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「無と空」・6
03/01 (日)

「こだわらない」とはどういうことだ?
執着しないから、苦しみが少なくなる。
苦しみは「こだわり」から生まれる。
苦しみを無くしたり、少なくする方法を示した。
経では「無」という字で表現した。

だが、そんな消極的な意味だけじゃなかった。
苦しみが無くなる目的だけじゃなかった。
ブッちゃんは、もっと明るい方法を示したのだ。
もっと楽になる方法として話したのだ。

こだわらない。
関心事が少ない。
あるいは無い。
そんな固定概念があった。
逆だ。
「こだわらない」と関心事が広がるのだ。

  「無と空」・7
03/02 (月)

関心は「こだわる」と狭くなる。
「こだわらない」と広くなる。
「関心」を「愛」又は「博愛」と置き換える。
「知」=「愛」でもある。
「知りたい」は「愛したい」の一面だ。

優れた人達と会った。
共通点がある。
こだわらない。
優しさが広い。

当たり前だったのだ。
「こだわらない」から「広く優しい」のだ。
「こだわらない」から「深く優しい」のだ。
初めて会うモノにも深く愛せるのだ。

  「無と空」・8
03/03 (火)

「こだわるなよ」
ブッちゃん(仏陀)は言った。
苦しみを少なくするだけじゃない。
自然な博愛心は暮らしを楽にする。
超優れたオッサンだ。
一石で幾鳥も得る方法を伝えた。

「こだわらない」
すると馴染んでしまう。
違和感が無くなる。
自分と違う意識と対立しない。
自分が無くなるわけじゃない。
対立、そして争いが無くなるのだ。

違うモノと馴染む。
それは、とてつもなく凄い能力だ。
そして、それは、誰にでも可能だ。
新たな能力を身につけるわけじゃない。
持っている「こだわり」を放すだけだ。

  「無と空」・9
03/04 (水)

ワシは心経で「無」を「こだわらない」と訳した。
だが、その時点では「無」が「愛」とは気づかなかった。
ワシは「愛」を使うのに躊躇いがある。
テレかもしれない。
某宗教関係者が多用するから、抵抗があるかもしれない。
「愛」を強調すると胡散臭くなる・・・

「愛」の固定概念があった。
美しい、素晴らしい、魂の浄化、等々。
正面から言われると・・・胡散臭い・・・
キレイ事しか言わない人は信用おけない。

愛とは「こだわらない」事。
こういう視点に気づいた時。
又もや、目からウロコが剥がれ落ちた。
ワシ・・・ウロコだらけの半人間だぁ〜

  「無と空」・10
03/05 (木)

「神を信じ、人を愛す」
故御師匠様はそう言った。
宗教(組織)は信じないが、神は信じる。
そうも言った。

ワシもそう思う。
神という存在や認識は、信じる以外に選択肢が無い。
人間の段階で何も言えない。
だが、宗教組織は人間だ。
宗教関係者は人間だ。
普通と同じ・・・
間違いや勘違いや陰謀や欲望の塊だ。

だから「人を愛す」と続く。
人は不完全で未完成で欠陥品だから愛すのだ。
人を信じるのは無謀。
だが、人を愛せぬのは不幸だ。

  「無と空」・11
03/06 (金)

好きな相手なら愛せる。
嫌いな相手は愛せない。
好きな相手や好きな出来事だけなら問題ない。
苦しみや悩みは好きじゃないモノとの摩擦だ。

相手に合わす。
自分に合わす。
どちらも難しいのだ。
それぞれに心があり、都合がある。
といって、無関係にもなれない。
だから悩み苦しむ。

「こだわらない」は無関係ではない。
関係を続けるためのスーパーグッズだ。
特に合わさなくても摩擦はおきない。
お互いが違っても摩擦にならない。

  「無と空」・12
03/07 (土)

「こだわり」は他だけじゃない。
自分の内でも苦しみとなる。
自分で自分を絞めているのだ。
こうしなくてはならない。
こうであるべきだ。

自分の内の心。
正しい心を贔屓する。
清らかさを求める。
そこには強い「こだわり」がある。
「こだわり」は苦しみを生む。
内容が正しくても清くても関係ない。
こだわれば、苦しむのだ。

自分の心を観てごらんよ。
正誤や正邪だけじゃない。
多種多様で矛盾するモノが混同している。
雑居、混交、乱交状態だ。
それが、事実なのだ。

  「無と空」・13
03/08 (日)

心をコントロールする。
それは支配することじゃない。
強い意志を持つことじゃない。
そんなことをしたら、苦しむだけだ。
心は統制されるのが嫌いなんだぜ。

基本は「こだわらない」事だ。
ブッちゃんは心経でそれも示した。
「無」という字で表した。
「こだわらない」は自他に通用する。
ということは、全てに通用するウルトラグッズだ。

ある意思に心を動かせ、というのは難しい。
根性のある人は出来るかもしれない。
プラス思考に、正しく、勇気をもって・・・
理屈では、そうかもしれない。
だが、心は理屈や理論で動かないモノなのだ。

  「無と空」・14
03/09 (月)

理性で心をコンロロールしようとする。
心の中には理性もある。
だが、人間の理性は顕在意識にある。
(自然の理性と人間の理性は一致してない)
心の大部分、源は潜在意識にあるのだ。
理性で動けるのは一部だけだ。

生命が心の源だ。
生命は(人の)理性で動かない。
生命は自然の摂理で存在している。
コントロールという概念から外れているのだ。

生命が最も良い状態。
それは力を抜いた時。
理性や感情から離れた時。
それを「無」と表現した。
意味は「こだわらない」だろうな。

  「無と空」・15
03/10 (火)

ブッちゃん(仏陀)は心のコントロールを示したのじゃない。
もちろん理性を強調するはずもない。
勘違いされやすいが、悟りが目的でもない。
楽に生きて欲しいから伝法したのだ。
生きとし生けるモノ達、幸せに生きて欲しいのだ。

その為の最高最適のグッズ。
それが「無」というやつだ。
誰でも使えるグッズだ。
超優しい偉人だぜ。
差別などしないさぁ。

「得る」のなら条件がいる。
例えば理性とか、能力とか。
だが「手放す」には条件がない。
誰でも基本的には可能なのだ。

  「無と空」・16
03/11 (水)

何も無い状態にする。
そんな事は不可能だ。
ブッちゃんは無理を言わない。
だから「無になる」わけじゃない。

「無」ってのはよぉ
「こだわらねぇ」ってことさ。
多少はしょうがねぇ。
「強く、こだわらねぇ」
これなら、出来るだろ。

意見が違う。
思いと違う。
予想と違う。
まぁ、違うのは当たり前かぁ。
こだわらなけりゃ、何とか方法はあるさ。

  「無と空」・17
03/12 (木)

「こだわり」は幾つもある。
一つ一つを捨てていく。
時には、まとめて捨てることも出来る。
中々捨てられない「こだわり」も有る。

有っても当たり前。
捨てなけりゃいけないわけじゃない。
力を抜くと、こぼれ落ちる。
力や頭で捨てるわけじゃない。
楽に気楽に自然に、こぼれるのだ。

少しづつ「こだわらない」部分が増える。
その分、苦しみや悩みが少なく小さくなる。
苦しみや悩みは解決しなくてもいいのだ。
自然に小さくなり、自然に消えるのだ。

  「無と空」・18
03/13 (金)

ブッちゃんは正しい生き方を示したわけじゃない。
楽に生きられる方法を示したのだ。
それは個であり、自の範囲だった。
ところが、それだけじゃなかった。
ワシは個と自の範囲しか観ていなかった。

ブッちゃんは全体を観ている。
全体は個と自を含む。
そして、自と他を全体として話した。
自と他の関わり方。
ここに、もう一つの大きな意味があった。

「無」は個や自だけじゃない。
他との関係に大きな意味を持つ。
それが・・・いわば「愛」ってヤツだ。
「無」は「愛」の側面であり、方法でもある。

  「無と空」・19
03/14 (土)

ワシは「愛」ってヤツは個の内のモノだと思っていた。
社会通念や愛の説明も同じだ。
心の中、あるいは魂の土台。
だが、愛ってヤツは、そんな小さなモノじゃない。
個人の心や魂にある、というのは一面だ。

愛も持つ。
愛を育む。
愛が生まれる。
こういう表現で固定概念化していた。

自と他の間にあるもの。
そういえば、嘗てワシは独善辞書を書いた。
その中で「愛はアイダ」という迷言をいっていた。
ワシの書くものはワシの中に無いことが多い。
手が勝手に書いてしまうからだ。
愛はアイダ(間)・・・
何年も前に、指摘していたのに・・・

  「無と空」・20
03/15 (日)

愛は間(あいだ)。
何かと何かの間に存在するモノ。
人と人。
人と人以外のモノ。
自と他。

心は多種多様なモノを内蔵している。
宇宙にある星のようなものだ。
通常はその表面のある思いや考えを取り出している。
だが、相反する思いや考えも同居しているのだ。
更に、自分で意識できない思いや考えもあるのだ。

そういう多種多様な思いや考えの間にあるもの。
それが「愛」ってヤツだ。
好きな相手だけにあるわけじゃないぜ。
愛は好きとか嫌いとか関係ないのだ。
何しろ、全ての間にある。

  「無と空」・21
03/16 (月)

全ての間に存在するなら・・・
愛=神という図式が成り立つ。
「神はいつでも、どこでもアナタの側にいます」
教会などが言うセリフも、その通りなのだ。
ただ・・・認識は浅いと思う。

キリちゃん(キリスト)が言った。
キリちゃんは愛を知っていたからだ。
「こだわらない」事が愛だと知っていた。
言葉として「神」を使った。
だが、神は誤解されやすい言葉なのだ。

ブッちゃんが「無」を使う。
やはり誤解されやすい。
一般に話をした時には「こだわらない」と言ったろう。
キリちゃんのあの姿は「こだわらない」姿だ。
ヒゲや髪や身なりにかまわない。
「だらしなさ」と紙一重・・・。

  「無と空」・22
03/17 (火)

愛は全ての間に存在する。
だが、それが働くのは意思による。
有る、けど動かない。
神はいる、けど動かない。
存在する事と動く、働く事は別なのだ。

誰でも愛の人。
人だけじゃない。
生物、非生物、非物質も含める。
ようは・・・全て愛ともいえる。
全て神ともいえる。
全てに神性がある、とはこういう意味だ。

聖なるモノがあっても動かない。
同時に邪なるモノもあるのだ。
どちらも通常は動かない。
動かすのは、そこにある意思だ。

  「無と空」・23
03/18 (水)

「愛しなさい」
そんな無責任は言わない。
愛の形さえ解らないのに・・・
宗教組織は無茶を言う。
知らないからだろうなぁ・・・

愛を動かす意思。
具体的に伝法した。
八っつあん、熊さんに解るように。
鳥やケモノに解るように。

それが「こだわるなよ」だ。
字で表したのが「無」だ。
難しいことは言わない。
出来ないことも言わない。

  「無と空」・24
03/19 (木)

広く深く優しい関わり方。
それが「こだわらない」って方法だ。
気取っていうなら「愛」ってヤツだ。
ワシはこれに気づくまで数十年かかった。

「愛」を小さく狭くとらえていた。
「こだわらない」を個人の生き方ととらえていた。
同じモノだと気づかなかった。
同じモノだという例は目の前で見ていたのに・・・

故御師匠様もそうだった。
「こだわらない」生き方だった。
それは、とても愛深き接し方だった。
こだわらないから、愛深き生き方となる。
同じモノだから、当たり前だったのだ。

  「無と空」・25
03/20 (金)

様々な条件にこだわらない。
だから差別しないで関われる。
職種、性別、年齢、貧富はもちろんだ。
人間と人間以外のモノ達。
生きているモノとそうでないモノ。
故御師匠様は差別しなかった。
区別だってアヤシイものだ。

どんな相手にも普通に接する。
それが、どんなに素敵な事か。
それが、どんなに凄い事か。
目の当たりにすれば感動する。

少しでも近づきたい。
同じ様にできなくても近づきたい。
ワシはそう思った。
なんて素敵な生き方だろう、と思った。

  「無と空」・26
03/21 (土)

もともと素質はあるのだ。
ワシは無節操の素質はあるのだ。
「こだわらない」と「無節操」は似ている。
本質の違いなど、どうでもいいじゃないか。
似ていれば、近づけるさ。

ワシが愛深き人だとは思えない。
だが、節操が薄いとは思える。
相手が誰でも、あまり影響ない。
超美人でも人妻でも超熟女でも・・・
でもなぁ、20代の若ぇネ〜チャンは苦手だ。
10代のネ〜チャンはもっと苦手だ。
毛虫と同じくらい苦手だ。
(結構好き嫌いがあるじゃん・・・)

何処かの社長や先生。
威張った政治家、芸能人。
どうせ無関係だと思っている。
まぁ、ポーズとして政治家には辛口だ。
だが、本当は誰でもカボチャと同じだ。

  「無と空」・27
03/22 (日)

本妻愛人人妻にこだわらない。
犬猫妖怪幽霊にも(それほど)こだわらない。
政治家詐欺師ヤクザにもこだわらない。
依頼されれば、誰でも同じだ。
ワシは氣功中(仕事中)だけは、無に近い。

だからこそ、依頼されなければ手(氣功)を出さない。
無節操だが、デタラメではない。
ワシの生き方がある。
こだわりじゃないが、プロとして生きている。

多分・・・愛深き人達は24時間だろう。
365日だろう。
誰にも、どんなモノにも、見えないモノにも同じ。
こだわらず、同じく関わっているのだろうなぁ。
ワシには、もちろん出来ないし、そこまでするつもりもない。
仕事中(氣功中)だけで充分満足している。

  「無と空」・28
03/23 (月)

「愛する」を狭くみていた。
愛する対象に、特別な「何か」を寄せる。
つまり愛する相手には、何らかの「こだわり」を持つ。
愛する人には、愛さない人と差別する。
愛する人には贔屓する。

ところが・・・
「無」が「こだわらない」で「愛する」行いだ。
愛する相手には、何も特別な事はしない。
というよりも・・・
「こだわらない」で関われる相手が「愛する」対象となる。
ワシは目からウロコ状態だ。

今まで「愛する」と思っていたのが浅いと知った。
それも「愛」かもしれないが、浅い愛だ。
何も特別が無い行い。
それが、深く広く高い「愛」なんだなぁ。
い、いや、当たり前の「愛」なんだな。

  「無と空」・29
03/24 (火)

キリちゃん(キリスト)が言った。
「全て愛しなさい」
生真面目な弟子達はそのまま伝えた。
そのまま教会が教えとした。

愛の意味や内容を理解せずに伝えた。
だから、ほとんど無意味な教えとなった。
「全てを愛する」
固定概念の愛で、それを実行できる人はいない。
無理やり実行に移そうとする人達はいる。
でもなぁ・・・病気になるぜ。

キリちゃんは「こだわらない」実行者だ。
だから出来る。
「全て、いいかげんにやろうぜ」
これなら、意味が通じる。
実際は、そう言ったんじゃないかなぁ。

  「無と空」・30
03/25 (水)

まぁキリちゃんの言葉は誤解されやすい。
でもメンドウクサガリ屋のキリちゃんだ。
いちいち説明しなかっただろう。
理解してもらえる事にも「こだわらない」
布教なんて思ってもいなかったろうな。

「無」の実践者。
ブッちゃんやキリちゃん。
だから愛の人。
だから無の人。
だから、こだわらない人。

ワシ流の表現なら、いいかげんだ。
デタラメじゃないぜ。
いいかげん。
やわらかく、調和している姿だ。

  「無と空」・31
03/26 (木)

無の話が続いた。
つ、つい、説明してしまった。
ワシは未熟だなぁ・・・
本当はどうでもいいのに・・・

題に空も書いた。
ならば、空についても書こう。
ついでだ・・・。
無と空は深くつながった愛人同士。

ワシは心経の解説をした。
無を「こだわらない」。
空を「いいかげん」と訳した。
だが、無が「愛」の一面だったのだ。
ならば空にももう一つの面がある。

  「無と空」・32
03/27 (金)

「いいかげん」だから「こだわらない」
空はこの世の仕組み。
無は自分の生き方。
この世の生き方をブッちゃんは伝えたのだ。

正しい生き方を伝えたのではない。
楽な生き方を伝えたのだ。
苦しみが少なくなり、あるいは無くなる方法だ。
それが「無」という生き方だ。

なぜ「無(こだわらない)」という生き方か?
それは、この世の仕組みが「空(いいかげん)」だからだ。
空と無はお似合いの愛人同士。
(夫婦とは違うぞ)
束縛も契約も無いけど、深く理解しあえる間柄だ。

  「無と空」・33
03/28 (土)

その「無」が「愛」だとバレた。
ならば「空」も正体を明かそう。
「いいかげん」の正体だ。
「愛」に匹敵する正体だ。

「空」は、この世の仕組み。
「いいかげん」が、この世の仕組みだ。
別名を「調和」という。
「空」は「調和」のことなのだ。

「愛」は、とてつもなく大きい。
深くて、広い。
あるいは、高くて、厚い。
とても一面だけで説明しきれない。
アリが象を説明するように。

  「無と空」・34
03/29 (日)

愛とは○○だ。
よく聞くセリフだ。
だけど○○だけじゃない。
人間の心や体や魂も含むが、もっと大きい。
簡単に○○だぁ!と決め付けられない。

「調和(空)」も同じだ。
固定概念の調和では説明できない。
自然と置き換えてもいい。
生命と置き換えてもいい。
その現れ方は「いいかげん」だ。

自然は「いいかげん」なのだ。
生命は「いいかげん」なのだ。
決してデタラメではない。
そして、窮屈な法則にも縛られてない。

  「無と空」・35
03/30 (月)

「空」という概念。
この世の仕組み。
それは決して「法則」ではない。
「法則好き好き人間」には不満だろうが・・・

何かに気づく時がある。
それは、一つの扉なのだ。
それなのに、全体を観たと勘違いする。
こ、これは!○○の法則だぁ!!!

冷静になってみよう。
確かに人間の段階で理解できる法則がある。
だが、それを人智を遥かに超えたモノに当てはめるかぁ?
この世とは、人智を超えているのだ。
自然や生命や神も超えているのだぜ。

  「無と空」・36
03/31 (火)

人智を超えた相手の理解の仕方。
人間の段階での理解の仕方。
それは「決めつけることが出来ない」という事だ。
当たり前なんだなぁ・・・

人間の法則は当てはまらない。
一部しか理解できない。
ワシ流の表現では「いいかげん」だ。
ワシは「決めつけられない」と表現した。
単に、当たり前の事をいった。

この世界は、常に変化している。
そして、常に安定に向かおうとしている。
変化と安定の同棲生活・・・
それは「調和」という生活方式だ。

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