第一章
   摩訶般若波羅蜜多心経

大般若波羅蜜多経は600巻もの膨大な経だったらしい。
よほどの変人か物好きかマニアでないと読まない。
ほとんどの人が読まない経など、役に立たない。
役に立たないモノは存在の意味さえ危うい。
他人事じゃない。
ワシだって、役に立つのか・・・不安だぁ。
だが、不安を続ける根性は無い・・・。

そこで玄奘は考えた。
誰でもは無理かもしれないが(字が読めない人もいる)
多くの人が大般若経の智恵を使って欲しい。
それには、短くすることだ。
長けりゃいいって、ものじゃない。
玄奘には短小コンプレックスが無かったのだ。
ビバ!短小!

玄奘だけじゃない。
大般若経を短小にした優れた人達は幾人もいる。
チベット訳の心経もある。
中国訳も幾つかある。
(漢訳の一つに玄奘訳がある)
日本で一般的に知られているのが玄奘訳の心経なのだ。

 

もともとは古代インド語で書かれていた。
サンスクリット語(梵語)というやつだ。
古代インドでは、特別な人達がいたのだ。
特殊な世界(見える世界と見えない世界の間)に繋がった。
特殊な世界に繋がる事を「冥想」という。

訳せない言葉がある。
あるいは、言葉そのものの音に意味がある場合がある。
その為サンスクリット語をそのまま音読みし、漢字に当てはめた。
心経には、そういう箇所が幾つかある。
特に最後の「呪(冥想の一方法)」は音に意味がある。
音に意味がある場合、訳は不要になる。

玄奘訳は「仏説般若心経」ともいわれる。
玄奘が仏教系の坊さんだからだが、
般若経は既成の仏教という枠を超えた智恵だ。
全ての生物に共通した道標の一つだ。
(元々、仏陀は鳥やケモノに話をしていたのだ。
仏教は仏教徒への教えじゃないのだぞ)


「経」の意味を誤解している。
坊さんの唱える「お経」だと思われている。
あれは「経」の一つにすぎない。
「経」とは「万物の道」を意味する。
直接訳は「たていと」だ。

経営・・・。
「経」を営む経営者は少ない。
皆無とはいわないが、皆無に近いかも・・・。
経営者はエラソウな言葉が好きだ。
人生訓のような言葉を多様する。

商人タイプの特徴だ。
教育じみた言葉が好きだ。
法則が好きだ。
でもワシは知っている。
エラソウな言葉を言うのは誤魔化しからだ。
政治家や官僚だって立派な言葉を言う。
言葉が立派だと、腹は闇が多いかも・・・。

「経」の意味は「本道」だ。
その更に中心の部分だけを書いた。
だから「心経」という。
誰でも利用できるように簡潔にした。
決して難しくないのだ。

「心経」はホリスティック(全的)でもある。
一部が全部を顕している。
理解度によって、意味は幾らでも深くなる。
だから万人が理解できるようになっている。
これが真説だぁ!なんて意気込まなくてもいい。
誰が、どのように訳してもいいのだ。

だから、ワシだって訳していいのだ。
ワシのようにイイカゲンな訳は少ない。
だが、世の中にはイイカゲン者は少なくない。
ワシはイイカゲン党の辺鄙地区一人親方なのだ。
モンクがあっても、聞く耳は持たない。

「摩訶般若波羅蜜多心経」は題字だ。
題字は大事だ。
この題字は大慈でもある。
駄洒落と高度な洒落の差は微妙だ・・・。
もちろんワシが目指すのは駄洒落だ。
だが教養がジャマして上手く駄洒落ない。
頭が悪い人がうらやましいなぁ・・・。

この題字を見ただけで難しいと勘違いする人がいる。
難しそうな漢字が10個も続いているからだ。
だが、よ〜く考えよう・・・。
書いたのは玄奘さんだ。
通称、ゲンちゃん。

ゲンちゃんの日常字は漢字なのだ。
我々は日本人。
漢字も少しは読めるが「ひらがな」が主なのだ。
漢字だけの文章なんて、難しく思えてしまう。
難しく思えるのと、難しいのは別な次元だぜ。
心経は、難しくないのだ。

小学校一年生が読む物語がある。
その字がスペイン語だと難しいと思ってしまう。
だが、スペイン人の子供にとっては簡単なのだ。
ワシはそうでもないが、フランス語でも難解に感じるようだ。
当然、フランス人のガキはスラスラ理解できる。
そのフランス人のソルボンヌ大学教授がいる。
大学教授も様々だが、一応、頭が良いとしよう。
でもスワヒリ語で書かれた小学生用の物語は難解になる。

心経も同じなのだ。
日本人は漢字に馴染みがあるほうだ。
それでも漢字ばかりだと難しく思ってしまう。
「思う事」「考える事」など間違いだらけだ。
自分の判断は・・・ほとんど誤りなのだ。

ほとんどの人間の判断は間違っていた。
正しければ、今の地球のようにはならない。
戦争で苦しむ地球人だらけの星は卒業している。
「思う事」と事実は別な次元にある。
アナタの思いや考えは・・・間違いだらけだ。
心経が難しいと考えるならば、それは間違いだ。
心経は「思う・考える」から解放しようぜ、と書いてある。

「思う」から「想う」にしてみなよ。
そうすりゃ「苦」から離れられる。
「想う」事を「冥想」っていうんだ。
簡単にいえば、心経はそういっている。

「思う」は自分事。
それぞれの「自分の思い」がある。
当然、それぞれの「思い」は同じじゃない。
「思い」は個独自のモノだから他と衝突する。

あのコが欲しい。
オレもあのコが欲しい。
実は、ボクもなんだ。
決闘だぁ!
(あのコは、他のオトコが欲しい・・・)

そして「思い」は一部の満足と多くの「苦」を産む。
圧倒的に「苦」が多いし大きい。
「思は叶う」なんて言葉に、浅く反応しないでね。
自分だけの地球じゃないのだぜ。

最初の「摩訶」(まか)は当て字だ。
サンスクリット語の「マハー」をそのまま漢字にした。
意味は「偉大な・とってもエライ・超スゲェ〜」だ。
マハトマ・ガンディーという偉人がいた。
戦争無しでインドをイギリスから自立させた、じっちゃんだ。
ワシの超尊敬十人衆の一人だ。

「マハ」は偉大な、という尊称。
「トマ」の父(父ちゃんではないぞ)も尊称。
「マハトマ」は尊称に尊称を重ねたのだ。
そのくらい、ガンディ師に人々が尊敬していたのだ。
通称、ガンじぃ(爺)・・・。

ヨガ風体操やヨガもどきをする人は多い。
だが本当のヨガ行をする人は、とっても少ない。
絶滅種のようだ。
だが昔のインドには結構いたようだ。
行者として生き、更に尊敬に値するヨガ行者もいた。
人々に多くの幸せを導いた行者だ。
自己満足の行者じゃないぞ。

ある境地の生き方まで高め、実績を残した行者。
尊称は「リシ」という。
リシの中でも更に偉大なリシもいた。
「マハ」を重ね「マハリシ」という。
モノは重ねりゃ、更にいいのだ。
重ねたトコロから「命」は生まれる。

「般若」もサンスクリットの音読み当て字だ。
ワシには正確な音読みが出来ない
不正確な音読みも自慢じゃないが出来ない。
意味は「宇宙からの智恵」という感じかな。
宇宙でも神でも仏でもいいけど、人間の智恵じゃない。

人の智恵もある。
動物の智恵もある。
だが、宇宙とか自然とか神とかの智恵とは別次元だ。
生物の智恵は生きていく事から発生したものだ。
生物中心や自分中心だから、偏った智恵だ。
悪いわけじゃないが、規模が小さい智恵だ。

般若は全ての存在に共通し、調和を促す智恵だ。
この世とあの世を含めた共通智恵のようなものだ。
共通だから、誰の中にもある。
どんな存在の中にもある。
生物だけじゃなく、非生物や非物質にもある。
だから使うには「冥想」という方法なのだ。

「波羅蜜多」も音読み当て字。
彼岸の心境といっても判り難いよね。
行った事ないし・・・。
居たかもしれないけど、覚えてないし・・・。
「超楽な状態・境地」という意味でいいや。

彼岸と此岸という言葉がある。
此岸はこの世、彼岸はあの世。
というのは間違いだと思うぜ。
多くの葬式仏教の誤訳だ。

この世(肉体界)もあの世(霊界)も此岸だ。
そして、肉体界でも霊界でも彼岸がある。
彼岸と此岸は精神界の次元の違いだ。
物質界と無物質界の違いじゃない。
だから「心経」があるのだ。
生きている間で役立つモノなのだ。
(死んでも役立つようだけど・・・)

題字のワシ的訳。
「超スゲェ楽になれる方法を簡単にまとめたぜ」

ゲンちゃん(玄奘)はそう言った。
ゲンちゃんはホンマモンの高僧だ。
この世とあの世の間まで行って持ってきた。
そんな高僧なら、ヒョウキンに決っている。
気負いがあるようじゃ行けないはずだ。
超優しいから、優しい解釈をしてくれた。
超高僧だから、易しい言葉で語ってくれた。

「誰でも使えるように簡単にしたんだ。
下手にいじるなよなぁ。
意味なんて解らなくても大丈夫なようにしてある。
唱えてれば、いいんだぜ。」

ゲンちゃんは題字で中身まで話したのだ。
心経は濃縮してある。
濃縮してあるが、難しくしたわけじゃない。
ゲンちゃん級の濃縮は優しい(易しい)のだ。
(濃縮だから)題字は大事。

 

 

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