第 十 八 章   行



      行(ぎょう)

 

御筆様: 行動には心(幻)を増やす行いと、心を静める(無くす)行いがあります。

 別な角度から、自分(肉体や魂)のための行いと、他への行い(奉仕)があります。

さらに、思い、言葉、体によってそれぞれ顕しています。体の場合は、他のもの(人を含む)をを使用して行う事もあります。

いずれにしても、なんらかの意志、意識が伴います。これらが組み合わさったり、単独であったりで人間としての行動が成り立っています。

 ここでは、行動と「行」を分けて説明していきます。

 ただ動くだけでは「行」になりません。しかし、無心で動くと最高の「行」になってしまうのです。これが「行」に向かう意味であり、この次元での存在に係わる事なのです。

アッシ: 心臓が動くだけでは「行」にならない。しかし、満員電車の中で無意識に手を動かすと最高の「行」に、な、ならないで、チカンになっちまったぞ。うそつき。

 自覚しない意識が無意識で、潜在意識は働いているんだって。

無心は潜在意識さえ静まっている状態だってさ。無駄がない動きになるし、不必要なら動かないって。

 満員電車の中での無駄のない手の動き。ふ、ふ、ふ。これぞプロ。

 またチカンよ〜。

 失礼な。俺はスリだ。

御筆様: 「智」る事なしに生活をしてしまうと、「行」なしのままに時間切れ(肉体の)になってしまいます。「行」は大きな視点からの調和への行動です。

 「行」と「智」は必ずセットになります。しかし、「智」は説明も表現もしにくいのですが、「行」を表現する事で顕す事ができるのです。

「智」はこの次元における「行」でもあるからです。

 「行」は特別な行為ではありません。単なる日常生活のすべてが「行」になります。

しかし、何一つ「行」にならない日常生活にもなります。

アッシ: またまたイヤラシイ禅問答のようになってきたぞ。

あれって答える側はどうせ間違えるんだから何でもいいけど、問う側の品性が非常に厳しく顕れるんだって。だから問う側が試されてもいるんだ。

 アッシは下品だけだから、いまさら品性なんてどうでもいい。優越感に浸れるならエラソーに問いてみたいんだけど、問う内容さえわからねえ。ひねくれた問答だもんね。やっぱり、素直が一番かなあ。

御筆様: まず、肉体を維持存続するための行いがあります。食べる。眠る。息をするなどの最小行為です。貯める事のできない行いです。少ないと長生きをする傾向があります。

 粗い波動の心が大勢を占める程、それぞれを多く行い過ぎてしまい、肉体の維持存続に弊害をもたらしてしまいます。

心の不満が大きくて多いと、肉体のバランスを狂わすような行いになってくるのです。つまり、肉体のバランスが崩れている時は、原因の一つとして、心の不満が大きくて多いという事があるのです。

 ここでの「行」は体のリードで心を静める(無くす)事をいいます。体と心の関係は、リードした方にもう一方が従います。原因が心の場合は、体への行いからが調和に向かいやすいのです。

アッシ: なんか大層に聞こえるけど、「行」ってのは決して難しい事じゃないんだ。難しくしているのは、それだけ本人の無知無能さを顕している証拠。

  優しい行いが難しいのは、優しさを邪魔する悪心がある。修行ははその事に気づく意味があるのだ(役小角、談)。

 目の前の人と愛を分かち合うのに、考えている暇はないのです(マザー・テレサ、談)。

  ご冥福をお祈りさせていただきます。

 


     行と心

 

御筆様: 心の不満を心で満足させようとすると、一時的な満足感しか得られなくて、結局不満の心を深く複雑に潜らせてしまいます。

 心の満足ばかり求めていると、体の喜びや生命の喜びに向かえなくなります。それは、「求める」事自体が心の不満から出発しているからなのです。心には解放や理解が必要でも「得る」事では静まらないのです。

アッシ: 離れて観ている、もう一人の自分に比重をかけていくのがコツらしいよ。ところが、最初はこの自分が見つからないんだ。コツをつかむコツはないもんかねぇ。

  テクニックではない。コツは愛した対象が教えてくれる(魯山人、談)。

 コツは骨だ。コツがつかめぬうちは格好もつかねえ(菊五郎、談)。

 健康のコツが抜けているぞ(骨粗鬆症、談)。

 

御筆様: 心(幻)を増やす行いがあります。魂レベルで観た場合、この次元では心を静める事無くす事)が「行」なのですが、神レベルで観た場合は、無くす事と生む事の二つがセットで「行」となります。

心を新たに生む事で、新たな魂が学べる「場」が発生し、この次元は循環できるのです。

 心は主に頭脳で生み出します。人間社会では自然に心が増えるのですが、自然に心が無くなる(静まる)のは稀です。ですから、心を無くす事がポイントになるのです。

アッシ: 心を増やすと言っても大きくするんじゃないんだ。大きくしてしまうと、争いと破壊という衝突だらけの世界になってしまうから、心の種類を増やすという事さ。

  争いと破壊から新たなるエネルギーが生まれる(チェ・ゲバラ、談)。

 争いと破壊からは何も生まれぬ(マハトマ・ガンジー、談)。

 タオから一を生ず(老子、談)。

 なんで生んだ(反抗期、談)。

 おまえが必要だからだ(転輪王、談)。

アッシ: 反抗期の子の親はこう答えてね。

 

御筆様: 他への行い(奉仕行)があります。初期の奉仕においては、他への行いと同時に心の気づきが伴います。普段は隠れている傲慢や欲や怒りや無知などの心が、奉仕によって浮かび上がってくるのです。他への行いは自己の気づきなのです。

 心が無くなって(静まって)から、さらに深い「行」が始まります。

アッシ: 肩の力が入っちゃうと奉仕にならなくて、結果的に余計なお世話と大きなメイワクになるんだ。

奉仕には感謝がつきものさ。奉仕をする人が感謝だぜ。させていただくんだから。嫌ならしない方がいいんだぜ。お互いに。

  風に飛ぶ胞子(奉仕)の姿(大燈国師、談)。

 あなた好みの女になりたい(カルーセル・マキ、談)。

 

御筆様: 「行」を愛の行いとも表現できます。「行」と我の中で思っている愛の行いとの違いは、いかなるものについても「こだわり」があるかどうかで区別できるのです。

 心が無くなると「智」を受振できるというよりも、「行」ができると同時に「智」が染み込んでいるのです。この次元では「行」と「智」は一体なのです。

アッシ: 利害関係以外に尽くすのが奉仕じゃないんだってさ。利害関係という思いを超えて尽くすのが奉仕なんだって。ここがポイント。

つまり、己の肉体であっても身内であつても、所有感や所有欲から離れての行いができれば「行」になるってこと。

 日常生活が「行」になるのが、その魂にとって一番望ましい方法なんだ。

  己が行ずる事以上の指導はない(龍村修、談)。

 


     まとめ

 @ 「智」と「行」はセットになっている。

 A 心を無くす行いが「行」になる。

 B 他への行い(奉仕行)は自己の気づき。

 C 愛の行いを「行」という。

 D 日常生活そのものが「行」になるのをめざす。

 

    無責任な注釈

  [役小角]

 修験道の開祖。パワーが強すぎて時空を超えたといわれる、謎の人。あれ? 誰かと似ているねえ。空海さんの(波動的)祖先?

  [マザー・テレサ]

 とても私ごときがコメントできません。

  [魯山人]

 いい味があってこそ作品といえる。美味しんぼ。

  [菊五郎]

 桜一郎、竹二郎、梅三郎、松四郎、菊五郎となるんだ。

  [チェ・ゲバラ]

 戦い好きな革命家らしい。

  [マハトマ・ガンジー]

 戦い嫌いな革命家。ヨガ聖者。

  [老子]

 西洋哲学者より東洋哲学者の言葉のほうが味がある、と感じるのは身びいきかなあ。 

[転輪王]

 この世を転がすのを仕事としている。

 [大燈国師] 

 何かを悟って乞食さんになる。作者は何も悟らぬが乞食さんになりそう。この違いは大きいなあ。

  [カルーセル・マキ]

 男性出身の女性らしい。

  [龍村修]

 ヨガ行者。精神世界指導者。作者の師匠とのウワサがあるがメイワクだろうなあ。

 

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