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祈願・1
01/01 (木)

祈りと願い。
願いを祈る。 大きく広く深く念ずる事が祈り。
平和の祈り。
万人への祈り等。

願いはもっと個人的な希望。
病気回復、受験、商売繁盛・・・
あのコと付き合いたい・・・
宝くじ、当たれ・・・
どちらも弱く、不完全な魂から出る。
どちらも可愛い意識だ。

人間は・・・可愛い。
出来損ないだから・・・可愛い。
ワシも出来損ないには自信がある。
可愛いかなぁ・・・
五十半ばになるんだけど・・・

  祈願・2
01/02 (金)

神に祈りを捧げる。
神様にお願いする。
祈りも願いも神か神類似存在にする。
自分よりも遥かに高い存在にする。

まてよ・・・
お願いは人間にもするなぁ。
「か、金貸して。お願い・・・」
「お、お願い、一回でいいから」
ん?・・・何を?

人間相手であっても、自分の方が低いと認める。
相手にお願いを聞き入れる実力があると認める。
神でも人間でも、祈りや願いをするのは自分が弱いからだ。
自分が弱い事を自覚するのは、とても大切な認識だ。
自分が強いと思い込むとロクな事はしない。
争い、戦争、略奪、傲慢な意識から起こる。
自分が弱く出来損ないと知れば、ヘタな行為はしない。

  祈願・3
01/03 (土)

祈りの内容が崇高だと思われがちだ。
だが、内容などどうでもいい。
い、いや、どうでもよくは無いかもしれないが・・・
祈る、という他力本願がポイントだ。

要は自分じゃ出来ないから頼んでいるのだ。
そこをキチンと自覚する事が重要だ。
内容の綺麗事で誤魔化すのは偽善というものだ。
祈りは自と自よりも崇高な存在を自覚する事なのだぜ。

「世界平和の祈り」
内容にモンクはない。
祈りの行為にもモンクない。
だが、自分の弱さ無力を誤魔化す為の祈りじゃなぁ・・・。
祈られる方は呆れるかもしれない。

  祈願・4
01/04 (日)

祈りが崇高じゃない。
祈りの内容が崇高じゃない。
人間はそれほど崇高とは縁が無いと思う。
崇高なのは、人間より遥かに高い存在だ。

崇高じゃないけど、祈りの自覚があればマトモだと思う。
自分はナニモノかに頼る存在だと自覚するのはマトモだと思う。
祈りの出来ない人は傲慢だと思う。
自分の弱さ至らなさを自覚できないのは幼稚だと思う。

とはいえ・・・
神様に頼めばいいってもんじゃない。
ほとんどは自分が解決する問題だ。
あるいは、自分や同じ人間が解決する問題だ。
神様に頼る気持ちは理解できるが、間違いだろうなぁ。

  祈願・5
01/05 (月)

勘違いや固定概念がある。
「間違いは犯してはならない」
そんな事を実行できる人間はいない。
これは断言できるぜ。
人間は何度も間違いを犯す。
もちろん間違いの程度、濃度の修正は出来る。

神様は苦情処理役じゃない。
だから言っても無駄だと思う。
言うのは間違いだ。
だけど、言ってはいけないわけじゃない。
祈りや願いはドンドンする方がいい。

間違いを繰り返す事くらい何でもないぜ。
勘違いを繰り返さない人間も皆無だろう。
解決できなくても神頼みはマトモだと思う。
祈りや願いは上を向いてするからだ。

  祈願・6
01/06 (火)

上に向かって祈る。
自分が下だと自覚できる。
他に願う。
自分に力が足りないと知る。


心は強い。 そして、弱い。
いや、そういう基準じゃない。
多種多様な要素を混在させている。
だから、不安定になるのは当たり前だ。

心の弱さに焦点が当たった時。
何かに祈り、何かに願う。
歩くのは自分だが、手を引いてくれる存在を求める。
後ろから支え、押してくれる存在を求める。

  祈願・7
01/07 (水)

自分一人では生きていけない。
一人で生きられる程強くない。
他に頼り、偉大な存在に祈る。
その弱さの自覚が助け合いを生む。

身体が強い。
心が強い。
生き方が強い。
それ自体は個性の一つだ。

強いと弱さが解らない。
少なくても、解り難くなる。
時に薄情になる。
身体が強い時には、弱い人の辛さを理解し難いのだ。

  祈願・8
01/08 (木)

健康は求めるもの。
更に近づくものだと思う。
健康の別名が「幸せ」だ。
だが、通常は健康を身体と心に限定してしまう。
まぁ、その話は置いておいて・・・

身体や心に限った健康。
それでも、それに近づく生き方は、大きな土台になる。
だが、病弱な状態を理解出来ないなら歪んでしまう。
生きているのは自分一人じゃないからだ。
多種多様な状態の人や人以外のモノ達と一緒なのだ。

調和とは、溶け合うことだと思う。
調和の度合いが、生きる度合いに比例する。
生き甲斐は、調和が土台だ。
土台が無ければ台無し・・・
俗にいうアメリカンドリームは、実につまらん生き方なのだよ。
まぁ、解らなければそれでいいけど・・・

  祈願・9
01/09 (金)

祈る。
祈る内容の成就が大切じゃない。
成就はほとんど無い。
それぞれの祈りが成就するはずがない。
そんな事が起きたら、この世は破滅する。

多種多様な願いがあり、祈りがある。
相反する願いがあり、祈りがある。
だから祈れば成就するなんてありえない。
願えば叶うなんてありえない。
この世は多種多様が混在しているんだぜ。

ヒトラーも某アメリカ大統領も祈る。
どうぞ、我が国が永遠に繁栄しますように。
どうぞ、世界が我が国、我がモノになりますように。
同時に世界平和になりますように・・・
ね、無理があるだろ。

  祈願・10
01/10 (土)

祈りは自と自以上の存在との交流だ。
その存在へ近づく行為の一つだ。
近づく事は難しくない。
自の内に認めればいいだけだ。

自以上の存在に実際に近づくわけじゃない。
自と自以上は隔たりがある事を認めるのだ。
この世は有り難い事に、自以上の存在がある。
ただ、その事を認めるだけだ。

努力し、修行し、心や魂を磨く。
少しでも高い場所に上ろうとする。
それは差別意識。
その意識が生まれ、育つ事から目を背ける。
その思いは調和から外れる。
調和から外れる心や魂が磨かれるはずがない。
残念でした・・・。

  祈願・11
01/11 (日)

心や魂以外なら努力や修行すれば成果となる。
だが、心や魂はそういう構造になってない。
この世にある多種多様を認める。
自を観る。
他を認める。
高みに上る事を捨てる。
すると軽くなる。
皮肉にも、結果として、少しだけ様々が見渡せる。

世の中には魂を進化させようと努力する人がいる。
何をしても迷惑にならないなら好きにしていい。
だが、修行すると高いレベルの魂や意識体になると信じている。
どうして、そんな空言を信じるのかわからない。
多分・・・宗教組織や精神世界スキスキ人間の言葉を信じたのだろう。
「そんな事ぁねぇぜ」
2600年前にブッちゃん(仏陀)が言ったんだけどなぁ。

言葉を信じる者は、自分の足で歩かない。
自分で歩かない者達は、生命の時を無駄にする。
せっかく、この世に生まれた時間を無駄にする。
神は言葉を言わないし、個々に関わらない。
だが、創造主としてなら、こう思っているだろう。
「自分で歩くことを愉しみなよ」

  祈願・12
01/12 (月)

祈ること。
願うこと。
祈っても願っても成就するわけじゃない。
どんなに熱心に祈願しても、祈願で成就はない。

それでも祈り、願う。
だから人間は可愛いのだ。
だから愛おしいのだ。
未熟だから、愛する対象となる。

それでも祈らずにいられない。
それでも願わずにいられない。
生きていれば、そんな時は何度もある。
その時が、とても大切な時でもある。
気づくのは、ずっと後になるけど・・・

  祈願・13
01/13 (火)

例えば戦争時。
今現在、世界中で幾つもの戦時がある。
一般国民は不安や恐怖の毎日だ。
自分の力で即座に戦争が止む訳じゃない。
平穏な日々が来るのを、祈り、願うしかないのだ。

祈り、願う時のほとんどが厳しい状況下だ。
真剣に生きている時だ。
真剣に生きざるをえない時だ。
それは、幸せではない時が多い。

良悪や正誤で判断できない。
厳しいのは間違いない。
そして、時間が濃密なのも間違いない。
心が不安定で空回りを続けていても、大切な時だ。
後に大きく活かす事の出来る「時」となる。

  祈願・14
01/14 (水)

一見、何も生産しない行為。
祈りや願い。
心はオロオロしているだけ。
それでも、大切な時となる。
オロオロしている弱さを自覚できる機会だ。

心の強い人。
いや、心が強い人などいない。
心が強い時があるだけだ。
その時は周りが観えない。
自分が中心だと思ってしまう。

各種の成果はあがるだろう。
だが、成長したわけじゃない。
そこを勘違いしてしまう。
いわゆる「成功者」達。
つい、調子に乗って言う。
「人生とは、成功とは、心とは、法則が・・・」
でもねぇ・・・その人もつまづくんだよなぁ。
その時に、大切な気づきがある。

  祈願・15
01/15 (木)

心が弱くない人はいない。
誰でも例外なく弱い。
だから人として存在している。
人なら弱いのは当たり前なのだ。

何かの組織の代表。
弱みを見せられない立場。
見せられないことはないのだけど・・・
そう思い込んでしまっている。
例えば教祖の類・・・
大勢に説教したがる人達・・・
ちょっと可哀想な人達なのだ。

弱さやクダラナイ心を認める。
その時が気づきのチャンスなのになぁ。
素晴しい出来事が気づきじゃない。
その時に、自分の未熟さを認めた時が気づきとなる。

  祈願・16
01/16 (金)

祈り、願う。
もう、如何し様も無い。
如何していいか判らない。
思わず神に祈る。
これが祈りの本道だろうなぁ。

「思わず」祈る。
下手な期待もしない。
祈るより方法が無い。
自然と祈る。

自分に都合のいい成就を求めて祈るとは違う。
思えば叶う、と信じて願うわけじゃない。
「思わず」祈り、願う。
それは自分の願いじゃないのだ。
そういうのが、神に祈るという事なんだろうなぁ。

  祈願・17
01/17 (土)

神や神様は人だけを贔屓にしない。
まして個人の望みを叶えたりしない。
崇め奉られたりする事を期待もしない。
尊敬されたいなんて思うはずもない。
基本的には一生物に関わらない。

神に祈っても願っても成就はしない。
成就するのは、その人の力と運だ。
力はほとんど大した事はない。
努力や精進や修行しても、微々たるものだ。

運の影響は大きい。
運は縁により左右するようだ。
縁はその人に関わる全ての人や人以外のモノだ。
身内や友人はもちろん、社会的に親密でなくても影響する。
誰が、何が大きく影響するかは判らない。
運や縁は、人間では理解できない範囲なのだろう。

  祈願・18
01/18 (日)

社会的というのは人間の組織的な考えだ。
「努力は裏切らない」
「本人次第で道は開ける」
その部分も確かにあるだろう。
だが、もっと大切な事がある。

自は他に頼って生きさせてもらっている。
生かされている。
他は、何も高級な存在だけじゃない。
隣の人や見も知らない人。
ありとあらゆる動物植物微生物。
空気、水、土、その他モロモロ。

自は情けないほど小さな存在なのだ。
他に頼らなければ、一秒も生きていられない。
本人の努力で何でも出来るというのは傲慢だぜ。
そんな傲慢を「祈り」や「願い」が気づかせてくれる。
(努力や精進が無駄とはいってないぜ)

  祈願・19
01/19 (月)

人間社会の常識や道徳や倫理。
それは人間社会の意図に沿っている。
決してミミズやケモノや妖怪に当てはまらない。
努力や精進は自然界に当てはまらないのだ。

人間社会より優先する意識。
それは「調和」だ。
調和の基礎。
「一人では生きられない」という認識だ。
誰かに、何かに頼って生きる。

そして、僅かに他の為に生きる。
生きるのに受けたモノや事。
それに対して、他に役にたったモノや事。
圧倒的に、自分が為す事など僅かなのだ。
圧倒的に、他から生かされているのだ。
その認識が大切だと思う。

  祈願・20
01/20 (火)

祈り、願うのは弱いからだ。
自分は弱いという認識。
他も個々は弱いという認識。
だから助け合わずには存在できないという事実。
弱さ、はとても大切なのだ。

強弱に沿って勝ち負けがある。
いつの頃からか、勝ちが良いと思ってしまった。
当然、強いのが良い。
更に、勝てば正義、強ければ正しい・・・。
もう・・・メチャクチャ。

未だに、こんな事を平気で言う輩がいる。
本気で信じている人達もいる。
しかも、大勢・・・
人類の未来は暗いかも・・・
アホだけならいいけど、強さは弱さを犠牲にする。
困った人達だなぁ・・・

  祈願・21
01/21 (水)

強い事が良いと思い込む。
勝つ事が良いと思い込む。
自然界に強弱など無い。
勝負など無い。

時間やその他の条件内ではある。
ある条件の武道の勝負。
だが、それでさえも一時的なものだ。
ある条件下の強さも一時的なものだ。

例えば、ボクシングは強くても頭は弱い・・・
マラソンは強くてもギャンブルは弱い・・・
そのマラソンも一生強いわけじゃない。
諸々の条件下の一時に限定される。
強弱や勝負なんてそんなものだ。

  祈願・22
01/22 (木)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
平氏であらずば人にあらず、と元気だったのにねぇ・・・
源氏に負け、その源氏も惨めな終末・・・
強弱や勝負なんてそんなものだ。

勝ち組とか負け犬とか・・・
煽って商売する人達はいい。
そういう商売の方法もある。
面白がって、そういう表現を使うのもいい。
だが、本気でそんな愚かな事を信じるのはなぁ・・・

祈り、願った瞬間のある人はラッキーだ。
その瞬間に優しさの種をいただけた。
弱さの自覚は、優しさの種を生む。
種を育てるか、そのままにするのかは本人次第。

  祈願・23
01/23 (金)

祈り、願っても諸行無常。
本人も100歳くらいで死んでしまう。
それでも生きている事に行き詰る事がある。
生きてる限り、生きるのが生命の役目。
だから、祈り、願う。

一人では生きられない。
誰かの助けで生きていられる。
人間であったり、微生物であったり・・・
そして、何だか解らないが偉大な存在。
祈り、願いと、感謝は切り離せない。

祈り、願っても諸行無常だ。
成就しても、しなくても変わってしまう。
それでも祈り、願う弱さがある。
その弱さが、とても素敵で大切な種を秘めている。

  祈願・24
01/24 (土)

願いが叶う喜びがある。
祈りが通じる嬉しさがある。
成就することは少ないが、タマにはある。
タマにある事は、貴重な出来事。

期待しないで待ってよう。
人生、何が起こるか判らない。
いきなりラッキーだって起こりうる。
願いが叶う事だってある。
祈りが通じる事だってある。

でも、それは自分の力じゃないぞ。
自分の努力で成就するわけじゃないぞ。
いくら頑張ったからって、勘違いしないでね。
叶い、通じたのは、諸々の御蔭なんだぜ。

  祈願・25
01/25 (日)

祈り、願うが、結果は期待しない。
い、いや、期待もするけど・・・
大切なことは結果じゃない。
祈り、願う姿勢だ。
他に頼るという現実の認識だ。

他に頼らねばならぬ自分の弱さ。
それは誰でも同じ。
他も自分と同じく弱い存在という認識。
この世で強いのは神様くらいなものだ。

だから、お互い助け合わねば生きていけない。
個は、小さな一部でしかない、という認識。
調子に乗っている時は自覚し難い認識だ。
祈り、願いながら、人は存在が許される仕組みなのだ。

  祈願・26
01/26 (月)

祈願の仕組みや大切さはわかる。
理屈はわかる。
それでも成就の結果は欲しいよなぁ・・・
だって困っているんだもん・・・

成就の内容は其々だろう。
病気回復。
難門への合格。
特定異性の心を射止める。
仕事の完成。
あるいは、就職そのもの。

ワシはいつでも決まっている。
金が足りない・・・
ナサケナイけど、その能力が少ない。
仕事はできると思うけどなぁ・・・
お金に関しては、能力が働かない。
あるいは・・・縁が薄い・・・。
結果が欲しいよなぁ・・・
(今日は雑記に感情が入ってしまった・・・)

  祈願・27
01/27 (火)

願う相手が同じ人間の場合。
あるいは、人間に近い存在の場合。
願いを叶えてくれる事がある。
存在が高くなる程、他に干渉しない。
近い程、他に干渉する仕組みだからだ。

結果が優先して欲し時。
願う相手は人間がいい。
それも自分に近い程いい。
神様に頼んでも無視される。

頼れる身近な人間がいない時。
人間以外の身近な存在に頼む。
例えば、家守稲荷さん。
例えば、氏神様。
時には、御先祖様。
期待しないで頼んでみよう。

  祈願・28
01/28 (水)

生きるのは自分の足だ。
他に背負ってもらえない。
全てお任せの人生はありえない。
歩く(生きる)のは自分の足。

その事を自覚する程、生きている実感があるだろう。
だが、つい調子に乗りすぎる事もある。
自分一人で歩けると勘違いする。
歩くのは自分だが、一人で歩ける人もいないのだ。

いつでも、必ず、他のサポートがあって歩ける。
それは、弱ってみなければ解らない。
困ってみなければ解らない。
自分が(一面で)小さな存在であると知らなければ解らない。

  祈願・29
01/29 (木)

「困った時の神頼み」
安易な内容の言葉だと思っていた。
だが、神頼みには深い意図があった。
それに気づくか気づかぬかは本人次第。

いつでも同じだ。
神は何も答えない。
何も干渉しない。
その代り、関わると気づきのチャンスとなる。
神との関係は、そういう仕組みだと思う。
特別扱いは、どんな存在にもしないぜ。

あるいは・・・
常に助けてくれている。
常に答えていてくれている。
常に干渉してくれている。
どちらの表現でも変わらない。
もちろん、特別扱いは、しない。

  祈願・30
01/30 (金)

長い間の固定概念があった。
世界平和を祈る事。
世界制服を願う事。
同じだとは気づかなかった。
歴史をみれば明かだったのに・・・。
世界平和を口にし、戦争を行う・・・。

他の幸せを祈る事。
自の欲望を願う事。
同じだとは気づかなかった。
仕組みは、もっと深いところにあった。
気づくか、気づかぬか・・・

善悪や正誤や光闇の問題じゃない。
祈る事、願う事は扉だ。
内容は問題じゃない。
まだまだ欠陥品の人間の意識だ。
表面の善悪や正誤は最初から間違いだ。
大切なのは、祈願で気づくか気づかぬか。
この世は、面白い、仕組みになっているなぁ。

  祈願・31
01/31 (土)

エラソウに言葉を解説している。
祈願は気づきの扉だ、とかいっている・・・
祈願しても、しなくても同じだ。
生きていければそれでいい。

お願いしても叶えちゃくれないと知っている。
だが自分の行動とは一致しない。
ワシは言行不一致のオッサンだ。
行いは、深い意識より浅い意識が優先する。
ワシは軽佻浮薄を土台として生きているのだ。

ワシは毎日祈願している。
この仕事(プロ)になってから毎日。
朝起きて、自宅で一回。
治療院を開く時、閉じる時の二回。
諸々の神様や御師匠達の名前。
ご先祖様や氏神さまや縁のある霊達。
手を合わせ、般若心経と祝詞を口にする。

一日を宜しくお願いしている。
一日のお礼をしている。
祈願が叶うとは思っていない。
成就して欲しくて祈願しているわけじゃない。
願っているが、期待していない。
癖なのだ。
もう15年目だ。

祈願と感謝は同じだと思っている。
崇高な祈りじゃない。
立派な感謝じゃない。
遠慮せず、日々の小さな事を何かとお願いする。
ワシは根性無しだ。
気安めでいい。
神様や諸々に祈願しなけりゃ暮らせない。

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