第 十 一 章   脳

 

      脳はノーナシ?

 

御筆様: 脳は考えるためにあると勘違いされている場所です。体のどんな部分であれ、考えるために付いている場所など最初から何処にもありません。すべて経験するためであり、受けて、出すの二つの行為しかないのです。

その二つの行為には「考え」が不必要です。あると邪魔になるのです。また二つの行為の間にも「考え」は不必要です。

 そもそも「考え」などありません。「考え」の正体は他からの知識のつなぎ合わせや、妄想(幻)やひらめきなどです。正しくは「考えたつもり」なのです。

アッシ: ヒラメキは「神さま」や知的生命体や愚的生命体(いわゆる低級霊)からの波動を受けただけなのに、自分の「考え」だと勘違いしやすいんだってさ。

  人間の傲慢さには果てがないのか(摩耶天、談)。

アッシ: 見果てぬもの。夢とゴーマン。ロマンだったかなぁ。

 

御筆様: 脳が無くても記憶は働きます。記憶は物質体すべてに備わっています。しかも間違いがありません。その上、遺伝という方法さえ備わっているのです。遺伝は直接つながっている物質体だけに働くのではありません。

 空間がひらいていても、時間がずれていても遺伝するのです。異種類にも異物質にも条件さえ合えば伝わります。これは遺伝が遺伝子によるものではないことを示しています。

有機物質に現れた結果だけが遺伝子であり、DNAなど見つからない鉱物にも、記憶も遺伝も同じくあるのです。

アッシ: これは知っている人は当たり前の説明。昔から岩に聞いたり木に聞いたりしていたし、過去の記憶は脳が無いものの方が正確なんだ。

  あれは私の創作ではありません。星や風から聞いたものです(宮沢賢治、談)。

 

御筆様: 脳の機能を解剖分析で説明するのは出発点での誤りです。物質体、中でも動、植物は動き方や使い方や環境で速やかに変化します。物質体は完全体なので、一刻一刻状況に応じて変化変質をします。

 つまり、「考える」「感情を発する」という作業をしたから脳がそのように変質、発達したのであり、本来の機能ではありません。また、どの部分であってもすべての対応が可能です。同じ対応が続くと、機能的に変質していきます。

アッシ: この変化は時の波動を使わないんだって。正確には同時に対応しあっているんだ。だから、動植物は長い時を経て進化してきた、というのは間違いになる。時間と共に変化するという進化論は、根本的な誤解から成り立っているとのことです。

 まあ、時間はずっと流れているし、当時の人間の目では、世代によっての変化しか確認できなかったとしても無理ないよね。まして、ダーウィンさんはキマジメだったし。

 何度も繰り返して言うけど、キマジメな人は間違いを起こしやすいのさ。キマジメは支配する者にとっての取り柄ではあるけど、人間としては問題あると思うよ。魂は和(柔)らぐのが進化なのに、キマジメは固まってしまうんだ。おまけに、支配する者は人間に限らないからやっかいなんだ。

 といって、不マジメな者がマトモなことを言っても誰も信用しないんだ。だから、ペンさんも頭が痛いんだ。インクの脳味噌だけど。ワッハッハ。

だけど、アッシが困るわけじゃないし、アッシの頭が痛いわけでもない。ワッハッハ。

御筆様: 今の学問はほとんど結果から分析によって追い求める方法をとっていますが、結果からでは真実は見つかりません。すべてのものから、お互いに影響を受け合っていて、しかも一部にすべてのものが含まれているのです。

今の未熟な分析科学で真理を求めるのは、無謀な方法と言わざるをえません。「思考」「分析」による学問は、振り返れば塗り替えばかりなのです。

アッシ: 最初から完成された学問だってあるのにね。完成された「おおいなる魂」からそのまま受けて、そのまま暗記すればいいんだよ。

 学問とか思考とか分析とか、エラソーな言葉だね。エラソーなものは暮らしに不向きなんだ。エラソーな人は地球にメイワクだけど。まあ、いいか。こんなアッシでも住まわせていただいてるし。目クソと鼻クソが嫌いあってもコッケイなだけだし。

 


      脳は発信装置?

 

御筆様: 脳は肉体側からの発振(信)装置なのです。受振(信)は脳が無くても体さえあれば受ける事ができます。魂が受けるのではなくて、体が受けるのです。魂は体によって経験させていただいてます。

 発振も体があれば行えるのですが、脳が無いと方向目的がありません。反応による発振だけでは魂の進化がはかどらないのです。

脳は心を生みますが、それは魂の目覚めのきっかけにもなるのです。脳が無いと意志をもって調和を乱す事と、それを理解し修正する事が出来にくいのです。

 つまり脳ができるのは、ある一定の「場」の大きさ(魂の大きさ)になった時の必要条件なのです。当然、心が無くても魂が進化できる、もっと大きな「場」になると脳も必要で無くなります。

アッシ: またまたクエスチョンです。

オバケさんには脳が無いけど何処で考えているのでしょうか?

御筆様: 脳は発振装置なのに、間違った使い方をするので受振の邪魔になります。間違った使い方だけでは、調和を乱す事は出来ても修正が出来ないのです。

修正には間違いの原因の気づきか、ストレートな受振による意識の広がりが必要になります。

 間違いには大きな仕組みに裏打ちされた意味があったのです。次は修正の出番です。

アッシ: アンサーです。

心です。

脳が思考器官だと思っていた人、オバケも考えるんだよ。オバケなんていないと思っていても怖がったりして。怖がるのはアナタの「考え」より体のほうが正確な物知りだから、と素直に認めたほうがいいよ。

御筆様: 人間は脳が発達しているから「理性」があるとか、「理性的」であるというのはまったくの考え違えになります。

 理性とはすべて(神)の質である調和に向かう性(さが)なのです。物質界であろうと非物質界であろうと、ありとあらゆる存在に染み込んでいるものなのです。

知識を持ち、思考能力が発達して判断するのとは逆方向なのです。欲望を抑えるのは理性ではなく、別の欲望なのです。

アッシ: 「理性」を強調する人ほど「理性」から遠いのかあ。でも「愚性」を強調するアッシは、そのとおりなんだってさ。

ところが、近ごろ「愚性のゆらぎ」があるんだけど。ああ、アッシが賢くなったらどうしよう。心配になってきたなあ。

  自分に心を配るより、他人に愛を配りなさい(サティア・サイババ、談)。

 

御筆様: しかし、その理性の流れを止めるのが「考え」です。その内容がどんなものであっても我を主張するのが「考え」であり、その「考え」は力をもっているのです。理性より優位に働くのです。

 理性と知性の混同もあります。知性は学習や経験から得られ、伸ばすことも増やすことも出来ますが、理性は身につけた知性を放すことによって近づくのです。

 理性は知識にとらわれず、考えを止め、判断をしない時に自然に流れていきます。理性的に生きるとは、そういう生き方です。

アッシ: 惜しいなあ。知識が無く、考えも無く金も無く、判断もできないアッシは愚性的に生きてるって事かな。もうちょっとで理性的になれたのに(無理だって)。

  我々の魂が学ぶ事の一つは「考えぬ」事です。
 力(心)のコントロールです(シロナガス鯨、談)。 

アッシ: 力は使わない事を学ぶ為にあるんだってさ。

  我々の魂が学ぶ事の一つは「ギャグ」です。
 笑いのコントロールです(西本真司、談)。

 


      脳は受信装置?

 

御筆様: 頭を空っぽにして受け取る事に、脳の隠された能力があるのです。それに物質はすでに完成されているのです。何も知る必要は無く、「智る」必要があるのは魂です。その一方法が「考えぬ」事なのです。

 そして「考えぬ」脳で「行う」事こそ、我々が人間に生まれて暮らしている最高の生き方なのです。

 頭は使うためにあるのではなく、使わぬ事を学ぶためにあるのです。

アッシ: 本当の賢者は考えて無かったのかぁ。

患者は考えてばかり。忍者は隠れてばかり。モンジャはキャベツばかり。信者はアホばかり。あっ、いけない。聞こえなかった事にしてね。

ペンさんより、口のかる〜いアッシが怖い。

御筆様: 人間の脳(肉体)は、ある時期から時間と共に衰えていく事実をしっかり認識して下さい。脳(右脳、左脳を問わず)の開発や使用法にとらわれないで下さい。学びや勉強というのは魂が主体で、脳の開発とは関係ないのです。使わない事から始まるのです。この物質界は歪みから出来ているのです。

アッシ: ボケは脳の萎縮問題だけじゃあ無くて、心の問題が大きいんだ。心(こだわり)を多くしたり、抑えて大きくしたり、イジメて強くした結果なんだって。だから治る可能性が高いらしいよ。

 ボケてるのは地球さんにとって迷惑にならないけど(基本的にボケる人は魂が大きいから)、優秀といわれる人達(基本的に魂が未熟)の行いはほとんど迷惑なんだよね。こういう事実も認識してくれないかなあ。

御筆様: 発見は新しい事を見つけるのでは無く、気づかなかった事を知るのです。発明は組み合わせに気づく事です。「気づく」瞬間に「考え」はありません。「気づき」は受振ですが「考え」は我の主張なので発振なのです。

アッシ: 発見も発明も人間本位なんだね。人間が威張って「発見したあ」なんて言っても、地球さんとしては何も変わらないし、発明は人間だけが恩恵を受けるか、人間の迷惑行為の後始末につかえるだけなんだ。

 思い切って言っちゃうと、発見も発明もしない方がみんなのためになったんだ。人間には便利だけど、自然界では「おおきなメイワク」。

御筆様: 「考える」が「勘違いする」の別名なら、「人間は考える葦である」とは、脳の誤った使用法をしている動物(葦、足)であるという意味になります。あるいは、体の中は空なのに(葦)有ると勘違いしているという意味になります。

  人間は寒蛙味である(人食い鮫、談)。

 人間はカンガルー味である(人食い鰐、談)。

 人間はガン変える意志がある(ガン学会、談)。

 人間は考えるからアホである(ペンさん、談)。

 我々の尊厳は考える事のなかにある、なんて言って恥ずかしい。道徳の原理が人間の考えにあるはずが無いって事を死んでから解りました。馬鹿は死んでも治らないが、死んだら馬鹿だったって事は解りました。「パンセ」は撤回します(パスカル、談)。

 

御筆様: 脳に集団無意識や超意識があるのではなく、アンテナであり扉なのです。そして、このアンテナは脳のトレーニングや外力による脳波の調整では、歪んだ集団無意識界とつながりやすくなるのです。どんなモノでも、間違った使い方はメイワクの元です。

 意識を脳から離(放)し、肉体の中心(丹田)に静めた時に、必要ならば「大いなる無意識界」とつながるのです。どんなモノでも解放すれば、勝手に良い方向に歩きだすものなのです。

アッシ: 脳波をα波やθ波に変えるのは本末転倒でげす。結果(幻)を追うと限界(幻界)にあたりやす。この世は単純ではありやすが、機械仕掛けじゃあごぜえませんで。偉大な博士さま、悪しからずお考え直していただきとうおねげえいたしやすでごぜえますだ。

  頭のいい人間はバカだけでなくゴウマンだ(案山子、談)。

 

御筆様: 瞑想(初期禅)の中には発振力を静めて受振力を高める方法がありますが、直線的な魂の進化への道の前半部分には適しています。しかし、これは一方法にすぎません。もともと発振力と受振力は波動のレベルがまったく違うのです。

 初期の瞑想などでこの区別ができるようになると、発振力がどのようなレベルであっても受振をする事があります。つまり、我が粗くても「大いなる〇〇」の情報を受ける場合もある、という事です。この場合は「行い」の段階で情報を歪曲していきます。非常に注意が必要です。

アッシ: 本人が真剣だけにメイワクも大きい。ところで題名の「我輩は考えぬアッシである」は、「人間は考える葦である」と「我輩は猫である」の合成だよね。なんと安易な発想だろう。エライぞ。

  この世ではオリジナルも模倣もパロディもすべて合成だ(マッドアマノ、談)。

 

御筆様: 深い瞑想(冥想、禅)は受振をそのまま発振します。もちろん物質界と非物質界に合う波動に変調しますが歪曲はしません。この発振には見える「行い」も見えない「行い」も含まれます。ここには「考え」はありません。あるのは「愛」です。

アッシ: 瞑想は迷走に、禅は賎になりうるって事だね。瞑想するなら、中途半端はヤメテ。中途半端はヤメナイデ。どっちでしょう? にほんご、むずかしいね。

 ところで、ペンさんはこの本で禅の真髄を顕すつもりらしい、というのを信じられる?

 「ペンと禅」。似合ねぇ、こともないかな?

  形にとらわれるな(ペンさん、談)。 

アッシ: そう言ったって・・・ねぇ。形から判断するのも大事だと思うけど。

 


      芸術はノーナシ?

 

御筆様: 芸術は人類のみならず、物質界と非物質界のすべてに個性を通じて「神」(調和)の波動を発するものをいいます。感情や思想の具現ではないのです。もちろん、「美」の表現でもありません。本物に優る「美」が人間に出来ようはずがありません。調和波動の顕れの側面が「美」なのです。

アッシ: 人間以外にも通じて、初めて芸術になるんだってさ。芸術って言葉、「俺は日常生活と違って高尚なんだぞ〜」という感じがイヤラシイねえ。

  作品がイヤラシイのではなく、あんたがイヤラシイのだ(猥褻裁判被告、談)。

アッシ: そんなに芸術にこだわらなくてもいいと思うけどね。でも、イヤラシイのが悪いとするのが間違いの始まりなんだ。何だっていいのにねえ。

 

御筆様: その芸術が完成されるまでに、考えて考えぬいて、工夫して工夫しぬいて創られるように見える事があります。だから苦悩を経てこそ芸術が出来上がるように勘違いをされますが、それは表面だけなのです。

芸術(調和の波動)に近づく時は一瞬であり、その瞬間に「考え」はありません。考えに考えぬくのは「考え」を無くすための方法なのです。

 「考えぬく」とは、まさしく「考え」を「抜く」事なのです。また、右脳を使って表現するものでもありません。芸術は感情や感覚の表現方法ではないからです。すべてに向かって放つ時には無心の状態だし、脳を使わない事が無心の条件になるのです。

  私にとっての陶芸は、心の力みを抜く作業です(風香、談)。

  すばらしい芸術は多く見つけることができるが、すばらしい芸術家を見つけることは非常に難しい(評論家、談)。

アッシ: すばらしい評論家はさらに難しい。ワッハッハ。

 

御筆様: 芸術は個人だけの能力で完成するはずがないのです。人間だけでなく、多くのものたちの積み重ねと流れがあって、調和の波動が純粋になってくるのです。この次元の仕組みとして、協調がなければ芸術は完成しないのです。つまり、感謝の伴わない芸術はありえません。

アッシ: 芸術の意味も解らずに、ゲージュツカになりたい人やなっちゃった人が多いねえ。感覚が表現されていればゲージュツだ、なんていう評論家までウロウロしているし。

「意味が解らないとハッタリが強まる法則」の世界だね。

 確かに脳は使ってないようだけど、頭のただ足りないだけのアンチャン、ネーチャンの成れの果てがゲージュツカじゃあ、ご、ご先祖さまに申し訳無い。

  気にするな。まあ、そんなもんだよ(先祖、談)。

 


   まとめ

 @ 脳は考えるための器官ではなく、発信器官である。

 A 脳は物質体から心を育ててしまう器官である。

 B 理性とは思考能力から判断するのと逆方向である。

 C 脳は思考として使わぬ事を学ぶためにあり、力は使わぬ事を学ぶためにある。

 D 脳に集団無意識や超意識は無いが、それらにつながるアンテナや扉がある。

 E 芸術は感情や思想の具現ではなく、調和波動を発するものである。

 F 脳の「考え」を抜いた時の積み重ねで芸術が出来てくる。

 


    無責任な注釈

  [摩耶天]

 人間界の上、四天界の一つらしい。持国界(地獄界)の長との説あり。エンマ様のことかなあ。釈迦さんの母、摩耶さんのおおもとの神様とか、キリストさんの母、マリアさんのおおもとの神様とか、いろんな説がある。ようするに、わけがわからん。

  [宮沢賢治]

 童話は難しい。作者は一時童話作家を目指したが、すぐアキラメた。ヒネクレ者と根性無しにマトモな仕事は出来ない。

  [サティア・サイババ]

 神の化身という説あり。作者はサイババ様を人間では無いと感じたようです。

  [西本真司]

 麻酔医。笑いと氣を西洋医学界に紹介しているらしい。ダジャレが得意。

  [パスカル]

 少し考えすぎだと思うよ。人間は圧倒的にアホらしい。

  [案山子]

 オズの魔法使いや柔侠伝やその他、いろいろなところに登場する。人間の中のマトモな部分の象徴かなあ。

  [マッド・アマノ]

 パロディ作家というのかなあ。

  [風香]

 ふうか、という陶芸家らしいがよくわからない。作者の姉との説があるが不明。

 

第十一章は終りです。ご苦労様でした
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