第 二 章   体

 

 

      体は神?

 

御筆様: 人間の物質体、つまり肉体を例として体と表現していきます。

 体は完全体です。この次元の仕組としての完全体です。物質界では一定時間、器として存在します。完全体だから不良部分などありません。完全な反応をしてくれています。常に魂のリード役をしてくれています。病気やケガや快や痛みも体が完全だから起こってくれるのです。あるいは必要だから起こってくれないのです。

アッシ: ここで「反応」の意味が出てきましたねえ。オヤゴコロってやつかな。

「反応」は結果じゃなくて、ちょっと未来の先導役。どう?この言葉、少しはためになる?

御筆様: 波動は同じか近くのものしか共鳴や干渉が出来ないので、魂が進化するには違う波動と接触出来る、極めて幅の広い波動体が必要であります。それが物質界自体の存在理由の一つでもあります。

 多種多様な物質体がこの世界にあるのは、魂の大きさ(自由さ)により適確に進化出来るためです。つまり魂が必要なだけ物質体があるのです。必要でない物質体はないし、必要でない現象もないのです。

 しかも魂は大きくなるにしたがって、融けて(解けて)広がる性質のために、物質体も一つの物質体から色々な物質体が統合された「場」を器としていきます。正確に表現すれば(本当は正確に表現なんかできない)、物質体はすべて「場」なのです。体とは「場」の別称なのです。

アッシ: かんじがおおいってのはよみずらくありませんか? ひらがなばかりもおなじだけど。

 むずかしそうなかんじをいっぱいつかうと、なんだかかしこそうにみえませんか?

  観ようとするかぎり観る事はできない(無明禅師、談)。

 

御筆様: 大きい「場」の魂は、その内部に中の魂が含まれていて、その内部に小の魂が含まれているという構造になっています。例えば、大いなる魂は銀河宇宙であり、太陽系の魂もその中にあり、地球の魂もその中にあり、地上の魂達がいっぱいいて、我々人間の魂もその中の一つなのです。一つの肉体の中には臓器の魂があり、幾つもの細胞の魂や微生物の魂などがあります。

 「大いなるものに抱かれて我々がある」とはそういう意味です。しかも、すべて同時に流れているのです。体は魂の進化のために用意されている「神」の現れという表現もできるのです。(神については後で記す) 

アッシ: 体を粗末にしてきたアナタ、罰当たり。な〜んて事はないよ。「神」は罰を与えるような不完全なものじゃないよ。すごく太っ腹なんだぜ。体は純粋に間違いなく必要な反応をするけどね。

  粗末とはアナタのためにある言葉(妻、談)。

 それを言っちゃあおしまいよ(寅さん、談)。

アッシ:  男は傷つきやすいんだい。グスン。

 

御筆様: 体は神の現れ、魂は己なのです。そしてサポートをしてくれるのは「おおいなるもの」(神とは区別しています)なのです。魂より体のほうがずっと大きいのです。体のほうが大きいから魂に合わせて変化していくのです。大きいものや強いものというのは、主導権を行使する、という意味ではないのです。勝手にコントロールをするのではないのです。

 「おおいなる」とは、小さいものや弱いものの言うことを聞くという意味なのです。

アッシ: う〜ん、このあたり、エライ人に読ませたいなあ。そう思いません?

  無駄なことはやめろ(経営者、談)。 

アッシ: 無駄も大切だと思うけどなあ。


 

      体の役割

 

御筆様: どんな魂でも進化の方向性をもっています。その魂の方法を許す(認める)のが大きいものの性質です。そして、その時に小さいものから学ぶのです。物質体を通じて己の修正方法を。修正とは解放の事です。己が解放されると「場」が和らぎます。「場」が和らぐと小さいものはさらに小さいものから学ぶ余裕が生まれます。

 リードをするのは神(ここでは物質体)のみですが、決して強制はしません。また、我々は導かなくてもいいのです。やすらぐ事だけで十分です。

 そして如何なるものからも(おおいなるものも含めて)強制されることもありません。我々は常に「おおいなるもの」からサポートという波動に包まれていますが、受け入れるのは自由なのです。

アッシ: 「神」も「おおいなるもの」も強制しないのに、人間は立場の弱いものには命令をしたがるんだなあ。でも器が小さいんじゃなくて、魂が小さいんだね。

 魂が小さくてもいい。たまには命令してみたいなあ。

  あなた! 早くゴミ捨てて来て!(妻、談)。

アッシ: あっ、は、はい。

 

御筆様: 体は神の現れだから、私の体と石の体。アナタの体と星の体。水の体と宇宙の体のすべては同じものだと表現出来るのです。体はその体を使わさしていただいている魂の先生でいらっしゃるのでござりまするのじゃ。(なんか言葉使いが変だなあ。ソンケイ語とケンソン語は苦手であらせられまする。)

 肉体に宿らさせていただいたという意味は、肉体にとらわれるな、という意味ではなく、肉体から教えていただきなさい、という意味なのです。

アッシ: ここ、よく間違えやすいところだっておっしゃってます。しかしペンに敬語を使うの、アッシぐらいだろうなあ。

  すべてが敬いの対象なのです(沖聖師、談)。

 

御筆様: ことさら肉体にとらわれないように努力しても、一定時間が来れば必ず肉体から出なくてはならないのです。この事実からも、肉体から最大限教えていただきなさい、という事が解るはずです。

 同じ意味で心(幻想、煩悩、我執)から離れようとするより、学ばさせていただく事が大切なのです。心は自分が幻だと知っているので寂しいのです。寂しさは理解されると消えるのです。理解されるとは解放される事なので、何でも解ると消える仕組みになっているのです。

 煩悩や我執を消す事が目的ではなく、理解をすると自動的に消えてしまうのです。消す事を修行とすると、時間の無駄遣いになります(本当は無駄遣いも無いけど)。この次元は理解する方向性のすべてが「道(タオ)」となります。

アッシ: ん? タオってなんだ? なぜか怪傑ハリマオを思い出すアッシです。

御筆様: 肉体もその魂が今生において、その肉体で教わる予定の事をすべて終えると消えるのです。あるいはその肉体で現す予定の事をすべて終えると消えるのです。肉体自体の寿命がまだ残っているように思えても人が死ぬのはそういう意味です。

アッシ: 天才と美人は早死にをする。アッシと貴女(あなた)は長生きをする。これってラッキー♪

御筆様: 肉体は完全体です。肉体はその分解予定時間までに魂が学ぶべき事のすべてを備えているだけではありません。「おおいなるもの」との扉でもあるのです。人間の魂にとっては無尽と表現できる智恵の門でもあるのです。なにかの弾みで門を覗いた魂が一瞬の悟りを得るのは肉体があるからなのですが、往々にして肉体を超えたからだと考え違いをするようです。

アッシ: どんな人でもその一生の中で、一瞬の悟りのない人なんていないんだって。悟りが無いなんてあり得ない仕組みだってさ。「悟り」って特別じゃあ無いんだぜ。

 あれ? アッシはそんなの無かったなあ。えっ、あんたも。どうやら我々は珍人類かもしれませんな。

  珍人類は万物のテイノウに君臨するのだ(バカボンのパパ、談)。

 

御筆様: 肉体を超えた場合は人間では無くなります。しかし、肉体を離れた事と超えた事との混同がほとんどです。「超える」とは理解を完全にした状態をいいます。肉体は時間と共に新たな変化を魂に示してくれます。つまり天寿をまっとうするのが肉体を超えるという一つの条件になるのです。

アッシ: 自分で「悟った」なんて言っちゃあおしまいよ。悟ったら後がないんだぜ。迷い人の救済なんて役目じゃないんだぜ。「悟」は「誤」。「自由」は「柔」。

御筆様: 優しく表現をするなら、肉体を最後まで十分に楽しむ事こそ人間の務めなのです。いじめる事では間違いしか学べません。だから病気が教えとしてあるのです。

 魂は肉体の所有者ではありませんが、管理のほんの一部を任されています。管理は学ばせていただくためのものであり、支配ではありません。

アッシ: 理屈で説明するから難しそうなんだけど、ようするに普通に暮らせばいいわけだ。考えるとロクなこたぁない。「体(からだ)」は「空だ」。「体(たい)」は「怠」。ナマ

ケモノのアッシの体の使い方は正しいのだ。

  頭は使わず、体から聞きなさい(良寛、談)。

 

御筆様: 体(物質体)のもう一つの特徴は、名前があることです。本来、体は物質界と一体なので、名前によって区別をする必要があるのです。「こだわり」の対象を区別するためです。つまり、名前は心のために付いているのであって、体には必要無いものなのです。

アッシ: 我輩はペンである。名前は無い。我輩の世界では名前がないのが普通である。

でも、筆ペンに生まれたかった。そうすれば、もう少しマトモな人間と接触できたかも。ってか?

  弘法大師は筆を選ばないけど過ちはするんだぜ。気にすんなよ(作者、談)。

 


   まとめ

 @ 体は完全反応体であり、魂の器である。

 A 体は魂よりずっと幅の広い波動体である。

 B 多種多様な魂には多種多様な器が用意されている。

 C 体は「複合場」である。大きな「場」は小さな「場」を内蔵している。

 D 体は「神」の顕れである。離れるのではなく、教えていただく対象である。

 E 体には名前が必要である。しかし、それは「心」のためであり「こだわり」の対象を区別するためである。

 

 

    無責任な注釈

  [無明禅師]

 作者の創作人物である。同名の禅僧がいたかどうかは知りません。

  [沖聖師]

 沖正弘。沖道ヨガの始祖。自他の生命を活かす生活総合求道ヨガの指導者だったらしい。 

[バカボンのパパ]

 赤塚不二夫氏「天才バカボン」の登場人物。バカボンとハジメのお父さん。作者のあこがれという説あり。妻が優しいからだ、なんて邪推してはいけない。

  [良寛]

 実践求道禅の高僧。非常に優しかったと思う。ネコを袋に入れてサッカーなどしていないと信じているが、やったかもしれない。高僧は結構いいかげんだからなあ。

 

第二章は終りです。ご苦労様でした
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