第十七章
  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪
   是無上呪 是無等等呪 能除一切苦
 
ワシは最高だ。
ワシは一番だ。
ワシは特別偉い。
ワシは比べる相手がいない。

まぁ、自分で自分を褒めちぎるのは変だな。
独善は信用おけない。
ワシの雑記は独善雑記だ。
当然、信用おけない。

心経もこの部分がある。
この章がそれだ。
自分で自分を褒めちぎっている。
だが、それには意味と理由があるようだ。

「大神呪 大明呪 無上呪 無等等呪」
この四つの褒め言葉は最後の呪(真言)のことだ。
般若心経の心は経だが、力は最後の部分の真言にある。
それが、とても凄い力だというのを表したわけだ。

一つじゃ言い足りない。
二つでも言い足りない。
じゃ、四つくらい褒めておこうか。
自画自賛なら、このくらいしなけりゃ・・・。
イタズラ坊主のゲンちゃん(玄奘)ならやりそうだ。

イタズラ坊主だが高僧だ。
四つの自画自賛言葉だが、意味もある。
意味なんて、解る人が解ればいい。
解らなけりゃ、それでもいいさ。

前章までの説明とこの章とはつながらない。
多分、大般若経では、沢山の言葉があったのだろう。
だがゲンちゃんは割愛した。
前章までは心経の目的や説明だった。

この章からは最後の呪の部分に関してだ。
呪に説明はいらない。
呪は「唱えればいい」からだ。
呪(真言)の解説は無い。

だから、ひたすら「凄い・素晴らしい・最高・最強」と書いた。
まぁ、マニアック用に意味もある。
四つの褒め言葉は、それぞれに対応する意味があった。
でもなぁ、八っつあん熊さんには関係無いけど・・・。

仏教用語で「声聞 縁覚 大乗 密教」がある。
まぁ、簡単に記すと
声聞と縁覚は小乗仏教と呼ばれる・・・らしい。
いろいろ合わせたのが大乗仏教。
教えが出来ない(気づき)のが密教。

その四つの用語に対応する呪が、
大神呪(声聞)
大明呪(縁覚)
無上呪(大乗)
無等等呪(密教)
となる・・・らしい。

つまり、この四つを合わせ持っている呪。
超素晴しい呪が、この心経の最後の呪となる。
これさえあれば、もう何も怖くない。
だから何も心配するな。
ブッちゃんは、簡単で効果が大きい呪を伝えたのだ。

経というのはヒネクレている。
最初に経を記すのは高僧だ。
高僧はイタズラ坊主だ。
ヒネクレ坊主だ。
だから、経も素直じゃない。
素直じゃないけど、素直でもある。

心経もずぅ〜とヒネクレていた。
この章だってそうだ。
四つの深い言葉に対応する呪?
そんなのマニアにしか通じないぜ。
逆な言い方をすれば・・・
少数派のマニアにも通じるのが経だ。

理解なんて、そんなモノだ。
通じる相手にしか通じない。
誰でも同じく理解できるはずがない。
だから、理解の仕方が幾層にもある。
経は、ある意味、そういうふうにできている。
多重の意味を一つに乗せているのだ。
マニアだけが正しい理解じゃないんだぜ。

この四つの褒め言葉で伝えたい内容。
早い話が
この呪(真言)は、全てを対象としている。
一部の仏教徒だけじゃない。
八っつあん、熊さん、ケモノ、妖怪、幽霊も対象だ。
大判振る舞いだぜ。

その効能は
あらゆる苦しみが、全て取り除かれる(能除一切苦)。
(正統的な訳は力強いなぁ・・・)
だが、ワシ的な訳では
あらゆる苦しみが、まぁ、何とかなるだろう・・・
(これでも、かなり凄いと思うがなぁ・・・)

心経は、この最後の呪を伝えるのが第一目的かもしれない。
まぁ、第一も二も無いかもしれないけど。
でも、この章からは、かなりの力みがあるぜ。
訳していて、そう感じないか?
十五章までとは、語氣が違う。

呪というと「呪い・のろい」みたいで馴染めない人もいる。
「おまじない」も「お呪い」と書き、迷信みたいに扱う人もいる。
まぁ、見えない世界に関して、現代が最も無智に成り下がったからなぁ。
迷信は「科学的」という言葉の方が遥かに多いんだけどなぁ。

呪は真言とかマントラとか言われる「ある種の音の組み合わせ」だ。
その音(言葉・言霊)が物質や精神や心や状況に作用する。
ある種の音が、それに対応する波動を共鳴増幅させる。
正誤や真偽や良悪は関係ない。
全部が真なる言葉とか、聖なる言葉というのは誤解だぜ。
だから呪いも願いも守護もある。
いろいろな呪があるんだ。

信じる、信じないの世界じゃない。
だが、信じられない人に信じさせる必要もない。
ブッちゃんは、これをただ唱えりゃいい、と言った。
そうすれば、何とかなるさぁ。

幸せになるのに理屈は要ら無ぇ。
人でもケモノでも妖怪でも同じだ。
というか・・・
理屈を主にしたら、幸せは遠ざかるモンだぜ。
そんなの、当たり前だろ。

一応、縁覚だの大乗だの言ってみるけど、
そんなの、関係無ぇ。
何も知らなくても、幸せにはなれるんだぜ。
仏教なんて知らなくても、幸せになれるんだぜ。

ここで言いてぇのはよ、
お前ぇ等、何も心配するな、って事だ。
苦しみは、何とかなる。
とりあえず、唱えてみな。
呪ってのは、そういうものだ。

第十五章までが顕経の部分。
アレコレ説明して教えが可能な経だ。
もちろん理解する側が主体だ。
理解の深さは、いつでも受ける側にある。

深さによって、多層の意味が解るようになる。
解ったからエライわけじゃない。
深くも浅くも表面も、その人の個性みたいなものだ。
深くなくても、同じく幸せにはなれる。
「深く理解しなさい」というのは無智な言葉だ。

この章からは密教の部分。
誰でも同じだ。
理解は関係なくなる。
密教の理解は完全に趣味の世界になる。
車の構造に詳しい人。
構造なんて、全く解らない人。
どちらも運転すれば動くのだ。

般若心経の目的は「能除一切苦」だ。
この世の理を解るのが目的じゃない。
感情に左右されない人になるのが目的じゃない。
そんなのは趣味の問題だ。
成りたい人が勝手になればいいだけだ。

ブッちゃん(仏陀)は苦しみを軽減したかった。
苦しむモノ達(人に限らず)を救いたかった。
救うといっても、余計なお節介まではしない。
ブッちゃんが苦を無くすわけじゃない。
方法を伝えるだけだ。
それぞれが、自分で行うことだ。

呪(真言)は言葉だけじゃない。
字や形や声(音)も含まれる。
特に、ここに紹介する呪は全てを兼ね備える。
例えていえば「愛」も内臓されている。
だから、人だけじゃなくても効力を発揮するのだ。

ワシ的訳。
「この般若を知っていた方がいいぜ。
短いお呪い(おまじない)だ。
だけどよ、何しろ凄ぇんだぜ。
俺も修行僧もお前ぇ達も同じものだ。
共通なお呪いだ。

意味なんて知らなくていい。
知っても何もプラスにゃならねえ。
幸せになるのに、意味なんて考えるなよ。
苦しみが小さくなったり、
時には無くなったりすれば上等だろ。

それが出来るんだなぁ。
何とかなるんだよ。
心配するな。
仕組みの理屈は考えるなよ」

 

第十七章は終りです。ご苦労様でした
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