12年7月〜12月のコラム          コラム10目次に戻る
生老病死・1〜46    あつい・1〜12   にがて・1〜19

得意・1〜33   パソコンが・1〜30    石1〜17
  

生老病死・
後半

あつい

にがて

得意

パソコンが


生老病死 7/28〜9/11


    生老病死・前半

この仕事(治療)に出会ってから気づいたことがある。
気づいた、と勘違いしたこともある。
気づきは、そのモノの一面だと知ったこともある。
その一つに「生老病死」があった。

嘗てブッダが疑問を抱いて出家した原因だ。
何故、人は苦しむのに生まれるのか?
何故、人は老いに苦しむのか?
何故、人は病に苦しむのか?
何故、人は死に苦しむのか?

その時はブッダ(開かれた人)ではなく、シッタルダという王子だった。
よほど恵まれた人か、ヒマな人か、アホな人の疑問だ。
シッタルダは恵まれていた。
ヒマでもあった。
ある意味、アホでもあった。
マトモなら、そんな疑問の為に家出(出家も家出も同じだ)などしない。
妻も子も愛人もいたのに・・・

私はこの仕事以前に思った。
生老病死を同じカテゴリーに入れるのは間違いだろう。
生死は、神(例えです)の領域。
キッカケや早めることはできても、基本的には人の領域ではない。

老(成長も含む)と病は人の領域だろう。
シッタルダは、アホだ。
(注:私は一応仏教寄り立場です。
迷訳ながら般若心経だって書いてるだからぁ・・・
お坊さんや信者にケンカを売っているわけではありません・・・)

次に思った。
老(盛衰)は肉体の一方向の変化だが、病は本人の生き方の変化だろう。
老は避けることはできないが、早めたり遅らせたりはできる。
病は、避けることもできるだろう。
だから、老と病も一緒には論じられない。
シッタルダは、アホだ。

シッタルダは人の苦しみとして生老病死に疑問をもった。
だが、生まれてきた事は苦しみではないだろう。
生きている間に、それぞれが感じる事の一つだろう。
生が苦しみなんていうのは、とても根暗な人だ。
シッタルダは、きっとヒマ過ぎて根暗になったに違いない。
やはり、アホだ。

やがてアホのシッタルダは目覚める。
アホを貫いて、目覚める。
シッダルダはブッダ(目覚めた人)に変身した。
すると、生は喜びであると看破する。
だから、苦しむ必要は無いと説く。

ところが、今でも生は苦しみだと公言する人達が多い。
生なんて、自分の体験しか出来ないのだ。
その体験も、一つだけしか体験できない。
オトコに生まれたら、オンナの生は体験できない。
日本に生まれたら、アラブ人にはなれない。
人間に生まれたら、ナマケモノにはなれない。
・・・ナマケモノには、なれる、か・・・

と、ともかく
そういう、とても狭い体験しかしていないのに・・・
人は苦しむ為に生まれている。
この世は修行だ。
人生は○○だ。
などと、アホ丸出しを平気で言う。

アホのシッタルダならともかく、ブッダ(目覚めた人)はスゴイのだ。
根暗な人は、自分はブッダより偉いと思っているのだろう。
他人を根暗にするような扇動するより、無人島にでも行けばいいのに。
無人島で思う存分修行すればいい。
嘗て、笑っていたことなど忘れているくせになぁ・・・
赤ちゃんは笑うから育つのだ。
生が苦なら、人類は遥か昔に途絶えていたはずだぜ。

私の間違いだった。
釈迦族の王子、シッタルダはアホを貫いたのではない。
アホだから生真面目なのは間違いないだろう。
生真面目はアホなのだ。
アホの王子は貫いてもアホの王様にしかなれない。
貫いたのではなく、放棄したのだ。
アホを放棄したから、目覚めた人(ブッダ)に変身したのだった。

シッタルダが特別なわけじゃない。
アホは人類の共通の性質だ。
放棄出来るのも特別じゃない。
誰でも出来るのだ。
放棄すると、根暗から根明かになれる。
その事を伝えたのが、仏教というヤツだ。

生きる、ということは、明るいことだ。
楽しみや嬉しさや気持ちよさが沢山あるぞ。
苦しみは、ちょっとした事で乗り越えられるし変われるぞ。
ブッダとなった嘗ての釈迦族の王子はそう伝えた。

しかも、決して偉い弟子にだけ教えたのじゃない。
最初はタヌキやウサギやトリに説法した。
次は八っつあん、熊さんなどにだ。
誰でも通じる言葉で話した。
だから、本当だった。
難しい言葉にしたのは、アホな弟子達だった。
だから、伝わらなくなった・・・

生きる、を明るく出来る。
ならば、老も同じ。
ならば、病も同じ。
ならば、死も同じ。
ブッダは、そのことを伝えた。

お前ぇら、生きるのは苦しみだけじゃねぇんだぜ。
上手くすりゃ、苦しみだってなくなるぜ。
安心しな。
老も病も死も、心配いらねぇぞ。
(ブッダは本物の伝法な口調だ)

根暗なシッダルダから根明なブッダに変身したら優しくなった。
超優しくなった。
それを、優秀という。
優しさに、秀でた人だ。
ブッダの教えは、優しさに満ちていたのだ。

ブッダの優しさは感じたが、ピンと来ない。
日常の工夫、意識の持ち方で変われるのはわかる。
それでも「生老病死」という一括りの共通項がピンとこない。
つまり、縦糸が観えなかった。

縦糸を「経」というと知った。
経が観えなければ、せっかくの教えもイマイチ。
ぐうたらとはいえ17年間、プロとして生命に係わった。
そして、やっと縦糸が観えた。
観えたら、なんのことはない。
最初から目の前にあったモノだ。
ワシも筋金入りのアホだなぁ・・・

全ての共通項。
全ての最優先事項。
そして、それ以外はカスのようなもの。
気づけば、バカみたいに当たり前だった。
毎日、毎時、目の前にあったのになぁ・・・

解く鍵。
縦糸、あるいは、本道。
この世で最優先するモノ。
生命。

生命に比べたら、真実などカスだ。
ほとんどは、これを勘違いする。
真実が重要だと勘違いする。
だから、いつまでたっても経が理解できない。
せっかく教えてくれた事を、小難しくして理解しない。

生命を縦糸にすれば、ほとんどの事は解ける。
それ以外など、ほとんど重要じゃないし・・・
ブッダは優しく、易しく話した。
何しろマジメに苦行して、死にそうになったのだ。
そして、そのアホな行為に気づいた。
生命が大切。
すると、全てのギモンが解けた。

鍵は見つかった。
ならば、どう使うかだ。
バカでもアホでも政治家でも使い方。
それをブッダは「慈悲」と示した。
ちなみに、キリストは「愛」と示した。

生命の使い方、接し方だ。
慈悲、あるいは愛。
あるいは、優しさ。
難しい言葉など、何も要らないだろ。
言葉が必要だと言う人は、立場を守ろうとしている。
生命を守るのに、言葉は要らない。
優しさで、充分で、完全だ。

老(成長を含む)も優しささえあれば、明るい。
あるいは、慈悲、あるいは、愛。
国の未来も同じ。
接し方は同じだ。
何しろ、国は生命の集団だ。
電力不足だの経済だの、生命の前ではカスだ。
まぁ、カスだけしか見えない政治家だらけだけど・・・

慈悲や愛を社会の生き方と勘違いする。
すると、とても窮屈な生き方になる。
何しろ、嫌な人は大勢いる。
嫌でなくても、愛せない人は大勢いる。

愛を唱えながら争う宗教は多い。
慈悲の心といいながら、宗派の争いは絶えない。
愛を唱えながら、他国の上から爆弾を落とす。
慈悲といいながら、困っている人は絶えない。
世界の6割は飢えているのだ。
唱える神父や坊さんは肥えているが・・・

確かに社会の生き方にも応用できるだろう。
だが、それは生命に対する接し方が出来てからだ。
肉体の生命に慈悲や愛を注げるから、他にも注げる。
理屈だけでは、慈悲や愛は言葉の商品にしかならない。
宗教組織は、言葉を商品にしている商人だ。

老は生死の間。
生きている期間は老(成長から衰退まで)という。
老人だけが老じゃないぜ。
20代から見れば30代は老だ。
10代からなら20代も老だ。
幼児からなら10代も老だ。

老の過程で病となる。
必ずなる。
これがワシには理解できなかった。
病にならない人もいるだろう、と思っていた。
病を知らなかったからだ。
病を西洋医学的な病名の付くモノと限定していたからだ。

だから病は生き方で避けられるモノだと思っていた。
何らかの不都合が病だと思っていた。
ほとんどの健康本もその立場だ。
精神世界の本や話も同じだ。
表面の浅い病にこだわっていたからだ。

病は、ほとんど西洋医学の病という固定概念だ。
だから病の一面しか理解できない。
だから病は悪であり、苦であり、不都合としている。
もちろん、その一面がある。
だが、病はそれだけではないと気づいた。

病を相手に仕事をしていた。
やがて生きる事が対象となった。
生命が相手になった。
一生が相手になった。
そして、病の意味を見直した。

自然から外れると病になる。
病名が付かなくても、病になる。
天然自然の生き方。
おそらく人では無理だと思う。
だが仮に、それが出来たとしよう。
それでも病になる。
そういう事に気づいた。

病に疑問があったのは20歳の頃だった。
マクロビオティックという正食関係からだった。
人間にとって正しいバランス(特に陰陽)の食事で健康になる。
極端にいえば、何でも治る、病気にならない。
その巨匠が桜沢という人だった。
だが、長寿ではない。
調べると、健康の巨匠達は長寿でない人が多い。

インドにヨガの達人域に達した人達がいる。
リシという達人にマハという尊称をつけ、マハリシという。
その一人に南インドのアルナーチャラ山で一生を過ごした裸の聖者がいた。
ワシも登ったが、山自体が遠赤外線のようなモノを出していた。
だから裸足なのに温かい。
おそらく肉体的にもいいのだろう。

ワシの精神は(好んで)堕落しているが、聖者は立派だ。
肉体も精神も上等。
なのに・・・病になる。
当時は解らなかった。

その聖者はガンだった。
最初知った時はショックだった。
う、うそだろ・・・
だが本当だった。
そして手術をした。
手術、するんだ・・・
ショックだった。
そして、再発した。
再発、するんだ・・・
ショックだった。

どういうことだろう。
偽者の聖者だった、なんてオチはない。
行けば判る。
マハリシはホンモノだ。
だが、どうして?

その時は、まだ病の一面しか知らなかったからだ。
病が何であろうと関係ない。
因果を持ち出せば病の種類も関係あるだろう。
だが因果自体に大した意味が無いとも知った。

因果は、インガケン(いいかげん)だ・・・
ならば病の種類もいいかげんだ。
そもそも、生物(例えば人間)だって個々だ。
一人一人違うモノに因果を当てはめても意味がない。
病だって、似ていても全て違うモノだし・・・

西洋医学的な病名による病の区分けにモンクを言うつもりはない。
病名による区分けで、多くの病が回復している。
病に対する理解と対策も出来る。
病名は苦の病からの脱却に大きく貢献している。
それは間違いないだろう。

だが。
病名によって区分けされた病が同じではない。
同じように対策すると効果率が高い。
高いが・・・同じではない。
弊害は、同じだと思い込んでしまうことだ。

例えれば、一つの囲いの中の牛。
囲いの名前が病名だ。
中の牛は似ているタイプを集めたが、個々にいる。
病は個々なのだ。
タイプが似ていても、存在の目的が違う。

人生、イロイロ。
人が多種多様(個々)だから。
同じ日本人でも、同じ県民でも、同い年でも違う。
病は、イロイロ。
同じ病名でも、同じ進行状況でも、結果も目的も違う。
人が、多種多様(個々)だからだ。

ある時、何かで読んだ言葉でひらめいた。
人はキッカケが無ければ死ねない。
そんな風に考えたことがなかった。
これが正しいかどうかは問題ではない。
ひらめいたのは、病だ。

病には幾つもの役目があるのだろう。
それは病によって生き方を見直す人が多くいた。
病によって人と人の係わりが深まる人もいた。
病によって、幸せを感じる人さえいた。
だが、死の為にわざわざ用意されているとは思わなかった。

自然のままの生き方。
それが出来たら、自然死しかない。
自然死とは、何の不都合もなく自然に火が消える。
単純に、そんな固定概念の想像しかなかった。
老衰死とは、そういうものだと思っていた。
だが、この仕事に係わり、生命の凄さも知った。
だから、自然死に説明できない違和感があった。

天寿、天命。
心身が健康。
不慮の事故、災害等にも無縁。
最後は蝋燭が燃え尽きるように、そっと終わる。
そんな老の最後の瞬間。
そういう固定概念があった。

その前に、病気と事故は全く別のモノだと思っていた。
病は内側からの不調。
ある程度の時間が必要。
事故は外側から不慮に起こる。
時間は一瞬。
そのため事故は、不注意によるものは防げるが多くは無理。
だが、病のほとんどは防げると思っていた。

次第にその違いがアイマイになってきた。
一つは病の現れ方だ。
肉体は多少の不調和を修正しバランスをとっている。
それが崩れると、更に大きな修正をする。
それさえ崩れ、変性などを経て病になる。
ならば、病はどの時点からだったのだろう。

そもそも諸行無常の世界だ。
時が存在する世界だからだ。
時とは、変化(移動)することだ。
時が、常に存在する世界だ。
病という状態を決めるのにも意味がないかもしれない。

老と病は同じ根からの別面。
そう気づくと、生死の間にある意味が解る。
生から死までの変化。
老は肉体のメイン変化。
結構規則正しくプログラムされている。
一定の時間で成長し、衰退する。

その老に付随して精神がある。
そして、刺激として病(怪我を含む)がある。
個を超えた刺激として、事故や天災がある。
事故には個から発するものと、集団から発するもの(戦争等)がある。

老と病は「生きる事」の一面。
病を不都合であり、不調和であり、不要とするだけだと観えなくなる。
最初から老にもれなく付いてくるオマケだと思えば観える。
最初から必要必然だと思えば、不都合だけでもなくなる。

更に一歩進む。
必然なら、不都合や不調和まで必然に入る。
病の苦の面さえ必要であり必然かもしれない。
人が生きていくのに必然な病。
老と同じく、必ず起こるモノ。

気をつけても精進努力しても病になる。
なるが、デタラメでいいわけがない。
何も気にしなくていいわけじゃない。
生命を大切にしなければ、苦の病になる。
苦が大きく深く厳しくなる。
不必要な病になる。

生命最優先。
それで起こる病は、必要な病だけになる。
苦が好きなら生命(この世では肉体)に負担をかければいい。
苦が嫌なら、生命を大切にすればいい。
それで病の質が変わる。
すると、老の質や速度が変わる。

生命だけを見つめる。
すると生き方が判る。
正誤ではない、と判る。
違う道になる、と判る。
生き方は、本人が決める事だと判る。
当たり前なんだ、と判る。

病が誤りじゃない。
健康が正しいわけじゃない。
苦しい病が悪じゃない。
もちろん善でも正でもない。
違い、だけ。

おおよそ、100年くらいの今生だ。
正誤にこだわるより、自分の判断を優先させよう。
ただし、違いは認識した方がいい。
生命(肉体)の大切さは、今生では絶対優先と決まっている。
時が一方に常に流れる約束とは、生命最優先という意味だから。
肉体を離れてからの生命は、その後から始まる。
それも当たり前なんだ。
だから精神最優先の宗教組織は、間違いか嘘か詐欺か未熟かのいずれかだ。

病が観えると、死との関係に気づく。
死を単独でとらえてい時は解らなかった。
生命はつながっているのに・・・
大きく広く観れば、肉体を離れてもつながっているのかもしれない。
だが、かもしれない、と段落をつけておこうね。
確定して話を続けてしまうと、今生を軽く扱ってしまう。

今生は特別な世界だと思う。
物質(肉体)が優先している。
そこに大きな意味があるようだ。
時という、常に変化変質を併用する世界だ。

肉体にとっては、最終形になる。
この世の生命の最終形にあたる。
それは「時」からの解放なのかもしれない。
しれないが、この世にいる間は想像でしかならない。
大切なのは、この世では肉体と時ということになる。
誰であっても、この世では貴重な存在となるようだ。
結構くだらないワシでも・・・

       

   上に


    生老病死・後半

この世での生と死。
そこに時間は無い。
出現という現象が生。
全てに意味があるなら、生に意味がある。
おそらく意味はあるだろう。

だが、その内容は勝手な推測でしかない。
前世を知る方法から、この世に生まれた意味を解く人もいる。
催眠で生まれる前まで遡るなど。
しかし、事実の証明にはならない。
まして生まれた意味まで確定させるのは無謀だろう。

死についても同じだ。
死に意味を持たせたい気持ちはワシでもある。
それまで生きてきた事実があるのだ。
意味はある。
あるが、解釈が正しいかは判らない。
人間では無理だと思う。
人間の考えを超えて、この世の仕組みはあるのだから。

人が解説する死の意味は、生きてきた意味と重なる。
何らかの人間社会に影響を与えた人は堂々と意味を語る。
それは、結構みっともないミエにも似ている。
自分なりに、ある程度満足した生き方をした人も同じだ。
生きてきた意味があった、と死を語る。
それも、自分勝手な解釈だと思う。

生まれて、社会に参加せずに亡くなる場合がある。
ならば、その人の死は生きてきた意味がないのか?
幼児が死ぬ。
小学生で亡くなる。
中学生も亡くなる。
高校生も亡くなる。
まだ、自分の道もみつけてない。
ならば、生きてきた意味はないのか?

時々、その死が他の人々の生きる事に影響する。
すると、その死が意味があったという言い方をする。
無謀交通事故で亡くなってから法律が改正された場合などだ。
ならば、改正されなければ意味はないのか?
価値が無ければ意味にならないのか?

自分で最後の時に余裕があった場合。
最後に振り返れる人は少ないだろうが、あった場合。
生きてきた事、その死に満足はできるだろう。
個人的な満足が大切かもしれないし、充分だとも思う。
それは理想的かもしれないし、当たり前かもしれない。

だから生きてきた事や死に、他が価値や意味を付けるのはズレる。
生きたのは本人。
それが長くても短くても、他がアレコレ言えない事柄だ。
生命は、全てそうなのかもしれない。
意味は、本人のもの。
それが理解できても、出来なくても。

死に関しては、アレコレ言えない。
人の分際で口出しできない事柄のような気がする。
生に関しても、同じだ。
何故生まれたのか、その意味は、などとは口出しできぬ。
ある程度まで出来るのは、間の老と病だろうな。

老と病は本人と他が影響する。
本人の生き方。
特に肉体への労わり方が大きく影響する。
そして、他。
例えば人間社会、環境などだ。

単純に正誤はないだろうが、苦が伴えば修正の余地あり。
本来より早く老が進めば、修正の余地あり。
要らぬ病は、修正の余地があるだろう。
生命は、結構強くできている。
そして人の天寿は、かなり長くできているようだ。

生命の労わりが足りないから老が進む。
病が増える。
生命への労わりを、愛という。
愛は感情ではなく、労わる行いをいうのだと思うぞ。
生命は当然、自分だけではない。

慈悲も生命を軸にすると解りやすい。
(この世の)生命は限りがある。
必ず滅する。
儚い寿命でもある。
それを悲と称するなら、悲を慈しむ。
愛と同じだ。

生命を慈しむ。
自他の生命を慈しむ。
時が経てば、お互い滅する生命だ。
せめて、同じ空間にいるなら慈しもう。
お互いに。

生命を愛する、慈しむ。
すると、不要な殺し合いはなくなるだろう。
戦争は人間だけが無制限に行う。
それが無くなるなら、人間は他の生物の助けが出来る。
本来、人間の持つ特権だ。
人間の特権は、他を補助できる事にある。

ブッちゃん(仏陀)が出家したキッカケ。
生老病死の苦。
そして、答えが観えてブッダ(開かれた人)になった。
生老病死はこの世の生命の姿。
苦を救う答えが、慈悲。
優しい。
とても、優しい教えだ。

何故、生まれたか。
そんな事は、わからねぇ。
何故、老いるのか。
そんな事は、考えても仕方ねぇ。
何故、病になるのか。
そんな事より、回復を考えようぜ。
何故、死ぬのか。
生まれたからだろ。

あるいは
何故、生まれたか。
必要だったんだろ。
何故、老いるのか。
必要なんだろ。
何故、病になるのか。
必要だったんだろ。
何故、死ぬのか。
必要なんだろ。

ワシの仕事は生命力の活性。
老との付き合い。
病との付き合いが多い。
病からの回復、脱却依頼が多い。

本来は病を相手にするのではなく、健康が相手だ。
だから、老を相手にするのが仕事となる。
明るく元気で生きる手伝いだ。
若返る手伝いだ。
なのに、主として病を観る。

病は必要と不要がある。
必要な病は必ず訪れるし、それから脱却はできない。
とはいえ、必要と不要の区別は人間ではできない。
感じることはできるし、勘も働く。
だが、確定確信することはできない。
だから、病は全て回復するように相手をする。
病に対しては、今までと同じく消す事だけを目指す。

自分が作った病がある。
他が原因の病もある。
いずれも、必要があるから病になる事がある。
とはいえ、圧倒的に不要なものだ。
特に日常生活の不摂生から生じる病は、ほとんど要らない。

ならなくていい病をつくる。
自分が原因で苦しむ病を生む。
最近の人間の病は大部分が不要だろう。
毎日の、少しの生命に対する優しさで防げるものだ。

肉体と心は影響しあっている。
だが、優先するのは肉体だ。
ところが、人は愚かにできている。
頭の良し悪しに関わらず、愚かにできている。
生命に対する配慮が浅はかにできている。
心を優先し、心だけしか配慮しない人も多い。
基本的に心はロクデナシなのになぁ・・・
(この説明は更にメンドウだから、また後で・・・)

病気なんか治したって、人は100年くらいで死んでしまう。
治しても、治さなくても死んでしまう。
治す事に、こだわるな。
結果に、こだわるな。

ならば、その過程が大切か?
一所懸命する事が大切か?
それも、ポイントがずれている。
間違った回復法を一所懸命すると、病と苦しみは深く広くなる。
しかも、正しいと信じているから変更がし難い。

間違いを一所懸命しても、ロクなことにならない。
生真面目が多くの迷惑を生むのが、一所懸命なのだ。
戦争は、不真面目では起こらない。
争いは、正しいと信じて進むから起こる。
もちろん、一部の煽る人達は間違いを知っている。
欲から戦争を起こすが、一所懸命に行動する。
そして煽られた人達の大部分は、生真面目に戦争をする。

一所懸命が大切なのではない。
多くの教育や道徳を説く人達は一所懸命を重要視する。
それで世の中が楽しく、住みやすく、幸せになったか?
商人タイプの成功者といわれる人達も一所懸命を強調する。
だから、今の私があるのです、エヘン!
一所懸命しても潰れた会社や仕事や業界は多いのだ。
そして、成功者がいつまでも続いた例も無いのだ。
盛者必衰・・・

この世に無駄なモノはない。
ゴキブリもカメムシも政治家も官僚も。
全ては使い方、活かし方にある。
病も同じ。
消すという結果だけが正しい方法ではない。

結果や過程が重要ではない。
病によって素敵に変わる、が重要だ。
病によって気づきがあるか、が重要だ。
結果で気づきがある場合もある。
過程で気づく場合もある。
病から離れて気づく場合もある。

いずれ亡くなる生命だ。
だが、生きている事に大きな輝きを得るなら、病は役立つ。
苦しみや生命に影響するだけに、大きく役立つ。
病は大きなチャンスでもある。
病によって、その後の人生が輝く人は多いのだ。
悲観ばかりでは、見逃してしまう。

生命に不都合を感じない時、特別に生命を注意注目しない。
生活や癖や意識等を直そうとは思わない。
聞く耳をもとうとしない。
毎日を普通に送れるからだ。

ところが病となると、いろいろ注意注目する。
病から脱却できるなら、いろいろ直そうとする。
気づくことも多々ある。
生命の声を聞こうとする。
それで変わったなら、それ以後は以前より素敵になる。
病が変わったのではなく、自分が変わったからだ。

生死の間の老。
その老の質を高めるのが病でもある。
もちろん、老を急速に進め、死まで到達させることも多い。
つまり、命懸けのグッズだ。
病にならないで気づければ、それに越したことはない。
そうすれば、最後の病だけですむ。
気づきの為とはいえ、苦しみは少なく小さい方がいいのだ。

何故、この世に生まれたか?
何故、この世は色界(物質界)なのか?
何故、この世は時間が設定されているのか?
何故、この世は意識に肉体が専属なのか?

どうやら、この世は特徴がある。
物質界は不自由に創られている。
空間を移動するにに時間がかかる。
移動しなくても時間が進む。
一定時間で、物質は滅する。
物質界は、常に変化している(無常)。

本質体といわれる核、あるいは魂、あるいは霊(精神)。
変わるのが目的なのに、自動では変わらない。
物質(肉体)ではないから、時間の影響も受けない。
ナマケモノの魂は、あの世(非物質界)では変わらない。
変わらない魂は、いらない・・・
役にたたないから。
役にたたないモノは、存在の意味がない。
書いていて、耳が痛いぜ・・・

そんなナマケモノの魂。
努力と根性の苦手な魂。
そういうダメな魂にも救いがある。
い、いや、むしろダメな魂にこそ救いがある。
それが、この世らしい。

つまり、この世に存在するモノ達は皆同じ。
我等生物皆兄弟姉妹。
ダメ魂の同族なのだ。
立派な魂は、この世には生まれない。
例外はあるだろうが、基本は全員同じだ。

何もしなくても、勝手に変化する世界。
万物が流転し、諸行は無常。
多少の違いや濃淡の違いはあっても、魂は変わる。
何かすれば、更に変わる。
変わればいいわけじゃないが、変わる。
転生を繰り返せば、タマにはマトモな変化もある。
この世は、そういう天国の仕組みらしい。

ダメ魂の集団だから、無理して苦を生む。
戦争や諍いなどだ。
特に人間は他への影響力が大きいから、迷惑度も大きい。
必要でない苦しみを生み、他へと広げる。
ダメ魂以外のナニモノでもないだろう。

苦が伴わないと、気づけないレベルの魂ともいえる。
この世の仕組みは素晴らしいが、この世が素晴らしいわけじゃない。
この世は、そこに暮らす生物によって決まるからだ。
生物達の生き方によって、苦か楽か分かれる。
シッダルーダが、この世は苦ばかり、と悩んでいたのは勘違い。
この世は、生き方により素敵に変わる仕組みがある。
やがてブッちゃん(仏陀)に変身して、それを説いた。

生死に苦楽は関係しない。
老病に苦楽が伴う。
老は自然体なら苦楽は薄い。
そして楽が多くなりやすい。
ポイントは、病だけだ。

心の苦は本人次第で生まれるし消滅する。
心は元々幻のようなものだ。
この幻は生命力が低下すると大きくなる。
生命力が旺盛なら、心は小さくなる。
つまり、心は悩み苦しみが質としてある。

喜び、嬉しさ、楽しさ、優しさは心ではない。
多くの人が勘違いしている。
肉体が元気な時の現れだ。
生命力が正常に旺盛なら、普通に喜ぶ。
心が楽しいのではなく、生命が楽しいのだ。
老の肉体と生命力の調和の関係だ。

赤ちゃんは何もなくても笑顔なのだ。
意地悪な赤ちゃんはいない。
優しさで満ちている。
楽しさ、嬉しさで満ちている。

生命力は肉体に反応する。
心は肉体の生命力の調和度が高いと薄くなる。
調和がとれないと、濃く大きくなる。
そして苦という感覚を生む。
心は、小さい(鎮める)のがいいのだぞ。

心の小さい人になろう。
それが、我々人間の目指す生き方。
心の大きな人になろう、というのは勘違い。
心が大きくなると、苦しみや妬み、嫉み、恨みが大きくなる。

社会や学校は逆を教えているのではない。
心を知らないだけだ。
固定概念の心のイメージしか知らないだけだ。
見えない心を観ようとしなかっただけだ。

見えないモノは信じない。
などと平気で言う人も多くなった。
無知なだけだ。
苦しみも信じる心も見えないのになぁ・・・
生命だって見えない。
優しさも愛も見えない。
運命も宿命も見えない。
この世は、見えないモノで成り立っているんだ。

見えないモノは大切だが、扱いがアヤフヤになりやすい。
基準が見えないのだ。
専門家という人達のほとんどは頼りにならない。
見えないモノを扱う専門家は、アイマイさを知っている。
アイマイを知らない専門家は、ニセモノだ。

だから、見えないモノは自然体で相手をする。
のめり込むと大怪我になりやすい。
見えないモノにのめり込んで、幸せになる人はマレだ。
周りを幸せに出来る人は、更にマレだ。
大切なモノは、そっと扱うに限るのだ。

この世は色界(物質界・肉体界)。
だから助かる。
誰でも見えるモノ、触れるモノで成り立っている。
見えないモノは、見えるモノに内蔵されているのだ。
そのほとんどは、肉体に内蔵されている。
そっと扱う大切なモノは、肉体や物質と共にある。
見えないモノだけを扱おうとするのは間違いなのだ。

心の病も肉体で対応できる。
老も病も肉体が相手となる。
そして、苦を防ぐ方法。
苦から回復する方法。
それらが、同じ行為でいいのだ。

慈しむ。
愛しむ。
ブッちゃん(仏陀)は簡潔だった。
生老病死の苦を救う方法。
誰でも出来る方法。
難しい事なら、ほとんどの人は救われない。

キリちゃん(キリスト)も簡潔だった。
愛のみ。
それを、心に置き換えたのは不肖の弟子達。
あるいは、策略ある(宗教という)組織。
始祖の二人はホンモノだった。
が、後に続く弟子達は未熟過ぎた。
残念・・・

生老病死の中で病だけが異質に感じていた。
病は人生に必ずあるわけではないだろう。
苦というキーワードからなら、病だけだろう。
生死はキッカケや影響はできるが、本質は人を離れる事柄だろう。
老(成長と衰退)だけが、人生に大きく係わるだろう。
そんな浅い考えでいた。

たしかに病は異質。
強烈でもある。
浅いワシでも、病に係われば人生を見直す。
生老死では、見直せずに過ごしてしまう。
生命の変化形として生老病死があるのだろう。
そして、最も影響するのが病になるのだろう。

病によって、老が変わる。
病によって、気づきがある。
老が幸せに変わるなら、大きな役目となる。
すると、生が活きる。
そして、死が活きる。

生も老も死もチャンスになり難い。
本当は、存在しただけでチャンスでもあるが・・・
そこは、なかなか、気づき難い。
自分の生老死に関してだ。

自分では生死が一瞬だ。
チャンスという意識は起こらない。
老は毎日の僅かの変化だ。
気づきにくい変化だ。

他(人以外も)の生老死はチャンスになりうる。
生は、多く、大きく気づきを教えてくれる。
老も、多種多様だから、いろいろ気づきもある。
死は、最も強く考えさせてくれる。
ただし、他の生老死をきちんと観るならば。

だが、病はチャンスでもある。
気づきやすいからチャンスになる。
幸せに近づくチャンス。
更に意味深く変われるチャンス。
辛い自分だからこそ、気づきやすくもある。

流されるか、活かすか、で何事も変わる。
病は流されると、更に深い苦しみになる。
活かすと、その後の人生が楽な方向に変わる。
どちらに進むのも、本人次第。
決めるのは、本人以外にはない。
正誤はない。
苦しみの人生も体験の一つだし・・・

変われない人生は無い。
この世は、否応無しに変わるように創られている。
同じ苦しみが続くと思うのは間違い。
苦しむ方向に向かっているだけだ。
あるいは、方向を変えてないだけだ。

道は常にゆっくりと進んでいる。
時間という道だ。
この道幅は、かなり広い。
移動するのは、自分の足だ。
だが、自分だけしかいない道ではない。
他が関係してくる。

実は、病が異質なのは自他の関係がある。
生も死も老も一人だけの出来事。
ところが病は他が関係してくる。
深く厳しい病ほど、他が係わるようにできている。
この世は自他が係わるようにできているが、特に濃いのだ。

自力で道を移動できない人もいる。
ならば、方向を変えられないのか?
ところが、他の影響で変われるのだ。
実に、この世の仕組みは凄い・・・

自だけで回復できる病なんてない。
どんなに軽く浅くても、他をヒントにして回復する。
他の手を借りないで回復しても、他の影響がある。
無人島で一人だけでも、他の植物や布や何かを使う。
生老死は何も無くても、始まり、進み、終わる。

深く複雑な病ほど、多くの他と係わる。
身内や縁の深い人は、病により生き方が変わる。
自他双方で変わるのが、病。
苦しみが伴うから、双方が変われる。
自他共に、病に係わらなければ大きく変われない。

苦しみ、痛み、辛さが伴う病。
この世が、変わる為に存在する世界なら・・・
病を持つ個は、それに係わる他の分まで苦しみを引き受けている。
病を持たずに係わる人達は、病を持つ人に肩代わりしてもらっている。
そういう表現も出来ると思う。
不公平という話ではなく、それぞれの役の違いだ。

病の苦があり、普通に動ける幸せに気づく。
だから病は苦だけを内蔵しているわけではない。
だが担当としては、苦。
ならば、老の担当は、楽。

生死に苦楽は関係しない。
(この世の)生命の始まりと終わりの形。
そして老(成長と衰退)に楽が主体としてある。
病に苦が主体としてある。
どちらも、この世に存在した意味となる。

楽と苦。
それらを体験、経験する為の、この世ともいえる。
そこに正誤は無い。
誰にでも訪れる生老病死だ。
正誤は無いが、勘違いはある。
(自然体としての)間違いも多い。
本来は楽が圧倒的に多いのだろう。
苦が多く、長く続くのは、何かの間違い。
修正できる間違いだろう。
病は、修正可能が沢山あるようだ。

生老死は修正できない。
時間が一方通行だからだ。
老の未来は柔らかだが、過去は変えられない。
だが病は修正できる。
病は、その時の状態だからだ。

生老死は不動。
病は消せるし、消える。
つまり、苦は消せるし、消える。
そして、生きていく事(老)は楽と共にある。
それがブッちゃん(仏陀)の答えだ。

生老病死の老と病を取り上げてみた。
未熟だが、一応ワシの仕事の範囲だ。
この立場で仕事(ライフワーク)している。
生死に関しては、今のワシには解説できない。
今のところ、解説する気もない。

       

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    あつい 9月12日〜9月23日



暑い、熱い、厚い、篤い、アツい。
群馬県最北部の山岳地帯の我が町も暑い。
今年は珍しく暑い。
通年は、八月中旬から涼しさが加わる。
下旬の夜は、涼しいより寒い時もある。

今日は九月の中旬。
でも、日中は暑い。
ほぼ30度。
避暑地のはずなのに・・・

ワシは裸族の血が流れている。
暑いのは好きだ。
脱ぐのは好きだ。
今もパンツ一枚・・・
我が家には、クーラーなど無い・・・

氣功師の身体だ。
通常の人間より熱い。
体温を測ると通常の範囲(36度以下だが)。
体感温度は、自分では1、2度高い。
相手が感じる温度は、2〜5度高いようだ。

手と足が特に高いが、身体全体も高い。
手の表面だけなら、実際に測っても高いようだ。
身体の中での体温は普通。
理屈には合わないが、事実だから仕方ない。
理屈に合わないのは、もう慣れたし・・・

思い出した。
この身体に変わったばかりの頃。
頭頂部に直径2、3センチの穴が開いた。
直接太陽の熱が脳みそに当たる。
熱い(暑いではない)、熱い、と汗がでていた。
しかも、夜寝ていても太陽熱が当たる。
それが半年ほど続いた・・・

常に太陽に照らされているのを実感していた半年。
そんな気がする、というレベルじゃない。
実際に熱いのだ。
脳みそが熱い・・・
汗が出るのだ。

ついでに思い出した。
故御師匠様の氣を受けた時。
まだ氣功師の身体になる前の事だった。
目を瞑って受けた。
最初からだった。
目の前に大きな太陽が出てきた。

熱い・・・
まいったな。
ヤケドするんじゃないか、と本気で心配した。
氣を受ける度に感じていた。
心地良い、というより、かなり熱いのだ。
苦痛ではないが、まいったなぁ、というくらい・・・
ワシは、どうなってしまうんだろう。
で、結局、氣功師の身体になってしまった。

氣功師としての身体になったのは瞬間的。
0.3秒くらいだろう。
故御師匠様が頭をポンと軽く叩いただけ。
ん、これでいいよ。
そう言われても、何が何だか解らなかった。

その後18年。
確かに氣功師の能力は拡大しても縮小しない。
この能力はワシから他の人に伝わってしまう事もある。
だが、よく考えてみた。
0.3秒の前があった。
太陽と体面していた時間があった。

これでいいよ、の後もあった。
初期の半年間、太陽熱を浴び続けていた。
もちろん、更にその後もあった。
いろいろ、あった。
修行や練習ではなく、勝手に身体が反応していった。
共通するのは、太陽のような熱さだった。

温かい、のではなく熱い。
ヤケドを心配するほどの熱さだ。
ワシが受けるのは、かなり強烈だ。
だからこそ、他へは温かい程度で氣を配れる。
こんなに熱かったら誰も近寄らない。

タマには、熱い、と反応するクライアントもいる。
そのくらいの熱さが必要な病なのだろう。
ワシが温度調節しているわけじゃない。
ワシの身体を貸しているだけだ。

氣はワシのじゃない。
言わば他人の褌で仕事をしている。
だが、自分のだろうが他人のだろうが使えば汚れる。
氣は汚れないが、ワシの身体は汚れる。
だから、セルフケアが必然となる。
これがキチンと出来て、プロとしていられる。
まぁ、基本ではあるけど・・・

勘違いしてはいけない。
セルフケアは身体に対してだ。
ワシの心は少しも綺麗にならないし、したいとも思わない。
心を浄化できると思ったら落とし穴に落ちる。
心を綺麗にしたがる人達は無知なだけだ。
反発は多いだろうが、自信持って言える。
言えるが、議論は遠慮する。
反発する人は聞く耳も持たないし、理解しようともしない。

心は綺麗にならない。
元々心は汚れ(塊・こだわり)から創られている。
だから、小さくは出来る。
多種多様だから、消滅できるモノもある。
だが、綺麗にしようと思ったら、それは落とし穴。
綺麗になった、した、と勘違いするだけだ。
抑えて、見えなくしただけで、何の解決にもならない。
綺麗に出来る、と商売にすることは出来る。

解放する。
すると、心は小さくなるか、無くなる。
だが、そんな事にもこだわらなくていい。
そんなモノ(心)など、いちいち相手にしない方がいい。
いじると大きくなる○ン○ンみあたいなものだ。
ケアは、身体に対して行うものだ。

心の立派な人などにならなくていい。
身体を大切にしてくれればいい。
多分、この世に生まれた目的はそうだと思う。
この世が色界(物質・肉体界)だからだ。
肉体(生命)に優しくなれば充分だ。

心まで綺麗に、などと欲張るとロクなことはない。
心を重視すると、優しくなくなる。
肉体(生命)に厳しくあたる。
正しさを押し付け、争うようになる。
心を重視する人は、自分と違う心に薄情なのだぜ。

熱い、冷たいは心じゃない。
肉体なのだ。
温かい、冷たいは心じゃない。
生命なのだ。
素直に観れば、誰でもわかる。

熱い生き方がある。
普段も緊急時もノーテンキでグ〜タラなワシ。
それでも、熱い生き方をする人は好きだ。
見えないだろうが、これでも硬派の血が流れている。

熱き思い。
熱き情熱。
熱き心。
これらと熱き生き方を混同することがある。
ほとんど、混同しているようだ。

ワシは混同とか混迷とか混乱とか淫乱も好きだ。
好きだが、勘違いに気づけば分けるのも仕方ない。
ワシが好きで魅かれるのは、生き方だ。
心や感情じゃない。
そんなモノ(心)は、すぐに消えてしまう。
生き方は、もっと長く魅力があるものだ。

熱き生き方。
決して生き急ぐわけではないが、しばしば似てしまう。
目的の為には生命を磨り減らす、と勘違いもする。
更に目的が成果と混同する事も多い。
人間だもの・・・

目的は一生では足りない所にある。
追いかけてみると、誰でも解る。
だから勘違いしなければ、生命を短くしない。
目的に近づく為には健康が最優先となる。
人間だもの・・・寿命があるのだ。
寿命を短くしたら、目的から遠くなる。

熱き生き方は、急ぐ生き方じゃない。
生命に温かい生き方だ。
生命を意識しないモノから観ると、熱き生き方にみえる。
限りある生命だ。
大切にすると、熱き生き方になる。
ワシは、熱き生き方をする人を尊敬する。
自分は・・・グ〜タラなのになぁ・・・

情に厚い。
相手を思いやる心が豊か、という意味だ。
ワシ流だと、これにも異論がある。
心が豊か、という状態は、心が薄いという状態だ。
心薄ければ、こだわりが小さい。
こだわりが小さければ、心が柔らかい。

では、この情は何をさすのか。
もちろん、生命の事だ。
生命が熱い、豊か、温かい、厚い。
全て同じ意味となる。
つまり、情とは生命の事だ。
心ではない。

生命が豊かだと、当然相手を思いやる。
生命が柔らかだと、相手に優しくなる。
生命が温かいと、相手も温かくなる。
情が厚いのは、誰に対しても思いやりがある。
だが心が厚いと、特定のこだわった相手だけ。
贔屓はするだろう。
それ以外の相手には、結構冷たいのだ。

厚いと似ているのが、篤(あつ)い。
こちらは深い、という意味になる。
情に厚いと、情に篤いでは違いがでる。
厚いは直線的、まっすぐな温かさ。
篤いは深度的、後になって意味がわかるような温かさ。

どちらが優れている、という話じゃない。
方向性の違いだ。
すぐに必要ならば、厚い情。
長い人生に影響するなら、篤い情。

ただし、篤い情は一見薄情にもみえる。
表面に温かさを感じられない場合がある。
誤解を受けやすい。
だが、味わいのある情だ。
最近は・・・希少かも・・・

暑さ寒さも彼岸まで。
黄経180度の秋分(24節気)が中間点。
以後、黄経270度の冬至まで太陽照は短くなる。
当然、寒くなる。
黄経0(360)度の春分からは、長くなる。

というわけで、秋分の日も過ぎてしまった。
外気温は下がる。
だが、あつさは暑さだけではない。
体感温度の熱い人は熱い。
熱い生き方の人は熱い。
情の厚い人は厚い。
情の篤い人は篤い。

あつい、もいいが、温かいもいい。
暖かいもいい。
暑い時には感じなかった暖かさと温かさ。
これからは当分、あたたかい、がある。
一年、結構、いいもんだ。
(懐は寒いとか冷たいままだから、
懐もあたたかいと更にいいんだけどなぁ・・・)



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    にがて



今、みなかみオンパクが開催されている。
ワシも明日25日に主宰するプログラムがある。
樹木氣功と温泉ヨガ
谷川温泉地域の浅間神社境内で樹木氣功。
簡単に説明すると、杉巨木に囲まれ、抱きつく・・・

昼食は近くの金盛館。
簡単でいいと言ったのに、板長さんが工夫してくれるらしい。
ありがたい。
そこで温泉ヨガをして、実践入浴。
通常日帰り入浴は受けてない老舗旅館だ。
ありがたい。

一応、下見に神社に行ってきた。
温泉協会の美女担当者から事前に連絡があった。
境内の準備掃除をしてくれた時、ヒルがいたらしい。
実は数年前から川向こう側にヒルが出始めていた。
だが、去年同場所で同じプログラムをした時にはいなかった。
それが野生動物により、境内側の山にも運ばれたらしい。
今、日本中で広がり始めているらしい。
ワシの苦手の一つに、顔の無いムニュムニュ動くモノがある。

幸いにして、今日の樹木氣功は良好だった。
ヒル被害は全く無かった。
昼食の老舗旅館では、薬膳風に板長さんが作ってくれた。
素材、味、見た目、量、全てに満足の料理だった。
女将さんの話では、かなり研究してくれたらしい。
かなり、足が出たろうなぁ・・・

他のプログラムでもヒル被害は出ているようだ。
日本中で大発生しているらしく、テレビ特集もしたようだ。
あいつ等、根性が悪い。
他の生き血を吸って暮らそうとする、根性が悪い。
それじゃあ、政治家や官僚みたいだ。
生き方としては最低だろう。

ワシは根性も無いし、社会適合も悪い。
稼ぎも少ないし、力もイロオトコでもない。
だが、他の生き血を吸って暮らそうとは思わない。
自分に才能が無いなら、それなりに苦労すればいいことだ。
ヒルはそれでも政治家よりはマシかもしれない。
満腹になると、離れるらしい。
ヒル以下の政治家の腹黒さは果てがない。

腹は黒くないようだが、やはり生き血で暮らすヤツがいる。
吸血鬼というオッサンだ。
若ぇネ〜チャンの首に吸い付く変態だ。
そして長生き(数百年〜)だけはする。
ただそれだけで、たいした目的は無いようだ。
それだけ長生きするのなら、地球や生物に貢献する事をすればいいのに。
何もしなけりゃ、ただの変態だ。

しかし、今までワシは吸血鬼を誤解していた。
まぁ、人間は誤解だらけで生きている珍しい生物だ。
変態を誤解するくらい、可愛いものだ・・・
とはいえ、吸血鬼のオッサンは少しも可愛くないが・・・

嫌がるネ〜チャンに無理やり吸い付いているのかと思っていた。
ところが、ネ〜チャン達は結構乗り気らしい。
マゾのネ〜チャンばかり狙っていたのだろうか?
ワシは色事が苦手だから、真意は不明のままだ。
世の中、心の不思議が一番かもしれないなぁ・・・

苦手の色事については、後で書くことにして・・・
吸血鬼などの変わり者?は興味がある。
狼男(ウルフガイ)は好きなタイプだ。
月に吼える図柄に哀愁を感じる。
その気持ち、わかるぜ・・・
ワォ〜ン

足が速い。
歌が上手い。
絵が上手。
料理が上手い。
普通人の世界で、通常より能力が高ければ賞賛される。
仕事にもなるし、簡単に成功できる。
スポーツ界、芸能界、芸術界、飲食業界で認められる。

ところが普通人の世界を超えてしまう能力、性質は迫害される。
100メートル9秒台なら賞賛される。
だが、3秒なら研究材料で閉じ込められる。
満月で変身したら、もう大変。
戦車を持ち上げても、重量挙げ選手にはなれない。
闇夜に空を飛んでも恐れられるだけ。

だから・・・力を隠して、普通人の真似をして暮らす。
できるだけ、つつましく暮らす。
結構、不自由でストレスがたまる。
時々、月を見て、何かを観て、
ワォ〜ン
哀愁の叫びなのだ・・・

顔の無いムニュムニュ動くヤツの仲間がいる。
一応顔はあるが、ムクムク動くヤツだ。
ケムシ、イモムシ、シャクトリムシ達。
高校生の頃、カフカの「変身」を読んだ。

文字中毒症の頃だ。
何でも節操無く読んだ。
節操無いのは今でも変わらない。
だが文字中毒症は治ったようだ。
今は、月に10〜30冊程度だ。
その頃は、分厚い本ばかり100冊以上は読んだろう。
毎日図書室に借りに行った。
授業中に2冊、家で次の日までに2冊。
一日中読む時は、10〜20冊は読んだ。
ナナメ読みはしないが、速読ではあった。

「変身」を読むには読んだが、何しろ虫だ。
ワシの嫌いなイモムシ系(毒虫)を想像した。
どうにも気持ち悪く、感想などなかった・・・
ワシが「変身」を書くなら・・・
ある日、何か気がかりな夢から目をさますと・・・
自分が巨大なルビーに変身していた。
ワシをめぐり、老若男女が奪い合う。
きっと、人間の欲望と人間模様を表す名作となるだろう・・・

ケムシ派と蛇派に分かれる苦手類。
ワシはムクムクは苦手だが、ニョロニョロは平気だ。
虫とは意思疎通が出来ないが、爬虫類などは通じることがある。
魚類も鳥類も解り合える事がある。
だが、虫の心の仕組みは違うようだ。
蛇や鳥は言えば理解してくれるが、虫は言っても無視・・・

蛇やトカゲは出会うと引き下がる謙虚さがある。
慌てて隠れようと努力する。
ケムシは、こちらが嫌だと言っても自分の行きたい方向に動く。
声で忠告しても、聴く耳を持たない。
傍若無人なワガママなヤツだ。

傍若無人といえば・・・
そういうタイプのオッサンやオバハンも苦手だ。
ワシは自分だって未熟な欠陥品だと自覚している。
直接的な実害が無ければ、ほとんど無視している。
それでも嫌がっているのに、平気でタバコをふかす人は・・・
迷惑を知りながら、押し進めるタイプは苦手だ。
言い争いすれば泥沼になるし・・・

好きとか嫌いではない。
苦手なのだ。
人でもケモノでもムシでも。
とはいえ多少は好き嫌いもある。

威張る政治家、卑怯な人達。
嫌いだが、出来るだけ無視すればいい。
不出来なのは、近親感が湧いて好きだ。
超不出来なのに、偉いと勘違いして威張る人が嫌いだ。
税金で食わせてもらっているのに、平気で値上げする厚顔が嫌いだ。
建前で威張って、米軍も原子力発電所も遠くに置こうとする。
そういう卑怯な人達は嫌いだ。

どんなに未熟でもいい。
どんなに欠陥でもいい。
人間だもの。
だが、弱いモノを食いものにする卑怯は嫌いだ。
苦手ではなく、嫌いだ。

女装が苦手ではない。
面白がる方だ。
といってワシの趣味じゃない。
オネェ言葉が苦手ではない。
ふざけるのは好きな方だ。
だが、真性のホモさんは苦手だ。

好き嫌いではない。
生物には一定の割合で同性愛が存在するのも知っている。
マイノリティ(少数派)は応援する方だ。
生理的に苦手なだけだ。
ムクムク動く虫と同じだ。
彼等が悪いわけじゃない。
生理的に否応なしに苦手なのだ。

近くにいると、ソソッと離れる。
ホモさんは同類が直感でわかるらしいので、ワシには近寄らない。
ケムシやイモムシより謙虚なのだ。
それでも、どうしても親しくはできない。
ごめんなさい・・・

今はかなり社会的に認知されているゲイさん達(ホモ・レズ)。
それでも窮屈な思いで暮らしているのだろう。
どんな業界でも多種多様な人の集まりだ。
心優しい人もロクデナシもいるだろう。
僧侶や神父やドクターやナースも同じだ。

でかい顔して税金で高給取りして暮らしている連中がいる。
血税という人の血を吸っていながら、いばる連中だ。
政治家も官僚ももちろん、立派かどうか微妙だが、マトモな人もいる。
たぶん・・・いるだろう。
だが、圧倒的に厚顔な下品な人が多い(と思う)。
そういう連中に比べれば、ゲイさん達は自分の力で暮らしている。
そういう連中と比べられないが、遥かに立派といっていいだろう。

苦手ではあるが、ゲイさんは尊敬できる人もいるだろう。
苦手でも、尊敬はできるのだ。
血税を吸って威張る連中は尊敬できない。
たとえマトモな人がいても、尊敬できない。
一切血税を受け取らずに、政治行政をするなら、認める。
政治行政はボランティアでする国もあるんだぜ。
本来、それがマトモなやり方だろうと思っている。

少しならいいが、強いのは苦手だ。
辛い料理。
世の中には辛いモノ好きがいる。
何にでも辛子を振りかける。
マイ唐辛子小瓶などを持ち歩く。
好みの問題だからいい。

少しなら辛さが美味しさを引き出すだろう。
だが辛さが主役だと、美味しさとは無縁になる。
刺激を求めているだけになる。
刺激を求めるのがSだかMだかはわからない。
いずれにしても、SM(サド・マゾ)の世界。

心の中は多種多様な塊がいっぱいある。
たぶん・・・ほとんどの心の中にはSMの塊があるだろう。
私にはソンナモノ無い、と宣言しても、多分、有るよ。
有るけど、その塊の大きさは一人一人違う。
しかも心は注目度と頻度により実際に表れる大きさも変わる。
塊の大きさと表れる大きさは異なるのだ。

虐めたい心の塊。
虐められたい心の塊。
その現れの一つが、辛いモノ好き。
刺激を求めて、心のスキマを埋めようとする。
善悪も正誤もない。
趣味の問題だ。

これも生理的なものだ。
好き嫌いではなく、苦手なのだ。
少し辛いのは、多分好きだ。
甘いモノも好きだ。
酸っぱいモノも好きだ。
強く辛いのは・・・苦手。

口に入れると、汗が吹き出る。
食道も胃も焼け付く。
そんなモノは食べたくない。
後にひくし。
それでも、ワサビの辛さは耐えられる。
多分、後にひかないせいだろう。

醜悪、醜怪という意味でのグロテスクなものは苦手だ。
グロには奇妙、奇怪の意味もあるが、こちらは興味がある。
もともとワシ自身が奇妙な仕事で、ある意味奇怪かも・・・
苦手なのは、腐臭漂うゾンビや悪魔的なモノだ。

首が飛ぶ。
手足がバラバラ。
身体が縦に割れる。
このくらいなら平気だ。
花の慶次では普通だ。
西新宿のせんべい屋の主人、せつら。
魔界医師メフィストも日常にある。

慶次もせつらもメフィストも醜悪の反対側の人間だ。
(まぁ、通常の人の範囲を超えてはいるが・・・
というか、月も隠れるほどの美顔とか・・・)
彼等が首を切るのは真っ当な理由があり違和感がない。
刺激的ではあるが、そういう立場なんだから仕方ない。
だが、不必要に嫌がる相手を引き裂くのはグロだろう。
そこに、醜悪な悪意がある。

小説、マンガ、ドラマ、映画、その他の創作物。
ハードでもファンタジーでもサスペンスでもシリアスでもいい。
そこに色恋、エロスがあるのもいい。
ただ、主体が恋愛物は苦手だ。
バカバカしいのは好きだし、ハチャメチャは楽しい。
ただ、妙にマジメな恋愛物は苦手だ。

男女間の永遠の愛、なんてのには近づかない。
他人の興味や趣味や価値観は様々だ。
とやかくいうつもりはない。
蝶の種類や色を説明されても興味ないのと同じだ。
しつこいと迷惑だし・・・

恋愛がくだらないとは思っていない。
それに、ワシはくだらないモノは好きなのだ。
恋愛が美しいとも思わない。
美しくないモノも充分興味があるし好きだ。
恋愛が病気だとは、思っている。
だが、病気は嫌いでもないし、苦手でもない。
恋愛物が苦手なのだ。

オトコの気をひく。
オナゴの気をひく。
そういう事にも興味ない。
何でそんな事をするのか理解できない。
多分ワシには心が無いのかも・・・

生命力には興味ある。
オトコやオナゴの心と身体の仕組みにも興味ある。
生物としても興味ある。
生物としてオスとメスが魅かれあうのも理解できる。
だが、恋愛物のうそ臭さには興味無い。
そういうと反発されるだろうが・・・

オスメスが求め合うのは自然だろう。
合体するのも自然だろう。
恋心があるのも自然だろう。
時には好きと感じるのも自然だろう。
それらに異論はないし、応援する。
それらと恋愛物は、何か違うように感じるのだ。
自然体よりも、うそ臭い・・・と感じる。

ネコやイヌ、あるいは魚や鳥。
特定の相手を好きになるようだ。
そして相手も認めてくれたなら、合体。
それを恋愛というかどうかは判らない。

それでも好き、というのはストレートだ。
自分から相手に気持ちを伝えている。
相手も気に入ったなら、その気持ちを伝える。
嫌なら断る。
どちらも実に自然だ。
直感で結論を出す。

だが人間界のオス・メスの求愛は作為的になる。
ストレートじゃない。
駆け引きなどがある。
駆け引きを恋愛というのなら、興味ない。
恋愛物に駆け引きが入るなら、苦手だ。

相手と気が合う。
相手を気に入る。
そこまでなら、波動とか気の世界だ。
周波数か波形が合っているのだろう。
気は嘘をつけない。

ところが考えや心は嘘がつける。
というか、作為で操作してしまう。
意識、無意識を問わず作為する。
それを恋愛とするなら、前者とは違うモノだ。
自分を偽ってまで、相手にアピールする。
相手に勘違いさせてまで、自分を好きになってもらう。

そもそも好きという感情は長続きしない。
短ければ数分、数時間、数日、数週間。
長くても数ヶ月、数ヵ年。
永遠に変わらぬ恋愛などは存在しない。
この世(肉体界)においては。
幽霊かあの世なら、数百年もありうるが・・・

特に恋愛から生じた「好き」は長続きしない。
元々が作為だ。
作為でもあっても心は思い込みが得意だ。
純粋な愛、などと勘違いする。
勘違いしているから判断できない。

人間の分際で純粋な愛は無理があるだろう。
反対意見は多いだろうが・・・
某キリスト教関係者などは非難するかも・・・
関係者以外を非難するのは常套だ。
非難は愛じゃないだろうにねぇ・・・

神様の前での誓いの言葉。
守っている夫婦は皆無に近いだろうな。
離婚しないまでも、心は嘘をついて暮らしている。
無理な誓いなどしないで、正直に結婚すればいいのに。
無理な誓いが離婚率を高めていると思うよ。
原因は恋愛から出発した結婚だ。
結婚と恋愛は別次元のことなのに・・・
好きと、恋愛と、結婚は、それぞれ別次元なのに・・・

恋愛の勘違いを意識的に使いこなす人達がいる。
職業ではホストやホステスさん。
言葉や仕草や容姿で相手の心を操る。
誠実、思いやり、優しさ、女らしさ、男らしさ、好意的。
そう思わせる能力が秀でている。

少しは政治家も見習えよ。
税金で養ってもらっているのだからな。
ミエミエの嘘や不誠実としか思えない言行。
能力の無さが浮き出ている。
その点、売れているホストやホステスさんはプロだ。
ワシは水商売系の人達は好きだ。
気が合うのだか、何が合うのだか判らないが。

普通のオトコやオナゴは自分の心も勘違いのまま。
だから恋愛も右往左往しながらの嘘しかつけない。
その嘘も、嘘だと自覚できないままだ。
どんな恋愛も勘違いか意識的な嘘しかない。
だから恋愛の果ては、憎しみや後悔や空しさが付きまとう。

学校も社会も教えてくれないが、そのくらい気づけよ。
恋愛でなく、好きと思えるモノや相手を見つけようね。
恋愛でないから、幾つも同時に増やせる。
すると、例え別れても離れても温かさが残る。
好き、が増えると心が柔らかくなる。

恋愛が苦手の原因の一つ。
恋愛は独占欲が強い。
独占したり、されたがる。
縛ったり、縛られたりしたがる。
ワシはウットウシイのは苦手なのだ。

恋愛至上主義の人達もいる。
それぞれの好みの問題だ。
アレコレごちゃごちゃが愉しいのだろう。
ワクワク、ドキドキは一時だろうが、それでもいいのだろう。
縛ったり、縛られたりが好みの人達だ。
ついでに、ムチで叩いたり、靴で踏まれたり・・・
まぁ、他人に迷惑じゃなければ勝手にして。

ということで、ワシは組織に入るのも苦手。
気の合わない人と長く同じ所にいられない。
当然、会社に就職など続くわけが無い。
どんなに貧乏でも個人で仕事をする以外に道は無いのだ。
ワガママなオッサンだなぁ・・・



        上に

        

    得意



苦手があるなら得意もある。
好き嫌いに関係なく、苦手や得意はある。
例えば人前に出るのは嫌いな方だ。
だが人前で話すのは得意な方だ。
好きではないが、得意ではある。

苦手は受け手としての言葉だ。
得意は能力(出し手)としての言葉だ。
だから苦手には動物や人(のタイプ)も入る。
得意は相手や対象に関係なく、得意なものだ。
相手からの評価も関係ない。
自分が得意なら、得意なのだ。

自分にとって有利(得)だと思う(意)こと。
声色が得意・・・
忘れるのが得意・・・
女装が得意・・・
決して他人からの評価の高低ではないだろ。
自分が得意だと信じている。
それは思い込みでも一向にかまわないのだ。

自分勝手の世界。
これはワシの得意の分野。
そして、得意が沢山あるほど明るく生きられる。
何しろ、他人は関係ないのだから気にしなくて良い。

妄想が得意だ。
これは御幼少の頃からだ。
美幼児の頃からだ。
やがて美少年になっても得意だった。
小学校、中学校の授業中などは妄想の時間。
言い方が悪ければ、空想でもいい。

更に美青年になってからも変わらない。
得意は変わらないのだ。
少し空いた時間があれば、妄想空想。
しかも、それは幸せの時間でもある。
他人にとやかく言われる筋合いでもない。

もちろん美中年となっても変わらない。
妄想は生涯の伴侶だ。
本妻や愛人達と別れても、妄想とは一心同体だ。
本妻や数多くの愛人達とは、同床でも異夢となる。
だが妄想は同床同夢だ。
これ以上の伴侶はないだろう。

世間は妄想を下賎なモノとしたがるが政治家よりマシだろう。
マシどころか、そこから人類に貢献する発想につながる。
ノーベル賞の多くは妄想から生まれているのだ。
妄想という言い方が悪ければ夢想でもいい。
政治家は戦争で憎しみ生むが、妄想は喜びや幸せを生むのだぞ。
もっと妄想様を尊敬してもいいと思うぞ。

空想、妄想、夢想の出来ないようなオトコに魅力などないだろう。
決まりきった発想しか出来ないツマラナイヤツと付き合いたくない。
ただし妄想から現実に応用できるが、混同するとヤッカイだ。
多少の混同や混乱は面白いが、勘違いするようだと迷惑だ。
まぁ、それでも決まりきった仕事しかしない人よりいいと思うが。

妄想と同時に忘れるのも得意だ。
これがあるから妄想に縛られない。
妄想と現実を混同しない。
ある意味、バランスがとれている。

だが・・・
忘れるのは妄想だけではない。
現実の大切な事まで忘れる。
切実まで、忘れることもある。
これは・・・病気か。

年齢相応の物忘れだよ。
そういう人が多い。
ワシには当てはまらない。
何しろ、小学生頃からだ。
しっかり憶えている事もある。
すっかり忘れる事もある。
その区分はわからない。
これは、得意といえるのか。

忘れるのが得意だが、憶えるのが苦手ではない。
対象によるが、憶えるのも得意かもしれない。
特に高校生の頃、教科書を丸暗記するのは得意だった。
3日持てば試験には充分だろう。
あとは忘れてもいいのだ。

その数年間で記憶力を使い果たしたのか。
今では本妻と愛人の区別さえつかない・・・
愛人も1号だか7号だか区別つかない・・・
幸いにしてオトコとオナゴの区別はつく。
幸いにして、まだソッチ側にはいかない。

後に気づく。
ワシの忘れる能力は必要不可欠だった。
今の仕事(ライフワーク)は厳しい状況の人と関わる。
その背後の生活も知ってしまう。
心情も知ってしまう。
忘れる能力がなければ、とても続ける事はできなかった。

冗談のようだが、氣功師になる以前は技工士だった。
ぎこうし、の濁りが取れて、きこうしになった・・・
い、いや、濁りや汚れはますます増えたかも・・・
そうして人は大人になっていく・・・
なんて横道はともかく・・・

コンマ数ミリやそれ以下の仕事だ。
細かい作業は次第に得意になった。
得意だが、特別器用というわけではない。
もちろん不器用ではない。

通常、加齢によって近くが見えにくくなる。
老眼だ。
加齢になっても華麗にはならない。
近眼でも老眼になる。
なるが、メガネを外せば細かい作業は出来る。
というわけで、ワシはまだ細かい作業が得意のままだ。
それで、小さなパワーストーン制作なども初めている。

最近書いた気がするのだが、何しろ忘れるのが得意のワシだ。
同じ話など2度や3度や20回や500回くらい普通だ。
だから繰り返ししても平気だ。
ワシの読書量。
どうやら得意の分野みたいだ。
(前回のテーマ・にがての5だった・・・)

昔は凄かったんだよ。
誰でも同じ事をいう。
昔はね、モテたの。
言い寄るオトコが山ほど・・・
昔はね、羽振りがよかったんだ。
いつも財布には札束・・・
昔は凄かったんだよ、ナニが。
大勢のオナゴを鳴かした(泣かしたではない)ものだ。
・・・誰も確かめられない話・・・

昔は凄かったんだよ。
毎日10冊の本を読んでいたんだ。
(これはウソです。毎日は読まなかった)
でも、今じゃ、積読書ばかり・・・
なんて話が多いが、ワシは今でも結構読んでいる。
他人と較べても仕方ないが、読書は得意だ。
何しろ、質より量!

年を重ねて、いろいろ訳知りになる。
すると一様に言う。
量より質ですね。
大事なのは質の中身ですよ。
ワシも使う・・・

だが時には逆らう。
質より量。
中身よりスタミナ。
最近は特に思う。
結局は持続量。

例えば仕事。
短期なら、確かに質が優先。
だが、会社の未来を考えると・・・
長期で働ける人材なのだ。
一つの仕事でも、結局はスタミナがある社員。
質より量がこなせれば、そのうち何とかなる。
どんなに優秀でも、動けなければ役に立たない。
だから若者よ、勉強より身体を鍛えろ。
それも、スタミナ系を増やすのだ。

読書だって同じだ。
人生の友として読書がある。
質もある程度は大切だ。
だが、それよりも量を楽しむ。
知りたい事は山ほどあるのだ。
節操なく、質より量。
それがワシ流の読書。

そうなのだ。
ワシは、節操無しも得意だ。
衣食住も節操が無い。
こだわらない、といえば多少格好がいい。
センスが無い、といえば格好悪い。
興味が無い、といえば変人だ。

着る物は、とりあえず裸じゃなければ・・・
元々色弱だ。
色の組み合わせなど、最初からあきらめている。
元が元なのだ。
オシャレしても意味がない。
オシャレする意味もわからない・・・

多分・・・オシャレは他(主に異性)を意識して行う。
異性の注目を受けたいと思わなければオシャレはしない。
自分の満足の為という名目もあるが、やはり同じだ。
裸でなければいい、と思っていればオシャレはいらない。

オシャレと清潔感は違う。
小ざっぱりとして格好もオシャレとは別だろう。
小ざっぱりとした容色は行動しやすい。
無人島で一人でも、小ざっぱりした清潔な衣服は適応だ。
いずれにしても、着る物で悩むタイプではない。
オシャレが得意ではなく、オシャレと無縁で過ごせるのが得意だ。

食に関しては説明が必要だろう。
ワシの仕事の健康にも大きく影響する。
大きな枠でいうと、無節操(こだわらない)になる。
その枠内では、適当に選ぶ。
最初からこだわった食材ではない。
有る物の中では、適当となる物を選ぶ。

適当はデタラメじゃない。
適当はいいかげんだ。
ゆるやかに、適度を当てる。
多少の違いはいいとしよう。
うるさい事はいわない。

食にうるさくなると、生命力は低下する。
ワシも最初はわからなかった。
20代初期は玄米菜食中心のマクロビオティックに係わった。
正食という言葉を知った。
だが、生真面目に実行すると・・・
どうやら生命力はしぼむようだ、と気づいた。

この件に関しては異論が多数あるだろう。
同調する人も中にはいるだろう。
あくまでワシの感覚内の話だ。
抗議は受け付けない。
講義の依頼は(もちろん有料)受け付ける。

生命力を上げるなら、質も大切だが量と食べ方だ。
質より量とは言わないけど、かなり重要だと思う。
特に現代の日本においては。
量は多いのではない。
量は少ない事が大切なのだ。

少ないと食べ方が変わる。
変わらない人もいるが・・・
少ないと通常は大切に食べるようになる。
食は、大切に扱うと変わるのだ。
食は生命に直結している。
生命は大切に扱うと、やわらかく大きくなるのだ。

陰陽や栄養価や栄養素にこだわらない。
生命力溢れている時代、地域、人達。
それらは、食を大切にするが、こだわらない。
質にこだわると、意に沿わない食物に冷たくなる。
食物は、いただく、ありがたいという存在なのだぜ。

御幼少の頃は苦手なモノがあった。
ネギの白いところ・・・
ミョウガ、ソバ、肉。
キャビア、フォアグラ、トリュフも・・・
魚の小骨も苦手だった。

それが今では何でも大丈夫。
苦手だった食べ物は好きになった。
もちろん意識的に苦手だと言うことはある。
まんじゅう怖い・・・
和菓子と抹茶も怖い・・・
札束抱いた、気前のいい熟女も苦手・・・
嘘だと思うなら持って来なさい。

食べるのが得意というわけではない。
量は食べられない。
食べ放題なら、間違いなく元はとれない。
節操無く、が得意なのだ。

暑い所、寒い所。
節操無しの生き方をしている以上、特別苦手は無い。
とはいえ節操無しでも、建前と本音はある。
節操無しだから嘘は平気なのだ。

やや暑い所がいい。
半裸で一年中過ごせる所。
着る物にこだわらないが、着なくて済むならもっといい。
外で寝ても暮らせる所がいい。
ものぐさで、一生を過ごせる所がいい。

だが現実は厳しい。
ワシの住んでいる所は豪雪地帯だ。
外で寝れば、そのまま永久に眠ってしまう。
半裸でも過ごせない。
アレコレかかるから、ものぐさだけでは暮らせない。
節操無しでも、生きる為には働かなければならない。
アマゾンのナマケモノがうらやましい・・・
来世は、なけなしの努力と根性を全て使う。
そしてナマケモノに生まれ変わるぞ。

衣食住の無節操が得意なだけじゃないぞ。
無節操は臨機応変・・・
ここでは書けないような事も無節操だ。
それは何か?
秘密だ。
何でもオープンなのが無節操ではない。
無節操だから秘密は沢山あるのだ。
ただ・・・秘密の鍵が時々掛かって無い場合も多い・・・

オナゴは得意ではない。
苦手でもない。
だが美人に対しては得意だ。
美人に価値観を置いてないからだ。
美人と土瓶の差が解らない。
だからアガる、なんてない。

そもそも見た目の美人、ハンサムなんて皮一枚の世界。
剥がせば皆グロテスクな解剖図・・・
しかも例外無しに衰退して皺くちゃになる。
見た目ではない美人、ハンサムなら近づきたい。
生き方の美人、ハンサムなら嬉しさが伝染する。

美人に強いだけじゃない。
何しろ節操無しと忘れるのが得意なのだ。
いわゆる社会的地位の高いといわれる人にも強い。
ワシの仕事は勝手な仕事だ。
大統領だろうが首相だろうが関係ない。
嫌われても、少しも困らない。

だが意地悪されると・・・困る、と思う・・・
困るが、忘れるから平気だ。
あいつ等、結構卑怯で度量が少ない。
立場を利用して意地悪をする連中だ。
彼等は正直に口が滑る人達は嫌いなのだ。
チヤホヤされる立場の人の欠点だ。
次第に度量が狭くなる・・・

ワシの前で威張っても意味はないのだ。
もちろんワシも威張れる立場も生き方もしていない。
そんなことは、どうでもいいのだ。
大統領とホームレスの区別はするが、差別はしない。
裸になれば同じようなものだ。
皮一枚剥げば、区別さえつかないものだ。

それはそれは美しい子供の頃からの得意技がある。
今でも得意のままだ。
ぼ〜〜とすること。
一つの目先を見つめていると、ぼ〜としてくる。
何も考えていないわけではない。
何か考えているが、それが何か分らない。

川面とか流れる雲を見つめていると起こりやすい。
例えば木の葉が流れて行く。
時間にすれば10秒以内。
だがワシの中では1時間くらいになる。
いろいろな、まとまりの無い考えが出来る。
(だから意味や効果はない)
いろいろな(妄想)世界に行ってこられる。

ぼ〜として時間が経つのは早いといわれるが、逆だ。
何時間も増える。
歩きながら起こると、僅かな距離が何時間もになる・・・
40歳もとっくに過ぎて、やっと解ったことがある。
この「ぼ〜」はタダモノじゃない。

自慢じゃないがワシはアホだ。
だから結構長い期間アホな世界に係わった。
精神世界というヤツだ。
もちろん今でもアホだ。
だが、かなりブレているアホだ。
だから今では精神世界に入り込むことはない。
あの世界は自分がアホだと気づくか否かが一つの鍵となっている。
鍵を見つけて、扉から抜け出してもアホのままだが・・・

その世界では瞑想が大きな能力となる。
色(しきと読む・物質)界から入るのだ。
精神世界は物質界ではないからだ。
まぁ、ほとんどはマネ事で勘違いのままだ。
たまには物質界から離れられるが、決して高尚な世界には行けない。
何故か?
アナタが下品だからだ。
これが理解できれば、アホな瞑想ごっこは止める。

ところが厄介な事がある。
この世もあの世も厄介事はあるものだ。
超極たまに、自分(の下品)を離れる事がある。
すると高尚かどうかは判断できないが、かなり楽な世界を覗ける。
覗けるが、所詮覗き世界だ。
自分では決して解りえない事が一瞬解る。
これを厄介と言わず、何と言おう。
アホだと解るなら縁も切れるのに・・・

その、まぁ、多少マトモな瞑想に関係する。
ぼ〜、がだ。
これでも長い期間瞑想ごっこをしてきた。
そして入口を垣間見た。

更にマトモな師とも出会い指導を受けた。
どんなに凄い師に教えを受けてもモノにはならない。
自分で消化しなけりゃ意味もモノもないのだ。
いい例が、ブッちゃん(ブッダ)キリちゃん(キリスト)。
その後の弟子たちは、未だに苦しみを救えないでいる。
それどころか争いに加担して、平和の逆を歩んだり・・・

素晴らしい、素敵な、立派な、凄い人もいる。
縁も繋がる。
師弟にもなれる。
だが、結局は本人次第なのだ。
もし、全ての生物が神という懐にいたとしても同じだ。

ワシはかなり独善者だ。
独裁者じゃないぞ。
しかも、いいかげん者でもある。
それが、吉と出た。
たぶん、出たんじゃないかなぁ・・・
まぁ、人間の判断は当てにならんが。

何が幸いするか分らない。
いいかげん者は世間では評判悪い。
評判は幸せ不幸とは関係ない。
そして、大抵は世間の評判は当てにならない。
そしてそして、世間は冷たい方向が多いようだ。
つまり、誰かを虐めたいのだ。
世間って、かなりイジケたヤツだ。

そういうわけで、ワシのいいかげんは幸いに傾いた。
更に御幼少の頃からの、ぼ〜、が味方した。
怪しい、勘違いの、落とし穴だらけの精神世界。
いいかげんだから真っ直ぐ歩かなかった。
努力と根性で探究しなかった。
だから、落とし穴に落ちなかった。

ぼ〜、は危機回避してくれる。
通常、ぼ〜としていると怪我をする、という。
世間の常識は間違いだ。
ぼ〜、だから危機から逃れられるのだ。
本人は気づいてないが・・・

ワシはとても恵まれていた。
金銭、容姿、社会適応能力などは極少だったが。
通常の能力でない能力は恵まれていた。
今の氣を扱う仕事もそうだが、様々な縁にも恵まれていた。
ワシには似つかわしくないような素晴らしい人達との縁。
そして生まれ付きといってもいい、ぼ〜、だ。

一生の宝物。
そういう宝物がワシには幾つもある。
誰にでもあるのだが、気づかぬ事が多いようだ。
ワシは、ぼ〜、が得意だったから気づいてしまった。
ぼ〜、は見えないモノが観えるようになる。

今の社会、特に学校や職場は、ぼ〜、を評価しない。
ぼ〜とするな、などという。
もったいないね。
せっかくの、一生の宝物を捨てさせるなんて・・・
これからは、ぼ〜、としている人を評価しようぜ。
もっとも本人は評価なんてどうでもいいのだが・・・

お気づきの人も多いだろう。
ワシは自分を褒める。
これも得意技だ。
我田引水など当たり前。
自分で自分を可愛がるのは基本だと思っている。

世間的には大した能力でなくても関係ない。
ワシが目を瞑れば、世界は闇になるのだ。
自分を可愛がり、褒めないでどうする。
元気で明るく生きるのは、自分を可愛がるからできる。
世間を気にして謙遜しても、体も心にもいいことはない。
せいぜい謙虚というミエが余計に付くくらいだ。

ワシが無くなっても、この世は続くだろう。
だが、ワシのこの世は終わりなのだ。
そこに気づいて、どうにか世界と自分の係わりが観えた。
気づかなかったら、ワシ以外の世界しか目を向けなかったろう。
ワシが存在しない世界など、ワシには意味がない。
この意味がわかったのは、40歳過ぎてからだ。

この世と自分の関係については説明が必要になる。
別に他人が理解してくれなくても変わらないから説明しない。
とにかく、自分を褒め優しくするのは基本だ。
それはワシだけでなく、全ての人間にとってなのだ。

なのだが・・・
生き方は様々でいい。
基本を無視するのはワシもしょっちゅうだ。
自分を虐め、厳しくするのも趣味なら勝手にして。
他に迷惑でなければ、好きにすればいい。

ワシは生命の活性と、嬉しさ楽しさ気持ち良さを追求した。
すると、生き方として自分を褒める優しくするのが最適だと気づいた。
遠慮せず、自分で自分を褒める。
得意技になった。
ワシの好きな坂本竜馬も同じだ。
妄想好きで、自分を褒める。
理解する人は、ほとんどいなかったが・・・

自分で自分を褒めるのだ。
得意なモノなど、幾つでも湧いてくる。
エラソーに物事を解説する。
これは得意だ。
知らない事でも解説できる。

ワシは広く浅く独善解釈ができる。
般若心経という叡智の経がある。
エッチじゃないぞ、叡智だぞ。
それを解説したのだから、ワシの独善も大したものだろう。
内容はHPに公開している。
「迷説般若心経」だ。

その他にも解説してある。
迷説シリーズ・・・
迷説幸福論
迷説恋愛論
迷説若返り論もある。
そのうち全て公開する。

人の最後に接する機会が多い。
厳しい状況からの依頼が多いのだ。
ワシなどに依頼する人は少ないのだが、それでも18年もしている。
毎年、どうしても最後と付き合ってしまう。
それはワシの仕事の一部だと思っている。

その為かどうかは解らない。
ワシは人生というモノにワシ的な観方がある。
ほとんどは、どうでもいいことなのだ。
そう思える。
大切な事は、そう多くない。

世間的な、社会的な常識とは違和感がある。
もともと、いいかげんな性格だったのかもしれない。
ウソを言うのは得意になった。
ホンネを言うのも得意になった。
すると、ほとんどの人達は、この二つが上手くない。
ぎこちない事に気づいた。

ウソが下手。
そして、ホンネも自然に出せない。
ウソもホンネも同じ立場で言える事を知らないようだ。
だから両方とも下手な言い方しかできない。
ウソにも、ホンネにもこだわりがあるみたい。
腹の中が黒いとは思わないが、素直じゃないなぁ・・・

嘗てブッちゃん(ブッダ)が言った。
ウソも方便だぜ。
何のための方便か、が解ればウソもホンネも同じだと気づく。
ウソだのホンネだのにつまずくことはない。

苦しさを生まない。
苦しさから抜け出る。
苦しさを薄める。
いつでも行動基盤は同じだ。
ブッちゃんは超優しいオッサンだぜ。

世間は固定概念が強い。
ウソはいけない。
ウソつく人は悪い人。
ホンネは正しい。
ホンネの人は正直だ。
正直な人はいい人だ。

なんて浅はかで間違いだらけの世間だろう。
この世にウソを言わない人は存在しない。
そんな事さえわからないのだ。
ウソつきが悪人なら、全て悪人。

ホンネを話されて苦しみ人は多い。
ケンカも多い。
苦しみを生む人も多い。
ホンネを言う人がいい人ではないのだ。
ウソもホンネも何の為に使うかが重要なのだ。
だから、ウソもホンネも方便なのだ。

更にいえば、ウソもホンネも両方が真実。
心の中、意識の中は多種多様なモノが詰まっている。
ウソが言えるのは、それがあるからだ。
無ければ言えない。
だが同時に正反対の思いもある。
その中間もある。
全く別の考え方もある。

多くの人はホンネが一つだと思い込んでいるのだ。
言葉や態度で現わすのは、その中の一つ。
意識無意識を問わず、選んでいる。
全てがマコトという言い方もできるだろう。
だからこそ、使い方が重要なのだ。
言った事など、どっちだっていい。

誰の為に、何の為に表わし現わすのか。
ウソもホンネも、その先に変わるモノの為に使う。
特に注意が必要なのが、ホンネだ。
ほとんどが、自己満足の為に使っているからだ。
ホンネを話す自分が偉いと思い込んでいる。
ホンネは、かなり自分勝手な薄情な言葉になりやすい。

迷惑がかからないなら思った事を言う。
ウソは氣を使うが、思った事を言うのは楽だ。
相手からの評価が下がろうが、そんな事は気にならない。
上等に見せようとする方より、下品下等が楽だ。
上等上品に見せようとするのは、気恥ずかしい。
これでも、恥ずかしさは知っている。
だから、アホを言うのも得意だ。

子供の感性を失くした大人など、成りたくもない。
だから、いい歳をして、というのも得意だ。
子供は楽しい事を求めて行動する。
生き方として、手本なのだ。
体裁を求めて行動するよりも自然体だろう。

実際に成っているか、どうかは別にして・・・
自然体を意識するのも得意だ。
何しろ仕事が氣功療法なのだ。
自然体になるほど、どこからかの氣を活用できる。
常に何も考えてないようなアホでいるのが仕事なのだ。

苦手も得意も不本意のモノがある。
ヒマと大金を持った明るいサッパリとした熟女。
不本意だが苦手だ。
ウソだと思ったら連れて来なさい。
不本意だが、付き合うだろう・・・

不本意だが、貧乏生活が得意だ。
不本意だが、金持ち生活も得意だ。
立場が変われば、それに合わせて生きられる。
ウソだと思ったら超大金を振り込んでみなさい。
浪費しながらの生活は得意になるだろう・・・

不本意だが、ナマケモノは得意だ。
ワシは仕事で忙しいのは好きだ。
自分のやりたい仕事だもの、忙しいのは本意だ。
なのに・・・ヒマ・・・
ヒマでもヒマな過ごし方は得意だ。
何もしないのは、得意なのだ。
不本意ではあるが・・・

私は得意のモノなど何もない。
そう断言する人がいる。
物事や心の仕組みを知らないのが人間。
それなのに断言はできないだろう。
自分の事や自分の能力など、自分で知らない事が圧倒的に多い。
というか、多分、ほとんど知らないものだ。

現に、今生きている。
現に、この世に生まれて来た。
この世に生まれる確率を知っているだろうか?
一つの受精卵と一つの精子が出会う確率。
一度に放出される精子は1〜5億。
卵子は月に一度で、生存日は一日。
さぁ、確率は?

対象範囲で確率は変わるが何億分の1以上。
それからも凄いよ。
受精して正常に分裂、出産の確率も上乗せ。
5歳まで正常成長するのも大変なのだ。
親や周りの人達が見守り、対処したから乗り切れる。
そして成人まで。

紙一重で事故にならなかった。
あと一分早かったら事故に巻き込まれた。
そんな事は誰にでも何度もあるはず。
それらを回避できた理由は?

受精から今まで生きている確率や理由。
それはアナタが生きる事が得意だったからなのだ。
自覚しているか否かは別な問題。
この事は、単なる事実。

どんな人でも当てはまる。
得意は、生きてきた事。
それも、とてつもなく凄い確率をくぐり抜けているのだ。
この世に生まれなかった何十億倍がいたのだ。
とてつもない得意は、生命あるモノの特権なのだ。



     上に

 

    パソコンが



何を隠そう。
実は、初めて新しいパソコンを購入した。
最初は13、4年前になる。
兄からいらなくなったパソコンを貰った。
何も知らないままだった。

ういんどおず98って何?
い、いや、ういんどおず95だったかも。
それまでワープロというモノで書いていた。
今は世から消えた幻の機械だ。
形はノートパソコンに似ている。

書いたモノをフロッピーという厚めのカードに記憶させた。
2DDとか?何のことかわからないまま。
今調べると、750KBくらいらしい。
文字だけだから、それでも大した発明品だったのだ。
それを当時のパソコンでも共通して使えるようにした。
PC98シリーズ・・・ういんどお98と違うの?
単語一つの意味が、ほとんどわからなかった。

どうやらプロバイダーとかが必要らしい。
やたらに馴染みの無いカタカナばかり出てくる。
プロバイダーってなに?
キッカケは忘れたが、どこかの弱小プロバイダーと契約した。
安かったから・・・

そしてHPというモノにチャレンジした。
本を買ってきて。
ついでに、ういんどおず98の解説本とかも。
ついでに、オフィス何とか・・・ワード何とか・・・

無料ソフトでHPが作れる、とか・・・
やってみたけど、その通りにならない。
どうやっても、思い通りの場面が出ない。
そこで、ヤケになった。
HTMLというコンピュータ文字があるらしい。
それを憶えてしまえ。

なるほど・・・
基本的に英語で指図する。
決まり事がある。
少しの間違いも通さないガチガチなヤツ。
ある程度のHTML言語を憶えれば、さほど難しくない。

やってみると、おお!画面が作れる。
色や背景や枠も作れる。
大きさも自由だ。
これは写真や絵にも応用できる。

そして、もう一度HP作成ソフトを使う。
どうして上手く出来ないかが理解できた。
そしてそれを直す事も、それほど難しくない。
ソースというショウユでないのを出して修正すればいい。
ワシは急にパソコンと馴染んできた。

パソコンをくれた兄は、元々コンピュータに強い。
今のようなパーソナルの前から携わっていた。
ハードを知っているのだ。
その兄が幾つか言った。
入力はローマ字入力をする。
手の位置を憶えてしまえば、その方が早い。
ワープロ時代はひらがな入力だったのだ。

一家四人で、タイピングゲームをした。
それで憶えたのだ。
ローマ字入力を指が憶えるには最適だった。
下の娘は漢字を読めない小学1年生だった。
それでも子供は馴染むのが早い。
やがてワシも本妻も子供達には勝てなくなった。
娘は小学4年生時には、どの先生よりも早く打てるようになった。

兄はもう一つワシに言った。
マウスを使うよりもショートカットを憶えた方がいい。
これは未だに憶えていない。
確かにパソコンに精通している人はマウスを使わない。
マウスに手を伸ばすよりもキーで操作する方が早いからだ。

そして当時はダイアルアップという接続方法だった。
電話代がかさむので、必要時以外はインターネットなどしない。
メールなども、他にしている人が少ない時代だった。
インターネット普及は2000年時で30%から50%に跳ね上がる。
我が家が使い出した当時は20%くらいなのだ。
当然、知り合いはほとんど使っていなかった。

今もヒマだが、当時もヒマだった。
1日中パソコンをいじっていた。
ワシは解らないモノが好きな性質だ。
何しろ誰にも教わらないでいたのだ。
サーバ?鯖?ロゴ?フォント?ホント?

フリーソフトのHP作成ソフトは気に入らなかった。
だから全て手作りでしようと思った。
HTML文字を一つ一つ入力して画面に反映させた。
当然時間はかかる。
しかも度々どうしていいか分らなくなる。

それでも多少づつは学習するようだ。
表紙ができると、中身も1ページづつ増えてきた。
いろいろな素材も使い始めた。
フレームや動く文字なども使ってみた。
コンピュータって、結構面白い、と思った。

そんなことをしているうちに時代は変化する。
特にコンピュータ関係の加速度は増した。
様々な容量がアッという間に桁違いになった。
バイトといってもアルバイトではない。
BからKBに。
KBからMBに。
MBからGBに。
そして、今はTBとか・・・

通信速度も数年で変わる。
ダイアルアップという電話回線から高速回線になった。
ADSLというヤツだ。
初期は8M。
やがて12Mになり50Mになった。
そして、今は光回線になった。

ところがワシは相変わらず古いパソコンを使用していた。
中古でやや新しくなったとはいえ、古いままだ。
オペレーションシステム(OS)はういんどおずXPになった。
ワードソフトなどのおふぃいすは2003だった。
ディスプレイという怪しいプレイは、ブラウン管から液晶になった。
時代はういんどうず8になったが、とりあえずは使える。
だが、このパソコンの容量が問題だ。
僅か、10GB(実質9.7くらい)なのだ。
スマートフォンの数分の1しかないのだ。

先日、新品パソコンのバックアップ用ディスクを作成した。
DVD4.7GBで10枚使った。
40数GBが必要だったというわけだ。
繰り返すが、それまでのパソコンは10GB以下・・・
今度のは最初から入っているだけで40数GB・・・
容量自体は、750GBになった。
と、とても嬉しい・・・

以前は通常でも容量が限界に近かった。
空き容量は僅か数百MBしかない。
ちょっとした写真一枚も入れられなかったのだ。
常にクリーニングして、余分なモノを削除する。
当然新たなソフトなどのダウンロードなど絶対無理。
何しろ頻繁にコールされるアップデートでさえしなかった。

いんたぁねっとえくすぷろうら、というのがある。
インターネットに繋ぐソフトだ。
そのバージョン6を使っていた。
アップデートすると容量が増えるからだ。
見られないサイトなどがあって不便になった。
あぁ、マトモなパソコンが欲しい・・・
そう思いながら数年間、騙し騙し使っていたのだ。

当然ながら、以前は動画など見られなかった。
ハァハァ言いながら、少し進んではフリーズしていた。
シャットダウンも出来ない事が度々あった。
強制終了ばかりしていた。
パソコンによくないのはわかっていたが仕方ない。

キッカケは娘だ。
この春から一人暮らししている。
「授業などで使うからパソコン買いに一緒に来て」
夏休みにアルバイトを掛け持ちでしていたのだ。
我が家は高校卒業したら自立。
奨学金とバイトでやり繰りする。

親がだらしないと子供は何とか育つものだ。
援助など無いのだから、自立以外に道がないのだ。
それでも未成年だから、大きな買い物時には同行する。
本妻は機械類は苦手だから、ワシが一緒に行くのだ。

県内で一番大きな量販店。
光通信の契約と同時だと5万安くなる。
いずれにしろ光契約するつもりだった。
元値が11万円くらいのが、2万円で買える。
娘も予算が楽になった。

ところが・・・
娘のアパートの大家さんは良い人なのだ。
今年、一括で各部屋まで光を配線してあった。
部屋のコネクタに入れるだけ。
ルータも必要ない。
通信費は約半分で済む。
それは、娘にとってとても助かることなのだ。

だが、割引がきかなくなった。
自分のモノは自分で買う。
とはいえ、今の娘にはきついだろう。
そこで、ワシのパソコンも限界だろうし・・・
いずれ光通信に変えようと思っていたからワシが契約した。
これでワシもパソコンを新しくする先延ばしが出来なくなった。

何のことはない。
娘に決断をしてもらったようなものだ。
光通信にしても、それまでのパソコンでは動かない。
毎日愚雑な文章を書いているのだ。
10年前から途絶えた事はない。

データの消失時期はある。
CGIという方法で自前の日記を設置した。
CGIはサーバ側にデータを送り蓄積する。
(自分で大きなサーバを設置する方法もあるが、馬鹿げている)
知り合い契約したあるサーバ管理のミスだったのだ。
それで、懲りた・・・
基本的にデータは自分でバックアップ管理するものなのだ。
コンピュータというのは、そういう事が普遍的に起こる。
甘かったのはワシなのだ。

愚雑な文章とはいえ、こっそり計画もある。
世の中には棚からぼた餅やらヤリやらブタやらが落ちてくる事がある。
何でもアリの世の中なのだ。
だから、この世は面白い。
常識以外を認めずにいると、この面白さには出会わない。
ワシが売れる場合もある、かも、知れないだろ。

氣功家、治療者、健康指導者。
これらはワシの天職だ。
特に氣功家。
天職だから売れようが売れまいが関係ない。
一生していくだけだ。

ところがワシも残念ながら社会で暮らしている。
飯くらいは食えるが、税金とか借金とか必要なのがある。
やだねぇ、社会は。
金でほとんどは解決する事なのだが、天職は金儲けにはならない。
そこで無い知恵で考える。
お金が(ほぼ)自動的に入れば、天職をしながら暮らせる。

たまたま、ワシは文章を読むのも書くのも得意だ。
売れれば印税というヤツが入るというウワサを聞いた。
それがどんなに愚雑な文章でも大丈夫だ。
売れているが愚雑な文章の本など、山ほど書店にある。
それには多少の工夫がいる。

ワシの文章。
誰でも納得するような才能は無い。
才能を補う努力や根性も無い。
それらが全て揃っていても、世に出て売れるわけではない。
世の中には、凄い才能はあるが埋もれている人など山ほどいる。
素晴らしい作品も山ほど埋もれている。

全てを覆す要素。
それは・・・運だ。
下手でも世に出て売れている人はマスコミでよく見かける。
芸でも芸術でも創作でも何でもそうだ。
金の力で世に出る場合も、実はよくある。
その金の力を利用できるのも、運だ。

まぁ、ワシが売れないのは、運が付いてないからだな。
文才が無いことや、努力や根性が無いことなど些細なモノだ。
もちろん売れても、満足や幸せとは関係ない。
生活する金が入るだけだ。
道を探究するのなら、売れる必要はないからだ。
ワシの文章はお遊びでしている。
努力や根性が無いのだから、遊びで暮らしたいのだ。
そして、本当にしたい天職を続けたい。

何しろ努力と根性と才能が三点セットで無いのだ。
オマケにイロオトコでも力も無い。
イロオトコやイロオンナは、その容姿が才能なのだ。
中身など気にする必要はない。
中身が上質な人間は、世界でもマレな部類だからだ。
そこらへんに歩いている人間の99.99%は上質とは言えない。
下品で下等なのは、代表する政治家を見ればわかるだろう。
あいつ等を選んで、そのままにしているのは国民だもの。

金?う〜m・・・・
実は・・・ワシは超巨大な資産家だ。
ワシが資産の金を使ってしまうと日本経済は混乱する。
世界経済も混乱する。
ワシは平和主義者だ。
個人的な混乱や淫乱は好きだが、他が迷惑するのは好まない。

クジラが一生、その力を使わないのは何故か?
本当に素晴らしい力がある人は、世間に出ない。
何故か?
能力は使う為だけにあるわけじゃない。
そのことを知ってから、いろいろな何故?に納得がいく。
その時代、大多数が理解できる能力ならば、使う為にあるだろう。
偉大すぎる力は、使わない為にある。
それを使わないだけの器量が素晴らしい人にはあるものだ。
力はミエじゃないのだ。

ワシが超巨大な資産に手を付けないのは、そういう理由だ。
ワシにとっては僅かでも、子供のケンカにバズーガ砲は使えない。
ワシは下品と下等を自負しているが、その程度ならわきまえている。
だから、貧乏道宗家の末裔を自称し、毎日窮屈に暮らしているのだ。
金で駄文が売れるようにするなど簡単すぎて、実につまらない。
生きるのは、愉しさや面白さを体験するためにあるのだから。
毎日を綱渡りで暮らすのは、とてもスリルがあって充実している・・・

書き方の(勝手に)先生の一人に故星新一氏がいる。
日本SF作家の巨匠であった。
ショートショートというジャンルを開発した作家でもある。
遥か以前に星氏の書き方の説明を読んだ。
とても参考になった。

通常文章を短くすれば中身を濃くする。
言葉に重みをつける。
表現したいことを凝縮する。
詩とか俳句とかがそうなる。
ところが星氏は違った。

凝縮しないで広げる。
一つを伸ばし広げる。
すると文章が軽く楽になる。
ショートショートを軽くしたのだ。
凄いなぁ・・・

重く凝縮するのなら簡単だ。
軽く、楽にするのが難しい。
(中身が無いのとは違う)
手塚治虫師も同じようなことを書いていた。
だから、あの線なのだ。

今も未熟で下品でアホだが、もっとアホの頃。
人は重みがあるのが立派とか出来ている、と思っていた。
濃い人生を送ると、重みのある人になれる。
一流といわれる人達は、貫禄がある。
アホだから、浅い層しか観えなかった。

何の因果か知らないが、後年になって本当の凄い人と出会う。
本当の凄さは、重みを感じさせない。
軽く、浅く、広く、明るく、なのだ。
すると、それまで一流と思い込んでいた人がワシの固定概念だった。
それらの多くの人は一流に違いない。
その下に二流がいて、三流がいる。
つまり、一流はそういうジャンルなのだ。

ところが、凄い人達は一流じゃない。
もちろん二流でも三流でもない。
そういう次元から外れている。
一流だの二流だのは、比較の世界だ。
たいした違いはなかった。
ワシの四流だか五流だかと、たいした違いはないのだ。
凄い人達は、抜けている。
すると、貫禄など付けない。
もっと身軽で生きていた。

一流(二流・三流)などから外れた人生。
あるいは、そういうモノを捨てた人生。
そこで思い出すことがる。
アーユルヴェーダの生き方の話だ。
人生の幸福や生命の哲学だ。

楽しく遊び、懸命に学ぶ。
懸命に仕事をして財(金だけでない)を成す。
それを他の為に使う。
そこまではいい。
問題はその後だ。

全てを捨てて旅に出る。
してきた経験、財産、家族、そして名前さえも。
初めて聞いた時は解らなかった。
なんで、それで幸せな人生になれるのだろう。
全てに、それまでの人生がある。
カッコイイけど、幸せになれるのだろうか?

凄い人達と会ったら納得した。
なるほど。
明るい、愉しく生きている。
平気で過去など捨てている。
あるいは、離れている。
生きていることが愉しくて、楽しくて仕方ない。
なるほど・・・

出来そうで出来ないかもしれない。
だが、全てを捨てると明るく愉しくなるようだ。
すると、一流などツマラナイとはいわないが、魅力はない。
軽く、広く、明るく、易しく、そして優しい。

文章や絵だけではないようだ。
軽くする、明るくする、易しくする。
一流を超えた人達がするのは、似ているようだ。
軽くなるから、優しく、愉しい。
読み手側、受ける側も楽だからこそ、心に染みる。
貫禄を出すようでは、受け手も楽じゃない。

ワシには重みなど付かないから安心だ。
だが文章には油断すると重みがつく。
意味深い文章など簡単になってしまう。
それでは結局つまらないモノになる。
誰も深刻にならない文章にしたい。

書道家の榊莫山氏という大家がいた。
エッセイを読んだ。
目指す書の一つに、子供がクギで書いた字がある。
深い書など目指していないのだ。
そんな書は誰でも書ける、らしい。
だが、大人でストレートな浅い書は難しい。

ワシのような軽佻浮薄なオッサンでも文章は重くなる。
余計な意味が加わってしまう。
自然流。
かなり、難しいが、それにもこだわらないのがいい。
ワシもそこまで追求しない。
売れれば、何でもいいのだ。

故星氏から学んだのはまだある。
年月は不明にする。
時事ネタ、流行は扱わない。
身近な日記は書かない。

これらは(一部を除き)時が経てば廃れるからだ。
面白くないし、読む気もおきない。
時代を表わすようなモノから離れた表現を使う。
ところが、実際書き出すと結構難しい。
つ、つい、時事ネタが出てしまう。
時には身近ネタになってしまう。
(これも・・・)

100年後でも面白いモノは、かなり軽く浅く広いモノなのだ。
生き方も人物も同じかもしれない。
そう思うようになった。
人間は本来の寿命よりも早く老いて死を迎えている。
せいぜい100年くらいで、消えてしまうのだ。
短いなら、重く生きるような野暮なマネはしない。
ワシの生き方も少しずつ修正している。
今も充分軽佻浮薄だが、もっと軽く生きたい。

そんなわけで毎日書いている駄文。
出来るだけ身近を扱わない。
時事ネタを扱わない。
一つのテーマを続ける。

後に編集し易くするためでもある。
自分の考えを整理する為でもある。
そして独自、独特、独善を心構えにする。
他と同じでは面白くない。
内容が同じなら、表現を独自にする。

とはいえ、多くの作家の影響はある。
ゴマンとある(という表現は故北杜夫氏からだ)
しつこい書き方の時は、故井上ひさし氏からだ。
ワシはキチンと模倣も出来ない程度だが、マネはする。
何しろ文章は勝手に手が書いてくれるから早いし楽なのだ。
いつか、いつの日か、勝手に売れると助かるのだがなぁ・・・

駄文も10年も毎日書けばかなりの量になる。
通常の本にすれば10冊は超える。
売れなくても、まぁ自分としては少しだけ満足だ。
読み返してみると、結構面白い。
基本的には書かされたモノだから自分を離れて読める。

継続は力なり。
なんて言葉は好きじゃない。
安っぽいネットワークビジネスがよく使う。
簡単に騙されて、更に被害者を拡大するだけだ。
そんな力なんていらない。

我慢して、辛さを継続すれば形にはなる。
嫌な事でも悪い事でも形にはなる。
そんなことで形や力になって、何がいいのだ。
もちろん愉しさを継続すれば、形になる。
すると、愉しさの凝縮になり、もっと嬉しくなる。
継続が大切なのではない。
明るく、愉しいことなら続いてしまうのだ。

諸行無常。
こんなワシでも変化する。
アソコとかアソコの変化ばかりではない。
老化ではなく、変化なんだなぁ・・・
意識も考え方も変わるのだ。

努力と根性と才能が些少だった。
通常の社会では才能はある方がいいと思われている。
それは勘違いだ。
単なる違いであり、区別でしかない。
有無に意味はないのだ。

この世は同時に存在できない。
それは物質(肉体)や時間や空間だけではない。
あらゆるモノが同時にには存在できない。
つまり、あらゆるモノは個別に存在している。
才能がある次元は、才能が無い次元と同時ではない。
社会はそれを勘違いするから、矛盾に満ち、活用が一つでしかない。
才能や金はある方がいい、と勘違いする。

美女はブサイクの世界を味わえない。
味わいたくない?
美女の方がいいに決まっているから。
多くの女性がそう勘違いしている。
社会は美女に価値があるとしている。
だから自分も社会の価値観と同化する。

自分の価値観と社会の価値観は違う。
違うのに無理やり合わせる。
だから苦しみや葛藤が生じる。
社会は社会の中だけなのだ。
それを自分の心や意識と同化させれば無理に決まっている。

何で私は美女に生まれなかったんだろう。
私は不幸だ。
こんな勘違いが変だと思わなくなってしまっている。
何が勘違いなのかも、わからなくなっている。
不幸は、無理に他と比べるところから生じるモノなのだ。

実はワシは前世で美女だった。
実に窮屈な人生だった。
何しろ、スコブルというモノが付いていた美女だった。
誰もが私(ワシ)を見ると意識する。
意識を常に向けられているのだ。

オトコはもちろん、同性からも意識される。
成人はもちろん、子供から高齢者まで意識を向ける。
好きでもない人から、やたらにアプローチされるのだ。
うっとうしい以外、何もいいことはない。
私は自分の事は自分でしたい性格なのだ。

外見とか中身の話じゃない。
人はある程度の係わりで充分なのだ。
毎日交際を求められたら、断るだけで時間が無駄になる。
断っても諦めずに付きまとう人達も少なくない。

こんな人生、もう嫌だ。
美女に生んだ両親を恨むわけじゃないが、幸せにはなれない。
来世は、取り柄のないオトコに生まれるぞ。
そう、前世の私は固く決心したのだった。
そして、願いは叶えられた・・・・

そういう過去を踏まえて、ワシは気づいた。
ワシの根性や努力の無さは、ワシの個性だ。
この天職に出会い、様々な人を否応なく観る。
観たいわけではないが、勝手に観えてしまう。
仕事の一部だからだ。

すると、病になりやすい人がいる。
根性や努力の能力が有る人達だ。
ワシがもし、努力や根性や才能が溢れていたら・・・
病で弱くなっている人達を上から観ていたろう。
人は自分を基準にして観たがるからだ。
ワシの努力や根性や才能の無さは、ワシ用になっていた。
だから、今の仕事が天職だと感じたのだと思える。

努力や根性のある人には理解できない世界がある。
才能の沢山ある人には、観えない世界がある。
この社会は強い人達が作り上げた。
政治家も官僚達も、成績優秀の人達だ。
あるいは、人を押しのけても前に出られる人達だ。
何故、こういう国が幸せになれないか、よくわかる。
自分の才能と比べ、劣っている人達の世界が理解できないからだ。
人と人を比べるしか、自分の存在を見いだせない人達だからだ。

説明不足はワシの特許だが・・・
何故、努力や根性が少ないのが今の仕事に有利か?
一言でいえば、守られるから。
大いに有る人達は、守護を受け取らない。
自分に自信を持ってしまう。
すると、やっかいな病になりやすい。

努力や根性が沢山有っても悪いわけじゃない。
特にいいわけでもない。
いずれにしても、人間だもの、大した事ない。
それなのに、有る人達は傲慢になりやすい。
だから、社会的には認められても、病になりやすい。

無いのも才能。
有るのも才能。
移り気も才能。
それぞれが、上手く活用できればいいだけだ。
いずれにしても、人間だもの、不完全で未熟には違いない。

ワシは節操がない。
何でもオッケーになる。
鋼の錬金術師というマンガがある。
作者は荒川弘氏だ。
小説も解説本もマンガも変わりゃあしない。
それでもマンガは贔屓する。

主人公の兄弟がいる。
ワケありで、肉体が無い。
代わりに鎧を着ている。
その弟が言った。
「何かに夢中になるのも才能だよ」

そうかぁ・・・
ワシは才能が無いのじゃない。
夢中になるモノは幾つもある。
マンガだって夢中になるし・・・
この仕事(氣功師)も夢中だから天職になった。
アレとか、アンナコトにも夢中になれる。
ワシ、才能だらけだった・・・

夢中になるのが才能ならば・・・
夢中になれないのも才能だろう。
簡単に横道に外れるのも才能だろう。
移り気も才能だし、こだわりも才能になる。

こうなりゃ妄想癖も才能だし、ウソも才能だ。
商才の無いのも才能だし、貧乏も才能だぁ・・・
つまり、人間で才能の無い人はいない。
社会的に評価される才能が表に出ているだけだ。

ワシは根性無しの才能があった。
我田引水の才能もあった。
ナマケモノの才能もあった。
そして、氣功療法師の才能もあるようだ。
取り柄の無いオトコに生まれたかったのに・・・
残念ながら、前世の約束は無理な注文だったようだ。

人間には、無限ではないが、かなり多くの才能がある。
その才能から、かなり多くの可能性がある。
残念ながら生物としての寿命があるから無限ではない。
無限ではないが、その人の一生分以上の才能と可能性はある。
こんなワシでも、例外ではないようだぜ。

自分の内の世界なら比べるモノはない。
だが今の社会は比較で評価したり、暮らしたりしている。
全ては個の集まりだから、比較は無理やりしている。
それでも無人島で暮らす以外は、社会で暮らす。

だだし・・・
評価や評判は純粋な比較ではない。
腕が良くても社会に出ない職人など山ほどいる。
素晴らしい芸術作品が世に出ないなどザラにある。
没後何年、何十年も経てから評価される作品などゴマンとある。

社会の評価はかなりアイマイだし矛盾もある。
その時代の風潮、風潮を作り出す政治。
意図をもって作り出す流行や虚像。
そんなの常識だ。
非常識は、社会の常識なのだ。

それでも社会に暮らす以上は、社会的なモノも必要となる。
後ろ盾を持たない人が評価や評判になるには、実力以外が大きい。
実力など無くても売れる(評価や評判)人の割合はかなり多い。
幾つもの要素はあるだろうが、一番は・・・
「運」だろう。

そういうわけで、努力や根性とは相性の悪いワシ。
棚からぼた餅やら札束やらマンガ本やらだって落ちてくるだろう。
それらに出会うのは・・・幸運だ。
書くのは好きだが、努力して売れるようにはなれない。
売れるまで根性で書くことも出来ない。
だが、幸運で勝手に転がるなら出来る。

いっそのこと、幸運の女神というオナゴと知り合いになりたい。
多分、ヒマやら笑顔やら札束やらを抱えているだろう。
ついでに、自動的に氣功療法師としての能力も上げて欲しい・・・
難病、重病を引き受ける関係上、どうしても悲しい出来事が多い。
天職は売れたいとは思わないし、出来るだけ表社会ではこっそり生きたい。
だが、縁あって治療する相手は回復して欲しいのだ。
とてつもなく高い能力でも、ワシなら使いこなせる自信がある。

パソコンが新しくなって、いろいろ活用しようと思っているのだ。
天職を広めようとは思っていないが、天職以外の仕事は適度に売れたい。
何しろ、今でも借金の山は幾つもあるのだ。
天職を、いつまでも、していたいから、余計な縛りは解放したい。
と、いいつつ・・・
相変わらず、根性無しでナマケモノのままだから進展はないなぁ・・・



     上に

 

    



何故、石と右は似ているのだろう?
すいませんねぇ、細かい事が気になる性質で・・・
という一部の人にしか受けないセリフはともかく・・・
石についてだ。
もちろん横道脇道回り道の好きなワシだ。
石が意志や意思や良しになるのは、ある意味当然・・・

この世には、見えるモノと見えないモノが重なっている。
物質界(肉体界)だから物質が優先する。
精神世界や宗教界は精神(魂・霊)が本質だと唱える。
本質はそうかもしれないし、その方が説明しやすい。
ワシも特に異論はない。

だが、本質だからといって優先順位一番とはならない。
大切だからといって、優先するとは限らない世界なのだ。
むしろ、本質は陰になる世界だろう。
本質が陰であることに意味がある色界(物質界)だろう。
そこを入れ替えて信者だか会員だかを増やすのは人間の組織の話だ。
ドロドロした生々しい話なのに、清浄な世界と勘違いさせる。
知って話すのなら、詐欺に近い。
知らずに話すのなら、無知という。
宗教組織や精神世界セミナーというのは、そういう集まりだ。

見えないモノが物質と重なる世界。
例えば、人間は肉体という物質である。
その肉体に、見えないモノが多重に重なっている。
一つは生命。
一つは心。
一つは魂。

それぞれが別ではなく、影響し合う。
心から感情や判断力や意思や意志も重なる。
見える肉体に、見えないモノが重なる世界だ。
そして、それらが複雑に集まり社会を作る。
その社会も人間が作り出した物質と共にある。
ビル一つが、見える物質とそこに作られるまでの思いがある。
作られてからの思い(見えないモノ)がある。
この世の物質は、物質だけではないのだ。

人間だけではない。
他の生物も見えないモノが重なっている。
心や魂や生命の無い生物はいないのだ。
地球上には、生物と非生物がある。
そのどちらにも、見えないモノは重なっている。
更に、見えないモノは物質に依らない場合もある。

見えないモノは見えるモノに依存しなくても存在できる。
だが、見えるモノは必ず見えないモノが重なる。
そして、見えるモノに重なる見えないモノは、その種類や傾向がある。
つまり見えるモノにより、その性質や得意分野?がある程度判るのだ。
だが、完全に特定は出来ない。
見えないモノは、ある程度の自由度があるからだ。

物質界には生物がある。
生物には動物と植物と微生物がある。
非生物には無機物質がある。
鉱物は無機物質の結晶質。
鉱物の変形バージョンに液体、気体、固体がある。

例えば、水。
一応水は鉱物として扱われる、らしい。
水の水蒸気(気体)や氷(固体)などだ。
水は上から下に向かう、などというのは一部だけだ。
液体バージョンしか成り立たない。
水蒸気は下から上に向かうのだ。

水の基本形態は固体。
地球上は熱が高いので、水形態が多い。
更に高くなって、気体形態となる。
人間の段階で、見た目で判断すると勘違いする。

例えば岩石。
人間としては固い塊という固定概念がある。
ところが、地球全体としては液体になる。
地球の固体岩石など、地球上の1パーセントくらいなのだ。
圧倒的に液体状のマントルとして存在している。

だから、ワシなども見た目で判断してはいけない。
実は、表に出さない、とてつもない能力が・・・
詳しく知りたかったら、とりあえず依頼してみよう・・・
期待外れという能力もあるし・・・

生物を「生きている物」とするのも固定概念。
無機物も生きているし、成長や衰退もする。
スパンが生物と桁違いだから判り難いだけだ。
それでも役割はある。
地球のあらゆるモノ達は、それぞれの役割がある。
多種多様の役割が、一つの交響曲を奏でている。

一見無能のワシも、実は一つの役割がある。
無駄なような政治家達も、役割はあるのだ。
大部分の国民にとっては無駄であっても、大きな地球にとっては・・・
多分だけど、自信はないけど、役割はあるだろう。
何しろ、ゴキブリだってヒルだって役割はあるのだ。

生物も動物と植物がある。
動物は、その寿命の短さと引き換えに行動力を得ている。
行動力は、他への影響力となる。
中でも人間は、大きな影響力がある。
地球上の癌細胞のような言われ方をするが、役割はあるのだ。
厄介者には違いないが、それでも人間も一応仲間なのだ。

動物は動ける。
大きな特徴だ。
環境により、範囲は限られるが動けるから影響力は広い。
動ける範囲が広くなればなるほど、本当は責任が重くなる。

人工の道具で海の底から宇宙まで範囲を広げた人間。
広げるのはいいだろう。
地球上の全ての存在が一つのハーモニィーを奏でる事実と役割がある。
広く多くの調和力で、他を助ける役割を担えるならばだ。

本来の人間は、その力で多くの存在を助ける役割があるのだろう。
多分、あるのだろう。
あるのだろう・・・と期待したい。
そうでないかも、しれない、とも思う。
今現在の事実は、多くの存在への迷惑行為だけだが・・・
人間よ、少しはマトモになろうぜ。
人間以外は、それぞれの役割を果たしているのだから。

ただ今迷走中の迷惑動物人間はともかくとして・・・
動物は動けるから責任範囲をメンテナンスできる。
植物は動けない。
動けないが、動物をサポートする。
環境をサポートする。

食物となり、土の栄養となり、溶けて流れて河川や海の栄養となる。
それらを基にして、動物達は生命を維持できる。
光合成で酸素を供給してくれている。
温度、湿度を保ってくれている。
水の調整もしてくれている。
地球環境をサポートしてくれているから、生物は生きていられる。

植物の役目は大きい。
個々は動けないが、役目は広い。
土も海も空もサポートする。
人間などよりも、大きな役割があるのだぜ。

植物の役割は大きく広いが、生物に対しては生命維持だ。
肉体的な具体的維持の材料となる。
簡単にいえば、植物により動物は生きていられる。
その緑を犠牲にするような人間の行いは愚かとしかいえない。
緑を壊して、コンクリートにする政治行政は愚の骨頂だろう。
まして世界でも珍しいほど緑に恵まれた日本。
例え経済至上主義の政治屋でも、自らの首を絞める愚かさに気づけよなぁ。
緑を増やし、活かして経済を上げるくらいの工夫はできるだろ。

まぁ、低能はお互い様だ。
人間だもの。
滅亡するのは地球じゃない。
人間種なのだ。
滅亡してくれると、他の生物は助かる。
植物も助かる。
ワシも人間だから、ため息は出るが・・・

植物は動物の肉体維持の役割を持つ。
ならば、鉱物の役割もある。
肉体は残念ながら維持できる時間が少ない。
人間は動物の中で長い方だが、せいぜい150年くらいだろう。
まして、そこまでキチンと生きている人間は少ない。
現代では、だいたい100年くらいだろう。

鉱物の寿命は長い。
種類によるとはいえ、長ければ数十億年。
短くても数万年はあるだろう。
生まれ、成長し、衰退し、分解するのは同じだ。
残念なことに、瞬く間に一生を終える生物だ。
鉱物の一生を見極めることはない。
だが、交流はあるのだ。

この地球上に存在するモノは交流できる。
そう創られている世界だ。
物質界というのは、どんなレベルやモノでも交流できる。
ワシのような欠陥品ととても優秀なモノとが交流できる。
縁という媒体があれば、だが。

物質の無い次元では異波動は交流できない。
周波数が同じか近くないと交流はできない。
波形が同じが似ていないと交流できない。
つまり、愚かな宗教組織の言う神との話はできない。
私は神の使い・・・などは無理な相談だ。
だが、低波動や下級霊とは交流できる。
何故なら、人間はそういうモノまで内蔵しているからだ。

階段を上っている途中。
人間だろうが、他の意識体だろうが同じだ。
階段を上ることを進化という。
だが進化というヤツは、簡単ではない。
坂道とは違うのだ。

坂道ならば、遅々としてでも前に進める。
ところが進化は階段状だ。
階段の高さが足の長さとは桁違いに高い。
いくら努力しても上れない。
何かの要素が加わらないと上れないのだ。

だから宗教だろうが、何だろうが精進しても進化しない。
人間界、社会内なら勘違いや誤魔化すことは出来る。
それらしい態度も言葉も難しくない。
だが、一生何かの修行しても進化は出来ない。
そんな個人的な欲望で進化が出来るはずがない。
進化したいなどは、個人の欲望なのだ。
金欲や物欲と勉強欲や精神の浄化欲などは、全く差が無いのだぜ。

生真面目な信者は懸命に修行する。
正直者は努力し精進する。
心や魂や精神が進化するように・・・
それらは不純とは言わないが、立派でもない。
言い訳として、進化した精神で他を救いたいと言う。
不純でも立派でもないが、傲慢というのだ。

人間では、自分で自分を救えない。
誤魔化すことは出来る。
ウソもつける。
だが、この世は一方的に救いなどできようもない。
そんなことさえ解らないほど、精神世界スキスキ人間は無知だ。

この世は、お互い様、の世界として創られている。
進化したら他を救えるなんて仕組みではないのだ。
階段を上ることに執着して、お互い様は理解できない。
自分が高くなることだけを執着した人間はウヨウヨいるだろう。
成績優秀で官僚や政治家になった人達だ。
お互い様を理解できていないから、他に優しくなれない。
格上や格下を区別し差別した生きてきたからだ。
魂の進化を目指すのも、それらと少しも差がないのだ。

進化とは、偉くなることではない。
清く正しくなることでもない。
ましてや高尚などにはならない。
生物の進化を観ればいい。
進化とは、より自由になることだった。

魂だろうが精神だろうが、進化というのはそういうものだ。
下手に精神や意識をいじると不自由になる。
不自由は自由になりたい本能と摩擦を起こす。
それは苦しみという感覚になる。
進化が苦しみになったら、本末転倒なのだ。
そんな基本的なことが解らず修行や精進などしないほうがいい。
2600年前に、ブッちゃん(ブッダ)というオッサンが説いた。
そして、自由になったブッちゃんは、魅力的なオッサンになったのだ。

意識は変わる。
不安定でアイマイな意識だが、変われる。
変われるが、どの方向に変わるつもりなのか?
より楽に、より自由に変わるなら素敵だろう。
そういう手伝いの一つに、鉱物がある。
石がある。

植物が生物の肉体の生命力維持の役割がある。
もちろん鉱物も微量だが、生命維持の役割もある。
ミネラルという代謝に不可欠な触媒になる。
植物などの栄養素を助ける役目だ。
この仕組みも凄いとは思う。
植物の栄養素だけでは栄養にならないのだ。

その肉体に係わる役割もあるが、鉱物は意識に係わる。
見えない、もう一つの生命力の要素だ。
意識があるから生命は続き、そして種も繋がる。
更に生命体が複雑になると、心の割合が増える。
その心や意思や意志に影響する。

石は意思の親戚なのだ。
時には師にもなる。
何しろ生物よりも、とてつもなく長く生きているのだ。
その許容量は大きく深く広い。
そして、生物よりも固く硬く頑固だ。
ある意味、純粋でもある。
純粋の塊が、結晶なのだ。

石は固い。
そして、硬派。
石の中でも一つの結晶からなる石がある。
ほとんどの石は多種類の結晶が集まってできているのだ。

その一つの結晶から成っている石は、意思が特に固い。
一つの結晶だから、意思がブレない。
同じ波動を出し続けている。
だから、意思のブレる生物の助けとなる。
特に人間はブレっぱなしの生物だ。
心というヤツが特別大きく作用する生物だ。

理性と感情というが、元々人間の理性は微量なのだ。
い、いや、他の生物並みにはある。
あるが、ほとんど眠って役に立たない。
それなのに、他の生物より優れていると勘違いする。
人間は理性的な生物と、大勘違いする。

人間は感情で左右してしまう段階だ。
種として発達はしている。
能力を伸ばしてきた。
手の発達。
脳の発達が著しい。

発達自体はいい。
発達は自力というより環境で変化したモノだ。 それがタマタマ脳の発達になった。
人間の固定概念がある。
脳が発達したモノは、偉い・・・
生物として上位・・・
生物界の帝王・・・

何でもそうだが、自分で自分を上位にするヤツは愚かという。
しかも力があるから、傍若無人に振る舞う。
他の生物より偉いのだから、何をしてもいいのだ。
現段階の人間は、今、こんな状態なのだ。
冷静に観てみようね・・・。
自分で他よりも偉いと勝手に決めるヤツはアホだろ・・・

生物の構造としては優秀の人間。
意識は複雑で多様ではあるが、使いこなしてない。
なまじ想像力とそれを実現する能力が災いした。
コントロールできない力は使ってはいけないのだ。
そんなことは、当たり前。
迷惑どころか、滅亡につながっている。
例えば、原子力とか・・・

そんな未熟な欠陥人間の意識。
自然界というのは、とても優しい。
一応カバーする仕組みを用意してあった。
それが鉱物の役目の一つだ。
カバーがあっても、使えなければバカーという。

下手な意識を使わないと、自然界の勘が働く。
古代から、理由は解らないが石を重用した。
結晶の塊を身に着ける。
身近に置く。
その近くに、何かと居座る。
昔は、今よりも人間としては出来ていたのだ。

結晶の塊でも種類は様々だ。
希少なモノがある。
どの地からでも見つかるが、影響力は大きな結晶もある。
磨くと美しくなる結晶がある。
ある条件下で変わる結晶もある。

それぞれが特有の波動を出す。
肉体に有用な波動もある。
精神を高揚させる結晶もある。
穏やかに鎮める結晶もある。
縁を結びやすくする結晶もある。
意志を応援する結晶もある。

基本的に硬度が高く希少な結晶を宝石といった。
それに準ずる石を、貴石といった。
影響力が比較的高い石をパワーストーンと名付けた。
この言葉は造語だし、最近の単語だ。
今では、何となく一般的に使われるようになった。

石はいろいろを語りかけてくれる。
ワシは人間よりも好きかも・・・




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