第十九章
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

心経の最後の部分だ。
これが心経の呪(真言・マントラ)だ。
漢字に意味は無い。
音を無理やり当てはめただけだ。
呪は字に書けないのだ。

呪は字には書けないが、音で現せる。
形でも現せる。
形は図形でも造形でも印形でも現せる。
一応、心でも現せる。
心は一定しないから、超難しいけど。

一番簡単なのは声音だ。
一応、そう思われている。
実は・・・そう簡単でもない。
正確な音なんて、簡単に出来るわけがない。
つまり・・・
一番、簡単に「チャレンジできるのが」声音なのだ。

一応日本語では
「ぎゃてぃ ぎゃてぃ はらぎゃてぃ はらそうぎゃてぃ ぼじそわか」
と読まれている。
だが、真言は声音だ。
元はサンスクリット語だが、それさえ当て音声だろう。

一応サンスクリット語では
gate gate para-gate para-samgate bodhi svaha
一応、近い読みでは
「ガティー ガティー パーラガティー
パーラサンガティー ボォディ スヴァーハ」

呪の意味と役割を理解すれば、
日本語読みよりもサンスクリット読みになる。
ここだけは「ガティー ガティー・・・」と読む方がいい。
日本では圧倒的に「ぎゃてぃ ぎゃてぃ・・・」と読んでいる。
それでは心経の呪が活きて来ないだろうなぁ・・・。

幾十年も読経を続けている僧侶達がいる。
同じく心経は神道でも唱えられている。
だが、ブッダ(開かれた人)に成れた人はいない。
いたとしても、ほとんどいない。

最後の呪の声音が共鳴しないのだろう。
サンスクリット読みなら、共鳴するかもしれない。
まぁ、日本語読みでも効果が無いわけじゃない。
人生を大きく変えた人達も大勢いるのだ。
心経は呪が共鳴しなくても、大きな力を秘めている。

苦しみを無くしたい。
苦しみを軽減したい。
人生を愉しく歩いていただきたい。
ブッちゃん(仏陀)の思いは活きている。
ゲンちゃん(玄奘)の思いは活かされている。

言葉は状態を変化させる力がある。
状態には見える状態と見えない状態がある。
例えば、見える状態は物質(肉体)など。
見えない状態は心や生命などだ。

そうすると、音声器官の発達している人間が有利になる。
タヌキやカエルは上手く発声できない。
そうなのだ。
人間はこの点に関して有利に創られている。

だからといって、特別に愛されているわけじゃない。
それは、平等だ。
微生物の種類によって、特別に愛する事はない。
人間もケモノも妖怪も微生物も同じだ。
グレちゃん(創造主)は区別しても差別はないぜ。
多種多様なモノ達がいると、面白いじゃないかぁ。

音声器官が発達している人類が呪を唱える。
言えるから偉いわけじゃない。
役割の違いだ。
人類は他の生物達の迷惑行為をしている。
どっちかというと、偉くない方に近い・・・。

自他を幸せにする呪を唱える。
普段迷惑な存在の人類でも役に立てる。
この地球の上で生かされている存在だ。
たまには役に立たなくては申し訳ないだろう。
金儲けをしても、人類だけの貢献をしても、
他の生物からの賞賛は無いぜ。

全てに貢献できる行為。
その一つに般若の呪がある。
ガティー ガティー パーラガティー
パーラサンガティー ボゥディスヴァーハ

普段、迷惑な生物の人類。
だからこそ、地球上での生き方の道がある。
それは、自他の調和と幸福と繁栄だろう。
それが出来ないなら、消えるのが理。

人類は飛びぬけて能力がある。
種を超えて作用する能力がある。
自(人類)のみで使えば他を犯(侵)す。
それは、廻って自をも滅す。

この地球上で生きるモノ達の基本ルール。
それは、他(種)を侵(犯)さない。
個々の争いは個々に任されている。
だが、集団での争いは厳禁なのだ。
そんな基本ルールも守れない人類。
だから、般若の智恵と呪は大きな道となる。

この地球上の生物は個々では争い戦う。
だが種を賭けての争いはしない。
生命の中に基本として禁忌されている。
人類を除いて・・・。

人類は特殊なのだ。
その特殊を偉いと勘違いして「万物の長」などという。
自分で自分を長だの王だの言う。
かなり・・・恥ずかしい発言だ。
長や王というのは、他を思いやれる魂の主だぜ。
人類には無理な注文だ。

そんな低俗な魂でも大丈夫。
それが般若の智恵と呪だ。
正に人類向き・・・。
ブッちゃんって、すごいと思う。

立派な魂なら経など必要ない。
不出来な人達に経は必要なのだ。
とはいえ「立派になりなさい」は無理と無智の言葉だ。
宗教組織が啓蒙する言葉は最初から無理がある。

不出来でも可能な言葉。
不出来でも安心できる内容。
不出来だから使える呪。
そういうモノがホンモノというのだ。
建前の立派言葉は使いモノにならない。
立派言葉はミエと同じ飾り言葉だ。

おう、どうでもいいぜ。
お前ぇ等でも、大丈夫だ。
力を抜くだけだ。
立派になるなよ。
イイカゲンがいいぜ。

呪に訳は必要無い。
呪の訳に意味は無い。
意味不明じゃないが、意味の価値が無い。
意味など付けても、意味が無い。

ワシは意味の無い事に意味を付けるのを趣味にしている。
趣味だから、気まぐれだ。
意味の無い訳だから、好きなように訳せる。
キチンとした意味の訳でさえ、独善で訳している・・・。

だからデタラメな訳だぜ。
呪に意味は無いんだぜ。
ただ唱えればいいんだぜ。
と、充分知った上で趣味を書く。

ガティー ガティー
同じ単語を二度唱えている。
リズムや語呂がいいからではない。
完成された呪だ。
当然意味がある(呪に意味はない、ってば・・・)

「行く、行く」という意味がある。
「行く」と「来る」も深くは同じだ。
「来る、来る」「行く、来る」とも訳せる。
遥か遠く、涅槃まで行く。
涅槃が自分の内に来る。
どちらも同じ意味になる。

下ネタでも同じ言葉がある。
「イク(行く)」と「カミング(来る)」が同じだ。
とても高尚な話と下ネタはカブるのだ。
だから、下ネタを話さない立派な人は信用おけない。

パーラガティー 
「行く・来る」の先にある状態。
更に行く、更に来る。
超イク、超来る・・・。
次元を超えて、行く。
次元を超えて、来る。

何処まで行くのかなぁ・・・
何処から来るのかなぁ・・・
何かを超えて、何処かへ行く。
何かを超えて、何処からか来る。

それが、涅槃という状態。
あるいは、サトリという状態かもしれない。
涅槃もサトリもなったことが無いから、想像だが。
生死即涅槃、だが、何かを超えて自覚できるらしい。

パーラサンガティー
何もかも、超えて行く(来る)。
全てを超えて行く(来る)。
時間も空間も意識も超えて行く(来る)。
何でもアリだ。
そして、何にもナシだ。

精進する、というレベルじゃない。
コツコツ努力する、という道じゃない。
ブッちゃんは努力しても到達しない、と気づいたのだ。
何もかも超えるには、別の要素がいる。
精進や修行では、無理なのだ。
精進や修行にこだわれば、尚更無理だ。

パーラサンガティーとは、そういう意味だ。
誰でも行けるけど、こだわったら無理だ。
誰にでも来るけど、下手に意識しては無理だ。
手放せば、何かがやって来る。
全て手放せば、全てを超えてしまう。

ボォディ スヴァーハ
ボォディ(菩提)はサトリのこと。
ナイスボディは「サトリを活かす」・・・
ウソだっちゃ・・・。

スヴァーハは成就する(した)。
あるいは、到達する(した)。
あるいは、完了!
ボォディスヴァーハは「サトリ完了!」
つ、つまらん・・・

だから呪の訳はつまらないのだ。
呪は唱える事(行)で効果がある。
訳を考える(知)のは、蛇足にもならない。
まぁ、趣味の世界だ。

ワシ的訳。
「唱えれば、心が消えて、行く、行く。
唱えれば、魂鎮まり、来る、来る。
何かを超えて、何処かに行く。
何かを超えて、何処からか来る。

唱えれば、全てを超えて行く事が出来る。
唱えれば、全てを超えて、やって来る。
サトリは、その時叶うだろう。
全ては、その時に成就する。

般若の心経は、この呪に集約される。
何も心配はいらない。
何も苦労はいらない。
修行も精進も関係無しに
誰でも成就を成す事ができる」

 

第十九章は終りです。ご苦労様でした
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