やや長いまえがき

 

 見える世界だけを意識していた時代から、見えない世界を意識する時代へと変わってきました。元々我々人類は、そのほとんどを見えない世界に向き合っていた時代の方が長かったのですが、近代になって一時的に、見える世界だけを追っていただけなのです。

それはそれなりに大きな意味のある事だったのですが、事象に働く波動を調整する「調和」という機能が強く現れてきました。しかも、今回の調整は急激な段階にはいったようです。ゆっくり移行するはずの時間がかなり濃くなっています。

それにも理由があるのですが、その為には一生のうちにどんどん変わっていかざるをえません。でも決して大変ではないのです。すべては最初から用意されていて、すでに理解は済んでいたのです。あとは気づくだけです。我々は永い時を経て育てられて来たのです。

多くの先人達が表現してくれて、今も指導にあたってくれてはいますが、限りの無い世界の説明です。その事に触れる我々は、多種多様な受け取りをするのです。私のような発展途上初期の人間が、それなりに表現させられたのも意味があるのかもしれません。あるいは意味なんて無いのかもしれません。そんな事、私に解るはずがありません。

ここには私が考えたり、経験して得たり、創りだしたりしたものはほとんどありません。ペンを持つとペンさんが書いてくれるのです。しかもスラスラ書いてくれるわけではなく、表現力不足の指先を通るので迷っているようです。

別に私が迷って困るわけではないので、私としてはココゾとばかりにでしゃばります。

ところが私の出来損ないの頭を使うものですから、ますます変になります。変なものはおかしいもの。おかしいものは可笑しいモノ。というわけで、不真面目な駄洒落が目に付く文章になってしまいました。

 さすがに私も申し訳無く思い、私の頭で考えないように、ペンさんのジャマをしないようにと力を抜いていますが、部分的にしか書いてくれません。ペンさんだけでは文章の形にならないので、私がいいかげんにつないでいます。それも、たぶん何処からかの受け売りです。何処なのかは不明です。覚えてないのですから、しょうがないでしょう。

正確とか忠実とかは子供の頃から私には無縁です。いまさら性格の不備を云っても遅いのです。後悔は私の分まで親がしてくれたと思います。

 そんなわけで結局は私もつい口をはさんでしまいました。これが結構楽しいのです。もちろん私に大した内容などあるはずがありません。ペンさんには大した内容があるのかもしれませんが、私にその判断が出来るとも思われません。

とにかく、ペンさんと私の共書というかゴタ書というか。当然、私は気にしません。当然、あなたがどう思うかなど解るはずがありません。

 言葉を解説の表現方法として使うのは適切ではありません。言葉は意思疎通の道具ではないからです。言葉は「きっかけ」です。ときには整理ダンスです。ダンスですからリズムが大切なのです。

内容は受けて側にあり、使い方も受けて側なのです。表現方法として使う以上、それはすべて方便となります。どうぞ表現そのものにとらわれないで下さい。まるで別な方便を使う事は私でさえ出来るのです。本来は説明出来るものではなく、説明するものでもありません。

 一つの単語をここではこういうふうに表現します、と定義していきます。しかも断定的に定義するように心掛けました。もちろん何故そうなのか、という理論などありませんし、当然確証もデータもありません。データはないけど、データラメはあるかもしれません。デタラメと真実の区別など受け取り側に任せていますし、デタラメと真実の区別に大きな意味があるとは思えません。

失礼。書き直します。デタラメと真実を区別する事に主力を注ぐのは、人間では無理か無駄かと思っています。本当に真実ならば、勝手に自動的にイキナリ解ってしまうものでしょう。総てが真実だったら、デタラメも真実の内だし。

私は無責任ないいかげん者ですが、言葉や文字が大きな力を持っていても、そのもの自体が真実を顕したり、他を導く役目では無い事ぐらい知っています。言葉や文字を含めて、あらゆる対象が何かを超えた時に真実が垣間見える事があるようです。それもチラリと一部だけみたいです。真実はストリップと似たようなものかもしれません。

「心(幻想体)から魂(本質体)へ」という副題にしてあります。どうやら肉体(物質体)から心への案内書の次に続くものとして、一つの見方を提案したもののようです。

だから、見えないモノが有るとか無いとか、信じるとか疑うとか、そんな事には説明もしてくれません。今までの概念をとりあえず横に置いて、こういう表現もあるんだと気軽に読んで下さい。もちろん、他の参考文献などは有りません。有ったかも知れませんが、覚えていません。何しろ私のまわりには妻以外、まともなモノは無いのですから。

ややこしいのですが、私でない何かが書いていて、それを読んで私が感心するのがほとんどです。また、何かを意図したものか解らない箇所がいくつもありました。削ってしまった言葉も多くあります。それに関してモンクを聞く事はあっても、すべて従うわけではありません。私は気まぐれなのです。私は頭が悪いのです。性格もちょっと。

当たり前ですが、私は「選ばれし者」でもなければ「覚者」でもありません。年期の入った「いいかげん者」です。だから『神』なんていうテーマをエラソーに説明できるのです。私が理解しているわけではないので、何でも平気で解説できるのです。

内容を理解するのが目的ではなく、和(柔)らぐのが目的のようです。

どんな魂もその意思が自由であるが故に迷いながら進んでいます。その性質としては進化に向かっているので、自らの進む方向を探しているかのようです。迷っているか,迷いが消えているかという表現を使う事もできます。そして魂たちは千差万別です。どんなキッカケで迷いが消えるのか一様ではないのです。

どこかの誰かが読んだ後でほんの少しでも世界が広がったなら、その瞬間、私の魂は嬉しがるようです。これは誰でも同じシステムです。どんな魂も他の役に立ったなら、己の存在の確認と喜びが同時に起こるのです。と言ってます。

もし非難があるのならペンさんにどうぞ。感謝があるのなら私のほうへ。こんな気楽な事でいいのでしょうか? 善いに決まってます。「気楽」は善。「苦労」は愚。私の力では無いからこそ喜びは大きいのです。

ああ、マジメに書いたら息苦しいわい。も〜ダメ。(これでもマジメだったんだよ)

それにしても私にとっては難しい内容なんだよね。ペンさんによれば『考えるから難しくなるのだ』というんだけど。あなたはどう思います? えっ、まだ読んでいない? かなりメンドウくさいよ。

はったりをかませば、解る人にとって目からウロコの落ちるような内容です。解らない人にとっては頭にフケがたまるような内容です。たっぷり深読みをしてみてください。深読みなんて素直にかないっこないと気づくでしょう。ワッハッハ。


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