第 十 六 章 因 果
因果は方便?
御筆様: 魂の進化に関係して、因果の壁に当たる事があります。
通常は、原因があり、縁が起こり、果が現れる事としています。進化を意識した初期においては、因果を絶対視してしまい、宇宙の法と考え違いをしてしまうようです。
インガ帝国のギャグ衆、という映画がありましたね。平民がギャグの反乱を起こすところ、面白かったですね、では、サイナラ、サイナラ、サイナラ(淀川長治、談)。
アッシ: むむ、高度なパロディ。難解なギャグ。謎の作者は映画通か?
御筆様: 因果は理を解説するうえでの前期の方便です。しかし、この方便は奥が深いのです。いくつもの段階が用意されています。そのために、ある程度進化した魂でも因果によって学ぶ事ができるのです。
アッシ: 最初は因果と時間を離せないものとして、とらえちゃうらしいね。時間的に原因は結果より絶対前だ、というように。時間が一方通向だから無理ない感じだけど、円の中を一方通行したら因果は確定できないね。(あっ、今、アッシは、賢い)
ニワトリが先か、タマゴが先か? まずダシが先だな。(今、アッシは、食べたい)
御筆様: 因果を見えるものでしか判断できない段階があります。
つまり、結果を重要視しています。結果で判断するのです。原因は想像になりますし、因果を変えようという生き方にはなりません。
アッシ: 終わりが良けりゃすべて善し、というタイプ。悪かったらすべて悪し、になるのかねえ。判断する時間が無い場合は想定して無いみたい。終わりの時は判断ができないのに。おマヌケさんですね。アッシは好きです、そういう人。
御筆様: 今の「考え」で良い悪いを判断する段階があります。良い原因があるから善い結果になる。だから原因を重要視します。しかし、「今の考え」ですから結果は想像になり、考えたとおりにはなりません。
アッシ: へたな考えは結果が逆になりやすいのだ。これも結果を求めている事には変わりが無いね。真に良い「考え」など絶対に無いし、「思い」で結果を実現させても、一時的なものなんだ。マジメタイプで、努力が好きな人達。でも人間勝手。
良いダジャレだと思っても、ひどい結果になるんですよ。おもしろがらない社会が悪い。政府がバカだ。グレてやる。そのまえに一つ。
隣のギャグはよくキャクくうギャグだ。
あっ、やっぱりうけない。グレてやる〜。
御筆様: 縁を単純に重要視する段階もあります。多くの種類の原因があり、縁によって善し悪しが起こるのだから、善い縁起を選ぼうとする生き方です。
あるいは縁起を善くしようとします。その事が未来における善い果を創る因にもなるというのです。「場」を整えたり、他との関係まで意識を広げる事にもなります。
アッシ: これも結果を求めているんだなあ。因果に善し悪しを持ち込むのは方便の方便。おまけに、残った悪い因果はどうするのかなあ。
縁は円であり無縁はありえない。故にすべてが縁起となりダルマ(法)となる(達磨大師、談)。
アッシのギャグに洗練はありえない。故にすべてが下品となりダジャレ(泡)となる(謎でない作者、談)。
アッシ: 同じ「ほう」でも法と泡では大違い。法は宝だが泡は呆。
因果は幻?
御筆様: 原因を創り出す原因に気づき始めると、原因は結果に変わってしまい、原因と結果の区別ができなくなります。
そして因果は絶対ではなく、結果が原因の前にくる場合もあり、同時の場合もあると気づきます。因しかない、あるいは果しかないという段階になります。
アッシ: わけがわかんない? 簡単だよ〜。ずっ〜とさかのぼれば、ナンにも無くなっちゃうから。
つまり、一番最初は「無」から始まったんだ。だから、因果は幻なんだよ。
御筆様: そして、現在のみがすべてであり、過去も未来も現在によって決まるとしています。あるいは過去も未来も意味が無い、つまり存在しないとしています。
因はそのまま果でもあるのです。因と果の間には時間も空間も影響しません。因果と時間、空間を区別したとらえかたになります。
因と果を結ぶものは縁です。時間ではありません。そして、縁とは現在のただ一点のみなのです。因果という幻を活かすには、縁を真に理解することが大切なのです。
アッシ: 因果も時間も関係ない。今さえよけりゃいいんだ、となるのか、一瞬一瞬に全身全霊をかけて生きる(疲れそ〜)、となるのか、分かれ道だね。実はもう一つ「今」も無い、というのがあったりして。
何げないムダ言葉にドキンとしたアナタは考えすぎです。
ドキンちゃんはわがままです(アンパンマン、談)。
御筆様: 因果は魂が創るのではなく心の現れなのです。原因も結果も同じ心の変形なのです。幻(心)の変形は幻なのです。そして、心は今に現れるのです。だからこそ、真の縁を理解するのは心の理解に通じるのです。
因果を知るのは縁を理解することであり、心を解放することなのです。今の「行い」こそが、この次元では無限の力をもつ「心」を解放する、あるいは創る元なのです。
このように、すでに因果が決まっているのではありません。今の「行い」が因果を新たに創るのであり、そのシステムを縁と名付けたのです。
アッシ: 因果を知らない赤ちゃんが最高の生き方をしていたりして。どうする?
ああ、因果の壁が崩れていく〜。
壁は崩してもらえるのを待っているのだ(ライアル・ワトソン、談)。
壁は意志で崩すのではありません。意識の広がりで消えていくのです。それが平和への祈りなのです(ダライ・ラマ法王、談)。
御筆様: 因果は幻だと気づきますと、縁(円)から抜け出る事ができます。抜け出すとは、すべてが縁で成り立っていると認める事です。それが因果を超える事でもあり、魂としての進化でもあるのです。
幻だからこそ、この次元では力を顕していたのです。しかし、解放された魂に因果は存在しないのです。解放された魂は常に「今」しかありません。
アッシ: ここでも因果を超える事を目的としないように注意だって。簡単に魂を解放しないでね。たっぷり因果を味わってみるための次元なんだから。奥が深いんだよ。まだ人間なんだから、決して焦らないでね。
御筆様: 初期の方便では、因果は自分の原因が縁により、自分の結果として現れるとしていました。そのため因果を基にした戒律は「考えぬ」行いとして、魂が進むのに優れた方法でもありました。してはいけない事とするべき事の戒律です。
ある程度魂が広がるまでは、個の中で因果が行われると説明したほうが受け入れられるのです。時には善悪の思想も絡ませて説明したほうが都合の良い場合もありました。
アッシ: 戒律はボーさん、シンプさんの為にあるのに、それを衆生に説教すんなよなあ。説法は同業者にするほうがいいし、手本は口じゃなくて生き様で示してくれよ。親の言うことは聞かないが、マネはするものさ。
新因果
御筆様: 因果は幻ですが、消すためにあるのではありません。今の心を観つめるためであり、静めるための方法としてあるのです。そして、魂の理解度に応じた段階があるのです。
ここでは次の理解方法としての因果の方便を使います。今の人間では、未だ因果(幻)
による学びが適切な段階なのです。
因果は他のものの原因による結果を体験し、そこに留まる心を浄化するために存在する。
アッシ: アッシはこの言葉をボールペンさんから書いてもらった時、目から目ヤニがゴトンと落ちました。不勉強だから因果をそういうふうに解説した言葉は一度も聞いた事がなかったし、この説明のほうが、この次元の仕組みとして納得できるからでした。
ムム、おぬし、ただのボールペンじゃあないな。せっしゃも、普通じゃあないけど。
御筆様: 他の因による果を引き受けるからこそ、意識が広がり、生きる事がそのまま他の役に立つ「行い」になっているのです。因果はこの次元の根幹なのです。
魂が他の結果を体験するとは、他の心を引き受ける事です。固まっている心の現れが結果なのです。結果を活かすとは、心を和(柔)らげる事です。同時に個性を創る事でもあります。
今生で新たに創ってしまった原因の結果は、来世で他の魂が引き受けてくれます。 この世は完璧なシステムなのです。
アッシ: 自分の心が原因を創って、結果も自分に現れるじゃないか、とお思いのアナタには、「そのとうりです」が答えだそうです。因果は多くの段階によって説明されるのだから、答え方はなんだっていいみたい。
因果だけに、いんがげん。く、くるしいダジヤレだあ。
でも、このダジャレが言いたかったから、この章を書いているんだ。ワッハッハ。
御筆様: 心が何処から出たのか思い出して下さい。体からなのです。物質界での表現では心が体を創ったのですから当然です。
別な表現では、心が体(物質)にしがみついているのです。あるいは、「神」が心を憐れんで体を与えて下さったのです。ですから、心が解放されて消えても体(神)は魂が学びきるまで残ります。
アッシ: つまり、体(場)には最初から心がセットされていて、それを魂が選んで使わさせていただいているわけだね。新たに心も創るけど、基本的には他の心の体を通じて経験するわけだ。
無所有は宇宙の理である。知識も、経験も、たとえ心であっても例外ではない(ユキウマ酋長、談)。
御筆様: 過去の自分の業(カルマ)を清算するために、この世に生まれて来たのではありません。そんな狭く消極的な生き方のために、この次元が存在するはずがありません。過去のあるいは現在の、他のものの業を味わい、超える(解放)ために生まれて来たのです。
アッシ: いつでも他人の汚れたパンツを洗濯するために生きているんだ。なるほど、汚れものを好きになるのがコツだな。ふ、ふ、ふ、それを「愛」と言うのだよ。
「愛」とは他人のパンツにほおずりする事なり。
(違うような気がするので、良い子は決してマネをしないで下さい)
御筆様: 業の清算の仕組みは、今の自分を認めると過去の「こだわり」が消えていきます。あるいは自分を除外して意識を広げると心が和(柔)らぎます。
しかし、それは過去の自分の心ではなく、実は過去の他人が生み出した心なのです。魂は他のために役立ってこそ進化ができるのです。
アッシ: 今の自分がロクデナシなのに、都合の悪い事はカルマ(他の)のせいにするのも多いね。でも一回使ったらやめられない。楽なんだ。
「アッシが悪いんじゃない。カルマがそそのかすから。」ね、便利でしょう。
御筆様: 創造とは新たなる業を生み出す事でもあるのです。とても大切なこの世の仕組みです。そして、創造は責任を負わないのです。創造は提供のみです。創造主は無責任なのです。
私は無責任です。しかし、責任をとれる人に会った事もありません。誠意と責任の区別をつけない人にはよく会いますが、誠意は責任の変わりになりません。時間を戻す以外に責任のとりようなどあるはずもない事は皆さん知っているはずです。だから行動には我を入れないように注意をするのです(スジャーロ僧正、談)。
アッシ: 私は無責任です。しかもズボラです。そのうえタワケでイイカゲンです。誠意のカケラさえ無い事は皆さん知っているはずです。だから行動には羞恥心を入れないように注意をするのです(さて、これは誰の言葉でしょう?)
御筆様: 自分の生きる事(創造)に責任をもたせようとすると、小さく歪んだ、固い人生になってしまいます。他のものの創造の中で暮らすことで、自然の流れのままに、生きる事が、和らぐ事(理解・解放)になるのです。自他共に責任は負わなくていいのです。
アッシ: 無責任に生きるアッシは人類の手本だったのだ。いや〜、そうかもしれないとは思っていたけど、マトモに肯定されるとテレますなぁ。まあ、ひかえめに、無責任道の大先生なんて呼んでくれると、さらに調子にのれますなぁ。ワッハッハ。
御筆様: 優れた魂たちが因果を方便としたのは、理の説明より生活の一方法に使うためでした。
頭で理解する事は意味が無く、魂はこの物質界では「行い」によって進むからです。そして、「行い」は暮らしの中が最高最適なのです。
アッシ: 小学生が人間とするなら、一年生も六年生もいるんだよ。さらに同学年には多くの組があって、一つの組にも多種多様な生徒でいっぱいなんだ。
一年生に因果があると伝え、六年生に因果は無いと説明しても変じゃないね。
まとめ
@ 因果と時間は絶対関係では無い。
A 因果は心の顕れであり、幻である。
B 因果は縁によって結ばれている。
C 因果が先にあるのではなく、縁によって因果が起こる。
D 他の浄化しそこねた心(果)を体験し、それを解放するために因果が存在する。
E この次元では、生きる事がそのまま他の役に立つ「行」になるよう、因果(幻)が力をもっている。
F 創造(生きる事)は自らの責任を負わない。この次元では(自分も含め)他が引き受けるシステム(生きる事)になっている。
無責任な注釈
[淀川長治]
今までに嫌な人に会ったことがないらしい。リッパな評論家だっているんだぞ。
[達磨大師]
禅宗の開祖。インドの王子様だった。
手も足も出なく、首もまわらない作者だが、決して悟ってはいない。ワッハッハ。
[アンパンマン]
登場人物の名前がストレートでいいねえ。
[ライアル・ワトソン]
自然学者。壁を崩す者には風当たりが強いみたい。心の狭い学者が多いからね。
[ダライ・ラマ法王]
不マジメな作者でさえ仏教徒に目覚めてしまうほど大きく広い人でした。
[ユキウマ酋長]
ホピ族。火の一族の長。息子は太陽族のダン・カチョンバ。ホピの預言は人類の指導書らしいよ。
[スジャーロ僧正]
ビルマの高僧との説があるがアヤシイ。作者の父だというウワサはもっとアヤシイ。