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  November
11/01 (月)

9を意味する月。
いくらローマ歴では3月が一年の始まりであっても、
そのまま11を9で押し通すのはなぁ・・・。
その点、日本語は美しいぜ。
「霜月」
(下付きなどと、話を落とさないぞ。
って、書けば落としてるじゃん・・・。
意味の解らないヨイコの皆さんは、
お父さん、お母さんに聞いてみよう・・・)

「露ごもりの葉月」なんて言い方もある。
日本語は奥も深いが、綺麗でもある。
「一陽来復」の月でもある。
「神楽月」でもある。
そんな11月にワシは生まれた・・・。

振り返るのがあまり好きじゃないワシだが、
(恥や愚ばかり観えちゃうしねぇ・・・)
生きてきたんだなぁ、52年も・・・。
生きてきたんだなぁ、52年しか経ってないけど・・・。
(正確には52年になってないけど、まぁいいかぁ)

自分の歳を言うのが、この頃は平気になった。
(あれ? 以前から平気だったなぁ・・・)
隠したって意味ないし、隠すほどの秘密もないし。
それでも11月になると誕生日があるせいか、
年齢とその過去を意識する。

振り返れば、面白い52年だったが、
これからはもっと面白く生きてやる。
歳を重ねると衰えを感じる。
だから、もっと面白く生きようと思う。
もっと楽しく、愉しく生きようと思う。

ワシにとって愉しい事は、
人やモノがイキイキと変わる事だ。
変わっていくのを見るのが好きだし愉しい。
自分の事もいいけれど、
他が明るくなるのは、気持ちいいものだ。

それを知ってしまったから、
この仕事が辞められない。
ワシの個人的な我儘でもあるし、愉しみでもある。
決して「世の為、他人の為」じゃないぞ。
自分の愉しみの為に仕事をしているのだ。

偉い仕事などと、時々言う人がいる。
(アヤシイ仕事と思う人の方が多い・・・)
とても誤解されやすいです。
褒められるのは・・・不本意です。
そうじゃないのに・・・
我儘でしているのになぁ。

  闇の正体・1
11/02 (火)

一瞬だった。
一方向からだけだった。
それでも隙間から観えた。
ホンの一部分だが・・・。

闇の一部である病。
ワシは闇なんて観たくもないが、
回復を健康から追い求めると、
観たくなくても観てしまう。
ホントにこの世はイジワルだなぁ・・・。

おっぱいの綺麗な女神様でも見ていたいのに、
闇に蠢く人間達の苦しみを観てしまう。
まぁ、観るのも仕事ならしょうがない。
アキラメはいいほうだ。

で、気づいてしまう。
前々から気づいてはいるのだが、
その深さに改めて気づいてしまう。
読みが浅かった事に気づいてしまう。

どこに分れ目があるか?
その点(ターニングポイント)を指摘し、
変える手伝いが、ワシの仕事でもある。
だから、分岐点を観るのは大切なんだ。
力が入っていては、見落としてしまう。

今回見つけた隙間は、今までと同じだ。
でも、その重さが違う。
言っておきながら、意味の深さが解ってなかった。
多くの人が指摘している。
同じ言葉でも深さは幾重にもあるもんだ。

体に悪い事。
心に悪い事。
自然法則に逆らう事。
これらをしたからといっても、
即、闇(病)になるわけじゃないのだ。
(倫理や法律は人間が勝手に決めた事だから、
逆らっても闇・病には落ちないぜ)

闇(病)への道は体や心に悪い事をするからだ。
もう少し深い言い方では、
自然法則に逆らうから、闇(病)になる。
というのが定説だった・・・。

定説は表面的な解説なんだなぁ・・・。
定説とか常識なんて、信じちゃダメよ・・・。
といって、無視をするとメンドウが起きる。
社会的に生活する上で、
信じるフリをする、程度の事で充分だ。

「こだわり」
一言でいうなら「こだわり」が分岐点だ。
分岐点は良い・悪いじゃない。
「気まま」が足りない心理状態だ。

  闇の正体・2
11/03 (水)

「○○してはいけない」
こういう指導の仕方を多くみかける。
学校でも社会でも法律でも宗教でも同じだ。
でも、これは心の仕組みを無視している。

「こだわりを持ってはいけない!」
これで心が言う事を聞いたか?
事実は誰でも確められる。
これで闇(病)から戻ってこられたか?

アレしてはいけない。
コレしなくてはいけない。
コウでなくてはいけない。
そんな事(理屈)ばかりで押すから、
心は反発するし、体はイジケる。

「気まま」でいいんだ。
「気まま」がいいんだ。
こういう表現の仕方がワシ流なんだ。
「こだわり」にこだわらない方法だ。

闇(病)に居たかったら、それでもいいけど、
闇(病)から抜けたかったら、方法がある。
しかも・・・誰でも出来る方法がある。
どうする?
そういう話をしている。

闇(病)が悪いわけじゃない。
ブッちゃん(仏陀)が家を出る時、
どうして生老病死があるのか悩んだ。
でもこの四苦は同じように扱った。
(ワシなんてもっとクダラナイ事で悩むのに、
さすがに偉ぇなぁ・・・)

生まれるのが悪いと言う人は少ない。
(たまにいるんだよねぇ・・・)
老いが悪いと言う人はいない。
(嫌いな人は圧倒的に多い)
死が悪いと言う人もいない。
(皆さん、アキラメているね)
でも、病(闇)だけは悪者扱い・・・。
(弱い者イジメだねぇ・・・)

ワシはワシよりブッちゃんの方が偉いと思っている。
(当たり前なんだけど、皆さんは時々違うみたい)
だから、ブッちゃんの言う事はうなづく。
ブッちゃんは闇(病)を悪者にしなかった。
だからワシも闇(病)を必要だと思った。
ここから出発して健康を追い求めている。

そしてキーワードが「こだわり」だった。
病気からの回復を「病気治し」にしないで、
「健康」そのものに目を向ける。
同じように「こだわり」に目を向けないで、
「気まま」に目を向ける。
ワシって・・・ヒネくれているかなぁ?

  闇の正体・3
11/04 (木)

こう書いていても伝わり難いだろうなぁ。
「こだわり」を観てしまったのは、
ワシがあるクライアントと接触して感じた事だ。
ワシは根性の無いナマケモノだ。
だから出来るだけ簡単に回復するポイントを探す。

ワシのところに来るようなクライアントは、
今まで多くの時間を苦しんできたろうと思う。
他で回復の道が見つからなかったから、
藁でもいい、と思って来たのだと思う。
(藁が見つかるのと見つからないのの差は、
藁の大きさ重さ以上のモノがあるんだよ)

ワシは苦しみが悪い体験とも思わないが、
苦しみ続けるのは卒業した方がいいと思っている。
だから、回復法でもいろいろ有るが(苦労する回復法)
出来るだけ軽く速く簡単に済ませたい。

ワシは努力と根性で乗り切るタイプじゃない。
一点集中というか、集中もしないというか、
とにかく、変わるポイントを押すだけだ。
ワシが扱う「氣」は元々がワシの力じゃないから、
する事に区別や差別や種類があるわけじゃないが、
「氣」は、ポイントを観抜けば速さが違うのだ。

ナマケモノはナマケモノの仕事の方法がある。
この場合は、観抜く事が仕事のコツだ。
そして一つを観抜けば、全体に応用できる。
ホントのポイントは、一つでも万なんだ。

何処がポイントだろう?
誰にでも当てはまるモノを探している。
万能力、万能ポイントを観つけてる。
ホントにワシはナマケモノ・・・。

闇(病)の正体を観るのは、
マジメな探究心からじゃない。
不マジメなナマケモノだからだ。
楽をしたいからだ。
楽が好きだからだ。
相手にも楽が楽だと知ってほしいからだ。

「楽」は「気まま」の変化でもある。
闇(病)が「苦」の変化なら、
闇(病)からの(光への)回復は、
「楽」が一つのポイントになる(全てじゃない)。

「苦しまなくては乗り越えられない」
この固定概念は間違いだと思うよ。
苦しんで乗り越えたなら、
一息つける「喜び」はあるだろうが、
その先には更に高い壁があるんだ。
だって・・・
「苦しみ」が「壁(闇・病)」だもの。

  闇の正体・4
11/05 (金)

闇(病)は自分の周りが見えない状態だ。
だから不安になり、自分の事を訴える。
でも冷静な客観視は出来ないから、
「こだわり」の部分だけを考えている。
(闇の人・病人って、かなり自己中・・・)

こちら側から闇(病)の人を観ると、
「こだわり」の中に閉じこもっている。
決して「闇(病)の中」にいるわけじゃない。
大きな闇(病)という次元(空間)にいるわけじゃない。
とても小さな「こだわり」次元から出て来ないだけだ。
だから闇(病)からの脱出は難しくない。
すぐ外側には光(健康)があるんだ。

別な表現をするなら・・・
闇(病)の中に閉じ込められているのでなく、
闇(病)というテントを被っているんだ。
(しかも一人用。かなり小さい・・・)
闇のテントを握っているのは本人。
手を放せば、闇のテントは落ちてしまう。

闇(病)からの脱出(回復)は、
他人がテントを引き裂く事でもなければ、
無理やり入り口を広げ、外に連れ出す事でもない。
しっかり掴んでいる手を放すだけでいい。
その掴んでいる力を「こだわり」という。

とはいえ、放すにはお手伝いが必要な場合が多い。
長らくしっかり掴んでいると、手が固まってしまう。
放すのは本人でも、放せるように柔らかくする手伝いがいる。
そのための助言やお手伝いが施術者なんだ。

その施術者の一部分に西洋医(ドクター)がいる。
闇のテントの構造や成分などに詳しい・・・
ドクターのたむろする建物が病院なんだ。
(単なる例えです・・・下種のタワゴトです・・・
権威ある人達に楯突くつもりはないです・・・
口が滑るのはDNAのせいで、ワシの責任じゃありません)

ヒュギエイアという女神様がいる。
闇(病)を観る事よりも、
光(命・生命力)を観る女神様だ。
明るい光の中で、綺麗なおっぱいを隠さない女神様だ。
ヒュギエイア女神派の施術者はヒーラーとよばれる。
どうやらワシは(派閥には関係ないが)、
ヒュギエイア神の庇護の中にいるようだ。

闇(病)を観る神はアスクレピオス。
ドクター達はこちらの派に属する。
アスクレピオスは医神(男神)であり、
ヒュギエイアは健康神(女神)だ。
ワシは抱かれるのなら、オトコよりオナゴだ。
(この書き方は相手が神様でも、何か変だ?)

だから光(生命力・自然)側から観る
闇(病)の正体ということになる。

  闇の正体・5
11/06 (土)

「こだわり」は闇(病)へのルート。
しかも自動歩道の機能付き。
「こだわり」続けりゃ勝手に辿り着ける。
闇(病)に行きたい人にはお薦めですなぁ・・・。

ブッちゃん(仏陀)が看破したように、
生老病死は皆さんに平等だ。
四苦ではあっても、大切な意味が込められている。
この平等というのは「同じ」という意味じゃない。
(ここを間違う人が実に多い・・・)

「それぞれ違うようにに与えちゃうよ」という意味だ。
解りづらいかなぁ・・・。
与える事は全員だけど、その人に適したように与える。
その人が最高に役立てるように、時期や大きさを違える。
だから平等は人間技じゃ出来ない・・・。
平等な社会なんて、人間では無理なんだぜ。
(一応お断り・・・ワシは楽観主義者です。)

闇(病)は全員に与えて下さったようだ。
誰だか知らないけど、偉大なナニモノか、らしい。
ワシはその偉大なナニモノをグレちゃんとよんでいる。
グレート・サムシング・・・グレートサスケじゃない。
そんな偉いのが仕掛けた事ならば、有り難いに違いない。
きっと深遠な考えがあっての事だろう・・・。

でもワシは性格がヒネくれている。
相手がグレちゃん(創造主)であっても容赦しない。
偉いから深遠と思い込むのは固定概念だ。
深遠じゃなく、いいかげんに創ったのかもしれない。
人間だけじゃなく、この世界というものを・・・。

失礼! 「いいかげん」ではワシと同じだ。
ワシは二流の独善家を精進中だが、
(精進って、そういう使い方でいいのか?
それに一流じゃないのか?三流では?)
グレちゃんと同じなんて思い上がりは無い。

真に偉いと・・・オチャメになる。
だから人間に闇(病)をセットしたのは、
単なるイタズラだったのかもしれない。
闇の正体は・・・単なるイタズラ・・・。
これを観抜くと・・・闇は消えてしまう。

・・・・・ちょっと待ったぁ〜!
闇(病)の中にいる人からは、
正体がイタズラでは納得出来ないと思う。
納得出来なくてもワシの責任じゃないが、
そうだなぁ・・・別の表現もあるよ。

闇(病)の正体は・・・「愛」。
(尚更納得しないだろうなぁ・・・)
では、闇の正体は「光(生命)を観る為の次元」
「病(闇)は(光の)気づきのメッセージ」という諺もあるし。
(ワシ的には気に入っているんだけどねぇ)

  闇の正体・6
11/07 (日)

光側から観ると、病は闇に観えない。
光(生命)の一部としか思えない。
光(いのち)を認識(感謝)する為に、
巧妙に仕組まれたアトラクション。
だから程度の差はあるが、誰にでも起こる。

生が誰にでもあり、
老いも誰にでもある。
死も例外がないように、
闇(病)は他人事じゃないんだ。
全てが本質体の成長の為に用意されている。
(とブッちゃんは思ったんじゃないかなぁ?)

闇(病)の中で出会う「縁」は濃い。
「濃い」は「恋」に変化する事さえある。
闇は苦しみだけで構成されているのではなく、
愉しみや喜びや望みも内蔵されている。
苦しみだけに「とらわれ」ないでくれ。
もったいない、だろう?

何度も繰り返す。
この世はヒネくれて創られている。
この世は「幻」が最大の力を発揮できる。
「幻」は「気づき」に弱いんだ。

「闇(病)は気づきのメッセージを含んでいる」

闇の正体に気づくと闇は消えていく。
正確には・・・闇の不都合部分が消えていく。
闇は思ったほど、深くもなければ広くもない。
パニック状態の浅瀬・・・
電球の切れたトイレの中。
落ち着いて手を差し出せば出口は見つかる。

大丈夫だよ。
闇は恐くないから。
権力に狂った人間の方が恐い。
欲に狂った人間の方が恐い。
(ワシは美味しいケーキとコーヒーが恐い。
札束を抱えた気前のいい美人が怖い・・・)

誰でも目を閉じれば闇。
目を開けば明るいものさ。
最初から(明るい)場(この世)は変わらない。
気づくと・・・閉じても明るい・・・。

闇(病)は光の中にあるわけじゃなく、
光の中で創る事ができるモノなんだねぇ。

  紅の国・1
11/08 (月)

(この時期になると、何か書きたくなるなぁ。
でも、キーまかせだからどうなるか・・・)

「迷ったか・・・」
そう思っても、足の動きに躊躇はない。
本当の目的地は自分でも判らないのだ。
「迷った方が行き着けるかもしれない。
迷わなければ・・・たどり着けないかもしれない」
オサムは迷う事を求めて生きていた。

空気は冷たいが、ザックが当たる背の部分は熱い。
とりあえずの食料はある。シュラフも防寒用具もある。
山の頂上を目指すのなら、現在位置が不明でも難しくない。
上に登ればいいことだ。
直接登れなければ、回り込めばいいことだ。
必ず登るルートはある。
しかし、オサムは頂上に行きたいわけじゃない。

山は頂上ばかりが目的地じゃない。
自立すれば、自分の目指す場所がある。
他人とは違う場所だと気づくものだ。
何処だか見えなくても、方向は匂う。
探しに行く時期(チャンス)も判る。

出発前の希望や胸の高まりは、
実際に山に踏み込んだ瞬間から消し飛ぶ。
「そんな甘くないな、やっぱり・・・」
深山は想像を超えて存在している。
予想できる範囲を超えて広がっていた。
「迷って、当たり前だな」
迷う事を期待していた自分が観える。

世界地図で見れば日本は小さい。
日頃の情報メディアに接していると、
日本の中で不明な場所があるとは思えない。
何処までも入りこむカメラ映像に死角があるとは思えない。
ところが実際は不明な場所だらけなのだ。
知っている場所は微々たるものだ。
それは頭でなく、足で知ろうとした人だけが理解する。

一歩深く入り込む。
更なる一歩を道を外して入り込む。
もう、そこから先は初めての光景が広がる。
更に更に入り込む。
戻る事など考えなければ、深く入れる。
引き返す事など諦めれば、別の世界が見える。

不安はある。
悩みもある。
それらを包む夢もある。
希望はないかもしれない。
未来は続かないかもしれない。
それでも進みたい好奇心がある。

  紅の国・2
11/09 (火)

「好奇心。
未知なるモノに魅かれる心。
いや、心じゃない。
もっと深いところからの力だ」
オサムは歩きながら、自分の内部も旅してた。

空は蒼。
風は立ち止まると感じる微流。
深山ではあるが、急な崖を越える事はない。
急な崖を降りる事も必要ない。
「そうか。山は平坦でも深くなる。
登るだけが山じゃないのだな」

どちらが東だか西だかもわからない。
ずっと真っ直ぐ進んでいるのか、
曲がりくねっているのか、わからない。
それでも歩けば、歩いた分だけ進むのは確かだ。
「それで十分だ」
迷いは頭の中にあり、足には無い。
こんな当たり前の事さえ歩かなければ忘れている。

深山に道はない。
歩いた跡を誰かが「道」と名づけただけ。
ならば真っ直ぐや曲がる事はどうでもいい。
何処を歩いても地球の上だ。
深山に入ると道(タオ)を求める事から離れる。
「そういうことか」
オサムに笑顔が浮かんだ。

言葉で伝わる事がある。
音楽で伝わる事がある。
映像や造形で伝わる事がある。
優れてた「表現」で伝わる事は多い。
だが、絶対「表現」では解らない事がある。
伝わっても・・・解らない事がある。

「そういうことか」
解ってしまえば単純な事。
何故、心と体があるのか?
何故、解らない事があるのか?
解ってしまえば、当たり前の事。

オサムはザックを下ろした。
靴を脱いだ。
服を脱いだ。
メガネを外した。
裸になった・・・。

乳白色の霧が出てきた。
上を向くと、澄んだ蒼空。
霧は濃くなり、数センチ先も見えない。
素足でゆっくり前に進む。
裸になれば、それほど寒くない。
大丈夫だ。
用意されている。
迎えてくれている。

  紅の国・3
11/10 (水)

霧の区間が終わる。
この霧は結界の壁だ。
結界の壁は力では抜けられない。
「壁」は「迷い」で出来ている。
「迷いの帯」が「壁」といわれるものだ。
厚みはあるが、誰でも抜けられる程度だ。
だが、抜ける人は少ない。

オサムは自分の行動の意味が解らなかった。
何故、裸になったのか?
意味は解らなくても、行動は出来る。
それが壁を抜ける最良の方法だとは知らなかった。
相手が望むから、そうした。
望んでいると感じたから、そうした。

イキナリ、別の世界に飛び出た。
「紅の・・・国」
同じ深山には違いない。
木も草も土もそして湖も。
見上げれば、蒼い空。
同じ山の頂も見える。
だが・・・、別の世界だった。

時期は秋。
紅葉ではある。
だが・・・。
木も草も土も岩も湖も、
見えるモノ達全てが・・・紅。
「こんな純粋な紅の世界が・・・」

気がつくと、
オサムの肌が紅だった。
吐く息が紅だった。
風が・・・紅だと感じた。

何の意味も解らないが、
紅の中にいると何かが目を覚ます。
「生きよう」
その思いが強くなる。

山は登れは帰り道が解る。
頂は目指す場所ではなく再生する場所だった。
どんな場所からでも、登れば帰れる目印だ。
山の周囲には世界が無限に広がっている。
紅の世界は「生命」の世界だった。
頂は透明な「場」だった。

頂に向かって帰り始めたオサムに、
山の周囲の世界が一瞬観えた。

紅の世界は「肉体(人間)界」
白い世界は「菩薩(精神)界」
そして、山を離れて金色の世界もある。
「神の世界」もあるのか・・・

オサムは・・・
裸だった事に気づいた・・・

(これじゃ、支離滅裂のお笑いだぁ・・・
そのうち、書き直しますよ・・・)

  結界・1
11/11 (木)

何かの壁で「閉じた場」を結界という。

氣功はどんな「場」でも出来るが、
「場」によって影響に大きく差が出る。
自身の健康の為の保健氣功も種類によるが、
野外の方が効果がある場合もある。
保健氣功は「内氣功」という。

他に「氣」を流す、
他に「氣」を共鳴させるのを「外氣功」という。
「外氣功」には力学的エネルギーをぶつける、
「硬氣功」といわれる武術系のものがある。
一般の武術でも「気力・気迫」として応用している。

やはり他に「氣」を出す「外氣功」でも、
「軟氣功」という柔らかな波動もある。
ワシの専門は「医療氣功」だが、
昔からある「手当て療法」などもそうだ。
(医療氣功と手当ては似ているが、違うモノだ。
ここの説明はとてもメンドウだから今回はパス!)
調和・生命応援・回復的な軟らかい波動だ。

氣功療法は野外で全て開放しても出来るが、
それには「氣場」が調和されていないと仕難いのだ。
科学技術が発達していなかった循環型の時代なら、
野外は調和されていたから楽だったと想像できる。
日本では江戸時代までは自然との調和がとても出来ていた。
「自然氣」が整っていた時代だ。

最近の日本や世界の状態は「氣場」が乱れている。
科学技術が悪いのではなく、未熟なだけだ。
科学は「意識」と連動してこそ活用出来る事に気づいてない。
ま、未熟だから人間として存在できるのだからしょうがないかぁ。
ワシは二流の未熟を自覚しているつもりだが、
「鼻くそ」が「耳くそ」や「目くそ」を笑うようなもんだ。
だから、独善でなければやってられない・・・。

原因や理由は偉い学者センセーに任せるとして、
このように「氣場」が乱れていると影響が出る。
ワシのような仕事は結界を張らないとやり難いのだ。
そこで「結界」というのを張るわけだ。
方法はいろいろあるが「閉じた場」を創るのだ。

ワシにとっては「結界」を張るのは、それほど難しくない。
思い起こせば最初の頃は苦労した・・・かも?
よく解らなかったし、感覚も鈍かった。
今も感覚は鈍いらしい。
「もう、鈍感なんだからぁ。女心、ちっとも解ってない!」
愛人、人妻などに幾度、責められたことか・・・
(あ、もちろん、モテナイおっさんの妄想です・・・)

「氣入れ」したグッズや昔からある浄化装置も使うが、
結界は「意識」だけでも張れる。
「氣場」の状態やその他の条件によって大きさは異なるが。

  結界・2
11/12 (金)

「結界」には大きく分けて二種類ある。
ある条件がそろわないと入(出)れない(結界と、
ある条件があると入(出)れない結界だ。
ほとんど排他的な結界と、一部のみに作用する結界だ。

昔からある神社や寺には結界が張ってある。
しめ縄であったり、木や石や造形物が使われているが、
時には、経や呪(じゅ・呪いじゃないよ)であったりもする。
そして、稀ではあるが、そこの管理者の意識であったりもする。
ようするに、何でも結界には使われるのだ。
もちろん使われるモノにはそれ相応の(見えない)力がある。

本来の「破邪の業物」を作り出す刀鍛冶師なども同じだ。
神社と同じような「結界」を張り、常に自身を浄化しながら、
一打一打に「氣」を込めて作る。
刀は(本来は)人殺しの道具じゃないのだ。
鍛冶師の場合は「火」を扱う。
「火」は魔や邪を寄せ付けない結界となる。

「闇・魔」を扱う為に「結界」を張る場合もある。
これらは通常は秘密裏に行われるから、知らないままでいい。
人間にも特殊な(闇側の)連中がいるのだ。
興味本意に近づくと、ケガじゃ済まない。
マジメに近づくと、更に最悪の事態となる。
それでも近づく一般の人達がいるが、ホント、止めた方がいいよ。
それは愚かというものだし、それじゃ済まなくなるよ。
(一応、警告したからね・・・絶対不幸になるからね)

ワシ等のような治療師も「結界」を張るが、
「闇・魔」を扱うわけじゃなく、係わってしまうのだ。
ワシも闇(病)より、明るいネ〜チャンの方が好きだ。
だけど「来るモノ、拒まず」だから、しょうがない。
ただし、クライアントに付いてきたモノだけだ。
余計なモノにまで手を出すほど無知でもモノ好きでもない。

闇(病)人にもよるが、中には「闇の塊」を付けてくる。
大きさや強さも様々だが、結界内で治療する方が早くすむ。
結界内というのは、波動フィルター空間のようなものだ。
こういうモノ(闇波動)を付けている場合は、
同種のモノ(波動)を呼び続けている。
放っておくと、どんどん増えて、大きくなってしまう。
だから外から余計な邪魔をされないようにする。

ワシの場合は、神社などの「結界」を更に発展させている。
仕事が回復力の増強だし、生命の応援だ。
結界内を「氣場」として、濃い「調和氣」で満たすのだ。
これにより、単なる「結界」から「治療空間」になる。
結界内にいるだけでも、回復力が増すように作ってある。
(内緒だけど、この方が楽できるんだ・・・
ワシはいかにして楽になるか、工夫するナマケモノだ)

  結界・3
11/13 (土)

ワシは仕事柄、意識して「結界」を作り活用するが、
「結界」の定義を広げれば、誰でも無意識に作っている。
例えば家は「結界」でもある。
アナタが泥棒さんになったつもりで想像してみよう。
(この、なったつもりゴッコは意外と気づきが多いぜ)

特別な防犯システムが無くても、
「入りやすい家」と「入りにくい家」がある。
(ワシ家のように、入っても意味の無い家もある・・・)
その違いは家族の普段からの意識の違いによる。
「結界」は見えないフィルターのようなものだ。

面白いと思うのは、
泥棒さんにとって「入りにくい家」は、
知人にとっては「入りやすい家」なのだ。
(誰にとっても入りにくい家もある・・・家族にも・・・)
知人と泥棒は同じ人間でも意識が違う。
ある(意識)波動はフィルターで止められてしまう。

「結界」ってそういうモノなのだ。
防犯システムは泥棒さんと知人を区別しないが、
「結界」は両者を完全に区別して壁を作る。
(力技で入る事はできるから、完全な防犯にはならない。
この世は意識よりも物質優先の舞台なのだ・・・)

当然「結界力」には強弱があるが、
「何に対してのフィルターか?」なのだ。
「結界」は単なる自分を守るバリアーじゃない。
守るだけなら核シェルターがお薦めだ。
核シェルターに暮らしてみれば、
「守りは幸せじゃない」と気づくだろう・・・。

自分を守るのは安全かもしれないが、
心の安定にはならない。
心はヒネくれているのだよ。
安全を求めると・・・心は不安定になる。
(ガードマンが増えるほど、安心できない)
心は開放できると、満足になる仕組みだ。

「結界」は安全の為に使うモノじゃない。
「幸せ」の為に使うモノなんだ。
相手と自分の双方を存在させるために使う。
お互いが、より暮らしやすくする為にある、
一つの技であり、グッズでもある。

例え「魔」や「闇」であっても、
相手を滅するのはこの世界の唯一のタブー。
とはいえ、誰とでも仲良くはできない。
ワシのような心の狭いオトコは尚更だ。
魔と仲良くしたいとは、思わない。
(来るものは拒まないけど・・・
意思薄弱、意思軟弱なんだ・・・)

だから「入っちゃダメよ」
あるいは「迷惑だから、出ちゃダメよ」
という「場」を作るのだ。
プライバシーってヤツ?
(ち、違うだろ!!)

  結界・4
11/14 (日)

強く断れない性格だ。
入ると殴るぞ! と言えない。
力ずくで追い出せない(貧弱だぁ・・・)。
上手く断る術もない・・・。
(結婚を本妻に押し切られるわけだ・・・
愛人が次第に増えるわけだ・・・)

だからワシは「結界」を使う。
相手(魔)が勝手に入らない。入れない。
勝手に出られない。
相手が魔や邪であっても、モメゴトは嫌いだ。
(まてよ?積極的に係わっている仕事だなぁ。
それほど魔や邪が嫌いでもないしね・・・)

この「結界」の副効果なのだろうか、
ワシに係わるクライアントは「いい人」ばかりだ。
(たまにはヨイショ・・・)
「氣」の合わない人は入ってこられない。
係わっても、二度と来ない・・・。

浅い精神世界の話では、
「その人の波動が魔を引き寄せる」
なんていうけど、そればかりじゃないんだなぁ。
深い意味の「縁」というのがあるんだなぁ。
だから「魔・邪」だけに「結界」は効果をする。
本人も魔の仲間なら、最初から入れない。

人の生き方は様々だ。
魔や闇と仲良くしたって良いと思う。
勝手にやってくれ!だ。
だから「魔や闇や邪と離れたい」
と思う人だけがクライアントとなる。

「結界」を活用して「氣功次元結界」にすると、
依頼しただけで、依頼内容の半分は済んでいる。
実際に会えたら、三分の二が解決している。
一度でも受けたら、四分の三が消えている。
何度も受ければ、依頼以上の効果が増えるだけだ。
(そんな感じだけど、これは比喩ですよ。
宣伝しているわけじゃないけど、
半分事実だから、固定概念で判断しないでね)

「結界」は最初から使っていたが、
その頃はこんな使い方をしていなかった。
そんな余裕も無かった。
いろいろを「守る」為に使っていた。
(今も変わらずに余裕の無いのは現金だけかも)

「いいかげん道」も10年も修行すれば、
一応、二流くらいにはなれる。
二流をバカにしてはいけないよ。
二流でもプロ側にいるのだから、
「結界」の新たな使い方くらい開発するぜ。

  結界・5
11/15 (月)

こんな事を書くつもりじゃなかった。
なのに手は勝手に文章を作っていく。
世の中なんて、こんなもんだ。
我が子、我が妻、我がムスコ・・・。
いう事をきかない・・・。
心もいう事をきかない。
手だって同じだ。
勘当してやる!

フッ、と思いついた事があった。
「そうかぁ、体は結界なんだ」
この事を書くつもりだった。
何故、体があるのか?
体の役割は何か?

ワシの氣功は心が空っぽでないと使えない。
ちょっと違うか・・・
心はロクデナシのままなのだが働かない状態だ。
(それじゃ、普通だし・・・何といっていいのか・・・)
心は何処かに行っている状態かな?

そんな時に、フッと浮かぶ事がある。
ほとんど、ショムナイ事ばかり・・・。
閃いても、役にたたない・・・。
言っても、理解されない・・・。
でも、閃いてしまったのだから、しょうがない。
「体は、結界!」
ワシ的には、心が晴れるような納得なんだけど・・・。

物質と非物質が混同しているのが、この世だ。
何故、不自由な「体」が必要なんだろう?
不自由と引き換えに、何か特徴があるはずだ。
グレちゃんのことだから、完璧な仕組みがあるはずだ。
(相変わらず、グレちゃんを過大評価しています。
ワシも結構、謙虚じゃない?)

あの世なら、波動だけだから同波動帯でしか交流できない。
異なモノとの交流は出来ない。
異なモノが入り込む事はない。
だから「結界」も必要ない。

ところが、この世は物質世界だから、何でもアリだ。
混乱、淫乱、カオス、混同、乱筆、メンドウがある。
だからといって、何でも勝手に交流されては困る・・・。
どんな相手とも交流できる自由はあるが、
勝手に混乱や淫乱をされるのはなぁ・・・
そう、グレちゃんは思ったんじゃないかな?

「そうだ!体に結界を付けてしまえ!」
一応、グレちゃんは創造主だ。
思いつきであっても、そう創られた。
これって、結構便利だと思うよ。

  結界・6
11/16 (火)

こんなテーマの雑文で、これだけ引っ張れるのなら、
ワシだって退屈な役人仕事も勤まるかもしれない。
公務員全員を一まとめにして揶揄してないけど、
どうでもいいことを何年も続けている役人仕事も
世の中には沢山、沢山、沢山溢れているんだなぁ。
でも、こういう事をつい、口が滑るというか、
手が勝手に滑るというか書いているから仕事の依頼が無い。
(違うだろ、才能やその他モロモロが欠けているからだろ!
そうです。ワシは自分の事を棚に上げるのが好きです。チュ!)

閑話休題・・・
「体は結界」
嫌な奴とは付き合わなくていい。
でも、ワシのように気が弱いと断りきれない。
だから自然に付き合わなくていいような仕組みが備わっていた。

それなのに・・・
「人間、皆、平等。区別なく愛しなさい!」
なんとなく、こんなアホな常識がまかり通っている。
それじゃあ・・・変態だろ?
あるいは・・・偽善者だろ?
他人にウソをついてもいいけど(ダメ?)
自分にウソをつくとバチが当たるぞ。

ワシは博愛主義を目指している。
特に気前のいいオナゴは区別しないで愛したい。
人妻だろうが妖怪だろうがヨシヨシしてあげる。
そんなワシでも「区別なく愛しなさい」はヘンだと思うよ。
嫌いなタイプの人とも付き合うのが浮世だが、
無理して本気で受け入れてしまうと病気になる。

「結界」を外して区別無く受け入れると、
自分の内側は深く乱れてしまう。
こういう人を治療していると、
世の中、間違った倫理観が多いなぁ、と思うよ。
何のために「体」があるか?
せっかくグレちゃんが親切に創ってくれたんだ。
グレちゃん(自然の理)を無視すると病気になる。

嫌な人とは付き合わなくていい。
社会上係わらなくてはならない時は、
芝居で付き合ってくれ。
本気で愛さなくていい。
好きな相手だけ受け入れればいい。

健康を維持すれば自動的に「結界」は張っている。
誰でも自然体なら「体は結界」なんだ。

  まわり道・1
11/17 (水)

ワシは楽天思考だし、楽天嗜好だ。
楽天志向だし、楽天試行も意識してする。
(注:IT企業の楽天から賄賂はもらってない)
そんなワシでも辛い事もある。
本妻がいう事をきかない・・・。
そんな程度なら何とも思わない。
いよいよなら家出してやる・・・。
(出て行け!なんて怖くて言えない・・・)

振り返るのは好きじゃないけど、
何で未だ、こんなままなんだ?と思う。
社会に出てから、イロイロやった。
結婚もハズミでしちゃった。
子供もハズミで出来ちゃった
それからイキナリ、こんな道に入った。

40歳を過ぎてからの乱心だった・・・。
店は閉店し治療院に変わった・・・。
下の子は一才前だった・・・。
本妻は泣き、愛人は・・・あれ?違うなぁ・・・
本妻は平気だったし、愛人はいなかった・・・。
毎日、未生活状態で(結構面白かった)、
いつの間にか10年が過ぎた・・・。

本妻は相変わらず平気だし、
愛人は増える一方だった。
子供達は大きくなった・・・。
実際に大きくなってきて、困った・・・。
(靴が4人分変わらぬ大きさで、可愛くない)

何とかプロとして一人前を自覚できたが、
(あっ、収入的には立派に半人前ですぅ・・・)
社会的な年代からすると20年は遅れている。
ボチボチ、早期定年退職する同級生だっていそうだ。
これからマトモに働くとして、20年は若返る事にした。
若返りなんてメンドウだが、しょうがない・・・。
ワシはこれでも社会を気にしている小市民なのだ。

でも、なんで一人前が今頃なんだ?
どこかで「まわり道」をしていたのか?
そもそも「まわり道」って何だ?
一人前になっても、相変わらずヒマなワシは、
美味しいコーヒーを飲みながら冥想する。
(昔は喫茶店のアホマスターだったのだ。
冥想は目を瞑ることじゃない・・・)

  まわり道・2
11/18 (木)

ワシの観方の基本がある。
何度もしつこく書いているのは、
基礎とか基本とか土台とか故郷とかあれば、
それだけで迷っても灯りが観えるからだ。
「この世はヒネくれている仕組みだ」

グレちゃんは意地悪じゃない。
優しいと思う。
でも、オチャメではある。
それが「ヒネくれ」だと思う。
優しさはマジメじゃないんだなぁ。
だからこの世は優しいとも思う。

以前にインド・ダラムサラのチベット亡命政府で、
「チベット仏教特別講座」を受けた。
(変人・奇人のワシ等のグループに無謀な事を・・・)
チベット仏教大学生達にもめったに講義をしないという、
高僧高齢のゲシュナム・リンチェン師が講師をしてくれた。
(高僧は難しい話をしない・・・から、深いのだ)

あるレベルの人達には共通の雰囲気がある。
優しい。
笑顔がチャーミングとでもいうのか、とても素敵だ。
そして時々、イタズラ小僧の瞳で冗談を言う。
オチャメなワナを仕掛ける。
この世が愉しくて仕方ない。
人が可愛くて仕方ない。
そんな雰囲気が伝わってくる。

グレちゃんや高僧の爺っちゃんがする事なら、
ワシは無条件で信用する。
たぶん・・・この世は真っ直ぐじゃない。
一番愉しい道は、真っ直ぐじゃない。
それは確信に近い。

まわり道には宝物が落ちている。
まわり道には遊びが待っている。
愉しさや嬉しさは「まわり道」にある。
何故って・・・・
この世はヒネくれているからなんだ。

人間はせっかちだから、
正しく真っ直ぐなモノを追いかける。
でも、神様はせっかちじゃないから、
幸せになる方法を教え導く。
自分の思い通りにならない人生は、
神様が応援しているのかも・・・・

ワシなど、好きで横道にそれる・・・
まわり道より無駄な道を歩いてきた。
こうなりゃヤケだ。
食べ始めたラーメンは途中で止められない。
(ワシ流の珍言だと、こうなる。
いや、もっと好きなのがあるけど・・・
下品すぎて、ここでは書けない・・・・
こういう無駄話が横道だ、ちゅうのに・・・)

  まわり道・3
11/19 (金)

ワシが御幼少の頃。
小学校の昼食時間は椅子の上で正座をして食べた。
食事は正座で食べるもの、と思い込んでいた。
反動というのがあり、
今は美味しいモノは漫画を読みながら食べる。

御母堂の仰るには、ワシの美少年時代は、
松が曲がっているのが気に入らない性格だったとか・・・
反動というのが天理としてあり、
今はオナゴの曲線をこよなく愛している。
(た、ただのスケベなオッサンじゃないかぁ)

以上の極めて個人的な狭い判断材料から、
真っ直ぐなモノ、正しいモノを理想とすると、
反動でグレてしまう、という事が判明した。
「グレる」は「ハグレる」の意味であり、
真っ直ぐな道から、横道に入り込む事をいう。

「グレる」はグレート・サムシング(創造主)、
通称「グレちゃん」と同じ音でもある。
音が同じだと、波動は通じ合うのが原理。
グレちゃんと通じ合えば、たいてい何とかなる。
グレちゃんは優しいから自然と「幸せ」に導く。

まわり道、横道、はぐれ道。
思いもかけない出来事が待っている。
計算以外の出来事との出会い。
「生命」は計算外からの応援で活動する。
(グレちゃん達を計算できると思うなよ)
だから、はぐれたら、ラッキーなんだ。

子供がグレたくらいでオタオタしない。
グレたくらいでオロオロしなくていい。
特に親は子供を想うあまりに間違う。
真っ直ぐな人生を歩ませようとする。
真っ直ぐな道は不幸になる確率が高いかもしれない。

それにね
グレて困って学ぶのは子の人生なんだし・・・。
親の人生じゃないって。
困ってもいいじゃない。
傷ついてもいいじゃない。
その方が後で面白いって。
(あっ、つい、余計な口出しを・・・)

ワシによる、ワシの為の応援歌。
ワシの「まわり道」人生は素晴らしい。
「まわり道」こそが最良の道だ。
これからも、はぐれたら、ラッキーと感謝するぞ。

この文章こそが、我田引水、独善世界なのだ。
やはり、文章はこうでなくちゃ・・・

  まわり道・番外
11/20 (土)

この雑記で「紅の国」という即興創作を書いた。
よく恥ずかしくないなぁ、というくらい酷い出来だった。
平気じゃないけど・・・恥ずかしさがマヒしていると思う。
そもそも、日記の類はそんなものだ。
創作モノだって、そんなものだ。
生きている事だって、そんなものだ。

ヘタに振り返るから恥ずかしい。
過去なんてあの世に行ってから思い出せばいい。
未来を夢見るから、恥ずかしさは痛手じゃない。
ワシはいつだって開き直れる・・・。
ワシはいつだって独善世界に住める。
天上天下唯我独善!
(き、気に入ったぁ。これから使おう!)

ワシが書くモノはワシと手(御筆先様)の合作だ。
文章表現が稚拙なのはワシ(頭)のせいだが、
表したい内容は手様の担当だ。
だから内容の凄さはワシが驚く事がある。
しかし文章はワシが担当だから他の人には伝わらない。
残念!(ワシに伝わるから、いいかぁ♪)
慌ててワシに取り付いた御筆先様のミスだ。
ワッハッハ。この世はミスマッチの世界なのだよ。

「紅の国」で感心した内容(手様の担当)がある。
「山は高さと周囲に深さがある」
「山は上る為だけにあるわけじゃない」
「上るのは、元に戻る為(帰り道の確認)」
深読みすれば、まだまだあるのだが読みきれない。

山の周囲に広がる様々な結界の世界には、
「迷い道・はぐれ道」から入る事ができる。
真っ直ぐな道からは観えない世界なのだ。
入ってから来るべき世界だと知る事もある。
求めていた世界だと納得する事もある。
「迷い道・はぐれ道」は「まわり道」。

そもそも山に上る道も同じだ。
真っ直ぐには上(登)れない。
例え(目指す)頂が見えていたとしても、
真っ直ぐな道は存在しない。

時には頂を目指すのに下る事もある。
下らないと上れない仕組みがある。
無駄な事を経験しないと次に続かない。
ジグザグと螺旋と上下を繰り返して、
その人に必要な「まわり道」となるようだ。

迷いっぱなしで人生が終わる?
そんな恐れもしなくていいよ。
人生は今生だけじゃない。
それにね、誰だって未完成のままなんだ。
「まわり道」を体験するために来ているんだ。

  手・1
11/21 (日)

「手」はヘンな奴だ。
体の一部ではあるが、別な存在でもある。
他の部分と違い「手」は本人の意思で動ける。
他にも動ける部分があるが「手」ほどじゃない。
足や口が「手」の代わりとなる事もあるが、
それは特殊な場合のみ可能なのだ。

目や耳は意思を反映するが、自由ではない。
例えば「目」は見たいものを見たり、
見たくないモノなら閉じる事はできるが、
あくまで、前面に限る。
真後ろを見る事は出来ない。
眼球の動かせる範囲は僅か顔の中だけ。

「耳」は閉じる事さえ出来ない。
本妻に「アナタ、何も聞いてないのね!」と言われるが、
「耳」は聞きたくない事をキチンと聞いている。
ただ・・・脳が認知しないだけだ・・・。
あるいは・・・すぐ、忘れている。
我ながら、いい性格だと思う。

足は移動するのには便利だが、
かゆいところに届かない。
ボールや相手を蹴るのも得意だが、
可愛いオナゴを撫でるのは不得意だ。
握手も出来ない・・・。

ムスコは更に言うことを聞かないが、
詳しい解説はしないでおこう・・・。

心臓や肝臓や腎臓などは完全に勝手だ。
「毎日毎分ご苦労さま!今日は休みにしていいよ」
そう優しい言葉をかけても、言う事を聞かない。
どうやら「優しい」だけではダメになる事もあるようだ。
それにしても・・・内臓って生真面目だよねぇ〜。
ワシが心臓だったら、持ち主はもうこの世にいない・・・。

体のどの部分よりも「心」に忠実な「手」
だから「手」は「心」と「体」をつなぐ役目がある。
「手」の代わりになるということは、
「心」の代わりになるということなのだ。

体を「自分のモノ」と思い込んでいる人が多い。
「自分のモノ」なら自由に出来るだろ?
病気にさせる事が出来るなら、自由に治せるだろ?
ところが・・・思うようにならない。
死んでも「体」は持ち帰れない。
「心」は持って行くのに・・・。

「自分の心」が自由にならないのは、
「心」は性格がイジケているからだ。
「イジケ・ネジレ」が「心」の成分なのだ。
だから「綺麗な心」はありえない。
「心」が消えたとき「綺麗」になるんだなぁ。

  手・2
11/22 (月)

心はネジレや曲がりで出来ている。
心の無い人はいないから(少ない人はいる)、
人間はネジレているし曲がっている。
体は借りモノだけど、心は自分のモノ。
だから、心は体を労わる責任があるんだ。

ところで、ワシが出会った素敵な人達は、
(表現がヘンだけど)とても心が少なかった。
心を自我と置き換えれば、何となく解るかなぁ・・・。
心が少ない分は(たぶん)愛が溢れていた。

心が少なくなると・・・
「手」は心以外の何かを受け持つ。
それはそれぞれの人によって違うようだ。
例えば・・・天性の画家や彫刻家。
棟方志功の作業映像を見ると、
あきらかに本人以外のモノが「手」に宿っている。

ワシの場合は本業である「氣」。
宇宙だか地球だか神様だか知らないけど、
そこからの周波数と同調するようだ。
ワシは優秀じゃないが天職だと思っている。
天職である「手」に変わったと思っている。

これは素敵な人達のように心が静かになったわけじゃなく、
ワシの場合は心を動かす根性が極端に少なかった・・・。
邪心や乱心は好んでいるのに根性が無い・・・。
それをオッチョコチョイの何者家が間違えたようだ。
ワシは不マジメな心が可愛いし、使いたい。

どういうわけか解らないが、
「手」に付いたモノは10年も離れない。
お蔭様でこれが職業となった。
一応「手様」でメシを食っている。
敬意を評し、手に足を向けて眠れない・・・。

人妻やね〜ちゃん、ばあちゃんも喜ぶ。
「気持ちいいねぇ。この手、持って帰りたい」
本気でいうと・・・・恐い。
ナタなど持ってきてないか、確かめよう。
時々、泣く人もいる。

近頃はオッサンが増えた。
「あ〜、きもちいい」
う〜m・・・
そうオッサンに言われてもなぁ・・・。
本気で口説かれたら・・・どうしよう?

ワシはオナゴなら人妻でも妖怪でも歓迎だが、
「手様」はワシ以上に節操が無い。
オッサンでもケモノでもオバケさんでも区別しない。
「手様」が主導権を握っている時、
ワシの心は隅で小さくなっている。
「それ・・・き、嫌いなんだけど・・・」
確かにワシの心はあるのだけど、僅かしか動かない。
これは自分でも不思議だと思う。

  手・3
11/23 (火)

理屈じゃわからない。
というか・・・
理屈で解る事など、ほとんどない。
この世の事の半分以上は理屈じゃない。
(ワシは97%くらい理屈じゃないと思う)

ワシは十代の終わりから精神世界という、
とてもアヤシイ世界に係わりだした。
でも、ワシの事だから熱心じゃなかった。
熱心じゃなかった事がワシを救った。
偶然じゃないだろうが、歩き方は正しかった。

それから20年経って急に別な道に入った。
お師匠様が出現した。2人も・・・。
不肖の弟子ではあるが「気づき」は得た。
それまでの精神世界の霧が薄くなった。
(晴れてはいない、と思うよ)
そして・・・更に10年経った。

わかった事がある。
ほとんどは・・・解らん、とわかった。
少なくても、頭では理解できないと、わかった。
だから基本は「わからん!」
わからないのだから、何でも認める。
何でも、アリ、だ。

ワシの「手」がイキナリ「手様」に変わっても、
理屈じゃ説明できないけれど、アリ、だ。
この世はなんでも、アリ、なのだ。
アリ、の母(基本)は、
「ありのまま(ママ)」だ。
(自然体ともいうなぁ・・・)

禅やヨガの行き着くところも同じかもしれない。
行き着くと、たいていは元に戻っているもんだ。
余計な事を考えない赤ちゃんや胎児の頃と同じだ。
最初から備わっているモノが素直に活用できる頃だ。
次第に余計なモノまで身に付けて歩き出す。
そして余計なモノを脱いでいく事が「学び」となる。

「学び」を「身に付ける事」だと勘違いしがちだけど、
「身から外す事」が「学び」であり基本でもある。
基本を知れば、解らない事だらけでも何とかなる。
誤解しないでね。ワシは行き着いてないし、
行きたいとも思わない。煩悩が好きなんだ♪
煩悩を愉しむ事も生きている証だと思う。

最近は「手様」が常時のさばっていて、
煩悩を愉しもうとしていても氣功になる。
つまりその状態は、心が僅かになってしまう。
マジメも不マジメも僅かになり働かない。

不埒な行為が出来ないわけじゃないが、
心や感覚はボケ〜としている。
手様は本体が手しかないので、
ワシに嫉妬してイジワルをしているのかも・・・

  手・4
11/24 (水)

ワシは我欲も煩悩も大切にしているのに、
根性が少ないので「心」が保てない。
その為か「手」は心以外のモノと通じている。
「手」は「心」が無いと淋しいのかもしれない。
案外、情けないヤツだ!

普通の人はワシよりも根性がある。
「心」も豊かだ。
豊かだから悩んだりするようだ。
「持つ者の悩み」かぁ・・・。
うらやましいなぁ・・・。
金や群がるオナゴや地位や才能やその他モロモロ。
一度くらい悩んでみたい・・・

「手」は「心」の代行者だから、
生きている人は最低限の義務がある。
法律も学校も会社も社会も教えてくれないが、
誰にでも共通で最優先すべき大切な行為だ。

世の中ってヘンだと思う。
命が大切だって言うじゃないか。
特に自分の命は大切にするよね。
専門家(何の?)とかエライ人も言う。
でも大切にする具体的行為は指導しない。

専門家?もマジメ顔で言うけど、
自分で自分を大切にしてないよねぇ。
その代わりに命を縮める行為は好きみたい。
ひょっとしたら・・・知らないの?
世の中って・・・ヘンだと思わないか?

まぁいいや。
世の中がヘンなのは不思議でもないし、
ヘンだからワシでも暮らしていられる。
世の中のヘンはどうでもいいが、
命は大切にしなくちゃならんぜ。


「してはいけない事」
「しなくてはならない事」はそう多くないが、
無闇に殺さない(自由を奪わない)事と、
肉体を労わる事は含まれるんだ。
生きているモノ達の約束だ。

人間においてその具体的行為がある。
行為は暮らしの中に溶かして行うものだ。
他(人)とのスキンシップもいいけど、
自分で自分の体を労わる行いだ。
それが「手」の大きな役目だ。

「体」は借り物。
「心」は自分。
「手」は「心」の代行者。
しかも体に一番身近・・・。
(って、体の一部だし・・・)

  手・5
11/25 (木)

「体」は借り物だけど、管理は自分だ。
一生借りて、壊れた時に返すレンタカー。
だからこそ責任を持って大切に扱う約束だ。
そんな事を忘れて生きている場合が多すぎる。

人間同士の約束は破ってもいいけど、
(トラブルがメンドウな人は守った方がいいよ。
歴史をみれば政治家や国家などウソの約束だらけだ)
神様との約束を破るのはマズイんじゃないのか?
社会常識は逆になっているぜ。

普通の人は「心」がキチンと働く。
でも「心」は幽霊みたいなモノだ。
「思っている」だけじゃ役に立たない。
「思い」は伝わる事はあっても役には立たない。
異論が出そうだけど、伝わる事は自己満足の世界だ。

「思い」より「行為」が重要な世界がこの世。
だから物質(肉体)界なんだぜ。
「思い」優先の世界は(たぶん)あの世だ。
悩むだけなら、あの世に行ってからで十分だ。
この世は「行う事」が意味を持つ世界だ。

「神との約束」も同じだ。
「思う」「信じる」そんな事より「行う」事だ。
どうせ「心」は揺らいでいる。
生命は「揺らぎ」として表れている。
「揺らぎ」は感謝と歓喜なんだ。

幽霊みたいな「心」が実体として動けるのが「手」。
だから「手」は自分の管理する「体」を労わる。
(借りてきた)「体」を愛しむ。
「ヨシヨシ、毎日、イイコだね」
撫でてあげなよ。

「体」って不思議なんだ。
元々が神様のモノだから、不思議なのは当たり前だけどね。
管理者(人間)の「心」が具体的な「行い」をすると、
病んでいても、急速に回復する力が湧き出る。
「体」が「心の具体的行為」(ナデナデ)を認めると、
「元氣」(大元の氣)が(宇宙の何処からか)届くんだ。

元気になるのは難しい事じゃない。
理屈はメンドウだから理解しなくていいけど、
「行い」は誰でも、いつでも、何処でも出来る。
誰にでも出来る仕組みが最初から創られている。
グレちゃん(創造主)って、エライ!

それなのに・・・する人は少ないんだなぁ。
だからワシの仕事がある。
本人の「手」の代わりになる。
「命」共通の「何か」が宿っている。

  手・6
11/26 (金)

人間って平等だと思う。
見方では不平等だけれど、
(顔スタイル才能財産モロモロ)
観方ではほとんどが共通している。
人間だけじゃない。
生物全般はほとんど共通している。

平等は人間側から言うべき言葉じゃなく、
創った側からなら平等だと理解できるんだ。
グレちゃん(創造主)は分け隔てしない。
優しい、というより・・・たぶん、
差別するのはメンドウだったのだと思う。
ワシが創造主なら、そうしている。

仕組み。
多種多様が集まって一つ。
地球に限定しているか、
この世に限定しているかはわからないけど、
全部が共通で成り立っているようだ。
それぞれの役目がある。

ミクロに観れば細胞がそうだ。
「何でオレが盲腸なんだよ」
「アタシ、肛門で一生を終えるの?」
「不平等だ!差別だ!同じ待遇を要求する!」
なんて不満をいうのは人間くらいだろうなぁ・・・。

だから「手」には「手」の役割がある。
そしてワシにもワシの役割があるようだ。
ワシは人間が未熟だし進化しようと思わないから、
たっぷりグレちゃんにも不満や不平を言うが、
それでも納得はしている。
不平不満なんて趣味だと思っている。

「何で?」と考えてもわからない。
する、しか無いじゃない。
こうなってしまったんだもの・・・。
見えないけど、ドブに入る仕事でもある。
悪臭腐臭漂う「場」を掃除する仕事でもある。

「変化」に立ち会えるのは大きな喜びだけど、
ドブが好きなマゾじゃない。
(それほど嫌でもない。というか、
氣功中は心が鈍くなっている。)
これらは「手」が中心で行っている。

一応、ワシの管理下の「手」だけど、
「ワシの手」でもなければ、
「ワシの心の代行者」でもない。
(これはワシの場合だけ。普通は心の代行者だよ)
ワシはお礼を貰うだけの役目だ。
そう考えれば、悪くないなぁ・・・。

  手・7
11/27 (土)

「手」が「手様」に変わってから、
ワシも少しは変わったようだ。

一流の投手は日常生活でも利き腕を大切にする。
寿司職人も掌を荒れさせない。
ピアニストもヘタに重いものを持たない。
微妙な感覚が狂ってはプロの仕事が出来ない。

というわけで・・・
ワシも一流を見習って力仕事をしない。
手が荒れるのは「手様」に失礼だ。
美味しいモノで栄養をつけなくちゃ。
時には面白いマンガで楽しんでいただこう。

そう思っていたのに・・・
「アンタ、一流じゃないでしょ!」
何も言い返せない・・・そ、そうです・・・。
それに一流の人達は自分の力だけど、
ワシはワシ以外の力が宿っているだけだ。

荒れた「手」はクライアントに失礼だから、
不快にならないようにしているが、
感覚はワシ以外から教えてくれるようだ。
ワシの努力のタマモノじゃない・・・。
むしろ、ワシがヘタな努力すると感覚が狂うようだ。
これが「手」でプロになっている人達とワシの違いだ。

では、ワシの何処が変わったか?
アソコとアレが変わったのだが詳しく話せない。
(そ、それ、単なる老化現象だと思うよ・・・)
ここで話してもいい下品じゃない箇所は、
変わったのではなく、消えていったのかもしれない。

「生きている事」は「常に変化している事」
ならば「手様」だからじゃなく、
生きているモノは誰でも変わっている。
ワシでも変わっているんだ。
(最初から変人というウワサも・・・)

死んでいる幽霊は、なかなか変わらない。
「変わらない」のは利点じゃないぞ。
「こだわり」であり「しつこい」のだ。
幽霊が「こだわり」を手放せば、成仏できる。
「心変わり」は生きている証だ。

幽霊と一緒にしては申し訳ないのだが、
「神」も「変わらない」。
どちらも、人間みたいに生きてない。
「生きている」魅力は「変わる」魅力だ。
ワシはクライアントを観ていて、そう思う。
いつでも変われる。
だから、未来に生きていけるんだ。

  手・8
11/28 (日)

「手」が「氣」を中継する「手様」に変わった。
すると、もう一つオマケが付いた。
「御筆先様」だ。
自動書記機能だ。

ワシは美少年時代から本を読むのが好きだった。
高校生になってから、少し書き事をしていた。
だが頭で書いていたから、筆が進まなかった。
嫌いじゃないのに、苦労して書いていた。
もちろん、秀作は出来なかった。
童話で佳作になったのが最高だった。

40歳を過ぎてから、この道に入った。
氣功師というアヤシイ立場になってしまった。
中国気功と違い、頭を空っぽにするタイプの氣功だった。
ボケ〜とするのは、ワシの特技でもあった。
だから・・・天職のように道を歩けた。

氣功時に頭(心)が空っぽになるクセがついたら、
随時、意識してスイッチが切り替われるようになった。
「書く時」もスイッチが切り替わる。
すると、勝手に文章が書けるようになった。
「そうかぁ、これがウワサの御筆先様かぁ・・・」

こういうモノが付いて解った事がある。
この世では肉体を持っている人間との合作だ。
人間側に才能がある程度無ければ、
「豚に真珠・猫に小判」状態なんだなぁ・・・。
ワシに付いた「御筆先様」は優秀だったかもしれないが、
オッチョコチョイでもあった・・・。

ワシはいい。
書いたモノを読んで感心する。
学ぶ事も多々ある。
でも、文体がハチャメチャだし、
ワシも直そうとはしないし、
他の人には解りづらい文章だと思う。

ワシとしては内容なんかどうでもいいから、
「売れる文章」を書いて欲しいのに、
「御筆先様」はワシの希望を無視する・・・。
ワシもお返しに下品を心掛ける・・・。
それでもワシから離れない・・・。

「手」も「手様」も「御筆先様」もいて、
ワシは「口」は悪いが、幸せ者だと思っている。
三者?共、尊敬もしている。
これから先もよろしくね(ハート)

  ごったくまつり04
11/29 (月)

今年の「ごったくまつり」が昨日あった。
第9回目になるから、9年目だ。
「無料氣功体験コーナー」として、
会場に来てくれた人の「癒し体験」を担当して7年。
いろいろが変わってきている。

「ごったく」というのは「ごちゃ混ぜ」という方言だ。
この地区のいろいろな活動をしている組織や会や個人が、
ごちゃ混ぜに集まって、一つのイベントをしている。
こんな活動をしている。こんな人もいる。
紹介も横のつながりも地域とのつながりも「ごちゃ混ぜ」にして、
みんなで愉しんでしまおう、という「まつり」だ。

基本的に営利を目的としない「まつり」であり、
行政が主導していた「ボランティア・フェスタ」と似ていた。
「ごったくまつり」は参加者、訪問者が非常に多いので、
「ボランティア・フェスタ」が相乗りを申し出てきた。
毎年運営費に苦労していた「まつり」も渡りに船。
合同で行うようになって、3年目になる。
これも「ごったく」のいい面だと思う。

ワシはとてもワガママな人間だ。
どんな素敵な組織であれ、どうしても違和感がある。
だからボランティアの組織には入る氣がしない。
群れが苦手なのだ。
そんなワシでも「ごったく」なら一緒にできる。

「ごったく」という考え方や運営の方法には、
これからの社会のあり方の大きなヒントがある。
個人と組織と価値観の違いを混ぜてしまう。
元々、ワシの生き方と同調できる。
ワシはハチャメチャが好きなんだ。

福祉センター全館(4階)で行う。
2年前からは高校生のグループが参加し、
60歳以上の人達と「ごったく」状態だ。
「生命」って、こういう事で活性化するんだ。
決して「若いモノ」の中にあるわけじゃない。

寂れてしまった商店街。
地方経済。
観光地。
日本中の経済界。
こんなに大きなヒントが観えないなら、
代表者は降りたほうがいいぜ・・・。
(あっ、余計なお節介を・・・)

ターゲットを絞って成長できない時代だ。
ワシは商人じゃないから観える部分がある。
「媚びる」商売はやめたほうがいいかもよ。
「全部」が対象とした行政・政治・経済じゃないと、
日本は続かない・・・。
もともと日本って「全て(自然)」の国なんだぜ。
(とても、お節介な雑記でした・・・すんません・・・)

  ボランティア・1
11/30 (火)

「ボランティア連絡協議会」というのに少し関係している。
最近は「ボランティア」という言葉が増えた。
流行みたいなところもある。
NPOを立ち上げやすくなったので、
いろいろな団体や組織が一斉に増えた。

世の中にはいろいろな人がいる。
人の心の中には、いろいろな部分がある。
この世界は「複合」で成り立っている。
人間もその心も社会も地球も宇宙も成り立っている。
だから「純粋」の部分もあるが、
「純粋」だけでは世界と係われない。

「ボランティア」も同じだ。
言葉に惑わされるが、中身は「複合」だ。
これは、少しでも関係してみるとよくわかる。
まして「人間」がしていることだ。
「純粋」だけで成り立つはずが無い。

こういう話は申し訳ないのだが本当なんだ。
あまり誰も言いたがらないけど、知る必要はある。
そうでないと、更に混乱と被害が出てしまう。
ヤクザでさえ「ボランテェア組織」を申請しているんだぜ。
詐欺グループなどにとっては、うってつけの名称だ。

「商人タイプ」の人達はもっと敏感だ。
ワシは悪口や道徳を説いているのじゃないぞ。
全て、何をしても許しちゃう。
「ボランティア」を利用して何をしようが、
世間を騙す隠れ蓑にしようが、そんなの当たり前だ。
人間社会、会社もだいたいは同じだと思うよ。

ただね「ボランティア」の言葉に「純粋」を求めすぎだ。
それは双方にとって、誤解だらけの社会を作る。
悲しみ、苦しむ人達を生み出す元になりやすい。
参加している自分の心にも苦しみを生みやすい。
本来は「暮らしやすいお手伝い」なはずなのに、
苦しみを生み出しては変だろう?

ワシはヘソ曲がりだ。
「組織」の綺麗事だけを押し付けられるのは好きじゃない。
額に縦皺を寄せている行為は金儲けだけで充分だ。
笑顔だけで過ごしたい為に「ボランティア」があると思う。
それは社会の為でも善意の心でもない。
「自分の気持ちよさ」がしたくて係わっている。

どうしても「ボランティア」の言葉とイメージは、
ワガママなワシには馴染めないんだなぁ。
「建前」や「綺麗事」が必要なのは、
食う為の仕事だけでいいんじゃないか?
ワシ流の「ボランティア」は自由気ままだ。

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