充分、苦しめるぜ。
「非日常」の使い方。
それは「(日常の)生命の活性」で判断しようぜ。

  日常と非日常・9
02/08 (水)

酒を飲む。
これは「非日常」なのだ。
(それが仕事の人達は別だ)
飲めば、時間が不明になる。
日常(常識)が通じなくなる。
欲(煩悩)が湧き出す。

「日常」の為に「非日常」がある。
「非日常」だけを追いかければ壊れる。
酒を飲む、という事だけでも理解できるだろ。
酒は、生命の活性が役割だ。
「日常」に戻るから役に立つのだ。

(ほとんど飲まないワシは・・・
最初から「日常」と「非日常」の外にいる。
「日常・非日常」の外が仕事場なのだ。
ワシは常識も非常識もいいかげんに使っている。
だが、この話は説明がメンドウ・・・)

仕事(日常)しないで酒を飲む。
すると、生命は壊れていく。
仕事がキツイからこそ、酒が活きる。
(まぁ、そうとも限らないんだけど・・・)

「非日常」の使い方を理解する。
すると酒の飲み方が自然と解る。
自然体の飲み方が綺麗で愉しいのだ。
「非日常」は生命を活かす。

  日常と非日常・10
02/09 (木)

趣味の世界。
これも「非日常」だ。
そこには時が無い。
生命を刺激するモノがある。
だからこそ「日常」との組み合わせが重要なのだ。

趣味だけにのめり込む。
すると生命は狂う。
「日常に戻る」からこそ、趣味は活きる。
引退したら、趣味三昧。
それは間違いだと思うよ。
「日常」を離れると、
生命はボケる・・・。

好きな趣味で暮らしたい。
趣味を日常(生活)に同化させる。
それなら大丈夫。
それは趣味ではなくなるからだ。
それは「生き甲斐」という。

「非日常」は個人の世界だ。
「日常」は係わり合いの世界だ。
趣味は個人の世界だが、
社会(日常)に同化させたなら個人の趣味ではない。
その道のプロとして、社会の一片となる。
社会に参加して、生命は活きる。

多種多様な生き方が参加する。
それが地球という生き物だ。
生命の形は単独ではないのだ。
単独では壊れる(狂う、衰退する)。
組み合わさって、生命は繁栄できる。

  日常と非日常・11
02/10 (金)

食事。
「日常」の食事。
嘗ては食事は家庭が日常だった。
ごはん、味噌汁、日々のおかず。
「非日常」の食事は「ハレ」の場合だった。
やがて「非日常」は外食や出前になった。
(ハレとは、特別という意味だ)

「非日常」は生命を活性する。
しかし、それは「日常」に比べマレだからだ。
そして「非日常」は「日常」時に活きる。
今の日本の食。
「ハレの食」は無くなってしまった・・・。
「日常」と「非日常」は区別できない。

「ハレの日」が待ち遠しい。
「ハレの日」が嬉しい。
生命が躍動する日。
今の日本は生命の活性の仕組みを捨てた。
「ハレの日」が「日常」になればいいと思ったのか。
アホ・・・。

昔は、食から生命の活性が出来た。
今は、食で生命を活性するのは難しい。
「非日常」の使い方が理解できなくなったのだ。
食の質の問題ではないのだ。
(無農薬とか微量元素とかの次元の話じゃないぜ)
時代が進むと、人間はアホ度も進む・・・。

  日常と非日常・12
02/11 (土)

そうか、そうだったのか、ウンウン。
ワシは非常識だが、そんなの当たり前だ。
決して特別ではない・・・ないと思う・・・。
ワシの故親父だって、非常識な人だった。

最近のニュースなどで頭を下げている偉い人達。
皆、非常識だよねぇ・・・。
日本の代表の総理大臣や米国の大統領。
立派な非常識人間だ。
なんたって「戦争」を肯定して薦めるんだぜ。
最近は、非常識は「日常茶飯」だ。

だが、ワシがどういうわけか扱う「氣」。
コイツは「非日常」だ。
ワシが扱うが、ワシのじゃないからだ。
「ワシの氣」なら非常識でも「日常」だ。
ワシや人間以外の「非日常世界の氣」らしい・・・。
らしい、というのは・・・よく解らんのだ・・・。

「この氣」は生命力が活性する。
これは事実だ。
その為にいろいろな現象が起こる。
病からの回復もその一つだ。
だから・・・「非日常の氣」だと思う。

そうだったのかぁ・・・。
実は・・・どうして心身の病が回復するのか疑問だった。
い、いや、疑問ってほどじゃないけど・・・。
深く考える相手(「氣」)じゃない事は解っていた。

回復しない「氣」も多いんだぜ。
「人間の氣」なら「日常」だ。
様々だもの・・・
色気とか食い気とか病気とかもあるし。

回復に適した「氣」。
それは「非日常」だったからかぁ。
そういう見方もいいよねぇ。

  日常と非日常・13
02/12 (日)

ワシには本妻が一人いる。
本妻は「日常」だ。
愛人は数名いる。
数十人にする予定だ。
ワシの愛人達は「非日常」だ。
愛人達にとってのワシも「非日常」だ。
(きっと誤解するだろうなぁ・・・まぁいいや)

世の中には多くの愛人がいる。
だが、ほとんどの愛人は「日常」だ。
隠しているだけで、愛人は日常茶飯だぜ。
アナタの身内も近所も愛人だらけのはずだ。
これを読むアナタも愛人の確率は高い。
フッ・・・世の中なんて、そんなものさ。。。

最初の頃、誰でも愛人は「非日常」だったと思う。
本妻がいない人は、はずみで愛人から「妻」になる。
「こんないいオンナ(あるいはオトコ)と結婚すれば、
ずう〜っと、いいかもしれない・・・」
結婚は、勘違いでするのがほとんどなんだなぁ・・・。

「非日常」が「日常」になる。
「非日常」の頃、生命が活性した相手。
同じ相手なのに結婚すると生命が疲れる。
「日常」に変ったから、当たり前なんだ。
いい、悪い、じゃない。
「非日常」と「日常」は違うのだ。

「非日常」の愛人だったはず。
いつの間にか「日常」の愛人にする。
すると「日常」には本妻もいる。
別の「日常」の愛人もいる、かもしれない。

「日常」は「衝突」が起こる次元だ。
本妻と愛人が同じ次元にいる。
愛人と別の彼女が同じ次元にいる。
ドロドロ、グチャグチャになる。
「非日常」の使い方を知らないからだ。
(注:ワシの愛人達は非日常のままだぜ)

  日常と非日常・14
02/13 (月)

「非日常」は生命の活性の為にある。
(非日常の)愛人は生命の活性なんだ。
愛しい人。
それは見えない世界が舞台なんだぜ。

愛人を「日常」に取り入れてしまう。
すると現実の生活の一部となる。
生活は生命を活性もするが、消耗もするのだ。
全体的には、穏やかに消耗する。
ウソだと思うなら、幾人もの愛人を「日常」にしてみなよ。
絶対に疲れる・・・。

恋愛と結婚の違いと同じだ。
恋愛は見えない世界が舞台。
結婚は現実の暮らしが舞台だぜ。
どちらも大切で必要だが、混同するモノじゃない。

お互いがイキイキする。
生命が活性する。
それが愛人だ。
だから愛人はタマ〜に会うのがいい。
それぞれの生活の影のサポートだ。
お互い様なのだ。

共に道を歩くのは本妻(本夫)だ。
(一応理想としては、ですなぁ)
暮らしのパートナーだ。
だから労わり合うのが本妻だ。
愛人と混同してはドロドロになる。

愛人も本妻(本夫)も大切な相手だ。
「日常」と「非日常」も必要なモノだ。
それぞれが、それぞれの役割を持っている。
この世にある、全ては役割を持っている。
生命に係わる役割がある。

  日常と非日常・15
02/14 (火)

「時」は連続していると思っていた。
ある時から「時」は断続していると解った。
この世(物質界)は一方向に「時」が流れる。
その一部に「生」がある。
肉体は「時」の影響で限りがあるのだ。

この世の基本は一方向に時が流れている。
だが、例外は必ずある。
というか・・・
例外が無ければ、円は完成しない。
例外が無ければ、世界は完成しないのだ。

ワシはアホだが、もっと大アホの頃もあった。
精神世界というのを追いかけていた頃だ。
この世の法則(律・理)を絶対(固く)と思っていた。
そのうちに、変な事に気づいた。
法則以外がある。
そのうち、もっと気づいた。
この世は、法則以外だらけだ。

気づけば、観える。
「理」というのは、やわらかい。
自然は、自然体で、変化する。
例外は、例外ではない。
かなり・・・いいかげんだ。

ワシは・・・自然に逆らわない。
「いいかげん」に生きよう。
ところが「いいかげん」だと困る事もある。
人間の律(法)は固いからだ。
衝突しそうな時もある。

そんな時は逃げる。
笑って誤魔化す。
自分から負ける。
アホを強調する。
例外だと思われたら、しめたものだ。

  日常と非日常・16
02/15 (水)

「時」にも例外がある。
一方向に流れる(エントロピーの法)が「時」だ。
それが、この世に支配する「時」の癖だ。
ところが「例外の時」が時々起こる。

グレちゃん(創造主・宇宙法則)はメンドクサガリ屋だ。
通常はワンパターン。
だが、グレちゃんだってタマには飽きる。
タマにもポチにも飽きる事もある。
本妻にも愛人にも飽きる事もある。
ゼウスの浮気話はそういう深い意味を示唆している。

「時」の間(はざま)。
「時の癖」に支配されない「場(時と空間)」がある。
気づけば・・・かなり多い。
沢山、沢山、ある。
グレちゃんは、やたらめったらバラ撒いた。
「非日常」をアチコチソチにバラ撒いた。

「日常」は固定概念で支えられている。
その固定概念という意識が揺らぐ。
すると「非日常」が垣間観える。
固定概念の薄いヤツ。
「非日常」と、しょっちゅう遭遇する。
そのうち・・・馴れっこになる。

馴れっこになると、親しくなる。
「非日常」も「日常」も親しくなる。
節操のないタイプ・・・。
差別も区別もしない神様だって同じようなもんだ。
グレちゃんだって、節操なんて無い。

「日常」と「非日常」と同時に付き合う。
この世(物質界)の「時の癖」があった。
エントロピーの法則は肉体の老い。
その影響が、半分になる。

人は生き方(意識次第)で老いのスピードが違うんだぜ。

  日常と非日常・17
02/16 (木)

「非日常の時」がある。
ならば「非日常の空間」もある。
この世はグレちゃんが「いいかげん」に創った。
だから何でもあるのだ。

何でもアリ。
アリはゾウも倒す・・・。
踏み潰されるのが圧倒的だがなぁ・・・。
それでも10匹でアリガトウ・・・。
千匹でアリセン(ハリセンの親戚か?)
万匹でアリマン(アゲマンの親戚か?)
このように、アリはとてもエライのだ。

何でもアリ。
ワシはこの事実で目が覚めた。
真実は何か? 
そんなモノを追っていてのだが、目が覚めた。
何でもアリなら、何でも真実じゃ〜。
気づいてみれば、なんて当たり前なんだ。

  日常と非日常・18
02/17 (金)

「非日常の空間」なんて当たり前だ。
ワシは仕事上で通常に使っている。
「日常の空間」から「非日常の空間」に移る。
ワシの仕事は「非日常の空間」でするからだ。

一つの波動帯(空間)といってもいい。
「日常」の波動でない波動だ。
ポチや政治家やゴキブリとは違う波動だ。
何処から反応共鳴しているのか知らないが、
「非日常」の波動ではあるなぁ・・・。

その帯で結界を作る。
難しい作業じゃない。
アホのワシでも簡単なのだ。
切り替えれば、誰でも作れるんだけどなぁ・・・

「非日常」の波動で満たす。
だから「日常」の波動が薄い。
それを「清浄」と表現するが、ちょっと違うかな。
まして清浄が「高レベルの波動」などと言うのはなぁ・・・。
自画自賛するのはワシのような低俗レベルだぜ。

  日常と非日常・19
02/18 (土)

ネット世界がある。
固定概念の有識者達はワンパターンで言う。
「ネット世界は非日常だ」
「非日常」が害のあるような言い方でもある。
もしかしたら・・・パソコンが苦手なのかも・・・。

ネット世界も「日常」と「非日常」がある。
どんな世界も「日常」と「非日常」がある。
政治世界など、ほとんどが「非日常」だぜ。
本来は「日常」でするのが政治なのに・・・。
まぁいいや。
政治家に道理は通じない・・・。

つまり、ネット世界は使い方だ。
「非日常」を「日常」で活かす。
「非日常」のままでは生命は壊れる(狂う)。
「日常」だけで使えば、生命は衰退する。
片方だけの使い方は、使われているのと同じだ。
使われていたのでは、生命はイジける。

  日常と非日常・20
02/19 (日)

画面を通しての世界。
それがネット世界だ。
画面の中に世界がある。
画面は入り込む窓でも扉でもない。

スイッチを切れば世界が消える。
これが利点なのだ。
スイッチを入れれば世界がある。
これが利点なのだ。

使いこなすというのは難しい事じゃない。
スイッチのON・OFFだけだ。
それを自由に出来る意思だ。
自由は心側にある。

  日常と非日常・21
02/20 (月)

「非日常」を使いこなす。
「日常」を土台として使いこなす。
ネット世界の使い方だ。
そこには生命の活性がある。
生活の活性もある。

スイッチのON・OFFが自由に出来る。
簡単な事だ。
土台は現実の世界だ。
当たり前だ。

「非日常」に使われる。
のめり込む。
土台が「非日常」側と勘違いする。
やがて生命の荒廃となる。
これも、当たり前なのだ。

「日常」にも「非日常」にも執着しない。
それが「いいかげん」な生き方だ。
エライも低俗も関係ない。
正誤も聖濁も関係ない。
行ったり来たりすればいいじゃん。

  日常と非日常・22
02/21 (火)

「日常の逃避場」が「非日常」だと勘違いする。
「非日常」は「日常」の逃避場ではない。
逃避場は「日常」側だ。
「日常」を引きずるなら、それは「日常」なのだ。

「日常」と別な世界。
だから「非日常」なんだ。
「日常」とは係わらない世界。
ストレス発散の場ではない。

意識の切り替え。
これが必要不可欠。
超忘れん坊の素質があれば容易い。
常識が外れている人もラッキーだ。

頭のいい人には苦手な作業だ。
可哀想だが仕方ない。
人間は平等に生まれない。
頭良く生んだ両親を恨んではいけない。

  日常と非日常・23
02/22 (水)

子供は何故、生命力が旺盛か?
幾つもの理由がある。
その一つにデジタル意識がある。
意識の使い方が断続なのだ。

出来事を引きずらない。
固定概念が出来上がってない。
出来事にこだわっても、柔軟なのだ。
空想が出来るのだ。
妄想も出来るのだ。

いつでも異次元に跳べる。
いつでも「非日常」に入れる。
その意識の使い方。
誰でも子供時代がある。
だから、誰でも出来るのに・・・。

  日常と非日常・24
02/23 (木)

意識の切り替え。
さっき泣いたカラスが、もう笑った。
子供はこれが自然に出来る。
いつまでも過去にとらわれていないのだ。

感情は生命の活性に大きく係わる。
「こだわり」はポジティブな感情や思考を生まない。
「切り替え」が得意なほどポジティブは多くなる。
ポジティブな感情や思考は生命を活性する。
「切り替え」は生命活性の鍵となるのだよ。

ワシは病み人が相手の仕事だ。
深い病を抱える人を相手にする。
病み人の多くにある傾向がある。
「こだわり」が多いのだ。
「切り替え」が不得意なのだ。

  日常と非日常・25
02/24 (金)

「こだわりを無くせ!」
宗教は無理を言う・・・。
そしてウソや欺瞞を言う。
こだわっているから信者なのに・・・。
こだわりを植え付けて信者を増やしているくせに・・・。

ワシは信者じゃない。
天下無敵の根性無しだ。
だから無理は言わない・・・。
ついでに宗教信者とケンカする度胸も無い。

だから謝ろう。
ゴメンナサイ。口が滑りました。
どうか、殺さないで下さい。
ワシには可愛い愛人達とそれなりの本妻がいます。
宗教の為なら戦争もする信者には逆らいません・・・。

  日常と非日常・26
02/25 (土)

こだわりは無くさなくてもいいよ。
その代わりに「切り替え」ようぜ。
離したくないモノだってあるさ。
大事に掴まえていればいい。

ご飯を食べる時は離している。
トイレ中も離している。
○○の時も離している。
こだわりがある!
っていっても24時間じゃない。
自分で思うほど根性は無いもんだね。
ハハハ・・・。

その時は「切り替え」ているだろ。
その「切り替え」を意識して行う。
それだけでいい。
こだわりは
無くさなくても大丈夫だぜ。

  日常と非日常・27
02/26 (日)

「非日常」は向こうから来る事もある。
「非日常」だから、ビックリする事もある。
思いもかけぬ出来事。
思いもかけぬ「場」に入る。
その時、日常意識は跳んでいる。

意識の底。
感情の底。
魂が揺さぶられる事がある。
魂が動く。

すると生命は活性する。
何故?どうして?は言わないでね。
そういう仕組みだから。
質問はグレちゃん(創造主)にしてくれ。

  日常と非日常・28
02/27 (月)

あまりに思いもかけぬ出来事。
感情は・・・笑ってしまう。
可笑しくて笑うのではない。
そういう仕組みなのだ。

笑いと生命の活性の関係。
二つは前世で夫婦だった。
だからお互いに反応してしまう。
笑えば生命は活性するのだ。

ナニを触る。
するとナニが元気になると同じ・・・。
ま、まぁ、そんな感じかなぁ。
(ち、違うとおもうぞ・・・)
と、とにかく「笑い」も鍵となるね。

  日常と非日常・29
02/28 (火)

笑いにも種類がある。
底からの笑い。
それが「ユーモア」というヤツだ。
これは「日常」で使うモノだ。
ユーモアは生命の活性に使うモノだ。

「底」と同意語で「性」がある。
こう教える学校や社会は少ない。
ワシは少ない方に味方する。
ユーモアは「性」に関係している。
だがなぁ・・・
この文章を理解する人も少ないだろうなぁ・・・。
たまには、深読みしてくれ。

性に関係する言葉を言う。
「セクハラよ!まぁ、何て、い、いやらしい!」
そう反応するような人間にはならないでね。
魂が荒れてる証拠だぜ。
笑えるようになってくれ。

おっと・・・
余計なお世話だった・・・。

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