第十二章
  無智亦無得 以無所得故

無智では何も得られない。
だから財産(所得)も無い貧乏だ。
・・・ワシの事か・・・ 
というような安易な解説はやめよう・・・

「智も無く、それを得る事も無い。
得る事が無いから、得るモノも無い」
こういう解釈は小学生に対しても恥ずかしい・・・。
ワシの前記の解説より酷いと思うのはワシだけか?

この「智」は普段の生活に使う智恵ではない。
「サトリ」という鳥を捕まえる為の智恵だ。
精神世界スキスキ人間が、やたら欲しがるようだ。
極めて、マニアックなレアものの鳥だ。
毎日、生きていくには、ほとんど、役に立たない智恵だ。
ブッちゃんも若気の至りの頃、追いかけた・・・。

「得」は「サトリ」を指す。
それがどんなモノかは、誰も知らない・・・。
(ワシ的には「ヤキトリ」の方が役に立つと思う
「シャッキントリ」は嫌われる鳥だ・・・)
誰も知らないけど、あこがれる人達は多い。
得た、と断言する人もたまにいる。
ほぼ間違いなく、勘違いか詐欺だろう。

どんなモノか知らなくても、想像は出来る。
「サトリ」を得たなら、何もしないだろう。
人間ではいられないかもしれない。
少なくても、それを利用して組織など作らない。

「サトリで皆さんを助けたい」などとは言わない。
そういう事を言う人は、腹が黒いものだ。
腹が黒いと・・・金儲けが上手くなる。
ワシも毎日黒くなるように努力している。
しかし・・・努力の才能が無ぇからなぁ・・・

「以無所得故」がヒネってある。
大抵はここでワナにはまる。
ワナを仕掛けたのは、もちろんゲンちゃん(玄奘)だ。
イタズラ坊主というのは、マトモに経を書かない。
マジメが続かないから、時々「遊び」を入れるのだ。

ところが、訳す人達はマジメな人が多い。
しかも、学もある。
当然、ワナにかかりやすい。
知識が多く、マジメな人は騙されやすいのだ。
あまり、学校の勉強ばかりマジメにするなよ・・・。

ワシはラッキーな事に不マジメだった。
しかも学もない(イイカゲンな学はある方だ)。
しかも、しかも、ヒネクレた性格だ。
当然、ワナにかかるほど御人好しではない。
むしろ、ワナを仕掛けて書くのは好きな方だぜ。
だからゲンちゃんやブッちゃんのワナにはかからない。

ワナの一つは「得」と「所得」だ。
別々に書いてあるのだから、違うモノだ。
なのに大抵は同じに訳す。
字から判断すれば、同じようなモノだ。
心経は字で判断するとワナにはまるのだ。

なにしろ「サトリ」を「得」と表現しているのだ。
「所得」は通常の所得の意味じゃない。
「所」は(欲)心のことだ。
「所得」は「サトリを求める心」だぜ。
すると、ブッちゃんの言いたい事がよくわかる。

ワナのもう一つは「故」だ。
この後に続く言葉にかけてしまうとワナにはまる。
何故なら、後の言葉にも「故」が付いているのだ。
「〜故に」と訳すと、言葉にならない。
ならないのに・・・「〜故に〜故に」と訳す人が多い・・・。

「所得故」は前の「智得」にかかる。
所得の意味が判れば、言葉として当然前になる。
ブッちゃんやゲンちゃんは優しい。
優しいから、注意点を強調した。
特に弟子達用に語った箇所だ。

「サトリを欲しがる心(所得)にこだわるなよ(無)
そう(こだわらない)なれば(以故)
サトリ(得)とか、至る方法(智)とかにも
こだわらなくて(無)いいのさ」

衆生やケモノや妖怪達には、あまり関係ない箇所だ。
自分が優秀になりたい僧やエリート意識達に語ったのだ。
ブッちゃんは、不肖の弟子達にも優しいんだなぁ・・・。

「サトリ」を得たい、っていう心から離れろよなぁ。
そうでないと、何も、何からも解放でき無ぇぞ。

修行と称して一般生活を離れる。
特別な場所、特別な方法で修行する。
自分は特別と思い込む。
それらは、生半可の生き方だ。
そこから得るモノは役に立たない。

ブッちゃんは嘗ての修行から学んだのだ。
特殊な修行は無駄であり、害があると学んだのだ。
大切なモノは、暮らしの中から気づくモノだ。
大切なモノは、真偽や正誤とは別なモノだ。
真偽や正誤を追いかけると、暮らしから離れてしまう。

般若といわれる楽な心(智恵)に触れて欲しい。
それは、通常の暮らしの中で活かせるからだ。
特別な立場や層になる為じゃない。
衆生やケモノや妖怪達までが活用できるモノだ。

「サトリを得る、なんてツマラン生き方は止めろよなぁ」
ブッちゃんは、落とし穴にハマる人達に優しく諭したのだ。

サトリに惑わされない。
すると般若が観えてくる。
気づけば、当たり前なんだけどなぁ。
毎日、暮らしているんだぜ。

「般若」と「サトリ」を混同しやすいようだ。
特に精神世界スキスキ人間に多い。
般若はそんなに特殊じゃないぜ。
普通の暮らしの中で活かすモノだ。
誰でも使えるモノだ。

サトリは特殊になりたがる人達用だ。
人それぞれだから、それもいい。
だけど万物向きじゃない。
万物は千差万別だけど特別じゃない。
大切なのは、万物用の方なのだ。

「所得」は「自分のモノにしたがる心」だ。
無所得になると、地球は楽に暮らせるようになる。
ネイティブアメリカンの酋長が嘗て言った。
「この地球の何一つ、誰も自分のモノではない。
我々は、少しの間、少しの場所を借りているだけだ。
それを忘れた時から争いが始まる。」

それを忘れた開拓民と称する侵略者が北米大陸に押し寄せた。
今では、その規模を世界中に伸ばしている。
いつでも、争いで「所得」したがる国になった。
腰巾着の某日本という国をしたがえている・・・。

ブッちゃんは言った。
身体も生命も借り物だ。
何一つ所得する事は出来ない。
所得できると勘違いすると「苦」が生まれる。
それは「智恵」も「サトリ」も同じだ。
何一つ、所得は出来ない。

心は「欲しがる」ように出来ている。
欲しがるな、というのは無理がある。
「無所得」は所得を無しにする、というのと違う。
「無」は無しではなく「こだわらない」だ。
所得にこだわらない。
これなら、何とかなるんじゃないかな。

「欲しがってもいいけど、こだわるなよ。
所得してもいいけど、こだわるなよ。
この世はいつでも無常に出来ているんだ。
必ず変化するんだぜ。
所得しても、し続ける事は絶対出来ない仕組みだぜ。」

「まぁな、形あるモノが所得なんて出来ないけどな。
心ってヤツは勘違いが得意だからよ。
一時的に出来るって思ってもいいけどよ。
ず〜と続ける事は出来っこ無ぇぜ。
続けようとすると、苦しみが生まれるんだよ。」

物欲は比較的コントロールが出来る。
物質を所得しても、いずれ飽きるのだ。
肉体欲もコントロール出来る方だ。
食欲や性欲なども一定量で満足できる。
物欲、肉体欲に付随する感情も何とかなるだろう。

だが、精神欲は盲点となる。
精神向上だから欲ではないと勘違いする。
精神(魂)を高めるのだから、浄化だから、と理屈する。
学ぶ事はいい事、正しい事だから、と正誤を持ち出す。
生活を離れる事が害になると気づかないまま突っ走る。

ブッちゃんは、落とし穴に陥るタイプに注意した。
魂を進化しようとする人達だ。
八っつぁんやクマさんは心配ないが、救い難いのが修行僧達だ。
そして本気で信者になってしまう、キマジメタイプだ。
他の生物達の調和を乱しているのに気づかない。
正しさを押し付けて、争いをするタイプだ。
結構、困ったちゃん達なのだよ。

ワシ的訳。
「欲しがる心から自由になれよ。
それは僧達も同じだぜ。
物欲や肉欲だけが対象じゃ無ぇぞ。
欲しがる心が、大切なモノを観えなくしているんだ。

欲しがる心に、こだわらなくなる。
欲しがっても、いつでも放せる。
するとな、サトリからも自由になれるんだぜ。
サトリを得る事なんざ、どうでもよくなる。
サトリを追いかけるのは、趣味の一つだ。

サトリがどうでもいいなら、
その為の修行や智恵の追及もどうでもいい。
智恵からも放れる、放せる。
それで、やっと、大切なモノが観える。
大切なのは、毎日の暮らしだ。
(サトリを)欲しがる心にこだわらなくなると、
当たり前に気づくようになる。」

 

第十二章は終りです。ご苦労様でした
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