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  「桜・3」
05/01 (木)

隠し事などしない。
というか・・・メンドウだ。
奥までスッキリ開く。
遠慮はしない。

本来、日本人は明るい人種だった。
ワビ、サビなんて無かった。
陰謀、隠匿、秘密なんて無かった。
そんなモノ、必要無かった。

多少の色はあっても、基調は白だ。
白は染まらない色だ。
染まる必要の無い色だ。
直球ど真ん中でいい。
真っ直ぐ明るい人種だった。

  「桜・4」
05/02 (金)

単純明快素直。
そして・・・あわてん坊。
ちょっと暖かくなると開く。
一度開いたら前に進むしかない。
まぁ、いいかぁ・・・。

実に愛すべき性格だ。
当然、散る時も率直だ。
それが、いさぎよさ、と勘違いされる。
特に、いさぎいいわけじゃない。
そんな覚悟なんて無い。

開くのも散るのも真っ直ぐなだけだ。
曲がるのがメンドウなのだ。
しがみつく必要を感じないのだ。
また、来年咲けばいい。

  「桜・5」
05/03 (土)

来年を信じる。
明日を信じられる。
明るい生き方だ。
だから、遠慮なしにオープンになれる。

どうせ咲くなら、葉っぱで隠したくない。
順番なんてどうでもいい。
そういうわけで、桜は葉より先に花開く。
節操のないヤツだ。
だが、気持ちいいヤツだ。

桜のように生きたい。
それは武士道のいさぎよさ、ではない。
隠し事の無い、ラテン系の生き方だ。
日本の心は明るいノーテンキが指標となる。

  「桜・6」
05/04 (日)

自由に生きる。
それは真っ直ぐ生きる事でもある。
正しく生きる事とは違う。
身勝手に生きる事でもある。
自生が共生の一部だと知っているならば。

桜は勝手なヤツだ。
咲く順序を無視している。
花びらも下向きだ。
やや、狂気も振りまく。
だが、誰も迷惑ではない。
迷惑をかけない勝手は「素直」という。

模範になりたいわけじゃない。
むしろ、そんな事を言われるのは心外だ。
桜は日本の象徴になど、なりたくない。
暖かくなったら花開く。
一斉に花開く。
惜しげもなく、最大に開く。
そして、さっさと散る。

  「桜・7」
05/05 (月)

桜の花は桜の生命ではない。
花は一時の外観だ。
だから、あっさり脱ぐ事ができる。
ここを勘違いしている。
「○○の為、桜の如くいさぎよく散ろう」
戦争時、為政者は平気で誤魔化す。
いつでも守るのは権威であり、弱者ではない。

桜の花は、単なる服だ。
人に例えるなら、社会的評価の部分だ。
桜は服(外観)にこだわらない。
一度咲けば、それでいい。
あっさり脱げる。
他に見せて誇る必要もない。

「桜のように」などという人は、自分の服をぬごうとしない。
他人には煽動しても、自分の立場を捨てようとはしない。
政治家や軍人達・・・
未練たらしく、自分の既得権にしがみつく。
桜はいさぎよいのではない。
自由なのだ。

  「桜・8」
05/06 (火)

ぐい飲みに 桜の花びら そっと受け
花びらを 浮かべ杯 春の宴
独り占め 覗いた花見 杯の中 仰げば広がる 満天桜

桜と酒宴はお似合いだ。
桜は陽気な狂気を漂わせる。
酒宴も陽気な狂気を呼び込む。
桜の木の下で生命は躍るのだ。

桜花の宴は僅かな期間だ。
生き物は生命の躍動に素直に従う。
不妊傾向でも妊娠するかもしれない。
この期間、桜の木の近くならば。

  「15年目・1」
05/07 (水)

1994年5月だった。
ワシは生駒山にて初めて故御師匠様に出会った。
そして氣功師の身体にさせていただいた。
今年で丸14年。
今月から15年目が始まる。

故御師匠様から伝えられた「氣」は優秀だ。
とてもとても優秀だ。
だが、ワシは優秀ではなかった。
14年経っても充分活かしきれないでいる。

この「氣」はワシのではない。
遥か宇宙からか、地球からかは知らない。
この「氣」は「人の氣」の範囲を超えている。
とても素晴しい力を秘めている。
ワシの力ではないから、プロとして冷静に判断できる。

  「15年目・2」
05/08 (木)

例えば
車の運転は教わればできる。
だが、車の能力は千差万別だ。
ボロボロの軽四輪。
F1仕上げのフォーミュラー。

名前で言えば
ポルシェ。
ベンツ。
ロールス。
国産○○の軽(名前が言えない・・・)

20トントラック。
50人乗りバス。
2人乗り軽。
ブルトーザー。

車の運転が出来るだけでは他に活かせない。
その車の能力を充分引き出す。
それは、もう一つの能力が必要なのだ。

  「15年目・3」
05/09 (金)

努力や精進で能力をつける。
能力を伸ばし、大きくする。
それは、その人の能力となる。
車の例は当てはまらない。
自分の背中に人を担ぐ。
自分の足で早く走るからだ。

故御師匠様から伝えられた「氣」
それは個人の努力で伸びる能力ではない。
人間の「氣」ではない。
だから、例として車とした。
これが一般的な中国気功との違いだ。
練功して伸ばせる「氣」とは違うのだ。

ワシ的な表現。
他人の褌で相撲をとる。
人ではないが、他の「氣」だ。
扱うのはワシだが、褌は他のモノだ。

  「15年目・4」
05/10 (土)

何度も戒められた。
「決して自分の能力だと思うなよ」
この「氣」の威力は、とても大きいからだ。
自分の力だと勘違いしては活かせない。

自分の「氣」だと思うと自分の「氣」が出てしまう。
自分の「氣」もある。
だが、単位が違う。
ワットとキロワット、あるいはメガワット。
グラムとキログラム、あるいはトン。

自分の力だと思うと下がるのだ。
小さくなってしまうのだ。
個人の能力は伸ばせば伸びる。
伸ばせば、人間同士なら差が出る。
だが、遥かに大きなモノとは比べられない。

  「15年目・5」
05/11 (日)

何度も繰り返して言われた。
ワシは故御師匠様の言葉を信じている。
おかげ様で、自分の「氣」とは思わない。
全く別な「氣」を扱わせていただいている。

だが・・・差が出る。
扱う範囲を意識で狭めているからだ。
これは扱い者の意識の開放度で差が出る。
意識で「氣」は左右するのだ。
それは自分の「氣」でなくても同じだ。

「氣」を出す為の努力や精進はいらない。
出す事など考えなくていい。
太陽の光みたいなモノだ。
人間としては無限といってもいいだろう。
いつでも、何処でも変わらず輝いている。

  「15年目・6」
05/12 (月)

太陽は万物に平等だ。
平等という意識もない。
浴びたければ、好きなだけ自由に。
使いたければ勝手に使えばいい。

ワシが特殊なのではない。
誰でも同じく扱える。
ワシは扱う意識を解放していただいたのだ。
誰でも解放すれば扱える。
扱えなくても、恩恵は受けられる。

意識の解放は無制限ではない。
無制限の解放などありえない。
ある、とすれば・・・神のみ。
だから、段階がある。
範囲がある。
広さや深さがあるのだ。

  「15年目・7」
05/13 (火)

太陽はいつでも輝いている。
その光を活用するのは、各自の自由。
光を意識できなければ、恩恵は受けても扱えない。
意識が活用を左右するのだ。

光を明るさと限定して意識する。
すると活用できたとしても、明るさだけだ。
熱と意識すれば、熱の活用が可能になる。
物理的な光と意識していれば、それなり。
物理を超えた光と意識できれば、更に活用できる。

例えれば、そんな感じだ。
広さや深さ、影響範囲の意識もある。
この場合、意識とは理解に通じるようだ。
同じ太陽を感じても、各自で受け止め方は違うのだ。

  「15年目・8」
05/14 (水)

意識は理解に通じるが、理解ではない。
この世で理解できるのは僅かだと思っている。
必要なのは理解でなく、意識の方だ。
むしろ・・・
理解できない事を意識できる方が必要だと思う。

理解できなくても、信じる事はできる。
信じる事ができなくても、認める事はできる。
何となく、でもいいのだ。
他を認める、とは自分を認める事と同じだ。

自分の心だって理解など出来ない。
信じる事も出来ない場合がある。
ワシは自分の心など信じられない。
だが、完全に認めている。
いいかげんな自分を認めている。
アテにならない自分の心を含めて認めている。

  「15年目・9」
05/15 (木)

ワシは恵まれている。
生れ付きの好条件があった。
それは・・・
ワシは「いいかげん」だった。

「いいかげん」は幅広い。
ワシ自身を認める事が出来れば、
幅広く認めやすくなる。
その分、柔らかく生きられる。
その分、和らぎが出来やすい。

ワシの仕事は意識の和らぎがポイントとなる。
相手は人だけじゃない。
生命、病、未来、霊。
何をとっても、わけがわからん相手だ。
認める事が出来て、そこから始められる。

  「15年目・10」
05/16 (金)

自分を活かせる。
天職だと思った。
ライフワークという単語が当てはまる。
この仕事が好きだ。

好き、というのと少し違う。
辛い事が多い。
厳しい事が多い。
悲しい事も多い。
それでも、広い意味で好きだ。

辞める事も出来る。
暮らす為だけの仕事も出来る。
出来るけど・・・
多分・・・出来ない。

  「15年目・11」
05/17 (土)

出会ってしまったのだ。
ワシの運命と。
恋人や妻や愛人なら別れられる。
だが、運命とは別れられない。

身体が変わってしまったのだ。
この仕事をする為の身体だ。
だから、この仕事は運命となった。
天職とは身体と運命が一体している。
天職は・・・転職できない・・・

ところが、厄介な事に社会がある。
この国は不都合な事に国家としてある。
つ、つまり・・・税金やその他がかかる。
暮らしていくのに金がかかる社会なのだ。
いろいろな法律などもある。
ワシの苦手な分野だ。

  「15年目・12」
05/18 (日)

一生の仕事が見つかった。
すると他人は言う。
羨ましいですねぇ。
理想的ですねぇ。

いいや、厳しいですよ。
これはライフワークが見つかった人にほぼ共通だ。
一生の仕事に出会った事は嬉しい。
だが、この出会いは厳しい運命でもある。
逃げられない運命でもある。
厳しくても、苦しくても当然なのだ。
込みでライフワークなのだ。

生き甲斐はある。
生き甲斐は厳しさがスパイスなのだ。
特に社会不適合の性格だと、更に厳しい。
稼ぐという能力が劣っていると、結構辛いものがある。
それでも、出会ったなら受け入れるしかないのだ。

  「15年目・13」
05/19 (月)

最近実姉が東京神楽坂で個展を開いた。
姉は売れない陶芸家だ。
やはりライフワークに出会ってしまったのだ。
ある意味、姉弟で社会脱落者みたいなものだ。
我家は呪われているのか・・・

来ていただいた人に画家がいた。
ワシも知っている画家だ。
十年以上前からの知り合いでもある。
その画家さんが姉に言った。

「こういう道は、妻子を犠牲にし、
踏みつけ、その上であがき、あがいて作品に変える」
人間的には温厚な人だ。
だが、こういう道に出会ったなら、ほとんど共通する。
ワシも納得する話だ。
妻子のメシ代を、自分のライフワークの為に使ってしまう・・・
不幸にはしていないと思うが、不自由にはしているなぁ。

  「15年目・14」
05/20 (火)

先は長い。
当たり前だ。
道が本物なら、何処までも続く。
遥か古代から遥か未来まで。

その一部を歩いているのだ。
解らない事だらけだ。
先は解らないが、今の道は解る。
今の全てではないが。
そして、道を広げる事もできる。

広がりは柔らかさだ。
意識の柔らかさで広がる。
ワシのライフワークは道の広さが関係する。
広いほど、自由に使える。
使える幅が広いほど、多く大きく仕事ができる。

  「15年目・15」
05/21 (水)

ワシは、かなり自由の方だと思っている。
だが、まだまだまだまだ、とも思っている。
「この氣」は「人の氣」より遥かに大きい。
いくらでも広げられる可能性がある。
15年かかって、やっと、そんな事が判った。
まだまだまだまだ、と判った。

意識ってのが頑固なヤツでな。
すぐ固まりたがる。
自分では柔らかいつもりでも狭い範囲内だ。
人の常識や固定概念という範囲内だ。

「氣」はそんなの関係ねぇ。
常識なんて関係ねぇ。
固定概念なんて関係ねぇ。
法則なんて関係ねぇ。

  「15年目・16」
05/22 (木)

何故、故御師匠様はあれほど凄かったのだろう。
意識が自由だった。
それは、そうだけど・・・
更に別の要素が会ったと思う。

大いなる使命だった。
それもあると思う。
見えない応援する存在が多かった。
多分、そうだと思う。

だが、もっと決定的な要素がある。
例えれば、ワシの万倍も大きい何か。
それは
「深い愛」とでもいうようなモノだ。

  「15年目・17」
05/23 (金)

他を愛おしく思う。
それも「愛」だろう。
愛の一部だろう。
表現の一部だろう。

「氣」との関係から「愛」を観る。
すると感情の愛とは違うモノだと感じる。
波動という言葉を使うなら・・・
他に染みこめるほど微細な波動。
微であり、妙である。
妙なる波動、それが愛となる。

深い愛、とは波動が妙なのだ。
他のモノに染みこむ。
そして、和する。
他とは、人間だけじゃない。
動物だけじゃない。
生物だけじゃない。

  「15年目・18」
05/24 (土)

他に染み入る意識。
モノを区別しない意識。
自と他を区別しない意識。
感情で区別しない意識。

自我が邪魔する。
固定概念が邪魔する。
欲が邪魔する。
だから「深い愛」ってのはマレなのだ。

通常のワシでは無理だ。
ワシは心が小さく曲がっている。
だが、氣功時のワシは別人になる。
ワシの心は隅っこで動けない。
ヒネた心だが、動けなければ邪魔しない。

  「15年目・19」
05/25 (日)

自分の意思が動かない。
無くなったわけじゃないが、動かない。
曲がった根性はそのままだが、動かない。
ヒネた心が有るのを意識できるが、動かない。

ワシは威張るオッサンが嫌いだ。
政治家や官僚タイプが嫌いだ。
慇懃無礼な銀行員も嫌いだ。
ずうずうしいオバサンも嫌いだ。
ギラギラした若者も嫌いだ。
野生猿のような傍若無人も嫌いだ。

だが・・・
氣功時は「嫌い」が動かない。
嫌いなのに、嫌いになれない。
超大好みの御婦人と変わりなく接する。
ワシの心は区別も差別もしたいのに・・・
この氣功は自分を離れてしまうのだ。

  「15年目・20」
05/26 (月)

24時間の氣功師を目指している。
実際は諸事情があり、封鎖している時間も多い。
例えば電車の中。
鍼灸学校でも封鎖。
寝ている時はわからない・・・

それでもかなりの時間を氣功している。
相手がいる、いないに関わらない。
すると、いいかげんなワシだもの、
自分の歪んだ心にかまう時間が少なくなる。
次第に何でもよくなる。
ワシの好みや嫌いなんて、どうでもよくなる。

心が広くなったのではない。
使うのがメンドウになったのだ。
どうせ使う時間は少ないのだ。
使おうと思っても、氣功始めたら使えない。
ワシは・・・心なんて、どうでもいいと思い始めた。

  「15年目・21」
05/27 (火)

14年間で気づいた事は多い。
状況の厳しい人が相手だ。
普段の生活では見過ごす事。
その中に深く大切な基本の「気づき」がある。
不マジメなワシでも気づけるほど大きいし深い。

見えない世界と見える世界の間にいる。
見える世界からでは気づけない事。
常識や固定概念では気づけない事。
そういう諸々を教えていただいている。

心についても、その一つだ。
「心は大切だ」
「心を磨きなさい」
「心で全てが決まる」
今までの固定概念だ。
特に精神世界では心を重視する。

  「15年目・22」
05/28 (水)

・・・心なんて、どうでもいいかもしれない。
これに気づいた事は大きい。
以前より、薄々は気づいていたのだ。
心の曖昧さ、日和見、身勝手、いいかげん。
そんな心が大切なんてなぁ・・・
何処かに、そういう思いがあった。

世の中の常識。
心は大切。
心は磨くもの。
心が一番。
・・・何か・・・違う。

心は小さくするモノ。
大人しくさせるモノ。
無くしていくモノ。
それには、あまり相手をしない事だ。

  「15年目・23」
05/29 (木)

心は自分自身だと思われている。
だが、心は自分を覆っている膜だ。
幾重もの服だ。
多種多様のパッチワークの服だ。

それらが少なくなった時、本来の自分が見える。
完全に無くすことは出来ないかもしれない。
それでも、一つでも脱げれば自分に近づく。
外側だけ見て、自分だと思ったら大間違い。

脱いでいくと、いろいろに気づく。
多分、裸になれば、他と大した違いは無い。
結構、自分と他は共通しているものだ。
他とは、人間以外も含むぜ。

  「15年目・24」
05/30 (金)

学校で習った生物学を思い出せば納得する。
生物は似ている。
多種多様であるが、似ている。
まして人科なんて、裸にすれば同じだ。

心という幻があるから、別に見える。
人種は同じなのに違うと勘違いする。
アメリカ人、フランス人、アフリカ人、アジア人。
勝手に人種が違うと命名して、殺しあう。
勘違いを認めても、殺しあう理由にならない。

何処で殺戮まで進んでしまうのか?
それは、心があるからなのだ。
すると、ワシよりもオッチョコチョイがいう。
「心が無くなったら、ロボットよ」
手塚治虫氏の作品を読んでみろよ。
心は存在全てに備わっていると知る。

  「15年目・25」
05/31 (土)

心が大切なのじゃない。
心の底にある扉が大切なのだ。
扉は他とつながっている。
扉は裸につながっている。

心は静めるのが大切なのだ。
磨くという表現は適切と思えない。
静めるのは・・・難しい。
止水明鏡の境地は名人しかできない。

静めるのは難しいが・・・
端にどけるのは、難しくない。
ロクデナシの心をそのままにしていいのだ。
使わなければいいのだ。
相手にしなければ、いいのだ。

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