11年5・6・7月のコラム          コラム9目次に戻る
迷解剣客商売・1〜77        母のこと
迷解剣客商売 5/01〜7/25

  

小兵衛・60歳

25歳・大治郎

三冬

弟子

小兵衛・66歳




    はじめに

大作家の作品解説をするなど無謀だ。
自分の無知無能無恥を曝す事だ。
だが、自分の愚かは今に始まったわけじゃない。
隠す意味もないし、隠しきれない。
笑われるか、相手にされないだけだ。
まぁ、他人に迷惑をかけるわけでもないし・・・

ワシなどがモノを書くのは恥をかくのと同じだ。
恥は一生涯のパートナーでもある。
恥を読んでも眠くなるのがオチだ。
ところが、優れた人がモノを書くと目が覚める。
感動する。
時には、至福さえ味わえる。

池波正太郎氏の「剣客商売」はワシの目を覚ました。
感動させてくれた。
感心させてくれた。
読んでる時は、至福であった。
で、
つい、迷解説をしたくなった。

非常に個人的な解釈です。
勝手な感想です。
ネゴトです。
それでも、陶酔ぎみの解説です。
関係者の皆様の失笑はあっても怒りは無いと思います。
どうぞ、迷解説お許し下さいませ・・・

では、概要から。
剣客商売(けんかくしょうばい)は、池波正太郎氏による時代小説。
1972年1月から1989年7月まで長期で連載された。
無外流の老剣客、秋山小兵衛(あきやま こへえ)が主人公。
もうすぐ60歳になるところから物語は始まる。
40歳年下の妻おはる。
生真面目一本の息子、大治郎。
田沼意次の妾腹の娘で女剣士、三冬。
その他魅力的な登場人物多数。

安政六年(1777年)からといっても、日本史に疎いよなぁ。
時の将軍は十代家治。
有名な暴れん坊将軍は八代吉宗だ。
武士(もののふ)という存在が腐り始めた時代でもある。
それは、金が世の主人公になり始めた時代でもたった。
剣の修行、剣の道を生きる剣客が生き難い時代になっていた。

ワシは節操の無い文字中毒者だった。
何でも読む。
マンガも新書も変わらない。
当然SFもメルヘンも社会派というのも同じ。
(恋愛小説は苦手だ。恋心が理解できない)
だが時代小説はほとんど読まなかった。
何故か、氣が合わなかったみたい。

それが、今回ハマった。
最初は文体に惚れた。
余計な飾り無しで、スッキリしている。
何よりリズムがある。
読みやすいのだ。
そして、間が絶妙。
しかも、カッコイイ。
文体がカッコイイのだ。

セリフも簡潔でカッコイイ。
主人公だけじゃないぞ。
おはるの「あい」という返事などとても可愛い。
小兵衛に「○○だよう」と言うところもいい。
40歳年上の名人剣客に向かって自然体なのだ。

ハマった理由は幾つもある。
登場人物に生命が感じられた。
小説内で生きているのだ。
これは、小説などで時々おこる。
登場人物が勝手に生命をもってしまう。
作者の創造から離れて動き出す。

その証拠の一つが題名だ。
もちろんワシ流の独善解釈だ。
そもそも「剣客」と「商売」は対極な道だ。
それを「剣客商売」とした作者。
名人の秋山小兵衛に剣客と商売の融合をさせようとしたのだろう。
第一巻には、それらしい言葉が幾つもある。

ところが、物語が進むにつれ商売と離れる。
商いの道の替わりに、人の道が融合する。
人の道といっても、道徳教育的なものじゃない。
人の道は、矛盾に満ちた生きている道だ。
それが、名人から語られるから深いのだ。

本編16巻からなる「剣客商売」。
だが剣客商売らしき部分はほとんど無い。
道場経営に触れる部分もあるが、題名と程遠い。
なにしろ息大治郎は純粋な剣客だ。
商売意識は無い稽古を指導する。

小兵衛にしても商売はしない。
しなくても充分なのだ。
強いていえば、金の使い方が上手い。
サラリと綺麗に使う。
気持ちよく、気前良く使う。

もしかしたら「仕事人」のような構想だったのかもしれない。
名人の小兵衛や大治郎なら、それなりの哲学があろう。
それに沿った「仕事人」なら「剣客商売」という題名もうなずける。
大名などのお抱え剣客には向かない小兵衛だ。
(注:ここでは金で人を斬るのが仕事人としている)

登場人物が勝手に動き出す。
自分で性格を変えていく。
最初の設定から変化するのだ。
題名は変わらないから、ズレが出てくる。

剣客という命がけの修行の道。
商売という何かを売って商いをする方法。
この物語は、そのどちらからも外れていく。
そして、魅力的な登場人物の生活の場が描かれる。
その底にある、哀しい、嬉しい、人の複雑な心が描かれる。

魅力。
それは、生きている不可思議さ。
解らないから魅力がある。
生命力を感じる部分。
生命の活き活きが魅力となる。
生命の活性時、自他共に魅力が溢れる。

この本は再度、あるいは再再度読み返す容量がある。
一度では気づかなかった魅力が発見できる。
そして、登場人物がどう変わっていったか。
単純に、成長した、なんて浅い物語ではない。

人が歳を重ねる。
いろいろな体験をする。
矛盾に満ちた出来事に出会う。
矛盾な心に出会う。
矛盾な自分の心を見つける。

生きているんだなぁ。
そう思える。
矛盾や不可思議や辻褄に合わぬ人だと知る。
すると、生きている事が、少し理解できる。
未熟な人の世を、少し認める事ができる。

第一巻の「女武芸者」で三冬が登場する。
この章の中で秋山小兵衛は正月を迎え60歳になる。
昔は数え年だから、正月に全員が歳を重ねるのだ。
19歳で小兵衛に手を出された、おはるも20歳に。
小さな道場主になったばかりの息子、大治郎は25歳。
田沼意次の妾腹の三冬もおはると同じ20歳だ。

小兵衛はたった一人の子、大治郎に言う。
大治郎も剣客の道を歩み、旅から帰ってきたばかりだ。
「実は、な。このごろ俺は剣術よりも女が好きになって・・・」
40年下のおはるに手をつけた事を正直に話す。
だが、生真面目剣客で童貞の大治郎は理解できない。
門下生がいない道場で、一日中剣を構えて立っている男だ。

同じような生真面目女剣客の三冬も処女。
陰謀で危ないところを小兵衛に助けらる。
小兵衛に魅力があるとはいえ、三冬も小兵衛に恋をする。
もちろん、それが底の浅い恋とも気づかぬ。
だが、おはるは女の勘で三冬を嫌うのだ。
早くも第一章あたりから、作中人物が生命を持ち始める。

技の道がある。
通常は導く師匠がいる。
ただ技を教わるなら、先生という。
師匠は道に導くから、教わるだけじゃない。
自分から師匠のようになりたい、と自発がある。
ある意味、師匠の言う事は絶対でもある。
解らなくても、そのまま受け入れられる存在だ。

ワシにも御師匠様がいたし、いる。
二人の御師匠様に導かれた。
ただ、残念な事に、ワシは不良品だった・・・
結構、独善解釈を平気でしている。
まぁ、不肖の弟子をもったのは不運と諦めて欲しい・・・
不測不慮不条理があるから、この世が成り立っているらしい。
全て法則通りなら、あの世(波動のみ世界)だけで充分だ。

大治郎にとって父小兵衛は師匠である。
父親と師匠を比べたら、師匠が優先する。
だから言葉使いを含めて、小兵衛に絶対信頼を置いている。
男と男、剣客と剣客。
小兵衛も師匠として大治郎に接してきたのだろう。

ところが、この歳になって大治郎を息子として観る割合が増えた。
剣の名人が、普通の人の領域に入ってきたのだ。
大治郎も剣客としては名人だ。
だが、人の心の機微や矛盾や不可解は素人だ。
表だっての保護もしないが、父親としての気持ちを自覚する。

名人は一つの道を極める。
道の途中までは自分しか観ていない。
自分にこだわっていては、その先に行けない。
名人クラスは、自分を離れる事を行える。
そうして、果てしない道に踏み出す。
有限の人間に到達はできないが、離れると観える。
自分を離れて道を観ているから、名人という。

名人が他の領域に入る。
やはり自分を離れて観る事ができる。
すると、イキナリ本質に迫ってしまう。
一芸に秀でると、多種もタダモノでなくなるのだ。
この作品は、そういう深さ面白さがある。

人の世の不可思議さや矛盾や危うさ。
それらを含めて、人の世の面白さを表す。
面白さ愉しさに、人の性と食が大きい。
池波氏のエッセイでも触れているらしい。
(まだ読んでない・・・)

          上に


    小兵衛・60歳

第一巻から順に解説してみよう。
最初の章で大治郎の食事が出てくる。
朝も夕も根深(ネギ)汁と大根の漬物だけ。
当時の風俗もよく描かれている。
通常は一日二食。
茶がなければ、白湯が普通だ。

食事は近くの百姓の女房がしてくれる。
ある時、ネギの替わりにタニシが入っていた。
思わず「うまい!」と声が出る。
寡黙な剣客の大治郎が感激するのだ。
麦飯とタニシ汁を交互に口に運ぶ純朴な男。
生命力溢れる若者に食べる幸福感が漂うのだ。

今の日本の食事を考えさせられる場面だ。
食事から得られるモノは多く大きい。
それは見た目の贅沢とは違う。
見た目は麦飯とタニシ汁と漬物だけだ。
だが、読んでいるだけで、羨ましくなる。
もちろん、人一倍頑健な身体とスタミナである。

剣客は生活の全てが剣の修行でもある。
食事も当然修行でもある。
飯も汁も汁の実も漬物も、しっかり噛む。
噛んで、噛んで、唾液化するまで噛み潰す。
だから、通常の食事時間は長い。
そして、しばらく静かに動かない。

とはいえ、美味しくいただくのは基本でもある。
全て美味しくいただくように工夫する。
しっかり身体を動かして、腹を空かせる。
空腹に勝る御馳走はないのだ。
そして、ゆっくり口で長く味わう。
長く噛むほど、美味しさは増える。

小兵衛の嘗ての弟子でもある御用聞きの弥七も主要人物。
小兵衛に稽古をしているか問われて
「起きてから寝るまで、手前の勘を磨いでおります」
「女を抱く時の、差す手引く手も剣術の稽古だと教わりました」
もちろん教えたのは小兵衛である。
日々修行の弥七も、人が練れている、のだ。

一人前(プロ)になる前の稽古。
同じ質をプロ側では数分の一でできるようになる。
まぁ、五分の一程度にはなる。
10時間の稽古は2時間でこなせる。
だが、それはプロとしては準備段階だ。

それまでは共通の稽古や練習でもある。
プロとしての研鑽、修行はオリジナルだ。
教わった技を土台にはするが、自分用に工夫する。
そして、新たな創意を常に怠らない。
プロから先は独自の道を歩む。
そうして、やっと二流へと進めるのだ。。

この段階からは、他への気配りが重要になる。
それまでは、自分一人だけ懸命に稽古すればよかった。
だが、無人島ではプロといえない。
他と交流し、影響しあう段階になる。
他の気配り、気遣い、気読みが必要となる。
それに合わせるのか、交わすのかは自由。
だが、自分勝手では向上できないのだ。

日々研鑽。
プロなら当然だ。
だが、それでは一流ではない。
培った技(心技体含む)が自分に適う。
ある意味、自分だけの技となる。
そして、他のプロが認める存在でもある。

ここに到ると、技は自然体となる。
自然体だから、生活全てに技が反映される。
あるいは、生活全てが技の為にある。
呼吸する、食事すると同じように技がある。
一流とは、そういう域にいる人だと思う。

一流から、更に進む。
名人という世界がある。
名人は、他の分野の名人と共通の世界に入る。
技から離れた人達だ。

一つの道を突き抜ける。
それが名人。
突き抜けるのだから、離れてしまう。
ワシは、中々気づけなかった。
道にこだわっていたのだ。

アーユルヴェーダという哲学がある。
古代インドの総合学問でもある。
人生の総合的なマニュアルでもある。
その一部に医学もあるが、本来は一生の哲学だ。
ワシはアーユルヴェーダ医師のクリシュナ先生と縁を得た。
そして、その一端に触れた。
い、いや、一端の超極微小部分だ。

青年時、懸命に学び働く。
壮年時、財(金だけじゃないぞ)を成す。
そして、最後の章だ。
「全てを捨てて、旅に出る」
それまで培った全てを捨てる。
ここに、シアワセになるヒントがあった。
それは、名人と同じ生き方でもあった。

名人は道にこだわらない。
ワシは名人じゃないから解らなかった。
道を遥か遠くまで行けば名人になると思っていた。
道を外れるから名人になるとは思わなかった。
なんて、この世はヒネクレているのだろう。

自分を離れるとは、道も離れる事になる。
気づけば当たり前だが・・・
だから、名人は結構いるのだ。
名人の多くは一つの道を極めて変わる。
だが、道にこだわらなければ誰でも名人になるのだ。

名人とは、シアワセに生きる術を持っている人。
それは、人の世の不可思議さを認めている人でもある。
そして名人も、辻褄の合わぬ人の心を持っている。
解らぬ事を知っているから、名人なのだ。

そうして読むと小兵衛だけじゃない。
この物語は、結構名人が多い。
あるいは、名人に近い人が多い。
名人に近づくと、人が練れている。
生き方、考え方が柔らかい。

底が優しいのも特徴だ。
そして、何より生きる事を愉しもうとする。
きっと、笑顔が多いだろう。
ワシが惹かれた理由も、そこにあるようだ。
それらは生命力が活性している証拠だ。

まだ一途に生きる段階の大治郎や三冬も可愛い。
小兵衛という中心人物に影響され、次第に変わっていく。
大治郎が蕎麦屋で酒をたしなむようになっていくのだ。
人の心を考えて、簡単に白黒つけなくなっていくのだ。
人が成長する、というのは、柔らかく変わる事かもしれない。

名人になるとは、意義があるのだ。
個人的な趣味の問題じゃない。
技が飛び抜けていても、個人的なものだ。
一流になっても、意義はない。
だが、名人は意義がある。

生きているだけで、周りが染まる。
柔らかく変わる。
生命の活性、賛歌が起こる。
周りの生命を応援する。
名人は、他の生命を応援する存在だ。

名人になるのも、わるくない。
ワシはそう思った。
思ったが、思いは長く続かない。
もちろん、実力などあるわけがない。
根性無しの名人なら、なれると思ったのになぁ・・・

息大治郎は一流の段階だ。
小さな道場を掃除するにも、動作と呼吸を合わせる。
掃除一つが立派な稽古になる。
稽古が面白くてたまらぬ段階でもある。
(第二話・剣の誓約)

動作と呼吸の一致は練習により身に付く。
ある意味、誰でも身に付く。
三流でも四流でもプロなら当たり前だ。
三位のもう一つ、イメージで伸び代が変わる。
三位とは、動作(調身)、呼吸(調息)、イメージ(調心)。
三流は三流の範囲のイメージ。
二流は二流のイメージ。

名人は・・・
イメージさえもつかわないだろう。
離れて、放してしまっているから。
それでも、生活全ての動作と呼吸は一致している。
それらは、自然体となっているからだ。
嘗て小兵衛と竜虎とまで称えられた嶋岡礼蔵。
最後まで一流の剣客として道を歩んだ。
剣客の最後は命のやり取りから逃れられない。

小兵衛はある日突然道場を閉める。
剣客の道を辞めてしまうのだ。
剣客の道から外れてしまうのだ。
「剣より女体が好きになって・・・」
修行の旅から帰ってきた息大治郎に言う。
名人になってしまったからだ。

小兵衛の師、辻平衛門もそうだった。
無外流という真髄がそうであるのかわからない。
ある日突然宗家としての道場から隠遁する。
地方に飄然と出て行ってしまうのだ。
「お前ら、あとは好きなように生きろ」
師も名人になってしまったのだろう。

まだ一流の段階の大治郎には理解できない。
旅先での事件に巻き込まれても、解決法が見えない。
自分の腕なら一流だが、一流では解決の道が見えないのだ。
小兵衛なら、自分がしてよいことと、しなくてよいことが判る。
「年をとるとな、手足がきかぬ。
そのかわり、世の中をみる眼がピタリと決まる。
思ってみなかった気楽さがあるものよ」
名人は、無駄な動きが少なくなるようだ。


         上に         

    25歳・大治郎


大治郎は恩師嶋岡礼蔵の遺髪を収めに大和の国(奈良)へ。
その帰り道、仇討ち騒動に巻き込まれる。
一応の決着がついて、小兵衛に報告する。
そして、自分の行動についての意見も聞く。
父というより、剣と人生の師匠なのだ。
小兵衛「ふうん、やるねぇ、お前も・・・」
大治郎「恐れ入ります」

そもそもの発端はオンナの心だ。
ここで、オンナという不可思議な生きものの一端を語る。
一方的に熱を上げていた男を、結婚してからも忘れられぬ。
夫に抱かれている時も、夢中で男の名を口走る。
夫は不倫を疑い、いつも男(部下)に辛く当たった。
まぁ、妻が夢中で口走るんだもの、夫も疑うわな。
元々男性は根性(心)が狭い。
上下関係や利権関係があれば、結構意地悪するようだ。
で、キレた男が上司を斬っちゃった・・・

惚れた男が敵(かたき)となり、仇討ちに出た妻。
自分が発端だけど、武家社会はそういうものだ。
でも義理の弟(夫の弟)と一緒の旅でデキてしまう。
でも、やっぱり、抱かれると夢中で敵の男の名を・・・
あ〜あ・・・少しコントロールを覚えればいいのに・・・
妻の皆さんも注意しましょうね。
童貞の大治郎には、そんなオンナの不可思議さが理解できない。
小兵衛「そうさ。剣術よりも、むずかしいぞ」

その場で、今度は小兵衛が切り出す。
かねてより、おはる(40歳年下)に結婚を迫られていたのだ。
「おはると夫婦の盃をかわしたい。いいか?」
「そ、それは、父上の好き勝手に・・・」
「おはる、大治郎が許してくれたぞ」
真っ赤になった、おはる「ありがとうございます、若先生」
秋山大治郎、憮然としている。
こういう情景が池波作品のもう一つの魅力なんだなぁ。
(「春の鈴鹿川」より)

小兵衛と嘗て試合をした牛堀も一流の剣客だ。
それ以来、小兵衛と親しくしている。
剣の道は人の道、というのが無外流の真髄らしい。
名人の小兵衛は、それを感じる多くの人から慕われる。
人の道だから一律ではない。
無外流は、個々の個性を活かす剣術であり道だった。

宗家の辻が飄然と道場から去った時の後始末。
竜虎といわれた小兵衛も嶋岡も他の高弟もわきまえていた。
例え宗家の道場が無くなっても、無外流の教えを貫いた。
体裁や損得で立場にこだわるようでは、真髄は消えてしまう。
それぞれが、自分をわきまえた決定に師の辻は満足していた。
結果として、宗家の道場は閉鎖となった。

牛堀「おれも秋山さんをみていると、剣の道を外したくなる。
しかし、あの自由自在、融通無碍の境地にはなれぬ」
一流から名人へは、こだわりから放れて進める。
そんな小兵衛でも、一流になった大治郎を心配してしまう。
大治郎暗殺の話を聞いて心が動くが、本人には伝えない。
優しさからの心の弱さは、人の強さかもしれない。
(「まゆ墨の金ちゃん」より)

ある時、鰻売りの又六が強くなりたいと大治郎にお願いする。
悪いヤツから、売り上げを脅し取られているのだ。
大治郎は小兵衛に相談し、10日間で強くする事を承知する。
強くなるのは、技じゃないのだ。

大治郎「剣術は懸命に10年して、俺は強い、という自信が出る。
更に10年やると、相手の強さがわかる。
それから、また10年やると・・・」
又六「合わせて30年もかね」
大治郎「そうだ。すると己がいかに弱いかがわかる」
又六「それじゃ、何にもならねぇ」
大治郎「40年やると、もう、何が何だかわからなくなる」
又六「だって先生は俺と同じ年頃なのに・・・」
大治郎苦笑する。
小兵衛の言葉の受け売りだ。

ほとんどの道に通用する言葉だろう。
特に技の道は当てはまるだろう。
ワシはまだ20年たってないが、わけがわからない。
故御師匠様も「わからんばかりだと、解ってきた」と。
この世は、わからぬ事ばかりだと解り出した。
わからない事だらけだと知って、プロの自覚が高まった。
初期は、やるたびに何かが解ったと思っていたものだ。

10日間、又六は大治郎と寝食を共にする。
本物といれば、本物の「氣」は伝わるものだ。
本物の剣客ともなれば、肚(はら)胆(きも)が伝わる。
強さは優しさがあるからと、理屈無く染み込む。
僅か10日間でも、チンピラなど問題じゃなくなる。
自信をもって、又六は鰻売りに精を出すようになった。
(「悪い虫」より)

社会で生きていくのに大きな柱が幾つかある。
最優先の絶対的な柱は生命だ。
その器である身体の維持管理も最優先だ。
心は優先でもなく、大切でもない。
心を優先にすると、何かと不都合が生じる。
だが、多くの人が心を大切だと考えている。

この勘違いから、人の世のアレコレが起こる。
だから、面白いといえば面白いが・・・
心は身体に付属しているが、出しゃばりだ。
しかも不安定で勝手に動き出す、困ったちゃんだ。
困ったちゃんだから、一番人間らしい部分でもある。

絶対的ではないが、かなり影響がある柱もある。
社会という内側で暮らす時に必要なのが、金という柱。
この柱の扱いに秀でた人と、不器用な人とが分かれる。
お金は、才能の一つだと思っている。
生まれつき良い人も、努力で才能を伸ばす人もいる。
だが、ちっとも才能の無い人もいる。
ワシも才能の無い一人だ・・・
名人の小兵衛は、金の扱いにも名人だった。

小兵衛の碁敵でもある町医者の小川宗哲。
金の有る無し、身分の上下に関わらず行き届いた治療をする。
生き神さま、と慕われるほどの老医でもある。
「わしは金を恐れ、金を避けてるにすぎないのだ」

嘗て、金がどしどし入ってきて、金を貯める事に夢中になった。
ある時、ハッと気づく。
こんな事(金儲け)してて何が面白いのか。
自分は死なぬと思って、頼もしい金を数えている。
幸い医者だから、人の寿命や死を知っている。
冷静に観れば、人の命は儚い。
いつ、どこで、どのように死に旅立つのかもわからない。
20年30年経つのも、あっ、という間だ。
以後、本当の医道を歩むことになる。

そんな宗哲だからこそ、小兵衛の金の扱い方に感心している。
「大金をつかんでも、たちまちこれを散らし、悠々としている。
小判のヤツどもを、あご、で使っていなさるわえ」
小兵衛は、使い方が上手い。
見返り無しの相手に、負担無いように嬉しい金額を渡す。
心がこもっているから、金でつながる関係にならない。
心で慕う関係になるのだ。

金が入るようには、気を使わない。
金が活きるように、使い方に気を使う。
すると、金貸しが言う。
「秋山さんのような御方にこそ、お金を借りていただきたい」
名人には、勝手に、お金が来たがるようだ。

何かを手伝ってもらった人だけでない。
何気なく寄った茶店の使用人にさえ、こころづけを渡す。
駕籠かきにも、駕籠代の他に飯代を渡す。
弥七の手下の手下にさえ、別途で小遣いを渡す。
欲しいものを買う為に使うのではなく、人に渡すのだ。
お礼として、渡すのだ。
だから、お金が活きてしまう。

渡された方も、次の人に更に親切になる。
小兵衛に始まって、優しさが連鎖する。
金が、金のままだと冷たい関係になる。
金が、こころづけ(心付)として役に立つから活きる。
コツは、使う名人なのだ。
財を成す事から放れているから、金使いの名人なのだ。

一流の剣客である大治郎。
その技で道場を経営しているという表現もできる。
だが、無外流の真髄は技じゃない。
剣の道を通じて、生きる大切なモノを養っている。
大治郎も技の商売人でなく、人物で道場が成り立っている。

剣客から放たれた名人の小兵衛。
例えば田沼意次から50両、100両が届く。
あっさりと、いただく。
利得無しに、金を活かす事ができるからだ。
いただくだけの事を充分しているからだ。

ある大名が小兵衛に100両の隠居祝いを届けた。
20年以上も前に、子供だった、その大名を二度教えた。
複雑なお家事情で苦労していた子供だった。
初めての教授で、小兵衛と子供は心が通じた。
その教え、小兵衛の心情は子供にとって恩となった。
たった二度でも、小兵衛を恩師と思えた。
だから、大名となってから小兵衛に祝いを出す。
もちろん、あっさり受け取る。
こうしてみても剣客商売の題名はそぐわない。
小兵衛は剣客から外れている。

心身金に余裕ある小兵衛だ。
生命力旺盛で、執着心は少ない。
だから子供のような探求心やいたずら心もある。
名人だから、人と人は浅く淡く付き合うのがいいと思っている。
だが癖で、困っている人を、つい、助けてしまう。
助けを依頼されないなら、簡単に手を出すべきでない。
それは理解しているし、自分でも半分反省しているのだが・・・

基本的には、自分と係わりの無い場合は、手を出さない。
少しでも、つながりがあると、親切にしてしまう。
その優しい真心は、相手に伝わるから小兵衛を慕う。
そんな一人に金貸しの幸右衛門がいた。
事件の顛末に幸右衛門は死んでしまう。
残された1500両と屋敷を小兵衛に託す。

金が集まるのではない。
人の心が集まる。
たまたま金を持っている人は、それを金に託して小兵衛に渡す。
商売で金を集めてはいないのだ。
剣客商売の題名からはズレがある。

この物語は、小兵衛一人の名人ぶりだけじゃない。
剣一筋の真っ直ぐな大治郎や三冬が変わっていく。
純朴の堅木が、しなやかな大木に育つ過程が描かれている。
それは、巨木の小兵衛の雰囲気から学んで変化する。
息・大治郎も次第に柔軟な人間に変わっていく。

年下のおはるを「母上」と冗談で呼んだりできるようになった。
もちろん小兵衛の冗談は普段通りだ。
「夜狐が若い女に化けて、布団にもぐり込んだかえ?」
武士であり、剣客だった当時を想像すると、かなりくだけている。
まるで町民の冗談だから、まわりの町民から慕われる。
ときには、弥七でさえ呆れるほどの冗談も言う。

「ものごとは、段取りが大切だ」
小兵衛の教えを思い出しながら、大治郎は事件を解決する。
段取りとは、先を見通し、心配りをする事。
自だけを伸ばしても段取りはできない。
他を観、まわりを観、心を配って他を動かし、自が動く。
すると、無駄な動きをしなくても事が進む。
「段取り、よかったぞ」
褒める小兵衛、褒められた大治郎、共に笑顔だ。
(「東海道・見付宿」より)

 上に         

    三冬


田沼意次の妾腹、女剣客の三冬。
おはると同い年で、大治郎より5歳若い。
最初は危機を救った小兵衛に想いを寄せる。
小兵衛は、40歳年下の二人から惚れられるわけだ。
だが、小兵衛はおはるに言い寄られ夫婦となった。

剣一筋で処女でウブな三冬は、それすらも気づかぬ。
だが、女として身体がうずき、いつしか対象が大治郎になる。
その事自体が、三冬には不思議でわけがわからないままだ。
剣一筋の身体と心から、人の、女の、やわらかさが出始めていた。
それも小兵衛、大治郎親子との親交からだ。

その三人の剣客が一組の男女関係の事件を解決した。
その顛末に小兵衛がとった策に、まだまだマジメな大治郎は驚く。
「真偽は紙一重。
嘘の皮をかぶって真をつらぬけば、それでよいことよ」
人がシアワセになるのに、真偽など適当に使えばいい。
ワシも、この仕事をしていて、つくづくそう思う。
生命力が上がるなら、嘘の百や千や万くらい・・・

士農工商という身分制度があった。
武士は威張っていた。
威を張るのは、心が狭いからだが本人は気づかない。
今でも、地位、役職とか性別とかで威張る男がいる。
恥ずかしいという事を知らずに育ったからだ。

小兵衛は名人になった。
剣の道からも、武士からも放れている。
だから、武士社会(男社会)のアホらしさを口にする。
人品卑しいまま、権力を持つ階級を痛烈に批判する。
「世の、人の手本ともなるべき大名・武家。
このざまでは、徳川の世も末だのう」
現代でも、全く通用する言葉だろう。

武士や男社会の常識から解放されている小兵衛だ。
飯も汁も簡単に作る。
まだ武士社会の剣客意識の三冬に夕食を作ってやる。
三冬は赤面する。
これも、現代に全く通用する。
自分や他人の飯を作れぬような男は使い物にならない。

並外れた力持ちの女性がいた。
通称、金時婆さん。
本名は、おせき、54歳。
当時は、20歳過ぎれば年増。
27歳くらいでも大年増。
でもなぁ・・・婆さん、は酷いだろう。
ワシより若いし・・・

剛力だけでなく、とても親切な女性だ。
武士を橋から川に投げて(他人の)子供を救った。
目撃した小兵衛は、その武士達の仕返しを心配して芝居する。
おせきの家に居候するのだ。
その時、寝食代として2両(30〜40万)を差し出す。
おせき、こころよく、あっさりと受け取る。
小兵衛「こいつは、ホンモノだ」と直感する。
下手に遠慮したり、断ったりしないから、本物の親切者だと見切る。
もちろん、無料でも同じ態度だったろう。

その怪力は生まれつきだと知った小兵衛。
「人間の備わったものの恐ろしさ、見事さ・・・
まことに不思議なものだな、人間という生き物は・・・」
人の心の不思議さ、辻褄の合わぬ仕組みと充分知っている。
だが、体の能力の可能性は、感嘆し尊敬する仕組みがあった。
小兵衛は、心の未熟さと体の見事さを知って人を観る。
(「深川十万坪」より)

人の心の不可思議さの一つ、男色。
まぁ、今ならゲイといい、女同士も含む言葉だ。
日本のみならず、古今東西、いつの時代でもあった。
あったが・・・、理解できない人には不可思議だ。
ワシも生理的に理解できないタイプだ、ごめんなさい・・・。

生理的というのは、理屈ではなく、生命の深い部分の反応だ。
ワシは毛虫芋虫類が生理的に苦手だ。
蛇類が苦手な人もいるだろう。
彼等は何も悪くないし、異常でもない。
そんな事は解っている。
生理的に反応してしまうが、ただそれだけだ。

理性的には理解できる。
どの生物にも一定の割合でゲイがいると知っている。
決して、異常な心情や身体ではなく、全く正常なのだ。
ただ、マイノリティ(少数派)だから、差別されやすい。
少数派を無視したり、イジメたりする社会が奇形だ。
ワシは、個人的な生理的反応と、社会的イジメを混同しない。
ワシの性格や生き方など、まさにマイノリティそのものだし。

武士(男性)社会は、男色は社会的認知されていた。
日本は、そもそも、性の多様性に大らかな国だったのだ。
性に大らかなのは、人と人にも大らかな、いい国の条件の一つだ。
見せ掛けの常識に縛られる現代社会の方が、狭く、卑怯な国なのだよ。
小兵衛の時代は、男色は普通の社会風俗の一面だった。

小兵衛も男色(なんしょく)が理解できない。
出来ないが、好奇心旺盛だ。
武士同士のゲイの一人と親しくなった。
そして、おはるに教える。
「男と女より、絆が強いそうな」
少数派だから、パートナーと出会う事が貴重なんだろうな。

女房役の武士の献身的な振る舞い。
「本当の女でも、ああは、まいりません」
酒屋の亭主も感心する。
心情が理解できなくても、偏見はないのだ。
理解できなくても、同じ人だと認める。
これが世界平和の鍵だと思うぞ。

命を賭けて、好きな男に尽して、最後は武士として切腹した。
「おまえさんは、今死なすには、本当に惜しい人だったよ」
小兵衛の両眼が、じわりと、うるみかかった。
宮崎駿監督の映画で描かれる妖怪と人の関係。
多種多様な妖怪など理解できない。
理解出来なくても、主人公は彼等を認め、仲良くなれる。
人と人、人と動物、人と自然の暮らし方が示唆されている。
理解なんざ、どうでもいい。
同じ地球上に存在している仲間だ。

嘗て負けた小兵衛に勝つために現れた剣士。
試合にて人を殺すことを喜びとする、残虐な性(さが)。
普通の両親から生まれた、異常な才能。
その飛び抜けた強さと、魔性。

驚く牛堀に小兵衛が言う。
「人の世には、計り知れぬ事があるものじゃよ。
もともと人間なんてものが、わけのわからぬものさ」
人を観る、名人としての小兵衛の言葉だ。
これが基本にあるから、全てを認めていられる。

才気盛んな魔性剣士、千代太郎。
才能と復讐にこだわりすぎた。
大治郎の自由な手法、無外流に敗れたのは当然かも。
「父上、ごらんくだされましたな」
「わしもな、同じやり方で闘おうと思っていたのさ」
無外流の真髄は、こだわらないのが特徴だ。
(「天魔」より)

剣一徹な大治郎が変っていく。
父であり師匠でもある子兵衛の雰囲気に染まっていく。
その過程が、又何とも微笑ましいのだ。
一人で小兵衛馴染みの酒屋に入り、ゆっくり酒を飲む。
雨宿りの時間つぶしとはいえ、以前なら考えもしなかった。

酒屋の夫婦は、そんな大治郎を嬉しそうにながめる。
「若先生が、お一人で酒をあがるなんざ、全く珍しい」
「きちんと、こう座って、あの飲みっぷりがよかったね」
「不動さまの若いときのような、かたちでね」
まだ、生真面目な飲み方なのだが、可愛いのだ。

そこで起きる傑作な詐欺事件を小兵衛に話す。
昔はテレビもラジオも無いのだ。
当然として、面白い話は双方の楽しみとなる。
野次喜多道中を読むと、当時の風俗がよく描かれている。
人と人の話術が洒落ていて、話す事が生活に大きくかかわる。
簡潔でも、言葉に心や情けや嬉しさ愉しさを乗っけて話していた。
話は、愉しいものなのだ。

美味い鯰を食べ過ぎて腹を下した小兵衛。
薬を貰いにきた大治郎に、町医者の宗哲が言う。
「小兵衛さんに、あまり薬を飲ますと、かえっていけない。
なにぶん、体が人間ばなれしているからのう。
なあに、薬のかわりに、毛饅頭でも食べさせれば、すぐ元気になる」
まじめ顔で宗哲先生、とんでもないことを言い出した。
「け、まんじゅう、と申しますと?」
わけがわからない大治郎。

今度は、その事を思い出して三冬に言う大治郎。
「三冬どのは御存知か?その、毛饅頭なるものを」
処女の生真面目な佐々木三冬だ。
「耳にしたこともありませぬ」
双方とも、男と女を知らぬ一流の剣客だ。
その正体を教えてもらおうと、小兵衛の隠宅に向かうのだった・・・
(「鰻坊主」より)

毛饅頭を教えてもらった大治郎と三冬。
続いて三冬は、男女の行いを初めて目撃する。
何故か修行を積んだ三冬の心臓が勝手に動悸する。
そのまま、事件に巻き込まれ、大治郎を頼る。
時々、大治郎に対して、赤くなるのも解せぬまま。

大治郎の活躍で事件が解決した。
事の顛末を御用聞きの弥七が解説する。
三冬が目撃した場面を話そうとすると、
「存じませぬ、存じませぬ」
真っ赤な顔で三冬は、かぶりを振る。

朴念仁の大治郎。
「いったい何を見たのです」
「存じませぬ!」
三冬は怒ったように外に駆けていく。
超鈍感な大治郎。
「はて・・・?」

純情な二人は、少しずつ融けていく。
融通が目覚めていく。
そして、お互いを意識していく。
何とも、微笑ましい、剣客の二人だ。
(「西村屋お小夜」より)

ある日、鰻売りの又六が小兵衛の家にきた。
ドジョウを手土産に、ちょ、と相談をしにきた。
「こんな事は、全く、余計な事かもしれねえですが」
「世の中の、善い事も悪い事も、
みんな余計な事から成り立っているものじゃよ」

ワシは、長い間「世の中の事は全て必要必然で成り立っている」
底の浅い、精神世界の言葉で、そう学んできた。
それが、単純な、上辺の言葉だとは、気づかなかった。
中々、深い言葉と思い込んでいたものだ。
現象に一々意味を考えたり、因果を重んじたり・・・
若気の至り、というヤツかなぁ・・・

今は、小兵衛の言葉に納得している。
この世は、余計な事が余計な事を引き起こしている。
その為の舞台として、この世があり、諸行無常というシステムがある。
余計な事を(しっかり?)体験するのが、この世に存在した意味かも。
と思っているが、本当の事は人間では解らないと知っている。
まぁ、事実として、余計な事だらけで、結構面白い。
面白いとは思えない出来事も、体験には違いないし・・・

数名の武士に襲われている男を助けた大治郎。
手当ての甲斐無く亡くなるが、襲った方は邪推する。
死ぬ前に、秘密を大治郎に話したのではないか?
大治郎を暗殺しようと画策するが、大治郎強い。
ついに、首謀者の旗本主が自慢の槍術で乗り出る。
不意打ちをかけるが、大治郎、切り伏せる。

「五千石の大身を切って捨てたことになる」
「さようで・・・」
まぁ、相手が悪いのだから大治郎にはお咎め無し。
理由も、くだらない事だ。
なにも人を殺してまで守るような出来事じゃない。
旗本、大名、将軍、大統領、首相、主席、国王。
くだらない連中は、地位に関係なく、どこにでもいる。

それでも手傷を負った大治郎。
介護するという内弟子の粂太郎に小兵衛が言う。
「わしの家に来い、ご馳走してやるぞ」
「いえ、私は若先生の看護を・・・」
「今夜は、別の人に看護させてやれ」
見舞いの品を抱えて、向かって来る三冬を見つけたのだ。
三冬の心を見透かした、親心の小兵衛だった。
(「暗殺」より)

三冬は剣客として一流だ。
だが、大治郎レベルには届かぬ。
一流でも幅はあるものだ。
女の体では、最後の壁を突き破れぬと小兵衛はいう。
その三冬に縁談があった事を大治郎に告げる。
例の如く、三冬と試合をして勝ったなら、という条件だ。

大治郎は相手の名前を聞いて、悩む。
嘗て試合をした相手だった。
大治郎が勝ったが、三冬では勝てない。
しかも、性格が悪い・・・
それだけでなく、鈍感大治郎も三冬が好きだと意識する。
悩んだ顔で、小兵衛に会いにいく。
そして、一喝された。
剣の師匠は厳しいのだ。

とはいえ、親としては、陰ながら応援したい。
御用聞きの弥七に協力を頼む。
「実はな、お前の智恵も借りたいのだ」
「先生のおっしゃる事なら、盗みでもいたしますよ」
「御用聞きのお前がかえ?」
「ええ、いたしますとも」
弥七にとっても師匠の小兵衛だ。
絶対の信頼をおいているから言える言葉だ。

腕は一流だったが、性格が三流の相手。
己の腕を過信して、小さな道場主に敗れる。
その帰りに野菜売りの老爺にぶつかり、八つ当たりに刀を抜く。
そこに小兵衛が(軽く)相手をして、足を切る。
こうして、三冬との試合は不成立となった。
父親の田沼意次も相手の正体を知り、今後は三冬の好きにさせると誓う。
(「三冬の縁談」より)

抜荷事件に巻き込まれて拉致された三冬。
大治郎が鬼の形相で敵地に乗り込み救出する。
父親の田沼意次は通常の言い伝えと違い、傑物だ。
地位や家柄など気にせず、大治郎に頭を下げた。
「どうか三冬を妻に迎えていただけぬか?」
朴念仁で赤くなって、口もきけぬ二人に代わり小兵衛が了承する。
そして、実に簡素な、心こもった婚礼がおこなわれた。
意次は涙を隠そうともせずに、娘の姿を喜んだのだ。

町人と変わらぬ暮らしの大治郎だ。
そんな暮らしの妻の仕事を何も知らぬ三冬。
脂汗をかきながら、懸命に飯を炊く。
「米が飯に変じましたかな?」
「今夜は、だ、大丈夫・・・かと思います」

近くの百姓の女房に教えてもらってるが、思うようにできない。
炊事洗濯生活一般は下男下女がやってくれた三冬だ。
本人は男と同じ剣客として生きてきたのが急に妻になったのだ。
男装から女装に変わり、歩き方の足さばき一つがぎこちない。
三冬(どうも、剣術のようにはまいらぬ)

大治郎は男料理だが普通にこなせる。
ちゃ、ちゃ、と御飯の上に作ったおかずを乗せて三冬に渡す。
「さ、おあがりなさい」と大治郎。
「かたじけない。む、これは、うまい」と三冬。
奇妙で、可愛らしく、超強い新婚が出来上がった。
大治郎の優しさ、三冬の素直さ、理想の形と思えるがなぁ・・・

剣一筋だった新婚の二人だ。
一つ臥所(布団)に身を横たえる。
真剣で強敵に対しても呼吸一つ乱さぬ三冬が乱れる。
大治郎の呼吸も荒い・・・未熟者だなぁ・・・
剣術のほかに、このような、すばらしいもの、があろうとは。
結婚前の三冬と大治郎には、予期せぬ喜びだった・・・

あまりに素直な三冬に、小兵衛も改めて感心し目を潤す。
「大治郎は幸せなやつだ」
「父上、まことに、さように思われますか?」
「真も嘘もない。三冬どのが他の女性より優れていると申したのではない。
大治郎にとって、かほどに似合いの妻を得たことが幸せなのだ。」

相性の良さが、深い付き合いには最適になる。
その他の条件など、それに比べたら微々たるものだ。
才能、能力、財力、その他モロモロ・・・
個と社会では、それらが優先する条件だろう。
だが、個と個は、相性が最優先であり、圧倒的な比率をもつ。
相性は個と個が出会わなくては、わからない。
良き相性と出合ったなら、それは人生に大きなラッキーとなる。

 上に         

    弟子


嘗ての弟子、植村友之助は病を患った。
その体で、愚鈍だが人の善い為七を助ける。
5千石旗本の長男の凶刃を一本の畳針で防いだ。
根岸流の手裏剣の名手でもあったからだ。
小兵衛は病身の弟子に見舞いする。
そして、その後の旗本一派から守った。

今回の事件で亡くなった御用聞きの富五郎。
彼も元気な頃の植村に助けられた一人だった。
そうして事情を充分知った小兵衛だ。
故金貸し幸右衛門からの遺言で預かった家と金。
その家を植村に任せ、50両を富五郎の妻に見舞金として出した。

剣で人助けをした植村に、も一つ褒美を渡す。
そこには、古びた畳針が一つ。
「昔、わしが紙を綴じるのに使っていたものよ、見覚えあろう」
「せ、先生・・・」ありがたく、押いただいた植村。
他の人には変哲もない古びた針だが、弟子には宝物だ。
「ゆっくりと、お前が辿った道を書きしたためてみるがよい。
その一枚一枚を綴じる畳針じゃ」
「かたじけのうございます」植村の両目が潤んだ。

剣の師匠として、剣で人を助ける弟子に育った事。
教えの真髄を理解してくれた事。
小兵衛も嬉しかったのだ。
「真の師弟というのは、よいものじゃのう」
ワシもいつか、師匠にこう言ってもらえるようになろう・・・
(「いのちの畳針」より)

剣客と商売に関して、小兵衛が語った事がある。
刀装屋の嶋屋孫助に本音を洩らしたのだ。
道場を拡張し名門にすれば、商売として成功だ。
その為には諸家の庇護、援助が必要となる。
世辞も汚濁の振る舞いも商売には必要となる。
それらが悪い事とは思わぬし、やれぬ事とも思わぬ。

だが、一流の技の道は常に全力で精進せねば落ちる。
好きだから、全力で精進したい。
名利(成功)を求めれば、技の質が下がるのだ。
名利が欲しければ、別の道を歩くほうがいい。
剣術が好きだったから、立身出世はあきらめたのだ。

ワシも治療の道を歩いてしまった。
(治療院)経営の道まで兼ねては歩けない。
ワシは、不器用なのだ。
治療や(健康)指導が好きだし・・・
好きなモノや好きな人と歩いていきたいからだ。
金が無いのは、実際窮屈でもあるが自業自得というヤツだ。

そうして小兵衛は、更にその先に進んでしまった。
剣の道からも己を解放して、名人となった。
大治郎には「お前の剣は、いつになったら商売になるのじゃ?」
などと言ったりするが、実は、その言葉の反応をみてたりする。
まぁ、名人になると、結構ヒマなのかもしれない。

以前「虚心」のテーマで小兵衛の言葉を書いた。
ワシが感銘した部分だったからだ。
そこを、もう一度ここに記す。
人を見抜く能力があっても勘違いした話だ。

小兵衛「人間は誰でも勘違いするものだ」
人の世は勘違いで成り立っている」
弥七「まさか?」
勘違いはあっても、勘違いで成り立っているとは思えないのだ。
すると秋山小兵衛が諭す。
「お前ほどの御用聞きが、その事に気づかぬのはいけないよ。
それほどに、人が人の心を読むのは難しいのじゃ」
ここが中途半端な人生相談のセンセーとの違いだ。
解らない事を認めているから名人なのだ。

そして続ける。
「ましてや天地の摂理などみきわめられぬ」
ここも、中途半端な精神世界を語るセンセーとの違いだ。
簡単に○○の法則などと言うのは、何とも未熟としか思えぬ。
天が、神が、などと語るのは、とても恥ずかしいぞ。

更に、その後に続く言葉も素敵だ。
「できぬながらも、人はそうしたものじゃと、
いつも我が心をつつしんでいるだけでも、世の中はマシになる」
世の中をマシにするのに、難しい事はないと思う。
政治、行政、学者、その他モロモロのセンセー達。
指導する立場で、少し、耳が痛くないかぁ?
この意味さえ解らないなら、人前に出るのはひかえようぜ。
(「徳どん、にげろ」より)

ワシは長い間、弥七と同じ意見だった。
どんな人も間違え、勘違いする。
だが、人の世が勘違いで成り立っているとは思えなかった。
多くの人が集まれば、勘違いは修復されていくと思っていた。
勘違いで成り立つというのは、言い過ぎだろうと。

だが、今は小兵衛の言う事がうなずける。
多分、そうだと思っている。
受け入れ難い事実だったが、確信に近い。
人の世は勘違いで成り立っている。
それに気づくと、人の世はもっとマシになる。
マシになるコツは、至らなさの自覚だ。

人の世が勘違いで成り立つと指摘する人は少ない。
社会的に知識者といわれる人は、ほとんど口にしない。
心の仕組みに気づけば、当たり前なのだが。
我々の世の中は、お互いの勘違いの上で成り立っている。
その事を自覚すると、少なくても殺し合いや戦争は無くなる。

自分の正しさは、勘違いかもしれない。
正しさを主張すると危ういかもしれない。
この慎みの部分があるだけで、交流が出来る。
相手を理解しようとする。
理解できぬながらも、認めるから対立しなくなる。

小兵衛から家を任された嘗ての弟子、植村友之助。
病身だったが、徐々に回復してきた。
無料で近所の子供たちに、読み書きなどを教えている。
そういう弟子の生き様が嬉しく、様子をみに行った。
すると、子供並みの知能の下男の為七も読み書きを習っている。
来る子供の世話をやきながら、自分もたどたどしく筆を動かす。
その一緒懸命さに、小兵衛の両目も閏うのだった。

為七の作った昼食をみて、小兵衛は目をみはる。
大層工夫して、上手く作っているのだ。
為七は食事作りは、とてもよく覚えるのだそうだ。
「ならば、どしどし台所仕事をさせるがよい。
そこから当人の知恵も育つであろうよ」

人間は、己が知らぬ知恵が幾つも隠されているという。
その知恵の働きが引き出されるキッカケがないかぎり、
「知恵は埋もれたままになってしまうものなのさ」
引き出されてないだけで、全ての人間は幾つもの能力がある。
ワシにだって、いいかげん、の能力があるのだ。
(氣功能力に関しては、説明がメンドウ・・・)

固定概念で学校の勉強、会社の仕事、家の仕事などで能力を計る。
そんなものだけで、人としての評価までしてしまう。
実は、能力は幾つもあるのに・・・
ただ、そのキッカケに出合ってないだけなのに・・・
アホな政治家や役人や経営者だって落ち込む事はないのだ。
きっと、別の仕事なら能力があるのだ。
その前に、性格は治した方がいいなぁ・・・
(おっと、自分もか・・・)

武士が民を統括していた時代だ。
政治行政司法を武士という心の小さい男達が司っていた。
もちろん人は様々だ。
武士といえど、広い(やわらかい)心の持ち主だっていた。
だが、基本的に武士というのは体面を気にするように育っている。
民よりエライと勘違いしている武士が圧倒的に多かった。

旗本大身(何千石)同士の見栄の張り合いがあった。
武士道を外れた小兵衛は「徳川の世も末だ」と平気で言う。
近江屋「お、恐ろしいことをおっしゃいます。
お声が、高こうございますよ」
小兵衛「鮒は、安いな」
江戸時代、町民はこういう駄洒落を結構言ってたらしい。

嘗ての弟子が巻き込まれた抗争に、秋山親子が乗り出す。
体面第一の武士の性格を逆手に取った。
乞食同然の姿で、両家の殿様や家老や剣士達を棍棒でなぎ倒す。
そんな恥ずかしい話を、誰も公にできずにウヤムヤにする。
小兵衛の弟子は師匠を見破り、久しぶりに対戦して敗れる。
乱入の意味を悟り、感謝と満足の、うっとりした顔で気絶していた。

明治政府から現在に続く政治行政も武士出身が基礎を成した。
だから未だに体面を気にする、心の狭い男達が多くいる。
民よりエライと勘違いして威張る政治家、役人が多い。
日本の政治行政は、400年以上昔から大して進歩してないのだ。
(指摘され、けしからんと言うより、為すべき事があるだろ)

当然、マトモな選挙など指導してない。
世界でも珍しい、名前を大声で叫ぶだけの選挙カー。
各地区の義理で縛った後援会への体裁名簿。
必勝鉢巻、タスキ、習慣にない握手ぜめ。
そんな事で当選しても、民の為の代理人にはならんだろ。

この小説はいろいろな要素が含まれている。
人間を語る池波氏は、食と性も大切にしている。
大切というのは、生きる愉しみに通じるモノでもある。
食の愉しみは、いたるところで表現されている。
質素な料理だが、一工夫で、とても美味しそうなのだ。
愉しみ方が幾つもあり、とても素敵なのだ。
食だけで、一冊の本が出来ているのだ。
(別冊「剣客商売・包丁ごよみ」)

池波氏は男だから、女の不思議さを上手く、優しく表現する。
「この歳になっても、女のことはちっともわからぬ」
だから、こはるや、三冬の可愛らしさが引き立つ。
そして、女の嘘は女の本音だから、と優しく認める。
大人の表現で、サラリと男と女の交情を描く。
食と同じように、交情を愉しもう、という気にさせる。

そして、不思議な話も幾つか描かれている。
白狐の霊が、恩返しをする話だ。
小兵衛は、何とはわからぬが、気配を感じる。
名人は、常人には感じられる気配や、勘に目覚める。
だが「そういった感覚に頼りすぎてもいけない」
平常心を崩さぬ姿勢が大切だと説く。
人の意識の脆さを知っているから名人なのだ。

おはるや三冬の他にも、素直な女が幾人も登場する。
小さな道場を持っている女武芸者のお秀。
根岸流の手裏剣の名手で、その技には小兵衛も一目置く。
小兵衛ファミリーの一人といっていいだろう。

親しくしている仲間達は、食と住を軽く共有する。
独身のお秀も「今夜は秋山小兵衛先生のお宅に泊めていただく」
弥七なども、簡単に泊まっていったりする。
双方で飯も酒も泊まりも、実に遠慮なく自然なのだ。

ファミリーの女達は、それぞれの個性がありながら可愛い。
だが、男を騙す悪女、体で虜にする妖婦、残虐な毒婦も登場する。
人は単純でもあり、複雑怪奇でもある。
優女でも毒婦でも、強い男を簡単に弱くする魔力をもったオナゴ達だ。
男と女は、違う能力の生きモノ。
そういう、オトナの話も随所に描かれている。

それにしても、素直な人達は、出来事を愉しく生きようとする。
故御師匠様の「素直になれよ」の言葉。
ワシが気づいた意味よりも、もっともっと深いようだ。
素直な仲間達が多いと、人生は何倍も愉しめるようだ。
自分が素直になれば、人生はもっと愉しくなる。
いろいろなモノを解放し、開放すれば素直になれそうだ。

人間を描く池波氏の小説。
今の歳になったから共感できる。
生きる事が大切だが、生き続けると変わる。
諸行無常だから、変わるのが当たり前だ。
否応なしに、細胞は変わり続ける。
肉体の変わり方が徐々だから、自覚しにくいが。

当然、生き様も変わったり、多様化する。
生き様は突然変わる事もある。
中々変わらない事もある。
だが肉体が変わるのだ。
生き様が変わらないなど有り得ない。
生き様は変わらないと思っている人は多いようだが・・・

生き様は心の有り方で変わる。
心は肉体の属性だから、肉体変化に影響される。
生きているだけで、多種多様な心の塊が生まれる。
心は常に生まれ続けている。

大治郎が、ある人の全く違う一面を知り、小兵衛に訊ねる。
「いったい、どのような方だったのでしょう?」
「どちらも本当の顔じゃ。人という生き物は、みな、そうだ。
わしなど、十も二十も違う顔を持っているぞ」

ワシも以前は、生き様は一つだと思い込んでいた。
だから真偽や正誤にこだわった時期があった。
真や正や聖は、この世では求めるモノじゃない。
求めても、人間の段階では判断できない。
今は、幾つもの生き様を自由に選択できるようにしている。

大治郎が一人の浪人と出会う。
お互い、一流の剣客同士だ。
何となく息が合った二人は、浅い付き合いをする。
小兵衛「それでよい」

他人に言えない事情を抱えて生きている。
深く交わえない事情も過去もある。
だが、人と人は同調する相手と出会う事がある。
その場合の付き合い方だ。
「浅く、淡く付き合うがよい」
自害した浪人から大治郎へ、名刀の脇差と手紙。
浅く、淡く付き合ってくれたからこそ、幸せだったと。

長く付き合うコツをワシは勘違いしていた。
親友、恋人、師弟などの付き合い方だ。
深く、濃く付き合うのが、当たり前だと勘違いしていた。
浅く、淡く、付き合う。
とても相手を大切にしている付き合い方だ。
だから、その関係は長く、染みる付き合いとなる。

例え身内や恋人であろうとも個性が違う。
深く濃い関係を続けたなら、同調できない苦しさを伴う。
大切な関係こそ、浅く淡く優しく付き合うのがいい。
この歳になり、やっと人と人の付き合い方が出来るようになった。

大治郎の剣客としての評判は高かった。
ある大名が指南役に欲しがった。
だが、名利より剣の道を歩む大治郎は断る。
すると、大名は指南役になるには大治郎に勝たねばならぬ、と言った。

その試合の話を聞いた小兵衛と三冬。
「負けておやりなされ。
今の江戸でお前に勝てる剣客はいない」
大治郎は納得できない。
闘ってみなければわからない。
第一、相手に失礼ではないか。
大治郎は、まだマジメの殻が脱げ切れない。

嘗ての弟子を手にかけた小兵衛。
人を活かす剣を教えきれなかった弟子だ。
剣で人を殺め苦しめるようになったからだ。
道場で弟子を教えていた頃は、小兵衛も柔らかさが足りなかった。
その事を、今は気づいていた。
だから、そんな試合で大治郎が負ける事など何でもない。
それにより、困っている一人が指南役になれるのだ。

納得できないまま木刀の試合に臨む大治郎。
気力を欠いての試合だ。
相手もそれなりに強いのは当然。
そして、負けた。
小兵衛たちは、負けてやったと思っている。

いろいろなウワサを聞いた相手も納得しない。
も一度の立会いを求めた。
そして、相手に気づかれぬように、今度は負けてやった。
大治郎、負けてもいい勝負を理解したのだ。
そして、その日、三冬は男の子を無事出産する。
空は真っ青に晴れていた。
(「勝負」より)

仇討ち側と仇持ち側の双方を知った大治郎。
しかも、双方とも大治郎と気が合った。
人としては、双方とも、応援したくなる。
知ったばかりに、大治郎苦悩する。

「人の世の善悪は紙一重じゃよ」
どちらが善い、悪いなんて決められない事が多い。
それぞれの立場、事情、時の流れがある。
その上で決心した事でも、思うようにはいかない。
思いがけない事が、たびたび、起こってしまう。

この世は、計算通りには進まぬ。
まして、思い通りには・・・
自分一人の世界じゃない。
ワシが精神世界というアホな道を歩いていた頃・・・
自分の世界しか観ていなかった。

思えば叶う。
継続は力なり(そして叶う)
全ては自分次第。
それらの言葉の薄っぺらさに気づいた。
独りよがりの世界でもあったと気づいた。

心の勉強、精神のセミナー、講演、宗教、その他。
それらしい言葉に惑わされていた頃。
内容が素晴らしいと勘違いしていた。
内容が深いと、思い違いをしていた。

心の琴線に触れる言葉はある。
それで、変わったと勘違いする。
変わるキッカケにはなる。
だが、それで変わるわけじゃない。
そこからの行いによって、変わるのだ。

この世は、全て、行いにより変化する。
それは、自分自身も同じだ。
こんな当たり前を勘違いしていた。
心や精神だけで、変われると思っていた。
だから、言葉だけで変われると思っていた。
言葉で変わる、という煽りの浅さに気づけなかった。
キッカケの一つとして、言葉も、あるのだ。

「人の言葉などというものは、いくら積み重ね、
広げて見せても、高が知れている」
駄文とはいえ、ワシも文章を書いている。
たまにとはいえ、講演もセミナーもする。
ほとんどが、言葉の積み重ねで成り立っている。
だが、高が知れている、に反論なんて出来ない。

言葉で仕事をする人も多い。
言葉に重みや意味や真理さえ重ねる人も多い。
言葉で幸せになれると思っている人も多い。
指導者の多くは、背中より言葉を選ぶ人が多い。
ワシも何の疑いもなく、言葉の重要性を信じていた。

信じるな、疑うな、確かめよ。
確かめるのは、行いのみだ。

言葉だけで、人を動かそうとする人も多い。
そういう言葉は、綺麗事だけが多い。
人は、そんなに、単純に出来ていない。
深浅、広狭、高低、清濁、それらの中間・・・
そして、多種多様の考え、モノ、影響で複雑に生きる。

「言葉に出すと、人の真実(まこと)が却って通じなくなる」
確かに、その一面がある。
気を読み、気を配り、気を遣えるなら言葉に出さずともいい。
安心と信頼の関係が成り立つ。

だが、言葉に出さずに理解し合える人達は一部だ。
ほとんどは、言葉に出さねば、より誤解を生む。
といって、言葉で真意は伝わらない。
あるいは、一部しか、伝わらない。
近代、そして現代になるほど、言葉に頼る関係になった。

気配を読み、気配りをし、気遣いをして生活していた頃があった。
お互いを認めようとしていた、優しい生き方の時代だ。
言葉は、楽しむ為に使ったが、理解する為ではなかった。
言葉に重きをおくようになってから、理解から遠くなった。
話せば解るのではなく、放せば解るだったのに・・・
ワシも言葉遊びを意識しているが、まだまだ硬いなぁ・・・

この小説の幾つもの柱の一つに、親子がある。
小兵衛、大治郎なら、父と息子だ。
田沼意次と三冬なら、父と娘だ。
義母のおはる、と大治郎、あるいは三冬。
又六と母や、その他の親子関係もある。
池波氏の他の小説にも、大きな柱の一つとして描かれている。

 上に         

小兵衛・66歳


小兵衛66歳、大治郎31歳。
現役の剣客としての大治郎、益々進歩している。
無外流としての一流だから、人間が練れてきている。
単に技や腕の強さだけではない。

小兵衛は名人だが、友との死別などが多くなるにつれ
「ワシも、もう年かな」などと弱気になる事もある。
人は、肉体の衰えや悲しみの蓄積で気力が下がる事がある。
嘗てなら簡単に乗り越えられた心の障害も、足踏みする事がある。
人に、完成形など無いのだ。

父と息子が同じ道を歩く。
偉大すぎる父を超せない場合もある。
全てではないにせよ、父を超える場合もある。
その微妙な距離に小兵衛と大治郎がさしかかっていた。

大治郎を凌ぐかもしれぬ暗殺者。
それを防ぐ為に、小兵衛や弥七達が働く。
その陰謀の解明に目途がついた時、小兵衛は興奮する。
そして、大治郎はいつも通りに冷静だった。
息子大治郎に静かに諭され、小兵衛は反省する。
「近頃のわしは、どうかしている」

一面でも、息子が父を超えた瞬間だろう。
あるいは、超えたのではないかもしれない。
父が後退し、息子が進んだから、立場が入れ替わった。
親子、師弟、新旧の交代は、時というものが作用する。

人は、以前の人よりも進歩しているわけではない。
交代しただけだ。
現代人が、昔の人よりも進歩しているわけではない。
優れた人は、昔であろうが今であろうが変わりない。
人は、時が経っても、それほど、進化していない。
その証拠に、くだらない人は、現代も相変わらず・・・

老いる、というテーマは、もっと先の話だったろう。
小兵衛は90歳までは寿命があるという設定だ。
だが、作者の池波氏の生命力が落ちてきていたらしい。
まだ、小兵衛は66歳だ。
そして、作者は64歳になった。

主人公と作者の年齢が重なる。
池波氏に何らかの感覚があったのだろう。
小兵衛は、友の死で落ち込んだ。
息子、大治郎に諭された。
老いを、意識するようになった。
若い頃、一度も勝てなかった剣客がいた。
70歳を過ぎた、その剣客が暴漢に襲われた。
間違っても、やられるような相手でもないのに。
そして、助けた小兵衛の事も判らぬような状態だった。
「強かった、あんなに強かった男が、年をとると・・・」

それから、小兵衛は初めて、めまい、をおこすのだ。

名医、小川宗哲の診たて。
「小兵衛さんも、やっと老人の体になったという印じゃ」
その後、大事件に巻き込まれた小兵衛。
隠宅に七名の刺客が踏み込んだ。
丁度その時、再び小兵衛に、めまいが・・・

その夜の襲撃について、御用聞きの弥七に話す。
「おぼえておらぬのだ。だが、こうして傷一つない」
血潮や襲撃の跡は残っている。
小兵衛は脇差一つで、意識の無いまま七名を撃退したのだ。
それを聞いた名医宗哲、うぅむ、と唸り。
「小兵衛さんは、そこまで、到達なすったか・・・」
一流を超え、名人になると、無意識で行動できるようだ。

今回の大事件では、特に忙しく活躍する小兵衛。
めまいは、何処かにいってしまったようだ。
だが、ますます、武士世界に嫌気がさす。
「こんな馬鹿げた武家社会では、もう世も終わりだ」
だが、現代まで、その馬鹿げた意識で政治行政は続いている。

人の能力は、まだまだ隠されている。
めまいをおこし、老人の仲間になった小兵衛。
だが、今までの剣客人生でも最高の活躍をした。
手出し無用と宣言して、20人斬りを一人でやってのけた。
そして、小兵衛は手傷一つ負わなかった。

刀がもつように、相手は殺さずに戦闘能力、意欲を斬った。
「剣の道もあれほどまでに到達できるのかと驚きました。」
目の当たりにした杉原秀は、あきれ顔で言った。
小兵衛「不思議じゃ、たいして疲れていないようだ」
徳次郎や又六は、驚嘆のあまり声も出ない。

老いをテーマにしたが、衰えをテーマにしたわけじゃない。
老いに、衰えは付きモノかもしれない。
だが、単純に全て衰えていくわけじゃない。
培った能力は、より冴えわたる事さえある。
より、凄みを増す場合もある。
(「二十番斬り」より)

老いにセットで付いてくる衰え。
だが、小兵衛は60歳から登場した主人公だ。
40歳下の女房をもらい、40歳下の別の美女から慕われる。
血気盛んな他の剣客を、軽く、あしらう。
そこには、老いも衰えも無かった。

つまり、老いも衰えも単純な年齢ではない。
時は確実に経つ。
肉体は確実に衰える。
それは、間違いない。
ないが、速さは、一定ではない。

マクロにとらえれば、老いも衰えも一方向。
形あるもの、必ず滅する。
だが、人間の一生では、単純な一方向ではなくなる。
時には逆戻りもあるのだ。
数年や、数十年は、何とかなるだろうなぁ・・・

老いや衰えに流されない方法は幾つもある。
はね返す方法も幾つもある。
小兵衛の生き方には、そのヒントが示されている。
例えば今回の20番斬り。
めまい、という老いを感じた直後の出来事だった。

師匠との約束もあるが、小兵衛本人の気に入りがある。
嘗ての弟子を守る、責任感と生きがいもある。
あどけない子供を守る事も、心が静かに燃える。
ふがいない武士社会への憤りもある。
大身武家への反骨精神もある。

頼りになる大治郎を別の大仕事に行かせた。
その為に、自分が奮闘の立場となった事も気を上げた。
もちろん、若い妻や嫁や孫が元気の源の一つとなる。
そして、いい仲間達が支えてくれているから活躍できる。
全ては、小兵衛の生き方の表われでもある。

一つの道、仕事、能力などでプロとなる。
一人前となり、更にその先に進む。
同じ道のプロ達にも一目置かれるようになる。
まわりからは、先生、先生と呼ばれる。
家、店、道場、院、会社などを構える。

その頃から、油断すると錆びることがある。
能力、実力が停滞し、下がることさえある。
小兵衛も、一度そういう事があった。
道場を構え、世上の評判が高まり、順風満帆の時だった。
肝に銘じ、剣客として精進し直したから、今の小兵衛となった。

自分より優れた相手と会わなくなる。
嘗ての先生まで、小さく見える。
すると、自分が大きくなったと勘違いする。
人間の一生なんて、止まれば、たかが、なのに・・・
今のところ、ワシはそこまで増長してない。
が、油断は(常に)あるだろうなぁ・・・

度々話の中で出てくるフレーズがある。
「恩は着せるものではない、着るものだ」
この言葉は、かなり深いと思う。
感謝、という単語に置き換えてみればいい。

ワシの学んだ沖道(ヨガ)の話だ。
故沖先生がインドで暮らしていた頃の話だ。
マハトマ・ガンディー師にヨガという生き方を学んだ。
ガンディー師は暗殺された。
その後、しばらくインドで奉仕活動をしていた。

沖道の生き方
「感謝・懺悔・下座・奉仕・愛行」
その中で、奉仕の難しさを語ったことがある。
ある期間は、無私(思)で実行できる。

そのうちに相手に対して
「何故、ありがとうが言えないのか?」
という疑問、不満が生まれてくる。
あるいは、他の人や組織に対して
「私がこれほど奉仕しているのに、何故評価しないのか?」
という不平、欲求などが生まれてくる。
期間が長くなるほど、心の底に生まれ、溜まるモノがある。

奉仕は胞子と同じ。
風任せ(無私)の境地。
ところが長く関わると、私、が出てくる。
奉仕してあげてるのに・・・

そして、恩(感謝)を求める。
評価(感謝)を求める。
奉仕は、油断すると恩を着せてしまうのだ。
奉仕の難しさは、感謝心(恩)を求める自分の心。
奉仕は個人的な趣味なのに・・・
社会的な意味を持たせたら、それは奉仕ではなくなる。
(国が民に求める奉仕は、奉仕じゃないのだよ)

恩(感謝)は、着せるモノじゃない。
だから相手に感謝など無くても関係ないのだ。
恩(感謝)は、着るものモノだ。
自分が、勝手に着るモノだ。
そして、これは着ると結構温かいモノだ。
着せると、薄ら寒いモノでもある。

恩は着せるモノではない、という意味。
更に掘り下げてみる。
〜してもらったから(着せられた)、も無くなる。
つまり、〜してもらったから、着るのでは無い。

恩(感謝)を着るのに理由は無いのだ。
だから、この言葉が深い。
通常、恩を感じるのは、着せてもらうからだ。
何かをしていただいた、から・・・

だが、その間違いを指摘された。
着るのに、理由無し。
着れば着るほど、温かい人となる。
この言葉の前では、つまらぬ説法など、屁のようだ。

理由なく着る恩が増えると・・・
人の世は、とてつもなく上手くいく。
調和し、共存し、協力して世を盛り立てる。
真の意味の、御蔭様、になるのだ。
御蔭様と恩(感謝)は、深浅があるのだ。

更に、その先がある。
人の世は、平和、になってしまう。
人類が発生してから、一度も創れなかった状態だ。
それが、恩を着るという深い意味だ。

だから難しい。
方法は簡単なのに・・・
人は、未熟で不良品の段階だ。
各自の、一歩で世界は変われるのに・・・

ところで、
ワシは裸族だから
恩は着ないし
着せない・・・

人を見るのは誰でもできる。
見て、観るのは、少しだけ難しい。
見ないで、観るのは、もっと難しい。
それでも、一部なら、まぁ、観る事はできる。
見えないモノを扱う仕事なら、多少は観えるものだ。

だが、心は不意に動く事がある。
どんなに名人でも予測もできない方向に動く事がある。
元々、心は辻褄が合わない性質なのだ。
多種多様なモノが潜んでいる器だ。
思いもかけないモノが飛び出る事もある。

だから、観えても、その通りにはならない事がある。
間違って観えたわけじゃない。
人は、そういうモノなのだ。
その事を、充分わきまえた上で、人と接していく。
すると、人って、結構面白い。
この世は、結構、悪くないものだ。

人の範囲には自分も当然入る。
自分の心、行動が観えない場合もある。
分析して、自分を観える場合もある。
だが、その通りにならない場合も多々ある。
自分も辻褄の合わないヤツなのだ。
アテにならないヤツなのだ。

鰻売りの又六が小兵衛の隠宅に訪れた。
そろそろ嫁を、と小兵衛や弥七も考えていた。
ところが、女を連れてきている。
おはる、の見立てでは妊娠しているらしい。
その顔を見て、さすがの小兵衛も驚いた。
杉原秀、根岸流手裏剣の名手で一刀流の道場主だ。

まさか、という組み合わせ。
さすがの小兵衛も「びっくりしたわえ」
これだから、人と人の不思議さは変わりない。
心など分析しても、とんでもないモノが出てくる。
心とは違った、とんでもない行動もおきる。
いつでも、節穴の目を自覚していた方がいい。

めったに驚かぬ(胆が据わっている)弥七だが、
「こうしたことが、あるものでございますかねぇ」
秀と又六の組み合わせには、弥七も驚いたようだ。
しかも、秀から手を出したと看破した小兵衛の話に、
「ま、まさか、あの、お秀さんが・・・」
自分を常に厳しくしている、折り目正しい剣客の杉原秀だ。
弥七、まだまだ人を観るのが甘いなぁ・・・
オンナには、そういうところもあるのだよ・・・

母親と二人暮らしの又六。
秀の事を母に言うと、反対された。
「身分が違うし、人の出来が比べものにならないから無理だ」
又六も、よく働くし心根も良いし、信頼もできる。
だが、秀は人として、一段も二段も上等に出来ていると観たのだ。
又六の母親も、人を観る目があり、人の世の仕組みを知っている。

小兵衛も人の世を観ている。
「たしかに、おふくろの言う事も一理ある」
ワシは若い頃、人と人の組み合わせには、何の障害も無いと思っていた。
まして、身分などは、人が作った幻想だ。
心も、未来も、人は平等だ。
原則論だけで、人の世をみていた、浅はかな頃だ。
もちろん今も浅はかだが、原則をそのまま人の世に使わない。

身分、家柄、才量、価値観などなど。
それらは、夫婦になるのに障害にならない。
単純にそう思っていた時期があった。
今は、障害になると知っている。
知っているから、乗り越えられれる事も知っている。
困難を承知の上の方が、障害は乗り越えやすいのだ。

だが、たかが夫婦になることだ。
無理して乗り越えなくてもいい。
気持ち(心)は空ろにも、変化もする。
意地をはって夫婦になるのも勝手だ。
だが意地を通すのは、決して美しい生き方でもない。
そういう事も、だんだんわかってきた。

どちらでもいいが、苦労は少ない方がいいだろう。
母親も小兵衛も、そういう思いだろう。
絶対反対でも、絶対賛成でもない。
人の世は、二人だけの世界ではない。
アホらしいほど、バカな事柄が影響するのだ。
若い頃は、アホやバカを認めなかった狭量の考えでいた。
自分が、アホやバカでもあると、思いもしなかった。

釣り合わぬ二人だが、秀は妊娠している。
しかも二人とも乗り気だ。
釣り合わぬ、という点では小兵衛とおはるも同じ。
そこで又六は、小兵衛に母親への説得をお願いする。
「おふくろは、先生を神様のように思っています」

小兵衛「ワシは人間の端くれだ。
お前たちと同じような事をしてきたのじゃもの」
おはる「あい。剣術は神様でも、女にかけては・・・」
人を観る名人でも、そんなものだ。
だから、人は面白いのだ。
そして、人は可愛いのだ。

結局、又六の母親は秀の妊娠に気づいた。
小兵衛からも「ワシが仲人する」と言われて承知した。
三冬と同じような素直な女剣客、杉原秀。
余計な見てくれなどに心を奪われず又六を選んだ。
人の世など、いずれ変わるのだ。
ならば、結構、似合いの二人だと思う。

この剣客商売も最終巻になってしまった。
秋山小兵衛は93歳まで生きる設定になっている。
息・大治郎や三冬、孫の小太郎を考えれば、物語は続いた。
だが、作者の池波氏が急逝してしまう。
惜しい・・・

小兵衛は嘗て剣を交え、剣客同士として倒した相手がいた。
26年前の40歳の小兵衛。
「もうだめか・・・」と思ったほどの相手だった。
その息子と知り合い、危急を救った。
もちろん、父を斬った相手だと名乗った後の出来事だ。

人の世の不可思議さ。
どこかの宗教がいうような因果応報などではない。
この世は、そんなに単純な法則で成り立っていない。
当たり前だが、人は血が通って生きているのだ。
多種多様と交じり合いながら、生きているのだ。
理屈だけでは、観る事も愉しむ事もできない。

幾つもの顔。
幾つもの心。
自分でも理解できない行動。
不可思議な生き物として、人は、在る。

人間という生き物について
「そんなに簡単に割り切れるものではないよ。
だから、面白いのさ」
池波氏の言葉だ。
人間賛歌は、こういうことだと思う。
素晴らしいから、賛歌じゃないのだ。

わけがわからないけど、生きている。
ならば、賛歌だ。
そこには、面白さがある。
愉しさがある。
生きる二本柱に、食と性がある。
ならば、賛歌だ。
池波氏の言葉は、カッコイイ。


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