第十三章
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故


菩提薩多(多は当て字)を略して菩薩という。
(多は土に垂だがウェブには使えない)
その菩薩とは何者か?
サトリを求める者。
他の為に生きる者。
如来になる前の役職?

ワシは「幸せに向かって歩く者」と訳した。
ならば、生きとし生けるモノ全てが当てはまる。
生命は意識する、しないに係わらず、幸せに向かうものだ。
向かわないのなら、生命は続かない仕組みだ。
当たり前なんだけどなぁ。

わざとらしく菩薩というが、実は全てが菩薩だ。
生命全てが仏でもあり、神でもあり、天使でもある。
ワシのような欠陥オッサンでも菩薩なのだ。
ワシは菩薩を自覚している。
天使も自覚している。

ワシが菩薩というのに異論はあるだろう。
がモンクは言わせない・・・。
モンクを言ってもいいけど、聞く耳は持たない。
聞く耳はあるけど、マトモに聞かない・・・。
どうだぁ、まいったかぁ・・・。

菩薩が「幸せに向かうモノ」で生命体全てだ。
ならば如来とは何か?
簡単だ。
「幸せになってしまったモノ」だ。
当然、生命体を超えてしまっている。

悟ったら人間ではいられない、という意味はここにある。
超えたら、生命体でいる理由が無い。
つまり、
人間でいて「私は悟りを開いた」というのは無理なのだ。
そういう人は、嘘か詐欺か勘違いなのだよ。
ツマラン宗教にひっかからないでね。

ブッちゃん(仏陀)は気づいたのだ。
悟りを得るのは自然にまかせる。
人でいる間は、生きる事を大切にする。
だから衆生やケモノや妖怪に優しい。
だから生あるモノ達に「慈悲」という言葉を使った。
悲しみも苦しさも含め、認めての方法だ。

広い意味では全てが菩薩。
狭い意味では「幸せに向かう」事を意識して生きるモノ達だろうな。
この「意識する」っていうのが、あらゆる事に優先する。
「意識する」だけで、方向の確かさも速度も段違いになるのだ。

幸せに向かう事の具体的行動の一つに利他がある。
他の為に(も)生きる。
だがら、利他行が菩薩の生き方、ともいえる。
それほど立派な事じゃない。
地球上の生物としては、当たり前なのだ。
人類種だけが、かなり外れているだけだ。

つまり、仏教とは、当たり前の生き方を説いただけだ。
ブッちゃんは、理屈で話したのじゃない。
生物として、当たり前の生き方を話した。
人間だけが外れすぎていたので、当たり前が菩薩行となった。
こんなワシも、そんなアンタも菩薩なんだぜ。

同じ人間でも様々だ。
というより、一人として同じではない。
形や心や能力が違う。
国や人種や年代が違う。
違いはあるが、偉さの差はない。

偉さではないが、段階のような違いがある。
ある意味、差といってもいいだろう。
経験値といってもいいだろう。
誰でも通る道だけど、先と後がある。
決定的な差ではないが、現段階では差がある。

何度も生まれ変わって、経験を積む。
いろいろな悲しみ、苦しみ、嬉しさ、楽しさを味わう。
それは菩薩行として役立つ経験となる。
苦も非も哀も嬉も楽も役に立つのだ。
どんな人生も無駄じゃないぜ。

誰でも菩薩。
だが、現段階では差がある。
同じ人間でも菩薩として、大きな差があるのだ。
例えば、故マザー・テレサ。
例えば、ダライ・ラマ法王。
毎日の生活が菩薩行として成り立っている。

同じ人間とは思えないがワシも人間の一人。
同じ人間とは思えないが、政治家や官僚も人間の一人。
菩薩としてマザー・テレサやダライ・ラマとは差がある。
ある、なんてもんじゃないほど、ある。
だから、皆菩薩、といっても褒められたもんじゃねぇ・・・。

どんな段階でも一応菩薩。
餓鬼道でも畜生道でも菩薩。
出来の悪い菩薩達(つまり我々・・・)の為に説法する。
出来のいい菩薩達は指導など必要ないのだ。
説法は慈悲の心と共にあるんだぜ。

出来が良くても悪くても、菩薩は皆同じ方向を歩む。
菩薩道という道を歩く。
自他が幸せになるように歩く。
その為の方法が「般若」というわけだ。

ここで間違えやすいのが「正誤」や「真偽」だ。
菩薩は正しい行いをするものだ、と考え違いをする。
まだ人間だぜ。
正しいと思い込むと、争いをする生物だぜ。
菩薩行の逆なのが「正しさの追求」ってヤツだ。
ほとんどの宗教は菩薩行を邪魔しているのが現実だ。
宗教者は争いが好きなのだ・・・。

菩薩行は誤りを認めるものだ。
至らなさを優しく抱きしめるものだ。
正しさに導き、押し付けるものじゃないぜ。
未成熟の生物に必要なのが菩薩行だ。
未成熟同士お互い様だから必要なのだぜ。

菩薩行に必要なのは正しい心ではない。
正しさを判断する智恵でもない。
優しさであり、明るさだ。
イタズラ小僧のような、愉しさだ。

正しさに「こだわらない」生き方。
だから「無」を付ける。
生きる事を愉しめる心。
それを菩薩心という。

愉しむ、とは押し付けない係わり合いだ。
何でも認める優しさがあって愉しめる。
その優しさを生活に活かす「般若」という智恵。
だから生きとし生けるモノ全てが対象となる。
「般若」を知る事が菩薩行となる。

生物全てが菩薩といってもなぁ・・・
ミジンコやアメーバやゴキブリもかぁ・・・
などと種科目で差別するのは止めておこう。
彼等には彼等なりの菩薩行がある。
あるんじゃないかな?
わからないけど、ある、って事で・・・。

どうやら菩薩は肉体のある生物だけじゃないようだ。
肉体が無くなった後の精神(魂)体も含むらしい。
例えば、地蔵菩薩や弥勒菩薩等々。
他の幸せに貢献しようとする意識体だ。

如来にだってなれる立場なのにならない。
如来になったら、ただ光っているだけ。
それよりも、他と係わりたいモノ達だ。
いわば・・・ボランティア精神かなぁ・・・。

ボランティアは個人趣味なのだ。
趣味を超えたら、ボランティアではなくなる。
菩薩行ではなくなる。
菩薩行は個人趣味なのだ。

社会の為、人の為と言い出したら偽善だ。
詐欺も勘違いも同じだ。
心の奥は別なモノでドロドロしている。
個人が好きで行ってこそボランティア。
趣味で行ってこそ菩薩行。

まして組織が音頭をとっている場合は怪しい。
薄汚い企みがあるものだ。
神や仏の名前を使って信者を動かす。
騙されやすい人を信者に加える。
自立すれば、他を煽動などしない事が判る。
自立は共生(菩薩行)の土台だぜ。

生きる事は趣味なのだ。
個性で生きる事(趣味)が本道だ。
だからグレちゃん(創造主)は別々に創った。
一人一人、一つ一つ、個性がある。
「個性で生きろよ」
そういうメッセージだろう。

生きる事。
最後まで大切に生き続ける事。
それが菩薩行になる。
個性があるのは、個性ある菩薩行が必要だからだ。

遠慮しないで、個性溢れる生き方をしよう。
ただし・・・肉体生命は期限がある。
生命は最後まで大切に扱う意味だ。
立派に生きなくてもいい。
だが、大切に生きるのは、当たり前なのだ。
その、当たり前を話しているのがブッちゃん達だ。
難しい理屈じゃない。

ワシ的訳。
これは次章に繋がる部分だから途中までの訳になる。

「お前ぇ等は皆菩薩なんだぜ。
生き物ってのはよ、その立場立場で生き方が違う。
それでも方向は同じなんだぜ。
気づいても気づかなくても同じ方向に歩いている。

この世界に生まれて、死ぬまで生きる。
一人一人の個性で生きる。
個性は共生を活かす為のもんだ。
この世ってのはよ、多種多様なモノが合わさって出来ている。
どんな立場でも、他の役に立っているんだ。
だから、気づいても気づかなくても菩薩だ。

もちろん一度の人生で完成するわけが無ぇ。
何度も生まれ変わるのさ。
いろいろな立場を経験するのさ。
そして、少しづつ進むんだ。
幸せ、そのものの境地に向かっているんだ。
生きているってのは、幸せに向かう事なんだぜ。」

「誰でも菩薩なんだけどよ、
菩薩として生きるコツがあるんだ。
そのコツを知って実行すると、楽に生きられる。
苦しむと、生きるのが大変に思えるだろ。
苦しむ菩薩より、愉しめる菩薩になりなよ。

そのコツが般若ってヤツだ。
何も難しい事じゃ無ぇ。
何度も言っているだろ。
この世の仕組みはイイカゲンだ。
だから、イイカゲンに心を合わせるのさ。

万物が流転しているし、諸行は無常だろ。
心を固定したら苦しくなるのは当たり前だ。
毎日身体だって変化しているんだ。
心だけこだわるのは不自然だろ。
それに気づく事が、般若ってことさ。」

 

第十三章は終りです。ご苦労様でした
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