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「夢見月・1」
3/01 (木)

三月は一般的には弥生。
別名は花見月や桜月がある。
そして夢見月というのもある。
ワシなら・・・夢見好き。

いつも鼻水を垂らしていた御幼少の頃・・・。
夢も想像も空想も好きだった。
今も夢や妄想や迷想や乱想が好きだ。
荒唐無稽な書き物も大好きだ。
荒唐無稽なモノも好きだ。

見方によっては荒唐無稽な人間。
だが金欲まみれの脂ぎった政治家達は嫌いだ。
威張るオッサンや恥知らずなオバサン。
サルと変わらぬガキ共も嫌いだ。
ワシは博愛主義者じゃない。
イイカゲンだから腹を立てるほどじゃないが
これでも嫌いな人達はいるのだ。

  「夢見月・2」
3/02 (金)

夢を見るのが好き。
夢は極めて個人的な趣味だ。
誰にも迷惑はかけない。
その個人的な夢を現実にしようとすると・・・
自分以外の人やモノに迷惑だ。
人類はそうやって人類以外に迷惑をかけてきた。

夢見好きは平和主義者だ。
平和主義とは、自分の思いを他人に押し付けない事だ。
だが、無抵抗主義のMとは違うぞ。
自分を他人に押し付けないからこそ、
他人からの理不尽は払う。
噛み付かれれば、反射的でも張り倒す。
それが自分の国であっても・・・。

ワシにとっては、国よりワシが大切だ。
国の夢などの話は、胡散臭いだけだ。
エラソウな人達の唱える夢は、夢じゃない。
欲望の現実化だ。
美しい日本を押し付けるのは迷惑なんだなぁ。
唱える人達が美しい生き方をしてないのに・・・。
そして権力の傘の下から同調する人達もなぁ。

  「夢見月・3」
3/03 (土)

ワシはこのブログの題名をかぶらないようにしている。
題名はかぶらなくても、内容はかぶる。
当然だろう。
ワシが書く内容だもの、範囲は狭く底は浅い・・・。

自慢するが、忘れるのは得意だ。
もしや・・・と思い、過去のを調べた。
・・・あった!
しかも、先月書いた「氣更来」もかぶっていた。
04年の二月と三月だ。
ま、まぁ、済んだ事はアレコレ言わないでおこう。

夢を見る。
受身の夢ではなく、空想や想像の積極的な夢の話だ。
夢は愉しい未来か別な次元の自分を想う。
すると・・・今の自分の生命力が上がるのだ。
若返る要素の一つだ。

何度だって言うし書く。
グレちゃん(創造主)は優しい。
この世の仕組みは優しさで満ち溢れている。
夢を見る事は、誰にでも出来る。
猫や犬にも出来る。
宇宙人や幽霊にも出来る。
グレちゃんはどんな存在にも救いを用意したのだ。

  「夢見月・4」
3/04 (日)

夢は個人的な愉しみ。
だが社会的な安心が減少すると見づらくなる。
不安が増えると意識は夢を求めなくなるのだ。
不安や不満の社会では夢より現実の対応でアップアップしている。
夢が見られる社会が正常なのだ。
正常とは清浄な仕組みのことだ。

個人と社会の関係。
社会にいる以上は好まなくても係わってしまう。
ワシのように独善勝手気ままでも係わる。
係わりの割合が若干少ないかもしれないが。
だから社会をリードする政治家や官僚に口を出す。

政治と行政は誰であろうとも係わる問題なのだ。
自分自身の問題として自覚しようぜ。
特に選挙の投票は自分の考えを反映する機会だ。
どの候補者も美しくないが・・・
それでも社会の方向を左右できるのは選挙だ。
選挙は、少しだけマジメに取り組もうぜ。

  「夢見月・5」
3/05 (月)

夢から「夢の実現」に進む歩き方がある。
歩き方を方法論だと勘違いする。
多くの「夢の実現論」が勘違いだ。
夢を現実にしては幸せになれない。

夢は常に手の届かない次元なのだ。
だから生命力を活性化する。
生命力は異次元からワープして来るのだ。
生命は人智外(神)の範囲なのだぜ。
夢の現実化は生命力を消耗するのだ。
夢は夢である時に生命力を活性する。

夢の現実化の歩き方。
それは更に「夢」を創る場合のみ効果があるのだ。
現実化になるのは夢じゃないのだ。
いつでも、更に別な夢が必要になる。
それまでの夢は夢でなくなるのだ。
新たな夢を創ってこそ、それまでの夢が現実化される。

  「夢見月・6」
3/06 (火)

夢の現実化などという夢の無い話・・・。
某アメリカの国民統率術に乗るのも自由。
紹介販売の勉強会とやらでも教えてもらえる。
でも本心から踊らされるのもなぁ・・・。
あれ、心理作戦として上手く出来ているけど・・・。

まぁいいやぁ。
ワシは夢の無い話ではなく、夢の話だ。
誤解してもらっては困る(別に困らないけど・・・)
夢を追いかけるのは素敵だぜ。
ワシだって、未だに追いかけ続けているのだ。
追いかけ続けるところに素敵があるからだ。
夢も希望も無いようなツマラン人とは係わりたくない。

いつでも夢を〜♪。
と、サユリさんも歌っていた・・・。
ワシは隠れサユリストなのだ・・・。
(別に隠れる必要は無いなぁ・・・)
夢は個人的な話だから、これで御終いにする。

  「風呂・1」
3/07 (水)

ワシは風呂好きなようだ。
あまり自覚は無いが・・・。
クライアントに氣功した後は特に入りたくなる。
最近になって、その意味に気づいた事がある。
そうかぁ・・・(と勝手に納得・・・)。

風呂は本来は風の呂。
今のようなお湯風呂じゃないのだ。
似ているのはサウナだ。
原型はサウナのようなものだった。

ワシは風呂好きなようだ。
原型の方の風呂が好きなようだ。
風の呂で汗を出す。
そして真水の飛び込む。
身体の中が喜んでいるのが解る。

  「風呂・2」
3/08 (木)

通常の湯風呂は早風呂だと思う。
カラスの行水よりも長いが・・・。
元々の身体が熱いのだ。
ワシは氣功が出来る氣功師ではない。
氣功師の身体になってしまったオッサンだ。
意識しなくても氣功をしまくっているオッサンだ。
意識しなくても常人より熱いのだ。
こうなったのはワシのせいじゃない・・・。

だが、普段は汗はかかない方の体質だ。
だから本来の風呂(サウナ)で汗をかく。
恥なら常温でもかけるのになぁ・・・。
まぁ、恥を知っているだけマシというものだ。
政治家センセイは汗をかいても恥を知らない・・・。
お役人様達も恥は知らないらしい。
優秀な学校では学ばなかったらしい・・・。

風呂施設(健康ランド)に通うようになって一年半。
それだけサウナ室で座っていれば何かに気づく。
ワシにとって、気づきは趣味だ。
ヒマな人が特技の一つにするモノだ。
忙しい人は・・・気づく暇がない。
忙しければ・・・気づけない。

  「風呂・3」
3/09 (金)

忙しいは、心を亡ぼす、と書く・・・。
なんてノウテンキは言わない。
心は亡びない。
心は荒れるか静まるか、だけだ。
どちらも好きにしてくれ。

忙しければ・・・ヒマにならない。
ヒマならば・・・忙しくならない。
当たり前なんだなぁ・・・。
そして、ヒマならば・・・心は荒れない。
当たり前なんだなぁ・・・。

ただし・・・ヒマは稼がない・・・。
生活がノンビリとする・・・とはいかない。
今の社会は経済が主流だからだ。
(古代なら、ヒマならノンビリできたのに)
今の社会は
心が荒れる方が経済が活躍できる仕組みなのだ。

  「風呂・4」
3/10 (土)

ヨガの基本。
自分の内部の声を聞くこと。
肉体の声。
そして心の声(多種多様・・・)
やがて魂(精神)の声。

ワシは不良欠陥品のヨガ実践者だ。
ヨガはヨガ教室でするのがヨガじゃない。
ヨガ教室はキッカケだ。
日常生活で応用実践して、初めてヨガといえる。
ヨガは○○と○○の結びなのだ。

不良欠陥品のワシだが一応実践者だ。
肉体(生命)の声を聞くのは仕事でもある。
見えないモノの動向を観るのも仕事だ。
風呂で動く(消える)モノがある。
風呂でヒマしてると気づく事がある。
そうかぁ・・・なるほど・・・。

  「風呂・5」
3/11 (日)

風呂に入る。
誰でも「疲れがとれる〜」と言うし感じる。
時には「だるくなる」と言うし感じる。
時には「眠くなる」と言うし感じる。
そうなのだ。
それが事実なのだ。

故御師匠様は言った。
「疲れるのは憑かれるからだ」
単純な霊障などの話じゃない。
意味は深く広い。
身体を過剰に使うということ。
それだけでも気づく事はある。

だが、その時の生命の方向。
積極的なのか消極的なのか。
それにより、同じ過剰でも大きく違う。
疲れる度合いが違うのだ。
あるいは、過剰でも疲れない。
過剰でなくても、疲れる。

  「風呂・6」
3/12 (月)

何故疲れるのか?
肉体の恒常状態を超えるからではない。
恒常状態を超えただけでは疲れない。
幼児を観てくれ。
そこにヒントがある。

限度を超えると・・・眠るのだ。
幼児は疲れない。
疲れに関し、大人は勘違いしているのだ。
単純に、動き過ぎ、働き過ぎという事ではない。
疲れは憑かれなのだ。

幼児は嫌な動きをしない。
好きな動きをする。
生命力の方向は輝く側にある。
肉体の限界を超えても疲れない。
ただ、回復作用(眠る)が始まるだけだ。
自然体なのだ。

  「風呂・7」
3/13 (火)

赤ちゃんや幼児は疲れない。
光に包まれている度合いが強い。
疲れは、憑かれ。
輝くモノに憑くことは出来ない。

人が成長するという意味。
光に包まれていた幼児の時期。
光は成長するにつれて薄れる。
その分を本人が輝くように創られている。
成長するというのは光を創り出すという意味だ。
この世は、とても優しい仕組みになっている。

成長するという事を社会に溶け込む事と勘違いする。
すると・・・薄汚れた大人になる。
子供は・・・大人を見て、ため息をつく。
あるいは・・・絶望するか、自棄になる。
大人は、更に薄汚れた政治家を見てため息をつく。
未来を想像し、絶望するか、自棄になる。
全ては成長の意味の勘違いから始まっている。

  「風呂・8」
3/14 (水)

幼児から少年少女。
青年、中年、熟年、老年。
人は歳を経る毎に輝くように創られていた。
輝くように生きるか否かは本人の選択だが。
歳を経るのはわるくない仕組みだ。

とはいえ・・・
ワシのような不マジメのナマケモノもいる。
自動的に光は少なくなるのだ。
努力やマジメが人を輝かせるわけではない。
だが、何もしなければ、間違いなく色褪せる。
色とは、本人の魂の個性だ。

色褪せる生き方をする。
すると・・・憑かれやすくなる。
憑かれは、疲れという状態で確認できる。
生き方の正誤の話ではない。
どっちの生き方をしようと自由だ。
この世は、何よりも自由選択が優先している。
疲れると・・・不快で苦しくなるだけだ。

  「風呂・9」
3/15 (木)

輝く生き方が出来ればモンク無い。
出来なくても、モンクは無い。
政治家と役人以外にモンクは言わない。
本人でも他人でも生き方にモンクは言わない。

輝く生き方をしたくてもなぁ・・・。
社会に生きているとシガラミがある。
シガラミには仕方なく付き合う事がある。
まぁ、本人が捨てる事も出来るんだけどねぇ。
捨てるとメンドウ事が多少付く。

幼児はシガラミがほとんど無い。
幼児を見習うのが大人の修行。
だから大人の修行が出来る大人は少ない。
誤魔化す生き方は・・・得意になる。
ワシも幼児を目指している・・・。

人は歳を重ねる毎に幼児を目指す。
幼児の輝く生き方を目指すように創られている。
誰でも一度は幼児だったのだ。
決して難しくはないはず。
それなのに・・・色褪せる方を選ぶ。

  「風呂・10」
3/16 (金)

全ては本人の取捨選択。
どんな生き方をしようと自由だ。
他に迷惑でなければ、という条件付きだが。
輝こうが、色褪せようが勝手にしてくれ。

ワシはかなり勝手な生き方をしている。
それでもシガラミを捨て切っているわけじゃない。
だから、疲れる(憑かれる)事もある。
それでも出来るだけ疲れない状態を心懸けている。

意識して疲れない状態を維持する。
他(人だけじゃない)の疲れ(憑かれ)を引き受ける仕事だ。
疲れ(憑かれ)を消す(浄化)するのが仕事だ。
浄化しきれない部分を引き受けてしまう。
それも仕事のうちだ。

嫌だとは思わない、が・・・
ワシ自身の疲れ(憑かれ)まであるとヤッカイなのだ。
ワシはナマケモノだ。
仕事は出来るだけ簡単にしたい。
それにはワシ自身の疲れは少ない方が楽だ。

  「風呂・11」
3/17 (土)

話を風呂に戻そう。
「疲れが取れる〜」
疲れ(憑かれ)は取れる事もある。
消える事もある。
解(溶)ける事もある。

風呂は水(お湯)だ。
本来の風呂(サウナ)も水風呂とセットだ。
水の力がある。
水の能力は特殊なのだ。
(最近になって、水の解明が進んでいる)
情報を溶かす能力がある。

疲れ(憑かれ)は情報でもあるのだ。
前項で書いたように、疲れは筋肉の過労働ではない。
情報(意識)の抑圧(塊)なのだ。
水(お湯)は情報を解放する能力がある。
「あぁ〜疲れがとれる〜・・・」
風呂はそういう存在でもある。

  「風呂・12」
3/18 (日)

滝行というのがある。
滝に打たれる。
真冬など、冷たい・・・。
マ、マゾだ・・・。
「修行」などに入れ込むタイプがいる。
ほとんどが(精神世界的)マゾヒストだ。

もちろんマゾが悪いわけじゃない。
趣味の問題だ。
精神修行は趣味の個人的問題なのだ。
決して他人に強要するようなモノじゃないぜ。
当然、そんな事で偉くなれるわけじゃない。
趣味なのだ。

試してみたい点もある。
どう変わるか?
心の変身願望は誰でも持っている。
人間だもの・・・。
未熟な心だという事実。
意識の底では気づいている。

  「風呂・13」
3/19 (月)

滝が何かを変える。
変えるのではなく、何かを除く。
何かを解放する。
それを浄化という。
浄化しても、また身に付くから同じだ。
人間だもの・・・。

浄化は、その時だけの出来事なのだ。
その一瞬に、別の世界にアクセスできる。
滝行は、その為の入り口の一つだと思うぞ。
そのアクセスをしなければ意味が無い。
まして滝行で自分が進化したと思ったら害だけ残る。

進化を意識したら、魂は進化出来ない。
人間社会の物欲と仕組みが違うんだぜ。
精神世界はヒネクレているんだ。
思えば叶う・・・わけない。
思いは(欲)力だし、進化は力の解放からだ。
方向が逆。

精神世界で「思いは叶う」は無いでしょう。
「そういう思い」を解放するのが精神世界の役目。
クソとミソを一緒にして論じるのは止めようね。
イイカゲンはいいけど、デタラメは迷惑。
見えない世界には、この世と精神世界の二つある。
この世(物質界)の仕組みと精神世界の仕組みは違うのだ。

  「風呂・14」
3/20 (火)

人の心は何度でも余計なモノを付ける。
綺麗になれるのは一瞬だけだ。
その一瞬をどう扱うか。
それこそが重要なのになぁ・・・。
(外見も同じだ。
美人の期間は短い・・・。
こだわっても、儚い・・・)

(心の)綺麗は(誰でも)続かないのだ。
綺麗でいる事に価値を置くから間違う。
綺麗な一瞬とは、心が無くなる一瞬だ。
その時だけ通れる世界がある。
その時だけ何かを観る事ができる。

水が意識(心)の塊を溶かす。
滝は水の精度(能力)を増す。
より塊を溶かし易いのだ。
水は
疲れ(憑かれ)を溶かす働きがある。

  「風呂・15」
3/21 (水)

ワシはラテン系で裸族系だ。
DNAが裸でいるのが楽だとそそのかす。
ワシはDNAに逆らわない。
とはいえ・・・やたら裸でいるわけにいかない。
日本の社会は「大らかさ」が足りない・・・。

風呂場は裸族の憩いの場所。
裸でいるのが当たり前。
ワシの過去世では日常でも裸だったのになぁ。
裸は余計なモノが無いのだ。

見栄は服にしか付かない。
肩書きは名刺にしか付かない。
金を持っていても邪魔なだけだ。
威張っても裸になると何も無い。
生まれてきた時も同じだったなぁ。
死ぬ時も同じだ。

元々財産や肩書きなど幻の一種だ。
ワシは肩書きや権威などいらない。
金という幻だけ、もう少し有ればいいとは思う。
今の社会は貧乏道を貫くには暮らし難いのだ。

  「風呂・16」
3/22 (木)

心の病(病)。
多くは心を解明して解決しようとする。
心の中を覗こうとする。
心を弄ろうとする。

原因を上手く認識すると闇が消える。
精神科医や臨床心理士の仕事だ。
だが・・・上手く認識出来ない場合が多い。
闇が消えていれば病人はもっと少ないはず。
心は自己防衛で嘘をつくのだ。
扉を厚くするのだ。
原因を正直に見せたくないのだ。

心の澱は汗で流れる。
澱の正体など、どうでもいい。
流れてしまえば、軽くなる。
心の中を覗かなくても、闇は晴れるのだ。
汗のかき方の一つに風呂がある。

  「風呂・17」
3/23 (金)

身体は疲れない。
疲れは生命の澱。
輝きを曇らせているからだ。
身体は(必要なら)休眠してしまう。

この世は見えないモノが物質化する場だ。
この世にあるモノは全て物質化したものだ。
誰かが想像し、創造した。
人工的なモノは人間が。
それ以外のモノはそれ以外の存在が。
大元の存在は創造主。

風呂で疲れが取れる(溶ける)。
それは澱が取れるからだ。
澱は(疲れ)物質化現象する。
その一部が身体から出る。
汗に混じって身体から出る。

風呂は澱を出す機能がある。
というか・・・
本来の目的は澱を出す事にある。
澱の無い人は風呂の必要も無い(らしい・・・)

  「風呂・18」
3/24 (土)

風呂は身体を洗う所。
そう思っている人が多い。
ワシは少し違う。
身体を洗う事も出来る所。
身体を洗ってもいい所。
そう認識している。

身体は石鹸で洗う。
それは固定概念だ。
石鹸は特別な場合のみだと思う。
通常は水かお湯が適している。
身体の声を聞いてみれば解る。

頻繁に石鹸類を使うと身体は弱化する。
皮膚を守るモノを壊されてしまうからだ。
石鹸やアカスリでゴシゴシ擦る。
すると身体(皮膚)は悲しむのだ。
自分(身体)を大切に扱ってもらえない。
自分(の管理能力)を信用してもらえない。
身体はやる気を失くし、年老いてしまう。

  「風呂・19」
3/25 (日)

風呂は溶かす所。
流す所。
解放する所。
そして元に戻る(裸)所。

外国式のシャワーとは違うのだ。
石鹸の泡だらけのバスタブではないのだ。
日本の風呂は深い叡智がある。
見えないモノの扱い方を知っていたのだ。
風呂は・・・洗い場ではない。

大きな湯船に浸かる。
お湯風呂と水風呂を交互に浸かる。
本来の風呂(サウナ)から水風呂に浸かる。
時間をかけて、ゆっくり過ごす空間なのだ。
ワシはカラス(の行水)だった・・・。
最近は一時間以上はいるように変わった。

  「風呂・20」
3/26 (月)

御婦人と風呂の話になった。
風呂施設での話だ。
オトコと御婦人では風呂内での態度が違う。
もちろんオトコもオナゴも一様ではない。
それでも傾向というのがある。

よくいわれる事だ。
オトコは歩く時、タオルで前を隠す。
隠すほどじゃないが、それとなく前に持つ。
マナーのようなものだ。

それぞれに個性があるモノだ。
それほどミットモナイモノではない。
(まぁ、奇妙な形ではあるが・・・)
ミットモナイと思っているわけでもない。
が、人前に堂々と出すようなモノでもない。
とオトコは(変なところで)マナーを持っている。

  「風呂・21」
3/27 (火)

御婦人達の風呂場内。
「どうどうとしてるわよぉ」
前を隠す人は少ないらしい。
サウナ室なども・・・どうどう・・・。

オトコの方がシャイなのか。
一応オトコどもはタオルをかけている。
オトコは服(見栄)が無いと意気地無しが多い。
裸(素)では威張れないのだろう。
威張っても・・・様にならない。

風呂に来てまで人物観察する気はない。
が・・・目に入ってしまう。
もちろんマナーが悪い連中は何処でもいる。
どうしようもないオッサンもいる。
刺青のオッサン達は意外に大人しい。
ガキ共は騒がしい。
その親や祖父はマナーに甘すぎる。

  「風呂・22」
3/28 (水)

ワシはオトコの裸に興味があるタイプではない。
(まどろっこしい書き方だが、生理的に好きじゃない)
オトコの同性愛を否定はしないが、生理的に受け付けない。
TVなどの、その気を売りモノするオトコもあまり・・・。
人それぞれだから否定はしないが、近寄りたくない。

だが風呂はオトコだけしかいない。
オトコの裸がウジャウジャしている。
おまけに毛深いから、本当にウジャウジャしている。
ワシはケムシなどのウジャウジャも苦手なのだ。
風呂施設はワシのとって楽園ではないのだ。

それでも慣れるもんだなぁ。
それにつれ、ワシの仕事目が開く。
依頼されてないのだから、あまり観察はしない。
でも観えてしまう事が度々ある。

アブナイ状態の人、準アブナイ状態の人も多いぞ。
サウナ室などで、霊障タイプがいると息苦しい。
ワシは霊障に強いので、ウットウしい。
でも、余計なマネはしないぞ。
ワシは目立たぬように、淡々と風呂にいる。

  「風呂・番外1」
3/29 (木)

古代の風呂。
温泉は別として、お湯風呂は無かった。
身体を洗うなら川か雨。
当時の身体は生命力に溢れていた。
だから身体は常に熱かった。

お湯でなくてもいいのだ。
お湯で無い方が楽だった。
雨水も今と違って綺麗な水だ。
河川は超綺麗な水だ。
水に触る、浸かるだけで充分だった。

現代人のような油(脂)まみれの身体じゃない。
表面のホコリだけだ。
水で簡単に綺麗になれる。
環境と人の身体は同じだ。
身体が綺麗になるのは環境を汚す事じゃない。
当時のホコリは汚れではないからだ。

  「風呂・番外2」
3/30 (金)

当時は気候ももっと温暖だった。
植物繊維の布を一枚まとっているだけだ。
それで充分暮らせた。
昼の仕事で汗を出す。
同じく昼のうちに河川で身体を洗う。
心身をさっぱりと清めて昼の部が終わる。

夕方からは焚き火を囲んでディナーパーティだ。
毎日、部落全員でディナーパーティだ。
歌と踊りと語らいの食事だ。
皆で楽しく食べれば、何倍も美味しくなる事を知っていた。
現代より、ず〜と智慧を活かした暮らしだった。
現代より、ず〜と豊かな暮らしだった。

お金や財産を貯めるという概念は無かった。
何でも皆で協力し、分け合えばいい。
分け合う方が、ず〜と豊かに暮らせると知っていた。
毎日、水で余計なモノを清めていたのだ。
心身の澱は溜まらない。
残るのは、大らかな心と明るい心。
楽しみと愉しみが生きる意味だと知っていた。

  「風呂・番外3」
3/31 (土)

人間は時代を経るから進歩するわけじゃない。
むしろ退化しているようにさえ観える。
退化しているわけでもないのだが・・・。
見た目だけは時代を経ると変わる。

この世の仕組みはヒネクレている。
グレちゃん(創造主)がオチャメだからだ。
余分なモノが無いほど豊かになれる。
そういう仕組みで出来ている。

心の豊かさ。
心に余分なモノが無いほど豊かになる。
見た目が豊かになると・・・
心や精神は貧しくなる。

何も無かった時代は、心を意識しなくても豊かだった。
人間は時代を経て、見た目が進歩した。
だから心の豊かさを意識して暮らす事が必要になる。
心から余計なモノを捨てる意思が必要になった。
そうでないと、心は苦しみを増すようだ。
裸に戻る風呂の意味は大きいかも。

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