第 十 四 章   科 学 と 宗 教

 

      科学は幻?

 

御筆様: ここでは科学を、幻を追う学問と定義します。

 ただし、ここでいう科学とは、この次元の現象を普遍的に分析解明しようとする学問と、理論を創るか当てはめようとする学問を対象としています。いずれも、人類の「考え」で解明できるという前提条件があります。

アッシ: アッシは科学者と称する人と対決するつもりも、からかうつもりもありませんよ。これはアッシの意見じゃないので悪しからず。

モンクがあるなら、ペンさんの方へどんどん言ってやって下さい。近ごろ少し調子に乗りすぎていると思っているんだけど、アッシよりペンさんの方が賢いのでじっと堪えているのです。アッシはガマンの子なのです。

  我を忍べ、大五郎。それがもののふぞ(拝一刀、談)。

アッシ: イバっているサムライや武士ともののふは違いま〜す。強きをくじき、弱きを助ける、忍耐と努力と根性と精進の疲れる生き方を選択した人です。もちろん、ふの一種や、もののけとも違います。けっこうエライのです。

 

御筆様: しかし、この科学が不必要というわけではありません。それどころか、心(幻)を追う事と理解(消す)する事によって、魂を進化させるシステムの次元ですから、まさに科学というのは重要な役でもあったのです。

 幻を追えば速く限界にぶつかるのです。どの分野の科学でも同じです。科学が進めば進むほど速く壁にぶつかるのです。

アッシ: 壁が見えているのにアクセルを踏む車だね。壁が崩れるか、車が壊れるか。一か、八か。半か、丁か。さあ、さあ、皆さん張って下さいよ。

「崩れる方に五千円」「壊れる方に一万円」

や、やばい、サツだ〜、カネもって逃げろ〜。

御筆様: 今の地球では、人類が幻を理解する段階に入ったのです。そのため、科学の役割も終わりに近づいたわけです。速やかに科学という「こだわり」から抜け出る必要がありますし、すでに半分抜け出てしまった分野もあります。

 目に見える対象を扱っている科学だけではなく、見えないものを対象としている科学も「こだわり」では同じです。

アッシ: 科学って解らないものを解るようにしようとしている学問だろ。いつでも未知のものに向かうのに、頭の固い科学者が頂点にいる摩訶不思議なギョーカイだって。

 センセーって呼ばれ続けると何故か頭は固くなる。セージカもキョーシもイシャもそうだね。センセーという言葉の波動に頭を固める作用があったりして。

む、これは科学の対象になるのかな。発見者のアッシはノ、ノーベル賞だぁ〜。

 あっ、気が付いた。科学者って未知に向かっているんじゃなくて、心の底ではメーヨに向かっていたりして。

(す、するどい。でも口がすべるから、嫌われるタイプだね)

御筆様: この「こだわり」から解放されにくい原因に、「科学」を信奉している人は「理性」

という何となく尊敬されそうなものが、自分に特にあると思ってしまうようです。(理性については「脳」の章で記してあります)

 また、科学の成果が人類に役だっていると自負してしまい、長い目で観た時に、人類だけでなく影響下のすべてのものに迷惑であった事に気づかない欠点があります。

アッシ: セージカとかヤクニンも同じだけど、国民のためとか人類のためとかを自負すると、ほとんどメーワクしか残らないんだよね。まして、人間以外のものの事なんか範囲に入れてないし。

(そういう事言うから反感を買うんだよ。ギャグはどうした?)

御筆様: 科学がなくても、すべてのものは生きていけるし、魂も進化出来るのです。しかし、科学を扱う生命体は加速度がつくのです。幻を追い詰めやすくなるからです。だから幻を理解しやすくなるのです。

今の人類の科学は幻を追い詰めるところまで進んだのです。それは同時に、科学が行き詰まった事でもあるのです。

  人間の幸せのためだけに科学があるんじゃない(鉄腕アトム、談)。

 我々は科学の方向を誤ったのかもしれない(お茶の水博士、談)。

 人間よ。愚かな人間よ。おまえは何処に行くつもりなの?(火の鳥、談)。

アッシ: 手塚作品は永遠に不滅です。

 

御筆様: すべての物質、現象、魂は比べる事ができないし、比べる必要もないのです。また、再現性を科学の主条件にするのは、時間が一方向に流れ、空間が一瞬たりとも同じでない物質界では最初から無理があります。

 科学を幻を追う学問とすれば新たなる方向が見つかるのです。

アッシ: だめだ、この地球上ではカラータイマーが三分で鳴ってしまう。

気の利いたギャグを言わなければ。何かないか、ああ、時間がない。

そ、そうだ。カ、カップラーメンが食べたかった。シュワッチ! 

し、失敗った〜。一分で出来るカップメンもあったんだ〜。

こうしてギャグの精霊たちは、G八七星雲の彼方へ泣きながら帰ったのでした。後に残ったのは、スランプのかたまりです。

 え〜ん。おもしろくないよ〜。

 


      宗教は商売?

 

御筆様: ここでは宗教を、個別の方便による「真理(神)の教え」を表看板にした勢力集団とだけに定義しておきます。

「神」と一体になる方法を説いたものは幾つもありますが、教祖あるいは経典を持ち、勢力集団の形にこだわるものだけにしておきます。

もちろん、各個人の中にある宗教心とはまったく別ものです。

アッシ: あなたは神を信じますか? (神はともかく、いきなり聞いてくる人は信じない)

 神はいつでもあなたを見ています。(覗き魔みたい) 

 信じる者は救われます。(信じない者だって救わなきゃ)

 これは神の言葉です。(人間の言葉だろ)

 ヒネクれた心に愛の手を。

御筆様: 科学が登場してから、多くの人の「頼る心」が科学に移りました。これは宗教が科学ほど人間に役立たなかった事を意味しています。

 宗教の中身が、どんなにこの次元の真理に迫ったものであっても、魂の進化という目的に関しては科学ほど貢献していません。

 科学はその中身がどんなに間違ったものであっても、動きがあるのです。しかし、宗教には動きがありません。動かないとは、この次元では後退を意味するのです。

 現代は科学的というだけで無条件に信じてしまう、科学教という信者が急増したとも表現できます。

アッシ: 科学も宗教も「信じる心」が無ければ成り立たないね。も一つ、言葉(文字、数字)が無いと成り立たないのも共通しているね。ずいぶん頼りないこと。

  信じる心も言葉もなくてもギャグはできる。まいったか。シャレもできるが、ダジャレはむりだな。しかし、スランプは成り立つ。まいったか(スランプの達人、談)。

 

御筆様: 間違った動きは、修正された時に正しい歩みと同じになります。人間は間違ってもいいのです。間違うから、まだ人間なのです。

ただし、修正なくしては人としての意味がありません。修正は「行い」でもあるのです。「信じる」は「行い」ではないのです。

 愛は信じるものではなくて、行うものなのです。調和の行動を「愛」とよぶのです。

 愛を商売にしている宗教家は多いが、商売を愛している商人は少ない(近江屋、談)。

 欲は形を生んでいきますが、愛は形を解放します(聖フランシスコ、談)。

 愚かな民衆が相手だもの、失敗するはずがないさ(某宗教家、談)。

御筆様: 多くの人が「信じきる心」から「疑う心(科学心)」に移ったのは、宗教を広める人達が「教え」を特殊なものとして「暮らし」から遠ざけてしまったのが原因です。つまり、「教え」を頭でとらえてしまったのです。

さらに、組織の維持拡大に「教え」を利用してしまったのです。「教え」の無理解が宗教の姿とは皮肉な事です。

  地獄へのトンネルをくぐると、そこにはボーサンとセンセーとセージカとカガクシヤがウジャウジャしていました(スウェーデンボルグ、談)。

 宗教は信じないが神を信じる。人の言葉、心、行いは間違いやすいが、いつでも、そのままの人を愛する(中川雅仁、談)。

 

御筆様: 「教え」は道標ではありません。この世の仕組みと「神さま」の深い愛(行い)を照らし合わせてみれば解るはずです。

道標は「病気」や「苦しみ」のような形で示してくれるのです。あるいは「幸福」とか「快」とか「歓喜」のような形になります。

 「教え」は確認なのです。「気づき」が先にくるのです。

アッシ: 最初に答えを示しては勉強にならないって。魂は一人で歩いた分だけ進むんだから。本当に勉強する気が無い人だけが宗教に入ればいいんだね。

そういうことなら、アッシには入る資格があるんだけどなあ。

御筆様: 迷える魂の道標は、その魂の関わりの中にこそあるのですが、主体は迷える魂であり真理(神)ではありません。ここが宗教家の考え違いをしやすいところです。

 大ざっぱな表現の仕方をすれば、中心を神(真理)ではなくて人間にしてこそ宗教の役割があったのです。

アッシ: 宗教の中には「神」と「神さま」の区別さえできていないのもあるし、教祖の中には「神さま」と「オバケさん」の区別さえできていないのもいるしね。

玉石混合、聖邪同行百鬼夜行、特別急行。面白そうだから、やっぱり入ろうかな。

 宗教って、入ってあげると給料が出るの? えっ、取られるだけ。それじゃサギだろ。金に困っている人には施せ、ちゅうの。

御筆様: 真理は特別の導きからでは理解できません。理解できたと錯覚するだけです。真理を知る事だけでは意味をなしません。活かしてこそ存在します。

 真理は「教え」より、ずっと大きく自由自在なものです。しょせん「教え」は方便なのです。「教え」にこだわるのが宗教家です。

アッシ: う〜ん。これだけバカにすると呪われるかもしれん。科学者にしろ宗教家にしろ、正しさにこだわる人達は心が狭いからなぁ。(どうでもいいけど、知識も狭いぜ)

尊敬という言葉には弱いくせにね。しょうがねえなあ。不本意ではあるが、道化師のまねでもするか(ただ単に臆病なだけ)。

  尊敬を求めるとセンセーになり、尊敬を求める心が歪むと道化師になる。尊敬を求めない表現者は詩人になる(ミューズ、談)。

アッシ: げっ、心の中は同じかぁ。なんか急に宗教家に親しみがわいてきたぞ。

結構いい人もいるよね。いい人ぶる人も多いけど。(これが一言余計なんだよなあ)

御筆様: 「教え」を信ずる事と「神」を信ずる事は違います。「神」を信ずるとは、こだわりを持たない状態です。

こだわりは固まりです。固まりは心です。心の現れが物質を創ります。物質を用意したのが「神」であり、解(融)かしていくのが魂です。

物質(肉体)を通じて「神」に感謝する、それが信ずるという事です。

アッシ: 科学も宗教も「真理」の追求を目的にするから曲がっちゃうんだよ。優しく表現すれば、魂の幸せのための方便なんだから。

まだ人間なんだから、たとえ「真理」を示されたって自力で確認できないってば。おばかさんだねえ。だから真実とデタラメの区別に神経質にならなくてもいいんだよ。

 心を柔(和)らげるのが目的。 

 本来は宗教をサポートするのが科学であり、科学をリードするのが宗教なのにねえ。

まあ、いいかあ。幹から外れた枝にも大きな役割があるんだし、風情もあるし。

  神なき科学は科学とはいえない。それは幻学である(アインシュタイン、談)。

 


     まとめ

  @ 科学は幻を追う学問である。

 A 科学は魂の進化に重要な役割を果たした。

 B 今の人類科学は幻を追い詰めた。

 C 宗教には発展性が無い。故に人は科学を頼った。

 D 真の「教え」の無理解が多くの宗教の姿である。

 E 科学も宗教も「真理」の追求が目的では無い。魂の解放が目的である。

 

    無責任な注釈

  [拝一刀]

 子連れ狼。作者は小島剛夕氏から、大五郎を抱いた柳生烈堂の最後のセリフ「我が孫よ」の意味を聞いたことがあるらしい。

  [鉄腕アトム]

 ロボット(無機物)にも心があるということを学んだ。

  [お茶の水博士]

 科学者の役目は、物と人間の交流だということを学んだ。

  [火の鳥]

 果てしない世界の中に人間界もあるということを学んだ。

  [近江屋]

 良い商人は近江屋、悪い商人は越後屋というイメージがあるね。

  [聖フランシスコ]

 創作人物だか実在人物だか不明。サンフランシスコならあるんだけどなあ。

  [某宗教家]

 モデル多数。

  [スウェーデンボルグ]

 天才すぎて、今でも学者達はついていけない。

  [中川雅仁]

 氣功家。精神世界指導者。作者の師というウワサもあるが不明。

  [ミューズ]

 芸術の神。ミュージックの語源。あまり美しくない女神という説あり。嫉妬するから、美形は芸術家になれないとか。

  [アインシュタイン]

 天才かどうか知らないが、かなり変人だったらしいよ。

 

第十四章は終りです。ご苦労様でした
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