第十四章
  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

前章の続きだ。
その前に、罫礙(けいげ)の説明だ。
(注:罫のトが無い字だが、変換できない)
罫は網で礙は石。
網にからまったような心。
石につまずくような心。

何故、網や石に束縛されるか。
「こだわり」が網や石を引き寄せる。
「無(こだわらない)」なら、網や石も邪魔じゃない。
世の中には網も石もあるのだ。
網や石が無くなるわけじゃないぜ。
だが邪魔にならなければ、不都合じゃない。

落とし穴も沢山ある。
しかも先が真っ暗の時もある。
それでも歩かなければならない。
毎日生きているからだ。

単純に「心に引っかかり(罫礙)が無ければ・・・」
などと訳しても意味が無い。
「清く正しく美しく生きましょう」
などと平気で言う宗教言葉のようなものだ。
だからワシは宗教は詐欺だと思っている。
平気でそういう言葉を言う人を信用しない。

心が簡単に動かせるなら、世界は何千年も前から楽園だ。
人間は皆、神様級の超高等精神体だ。
もちろん、宗教組織など必要あるまい。
皆が悟っているのだ。

ブッちゃん(仏陀)は本物の優しいオッサンだ。
無理な事は言わない。
出来もしない事を言わない。
誰でも出来うるヒントを話しているのだ。
最終的には本人が自分で歩く道だ。

網に引っかかるな、と言っても絡まる。
石につまずくな、と言っても転がる。
それが人間で生きているって事だ。
その大前提を認めた上で説法が活きる。

心の中は多種多様なモノが沢山ある。
不都合なモノだけ無くせ、というのは無理だ。
多種多様で心を形成しているのだ。
清く正しいだけの心は存在しないし存在できない。

そんな事もわからないで心の領域に踏み込もうとする。
宗教家や教育者や生真面目な人達。
言っている本人も自分の心にフタをしている。
嘘をついている。
あるいは、観る目も無いのに理屈で話す。
だから落ちこぼれは救われない。
閉じこもりも出られない。
心に正しさを押し付けても回復しないのだ。

網に引っかかっても、気にするなよ。
石につまづき転がるなんて、普通だぜ。
網を無くそうなんて考えなくていい。
石を避けようなんて思わなくていい。

先の事は判らねぇ。
誰も先は見えねぇもんだ。
生きるってのは、闇の中で歩いている。
人により、真っ暗か薄闇かの違いはある。
先に光を感じるかどうかの違いもある。
それは大きな違いかもしれねぇ。

それでも網に絡まる。
薄闇でも光を感じても、石に転がる。
絡まる、転がるのは大前提さ。
そんな事ぐらいで、立ち止まる必要は無ぇぜ。

「無罫礙故」に、また仕掛けがある。
今までの「色不異空」と「空不異色」。
「色即是空」と「空即是色」などと同じだ。
そのまま字面を訳したら、マヌケだろ。

ゲンちゃん(玄奘)はボケてない。
せっかく心経という凝縮経にしているのだ。
同じ意味言葉の繰り返しなどしない。
だから、ここも違う訳にして欲しいのだ。
通常の訳者が間違うのは、訳者の立場だからだ。
書き手の立場になれば判る。
まして、イタズラ坊主のゲンちゃんだ。

書き手は、文章に仕掛けをしたいものなのだ。
短い文章になればなるほど仕掛ける。
詩や俳句や短歌をみればいい。
言葉に様々な仕掛けを付ける。
訳し手や読み手の事など、少し度外視してしまう。
書くのが愉しいから、そういう仕掛けをする。
創る愉しみは個人的な愉しみが必ず入る。
何事も個性があってこそ活きる。

心無罫礙 無罫礙故が同じ意味なら・・・
「心無罫礙故」の一節でいい。
どこが違うか?
一目瞭然。
前節に「心」があり、後節にはない。

つまり「無罫礙故」の網や石は心の事じゃない。
心でなければ、身体だ。
身体の網は病の事だ。
石は怪我の事だ。
(この訳は多分、日本でもワシ一人だと思う)

ゲンちゃんは、わざわざ心と身体を区別して書いたのだ。
この世界では、心も肉体も同等に重要なのだ。
つい、心や精神を重要視しがちだが、それは間違いやすい点だ。
同等だが、むしろ肉体が優先する世界だぜ。
精神世界スキスキ人間は、ここで必ず間違える・・・。

いままでの心経の訳には身体が抜けている。
心の部分だけ取り上げていた。
心経は心(精神)分野の経だと思われている。
それは、とても大きな間違いだと思う。

肉体(物質)が無い世界なら魂が主役だ。
だが、この世界(色界)は物質(肉体)が優先する。
心や魂が重要なのは解るが、優先するのは肉体だ。
心や魂が肉体に影響するが、増して肉体が心や魂に影響する。

底の浅い宗教や、宗教まがいの組織の教えは似ている。
精神的正しさを強調した教え。
肉体の無い世界でしか通用しない理屈。
それで肉体を持った衆生やケモノや妖怪は救われない。
心は誤魔化せるが、肉体は誤魔化せないのだぜ。

「無有恐怖」も表面の訳が多い。
「〜故に恐れが無い」などと訳すようだ。
それなら「無恐怖」で事足りる。
「有」の字が入っている意味を無視している。

何度もいう。
「無」を「無い」と訳すから意味が汲み取れないのだ。
「無」は「こだわらない・気にしない」と訳すのだ。
「こだわらない」と訳せれば「有」の字が活きる。

恐怖が無くなる、のではない。
恐怖が有っても大丈夫だぜ、と言ってくれている。
ブッちゃん(仏陀)は優しいんだ。
理屈で「無くなる」なんて強調しない。
生きている、というのは「恐れ」と共生しているのだ。
先が見えない(恐怖)から、この世で生物として存在しているのだ。

恐れの無い生物は存在できない。
無くなったら、この世にいる意味が無い。
肉体を持っている意味は、結構深いんだぜ。
そんな事は当たり前だろ。

この世の出来事を全て肯定する。
その上で、歩き方のコツを教えてくれる。
それが説法ってことだろう。
理屈や机上論や正真論では、実際は役にたたない。

心の乱れ、病、恐れ、を有ると認めて先に進める。
それらは「無いのだ!」などと力説しても解決できない。
「実相界では幻だ」などと、この世で言っても意味が無い。
この世は、舞台上なんだぜ。
本名や本当の姿を明かすのは、マヌケだぜ。

〜しなければならない、のではない。
〜してはならない、のでもない。
何でもアリなのだ。
その上で、実生活として、歩き方を教えてくれているのだ。
心経は、正しさの理屈じゃないんだぜ。

「恐れ」も見直してみよう。
生きる事は恐れが付随する。
生命は必ず尽きる。
何時、何処で、如何なる理由でかは判らない。
誰にも判らない。
だから「恐れ」は必ず付随する。

「恐れ」の表面には無智がある。
勘違いもある。
だが底には、この世の仕組みがある。
仕組みの奥深さを感じるのだ。
「恐れ」は「畏れ」になる。
恐れる事は、単純に不都合なモノじゃない。

ブッちゃんは、その事を含めて「有」を使った。
恐れを知らない生物は、必ず自滅する。
自滅だけじゃない。
他の生物の迷惑となるのだ。
この世は多種多様なモノと共存共生で成り立つ。
恐れを無くしては、この世にいる意味が無くなるのだ。

ワシ的訳。
「(前章からの続き・般若というのは)
心の悩みや迷い、心のダメージが有っても大丈夫だ。
その事に固定しなければ、勝手に変わる。
いろいろが有って当たり前だ。
だが、心は変化しやすいんだぜ。
一々思い出して、こだわらなけりゃ変わるぜ。

身体の病や怪我も有る。
必ずといっていいほど、降りかかる。
だが、それでも大丈夫だ。
回復したり、軽減したりするコツがある。
身体も常に変わっているのが事実だぜ。
しかも回復方向に変わっているんだぜ。

生きているってのは、必ず回復に向かっているんだ。
回復を邪魔しているのは、自分の固定概念なんだよ。
変化している事を認めろよなぁ。
不都合があるのを認める。
同じく、回復している事も認める。
要は、常の変化を認めるって事だ。
それが、こだわらない、イイカゲンって事だ。
それが、般若って事だ。」

「心や身体の不都合にとらわれるなよ。
といって、無視していいわけ無ぇだろ。
それぞれ可愛がれよな。
それが養生ってことだ。

養生を意識し行うと、楽になるぜ。
不都合が有っても治せばいいんだ。
すると、恐怖が必要以上にならない。
恐怖が有っても、大丈夫になるのさ。

まぁ、適当な大きさで恐怖を感じられる。
これは、結構大切なんだぜ。
恐れも知らないと、ロクなモノになれ無ぇ。
人間もケモノも妖怪も、適当に恐怖が必要さ。
必要以上は、いら無ぇけどな。
まぁ、般若ってのは、暮らすのが楽になるコツだ。」

 

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