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「新期・1」
4/01 (日)

1月1日は新年の始まり。
4月1日はエイプリルフール。
じゃなくて、
新年度の始まり。

ワシは子供の頃、疑問だった。
何故4月からが新学期なのか?
一つ下の1月から3月生まれの同級生。
でも、誰も説明してくれなかった。
実は・・・今もよく解らないのだけど。

多分・・・
元旦から新年度は嫌なのだろう。
新学期や仕事気分にならない。
やっぱ、正月は酒でも飲んで笑っていたい。
正月気分も抜けてから、仕事を少し整理する。
そうすると、新年度は4月あたりだな。
ウン、そうしよう。

  「新期・2」
4/02 (月)

4月から新年度になる。
入園式、入学式、入社式等がある。
転勤、転校、昇格、異動等がある。
現社会の国や会社や学校等の区切りだ。
変化があるのは組織の仕組み内だ。

個人や家族は新年度ではない。
新しい女房は異動して来ない。
ハンサムで優しく、稼ぐ亭主も転家して来ない。
「今度、この家にお世話になります」
そんな亭主が来たら、本妻は踊って喜ぶだろう・・・。

ワシのように社会の組織から外れている者。
通常は4月になっても新期ではない。
組織に関係するようになると、自分事になる。
何かの役を引き受けるとか・・・。
つ、つい、就職してしまうとか・・・。

ワシもこの4月から新期に関わってしまった。

  「新期・3」
4/03 (火)

豚児は4月から高校生だ。
我家から20キロ離れた市に通学する。
オトコだけの、オトコだらけの学校だ。
質実剛健、文武両道をうたっている学校だ。

ワシも30数年前にいた学校だ。
したがって、ワシはスケベだが硬派だ。
意外かもしれないが、今も硬派だと思っている。
精神は軟弱だが・・・・。
(なら、何が硬派なんだかなぁ・・・)

豚子は中学二年生になる。
子供達にとっては4月は新期なのだ。
一年一年が進歩している。
確実に階段を上っている。
それに比べ・・・親やオトナは・・・。

  「新期・4」
4/04 (水)

心機一転。
ワシだって新期したい。
イイカゲンだからワンパターンは飽きるのだ。
キチンとした大人はワンパターンを我慢する。
生活や世間体やアレコレの為に我慢する。
だが、ワシはキチンとしてないオッサンだ。
というわけで、新期する事になった。

豚児や豚子は学生だから階段を上がるのだ。
ならばワシだって学生になる。
フッ・・・これで自動的に階段を上がれる。
モノグサでも落第しないかぎり進級できる。
進級するなら鍼灸だ。

人生はダジャレだぁ!
(ま、また名言を創ってしまった・・・
自分の才能が恐ろしい・・・)
ワシは鍼灸の学生になった。
この4月から新入生だ。
ワシも新期を味わえる。

  「新期・5」
4/05 (木)

ワシはフッと思う。
時々、正気に戻る。
ワシは通常の社会人より20年〜は遅れている。
社会的な思いと行動が遅れている。
同級生などと比べるとだ。

自分の職業が見つかったのが40歳過ぎ。
家族を意識し出したのが50歳頃。
でも家長とか世帯主とか大黒柱なんて思ってない。
ワシはワシの勝手な人生を優先する。
今でも家庭人としては落第候補だ。
故親父がそうだった。
きっとDNAのせいだ。
そうだ、そうだ、そうに違いない・・・。

今回の入学も通常なら20年以上前にする事だ。
これって・・・ラッキー!
20数年前からやり直せる。
ワシは通常ではない御蔭で、ラッキーが起こる。
多分・・・御先祖様達が陰徳を積んだせいだ。
そうだ、そうだ、そうに違いない。

  「新期・6」
4/06 (金)

学生とはいえ、昔風に表現すれば「苦学生」だ。
しかも充分すぎるほど年もいってる。
夜間部で6時から9時半までだ。
授業自体に不安などはない。
(不安を感じるような若さは無い・・・)

鍼灸はメディカルな世界だ。
ワシの仕事の(世界の)一部だ。
ワシは健康の一部に医学があると思っている。
健康の為の医学であり、病気の為の医学ではない。
(健康は幸せの為に存在していると思っている)
健康はワシのプロとしての仕事世界だ。

授業はいいのだが・・・
学校(学院)の場所が家から60キロ離れている。
当然、通学時間がかかる。
その分、仕事を早く切り上げる。
マンガを読んだり、昼風呂に入る時間が制限される。
それは・・・少し不満かもしれない・・・。

  「新期・7」
4/07 (土)

入学式だった。
ワシが最年長かもしれない。
定員よりかなり少ない。
全体で66名。
特に鍼灸の夜間は10名しかいなかった。

これはラッキーだ。
こういう世界の学びは少ない人数ほどいいのだ。
その分、丁寧に深く充分教えていただける。
同じ時間なら生徒は少ない方が深い学びになる。
ワシはラッキーだけで人生を歩いているのだ。

これからの3年間。
学校に通えるというラッキー。
新たな分野を教えていただけるラッキー。
ワシの年齢からは、そうはないぜ。
ワシは才能も努力も根性もないが、
(幸)運だけは恵まれていると思う。

  「五感・1」
4/08 (日)

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。
目、耳、鼻、口(舌)、身。
肉体の感覚器官だ。
器官といっても、身は身体全体の皮膚だ。
皮膚は器官の大元でもある。
皮膚が一方向に発達して、各器官が出来た。

皮膚の一部が光に対して特に敏感に反応する。
どんどん専門に発達する。
そして目ができた。
同じように音に敏感に発達して耳となった。
鼻となった。
口(舌)となった。

ということは・・・
全身(皮膚)は全ての感覚を内蔵している。
心を静め、感覚を研ぎ澄ます。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう感覚は身体全体でも判る。
目を瞑っても、何となく見える。
耳を塞いでも、何となく聞こえる。
身体って、凄く優秀に出来ているのだ。

  「五感・2」
4/09 (月)

感覚は大きく二つに分ける事ができる。
浅い感覚と深い感覚。
表面の感覚と奥の感覚。
刺激の感覚と生命の感覚。

感覚は自己の感じ方だ。
だから感じ方は自己の深さを知る事になる。
例えば・・・味。
素人とプロの料理人とでは感覚が違う。
同じ魚を食べても感覚が違う。
プロは深く味わえるのだ。

深い分だけ愉しみを味わえる。
嬉しさが増える。
そこから世界が広がる。
世界は自分の内部にあるのだ。

  「五感・3」
4/10 (火)

五感は何の為に備わっているのか?
グレちゃん(創造主)は何を考えたのか?
そんなの決っている。
グレちゃんは、いつでも同じ事しか考えてない。
(というか・・・何も考えてない・・・)

グレちゃんは超優しい存在だ。
優しいとは、幸せにしてくれる事だ。
幸せを呼ぶ行為だ。
自然界では調和という作用。
グレちゃんは調和しか考えてないのだ。

人は、調和が起こると幸せに感じるのだ。
ならば、五感も同じだ。
幸せになる為に備わっている。
当たり前だ。

苦しむ為に備わっているのじゃない。
精神苦行スキスキ人間はマゾだ。
人は苦しみから成長するわけじゃない。
幸せから成長するに決っている。
まぁ、成長する事にこだわるこたぁないけど・・・。

  「五感・4」
4/11 (水)

感じる事はありがたい。
感じる能力は幸せの能力。
感じる深さや広さがある。
それは幸せの深さや広さに直結している。

感じるのは個人的感覚から出発している。
だが、深くなるほど
広くなるほど
微妙が判るほど
他との共通感覚に近づく。
他の幸せと自の幸せが近くなるのだ。

社会的に生活する能力。
仕事が出来ると社会では評価される(と思う・・・)
仕事が出来ると報酬も増える。
(まぁ、必ずしもじゃないけどねぇ・・・)
だが五感が広く深くても社会的評価はそれほどじゃない。
つまり
幸せと社会的評価は別な次元にあるのだ。

  「五感・5」
4/12 (木)

五感は自分の内部から出発する。
深く、広く、静かに、微妙に進歩する。
進歩とは、自由になる事だ。
そして、進歩するほど他の内部へと到達する。

幸せも同じ。
浅い幸せは、自分から出発する。
個人的な幸せを「幸せ感」という。
深く、広く、静かに、微妙に受け止める。
すると、他の幸せと共鳴協調する事になる。
幸せは深くなるほど、自他の区別が無くなる。

五感を磨く事。
それは、鋭くなるのではない。
柔らかくなるのだ。
他へと近づく感覚を「感性」という。
個人的な感覚は「感性」ではない。
他の感覚を受け止めて、感性となる。

  「五感・6」
4/13 (金)

感性を誤解している。
感覚が鋭くなる、一方向に敏感になる。
それが感性だと勘違いしている。
それは、バランスと調和の崩れた現象だ。
「自称芸術家」に多い。
有名なゲイジュツカにも多い。
普通の感覚で、変だと思わないかぁ?

まぁ、他人に迷惑でなければ何だっていい。
ワシだって自称「イイカゲン道家元」だ。
自称「貧乏道宗家某亜流水上一族末裔」だ。
自称「天上天下唯我独善家師範代」だ。
公称の多くの政治家よりは、遥かにマトモだと思っている。
政治家や官僚ほど多くの人々に迷惑もかけない。

感性が出来てくる。
それは、他と自の共通感性だ。
だから感性があれば、迷惑な政治家にはならない。
感性があれば、役人は尊敬されるだろう。
感性があれば、もっとマトモな日本になっている。
感性は、ゲイジュツカより政治家や役人に必要なのだぜ。

  「五感・7」
4/14 (土)

五感は何の為にあるのか?
幸せの為だろう。
身体は幸せの為に創られた。
苦しみを感じるのも幸せに気づく為だ。
喜び、悦びを感じるのは幸せの深さを進む為だ。

五感を基にして感性が芽生える。
感性は感覚と精神の柔らかさから発達する。
感性は自然の一体化へと近づく。
人も自然の一部だと感覚で認識できる。

感性は自然の認識の深さだ。
自然を意識できない感性は無い。
だから政治家、役人、実業家達に必要なのだ。
感性の無い代表達が増えれば、地球は滅びる。
い、いや、地球は滅びないが、人類は滅びる。
人類は滅びても仕方ないが、他の生物が巻き添えをくう。

  「五感・8」
4/15 (日)

五感は贈り物。
スーパーウルトラ存在からの贈り物。
だけどなぁ・・・
受け手が価値を判ろうとしない・・・
豚に真珠、猫に小判、犬に棒?

五感は深さがあるのだ。
広さがあり、上下があるのだ。
未来があるのだ。
新しい世界に続く通路なのだ。

五感は受ける感覚ではない。
受ける感覚は、まだ入り口なのだ。
入り口で止まってどうする?
もっと進んでくれ。
進まなくちゃ、女神だって愛想を尽かすぜ。

  「五感・9」
4/16 (月)

感じる能力も幸せも同じ仕組みだ。
受けるだけでは進めない。
深さや広さや高さや微妙が理解出来ない。
自分から歩く事で進める。

誰かが言っていた。
「幸せは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」
ワシは別の言い方をした。
「イイカゲンは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」
イイカゲンも積極的な生き方なのだよ・・・

与えられた分は感謝でいい。
だが、活かすのがその先にある。
感謝だけでは進めない。
(矛盾する言い方をすれば・・・
感謝だけで進める。
感謝だけが進む方法でもある。
でもこの表現はヒネクレているからなぁ)

  「五感・10」
4/17 (火)

五感が鋭くなる。
五感が柔らかくなる。
正反対の五感の使い方だ。
だが両方ともに壁を超える事がある。
もちろん壁は超えりゃいいってもんじゃない。
ドロボウだって壁は超えるのだ。

五感を超えると・・・
六感がある。
六感を認識できる世界がある。
だが、勘違いや解釈の違いが横行する世界だ。
ウソではないが・・・信用は出来ない。

鋭くなって超える壁。
柔らかくなってすり抜ける壁。
当然ながら六感の感じ方やか解釈が違う。
自分の(能)力で感じている場合と
自分が解けて感じている場合がある。

  「五感・11」
4/18 (水)

自分の五感からでは不可能な認識。
個人的な感覚も伴うのだが、それは説明できない。
直感とはいえ、単なる「感じ」ではない。
物理的な感覚が伴うのだ。
だから確信に近い。

その六感には直感と直観がある。
直感は感覚の延長上にある。
だから伸ばす事もできる。
更に鋭く磨く事もできる。
だから鈍る事もある。

「六感が働くんだぁ〜」
ほとんどは意識の段階だ。
勘違いがほとんどだと思う。
思い込みがほとんどだと思うぞ。
六感は感覚が伴って、五感の先にあるのだ。

  「五感・12」
4/19 (木)

もう一つの六感。
直感ではなく「直観」の方だ。
これは感覚が伴わない。
理屈も理由も無い。
一瞬で解ってしまうのだ。

判断力を使わない。
自分の能力ではないからだ。
一瞬、他と繋がってしまう。
瞬間に相手と同化する。
だから、自と他が無くなる。
相手が人でも他の生物でも同じだ。
無機質の自然でも同じだ。

どうやら底の底では繋がっている。
あるいは・・・全体は一つ・・・。
その扉に一瞬だけ触れるようだ。
これは、誰でもありうる。
だだし、自分の意思で扉に行くのが難しい。
出来ないわけでもないが、難しい。
意思と逆の方向に扉があるからだ。

  「五感・13」
4/20 (金)

アーユルヴェーダという実践哲学がある。
医学、医療法、健康法を含めた膨大な学問だ。
人のアーユルヴェーダ(人以外もある)は
「寿命の科学」「幸福の実践哲学」とも訳される。
単なる医学じゃないのだ。
遥か古のインドで生まれた。
生まれた時には完成していた。

5千年前とも3千年前ともいわれている。
中医学の基といわれる「黄帝内経」が2千5百年前だ。
それより遥か古(いにしえ)なのだ。
おそらく・・・一部が・・・
流れてチベットへ渡りチベット医学の元になった。
医学の部分が中国へ流れて、中医学の元となった。
更に日本に流れ、東洋医学日本版になった。
そのくらい大きく深い学問だ。

完成された学問。
学問は何の為にあるのか?
存在するモノ全てが調和(幸せ)になる為だ。
アーユルヴェーダは完成された学問だ。
今のほとんどの学問は完成されてないのだ。

  「五感・14」
4/21 (土)

通常の学問は完成されない。
いつでも発展途上なのだ。
科学はいつでも発展途上だ。
科学を基礎にしている西洋医学も発展途上だ。
だから、日進月歩の研究がある。
毎日のように(仮)真実が塗り替えられる。

アーユルヴェーダは完成したまま生まれた。
その発生が伝えられている。
通常の学問の発生と違うのだ。
個人や組織の努力の賜物の学問ではないのだ。
何かと繋がり、そこからのデータだ。

仏教的には虚空蔵。
精神世界的にはアカシックレコード。
そういうモノと繋がったわけだ。
だから完成されていた。

  「五感・15」
4/22 (日)

リシと称号されるヨガ行者がいる。
尊敬される生き方への称号だ。
人々は「マハリシ」と讃える。
「マハ」は「偉大な」という枕言葉みたいなものだ。
マハリシは何人もいるが、そう多くはない。

そのリシが深い冥想で得た情報だ。
五感を超えた「直観」だ。
それらが集まりアーユルヴェーダとなった。
何一つ修正する必要がない情報だった。

アーユルヴェーダは修正の必要が無いが、
伝えられる過程で曲がる。
曲がるのは人の世の常である。
更に西洋式思考法が蔓延した。
裏付けが無ければ科学的でない、というわけだ。
元々科学的な発生じゃないのに・・・。
科学的の方が劣っているのに・・・。

  「五感・16」
4/23 (月)

20世紀は科学の時代だった。
科学万能と思っていた時代だった。
だが21世紀になり、間違いに気づいた。
科学的思考は僅か200年の浅い歴史だ。
科学的思考が未熟でも仕方ないだろう。

それまでの人類の歴史だって間違いだらけだ。
それでも叡智の歴史の違いは歴然だ。
科学的だけが正しいとするのは迷信に近い。
科学は古(いにしえ)に追いついてなかった。

21世紀は科学と古の融合の時代となった。
20世紀の科学は目に見える部分だけを扱った。
だが、それでは不都合が多く生じたのだ。
それは20世紀の科学者達も分かっていた。
もちろん科学者といっても科学教信者の学者も多くいる。
未だに、実証検証以外は認めないという学者もいる。
学者というより、信者だろう。
学者という称号がウリモノのタレントもいる。

  「五感・17」
4/24 (火)

戦後の教育では特に科学的が唯一のような洗脳をした。
だから未だに科学的を金科玉条のように論ずる人が多い。
お上の言う教育をマトモに信じて「鬼畜米英」を論じたように・・・。
お上より自然の方がマトモだぜ。
自然は穏やかな感覚で観えるものだ。
科学的だけでは不自然だと気づくのが当たり前。

国連をはじめ、欧米の真摯な学者が謙虚に論じる。
解らない事を正面から研究する。
それが科学の本来の姿だろう。
そのヒントとして「スピリチャル」という言葉を入れた。
WHOの「健康」の定義にも新たに増やした。
ホンモノの科学者も沢山いるのだ(当たり前だけど)

見えるモノの研究が専門の科学。
この世は見えるモノが主軸だとワシも思う。
だから科学は素晴らしいと思っている。
だが、この世は見えないモノも重複しているのだ。
科学は素晴らしいが、科学だけでは無理なのだ。
21世紀は、その点を調和できる時代のようだ。
ただし・・・人類が存続できていれば、だ。

  「五感・18」
4/25 (水)

見えないモノも多種多様にある。
見えないモノと繋がればいいってわけじゃない。
ロクデモナイ存在と繋がっている人達も多い。
自称霊能者や占い師や教祖の多くは・・・

まぁ、自覚が無いから本心で信じている。
「私は○○神と繋がった・・・」
本音で言うから、信者も増える。
でもコマッタちゃんには違いないけどなぁ・・・。
教祖は狂祖や凶祖になりやすいんだ。
マトモな神なら、個人と繋がらない。
こんな当たり前が理解できない宗教が多いぜ。

こちらから、少しだけ触れる。
一瞬だけ触れる事がある。
一瞬だけ通路が繋がる事はある。
それを(マハ)リシ達がした。
リシ達はマトモだから教祖にはならない。
だからアーユルヴェーダには教祖がいない。

  「五感・19」
4/26 (木)

五感を突き抜けた感性。
それは個人の感覚の壁が無い。
逆の表現をしよう。
五感はトンデモナイ能力を秘めていた。
五感は入り口だったのだ。

何度も何度もいう。
グレちゃん(創造主)はヒネクレている。
あるいは・・・シャレている。
あるいは・・・素直そのものだ。

肉体に秘められた能力。
肉体は個人に属していると思われていた。
だが、能力に触れれば理解できる。
肉体は個人のモノではない。
肉体はグレちゃんのモノだ。
(心は個人だと思う・・・)

  「五感・20」
4/27 (金)

五感は何の為にあるのか?
この世にあるものは全て同じ目的だ。
グレちゃんはメンドウクサガリ屋だ。
いちいちモノの区別などしない。
モノの差別もしない。

多種多様なモノを用意したのは意味がある。
だが目的は全て同じだ。
創造主は・・・ワンパターンなのだ。
偉大になるほどメンドウはしない。
ツボを押えりゃ、他はどうでもいい。

目的は「調和」だ。
人的には「幸せ」だ。
グレちゃんは超優しい存在だ。
幸せ以外は何も望んでないのだ。

  「五感・21」
4/28 (土)

感じる事の大切さ。
素直に感じる事の素晴らしさ。
それは自他の壁を融かす。
それは心の塊を融かす。

心で感じるのではない。
よく間違いやすいところだ。
身体で感じる事が大切なんだ。
すると心まで届くのだ。

更に深く感じる。
すると心の底まで届く。
底は他と共通の地帯がある。
ユングは集合無意識層と名づけた。

ただし・・・
この層はかなり厚いし深い。
層の表面まで行けたらいいとしよう。
そこから先は人間では無くなるかも。
ブッちゃんやキリちゃんになる役目の人は特殊だぜ。
層の表面を観るだけでも地球環境は調和できる。

  「五感・22」
4/29 (日)

感じる方向がある。
苦しむ感じ方と喜ぶ感じ方がある。
どちらの方向でも先に進める。
ワシは喜ぶ方を薦める。

喜びは進むと悦びになる。
悦びは進むと幸せになる。
(法悦という境地にもなるけど)
幸せを進むと自他の平和になる。
慈悲という思いやりが併用になるからだ。

五感と六感が同時に訪れる。
五感に幸せが付くと六感が目を覚ます。
極単純な仕組みなんだ。
難しい事はグレちゃんはしない。
五感で喜びを感じてくれ。

  「五感・23」
4/30 (月)

五感で素直に生きる。
生きている事はそれだけでいい。
その為に生きている。
社会的な立派な行いは趣味でいい。
喜びの為に生きるのが優先だ。
社会的を優先する、というのは偽善か無知だ。
それを人に推し薦める人達は怪しい。
権威ある政治家や名の売れた自称文化人は怪しい。

生きるのは難しくない。
ブッちゃん(仏陀)もそう言った。
山や野のケモノ相手にそう伝えた。
それを聞いて目を覚ました里人が増えた。
評判が大きくなり、勝手に弟子が増えた。
頭デッカチの弟子達は「素直」になりきらない。
仏教は伝えられる過程で小難しい経に成り下がった。

嬉しい、楽しい、気持ちいい。
それを心掛けて生きればいい。
生きとし生けるモノ達の道だ。
外れれば苦しみがある。
それだけだ。

五感は誰でも道が判る様に付いている。
更に五感の先までオマケが付いている。
なんとも親切な仕組みだ。
さすが、創造主というのは偉いなぁ・・・。

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