第二十章
  般若心経

最後に「般若心経」の文字がある。
通常なら、題名と同じ文字を最後に書く事は無い。
まして極限に文字を切り詰めて表した心経だ。
無駄な文字は無い。

心経は一つの単語にも多くの意味を込めてある。
深く広く多種な意味がある。
読み手の力量で多段階の意味に気づく。
そういう仕組みの心経だ。

最後の「般若心経」の文字も仕掛けがある。
書き手のゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
猿や豚や河童を連れて天竺まで行った僧だ。
天竺という亜空間まで行く事ができる僧だ。
きっと・・・ヒョウキンに違いない。
(高僧=ヒョウキンなのだ)

何故、最後に「般若心経」と入れたのか?
題字に「摩詞般若波羅蜜多心経」と丁寧に書いたのだ。
蛇足にしてはシンプルだ。
それに、心経に蛇足は付けない。

呪の後に、たった四文字。
こういう事をするから、般若心経は謎めいている。
「空」や「無」の意味など、これに比べれば可愛いものだ。
ほとんどの訳者も素通りする。
だが、大般若経のエッセンスだ。
素通りできないだろう。

無駄はしない。
仕掛けはする。
イタズラもする。
せっかく仕掛けたイタズラなら、
何とか引っかかってやらにゃ〜。
知らん振りは失礼だろう。

呪は心経の最大の要だ。
心経は要だらけだが、呪が最大の効果になる。
実際に苦を縮小や消滅させるのが効果だ。
実際に生きるのが愉しくなるのが効果だ。

理屈の部分は無駄ではないが、効果は薄い。
空や無は屁に近い・・・。
屁も大切だし、苦を縮小させる。
音だけなら、結構笑える(楽しめる)。
だけど・・・立派な理屈は・・・臭い・・・。

理屈で終わらないのが般若心経の素晴しさだ。
行としての呪(真言)がある。
実際に唱えて効果がでるのだ。
その呪の後に四文字。
しかも「般若心経」では繰り返しの文字だ。
通常なら・・・芸が無い。

芸は自他を助ける。
そして他に楽しんでいただける。
そして自を愉しむ事ができる。
無芸では経にならない。

最後の「般若心経」の文字。
決して無芸ではない。
ゲンちゃんのような高僧は共通の癖がある。
自他を愉しくする。
それは、生きる事を愉しんでいるからだ。

たった四文字の最終文字。
ここに、自他を愉しくする仕掛けがある。
貴重な最後を飾る文字だ。
これを訳さずに、何とする。

般若(パーニャ)の意味のおさらいだ。
宇宙の智恵でも仏智でも神智でもいい。
だがここまで書いてきて(書かされてきて)ワシ的な訳がある。
それは「生命の智恵」が般若には相応しいと思う。

生命といっても肉体的な生命だけではない。
生きる事(生き方)。
存在している事。
個人に限れば意識や精神、魂まで含めた「生命」だ。
個を離れれば「地球全体の生命」でもある。

般若ってのは、個人的な心の智恵じゃない。
もっと全体的、全的、統合的な智恵なのだ。
小さな個人の心に限定しては、もったいない。
個人の心の経は、般若心経の一部でしかない。

般若ってのは、とてつもなく大きく深い。
人間の一部の小利口な識者だけが理解するモノじゃない。
最初からタヌキも小鳥も妖怪も霊魂も対象だ。
意味なんて解らなくてもいい。
意味の解明などという小さな出来事じゃないのだ。

まぁ、ゲンちゃん(玄奘)は人間の坊さんだった。
だから人間の言葉で心経にまとめた。
だが人間の般若心経だけが般若じゃない。
人間の般若心経だけが、般若心経でもないのだ。

「サトリ」を目的の境地としている。
人間の坊さん達が好む言葉だからだ。
だが般若心経からは、サトリも方便だ。
一応、そういう言葉でないと理解できない人用だ。
ケモノや妖怪はサトリを求めてない。
全てが共通して求めているのは「幸せ」だ。

「智恵」という言葉が小さな意味に誤解される。
頭が良くなければ使えないイメージがある。
頭が主体のイメージがある。
だが、ホンモノの智恵に頭は関係ない。

「幸せ」に成る、あるいは近づく方法や気づき。
それが「智恵」というものだ。
暮らしに密着しない智恵など、ニセモノなのだ。
人間には人間の暮らしがあり、ケモノにはケモノの暮らしがある。
それぞれが、暮らしの中で「幸せ」を見出す。

こういう基本的な事が判らないで「智恵」を語る。
だから「経」が曲がってしまう。
優れた般若心経も偏屈な解説になってしまう。
「空」がどうとか、「無」がどうとか・・・。
そんな言葉にこだわるからツマラン人生になるのさ。

智恵は真理を解く鍵じゃない。
智恵は暮らしを楽にする方法だ。
真理は解いても解かなくても変わらない。
だが、暮らしを変えるのは生きている目的の一つだ。

基本は暮らしにある。
それを説いたのが般若なんだなぁ。
宇宙の真理。
人生の真理。
そんなモノはクソにも成らない。
クソになるのは、日々の食べ物と生き方だぜ。

たった四文字の般若心経。
この言葉を冥想す。
それが心経でもある。
呪も心経。
だが、最後の四文字も心経なのだ。

最後の四文字も心経の全てを語っている。
もともと、この般若心経はホリスティックな構成だ。
一部でも全体を表す。
どの部分からでも全体を感じる事ができる。

一言一言の分析をすると、全体を歪めてしまう。
仏教用語がアチコチにあるから、ワナにはまる。
ワナにはまるのはいい。
だが、はまったままで気づかぬのでは用が足りぬ。
仕掛けたゲンちゃん(玄奘)も苦笑する。
ワナだと気づき、抜け出して、心経が活かせる。

高僧はイタズラ坊主だぜ。
真に優しいから、ワナを仕掛ける。
一部にとらわれるから、ワナにかかる。
全体をみてくれよなぁ、とワナを仕掛けた。
心経は全的(ホリスティック)な経だ。

何の為に最後に「般若心経」を加えたか?
誰も解説しなかった。
呪の最後にはスヴァーハ(僧婆訶)が使われる。
いろいろな真言(呪)に必ず使われる。
「成就・到達・完成」そんな意味でもある。

最後の「般若心経」の訳。
「こうして般若心経は完成された」
これは、苦し紛れの訳だろう。
美人の美しい人、みたいな訳はいらない。
蛇足にもならない。

完成された呪だった。
その後に、呪ではない四文字。
ある意味、ドンデン返し。
呪は完成されているが、呪が無くても大丈夫。
優しさの更に上を行く優しさ。

何が無くても、大丈夫。
般若心経は、誰でも、どんなモノでも大丈夫。
呪が唱えられなくても、大丈夫。
何も解らなくても大丈夫。

生きる心があれば大丈夫。
幸せになりたければ大丈夫。
愉しく生きたければ大丈夫。
皆で楽しくなりたければ大丈夫。

身体も心も何とかなる。
壁があっても何とかなる。
苦しくても何とかなる。
未来も何とかなる。
般若心経に関われば、何とかなるぜ。

いいかげんな訳だが、ここまできた。
ワシは深い人間ではない。
自信を持って断言できる。
だが、この般若心経は深い。
ホンモノの深さは、優しさに通じる。

最後の四文字。
これだけで、般若心経を語る。
般若心経の文字で般若心経を語る。
ストレート。
純。
そして・・・ヒネクレている。
ヒネクレは素直と同類なのだ。

最後の四文字で全てを語る。
最後の四文字で全てを認める。
最後の四文字で全てを許す。
最後の四文字で・・・
完成された。

 

第二十章は終りです。ご苦労様でした
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