第十六章
  三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

過去、現在、未来を「三世」という。
諸仏は「開かれた人達」のこと。
ブッダ(仏)を「悟った人」と訳すから誤解する。
悟りとは開かれた事だと思うが、通常は違うイメージだ。
何でも解っている超高級意識、みたいな・・・。

御釈迦様は尊称としてブッダといわれる。
だが、誰でも開かれればブッダなのだ。
ここは御釈迦様個人を指すブッダ(仏)ではない。
(可能性として)ワシやアンタだ・・・。
可能性はゼロに近いが・・・。

真理が解ることを「悟り」とするから間違う。
真理など、どうでもいいと悟るからブッダなのだ。
大切なのは、調和だと悟るからブッダなのだ。
生き方が正しいからブッダなのではない。
生き方が明るいから開かれた人(ブッダ)なのだ。

真理は解っても解らなくても変わらない。
真理は知っても知らなくても差が無い。
(知れば優越感があるかもしれないが、くだらない)
そんな事より大切な事がある。
大切なモノがある。
この物質界(肉体界)にいるのなら、優先する事がある。

地球上に一定時間存在できる。
それが、この世に生まれた特権だ。
しかも多種多様な生命体と一緒だ。
それらが補い合って存在できる。
ここは、共存共生の世界(星)なのだ。

真理を追求する前にする事がある。
毎日を暮らす事だ。
他と関わり合って、生きている。
ならば、する事があるだろう。
真理を追求するより優先だろう。
この世に生まれた業(行)というのがあるとすれば、
毎日、他と関わり合って生きる事だ。
当たり前だろ。

他と助け合って生きる。
生かされている。
そんな当たり前に気づけば明るくなれる。
それがブッダ(開かれた人)という意味だ。
決して修行して精進した結果じゃないぜ。
ブッちゃんは「下手な修行は害だ」と言ったぜ。

明るく柔らかい生き方。
それがブッダだ。
誰でもなれる可能性がある。
可能性はあるが、結構難しい。
簡単そうだが、かなり難しい。
単純なのは、奥も深いものなのだ。

悟りを開いた人がブッダなら誰もいない。
いたと仮定しても、一人から数人。
そんな特殊な人用に経は説かない。
悟りを開こうとして、人生を無駄にする。
更に、他の人や生物に迷惑をかけるのがオチ。

三世諸仏と書いてある。
結構いるんだぜ。
ブッダが「悟った人」なら、諸仏というほどいない。
せいぜい2500年から2000年ほど過去に2・3人。
シッタールダとキリストともう一人くらいかなぁ・・・。

ブッダが「明るく柔らかな生き方の人」なら結構いるだろう。
歴史に名を残している人は一部だ。
各地にブッダ達はいた。
小さな山や海辺の集落の中にも。
素敵なオッサンやオナゴ達だ。
過去にも現在にも未来にも大勢いる。

平たくいえば・・・
明るいイイカゲンモノ・・・。
その人がいれば、何となく楽な雰囲気になる。
笑い顔が増える。
特別立派な業績の人じゃない。
でも、その生き方ができるのは凄いと思う。

宗教の目指すもの。
それは「真理の悟り」じゃない。
そんなモノ、生活の役に立たない。
真理が解ったら苦しみが無くなる、というのは机上論だ。

世界中で、掃いて捨てるほどの宗教がある。
仏教、キリスト教、イスラム教という大きなモノもある。
だが、世界中で宗教に関係していながら苦しみ人は減らない。
減らないどころか、争うから増える。
宗教は苦しみを増しているのが、現実なんだぜ。

どこで間違った方向になったか?
それは「真理・真実」にこだわったからだ。
仏教も同じだ。
ブッちゃんは、その事に気づいた。
生活の中で活かせるモノ。
生きる事が愉しくなるモノ。
それが仏教の目指すものだ。

だが不肖の弟子達は間違った方向で伝えた・・・。
真理・真実を知ることが、解放だと勘違いした。

生きる事が愉しい、という境地。
それが「得阿耨多羅三藐三菩提」という意味になる。
通常では「無上の悟り・最高の真理」などと訳すようだ。
だが、それでは般若とカブるだろ。
説明として、その訳では変だろ。

字面や単語面ばかり追いかけるから、そういう訳を平気でする。
い、いや、訳者だって変だと思っているはずだ。
心経はマトモに訳せば、言葉がカブりすぎる。
説明になってないからだ。
それは、ゲンちゃん(玄奘)の仕掛けだ。

心経の心と同調しなければ、心経は訳せない。
理解しようとして、難しくしてはダメなんだ。
真理を追いかけると、心経は活かせない。
素直に同調すれば、優しい訳になる。
(もちろん、ワシは優しくない・・・)

般若が活かされた証拠。
何らかの現象が無いと、使えたのかどうか判断できない。
自分で「ワシは般若を得た!」なんて言っても信用できない。
精神世界は自分に都合のいいように勝手に判断してしまうものなんだ。

だけど自分でも他人でも判断できる状態がある。
それが「得阿耨多羅三藐三菩提」という状態だ。
最高の悟り・無上の真実の智恵などといっても誰も判断できまい。
(悟りに最高や真実や無上はいらないと思うがなぁ・・・)
最初から言葉の意味を理解しないで伝えたのだなぁ。
だから、誰もが無上の真実の最高の智恵の悟り、などという。
自分で冥想し、ブッちゃんやゲンちゃんと同調しない証拠だな。

自他が判断できる状態。
生きている事が愉しい。
自分でも、他人からも判断できる。
近い言葉では「遊戯三昧」だろう。
正しい○○とは、なんて境地とは違うだろ。

ブッちゃんは優しい。
般若波羅蜜多という方法を知ってみろよ。
すると、人生が愉しくなるぞ、と説いてくれた。
悟りを啓いて偉くなれる、とは言わないのだ。
立派な人間になる、とも言わない。
魂が高級になる、とも言わない。

八っつあんや熊さんは、立派になろうとは思わない。
ワシも同じ類だから、当然、立派は遠慮しとくわ。
魂の高級も(義務なら)ず〜と後でいい。
今生は低級を愉しみたい。

そして、誰でも、人生は愉しみたいのだ。
ケモノなら、ケモノ生は愉しみたいのだ。
妖怪なら妖怪生を愉しみたいのだ。
生命は愉しみで活性する。
それを「幸せ」というのだと思う。  

この章は「ブッダ」がどういうものか書かれている。
何でも解ってしまうスーパー賢者じゃない。
感情が動かない、超不感症人間でもない。
生きている事が愉しく、楽しめる存在だ。
自他を明るく、楽にするモノ達だ。

勘違いするなよ。
ブッダというのは、誰でもなれるんだぜ。
偉くなるわけじゃ無ぇ。
賢くなるわけでも無ぇ。
明るく、愉しく生きられればいいのさ。

しかめっ面で苦行したら、絶対なれ無ぇぞ。
毎日の暮らしを工夫し、愉しめればなれるぞ。
せっかく、この世に生まれたんだ。
愉しくなる方法を使えよ。
それが「般若」っていうヤツだ。

生を愉しむとは刹那主義や享楽主義とは違う。
刹那は短いが一定時間の単位だ。
生を愉しむに時間は無い。
生きている全てが対象なのだ。
辛い事や苦しい事だって愉しみなんだぜ。

刹那主義や享楽主義は、苦しみや辛さからの反動だ。
苦しみや辛さから逃げた気になっているだけだ。
実際は逃げる事はできない。
それも生きているって事だからだ。
苦しみから逃れる事はできない。
だが、正面から愉しむ事はできるんだなぁ。
生きていれば・・・。

ブッちゃんは苦しみを救おうとして修行に入った。
そして気づいた。
む、無理だな・・・。
だが、苦しみを抱きしめる事はできる。
慈悲という意識でなら。
そして、生きている全てを愉しむ事もできる。
その事を伝えだした。
それが、仏教といわれるものだ。

ワシ的訳。
「過去、現在、未来のブッダといわれる人達。
人だけじゃ無ぇぞ。
ケモノだって妖怪だってブッダはいるんだぜ。
お前ぇらも、一応候補生だ。

皆、般若っていう楽に生きられる方法を使ったんだなぁ。
今まで言ってきた方法だ。
難しくは無ぇぞ。
こだわっているモノがあれば、それを放す。
時々、息をゆっくり吐いて、ボヤ〜としてみる。
この世の仕組みはイイカゲンだから、こだわっても無駄だ。
まぁ、なるようになるから心配するな。

そうするとな。
生きている事が愉しくなる。
苦しみも辛い事もあるが、そのまま受け取れる。
毎日、いろいろが変化しているんだ。
苦しみも辛さも、同じ姿じゃいられ無ぇのさ」

「普段の暮らしが全く変わるわけじゃ無ぇ。
だけどな、こだわりが薄まると受け止め方が変わる。
苦しみや辛さは、それまで思っていたよりも小さいと判る。
何でもないような出来事が、とても嬉しいものだと判る。

苦しみや悲しみが小さくなって、嬉しさが増える。
すると、他のモノに優しくなれる。
自他の不出来や欠陥が可愛いと思える。
心の余裕ってやつかな。
それがブッダといわれるモノ達だぜ。

だからブッダは特別なモノ達じゃ無ぇ。
皆同じく、生きとし生くるモノ達だ。
こだわりから抜け出ただけだ。
誰でもなれるんだぜ。
だからお前ぇ等に伝えているんだ」

 

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