第八章
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

眼耳鼻舌身意は五感覚器官と脳(心)だ。
特に仏教用語で「六根」という。
(ちなみに男性器は入っていないぞ・・・)
「六根清浄(しょうじょう)」という言葉が有名。

六根を清浄にしたい気持ちは(一応)解る。
だけど、無理に近いと思うぜ。
五根清浄までは完璧でなくても、ある程度なれるだろう。
だが意根(心)まで清浄な人はなぁ・・・
地球上で数名いるかどうか・・・
(いない、とも言えないんだなぁ・・・)
たぶんアナタの可能性は限りなくゼロに近い・・・。
ワシは間違いなく(一つも)清浄から程遠い・・・。

ブッちゃんは衆生に「聖人をめざせ!」とは言わない。
その逆でいいんだぜ、と優しく話した。
「六根清浄」でなくていいんだぜ、と話しているのだ。
それが六根に「無」を付けた理由だ。

「無」を「ない」と訳したら「無い無い」づくし。
眼も耳も鼻も舌も身体も心も・・・となる。
その後の言葉も「無い無い」ばかりになる。
それでは、あまりに芸が無い・・・。

訳だって芸のうち。
芸は他を楽しませる為にあるのだ。
「無い無い」と言われて喜ぶ衆生はいない。
病は無い、苦しみも無い、現象も無い、では納得できない。
言われても、楽になれない。
「無い」と訳したら、無芸のツマラン人間になる。

「無」はアリなのだ。
アリもアリ、オオアリだ。
どんな眼も大丈夫、気にするな。
濁り目だって、偏見だって大丈夫だ。
どんな風に見えたって、いいんだぜ。
例え、見えなくっても、いいんだぜ。
一人一人、見え方なんざ、違って当たり前だぁ。

耳も人によって能力の違いがある。
ある音は聞こえるが、ある音は聞こえない。
鼻もそれぞれ違う。
舌の感覚も人によって、動物によって違う。
身体感覚は千差万別だ。

心なんて、自分でさえ一定にする事が難しい。
心の中には星の数ほどの、多種多様なカケラがある。
それが、常に揺れ動いているんだぜ。
同じ体験でも他の心とは正反対の受け止め方さえする。
それでも、心は「有る」のだ。
「無い」わけじゃないぜ。

だからこそ「無」は「こだわらない」という意味なのだ。
この世は自分一人の世界じゃないんだぜ。
いろいろな眼があり耳がある。
様々な思いや感じ方がある。
見た事や感じた事を「確か」だと思うなよ。
大切なのは「こだわらない」事の方なんだぜ。

ブッちゃんは、一つ一つ丁寧に説明している。

この六根というヤツはイイカゲンだ。
「色(肉体)即是(は)空(イイカゲンだぁ)」
五根の感覚を認識するのが自分しかいない。
客観的には認識できない仕組みだ。

(正確にいえば感覚器官には判断能力が無い。
感覚を認識するのは脳なのだが、
そんなメンドウな話を衆生にはしない。
一応感覚器官が認識している、と仮定して話している)

その認識に基づいて、更に意根(心)が動く。
心は元々揺れ続けるヤツなのだ。
だから「判断」は二重にイイカゲンなんだなぁ。
(六根がイイカゲンなのは実は優れた能力なのだが、
その説明はここではしていない)

ブッちゃんは常に光と希望を話している。
六根は正確な判断出来ない。
これは困った事ではないのだ。
幅が広い、という事なのだ。
イイカゲンは、大きな範囲を覆っているのだ。

だが、客観できる方法もある。
それが、第二章の最初の「観自在」だ。
自の在を観ると・・・自を客観視できる。
自分を見つめると、自分を離れる事ができる。

この世の仕組みはヒネクレているのだ。
放れば理解できる。
捨てれば、得られる。
潜れば、木の上から見渡せる。

「観自在(冥想)」すれば六根がイイカゲンだと理解できる。
理解できると素直になれる。
素直になれば、道は見える。
歩き方は「こだわるな」と当たり前に気づく。

六根(空)は「無(こだわるな)」によって活きる。
空はいつでも無で活きるのだ。
「この世の仕組みは空だぁ!」
などと知っても意味が無い。
活かせなければ、何事も意味が無い。
知るだけでは、何も意味が無いのだ。

勉強する。
知識を広げる。
それだけでは、何の意味も無い。
まして、資格や地位を得ても意味がない。
下手をすれば、害になるだけだ。
全ての出来事は、活かして意味が生まれる。

「六根」とセットになっているのが「六境」だ。
眼耳鼻舌身意に対応して色声香味触法がある。
五感覚器官がそれぞれ認識する相手だな。
そして意根(心)が判断する相手が法境(思い込み)だ。
それぞれがペアなのだが、正誤は問わない。
ロクデナシの男とジダラクな女のペアかもしれない。
(味があって似合いのペアだと思っている)

だがなぁ・・・
六境が六根に対応するのは、誰でも知っている。
眼が認識しているのは、見えるモノだ。
耳は、聞こえるモノを認識するのだ。
今更説明はいらない。

六根を「無い無い」と訳したとする。
ならば六境をワザワザ「無い無い」と訳さないだろ。
六根あっての六境だもの・・・。
何故、六境を続けて書いたか?
ここにも仕掛けがあるに違いない。
オチャメなブッちゃん(仏陀)やゲンちゃん(玄奘)だ。
マトモに訳したらガッカリするかもしれないぜ。

「見る事(眼の能力)にこだわるなよ。
眼なんて、メじゃねぇ・・・」
ブッちゃん(仏陀)は、下手なダジャレを言った。
当然、う、うけない・・・
少し・・・くやしい・・・

眼に対応する、見える対象物。
それを「色(いろ)」としたが、色(しき)と混同しそうだ。
(ちなみに、読み方は「しき」で同じ・・・ややっこしい)
色(しき)は物質で眼に見えるモノだから、同じといえば同じ。
でも、ここでは眼に対応するモノとして、ちょっと区別しようね。

「眼の能力なんて、イイカゲンだから固執するなよ。
(見える)モノ側も、すぐ変化するから固執するなよ
この世は自他の両方がイイカゲンなんだ。
だから、二重に無(こだわるなよ)だぜ。
色なんて、シキくねぇ・・・意味不明だぁ!」
ブッちゃんは・・・少し・・・壊れた。

お前ぇの眼が狂っているんじゃねぇぞ。
お前ぇの耳が偏っているんじゃねぇ。
鼻がひん曲がっているせいじゃねぇ。
味オンチだっていいんだ。
触覚が鈍いのは・・・垢のせいかも。
心は元々ヒネクレているんだ。

人(動物・妖怪含む)は正確な感覚を持ってねぇんだ。
六根の特徴は正確さじゃねぇんだ。
それぞれの感じ方が違うのは、幅の広さだぜ。
六根は受け入れ幅が広く出来ているんだ。
だから、正確を期待するのは間違いだぜ。
正確な性格じゃねぇんだ・・・
(またまた、下手なダジャレ・・・)

それに、な、
見えるモノは光によっても変わる。
方向によっても変わる。
時期によっても変わるんだぜ。
同じ人が同じ眼で見ても、変わっちまうんだよ。
六根が仮に一定しても意味が無ぇんだ。
だから正確を求めたら、苦しみだけだぜ。

六根も六境も無(こだわるなよ)という。
もう一段深く(高く)観てみよう。
五蘊(色受想行識)が皆空(イイカゲン)といった。
イイカゲン(空)は救いだといった。

六根も六境も個人的な世界だ。
その個人的な世界で我々は判断して暮らしている。
その個の世界が空(イイカゲン)だと気づく。
空だからこそ、他のモノ達との共生ができる。
活かすのは無(こだわるなよ)。
こだわれば・・・争いとなる。

イイカゲンという幅の広さは、他の個の世界まで覆う。
他の感覚(六根)や対応する対象(六境)も認める事ができる。
無(こだわるなよ)ならば、他を認められるのだ。
個人的感覚が、他の感覚と共生できるのだ。
イイカゲン(空)の仕組みは、救いなのだぜ。

ワシ的訳。
「自分の眼にこだわるなよ。
正確に見えているわけじゃねぇ。
だから、眼が悪くても大丈夫だ。
例え、見えなくても大丈夫だぜ。
耳だって同じだ。
鼻なんて犬の方がすげぇ。
自分の鼻にこだわる程じゃねぇんだ。
舌にも、こだわるなよ。
皮膚の感覚もアテにならねぇんだ。
そして、最もアテにならねぇのが心だ。
コイツはいつも揺らいでいる。
まぁな、こだわらなけりゃ、使えるぜ」

「見えるモノも確かじゃねぇんだ。
声も条件で変わる。
香なんて、変わりながら漂っているんだ。
味は受ける人によって大きく違う。
触覚や圧覚もそれぞれなんだ。
それらの思い込みは、仮だと思ってくれ。
共通しているのは、こだわらない、って事だ。
それを『無』っていうんだぜ。
こだわらなけりゃ、愉しめるし、楽しめるぜ」

 

第八章は終りです。ご苦労様でした
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