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水上陽平なんでも講座
水上陽平流 迷解説 何でも辞典

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何でも辞典     ホリスティックヘルス辞典

NO1
     2002.1/24

 最初から何という大胆な言葉を解説するつもりでしょう。
こんな言葉を扱おうとする事だけで、もう作者のレベルのいいかげんさが暴露されていますね。
 私に限らず「愛」を人間の分際で解説するなんて、「いかがわしい」か「無知」かですが、私の世界観の一つに
「真実に例外はないが、人間の理解は不完全だから、たぶん例外があるとしておこう」というのがあります。
 だから私がその例外と思ったら大間違いです。
 (思う人はいないって!)
 例外的に「愛」を解説する資格のある人もいるのですね。
例えば故マザーテレサさんやダライ・ラマ法王のように。 
 マザーテレサさんや法王が我々人間と同じ人の仲間かどうかは難しいですが、人間が無知なのはたぶん間違いないと思います。
少なくとも私が無知なのは間違いありません。
これだけは自信があります。
 だから無責任に「愛」を解説しましょう。
「愛とはアイだ」どうです。
なかなか私もタダモノではないでしょう。
 アイだにあるのが「愛」なのです。
愛したり、愛されたりするものと「愛」は違うのですね。
 愛の反対は「憎しみ」ではないのです。
人やモノとのアイだ(間)には、「愛」があったのですねぇ。
つまり、この世はすべて「愛」で成り立っているのです。
「愛」は「絶対」でもあるのです。
 偏屈で嫌われ者のアナタ(私)でも「愛」に包まれているのですよ。
 「愛」については予定著書「眠れぬ森のB女」で一冊の本になると思います。
なるといいな。
 (こんな重いテーマは簡単に解説するにかぎる)

NO2
下品     2002.1/27

 「愛」などという高級な言葉を最初に扱ったから、次は下品な言葉にしようと思ったのに、私は下品と上品の区別がつかなかったのです。
 世の中で云われている上品な人の多くに「いかがわしさ」を感じるのは私だけではないでしょう。
 私はイイカゲンな氣功家ですから、世の人の評価や常識や学問よりも自身の感覚を優先します。
つまり上品を信用していません。
 逆に下品を売り物にしている人に潔白(正直)さを感じたりするのです。
(といっても私はマゾでも下品マニアでもありません)
 多種多様なモノたちが混沌と同居しているのが「世の中」と理解している整理整頓が苦手な私に、上品下品の区別など無理ですし、その区別の必要性も無いと思っていますわい。
(なにが、わい?)
 それにしても「下品」は人を妖しく魅きつける言葉ですね。
これは社会生活の中で、「下品はいけない!」と無理やり教え込まれた時に同時に発生する、潜在意識の求心力なのです。
自身の中にある同じ波動が共鳴するのです。
 未だに「私は、ち、違う!」とムキになって否定する貴方は立派な下品人間です。
ただ自分の事を知らないか認めたくないだけです。
 人間は皆下品なのです。
安心して下品と仲良くして下さい。
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NO3
ジェラシー     2002.1/29

 ある人からジェラシーをテーマにという要望がありましたので、一体どうなるか解かりませんが、キーから出任せに解説します。
 ジェラシー(嫉妬)を観ると、不特定の相手に感じるものと、特定相手への感情という2つから成り立っています。
 特定相手の場合は、しばしば恋愛感情(異性に限らず)も混じる
「私(だけ)のモノになって欲しい」という独占欲が主体になります。
これは決して自由にならない「心」を縛りたいという無理な欲望です。
 人間は欠陥品なので、こういう無理を持ち出し、うまくいかないジレンマを体験するためにこの世に生まれているわけです。
無理を体験し理を解するための魂ですから、自分の心の解放以外に解決策はありません。
 心なんて星の数ほどありますから、特定相手への心の開放はそれほど難しい事ではありません。
冷静に相手を観れば「クダラナイ人」がほとんどですから、目を覚ませばいいだけです。
 (クダラナイ人は可愛いものですが、独占したいほどではないでしょう)
 不特定相手の場合は
「(私はこれだけ努力しているのだから)私を認めて(評価して)ほしい」
という、人間としては極めて厄介な問題になります。
実はこの感情は克服するのに莫大な労力を要します。
 自分の存在理由を求めるのは本能です。
しかし、それを他に求めるのは考え違いなのですが、私は
「人生は考え違いをするからスリルと楽しさも体験できる」
と思っていますから、ジェラシーも楽しいのかもしれません。
(これはウソです。ジェラシーからは苦しみしか体験できません。
まぁ体験しなくてはならないモノなら、するしかないでしょう。)
 良寛禅師は「苦しむときには苦しみなはれ」という深い言葉を残してくれました。
これが最善策だと私も思っています。
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NO4
      運         2002.1/30

 幸運、不運、運命などといいますが「運」の実体はアヤフヤな波動です。
同調波動は共鳴しますから、自分の発した波動に何処からかの次元から共鳴増幅を運んでくるので「運」といいます。
 たまたま幸運や不運が訪れるわけではなく、それを呼び込むのは自分側にあります。
 「運」の仕組みはTVや携帯電話と同じなのです。
雑多な電波がこの空間に飛び回っていても、自分の電波と同じもの(と近いもの)しか呼び込めないのが波動の法則です。
 つまり厳密には「運命」は自分で進めた命ですが、意思道理というわけではありません。
(運命の話は後日に改めて解説予定)

 幸運、不運は人間がその時に自分勝手に判断した言葉で、実際に幸運か不運かを見極めるのは不可能ではありませんが困難です。
 例えば、K氏が運転中にパンクをしてしまった。
携帯電話は持っていない。
でも目の前に(今は珍しい)電話ボックスがありました。
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 K氏はこの日パチンコで大当たりしたが万円札しかもっていない。
 これは幸運ですか? 不運ですか?
 そこにK氏好みの美女が通りがかり、コインを貸してくれました。
 パンクはは幸運ですか? 不運ですか?
 ちなみに美女もK氏に一目ぼれ。美女にとって
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 恋に状況判断はできません。二人は恋におちました。
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 K氏には可愛い妻がいました。妻にとって
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 この日K氏が運転を続けていれば、まき込まれた可能性の大事故がありました。
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 二人は困難の末、結婚しました。
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 結婚すれば男も女も変わります。ケンカばかりの毎日。
 パンクは幸運ですか? 不運ですか?
 もういいでしょう。
「幸運」も「不運」もあるかもしれませんが(関係者のみ)、それに本気で一喜一憂するのは疲れるだけです。
 冷静になれば、それは関係者以外にとっては何でもない出来事で、「幸運」や「不運」自体が含まれているわけではありませんね。
 そんなわけで、「運」は遊び気分で楽しみましょう
 「未来(の出来事)は自分で決める」のですから。
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NO5
      縁(基本編)         2002.2/3

 これは難しい話になりそうだなぁ。
仏語関係は理解度によって正反対の表現方法(方便)をとるのが解説しやすいので、マジメに説明しようとすると、かえって解からない人が多くなるんだ。
だから経はタイミングが合えば面白いしスゴイけれど、理解度がズレるとトンチンカンや誤解を生みやすいんだなぁ。
 だから、ある人には「」と言い、
別な人には「」と言い、
あるいは「色ではない」と言うんだ。
そして先達たちは次第にイイカゲンになる。
 私がイイカゲンなのもこういう深い意味があるのであ〜る。
決して「天然」などと疑ってはないけない。
 (ホントは自慢じゃありませんが、私は根性が無いのでマジメが長続きしないだけなのです)
 では、ちょっとだけ難しく基本知識から解説しましょう。少し我慢してね。
 この次元は「この世」という物質世界(色界)と「あの世」という非物質世界で成り立っています。
両方に共通するのは「空」という理(ことわり)です。
色を観れば空が観え、空を理解すると「この世」と「あの世」が理解できる。
「色即是空・空即是色」
 何故「この世」が必用だったかというと、「あの世」は(微細な)波動だけの世界なので、同波動帯でしか世界を形成できないのです。
 同波動ばかりでは進化できないのです。
 「あの世」は同じような魂レベルの世界がたくさんある。
天国や地獄という二つではなく無尽種類の世界。
 「この世」は多種類の波動を閉じ込めておける許容量の大きい器(物質体)があるので、一つの世界です。
 つまりレベルの違う波動と接触できるための物質界(この世)なのです。
 この次元は常に「魂という本質体」の進化のために存在するのです。
違うレベルの波動と接触し「氣づき」という刺激と「冥想」という融合作用を経て成長します。
 「氣づき」は「この世」で。
「冥想」は「あの世」で。
というと死ななくては瞑想できないと思うアナタはオッチョコチョイです。
 「冥」とは「計り知れない深遠な世界」という意味で、この世にいてもできます。
その方法論の一つが瞑想という調身、調息、調心の三位一体法なのです。
「冥想」と「瞑想」の区別をしていて下さい。
 あっ、チャイムだ。今日はここまで。
間違っても私の講座を理解しようと無理はしないでね。
かる〜く流して。   つづく
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NO6
もうあ閑話@         2002.2/4

 頭が混乱するような話はロクなもんじゃないのだ。
 我輩も、ガ、ガマンができんわ。
 だから、いきなり閑話時間な〜のだ。
 といっても、ここは講座のページ。よく笑い、よく学ぶのだ。
水上陽平迷著「我輩は考えぬアッシである」から抜粋な〜のだ。

 まずは詩から。
 我輩はネコではない
我輩はトンビやタカでもない
我輩はワシである。私である。あたしである
我輩はアッシである。ウン、間違いない
間違いないが、考えてはいない
我輩は考えぬアッシである

 私は自分で書いていて、あまりの素晴らしさに今でも感涙する。
 ところで、犬や子供やある種の女性などは感尿するらしい。
というのは事実なのだろうか?
 ああ、この世はナゾだらけや。
 いちいち間違いを探して歩くようなコマイ生き方はするな!(鉄舟、談)
(山岡鉄舟。剣と禅の道を一緒に歩いたらしい。
私だったらオモロイねーちゃんと一緒に歩くのになぁ)
 魂の進化を説く人間はゴマンといるが、進化した魂で説く人間はほとんどいない。
ゴマンがゴーマンに変わっただけである。
(クリシュナ神、談、私、珍訳)

 (インドでは人気のある神様。他にもシヴァ神やヴィシヌ神など多数いらっしゃるが、絵画や像の顔から見ただけではちっとも区別がつかなかったわい)
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NO7
続・縁         2002.2/7

 前回では「縁」が何故存在するかの背景を説明しました。
 でも複雑怪奇でメンドウでした。
誰だ、あんな説明したアホは。と自分で自分を褒めたくなりました。
 アホな自分は可愛いものです。
この世に生まれて「愛」を学ぶには、自分のアホさを可愛いと思える「感性無し」には「 完成無し」や
(ああ、このアホな文章、い、いとおしい)。
他人のアホさは厭きれるけど。

 アホはほっといて、氣を取り直して続けます。
 異レベルの魂と接触するためのこの世(物質界)ですが、接触するために「縁」という回路を開く必用があります。
 回路の仕組みを説明するには、波動法則のカオス理論を導入しなければなりません。
でも、そんなの聞くの嫌でしょ。私も嫌や〜。
 で、根性なしの私はイキナリ結論です。
 「縁はエンである」
 イイカゲン道の達人を目指す私は、これで文章を終りにできればいいのですが、どうしても「余計なお世話」を仕事としていますので、キレが悪い。
だらだらと続けてしまいます。
 「縁は円である。円は輪である。輪は和である。縁は和である。」
 「縁」はつづく。と含蓄のある言葉で、とりあえず。
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NO8
我慢         2002.2/8

 私は(余計なお世話な性格ですので)相手が誰で有れ、誤解は一応説く(解く)ポーズをします。
その結果がかえって立場を悪化させようと知ったことではありません。
 今回は「我慢」さんがその犠牲です。
 我慢は自分を抑える事で、時としてワガママを言わない社会的に立派な行為と誤解されているようです。
 ところが読んで字の如し。
(呼んで痔の後藤氏?。ロンドンに行ったら日本食レストラン「キク」で私の名前で後藤氏からご馳走になれるかもしれない。ボラれるかもしれない。)
 「我(われ)の慢心」が正体なのです。
 一見、反対語に思える「ワガママ(我儘)」と良く似た兄弟だったのです。
 これは我慢をしている人には受け入れ難いのですが、辛抱する対象は外側ではなく、自分の内なる「望み・欲・思い」のほうなのです。
 でも、ここで考え違いをしてはなりませんぞ。
 「望み・欲・思い」も自分勝手なものですが、
「持っていけない」モノではありません。
「持っていい」モノでもありません。
「持ってしまう」モノなのです。
 つまり、我慢がいいわけでもワガママがいけないわけでもないのです。
 体や心に「病み(闇)」をもたらすのは「我慢・我儘」への「こだわり」からなのです。
こだわらなけりゃ、どうってことはありません。
 我慢(われの慢心)なければ我慢(辛抱)なし。
という言葉をどこからか聞いた事があります。
 自分を解放すれば、無理も消えるということでしょうかね。
 でも私流には、いつものように
「我慢も我儘もイイカゲンに楽しんで相手をしましょう」となりました。
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NO9
         2002.2/20

 「貴方の夢は?」と訊ねると、多くの人は「○○が欲しい」とか「○○を楽しみたい」とか答えるようです。
 このような答え方になったのは、ほんの50年前くらいからなのです。
 敗戦後の混乱は「夢」と「望(欲)」の区別もつかなくしてしまいました。
 「戦争は人間の愚かの証明」ですが、夢も希望も欲望も一緒にするのは夢望(ムボウ)というものです。
(こういうのまでダジャレをする私って不真面目かなぁ)
 不満あるいはコンプレックス(プライドも同じ。コンプレックスの裏側をプライドという)が強いと「欲望」に走るのです。
歩く場合もあるけど。
 満足度や幸せ感からは「夢」が広がるのです。
 私の表現を注目して下さい。
欲望は「走る」、夢は「広がる」のです。
 「欲望」は自分のために進む生き方。
 「夢」は皆のために自分を広げる生き方。

 どちらが良い悪いではありません。
「夢」と「(欲)望」は違う方向なだけです。
自か他か、ジタバタ。
 肉体は「欲」で出来ていますから「欲望」なしの人間はいません。
強弱や大小や濃淡があるだけです。
 でも「夢」は有る人と無い人がいます。
最近は無い人が多くなっています。
夢の無い未来は滅亡だけです。
今、世の中は深刻な状況なのです。
 「夢は生きる力(自然治癒力や免疫力)の応援」をします。
 「欲望は生きる力の刺激力」にはなりますが、根本的な応援にはなりません。
生きる原動力として使おうとすると、体と心を壊してしまいます。
 「刺激は個人的に楽しむために活用」するものなのです。
 欲望には頑張りが憑(付)き物ですが、夢には頑張りは無く、精進に変わります。
 思い出して下さい。
 安心度が高い子供の頃の「夢は○○になりたい」だったはずです。
その理由は「誰かの為」「誰かに喜んでもらいたい」心があったからです。
 欲望は個人の満足を目指し、夢は他の幸せを目指しているのです。
 自分で読んでもナルホドと思うこの文章。
出任せで書いている私はタダモノではないかも?
 ああ、それにつけても金の欲しさよ。
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NO10
未来         2002.3/3

 やはり明るい話題がいいですね。
 明日という字は明るい日と書くのね〜♪。
という事で、明日が未来の入り口ですから、未来は明るい方向にしか開きません。
 時間軸から、過去、現在、未来と説明する観方もありますが、専門的なサイ科学知識が必要ですから一部の人にしか受けません。
私はハッタリ党友の会会員ですので、いくらでもデタラメな説明が出来ますが、受けないのでは書きたくありません。
(ワシは漫才師か?)
 ここでは出来事(意識)から観た未来を熱く語りましょう。
 未来は夢と連動しています。
ここで前回の「夢」講座が活きてくるわけです。
前講座を受講していない人はすぐ受けてね。
 夢は他の幸せを目指す、と書きましたね。
これを「人類の存在と存続」というテーマからマクロ的に検証すると、実に理にかなっている言葉になります。
(何かすっごいエラソーやね)
 人類が今存続できているのは「夢」があったからなのです。
これが「自分の為のみ」だったら滅亡しかなかったでしょう。
つまり、未来は「夢」で続いているのです。
 そして、これから(未来)の人類の歴史は「今の夢」にかかっているわけです。
夢がもてるかどうかは、未来があるかどうかと同じ事なんですね。
 人類を、個人あるいは家庭、会社、国などに置き換えても同じですね。
 他の幸せを意識する事は「魂の明るさ」でもあるのです。
 明日の明るさは「魂の明るさ」だったのですね。
暗い人より明るい人に未来は開かれやすいのです。
 (暗い人でも明るい未来はあります、ご安心を。
何故って、人なんてイイカゲンに創られているから、簡単に変われます)

 誰でも何時でも何処からでも「他の幸せを意識する事」は出来ます。
 つまり、未来は誰にでも、何時でも、何処からでも明るくあるのです。創れるのです。
 その時に前講義の「欲(望)」を個人的な楽しみとして巧く使うと、「息切れしない未来への道」が出来やすいのです。
何てったって「人間は欲深い心」と最後まで同行していくレベルなのです。
 ワシだって使い方次第で世の役にも立つかもしれないでしょう?
欲も金も使いようで活きてくるものです。
 未来へのポイントは「欲」の使い方といってもいいでしょう。
欲の行き着く先が滅亡なのは自然の流れです。
未来へはつながりません。
欲は刺激として楽しむものです。
追いかけると未来が閉じてしまうのです。
 追いかけるのは夢なのです。
未来へと続くのは夢なのです。

 あとは、貴方次第です。
 (これが問題なんだなぁ。せっかく欲だけを追いかける会社はツブレルぞ、と警告しても聞かないんだからなぁ。まぁいいけどさ)
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NO11
現実         2002.6/17

 人は自分の認識(思い)を現実と勘違いしやすい癖がある。
 現実は事実の現れであり、本来は思想や感情や能力などとは縁のないモノである。
誰でも共通なのが現実、事実のはずである。
 ところがどっこい、人によって認識度が違う、事実にくいちがいがでる、すると対立する、感情的になる、争う、兵器もヘイキで使う。
 事実を見ようとしないのは、何故なのか?
これが今回のテーマです。
 かなり哲学的な話だよ。哲学的がどんなだか知らないけど。
 簡単に言うと、自分の認識から離れられないからですね。
 じゃぁ、何故離れられないか?
 離れたくないからです。自分にこだわるからです。
 何故離れたくないか?
 恐いから。
「自分は自分にしがみついてこそ、自分だぁぁぁ」と思いこんでいるからですね。
 思い込んだぁら試練の道をぉ、行くがオトコのど根性ぉぉぉ。
 私が「根性は人生を間違いやすくする癖だ」
と指摘したのを思い出して下さい。
  えっ、指摘してなかったっけ? 
まぁ、細けぇ事も指摘しなさんな。
 この世の仕組みは誰が創ったが知りませんが、かなりヒネクレテいます。
(この発言で創造ヌシはきっとニヤニヤしているはずです)
 当っていたら、ホービくれぇ〜
 自分にしがみつくのは趣味としても、自分の判断が出来ない事を、他人の意見や考えにスンナリしがみつくのは趣味の段階を超えているのです。
簡単に他人にしがみつくと軽犯罪ですわい。
 だって、自分で判断出来ないんですものぉぉ。というのはアマイ!
 よ〜く考えてごらん。どんな事だって自分の判断なんてイイカゲンなんだ。
 という事は、他人が自信満々に言っていたって、(もちろんワシだって)事実や現実と食い違う判断の可能性が大だぜ。
 だったら、解からなくても、スンナリしがみつく前に、ホントかなぁ?と一応の抵抗をしてから賛成あるいは反対してみましょうよ。
 何故こんな事を書いてるかというと、学校にしても、マスコミにしても、○○勉強会にしても、○○研修会にしても、ヘンだと気づく感性が鈍くなっているようだからです。
 社会の常識も政治も行政も「変だと気づく感性」がヘン。
 残念ながら私一人の世界ではなく、多くの人が当たり前のヘンに気づいてくれないと影響があるのです。
それはどんな人でも同じです。
 自分と離れた事のある人は見当がつくのですが、自分を離れると一番自分の個性が現れるようになっています。
 そして当然ですが、冷静な判断に近づきます。
 確かに、どうせ人間は間違えるのだけど、どうせなら、間違いの幅は少ないほうが修正が楽なのです。
 あれ? 「現実」の話からどんどん離れているぞ。
 次回は関連して「判断」の話をしないと「現実」に戻って来られないなぁ。
  ねっ、現実を解説すると現実から離れるでしょ。
 この世はとてもヒネクレテいるのですね。
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NO12
判断         2002.8/14

 前回、あまりに場当たりな解説をしちゃったので苦労してます。
 計画性が有れば、私の人生、もっとマトモになったはず。
どうせ計画外からこの世に生まれて来たのですから、いまさらねぇ・・・・
 とにかく「判断」の予告を出したからには、なんとか出まかせの解説をしときますわ。
    自分の判断が何故アテにならないか?
(アテになる、と思っている人はあまりに無知だから相手にしないもん。
と書くと、無知と指摘された人がら
「テメエに言われたくねぇや!」と怒られるからなぁ・・・どうして、心の狭い人はホントを指摘されると怒るのかなぁ?
ってこれじゃあ、ケンカを売ってるような文章だな、ウン、反省)

 上記の文章は読む人により「判断」の違いが出ます。
 例えば「その通り!自分の判断なんてアテになるかぁぁ!」
 あるいは「ふざけるなぁ、判断は自分でするもんだぁ」等々。
 現実、事実からはこの判断だって同一になるはずなのに、正反対になってしまいます。
だから「判断」しだいで「現実」に近づく事ができるのです。
そして、ホントの「現実」に近づくほど、間違いが少なくなるわけです。
 私だって、もう少しホントの「現実」を認識できていれば・・・・
 って、愚痴を言ってる場合じゃなかったわい。
 現実の認識にも、判断の正確度を上げるのも
「自分の(優秀でない)頭に頼らない」ことがポイントになるわけです。
自分を離れて判断する事は特別なことではなく、生活をするのに密着した出来事のはずなんですが・・・
 そういうわけで「判断」と「現実」のタダナラヌ関係、ご理解いただけましたでしょうか?
腐れ縁というやつでしょうかね(違うだろうなぁ)
 ここで「正確を基準にした判断」に走ると、何時の間にか「現実」は迷宮になってしまいます。
 じゃあどうしたらいいか?
 簡単ですね。
「判断はアテにならない」という現実を受け入れればいいのです。
 この世はヒネクレている
 だから素直に「己の無知」を 受け入れると「現実」が姿を現すのですね。
 無知を知るとは、自分の執着から離れる事なんですね。
 何とか「現実と判断」の解説になったでしょうか?
 (おっつけ仕事の解説は気分が乗らないわい。
読む人はもっと気分が乗らないだろうなぁ)
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NO13
環境         2002.9/4

 環境は多方面からの観方ができますが、とりあえず読んでいただきたい人がいたので書いてみますね。
 環境を語るとき、多くが人間中心の観方になっています。
上記の「現実」「判断」でも触れましたが、立場によって観方が変わるのは自己中心の考えだからですね。
 新聞などで話題になるのが先進国と途上国(これもヒドイ言い方ですよねぇ)の環境に対する考え方の違い。
 環境を「経済」や「仕組み」で操ろうとするから、違いが出てしまいます。
 そこには、環境は「いのち」そのものという認識がありません。
 環境破壊により、地球が危ない!のではありません。
地球はオゾン層が破壊され、あるいは核戦争で生物が滅びても、放射能が残っても、1億年もすれば何とか別の命溢れる星になるのです。
 地球は変化しても危なくはないのです。
人間ごときに滅ぼされることはないのです。
地球は別に困っていないのです。
地球の自然が破壊されているのではないのです。
今の生物にとっての自然が破壊されているのです。
 危ないのは人間自身の命です。
人間の環境が危ないのですから。
困っているのは人間なのです。
人間にとっての自然(もちろん、他の生物も)が破壊されているのです。
 この環境は命という事を理解しないと、自分の命からちょっと離れた他人事(地球という星、あるいは国という土地)のとらえ方をしてしまいます。
 自分に影響はあるだろうが自分一人の問題では無い。
相手(環境)が大きいのだから、国や人間世界全体で決めてもらおう。
このように、例え環境問題を扱う人でも、ボランティアの人でも、
環境は自分を含めた自然界の事だと勘違いしている。
 環境は自分自身の命そのもの
 この事実を踏まえた意識の改革が同時に進められないと、人間の環境は破壊方面に傾くだけでしょうね。
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NO14
環境・対応編@         2002.9/28

 環境はホリスティック(全的・統合的)な相手。
だから対応の方法も多種多様で、しかもそれぞれが全て影響し合っている事実を認識しながら進めていくものですね。
 今回は政治家用です。
本当は行政なのですが、行政が自覚できているなら、こんな環境にはならなかったわけです。
 政治家は自覚なしでも、縁や欲やその他で、マトモな国民の意見を聞く事もあるので、その分期待も出来ます。
 ずいぶんトゲのある言い方ですか?
 冗談じゃない! 政治家がマトモに自立できて、マトモなシンクタンクでもブレーンにしておけば、ここまで酷い環境にはならなかったのです。
責任は人類規模で重いはずです。
恥を知っていれば役人も政治家も切腹しているはずです。
(切腹されても困りますが)
 ワシらしくない文章でした・・・
 ユーモアで切り返せなくちゃあねぇ・・・まだまだ、未熟だなぁ・・・。
 今までの土建主導政治が経済を伸ばし、同時に環境を一変させた事は、イイとかワルイとか抜きにして「事実」ですね。
 単純に環境のため、土建政治を止めろ、と言っても現状としては変えないでしょうし、無理もあります。
 無理を通せば、道理は引っ込む。真理ですね。
 ここで講座らしく「道理」の解説の時間です。
 「道理」を「正しい道の理」と訳すから間違うのですなぁ。
 「道」は「調和」と訳すと、この言葉が深い意味だと解かります。
 人間の分際で「正しい事」を判断するのはオコガマシイと自覚して下さい。
「正しさ」の主張から争いや環境破壊が起こっている「事実」を認識して下さいな。
 そのかわりに「調和」が問題解決するのですから。
 閑話休題
 今の政治家にも出来る提案・その@
 土建族議員が豊富な資金をバックに擁護しているのだから、土建族も妥協できる提案を。
(強いモノにはへつらおう。ケンカしても疲れるし・・・)
 簡単じゃないかぁ。
環境破壊土建から、環境再生土建にすればいい。
 時代も後押しするし、仕事は山ほどあるし、反対する人は(今までの甘い汁を吸っていた身内以外)いないし、研究研鑚すれば、世界中で引っ張りだこだし。
 キチンと実践成果を出せば、各国からの日本の評価も上がるし、提案した議員の株も上がるし。
進める党の人気も上がるかも・・・。
 こんな簡単でイイ事ずくめを何でしないのかなぁ?
 もっと具体的提案も出るけど・・・こんな当たり前が考えられない、出来ないような人類は滅亡しても仕方ないかぁ・・・。
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NO15
不倫         2002.10/5

 固い題名が続いたので(内容はちっとも固くないけど)、皆様お待ちかねの不倫について書いてみるね。
「不倫」が柔かいか、固いか、は
「陰(柔)陽(固)合わさり不倫と成す」と意味深く煙にまいて・・・
 まず「倫」について
(えっ、ちっとも面白くない? しょうがないじゃない。これは講座なんだから)
 倫は人偏がついているように、人としてのルールという意味ですね。
 つまり「倫」は真実や正しき道という意味ではありません。
人(多くはその時の為政者)が作ったルールです。
ルールは為政者の都合の良いのもあれば、社会生活の摩擦を少なくするものもあります。
 例えば「車は左・人は右」というルールは、交通事故や混乱を少なくするものです。
でも、真実や正しい法則ではありません。
アメリカでは逆になりますものね。
このように、同じ人間でも国により違い、同じ国でも時代により違うのが「倫」です。
 「不」は「・・・ではない」ですね。
 今では「不倫」は不義密通の代名詞になり、法より個人的な暗黙の了解違反で、神様から罰せられる対象のごとく云われますなぁ。
 現実には関係者の感情の問題ですね。
他人がトヤカク言う問題でもあるまいに、野次馬が興味半分でエラソーな意見を出す傾向がありますね。
 不倫の問題点は、法律違反や道徳違反(不特定多数への迷惑行為)ではなく、理性で解決出来ない感情的なドロドロ・ゴタゴタの後始末にありますよね。
だって、発覚しなけりゃ、問題が起こらない(心以外)のだから。
 心は内側の問題であり、(心は重要ではあるけど)倫の問題じゃあない。
発覚しなくても迷惑なタバコのポイ捨ての方が倫理違反でしょう。
 不倫より、タバコのポイ捨ての方が不倫だぁぁ
 「不倫」より「飲酒運転」の方が間違いなく悪行なのに、事故さえ起こさなければ話題も甘いですしねぇ・・・              また、つづくよ
             不倫・その問題点
 上記では、不倫が実は不倫というほどでもなく、個人的モラルという極めてアイマイな出来事だと理解した上で話を続けましょうかね。
 生き方の問題だから、基本的に他人が口出す事ではありませんね。
「そんなの絶対ダメ!」と言うのも(経験や現実を隠す人、憧れる人などの不倫要素のある人が言います。
真の道徳心ある人はこんな事は言わないもんです)、
「バレなきゃイイジャン」と言うのも(経験者が多いですね)勝手にして。
 話はイキナリ脱線するけど・・・
 武田信玄のノボリ「風林火山」は孫子の兵法が元です。
そこで、元の句を発見!!
 「・・・・・燃え上がる事、火の如し・不倫かあさん(風林火山)」・・・
 孫子は実に深く不倫の問題点を兵法の中で指摘していたのですねぇ。
 燃え上がる、かあさん・とうさん。ここです!
 恋もそうですが、熱病という病気です。
一時的な異常(ホメオシターシスという恒常機能が働かない状態)が問題なのです。
 放っておきゃいずれ熱は戻るものですが、その異常時に暮らしをいじるから、ドロドロ・ゴタゴタを後まで残し、影響を引きずるのですねぇ。
 つまり、不倫は悪い事ではありませんが
(病気も同じですよ。悪くないのです)ドロドロはメンドウだし、後を引きずるのも嫌でしょ?
 嫌なら最初から、あるいは途中で止める事ですな。
または、熱を上げすぎない、上がり出したら注意信号から赤信号と心得るべきでしょうねぇ
 でも、燃え上がるのは「いのち」でもあるのです。
燃やさないのなら、肉体を持っている意味も無ぇし・・・
 この燃え上がる火をコントロールできる(感情を離れて観、判断出来る)人は人生をも愉しめます。
 不倫という題でも、講座らしく深読みして下さいね。
   火を制する者、人生を制す
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NO16
戦争と正義         2003.3/22

 イラク侵略戦争が始まった。
 戦争の是非を「何が正しく、何が正義か」で論じながら・・・
 何千年も同類を殺し合いながら、未だ気づかぬ人類なのか・・・
 「正義の戦争・正しい戦争・平和への戦い」
 こんな言葉を平気で使いつづける煽動者達に、いつまで右往左往させられる人類なのか・・・
 哀しいのは、被害者だけでない。
戦争を認める全ての人類なのだ。
 「正義は戦争と同意語」だという事に、どうして気づかないのだろう。
 人間が「正しさ」を判断できると、いつまで思い上がっているのだろう。
 正しさを主張し、正義を振りかざすのは「争い」を好む事なのだ。
 煽動者達は知っている(もちろん無知な煽動者も大勢)
 「正義や正しさ」は大義名分であることを。
 理由は利権(早い話がドロボウ)であり、敵対感情(気に入らないだけ)である。
いずれにしても、アサマシイ人間の行動だ。
 それを支援する人間は「愚か」がプラスされるし、その支援するアホ達を選挙で選ぶ人間は・・・・哀しいだけだ。言葉もない。
 守ってくれる約束だからでは戦争協力の理由にはならないし、守るべき国の女の子を凌辱しても無罪にする国が
「いざという時、守ってくれる」などと本気で信じるこの国の人間が・・・・とても哀しい。
 北朝鮮問題があるからイラク侵略を支持する、ではメチャクチャである。
 冷静ささえ失っての感情で論じるなら「狂気」にしかならない。
 北朝鮮問題にしても、他の問題にしても、解決できなかったのは
「本気でしなかった」か「能力が無かった」政治家と官僚の問題だし、それを許している国民の問題である。
イラクという国の問題とは別なのだ。
 どの国にも問題はある。
この国の問題も果てが無いほどある。
 今回侵略する側の国などは、建国以来問題だらけだ。
 人間が問題だらけなのだ。
 今できる事は
 戦争は嫌だと、正義は主張しないと、代表者は冷静に選ぶと、宣言し行動する事であり、人類を超えてあらゆる平和(調和)への祈りをする事だと思う。

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NO17
満足         2003.9/23

 満足はどうして、足、なんだろう?
こんな質問から、ワシ流の考察をしてみた。
思い出すのは「知足・足るを知る」
仏道行の「八大人覚」の一つだ。
この意味を質素・倹約の道徳観と説明する場合があるが、間違いだと思うよ。
それこそ、思慮が足りない・・・知が足りない
足(そく)は部分の「あし」ではなく、身体全体の意味なんだ。
知足は精神(見えない)世界の言葉だから、身体の見えない全体の事。
つまり、その人の(今の)本質体・魂の事だ。
だから、「知足」は「己を知る・知れ」という修行言葉なんだ。
「満足」は「己を満たす・満ちた」状態言葉。
でも、ここは、もう一捻りある。
「最初から最後まで、足はすでに満ち足りている」
ここに気づく事が本来の「満足」の意味だろうなぁ。
仏語はヒネクレて意味が隠してある。
大切なのは意味を知る事ではなく「満足」に感謝する心。
 さらにワシ流をもう一つ・・・
「手」は自分の為(だけじゃないよ)に使うように創られているが
(使える範囲が自分中心なんだ)
「足」は他の為に使うように創られている。
(他への移動用に創られている)
足が満ちる時(満足)は、自分の欲の達成感ではなく
他への役立ちが十分な時の言葉だと思うよ。
ホンモノの「満足」は
他に役立つと、己の存在が光るから・・・マ・ン・ゾ・ク。

「あし(足)」は言霊からは「(あし)明日」となる。
明日(未来)が満ちる生き方は・・・まんぞく、だぁ

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