第 八 章   氣


      氣は波動?

 

御筆様: ここでは「氣」を意志や意識の波動と定義しておきます。

 細かく表現すれば、意識は受振(信)で意志は発振(信)なので意志の波動となりますが、ここでは意識の波動を不定方向として意志の波動を定方向とします。

 本当は「氣」は波動ではなく、この次元では、波動によっても自在に出現してくれる、「神」の構成素なのですが、人間レベルでは波動としたほうが説明しやすいのです。

アッシ: 通常に使われている意識の意味が、隠れた意志の事なので表現しずらいとおっしゃっておられます。本当の意識は「無」なんだって。

 「無」とか「空」とか言われちゃうと、何かすご〜い意味深いよ、な、インチキ臭いような感じになっちゃうんだよね。本当は誰も解んなかったりして。

あっ、いけない。また本当の事をさりげなく書いてしまった。

 人間でいる限り真の「無」とか「空」なんて誰も解んないのが当たり前。だって解った時は人間をはるかに離れているはずだもんね。もちろん、誰でも何時でも「無」とか「空」に抱かれて暮らしているのが事実なんだけどね。

 それでも悟りを開いたと言う人、エライ、スゴイ、テンサイ。テンサイは呆れた者に寄ってくる。(またまた、するどい指摘。謎の作者はテンサイか?)

御筆様: 「大いなる魂」(神とは別)からの波動は、それが意志であれ意識であれ、それぞれの物質体(人間なら肉体)が受振します。魂単独あるいは光体では、あまりに波動レベルが違うと接触出来ないので、波動範囲の広い物質体を中継装置として授振します。

アッシ: 意志体はあるけど意識体は無いんだってさ。だから「大いなる意識体」じゃあなくて「大いなる意志体」が正しい表現だって。

 ここでは普通に表現しているけど(普通じゃないってば)、「意志」は「こだわり」だからどんどん消えていくのが魂の進化の方向で、「神」は意志が消えた状態なんだって。だから意識だけしかないんだけど、「純粋意識」は「無」だから「神」は「無」そのものだってさ。 

 表現が前と違ってもあまり気にしないでね。アッシはぜんぜん気にしてないもんね。表現は変わっていくのがまともな解説なんだから。もっとも、まともな解説なんて無いけど。

 ああ、なんという、いいかげんな文章なんだろう。自分で自分を褒めてあげたい。

御筆様: 「大いなる魂」はレベルが上がれば意志も薄れていくので、高次のものほど波動は伝わりにくい事になります。高次になるほど時間にも空間にもとらわれなくなるので、修正の必要性を感じなくなるためです。

アッシ: 「神」に近い「神さま」ほど何も言わないって事だな。「神さま」から遠い「〇〇さま」ほどあれこれ指図をするわけか。自称「強い神の意志」なんて、アッシは怖くて解説できない。まあ、エラい人は聞く耳を持たないから何言っても大丈夫だけどね。

 ということは「ペンさま」なんて大したこたぁねえぞ。もっとも俺様につながるようじゃ正体はミエミエだけどね。

  オマエとつながって、芯(インク)から後悔している(ペンさん、談)

 アッシ: もう遅いぜ。ワッハッハ。嫌がる相手は離したくない。ワッハッハ。

 


      真氣と我氣

 

御筆様: 「大いなる魂」でこの次元の最上級の創造主からの波動を、ここでは特に「真氣」と名付けておきます。

対して受ける物質体(肉体)からの波動を「我氣」としておきます。

 我氣は個々別々なので当然物質体の数だけ種類があります。そして一つの物質体は多くの魂の集まった「場」なので、一つの我氣は複合我氣になります。そのため、良し悪しはもちろん、高低や強弱さえ決める事はできません。

 しかし、仮として一つの我氣に限っては生命の流れに一致する方向に働く氣を良い氣、その逆を悪い氣、精妙または智的に向かえば高い氣、粗くて物質にこだわるのを低い氣、エネルギー的に強い、弱いなどと表現する事はできます。

アッシ: 当たり前だけど、自分の氣と一番エライ「神さま(神と区別してね)」の氣を一緒にしちゃあズーズーシイよ。ついでに、真氣と神性もちゃんと区別してね。

 個人的にはクソミソ一緒、ハチャメチャ大好き。

  クソを思ってミソをなめるな(祖父の遺言より抜粋)。

 

アッシ: ミソ好きなのに、意識しちゃうじゃないか。じっちゃんの意地悪。

 

御筆様: 真氣はこの次元のすべてをサポートするただ一つの質しかなく、自動的にエネルギーにも情報にも変わりますが、本質は「調和」に添った極めて緩やかな意志です。この次元のすべての我氣を包み込んでいます。したがって、いつでもどこでも真氣を受振(信)し我氣を調整する事ができます。

アッシ: とにかく我氣と真氣を区別する事が理解のポイントらしいよ。それで我氣は「ゴチャゴチャ」で真氣は「エラい」、と覚えておけばいいんだろ。 

  区別は理解の第一歩(マルクス、談)。

 理解するほど区別がなくなる(沢庵禅師、談)。

 どうすりゃいいのさ、この私(藤圭子、談)。

 アッシ: 区別は幻なんだよ。だから、最初は区別して理解するのさ。そうすると、区別が消えていくってわけ。この世の仕組みはいつでも同じ。幻を味わって、理解する。簡単だろ。もう、アナタも今日から人生の達人。

 ところがドッコイ、そうは問屋が卸さないんだ。独占禁止法でも卸さないって。

幻の大王、「心」の理解(解放)が難しい。「心」の解放なくして、他の幻の理解は不可能なんだ。だから、人間やめられない。ワッハッハ。

御筆様: 「神」は「すべて」そのものだから、自らを示す必要は何も無いし「自」というものも無いのです。意志がなく、意識も「無」の状態だから氣という波動を発する必要も無いわけです。だから「神」と氣は無関係です。あえていえば、真氣を超えて「智」に変わってしまったと表現するしかありません。

アッシ: 「神」の氣なんて無いんだって。それに「智」って情報とか知識とかじゃあなくて、そういうものに働くエネルギーでも無いんだって。

わっかるかなあ? わかんねえだろうなあ。

アッシは「智」と無縁だけど「愚」とは友達なんだ。紹介してあげようか?

 これが愚息です。これが愚娘です。これが愚妻です。えっ、謙遜にもシャレにもならないってか。しょうがねえよ。アッシの愛する家族なんだもの。それに愚私がいれば、お似合い、鉄壁の愚家族カルテットになるのさ。ワッハッハ。

御筆様: 氣を力学的なエネルギーだけとして狭くとらえる事には注意して下さい。また、宇宙エネルギーとか生命エネルギーとかで説明できるのは、ほんの一部だけなのです。まして原子より小さい物質なんてまったくの考え違いなのです。そういう狭い発想法を変えるための対象なのです。

 氣と正面から向き合うのは、内面を変えるという大切な意味があるのに気づいて下さい。氣の正体を探るのは、この世の観方や自分の内側を修正するチャンスなのです。

アッシ: 目に見えないものを説明するのに、〇〇エネルギーという表現が好きだよね。解らないくせに解った気にさせるのが解説者の仕事だったりして。とにかく、いろんなものに変わるらしいぜ。情報とかエネルギーとか物質とか現象とか。

女心と同じで一つに限定して捕まえておくのは無理だぜ。(女心とは無縁なくせに)

御筆様: 我氣は確かに強いエネルギーを出す事ができます。この次元、特に物質界は幻に力をもたせた「場」なので、物質に働くには我氣が適しているのです。

我氣は通常、心の波動を運んでいて、混じり合っている状態なのです。あるいは、心が我氣となる波動を運ぶとも表現できるのです。

 真氣は我氣を調和に向かって変質させるのに適しています。変質した我氣は物質体へ影響を与えます。物質体の変化によって魂は学び(気づきによる心の解放)を得る事ができます。こうして、氣によってこの次元のあらゆる事象が変化し続けるのです。

アッシ: な〜んだ。宇宙エネルギーだか何だかが直接物質体に作用するんじゃないのか。

あくまで主役は我々、ボンクラ魂のためなんだ。(ここの意味、重要だって)

 


      天氣・地氣・人氣

 

御筆様: 例えば、肉体(物質体)に必要な力学的なエネルギー(狭い意味での生命力)は地球の我氣(地氣)から来るのですが、そのエネルギーを活かす(調和する)のは宇宙(神さま)からの真氣(天氣)なのです。単純に強さや質の高さが良いわけではなく、この二つの「氣」のバランスが重要であり、それは個別の肉体と魂(人間)の段階に対応するものなのです。

 この天氣と地氣を受けた個別の体が、他の様々な物質(人を含む)の氣(人氣)の間で行いを通して調和を学ぶ(愛という)ためにこの世が存在するのです。

アッシ: 天地人が別々じゃあアカンということか。地氣には地球の親の太陽も含まれるんだぜ。地球の物質の生命は地球と太陽からの「おかげ」。天氣はもっと大きい宇宙からの「おかげ」。学べるのは他人(人間だけじゃないよ)の「おかげ」。

 「氣」にとらわれると、つい強力なパワーを求めたり、やたら高尚なものを取り入れたがったりするけど、それじゃあ肉体や魂がついて行けないってば。消化された分だけが栄養に変わるわけで、栄養剤を入れすぎれば、体を壊すに決まっているじゃない。やすらぎ、やわらぎ、考えないで歩くのがベスト。

  行き着くところは惟神(かんながら、と読んでね。柿坂神酒之祐、談)。

 自然流(じねんりゅう、と読んでね。日輪法師、談)。 

アッシ: 前に、流れは質の変化だ、と教わったから意味は解るよね。

 

御筆様: 真氣に近い程「調和」に働く「やすらぎの波動」ととらえるほうが理解をしやすいのです。「おおいなるもの」なら氣も強いと考え違いをしてしまうのですが、魂が大きくなるほど広く精妙にはなっても薄くなるのです。しかし、真氣に強く反応すると、真氣が強いと勘違いをしてしまうようです。

アッシ: 氣が強いのが「おおいなるもの」なら、うちのカアチャンだって「おおいなるもの」になっちまうぜ。粗野であっても決して智的ではない。

ま、まて、話せばわかる。あれ〜。

 問答無用(阿修羅、談)。

 

御筆様: 真氣は常に流れているのが特徴です。「流れ」が質になっているからです。

 我氣は留まっているのが特徴になります。心の力(こだわり)が強いからです。

物質体そのものは真氣が流れている状態が最適となります。しかし、真氣より我氣のほうが強いので「心」が強い人間のような物質体ほど、自他への物質体と現象の影響が大きくなるのです。

アッシ: 我氣が強いうちはまだガキなんだ。でもオトナになると辛気(真氣)くさくなったりして。う、うけない。ス、スランプだあ〜。

 


      氣と心

 

御筆様: 真氣と我氣の間には対立があるわけではありません。真氣が常にベースに流れていて、その上を我氣が覆っている状態です。

 我氣は心からの波動に強く影響されますが幻ではありません。したがって心が静まっても我氣は消えないのです。その代わりに落ち着く場所があるのです。人間でいえば丹田といわれる所です。ただし、今まで言われていた丹田よりずっと仙骨側です。仙骨の内側なのです。

我氣がその物質体の落ち着くべき場所に収まっている時、その物質体が最も個性を調和のとれた状態で現す事ができるのです。何故ならば、我氣が心からの波動を受けにくく、その時に真氣と我氣の交流がスムーズにおこなわれるからです。

アッシ: 真氣の背中に我氣が乗って、我氣の背中に心が混じっているのが普通の人間の状態らしいよ。この三つの波動をゴチャゴチャに考えちゃうと、「氣」はエネルギーだという捉え方しかできないって。

特に心(幻)の波動を、混じっているからといって単純に「氣」として捉えてしまうと解説にならないんだ。「氣」を解説するのは、心(幻)を理解する(この世の仕組みを理解する)のが目的なんだから、とのことです。

 氣の研究家とか氣功師は特に注意が必要みたい。解らない事は解説しないのがみんなの幸せ。「行う」事と頭で説明する事は方向が逆なんだから。

 頭が働かなかったから氣功師になれたって事を忘れちゃダメだよ〜。

御筆様: 我氣が心の波動を運ぶ乗り物ならば、真氣は「生命(真の)」を運ぶ乗り物と表現する事もできます。また、我氣が心と混じっていると見えるように、真氣も「生命」と混じっているようにも見えます。

アッシ: 「おおいなるもの」からの波動が真氣で、「神」の構成質が「生命」だから人間から見たら区別はつきにくいんだよね。だからこういう時は、人間を離れていないと理解しずらいものなんだってさ。

アナタ、人間やめますか、人参やめますか、インゲンやめますかダジャレはやめても野菜は食べてね。

 そうだ、突然思い出したぞ。植物さんは体に良いのじゃなく、心を和(柔)らげるのに適しているんだってさ。知ってた?

御筆様: 体を守る意識が変質して心が生まれていますから、我氣と心は大変関係が深いのです。物質体の性質を顕していく波動が我氣なので、物質体があれば必ず我氣はあるのですが、小さな「場」の物質体では心が発達していません。「場」が大きくなるにしたがって、心も新たに大きな影響を及ぼせる大きさになるからです。

 心(幻想)は事象を生んで、事象を味わった魂が心を理解すると消えていくのです。その時に魂の進化の手伝いをしますが、我氣そのものは進化と共に真氣に向かって変わっていくので、消えるわけではありません。

アッシ: その物質体に最初から備わっている「我氣」のことを、「元氣」という表現もあるみたいだね。純粋な「我氣」の状態だね。本来、ガキは元気なものなんだ。

「元氣」は「真氣」と間違われやすいんだってさ。要注意だよ。

  子供からのサインは、大人しいほど悩みが深いのです(林竹二、談)。

御筆様: 心は進化の度に消えますが「我氣」は進化の度に変わるのです。ただし、その物質体が存在している間だけです。物質体はそれぞれ完全体なので、進化は関係ありませんが、魂が大きく変わる時には、別の物質体(場)に移るのです。当然、「我氣」も変わっています。

 魂が「おおいなるもの」から「神」に融(解)ける時には「氣」は無くなります。あるいは「智」に昇華します、と表現もできます。

アッシ: 抜き打ちテストの時間です。

「魂」「心」「おおいなるもの」「神」「生命」「調和」「我氣」「真氣」「流れ」「場」「光体」「智」これらを、それぞれ区別して簡潔に説明せよ。

 七十点以下は、オチコボレのシール付きで追放となります。人間の価値は点数で決まります。これ常識。もちろん、シールが付いているのが価値があり、追放されたら道が広がります。アッシは大きなシールをもらいました。ラッキーですね。

御筆様: 真氣は受ける(認める)もの。我氣は行う(顕す)もの。理想は一如。 

アッシ: どちらも考えると歪む原因。せっかく考えないで受けても、理屈をつけて講釈するからダイナシ。人間の頭は考えるように創られていないのに。人間は例外無くおばかさん。

  それでも他人よりマシだと思っている(大おばかさん、談)。

 

御筆様: 我氣を強める事と高める事は違います。心つまり「こだわり」は意志で強める事ができます。しかし意志で静める事はできません。我氣と心は(人間では)混じっていますので「こだわり」の強い人は我氣も強いようにみえます。

 我氣を高めるには、心を静めるか区別しなくてはなりません。方法はいくつかありますが、心が離れると物質体の性質(個性)は純粋になります。

 しかし、我氣を高める事と魂の進化はさらに違います。心の理解と今出来る事の行いがセットになって初めて魂は進むのです。

アッシ: 自分の事だけじゃ我氣は高まっても意味が無い。まして強い「氣」を求めるのはメイワク以外の何物でも無い。

強氣(きょうき)は狂気と凶器になるんだぜ。

 言い忘れていたけど、氣とオーラと光体の区別もつけといてね。解らなかったら聞きに来てね。住所は教えないけど。

 

 

 この「氣」の章はボールペンさんから聞いた話を、かなり自己流にアレンジしているんだ。そうしないとメッチャクチャな表現になっちゃうんだもん。

「氣」はすべて(神さまも地球も魂も心も物質も時間も空間も事象も)を区別しない、できない、結びついてる、なんて、解説にならないから。

 天氣、地氣、人氣もすべて氣(我氣)の大きさの違いなんだ。だから、この次元は「氣」で成り立っているとも表現できるんだ。

 氣はすべての元である、という古代の言葉は、物質や事象の元という意味よりずっと深いものなんだ。解説する意味さえないほどなんだから。

 解明なんて出来ないけど、「氣」に意識を向けることは、どんな立場の人であっても今生にいる意味を知る手伝いになるんだそうですよ。「神」に意識を向けるより有効かもしれないよ。

 


     まとめ

 @ 「氣」は意志と意識の波動である。

 A 高次の波動ほど深く広く染みるが強さはない。

 B 最上の創造主(魂)からのものを「真氣」として、それを受ける物質体(肉体)のものを「我氣」とする。

 C 我氣は複合我氣であり、真氣は一つの氣である。

 D 「神」と氣は無関係である。「神」に氣はなく「智」のみである。

 E 氣はエネルギーとすると理解できない。

 F 氣の理解は、この世や自己の観方を修正するチャンスである。

 G 我氣は心を運び、心は我氣を運ぶ。

 H 真氣は「生命」を運び、「生命」には真氣が流れている。

 I 我氣の元は地球であり、真氣の元は宇宙(神さま)である。

 J 我氣は真氣に変わっていくが、心は消えていく。

 K 真氣は受けるもの。我氣は行う(顕す)もの。進化によって一つになる。

 L 我氣を高めても、魂の進化にはならない。

 

    無責任な注釈

  [マルクス]

 経済学者かなあ。難しそうだから嫌いだ。

  [沢庵禅師]

 ダイコンからタクアンを発明した人らしい。

  [藤圭子]

 ロングヘアー、白いギター、ハスキーボイスの演歌歌手でした。○○○ヒカルの母

  [柿坂神酒之祐]

 天河神社の宮司さん。

  [日輪法師]

 作者の創作人物だけど、同名さんがいるかもしれない。

  [阿修羅]

 手が六本もある。顔も三つある。帝釈天とず〜とケンカしている。原因は、帝釈天が阿修羅の妹にセクハラしたらしい。帝釈天はかなりスケベらしいよ。

  [林竹二]

 教育家。立派な先生だっているんだぞ。

 

第八章は終りです。ご苦労様でした
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