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  立夏・小満
05/01 (日)

春分の日を0度として一日1度上がる太陽の角度。
これを黄経という。
90度が夏至で、180度が秋分の日となる。
270度は冬至で、360度で一回りする。

5日分を一侯として一年では七十二侯。
立春(315度)が一侯で5日毎にニ侯・三侯としていくと、
十侯目が春分の日(360度)になる。
5日づつだから、とても細かい気候を表す。
自然を愛情細やかに見ていないと、言葉を作れない。

15日(三侯・15度)を「一気」といい「節」とした。
だから気候という。
「節」は七十二侯の三分の一になる。
だから二十四節気という。
一つ一つが生活に密着した気候言葉だ。

春分の日から45日目(45度)が「立夏」だ。
だいたい五月五日あたりになる。
2・3・4月が春だから、5・6・7月が夏だ。
季は初・中・晩に分かれるから、五月は初夏になる。

それにしても細やかな季節・季候言葉だと思わないか?
生きとし生けるモノ達が喜ぶ言葉だと思わないか?
生活に活かして使うモノ。
「いのち」を活かすモノ。
こういうのが「智慧」というんだ。
現代は・・・「智慧」を捨てている時代なんだ。

「早い・速いのが価値(勝ち)」だと思い込んでしまった。
「いのち」は速くなると、早く滅亡する。
早めると、生物の未来は閉ざされる。
人間は・・・滅亡したがっているように思える。

「立夏」から15日経つと「小満」だ。
春に疼いた(卯月)「生命の氣」が形になる。
春に始まった何かは、夏に伸びるのだ。
「小満」はそういう意味がある。

苦しみ、悩みは埃のようなものだ。
自然に付くが、払えば取れる。
埃は(自分で)一年中払えるが、
払うには生命力の活性化が必要だ。

五月。
生命は伸び盛りの時期になった。
季節の応援もある。
大丈夫だ。
夏は始まったばかりだ。

  集中と執着・1
05/02 (月)

どちらも力が入っているなぁ・・・。
「集中」と思って「執着」になる。
最初は「集中」だったのに・・・
いつの間にか「執着」になる。
よくあるパターンだ。

「集中力」を高める。
「集中力」を強める。
無条件で「いいこと」だと思ってしまう。
ところが「集中力」が「力」だと思うと、
大抵は「執着」になるようだ。

「集中」する事は自分が主体だ。
対象の「氣」を自分側に集める。
自分の「氣」を対象に集める。
自分の心のコントロールができている状態だ。
コントロールは「やわらぎ」が土台になる。

「やわらぎ」が広いほど、
「やわらぎ」が深いほど、
「やわらぎ」が大きいほど、
コントロールは自由度を増す。
当たり前だよねぇ・・・

「集中」が「やわらぎ」次第だと気づいたのは、
ワシが「氣の世界」に入ってからだ。
(ワシの場合は「やわらぎ」っぱなしで集中が無いかも)
それまでは集中は「力」次第だと思っていたからなぁ・・・
「集中力」は「力を入れる事」だと思っていた・・・。

「力」が強まると、例え結果が出ても「質」が伴わない。
質を見抜けなくては、さ迷ってしまうものだ。
「集中」の目的は「本質」に近づく事なのに・・・。
結果に踊らされて、質を勘違いする・・・。

ワシも勘違いの連続だった・・・
「力」を「結果」に集中させていた。
「集中力」は「力を抜く事」だと気づけなかった。
「集中」に「時間」は関係しないと、気づけなかった。

故御師匠様が言っていた。
「一瞬で変わる。時間じゃない」
今は理解できる。
出来るが、簡単には出来ない。
その「一瞬」が行えるまで、時間がかかる。

ワシも求めるモノがある。
求める境地がある。
だから「集中」が必要だ。
だが、ワシの100時間は「集中」じゃない。
「集中」できるまでの「あがきの時間」だ。

「集中」は「一瞬」だけだ。
「力」は、使わないといってもいい。
「力」は、使わない事に気づく為にもある。
この世の仕組みはヒネクレている・・・

だから・・・集中は「やわらぎ」次第だ。
まだまだ、ワシは・・・硬い。
(い、いや、一部はかなり柔らかくなった・・・。
だが、そこが何処だかは詮索するなよ・・・)



桜が散っている最中です。では、一句。

  舞い降りる 花びら札なら 嬉しいな・・・

  集中と執着・2
05/03 (火)

「集中」は自分が主体だが、
「執着」は対象が主体だ。
執着しているのが「自分」だから、
自分は従体(奴隷)となる。

対象に「氣」を取られる。
自分を見失っている事に気づかない。
(だから執着と集中の区別もつかない)
心のコントロールがきかない。
奴隷に自由はないのだ・・・。

「集中」が「やわらぎ」なら、
「執着」は「こだわり」だ。
いつでも「や〜めた」とできるのは「集中」
「絶対あきらめない」のは「執着」

(ここで勘違いしないでね。
固定概念でとらえないでね。
「集中」が良くて「執着」が悪いわけじゃない。
そんなの、好みの生き方だ。
奴隷でも女王様でも好きに生きてくれ)

特に「生への執着」
全体的に生命力が落ちている現代は、
持って欲しいと、ワシは思っている。
(性への執着は持たなくてもいいが、
大切に優しく関心を持って欲しいと思う)

今まで根性が無いと「集中」出来ないと思われていた。
ところが「集中」が「やわらぎ」次第なので、
根性が無くても関係ないと気づいた。
根性は「集中」よりも「執着」に適している。
根性と「こだわり」はラブラブかもしれない。

何事にも根性の無い人がいる。
でも好きな絵に没頭できたりする。
そして、とても素敵な絵が描ける。
絵に集中しているが、根性で集中しているわけじゃない。
根性の集中じゃないからこそ「本質」に近づく。
だから、絵も素敵になるのだ。

根性は「力を入れる」には適している。
「力を抜く」には不適切のようだ。
不適切なのはワシの文章の表現のようだ、って? ホットケ!
(う〜m・・・一人ツッコミはキレが無い・・・
も一つキレの無いモノもあるだろう、って?
う〜m・・・容赦の無いツッコミは嫌われるぞ・・・
若ぇ衆は、侘びと寂びが理解できてない・・・)

今日の雑記は「集中」出来ない。
集中出来ないのは、何かに「執着」している証拠だ。
そうかぁ・・ワシにも「執着」する根性があるんだぁ。
根性無しかと思っていた・・・
少し・・・ワシを見直したなぁ・・・

  集中と執着・3
05/04 (水)

自分が主体の女王様(集中)だろうが、
対象が主人の奴隷(執着)だろうが好きでいい。
エスカレーターの人生も階段の人生も好みだ。
だが女王様に成りたいのに奴隷になるのは間違いだろう。
それは・・・マヌケすぎると思う。

奴隷になるのは難しくない。
人は「力む」のを得意としている。
「しがみつく」のは誰でも出来る。
「こだわる」のは簡単なのだ。

ワシは奴隷より女王様が好きなのだ。
だから執着の方法など、どうでもいい。
集中の方法を書きたかったのだ。
女王様だらけの世界が好きだからだ。
奴隷ばかりの日本には・・・厭きた。

女王様になるのも難しくないが、
「力んだ」女王様は優雅じゃない。
歯を食いしばった女王様は偽者だ。
努力と根性では女王様に成れないからだ。

奴隷に成るのに「勇気」は必要じゃないが、
女王様に成るには、ちょっとだけ必要だ。
持っているモノを「手放す勇気」が必要だ。
女王様はケチでは成れない・・・。

集中は少しの「手放す勇気」が最初にある。
「こだわり」を手放す勇気が最初にある。
それほど大きな勇気じゃない。
手を開けばいいことだ。
手は・・・心だ。

手放すと解る。
持っていたモノが重かった事に気づく。
だから、放せば肩の力が楽になる。
「やわらぎ」は「力み」を開いてからだ。

この世の仕組みをヒネクレだと知れば、
「集中」が「手放す」事から始まると気づく。
「やわらぎ」が「集中」を決めると実感する。
「集中力」という言葉で「力む」から、
その時間は集中にならない。

と、ここまで書いて気づいた・・・。
そうかぁ・・・
奴隷は女王様が判らないのかなぁ?
奴隷は奴隷しか見てこなかったのか・・・。
ワシも御師匠様達に会うまでは、
奴隷や奴隷頭しか見ていなかったもんなぁ・・・

  集中と執着・4
05/05 (木)

今更遅いよね・・・・この題名の「集中と執着」
ワシ流なら「女王様と奴隷」とするべきだった。
もっと過激に、もっとイロっぽく・・・
妖しく、怪しい世界を書けばよかったのだ・・・。
御筆先様はマジメすぎる・・・

「集中」は本質に近づく為のもの。
本質を深く見抜く冥想。
能力の純度を最高に現す術(すべ)。
だから「自由」が不可欠だ。
鎖に縛られて、深く潜れるはずがない。

自由気ままな女王様だから「集中」できる。
(注:単なるワガママ女は女王様になれない。
ワガママはコンプレックスの裏側だ。
コンプレックスの裏側にはプライドもある。
いずれにしても、奴隷なんだ。)

家康の人生訓ではないが、
「坂道を重い荷物を負って上る」
こういう方法もある。
だが、移動はできるが、集中はできない。
一瞬でワープする方法ではないのだ。

人の生き方だ。
好きでいい。
だが、重い荷物を負って上る方法だけじゃない。
ホントの「集中」に努力や根性はいらない。
手放す(小さな)勇気があればいい。

体や心や魂の修正法も同じだ。
一瞬でワープできる。
ワシは故御師匠様がするのを見ていた。
人は一瞬で変わる。
イキナリ笑顔になる。

ワシは、それが見たいと思った。
そしてこの道に入った。
楽な笑顔が見たいのだ。
苦労の末の笑顔よりも・・・
お互い・・・楽だし・・・

ところが自分でやろうとしても出来ない。
何処が違うか?
「力じゃない!」と言われた意味が解らなかった。
だから不遜なワシはこっそり思った。
「そういうけど、能力の強さや量が圧倒的に違う」
若かったねぇ・・・
(い、いや、実際は40過ぎだった。訂正します。
アホだったねぇ・・・・)

何年か後、もう一人の龍村師匠の本を読んだ。
ふと「集中と執着」の違いに気づいた。
長い間の疑問が一つ融けた。
何十年も一生懸命している人がいるのに、
数ヶ月の人が上回る術のカラクリに気づいた。

ワシは天才型ではない。
もちろん、努力型でもない。
だが、結構、向いている。
ナマケモノにはナマケモノ用の道がある。

  ワープ・1
05/06 (金)

昨日までの雑記「集中」にも関連している。
何しろワシはモノグサだ。
少年期・青年期はプチ努力型だったかもしれないが、
意識は無理すると反動があるんだなぁ・・・。

20代に山岳部にいた。
山登りを少しやった。
膝を壊して、無理ができなくなり止めた。
だが、その少しの間で多くを得た。
何故、苦労して一歩一歩登るのか?

頂に行くのが目的ならば、
もっと楽で早く着く方法がある。
山によってはゴンドラがある。
金があればヘリもある。
ルートも楽なのとキツイのがある。

なのに・・・(やや)キツイ道を登る。
もう・・・マゾの世界だ。
努力して苦労して、汗と涙を流して、
(い、いや、水分が無くなり、汗は出なくなる)
やっと登った自己満足の世界に酔う。
「ボクも、やれば、出来るじゃないか!」

苦労して目的を達すると、次もしたくなる。
登っている最中は、もう止めたいと思うのに、
降りると次の計画を始めている。
あれは・・・麻薬患者だ・・・。

だからワシも知っている。
苦労して何かをする愉しみの世界。
だからって、人に薦めるほどじゃない。
マゾは、個人的な趣味の世界だ。

苦労は過程を愉しむ世界だ。
ある地点に達するのが目的じゃない。
過程が無ければ、地点に着いた喜びもない。
だが、その喜びは自分だけだ。
他の、役に、たたない・・・。
苦労するのは自分勝手の世界なのだ。

境地にたどり着くのが目的じゃない。
そこは、出発地点でしかない。
ならば・・・出発地点にたどり着くまで、
苦労して時間をかけては、申し訳ない。
本番は、その後に待っている。

出発地点までは、早く着きたい。
ワープできるかもしれない。
そう思った。
そう思ったのが、幸いしたようだ。

  ワープ・2
05/07 (土)

この世は相関関係で出来ている。
あらゆるモノがネットワークでつながっている。
重なり合う部分と個別な部分がある。
濃淡はあるが、全て影響し合っている。
銀河系外の島宇宙とさえつながっている。
(い、いや、確かめてはいないのだけど・・・)

そして、説明がややっこしいのだが・・・
同時に断絶の個々がある。
デジタルとアナログの一体世界なのだ。
「自立は共生の自覚」でもある。
この世は混合・混乱・乱交パーティだ。

意識と肉体の関係も同じだ。
意識と現象の関係も同じだ。
意識とワープ現象の関係も同じだ。
相関関係が理解しきれば、何でも出来る。
ワープ現象はこの世の理の範囲だった。

ところが意識には「固定概念」というヤツもいる。
この世は何でもアリだからだ。
嫌なヤツも可愛いヤツもいるのだ。
固定概念は変化を好まない・・・。
変化(ワープ)しようとすると邪魔をする。

だから通常の変化はその中間の形をとる。
固定概念との話し合いで玉虫色の行動をとる。
意識の動き方も、ナアナアの世界だ。
ミクロに観ればワープ(デジタル)の連続なのだが、
マクロにみればゆっくりの変化(アナログ)に見える。

人により固定概念の大きさ重さが違う。
捨てる勇気の得意不得意もある。
壊すタメライが少ないタイプもいる。
(ヤケッパチともいうかなぁ・・・)

それまで育ててきたモノ。
学んだモノ。
体験、経験した積み重ね。
そういうモノを、どこまで手放すか。
幾つまで、手放せるか。
「ワープ」距離は、手放すモノで決まるようだ。
(距離?度?単位がわからんなぁ・・・)

ヤマトがイスカンダルへ旅立った。
宇宙の彼方だ。
地球の未来を守るためだ。
コスモクリーナーを受け取り、
早く地球に戻らなくてはならない。
戻ってから、未来が開けるのだ。
途中で苦難しているヒマはない。

何処まで「ワープ」できるか?
ワシの課題でもある。
オッサンになってから入った道だ。
途中で苦労しているヒマは(あまり)無い。
(ワシでも、ちょっとはマトモな部分もあるのだなぁ)

  ワープ・3
05/08 (日)

ワープとは瞬間移動のことだ。
移動には「空間」と「時」がある。
空間の大きさを「時」とするならば、
ワープは「時の瞬間移動」だ。

「空間」とは移動する「時」という考え方がある。
「時」とは変化の単位という考え方もある。
いずれにしても、速度が一定という条件下だ。
「時」も「空間」もアナログの結界内だ。
(変化の連続をアナログという)

結界は意識で構成される。
時間が一定という固定概念が結界を創る。
結界内では、時間は一定に流れる。
通常は・・・ワープはできない。
ワープはデジタルの使い方だ。

ここで話はワープする。
(ワープできるだろ?簡単だろ?
通常じゃなければ、ワープはできるんだ)

ヤマトは太陽系内を通常航法で飛んだ。
常識内から常識外へ出るまでの期間だ。
(ワシのあがきの時間に相当する)
そこからはワープ航法を続けるのだ。
空間の瞬間移動だ。

イスカンダルは14万8千光年先(距離=速度×時間)
飛んでいたのでは間に合わない・・・。
スターシャが待っている。
美人の「早く、来てね(ハート)」は絶大だ。
オトコ(ヤマト)は、飛ぶ、から、跳ぶに変わった。
(オトコは単純、純情なんだなぁ・・・)

一回のワープ移動距離に限度がある。
ヤマトの意識(能力)にも固定概念がある。
だから、幾度もワープを繰り返すのだ。
全くの自由な意識なら、一回で辿り着けるのだ。
「やわらぎ」がワープ能力を決めるのだ。

ワシも固定概念を多少外せても、
思い切ったワープができるわけじゃない。
ワシなんて・・・まだ常識の塊なんだ・・・
もっと、もっと、もっと、自由になりたい・・・
手枷足枷の重りは、自分で縛りつけている。

ヤマトはワープ航法によりイスカンダルへたどり着いた。
コスモクリーナー(治療法)を手に入れたのだ。
ここからが出発になる。
だが、ここまでワープ航法を使った意味がある。
ワープはワープに連動するのだ。

どういう意味かは・・・明日の雑記だ。

  ワープ・4
05/09 (月)

絵を(あるレベルで)描けるようになる。
すると・・・彫刻が出来るようになる。
絵で自分を表現できるようになると、
彫刻で自分を表現できるようになる。
例えばスポーツで表現できるようになると、
その他の表現方法も使えるようになる。

一芸に秀でる境地に入ると、
多芸への道の半分まで歩いていた事に気づく。
(注:ゲイになると他(の)ゲイと親しくなる、
という意味じゃないが、似ているかなぁ・・・)

ワープ航法を繰り返すうちに、
ワープの原理に触れてしまう。
地球に帰るのもワープ航法だ。
(古代守はスターシャを選ぶ・・・)

佐渡先生(船医)の名セリフも見逃せない。
「ワープ? 特別旨いスープか?」
(こういうタイプをワシは目指しているのだが、
アレコレ理屈を書いてしまう・・・
不徳のいたすところです・・・ハイ・・・)

ワープを使う事は二重(多重)の意味がある。
ワープ航法でなくては(間に合わないから)
コスモクリーナー(治療法)は使えない。
コスモクリーナーがワープ原理の応用なので、
ワープを使えない人では作動できない。
(ちなみに、この指摘は原作には書いてないぞ。)

地球は瀕死の重体だ。
通常の治療法では間に合わない。
本来の治療法は、
「自然の秩序回復(修正)から、
自然治癒力を活性化させて、病気を治す」

この方法は、秩序回復に使う生命力がある場合だ。
残された時間が使える場合だ。
この混合世界は本質論だけでは無理がある。
机上の理論は、崖っぷちの場面に適さない。
瀕死状態は時間との競争になる。

といって、従来のアナログ方法も適さない。
瀕死の体にスタミナ剤を入れれば死んでしまう。
更に強い薬を使うのは、生命力に無理強いさせる。
一時的に目を覚ましても、後が続かないのだ。

本来の方法(自然の秩序)で時をワープする。
回復時間は後で調整してもらう。
それがコスモクリーナー(ワープ治療)だ。
だからワープができなければ、治療はできない。
(普段は使わない治療法だ)

これは回復してから回復時間を使う方法だ。
意味がわからない?
説明がメンドウになったなぁ・・・
また明日の雑記で説明しよう・・・

  ワープ・5
05/10 (火)

病は治ればいいのではない。
病から「気づき」を受け取らなければ、
「苦しみの意味」が無くなってしまう。
必ずしも「気づき」を意識しなくてもいいが、
病は、生き方が変わる為にある。
病は、更に幸せになる為にある。

幸せは、歩いちゃ来ない。
だから、歩いて行くんだよ。
(注1:365歩のマーチより抜粋)
(注2:一日一歩とは限らない。ワープがあるから。
毎日努力しなくてもいいけど、向こうからは来ない)

自力で歩けるようになる為の回復だ。
何でもワープで済ませるわけじゃない。
手助けで完結までするのは、やり過ぎなのだ。
自分で歩けるようになるまでの手伝いだ。
だから、完全回復まで治療してはならない。
(注: プロ・ヒーラーとしての意見だ。
治療者としては、別な意見もある)

ワープ治療も同じだ。
「縮めた時間」は、歩く分として残す。
ツケは後から払うものなのだ。
「最優先は命」だから非常法を使うが、
回復力がついたなら、苦労してもらおう。
ワープ(奇跡というほどじゃないが)は、
起きた「後の生き方」が大切なんだぜ。
(余計なアドバイスだけど、この事を知ってる方が起こりやすい)

イスカンダルのスターシャが言った。
「明日の幸せというのは自分の力でしか獲得できないもの」
コスモクリーナーの設計図を送らなかった理由だ。
ヤマトがワープを使って受け取りに行く。
ワープで行ったからこそ使えるのだ。

闇(病)との戦い。
苦闘の末、ガミラス星は滅亡する。
闇(病)に打ち勝って、残ったものは何か?
どんな理由があっても滅亡は悲しい未来だ。
相手が闇だろうが、不正義だろうが同じだ。
その時の古代進のセリフがある。
「戦いは間違いだ。愛し合うべきだった。」

病と戦うのか?
病を愛する(認める)のか?
立場によって治療法の違いになる。
正誤をいうつもりはないが、
ワシは愛する側に立つ。

つい、文章がマトモに偏っている。
これでは、お笑い芸人になれない・・・。
ゲイには向かないのなら、
ワープしてしまおう。
とりあえず・・・愛人宅へ・・・

  ワープ・6
05/11 (水)

「どういう修行して氣功が出来るようになった?」
たまに尋ねられる。
それほど特殊な事じゃないのに・・・。
「修行なんてしてないし、しなくても出来るよ」

氣功が出来るのは特殊じゃない。
(ワシの家族やクライアントも勝手に出来る。
ワシと接していれば、当たり前に出来る。
伝染するし、磁石みたいなものだし・・・)
だが氣功師の体になるのは(少し)特殊かもしれない。
(この違いは判る人には判るけど・・・
泳げる事とスイマーの体になるのは次元が違う)

思い起こせば最初からワープだった。
故御師匠様から氣功師の体に変えられたのは、
時間にして0.5秒以下だった。
(最後の波動調整という部分も含めて)

手でワシの頭にポンと叩いて、
「出してみなさい」
出してみなさい、って言われてもなぁ・・・
感覚は無いし、もちろん教わった事もないし・・・。
(氣功の練習というのは一切無い)

でも、とりあえず、御師匠様の真似だけした。
手を前にかざした。
真似で「氣」が出るわけないよなぁ・・・と思っていた。
感覚が伴わないと、ポーズもギコチ無い。

御師匠様は、ワシの手の前に一瞬手を伸ばし、
「ん。いいよ」
そして次の人に移った。
何が「いいよ」だか、ちっとも解らない・・・。
何度も頭やら背中やらポンポンされている人もいた。

次の日、キルリアン写真で、
独特の「氣」が写っているのを確かめた。
間違いないのだが・・・感覚が無いからヘン。
嘘とも思わないが、ヘン????
自分が変わった事が実感できない。

実感できたのは家に帰ってからだった。
元々は、ワシの母親の為に来たのだ。
氣功をすると母親が変わるのだ。
そして10日もすると、
「氣」を受ける感覚、出す感覚が出た。
イキナリ、感覚が出た。

御師匠様自身がワープだった。
ある日夢の中の老人に言われた。
「次の日から手で氣功して治せ」
(そ、そんな事言われてもなぁ)と思ったらしい。
怪しげな中国氣功師の真似のポーズをした。
効果と結果は、ものすごいものだった。

(注: 御師匠様にしても、ワシにしても、
それまでの、いろいろな出来事を端折ってますよ)

  ワープ・7
05/12 (木)

こうして文章にすると解る事がある。
そうだったのかぁ・・・ウンウン、納得!
(これだけじゃ、他の人はわからんよね。
いいの。ワシだけ解れば・・・)

内心、少し疑問があったのだ。
「何で、こんなに進めるのかなぁ?」
とても優れた御師匠様達に恵まれたが、
ワシは決して努力家ではない。
かなり独特に勝手に解釈、実行してきた。

ワシの母方の祖母、曾祖母の家系の血。
ワシの努力無しで備わっていた能力があった。
もともと浄化を生業としていた血脈があった。
御先祖様達が、気まぐれで応援している。
そう思っていたし、半分、当たっていると思う。

今回「ワープ」を書いていて、気づいた事があった。
前にも「坂道と階段の違い」に触れた事があった。
階段(ステップアップ)の方法は幾つかある。
強制的に上がってしまう事もある。

ワシのような根性無しでも道はあるもんだ。
好きで歩いているわけじゃないが、
「崖っぷち」を歩かされる。
更に・・・背中を押される・・・。
「落ちる」か?「跳ぶ」か?だ。
しょうがないじゃないかぁ・・・

何とかワープ(跳ぶ)事ができている。
いつも、ギリギリのヒヤヒヤもんだけどねぇ・・・。
そんな時にも、御先祖様達の応援があるのだろう。
「不出来な子孫だけど、しょうがねぇ」
とか言いながら・・・・。
「すいませんねぇ・・・先祖の顔、見たいですか?」
ワシは合掌しながら、こう切り返す・・・。

ワープ(階段)の道を進んでしまうのは、
ワシが根性無しだからだと思っていた。
(そ、その通りなんだけど・・・)
だが、もう一つあったのだ。
ワシは最初からワープに慣れていたのだ。
ワープによって、入った道なのだ。

坂道で伸ばせる能力も幾つもある。
坂道の方が適している能力も沢山ある。
ほとんどの能力や仕事は坂道で上れると思う。
その方が、内容が濃いのだ。
何よりも、足が地に着いている。

ところが、世の中には階段でなくては進めない。
崖から向こう側に跳ばなくては進めない道もある。
ある程度は坂道でも代用できる。
だが、その先には行けない。
どんなに努力家でも、無理な人は無理と言われる。

絵でも、武術でも、料理でも、教わって出来る限度がある。
ワープしないと、そこから先には進めない。
キチンとした先生ならハッキリ言うと思う。
「プロはアキラメなさい。お前には、無理だ。」
(商売の教室なら言わないかもしれんなぁ・・・
見極めが出来ない先生なら言えないだろうし・・・)

  ワープ・8
05/13 (金)

ワープは方法を教える事が出来ない。
坂道なら押すことも引っ張り上げる事も出来る。
少しづつでも前に進める。
だが、崖から向こう側へは本人が跳ぶ以外にない。
安全な橋は無いのだ・・・。

ワープできる素質は判る。
少し・・・バカな性格だと思う。
かなり・・・いいかげんな気質だと思う。
丸太橋を空を見ながら渡るようなタイプだと思う。
だから・・・落ちることもあるだろうなぁ・・・。
(でも慎重に渡るより渡れる確率は高いかも・・・)

考えては跳べないのだ。
距離が不明だから計算は出来ない。
向こう側は見えない・・・。
それでも、跳ぶよりしょうがないもんなぁ・・・。
(だから少しバカじゃないと無理だ・・・)
さもなくば・・・諦めて、こちら側で暮らす。

固定概念が外れると、外した分だけ跳べる。
瞬間移動(ワープ)ができるのだ。
能力は意識だ。
固定概念は、それまで培った経験や学びだ。
それを捨てられるのは・・・性格だと思う。
自分を捨てるようなものだし・・・。

机上の学びは捨てるのが簡単だ。
学問は他人からの借り物だから乗り換えられる。
この世界にいると知る。
理論はアテにならない・・・。
日進月歩というのは、アテにならないからなのだ。

捨てるのが難しいのは、経験した積み重ねの方だ。

ところが、簡単には捨てられない。
つい、昨日の続きの意識で暮らす。
(意識の)習慣や癖が捨てられない・・・。
特に経験した事が捨てられないね・・・。
苦労して得たモノが捨てられない・・・。

捨てる事ができたなら・・・
その瞬間
世界が変わる(ワープ)

「毎日、生まれ変わる」
良く言えば、そういうことだ。
「確固たる自分が無い」
そ、そうともいえるなぁ・・・

どんな生き方でもいい。
大切に育てて、大きくするのもいい。
充実の人生かもしれない。
大きくしたモノも、拾ったモノも捨てる。
波乱の人生かもしれない。
それは、それで、面白い。

「ワープ」の必要条件。
捨てるから、跳べる。
持っていこうとすると、重くて跳べない。
それだけだ。

  ワープ・9
05/14 (土)

「ワープ」の影響が相手にもある。
本人が勝手に跳ぶだけの手段ではない。
「ワープ」は「ワープ」に連動する。
「ワープ」は伝染するのだ。

出会い、接触した相手は影響を受ける。
この世は、そういう仕組みになっている。
「出会い」だけでも影響する。
更に「交流」すれば、双方が影響し合う。
意識、無意識にかかわらず、影響がある。

影響の差は「異」の差と比例する。
深い「異」と接触するほど、大きく影響する。
「力」の差ではない。
「質」の差だ。

「力じゃない」
故御師匠様が言ったとおりなんだなぁ・・・。
「エネルギーは高い方から低い方へ流れる」
こんな固定概念のままでは理解できないだろう。
生物同士が交流している意味がわからないのかなぁ。
そんな法則を本気で信じるなよなぁ・・・。
(非生物でも同じだけど、説明がメンドウ・・・)

ここに現代治療学の壁があるんだなぁ・・・
一方的に医療技術のエネルギーが流れて、
患者が回復しているのではないだろう。
医者と患者は「交流」しているんだぜ・・・。
(おっと!余計な発言です。独善です。
気にして、医者が本気で考えてくれれば嬉しいし、
患者側も受け手意識から、参加意識に変わってほしいが)

こちら側がワープする。
相手の状態もワープする。
少しも不思議な事じゃない。
奇跡でも何でもない。
「奇跡」は(固定概念が外れれば)
「当たり前」の別称だ。

深い交流になるほど、影響し合う。
深さは、お互いの信頼だろう。
深い交流は「氣綱(絆)」という。
氣綱を伝わるのは、合体された波動。

その波動は遥か宇宙の彼方から、
ある波動に共鳴し、一瞬にして呼び覚ます。
万物に共通する波動を呼び覚ますのだ。
自然秩序を促す波動だ。

ワープは、自然な法則でもある。

  佐渡先生・1
05/15 (日)

「ワープ」で、宇宙戦艦ヤマトを例に使った。
ヤマトの登場人物には様々なタイプがいた。
中でもワシが最も魅力的だと思った人物。
それが、船医の佐渡先生だ。

「ワープ? 旨いスープか?」
乗組員が懸命にワープを使えるように、
努力していいる最中のセリフだ。
だから、幾多の危機をすり抜けられた。
佐渡先生のセリフの重要さに気づく者はいない。
(もちろん、意識して言っているわけじゃないが、
沖田艦長は見抜いていたかもしれない・・・)

本名を佐渡酒造(さけぞう)といい、酒好きだ。
船医だから、ヤマトの中で沖田艦長にも命令できる。
一番自由な人物だ。
ヤマト乗組員の中では、特別な存在でもある。
組織にいて、誰からも命令を受けない立場だ。
地球の危機に旅立つ船で酔っ払っているのだ。

ロボットのアナライザーが人間に近いのは、
佐渡先生が人間と機械の区別をしないからだ。
アナライザーに酒を飲ますし・・・
アナライザーも酔って、スカートめくりをするし・・・
(森雪のスカートをめくるのは、アナライザーだけだ。
い、いや、古代進も二人きりの時はアヤシイ・・・)

佐渡先生は人間と機械の差別をしないだけじゃない。
猫とも飲み友達だ。
獣医でもあるし、宇宙人医でもある。
敵とも一緒に仲良く酒を飲む。
この節操の無さは、ワシの目指す人格だ。

ワシもこういうタイプの人に会った。
メチャクチャ、魅力的だ。
実は、それが、故御師匠様だった。
御師匠様は酒を飲まないし(飲めないのだと思う)
もう少し、マトモだけど・・・。

ワシが(僅かの期間だったが)見た御師匠様。
人間の差別、いや、区別をしなかった。
フリーターと首相の区別をしないだろう。
どんな立場でも同じにしか見なかった。
どんな国の人であろうとも区別しない。
老若男女、美形不美形、貧乏金持ち関係ない。

それだけなら、ワシも近い。
氣功モードに入れば、自分の気持ちは隅にいる。
ワシの最も嫌いな威張った政治家タイプのオッサンでも、
氣功の時は美女との区別がほとんどない。
(注1:美女は特別好きでもないが、社会的比較としてだ)
(注2:といって、美男が好きという趣味もないぞ)

  佐渡先生・2
05/16 (月)

佐渡先生と故御師匠様の共通点。
差別しないのは人間同士だけじゃかった。
差別しないというより、区別しないのだ。
そんな事はどうでもいいのだ。

佐渡先生は、敵と見方の区別がつかない。
猫やロボットと人間の区別がつかない。
御師匠様も似ていた。
目の前で苦しんでいるなら同じだ。
差別も区別も関係ない。
手を差し出すだけだ。

ワシが初めて出会った94年5月。
故御師匠様の氣功の時間が一日4回あった。
始まると150人ほどいた受講生の中から、
ヘンなモノが出現する人達が幾人もいた。
姿は見えないが、声をだすし、話もする。
本人の意識はあるが、口が勝手に話す。
意識はあるが、勝手に踊りだす人もいる。

故御師匠様は親しみを込めて
「オバケさん」と呼んでいた・・・。
(ある時「オバケはないだろう!」と抗議され、
今は「ヤドカリさん」に変わっている)
嘗て肉体が有ったが、今は無い存在達だ。

有体に言えば・・・死んだ人達。
故御師匠様は、この人達も差別しなかった。
生きている人も死んだ存在も同じだ。
苦しんでいるなら、手を出す。
同じ「氣」で包む。

霊を忌み嫌う人達もいる。
それは、それで勝手にしていい。
ワシだって政治家タイプは嫌いだ。
理屈でウジャウジャ言うタイプもウットウシイ。
嘘つきは面白いと思うが、卑怯者は大嫌いだ。
(嘘を自分の利益の道具にするのが卑怯者。
愉しむ、楽しませるための嘘は、当たり前)

だが、御師匠様の生き様をみて、
ワシは、とても魅力的だと思ったのだ。
なんて「いいかげん」だろう!
ワシもこういう節操の無い人になりたい。
それは、桁外れの「優しさ」だと思った。

霊に対して、脅さない。
といって、丁寧でもない。
全く普通に話している。
自称霊能者は、他の人にはわからない声を聞く。
(だからホンモノとインチキの判断ができない。
この事に関しては、いずれ書こうと思う。
大部分はインチキと勘違いだ。)

御師匠様はそんな曖昧な事はしない。
霊は肉体の声を使って話すのだ。
ワシ等も普通にそのやり取りを聞いていた。
カルチャーショックを受ける人もいたろう。
ワシは祖母の関係で驚くことはなかったが。

  佐渡先生・3
05/17 (火)

死んだ人も生きてる人も同じだ。
ワシはそう思った。
違和感は無かった。
みんな・・・結構・・・大変なのね・・・

同じだから、いろいろなのがいる。
陽気なのもいる。
鼻歌を歌いながら、踊るのが好きなのもいる。
若ぇネ〜チャンが野太い声を出すのは、
少し違和感があるかなぁ・・・

御師匠様を観ていて気づく事がある。
デタラメの部分が無かった。
「いいかげん」と「デタラメ」の違いだ。
「自由」と「無秩序」の違いだ。
自然(秩序)の大きさを広げるのが「いいかげん」
自然(秩序)が理解できないのが「デタラメ」だ。

佐渡先生も御師匠様も節操が無いが、
実に自然体(秩序体)なのだ。
そして、結果も自然に沿っているのだ。
しかも、ずっと大きな自然になっている。
自然の大きさを改めて知る。
自分の小ささを改めて知る。

常識と常識外。
節操は常識内にこだわる生き方だ。
節操が無いのはデタラメではなく、
常識内と常識外を自由に行き来できることだ。
そして、それはホンモノの自然(秩序)でもある。

垣根、壁、殻。
それらは必要な時だけあればいい。
いつでも、取り払えるし、消せる。
自分を囲うモノではない。
自分を縛るモノでもない。

壁や殻(区別)がある。
必要な時は必要だ。
だが、邪魔な時は邪魔なのだ。
だから自由に活用すればいい。

いつでも自由というのは、
区別をしない事じゃなくて、
区別を適切に使える事だと思う。
普段は区別を意識しない事がコツだと思う。

常識の中に区別をいれるから苦しむ。
無区別を普段の状態にして、
必要時のみ、壁や殻を使えばいい。
今までの壁や殻の使い方は逆だと思う。

区別が無ければ、差別もない。
平和は壁が無い状態だ。

  佐渡先生・4
05/18 (水)

そうかぁ・・・
題名の「サド先生」をSMの話と勘違いするわけね。
佐渡先生はサドでもマゾでもないぞ。
「明るい、いいかげん」タイプは平和志向だ。
時々怒るのは、生命を粗末にするからだ。
平和は「生命最優先主義」で保たれるのだ。

最近SMに傾倒する人が多いと思う。
心の中は愉しさも寂しさも怒りも優しさもある。
ところが、充実感が少なくなり不安と不満が増える。
この状態で生命力が低下すると、M(マゾ)になる。
刺激で充実感を補おうとするからだ。

生命力が強いまま不満が続くと、S(サド)になる。
他への虐待で不満を紛らわせようとするからだ。
Mは最終的に自殺につながる。
Sは最終的に殺人につながる。
いずれにしても「生命の軽視」なんだ。

趣味の段階ならいい。勝手にしてくれ。
ところが心に直接影響する趣味は危険なんだ。
例えば偏った瞑想法。
瞑想法を追っかけると、迷走することが多い。
単純に「瞑想は素晴らしい」などと思わないでね。
本来は「冥想」の為の「瞑想法」なんだから。

SMは体を刺激しながら、心を変える趣味だ。
しかも刺激は奥に進みたがる傾向がある。
満足を求めているようで、不満足を掘り下げてしまう。
だから・・・最終的には「死」に至るのだ。

体の満足は「やわらぎ」から得られる事を知らないからだ。
心の満足は「やすらぎ」から得られる事を知らないからだ。
迷惑じゃなければいいけど・・・迷惑になりやすいからなぁ。
まぁ・・・いいか・・・
この国の代表政治家や官僚よりマシか・・・はぁ・・・

そうだ!そんなことより佐渡先生だ。
「まぁ、とりあえず、酒でも飲め」
悩んでアレコレ考える者にいうセリフだ。
(そうでなくても飲んでる・・・。
医薬品より優先して日本酒を積み込んでるし・・・)

悩みの原因を探り、解決する方法もあるが、
それは万人向きじゃない。
そんなので解決するのは、極一部だけだ。
「原因」をいじらない解決法。
ワシの療法と同じ方法だ。

全く別な世界を与える。
(佐渡先生は酒。ワシは「氣」)
悩みは「異」と出会うと消えやすい。
佐渡先生の自然体の治療に気づく人は少ない。

  佐渡先生・5
05/19 (木)

佐渡先生や故御師匠様の節操の無さを紹介した。
(し、失礼。物事を差別しない人柄を紹介した。)
ワシもアコガレるし、目指す方向でもある。
すると、ある人からコメントがあった。
「私もそういう人になりたいが、氣功が出来ない分、難しい」

ワシはこのコメントで気づいた事がある。
確かにワシが「氣」を扱う時には、自分が隅に行く。
ワシの傲慢なアホ心が、端っこで大人しいのだ。
「氣功時だけはマトモ」だと自負できる。
(そ、それって・・・威張れねぇと思う・・・)

だけど・・・よく考えてみれば、
ワシは(ワシ流の)氣功が出来て、やっと一人前なのだ。
ワシは、ワガママすぎ、傲慢すぎ、独善すぎる。
そこで、御先祖様か誰か知らないが、お節介を焼いた。

たまにはマトモな時間が持てるように、
故御師匠様と縁を持たせてくれたのだ。
ついでに心も少しマトモになるように、
龍村師匠とも縁を持たせてくれたようだ。

ワシにとって氣功師の体は、
孫悟空の頭を縛る「緊箍児(きんこじ)の輪・金剛輪」
(孫悟空ほど酷くなかったと思うがなぁ・・・)
つまり、ワシは人より劣っているのだ。
(まぁ、今更改めて表明することでもないが・・・)

コメント発言に返信する。
「氣功ができないのなら、最初から能力があるのです」
そういうことです・・・。
この先、氣功が出来るようになったら・・・残念です。
ワシと同じように、ロクデナシの一派です。

仕事での付き合いは大丈夫ですが、
プライベートでは付き合わないで下さいね。
(注1:ワシは謙遜なんてしません。
褒められれば、遠慮なく有頂天になりますが、
嘘を言い続けるほどの根性がありません・・・)
(注2:御師匠様のように、24時間の氣功師を目指してはいますが、
もちろん、まだまだまだまだまだ、道の始まりにいます・・・)

「もっと、マトモになってね」
氣功師というのは、そういう外れ者ですからぁ・・・
勘違いして、スゴイなんて思わないで下さい。
騙されてしまいますよ。

(氣功が出来るのをスゴイと思う氣功師もいるようですが、
アブナイですから近づかないほうがいいと思います。
氣功師でなくても、自分をスゴイだのレベルが高いだの言う人が、
マトモなはずないでしょ、普通に判断しましょうね。
ワシもアホですが、プロですから・・・そこまではねぇ・・・)

  佐渡先生・6
05/20 (金)

佐渡先生は人間も他の動物も区別なく治療するが、
人間より獣の方を少しヒイキしていたようだ。
その気持ちは・・・ワシにも解る。
獣の方が素直なんだもん・・・。
「生命」に対し素直(大切にしている)なんだ。

人間も「生命」に素直(自然体)な人と、
理屈で「生命」を語ろうとする人がいる。
勝手にしてくれていいが、
治療するには素直がやりやすいのはいうまでもない。
変化回復も素直な人が早いのはいうまでもない。

ある時宇宙人を治療した。
その時のセリフがある。
「我々と同じだ」
皮膚の色や組織が多少違おうが、
「生命」は同じなんだ。

自と他
何処を観る?

違いを観るか
同じを観るか
この認識の違いはとても大きい。
そのうえで必要があれば、診る。
だから、名医(時々、迷医)なんだ。

部分や違いを診ることよりも、
「生命」をしっかり観る。
ワシが二人の御師匠様から学んだことだ。
ここを土台にしている限りプロでいられる。

診断し治療法を決める方法が通常の医療だ。
だから見立て次第で、間違いもある。
幾つか病院をまわってみればいい。
何人か医者をまわってみればいい。

見立てが違う場合が出てくるはずだ。
見立てが違えば、治療法も違うはず。
どっちを信じる? 大変だよねぇ・・・。
「生命」は患者側にあるんだ。

ワシのように見立てを必要としない療法は、
本来から言えば治療でないのかもしれない。
本人が勝手に治るんだからなぁ・・・。
見立てが必要でないから、間違いもない。
「生命」に直接応援するだけだ。

(見立ては必要でないけど、体ってヘンなヤツだ。
患部が勝手に訴えてくる。
原因が勝手に観えてくる場合がある。
軽く相手にはするけど、とらわれない事が大切だ)

「みんな、同じなんだ」
佐渡先生の言葉は、簡単で、深い。

  佐渡先生・7
05/21 (土)

いろいろな道がある。
だから迷う。
だが迷えるうちはいい。
本人が選択肢を握っている。

いろいろな道があるが、
いろいろな条件がある。
望まぬ道に押し出される場合もある。
仕方なく、踏み出す道もある。

迷っている者は幸運の範囲だ。
どちらにも進む事ができる。
どちらに進んでも、いろいろある。
後悔をする材料は、どちらにもある。
だが、自分で選らんだ分だけ軽いのだ。

後悔なんて趣味だ。
したければ、好きなだけすればいい。
誰も依頼してないし、誰の為にもならない。
趣味だから、他人が意見を言う事でもない。
好きにしてね・・・。

同じ音だが「航海」がある。
未知の道(オヤジダジャレですぅ)を海に例える。
人生は航海だ。
人生は後悔だ、とは大分違う姿勢だろう。
好きな方を選んでくれ。

とはいえ、どの道も先行きは不明だ。
だから、分かれ道で迷う。
(不明や不安定を面白がるのが道を歩くコツだが、
そんなことは、自分で覚えてくれ)

佐渡先生の迷い人に言ったセリフがある。
「海の男は海が住みよいだけじゃよ。」

迷ってしまうと、自分の正体まで判らなくなる。
海の男か、山の神か(高度なダジャレですぅ)、
二丁目の住人なのか(低俗なダジャレですぅ)。
迷いは広がる性質があるんだ。

「海の男は海が住みよいだけじゃよ。」
それだけだ。
道を選ぶのは難しい事じゃない。
息が楽にできる道(相手)を選ぼうぜ。

(オナゴにとって、結婚という道があるなら、
やはり基準はこういうところじゃないのか?
と、余計なコメントまでするから、一言多い・・・
まだまだ、ワシは佐渡先生に近づけない・・・)

  佐渡先生・8
05/22 (日)

佐渡先生は自然体だ。
自然体を「本能の赴くまま」と訳すと間違う。
自然は調和で成り立っている。
自分勝手でも他人任せでもない。
「自他の調和」が自然体というものだ。

この世は、自と他が混同、混合している。
だから調和度が増すほど、息が楽になる。
自然体は、自他が楽になる生き方だ。
自他の区別や摩擦や決り事は、
「ゆるやか」なほど、楽に生きられる。

とはいえ、人間は未完成品だ。
硬かったり、柔らかかったりして触れ合う。
(遠慮なく、意味深に受け取ってくれ)
「やわらぎ」というのは柔らかいことじゃない。
硬かったり、柔らかかったり、自由に出来ることだ。

だから、佐渡先生も時々は硬いセリフもある。
「百里の道を行くときは、九十九里をもって半ばとせよ」
もう少しで着ける、という時に言った言葉だ。
優しいなぁ・・・佐渡先生は・・・。

ワシはもっと冷たい。
「百里目に着いたら、百里だ」
到着しないと着かない。
当たり前なんだけど、当たり前が通用しないのが常識だ。
到着地が見えた(と思い込んでいる場合が多い)だけで、
アレコレ着いた感想を話す評論家が多い。

他人の感想をそのまま話す人も多い。
まぁ、それもいいけど・・・空っぽすぎないかぁ?
せっかく自分があるのに、もったいなくないかぁ?
完成されたエラソウな意見もいいけど、
未完成でもその人の言葉が魅力あると思うがなぁ。

佐渡先生や故御師匠様は独自だった。
個性溢れる言葉が素敵だった。
ワシは10以上年たった今でも活き活きと思い出す。
10年以上かかって、意味が光りだす。
生きている言葉は、素敵だ。
だからワシは、こんなグレた文章でも、
言葉に生命を吹き込んで書いている。
(上手くいく時もたまにはある・・・)

「個性」は生きている証拠だ。
ワシが佐渡先生や故御師匠様に惹かれたのは、
「個性」があり「自然体」だったからだな。
個性だけでは、アクになる。
自然体(調和)と合体で魅力となる。

さて、これから、何処まで近づけるか・・・
ワシは
佐渡先生のように、故御師匠様のように、
いいかげんで節操の無い人になりたい。

地球の未来を続ける為に出航したヤマトだ。
何とか間に合いそうに帰ってきた。
その時の沖田艦長の最後の言葉がある。
「佐渡先生・・・ありがとう」  

  山菜・1
05/23 (月)

今、ワシの住む山の中は山菜が真っ盛りだ。
ワシの幸せな時期の一つだ。
ワシは山菜が大好きだ。
オッパイのでけぇネ〜チャンよりも・・・。
(注1:一応サービスで書いてますが、
実際は巨乳、貧乳の差別はありません。
何だっていいんだ。健康が一番だぁ)

子供の頃は山菜のどこか美味いのかわからなかった。
あれは、ある意味オトナの味だしなぁ。
それでも、その時期には他に食べるモノがない。
(注2:ワシの家は由緒正しい貧乏人の系統です・・・)
仕方無く、口に入れていたのだと思う。

子供の頃の記憶は体や心の深くに染み込む。
年代が遅くなるほど、浅くなる。
(注3:強弱と深浅を区別してね・・・)
深みのある味の場合は、幾年経っても甦る。
甦る時には、懐かしさを連れて来る。

子供の頃。
更に遡って、赤ちゃんの頃。
(更に胎児の頃もアリだね)
我々は「幸せ」だった。
「幸せ」を染み込ませていた。

「幸せ」は理屈では語れない。
深く染み込んだ、味のようなモノ。
だから、いつでも甦ることが出来る。
誰でも、子供や赤ちゃんの時期があった。
誰でも、幸せを甦らすことが出来る。

生きていることは、
幸せになれるという意味だ。

仕方なく、強制的に覚えたモノ。
甦ってみると、解る事がある。
大切だったんだ。
幸せだったんだ。
ラッキーだったんだ。

住む土地から採れるモノは、
体と心に大きな意味を持つ。
マハトマ・ガンディーも指摘していたが、
「調和」を観るようになると解る。

採れる時期は短い。
その時期に食べる意味は大きい。
「食」を分析学で語ると、
最も肝心な意味が解らなくなるようだなぁ。

  山菜・2
05/24 (火)

こごみ・ぜんまい・わらび・うど
さんしょ・たらの芽・あけびの芽
山ウリ・山ふき・かたくり・こしあぶら
うう・・・ヨダレが出そうになる。

合わせて、野のモノも採れる。
ふきのとう・つくし・野ふき・あさづき・ののひろ
更にワシの家のモノも採れる。
作っているとはいえ、ほぼ天然状態だ。
わさび・たけのこ
これが幸せでなくて、どうする?

ワシには今年89歳になる母様がいる。
ワシが今のような立場になったキッカケは、
母親の持病を美童(ワシ)の頃から見てきたからだ。
原因不明、治療法無し。
誰も何とかできないのなら、ワシが何とかする。

おぉ、なんと健気な美童だったのだろう・・・。
しかし、心は反動する。
ついに少々特殊な医療氣功師になり、何とかしたが、
健気は胡散霧消し、氣功時以外はナマケモノになった。
ついでに美童は怪しいオッサンになった。
時は「空ろ氣」なんだ・・・。

その御母堂が言った。
(一応、ここまで生きている事実に注目ね)
「山菜は人が手を加えないから素晴らしい」
何気なく言った言葉だからこそ含むモノがある。
ワシは(ヒマだから)考えた。

ワシは「生命」を土台にし、
「調和」を方法として仕事をしている。
ワシが山菜に魅かれる理由。
年とったからだ、では淋しすぎる。
何とか屁理屈を見つけたかった・・・。

人が手を加える自然もあるが、
人が手を加えない自然とは違う。
加えない自然は「大調和」で創られる。
そうなのだ。
山菜は「調和」で育ったモノだ。

時期もある。
春。
生命が疼き、発生する季節。
生命力というのは、流動する力だ。
残っている力じゃない。

春の山菜は「生命力」と「調和」の恵みだ。
ワシが魅かれないはずがない。
理屈なく、生命が美しいと感じるように、
理屈なく、春の山菜は美味しいのだ。

  貧乏道・1
05/25 (水)

我家は貧乏だ。
由緒正しい貧乏の家系だ。
ワシは伝統を重んじる。
先祖様から受け継いだモノは、
次世代にキチンと渡す義務がある。

この世は流転している。
諸行は無常であり、万物は時と共に移ろぐ。
ワシは確固たる信念の持ち主である。(ウソ)
人の数十倍の努力家でもある。(ウソウソ)
しかし・・・
いつまでも貧乏を貫く事は難しいのかもしれない。

あきらめて、貧乏から抜けてしまおうか。
何度も脱落しかけた。
世の人と同じように、金持ちになってしまおうか。
世間と同じモノを目指すなら、きっと楽に違いない。
そう幾度も心がくじけそうになる。

アクマの囁きは続く。
子供達の口を借りて。
「とうちゃん、勉強机が欲しい」
本妻の口を借りて。
「アナタ、明日のお米が無いわ」
二号さんの口を借りて。
「陽平さん〜、プラズマテレビ、買って〜」

地球の資源は限られている。
皆が裕福になれば、地球は滅びる。
わかってくれ。
ワシは地球の未来を背負っているのだ。

妻よ子よ二号よ三号よ。
ワシは一人の社会人の前に、
行者として生きている。
辛い思い、苦しい思いを常に持っていたいのだ。
「神よ、我に七難八苦を与えたまえ!」

妻よ子よ二号よ三号よ四号よ。
(何気に、愛人が、ふ、増えてる・・・)
ワシは一人の社会人の前に、
妖しい、奇妙なオッサンとして生きている。
愉しく、嬉しく、気持ちよく生きている。
「神よ、我に悦楽歓喜を与えたまえ!」

ワシは貧乏道宗家某亜流水上一族の末裔。
貧乏道の真髄がある。
「貧して貧ならず」
道は遠い。

これでも由緒正しいのか、というツッコミはタブーだ。
どんな血統も詳しく調べるのは礼儀に反する。
人間だもの、生きている間にはイロイロあるのだ。
つい、手やその他が出てしまうこともあるのだ。
だから、血統を本気で重んじる人は滑稽でもあるが、
それが人間の可愛らしさというものだ。

  貧乏道・2
05/26 (木)

ワシには兄も姉もいる。
社会的にマトモな兄もそうでない兄もいる。
もちろん魂の兄弟姉妹もいるが、
その話は怪しく、妖しくなるのでここではしない。

「貧乏道は社会から落ちこぼれる事を旨とせよ」
家訓というものは誰かが守るものでもある。
貧乏道宗家某亜流水上一族末裔のワシだけじゃなく、
幸いにして姉も貧乏道を歩み、世間から外れた。
未だ芽の出ない陶芸家として生きている。
(ワシよりも社会的認知度は高い・・・)

姉は同世代の女性達の悩みや迷いの受け皿になっている。
(ヒマだからだ、などと指摘してはいけない・・・)
同世代は女性の更年期の真っ最中だ。
それぞれ、様々な原因や理由があるようだ。
人と人を同じように比べて論じる事はできない。

その姉と貧乏道について話す事がある。
「貧乏の御蔭でこうしていられる。感謝だわ。」
ある意味、健康で幸せな今の状態を言ったものだ。
女性の更年期なんて係わっているヒマがない。
独身で貧乏だもの・・・。

(一緒にいる老母も貧乏ではボケていられない。
母は社会的常識が確りある性格なので、
息子や娘を安心して見ることができない。
我家では痴呆になる要素さえないのだ
貧乏道を歩む子達は、親不孝であり、親孝行なのだ)

世間から外れる、ということは、
世間的な視線も受け付けないということだ。
世間的には惨めな状況に見られようとも関係ない。
世間を気にしながらでは、幸せを得るのは難しい。
貧乏道は幸せの一方法なのだ。

どんな道もある程度進むと、見方が変わる。
世間的に外れているから評価は気にしないが、
世間の見方が近頃変わってきているようだ。
貧乏な我家を羨ましがる人達が増えてきている。
ワシや姉を羨ましがる言葉が増えてきている。

世間は・・・間違っている。
つくづく、そう思う。
世間が羨ましがるのは、
ワシや姉を取り巻く「幸せ」が欲しいからだ。
その欲しがる姿勢を最初に手放すのが貧乏道なのだ。

「幸せ」であろうと「幸運」であろうと、
「生きがい」であろうと「健康」であろうと、
自分のモノにする事から離れて貧乏になれるのだ。
お金や財産を捨てれば幸せになれるわけではない。
貧乏道はシンプルであるが、難しいのだ。

その姉やワシの一致した意見がある。
「もう、貧乏にも飽きたねぇ〜」
棚からぼた餅と抹茶とケーキと珈琲を待っている。
といって、貧乏道から外れたわけではない。
努力して、ケーキと珈琲を買うつもりがないのだ。
(そ、それって、単なるナマケモノじゃん・・・)

  貧乏道・3
05/27 (金)

貧乏道は捨離行と似ている。
命は求心力で守る。
求心力は「我」から出る。
この肉体世界は「我」が無いと死んでしまうのだ。
「我」を無くすと、この世にいる意味を失う。

「我」は求心力で成り立っている。
「調和」は遠心力で成り立っている。
この世は多種多様な万物があるのだ。
自他が存在できるのは「調和」があるからだ。

求心力は遠心力とのバランスで保たれる。
求める力が強いと、本体を壊してしまう。
出会う「他」にも大きな迷惑をする。
つまり「我」を無くしては生きられないが、
主張しすぎると「自」を壊し「他」を不調にする。

ブッちゃんの指摘した「中道」
正道だと訳すから難しくなる。
難しい道は大抵間違うものだ。
未熟な人間が歩くんだぜ。
「いいかげん」と訳せば間違いは少ない。
ブッちゃんは難しい事は言わない。

この世はヒネクレて創られている。
求めると得られる。
求め続けると失う。
それが「正しさ」でも「幸せ」でも同じだ。

だが「我」がある限り求めてしまう。
哀しい人の性というものだ。
哀しいモノは抱きしめてやるのが自然だ。
だから「我」は嫌うでなく、可愛がるモノだ。

この世はヒネクレている。
嫌うと大きくなる「我」だが、
可愛がると小さくなってしまう。
結構・・・テレ屋さんだ・・・。
「強い我」は自立できないが、
「小さい我」なら自立できる。
「自立は共生の自覚」だからだ。

求め、得たモノは捨ててこそ、役に立つ。
捨てる、離れる行を「捨離行」というが、
自分の霊性を高める為じゃない。
そんな事にとらわれる限り、無駄な時を過ごすだけだ。
自他の調和(幸せ)だから捨てるだけだ。

一度得ればいいじゃない。
一度味わえばいいじゃない。
捨てれば軽くなる仕組みだ。
離せば自他が観える仕組みだ。

貧乏道は自他が喜ぶ方法を示している。
というわけで、早速、現金などはワシに送ろう。
捨てれば幸せになれるのだ。
(こういう宗教組織が世の中には多い。
もちろん、ワシも遠慮なく便乗するぞ〜)
大丈夫!ワシが不幸の種(現金)は引き受けるから。

  貧乏道・4
05/28 (土)

「借金も財産の内」
この真意を知らなかった頃。
ワシが貧乏道を歩く前の事だ。
財産があるほうがいい、と思っていた。
固定概念というヤツだ。

財産があっても困らんだろう。
金は多くても邪魔にならんだろう。
うん、そうだよね。
常識のように思い込んでいた。

財産でトラブルのは人間性の問題だと思っていた。
人間を深く観ることが出来なかった頃だ。
(今も深く観れるわけでもないがなぁ・・・。
深く広く複雑さがあるのは知っている。
人も人以外も、その関係も影響も単純じゃない)

ワシは平気で借金をしていた。
つまり、財産を増やしたわけだ。
あの頃、貧乏道をキチンと歩んでいれば、
今の何とも言えない苦労は無かった。
「れば・たら」は何の解決にもならんなぁ・・・。

心や体の病は何とでもなる。
何とかするのがワシの天職だ。
病を消すことは出来る。
体と心の健康を導くのは仕事(ライフワーク)だ。

しかし、金の問題を消すのは苦手だった。
財産関係はワシの不得意分野(世界)なのだ。
健康を深く観ていくと、経済の中に健康はない。
「経済の健康」というのは誰かが勝手に作った造語だ。
健康は幸せに直結しているからだ。
(ここの話は解らない人には解らないよね・・・)

財産はモロモロを重くする。
財産を無くすのは結構大変なのだ。
騙し取られれば、財産が無くなるわけじゃない。
ワシは意識の中の話をしているのだ。
道とは意識の話なんだぜ。

現実の借金は銀行との交渉が付物だ。
返済に余裕の無い者に銀行は冷酷だ。
これはそういう目に会っている人には解るだろう。
銀行員は心に痛手を負わせる事に長けている。
心を傷つけるのを得意としている。
(ヤクザも実際の暴力より心を傷つける)

借金をする側のミスだ。
それはその通りだ。
ワシは銀行の理不尽を責めているのじゃない。
そういうモノだという事実を書いている。
銀行に借金をするのが、愚かなのだ。
予定は狂うものなのだ。
銀行に借りる側が間違っている。
必要な時は、貰ってしまおう・・・。

強い者(金持ち)には弱い。
強い者に弱い者達は、弱い者には残虐になる。
哀しい心の仕組みだ。
政治・行政・経済が強い側に傾くと、国は亡びる。
弱い側に優しくなり、未来は開ける。
(注:これは独善雑記です。ワシらしくなく、今日は感情入り)

  貧乏道・5
05/29 (日)

故御師匠様の人生は波乱だった。
社会的な財産を大きく持っていた時もあった。
そして騙し取られて、返済に汲々した時もあった。
金はもちろん、会社も信用も無くした。
とても惨めだと思ったそうだ。
もう、あんな惨めな思いはしたくない。

通常は、だから頑張って再建しようとする。
ところが御師匠様だから変わっている。
「持つから、無くすと惨めになる」
その後、自分の財産を持たない生き方に変えた。
土地・家・貯金通帳など、最後まで持たなかった。
目に見える自分の財産は放棄した生き方をした。

「金は回って活きるモノ」
だから貯金はしない。
「土地は地球のモノ」
「家は住むモノで持つモノじゃない」
実にシンプルだった。
そして、幸せだった。

「貧乏は無所有である」
肉体がある限り欲望がある。
生きる為の欲がある。
心は肉体に左右させられる。
だから心にも欲望が生まれる。

「生命」は欲の刺激が無いと続かない。
最低限の欲が「生命」を支える。
メシが食いたい。眠りたい。○○したい。
その為には住む所、着るモノ、食べるモノが必要だ。
必要だが・・・持たなくても活用できる。

無所有でも「生命」は続くのだ。
「欲」は「所有」と直結してないのだ。
貧乏道は無所有であるが、
無欲ではない。

ワシは金もオナゴ(これはウソ)も才能も欲しいが、
自分のモノにしようとは思わない。
この世にある何一つ、自分のモノに出来るとも思わない。
そのくらいのは知っている。
自分のモノにしなくても使えれば充分だろう。
必要な時だけ使いたいから欲しいのだ。

ホピ族かナヴァホ族か忘れたが、ある酋長の言葉がある。
「地球の上で生まれ地球の上で一生を生きる生物に、
自分のモノと主張することが出来るだろうか?」
無法者のアメリカ住人が土地の権利を主張した返事だ。
「貧して、貧ならず」が貧乏道だが、
富裕を目指し、富裕の米国はとても貧しい。

  貧乏道・6
05/30 (月)

持たなくても使えればいい。
昔はそういう地球だった。
海も川も山も権利など無かった。
人間が勝手に主張する権利など無かった。
持たないから、全てが使い合っていた。

今、自由に住めない。
自由に使えない、使わせない。
そこは国のモノ!
ここは私の土地!
それは組合員のモノ!
それは県有地!

勝手に踊ってはいけない。
勝手に歌ってはいけない。
勝手に話してもいけない。
勝手に居てはいけない。

縄文の昔、
昼にとった魚や山菜をもちより、
焚き火を囲んで踊ったり歌ったり。
誰も、何も持ってはいなかったが、
とても自由で豊かな時代だった。
決して取り過ぎることもなかった。
お互い様だもの。

それから・・・
沢山の日々を費やして、
沢山の戦いを繰り返して、
沢山の頭のいい人達が練り上げて
なんて貧しい国を創り上げたのだろう。

何も持たない貧乏な時代。
とても豊かな時代だった。
沢山のモノや権利を持つ現代。
いろいろなモノを持つようになったが、
「智慧」だけ持たなかったようだ。

権利は義務とセットになる。
○○しなくてはならない。
国を守るため、自分を守るため、
(他)人を殺さなくては、いけない。
もう、そこまで、来ている。
持つ、為に、他を、殺す時代。

何も持たない時代にも、一つだけ法はあった。
自分の為に、
他を殺しては(犯・侵しては)
いけない。
どちらの生き方を選ぶ?

権利を作ると、自他の調和は壊れる。
調和は内から外に漂うモノだ。
権利は求心力だが、調和は遠心力だ。
貧乏道は愛(遠心力)の道かもしれない。
(と独善的結論になる・・・)

  貧乏道・7
05/31 (火)

金や土地や権利や名声だけでなく、
家族や知識や能力や体力も求める。
そして、手にいれる。
しかし、必ずしも幸せは手に入らない。

何もなくても幸せになる。
04年2月のコラムに書かせていただいた。
(本館のコラム2にあります・・・)
龍村師匠の実姉、和子先生の話。
インドのマザーテレサハウスでのエピソードだ。
「貧して、貧ならず」
鍵は「感謝」のみ。

貧富はこの世の現象。
道は見えない世界。
貧富にとらわれるかぎり、道は観えない。
富して貧す、貧して貧す。
富して貧ならず、貧して貧ならず。

優しくいえば
「貧富に関係なく、貧ならず」
これが道(タオ)だ。
節約道ではない。
自然(じねん)道だ。

「貧乏道」は「富道」と同じだ。
求め続ける者は「富」に届かない。
分かち合う者に「道」が開く。
「富」の意味を誤解されるので、
「貧ならず」と謙虚に表現しただけだ。

「もっと欲しい」
富者も貧者も貧している現代。
皆が同じ固定概念に縛られている。
縛っているのは自分。
縛られている限り、自由は少ない。
それが、貧。

アーユルヴェーダの教えがある。
「真の健康(幸せ)の哲学」だ。
(生命の科学とか寿命科学と訳されるが、
一生を幸せに生きるための実践哲学なので、
ワシは真の健康哲学と訳している)

いろいろな人生を過ごし、最後の章の教えだ。
「手に入れた、あらゆるモノを捨てて放浪の旅に出る」
あらゆるモノは、技術能力や知識経験も含まれる。
これが貧乏道(富道)の実践方法だ。
道(タオ)は・・・険しく、遠い・・・。
だから、面白い!

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