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立春
02/01 (火)

24節気で太陽の黄経315度。
360度で一回りだから、15度づつ分けると24。
その一つ一つに風情ある名前をつけたのだ。
基点となる春分が0度(360度)だから、
立春は、もうそこまで春が近づいているのだ。

暦の上では春、なんていうけどちょっと違う。
暦はそれぞれの為政者が勝手に定めたからだ。
今の主導はローマ暦だが、日本は陰暦(月暦)を使っていた。
13月あるマヤ暦や、イスラム暦、エジプト暦など様々がある。
いつの世も政治家は都合のいいように暦を定める。

ところが24節気は天文上の赤道と黄道の交わりから計算される。
それを、その場所に適した気候言葉に当てはめたものだ。
日本で使っている24節気は中国、揚子江付近のものらしい。
だから縦長の日本では立春といっても、北海道と沖縄には当てはまらない。
24節気は場所により違えるのが正しい使い方なのだ。

とはいえ、北半球では全体的な方向は同じだ。
本来は節分(24節の分かれ目)で邪を追い出し、
春を迎える(迎春)のが正月、新年なのだ。
節分(豆まき)は大晦日の行事だった。
日本では太陽暦より太陰暦の方が、気候に則している。

人間の体や心も大気の変化に対応する。
春が近づくと体もやわらぐ。
心も新芽が発生しやすい。
能力もレベルアップしやすい。
それらは「新たな縁」として現われる。

新たな縁、何かの始まりは、
その人にとり、都合がいいか悪いかは不確定だ。
最後まで不確定だと思う。
出来事なんて、どちらにも活かせる。
いい、悪いなんて、そんな事はどうでもいい。
新たな何かと出会う事だけが大切なんだ。
「出会う」為(だけ?)に、この世は創られた。

運命が変わる春。
もうそこまで来ている。
努力はいらない。
頑張らなくてもいい。
コートを脱ぐだけでいい。
脱ぐ準備(心構え)をしておこうぜ。

  光の春・1
02/02 (水)

強力な寒波襲来で大雪となった。
除雪が必要な場所が三軒。
屋根の雪下ろしが必要な家が一軒ある。
毎日のように除雪をしていると、
ノーテンキなワシでもボヤキが出る。

こうなったらヤケだぁ!
開き直りから明日が始まると、
一二の三四郎も言っていた。
(注:生意気な口をしたプロレスラー)
しばらく「春」の話で温まろう。
(春は暖まるだが、心は温まる)

「氣」は見えないが、現象に先駆けている。
「氣」が現象を創り、変化させる。
立春は「春の氣」の訪れを示している。
現象は真冬でも春は創られ始めているのだ。

最初に創られる春は「光」。
だから二月は「光の春」という。
力強さ、明るさが冬の陽とは違っている。
どんなに寒くても光は変わっている。

変化の最初は光。
どんな変化にも曙光がある。
闇(病)からの脱却も同じだ。
病状が変わらなくても曙光があれば大丈夫。
病(闇)は徐々に薄らいでいく。

大切なのは曙光に気づく事。
そして、その方向に進む事。
病状が変わらないからとアセッて、
せっかく光のある治療法を止めてしまう人が多い。

あるいは、その反対の場合も多い。
目に見える変化だけを追い求めてしまい、
光が見えないのに続けてしまう。
変化があっても光の無い治療では、
最後は壊れて(壊されて)しまうのに。

心を静めれば曙光は感じる。
「生命」は光に反応するからだ。
理屈で「生命」を判断しない。
「生命」は感性で判断するものだ。
こんな「当たり前」を忘れている時代になった。

巡る季節は誰にも優しい。
光を感じて、待てばいい。
春は来る。
冬のソナタにもアナタにも
春は必ず近づいている。

  光の春・2
02/03 (木)

「生命」は春に強く反応する。
「生命」が発生、増殖するのは「春の氣」。
だから「光の春」の二月でも反応は始まっている。
雪の下の土の中でさえ、すでに光を感じている。
すでに「春の氣」を受け止めている。

雨季と乾季だけの地域。
短い夏と残りは冬の地域。
常夏の地域。
四季の日本からは、そうみえる。
でも、地球上、どの地域にも四季があるのだ。

「生命の星」地球では、春の無い空間は存在しない。
深海の底でも、エベレストの頂でも春はある。
そこで生きるモノ達には感じられる春がある。
「生命」は春に発生し、春に活性するからだ。

そして、今、アナタがそこにいる。
ラッキーなことに、人に春は何度も訪れる。
せっかくの春に閉じこもり、
「アタシに春は来ない」なんて無茶を言わないで。
それ、間違いですから・・・。

春があるなら「光の春」もある。
感じられない人にも「光の春」は訪れている。
春は鈍感や政治家やゴキブリにも訪れる。
グレちゃん(創造主)は、ゴキブリと政治家の差別をしない。
ワシと違って、結構、優しいのね・・・。

寒い懐にも、寒いギャグにも春はある。
(希望的観測だが、あると信じたい・・・)
それなりに僅かな春であろうとも必ず訪れる。
寒い冬でも光は春。
寒い部屋でも光は明るいものだ。

懐やギャグに春があるか確信は持てないが、
闇(病)があるなら光は必ずある。
光があるなら、春もある。
闇(病)は春を内臓している。
闇は絶望じゃないんだなぁ。

春は気温だけじゃない。
「光の春」から始まっている。
光は誰にでも注がれているが、
受け取る(感じる)と温かくなる。

感じないモノも「春」に恵まれているが、
感じるモノは「春の気持ちよさ」にも恵まれている。
「光の春」を受け取るのも受け取らぬのも自由だが、
受け取れば、温かくなるし、気持ちいい。

  光の春・3
02/04 (金)

癖かもしれないし、性質かもしれないが、
「生命」には形がある。
「生命」が好む仕組みでもある。
「生命」にも「こだわり」があるのかぁ・・・。

「生命」は渦巻き(スパイラル)だ。
形も性質(癖)もスパイラル(螺旋)だ。
巡りながら進むヤツだ。
螺旋の仕組みが好きみたい・・・。
真っ直ぐに進むのは「生命」に適さない。

ワシも真っ直ぐに生きてないなぁ・・・。
螺旋ならいいけど、堂々巡りかもしれない。
ヒネクレて無駄に千鳥足かもしれない。
真っ直ぐも螺旋も自分では判断できないから、
「様々な生き方がある」ということで、いいかぁ。

大きな螺旋として、季節がある。
「生命」が活性する仕組みとして季節がある。
「生命」は巡るモノが好きなんだ。
グルグル回るモノが好きみたい・・・。
それを創ったグレちゃんもグルグルが好きなんだ。

そういえば思い出した。
病気からの脱却法にグルグルがある。
自分一人で回復できる方法だ。
とても簡単で経費もゼロ。
螺旋をイメージして、螺旋に動くだけ。
「生命」が活性するのだから、当たり前なんだけどね。

人って、素直じゃない。
簡単すぎると信用しないよね。
「生命」を権威や資格や理屈で判断する。
まぁ、いいけどさ。
難病でも重病でも絶大な効果があるけど、
教えても、実行する人は極少ない。

巡る螺旋の季節に春がある。
春があるから「生命」は甦る。
「生命」は春が好きなんだ。
「生命」は明るいモノと温かいモノが好きなんだ。
(ワシも明るく温かいモノが好きだよ)

光は上を向けば感じられる。
光は気づくだけで受け取れる。
受け取れば解る。
受け取れば(闇・病は)手放せる。

「二月の光」は「春」を連れて来ている。
だから二月は「光の春」という。

  光の春・4
02/05 (土)

豪雪です。
誰が何と言っても豪雪です。
異論の余地はありません。
満場一致の豪雪です・・・。
そういうわけでヒネクレモノのワシは、
意地でも「春」を書き続けるのだ。

日本の四季は期間がほぼ同じで訪れる。
12ヶ月÷四季だから、一季3ヶ月だ。
春は二月、三月、四月だ。
夏は五月、六月、七月だ。
秋は八月、九月、十月だ。
冬は十一月、十二月、一月になる。

それぞれの月に季節の名前がある。
二月の春が「光の春」
三月の春は「音の春」
四月の春は「気温の春」
春の愉しみ、喜びはもう始まっている。

春の光はやわらかい。
春の光はあたたかい。
春の光はのんびり進む。
春の光はねむくなる・・・。

今日は除雪で疲れ、書く元気が無い。
書く元気が無くても想う事はできる。
現実は豪雪との対応でも、
想いは春に寄せる事ができる。

心は現象がどんなであろうとも、
温かいモノ、明るいモノに近づく事ができる。
心が有るのも悪くないなぁ・・・。
今まで「ロクデナシ!」なんて言っててゴメンネ。

冬眠しているモノたちも眠りが浅くなる時期だ。
「光の春」になると目覚めの準備も始まる。
ケモノ達や虫達や植物達。
その内側で蠢く生命を感じている。

「見える光」と「見えない光」
どちらも感じる(受け取る)ものなんだ。
目を閉じて心を静めれば、
明るさを感じる。
明るさの中にある、温かさを感じる。
それが「光の春」ってヤツだ。

  光の春・5
02/06 (日)

足があるモノ達と無いモノ達。
足があるモノ達は移動できる。
つまり自らの意思で違う環境に動ける。
自らの意思で「出会い」を創れる。
(足には羽や水かきや尻尾なども含む。
蛇も一応足がある、ということで・・・)

足があるモノ達は他のモノに干渉できる。
だが通常は自然の許容範囲内だ。
許容範囲が判断できぬ生物は珍しい。
特殊というより、未熟すぎだろう。
我々人間は、他の生物より未熟なんだぜ。

足があると多少の季節を選択できる。
暮らしやすいように動ける。
渡り鳥は季節を選んで移動する。
虫も魚も環境を選ぶ。

人間は足だけじゃなく、手もある。
環境を移動するより、環境を作り変える。
許容範囲ならそれもいいだろう。
だが、季節を勝手に操作できると勘違いすると、
季節を感じる能力が衰えてしまうのだ。
人間は他の生物より感性が劣っているんだ。

感性ってのは見えないモノを感じる能力だ。
「光の春」を感じる能力は人間にもあった。
だから言葉が残っている。
だが現代の人間は極端に感性が衰退している。

「見えないモノは信じない!」
平然とアホな事を言う学識経験者がほとんど。
だから勉強すると愚かになるんだなぁ・・・。
勉強をしてもいいけど、勉強を信じないでね。
あれ、まだ発展途上の学問だから当てにならないよ。

見える春にならないと「春」だと感じないのでは、
昔の人に笑われないけど、ため息はつかれるなぁ。
だけど安心していい。
能力なんて向けば発達するものなんだ。
まして嘗ては備わっていた能力だ。
見えないモノを観る能力は、
決して人間が不得意な分野じゃない。

「光の春」を感じるのは難しくない。
「生命」に直接影響するモノは「勘」が働く。
「勘」は何度も使うと「観」に進化する。
「直観」まで使えるのが本来の人間の能力のようだ。
人間の進化の方向は自然が導いてくれる。

  変化・1
02/07 (月)

ワシは豪雪の中で考えた。
「何故、諸行無常なんだろう?」
グレちゃん(グレートサムシング・創造主)は、
諸行無常の世界から、何を示したんだろう?
(依頼が少ないと、ロクな事を考えないなぁ。)

解らない時にはコツがある。
「自然体」(素直になる・単純になる)
解らないモノは複雑と思うのは固定概念だ。
深遠なるモノほどシンプルでもある。
素朴な付き合い方をすれば、理解してしまう。

例えば・・・多くの人が迷う「愛」
シンプルなのに複雑に考えてしまう。
「解らない事は考えては解らないよ」という意味なのだ。
解らない事はそっと触れればいい。
そこに温かさが感じられれば充分だろ。

「諸行無常・万物流転」
刹那で変化するように創られているなら、
変化するように生きればいいのだ。
(自分勝手に)思うように変化は出来ない。
多種多様なモノ達と共生干渉して存在しているからだ。

何もしなくても変化はしてしまう。
どんなモノも時間(空間移動)と共に変化する。
岩も海も思いも魂も変化する。
見た目だけでも変化する。
生きている人なんて10年でかなり変化する。
(ワシも機能的にも変化しているなぁ・・・
うん、衰えたともいうね・・・)

ワシはナマケモノだから「幸せ」になりたい。
苦労は買ってでもしたくない。
買うのなら別のアレとかアレを買う。
楽で嬉しくて気持ちよく生きたい。
だからグレちゃんと共鳴しようとするのだ。
この世を創ったモノなら「幸せ」だって創ったはず。

偉い人間は沢山いる。
「幸せ」を解説する教祖様も沢山いる。
でもねぇ・・・人間だろ?
当てにならないから人間だろ?
それよりグレちゃんの方が確実だ。

ワシはグレちゃんのヒネクレ性格と共鳴した。
グレちゃんは「幸せ」を「自然体」の中に隠したと観た。
求めると観えなくなる。
追いかけると迷う。
ヒネクレている仕組みだ。

(綺麗に)アキラメると姿を顕す。
素直に生きると、勝手に付いて来る。
気まぐれに可愛がると尻尾を振る。
でも追いかけると逃げる。
ヒネクレているなぁ・・・。

  変化・2
02/08 (火)

道に沿った生き方を「自然体」という。

この世にあるもの全てが歩く道。
「生命」あるモノ。形あるモノ。形なきモノ。
万物が干渉しあい流転するように創られた道。
諸行無常の道を創ったグレちゃんは、
とってもオチャメなイタズラが好きなようだ。

ワシは今まで「自然体」というと、
自然(ありのまま)に任せる生き方だと思っていた。
グレちゃんを想っていたら、それは違っていたなぁ、と解った。
グレちゃんたら、ヒネクレているんだもん。
余計な力を使うと自他共に苦しみを伴うが、
何もしなくていいわけでもなかった。

「自然」とは少し積極的に係わる事なんだ。
当たり前だった。
万物流転の仕組みなら、当たり前だった。
多種多様が影響し合う世界なのだ。
相手に影響を与えずに存在する事は出来ない。

出会う相手とは、必ず影響し合ってしまう。
相手が生物でも無生物でも環境でも魂でもだ。
ならば生きているだけで調和(幸せ)を乱す事もある。
相手の調和(幸せ)を乱す事になる。
ただ生きているだけでは少し迷惑かもしれないし、
迷惑じゃなくても「幸せ」はあまり来ないだろうなぁ。

だから少し「調和」に働きかける。
それが当たり前(自然)という意味なのだ。
少し「調和」に参加する生き方。
地球に存在するモノの最低限の義務でもある。

大きく参加しようとすると、乱してしまう。
この世は絶妙な調和で成り立っている。
力が有る事は力を使っていい意味じゃない。
力を使わない生き方を学ぶ意味がある。
未熟で力がある人類は、とても迷惑になりやすい立場だ。
大きな親切な行為は、大きな迷惑(破壊)と同じだ。

少しだけ積極的に変化を促進する生き方。
ほんのり変化を愉しむ生き方。
道に沿って歩くなら、少しくらい綺麗にしよう。
双方が調和(幸せ)に少しづつ貢献するから、
自分が調和(幸せ)に生きられる。

当たり前(自然)というのは、巧く出来ている。
「自然体」に「幸せ」をセットにしたグレちゃんは、
とても洒落た(ヒネクレた)システムを創り上げた。
やはりタダモノじゃない(不遜な表現だなぁ・・・)

  変化・3
02/09 (水)

そんなに一所懸命にならなくていい。
一生懸命などならない方がいい。
人間社会の評価は頑張れば上がるかもしれないし、
自分の満足度も上がるかもしれないが、
自他の幸せ度は決して上がらないだろう。
頑張るほど迷惑(不調和)も大きくなる。
この世は自他の調和で成り立っているのだから。

でも何も働きかけなくて生きるのは、
やはり自他にとっても(小さな)迷惑だった。
何よりも存在する意味と意義も無くなる。
働きかけなくても、相手からの何かは受け取っている。
生きているだけで、与えられているのが事実なんだ。

「ただ生きる」「自然に生きる」とは、
「お互い様に生きる」という意味であり、
自分勝手に、こっそり生きるわけじゃない。
ワシは他を侵さなければいいと勘違いをしていた。

当たり前(自然)は「調和」が中心になる。
自然(森羅万象)は常に一定ではない。
「諸行無常・万物流転」は現象を表しただけの言葉じゃない。
だからこそ「調和」に参加する生き方を示していた。
そうでないと、諸行や万物は無に帰る。

「のほほん」の生き方は、隠遁生活じゃない。
他のナニモノかが歩きやすいように、
自分の歩く道幅分くらいは積極的に綺麗にしよう。
そういうのが「のほほん」の生き方だ。

自由な生き方は「お互い様」が基本だ。
他が歩きやすいように「氣」を配るから自分も自由に歩ける。
といって、余計な道まで手を出さない。
「氣」を配るのは、少しでいい。
行為は控え目でいい。
会う相手に微笑みかけるのは、当たり前(自然)。

必要だから変化する。
少しづつ干渉し合うから、変化する。
時間が決められているから変化する。
より「幸せになる為の変化」だ。

この世は「幸せになる」ように用意されている。
自然に「幸せになる」ように用意されていた。
なのに変化を止めたり、早めたり、無理をしたり・・・。
人は「幸せになる」のが嫌いなのかなぁ?

自然体から外れた変化は「苦しみ」で警告してくる。
人は「苦しみ」の方を手に入れたいのかなぁ?
どちらを体験したいのかは、個人の勝手かもしれないが、
ワシは苦しむのは好きじゃない。

  変化・4
02/10 (木)

ダイナミックな生き方をしたい。
波乱万丈の魅力ある人生。
刺激の無い人生なんてツマラン。
山あり、谷あり、川あり、海ありの人生。
言葉は格好いいが、甘えん坊のセリフだ。

恵まれている事に気づかないと、
「大きな変化」を求めてしまう。
ほんの少し指先が動いただけで、
とても幸せを感じられる人生もある。
一人でトイレに行けた。
それは素晴らしい出来事だと気づく人生がある。

生きているだけで山があり海がある。
山の中には木も草も岩も動物もある。
海の中にも様々なモノがある。
変化は山に登る事じゃなく、海に潜る事でもない。
変化は出会う相手との干渉作用だ。
山や谷や海や川で出会うモノ達との相互影響の結果だ。

変化が出会い相手との相互影響結果なら、
大小は関係なくても深浅の違いはある。
自分の内部の振動部分が深いほど「縁」も深い。
その結果として動かなかった指先が動けば、
変化は小さくても「幸せ」は大きい。

「縁」は変化を引き起こすが、
「福縁」か「凶縁」かは判断できない。
だが明るい波動は「ツキ」を呼び、
スネた波動は「トラブル」を呼ぶものだ。
「ツキ」は「やすらぎ」が好みのようだし、
「トラブル」は「刺激」が好みのようだ。

どちらの「縁・変化」を選ぶのも自由。
「トラブル」からは「学び」が出来るし、
「ツキ」からは「感謝」が出来る。
活かし方さえできれば、変化はどちらでもいい。
自然体の変化であれば、活かすことはできる。

変化は求めるモノでも拒否するモノでもない。
受け入れ、活かすモノだと思う。
自他への「調和行為」「不調和行為」が、
それなりの変化を必ず呼ぶものだ。

波乱万丈以外の人生なんて無い。
波風立たない人生なんて無い。
変化しない人生もないが、
変化を強く求めすぎる人生は間違いだと思うよ。
だって苦しむ事になるもの。

  変化・5
02/11 (金)

小さな意思が小さな変化を生む。
その変化と係わるモノ達は影響を受け、
自らの小さな意思を継ぎ足して変化する。
そうして生きとし生けるものも、
意思の無いモノも実体の無いモノも変化する。
その変化を受け、小さな意思は更に変化する。

「諸行無常・万物流転」
小さな意思と変化を融合しながら常に流れている。
大きな意思や大きな変化は他と融合(調和)できない。
急流も融合(調和)が間に合わない。
融合できない変化は破壊と破滅を生み自滅する。

「諸行無常・万物流転」は「優しい変化」を示している。
無理しなくていい。
少しづつ変わればいい。
他と融合(調和)しながら変わればいい。
ゆっくり歩いていこうよ。
苦しみも悲しみも融合(調和)できるから大丈夫。
ゆっくりでないと融合(調和)できないんだ。

誰でも苦しみ、悲しみから早く脱却したい。
だから最短、最速の方法を「諸行無常」の言葉で示した。
ブッちゃん(仏陀)は優しいんだ。
苦しみ、悲しみの人を観るのは心が痛いから、
いつでも「幸せになる道(方法)」を教えてくれている。

「ゆっくり変化する」
「調和に向かって、ゆっくり歩こう」
世界の為も自分の為も同じ道で同じ歩き方だ。
迷っても、迷わなくても同じだ。
ゆっくり調和していけばいい。
先が見えなくても大丈夫。
ゆっくり歩けば霧は晴れる。

キリちゃん(イエス)やブッちゃんは、
とても優しいオッサン達だ。
とても魅力あるオヤジ達だ。
真の優秀さは「とてつもなく優しい」という意味だ。
偉大というのは「苦しみを軽減し、幸せを示す」からだ。
魅力は素直と明るい笑顔(と冗談)で輝くものだ。

正誤や反省にこだわると優しさが無くなる。
間違い探しをしていては、明るく笑えない。
今までの事なんてどうでもいい。
これから、ゆっくり歩けばいい。
少しづつ、調和しながら変化すればいい。
苦しみは徐々に消え、幸せは増えるから。

「諸行無常」は優しい言葉だ。
迷ったら思い出せばいい。
あの魅力あるオッサン達の笑顔と共に。

  遥か彼方・1
02/12 (土)

昨日までの「変化」は毎日の暮らし方を示した。
必ず変わってしまう万物(人間)ならば、
幸せになる変わり方と、苦しみへの変り方がある。
平和になる変わり方と、破壊と破滅になる変わり方がある。

どちらを選ぶのも自由だが、理に沿った変わり方は「調和」。
ゆっくり調和しながら変化すれば、回復や改善にもなる。
暮らしという身近なモノとの調和は誰にでも当てはまる万能法だ。
この世は誰でも幸せに生きられるように創られていた。

この世はヒネクレている。
創造主のグレちゃんがヒネクレているからだ。
「身近な暮らし」に万能法を仕掛けたのなら、
「遥か彼方」にも万能法を仕掛けたに違いない。
ワシもヒネクレているから、パターンは読めてきた。

万物にとっての「遥か彼方」とは何処だろう?
何を指して「遥か彼方」というのだろう?
想像外の彼方なら、想像できないから話にならない。
ならば、想像できる一番遠い彼方を「遥か彼方」としよう。

想像力は人間ならば人によって違う。
だから「遥か彼方」も人によって違う。
基準にするモノも「時間」「空間」「次元」などなど、
その人によって様々に「彼方」を想像している。
それでも「遥か彼方」に万能法を仕掛けたようだ。
グレちゃんは、タダモノじゃない・・・。

基準も範囲も種類もその人なりでかまわない。
「暮らし」があるなら「遥か彼方」がある。
それを「夢」と呼ぼうが「未来」と呼ぼうがかまわない。
「個人の夢」でも「人類の未来」でも「魂の行き着く所」でもいい。
「暮らしより遥か彼方」にある、という想像だけでいい。

夢であろうが未来であろうが、信じなくてもいい。
そこに理想や望を貼り付けても、貼り付けなくてもいい。
「遥か彼方」を想えれば充分だ。
明日があるなら、遥か彼方だってあるかもしれない。
そんな感じで充分だ。

「変化」はどんな種類であっても自らの力だ。
急変で破滅型であっても自力だ。
ゆっくり調和型であっても自力だ。
どんな歩き方でも、動くのは本人だけだ。

「遥か彼方」を想う事で作用する力は、
「遥か彼方」からの力、他力なのだ。
しかも万能法もあるらしい。
ワシのようにモノグサは重宝する。

グレちゃんはヒネクレモノだが、とても優しい。
努力家でなくても幸せになる方法を用意している。
マジメと不マジメを差別しない。
努力家とグータラを差別しない。
中途半端な人間の賢者とは、かなり違う・・・。

  遥か彼方・2
02/13 (日)

努力し精進し研鑽し毎日を大切に生きる。
一つの事を継続すれば経過が変わり、結果が変わる。
上手く応用すれば「幸せ」になる。
(下手に応用すれば苦しみだけになるぞ・・・)

でも、そういうタイプの人ばかりじゃない。
そういうタイプを「マトモな魂」と仮定すると、
この世には、マトモな魂ばかりがいるわけじゃない。
不良、未熟、出来損ない、が沢山いるのだ。
ワシは人間はほぼ全員が出来損ないだと思っている。
全員が未熟だから、人間という種類だと思っている。
マトモなら・・・植物か鉱物に生まれ変わったかもしれない。

でも人間もマトモな魂がいる、と仮定しよう。
マジメな人は心が狭いから、そうしないと反発するからなぁ。
ワシは口が滑るけど、根性は無いので対立できない。
「ゴメンナサイ、ワシが多分間違ってます」
ゴタゴタはメンドウだから、謝ろう・・・。

未熟で根性無しの魂の一つとしてワシがいる。
ワシは我田引水、独善大好きなので、自分の味方だ。
世界中から非難されようとも自分を守る!
(そ、それは、少し見直した方が・・・)
自分に都合の良いように、この世の仕組みを解説する。
グレちゃん(創造主)は心が(あるなら)大きいから、
何を勝手に言っても(顔があるなら)微笑むだけだ。

グレちゃんは、ヒネクレているだけじゃない。
とてもメンドウクサガリ屋なのだ。
この世にある多種多様の魂を一々差別しない。
多分・・・区別もしないかもしれない。
「勝手にして」
環境を破壊しようが戦争しようが好きにさせておく。

創造主には「罰」という概念が無い。
創造主(神)に「罰」を持たせるなんて失礼だ。
(宗教関係者が神を理解しないのはどうしてかなぁ?)
グレちゃんだって「罰」があったらバツが悪い・・・。
腹のデカさでは、この世で一番なんだから・・・。

メンドウクサガリ屋の特徴がある。
整理整頓が苦手なのだ。
グレちゃんもそうだ。
(実はワシもそうだ。困ったもんだなぁ・・・)
玉石人工物幻その他諸々、混交混合乱交雑乱状態だ。

「幸せ」も「苦しみ」も何処にでも転がっている。
誰でも、どんな魂でも拾う事ができる。
未熟で不マジメでナマケモノの根性無しが拾っても、
グレちゃんはちっとも気にしないのだ。
不マジメが幸せになってモンクを言うのは、
マジメな正義感あふれる人間だけだと思う。

ナマケモノで根性無しだから、自力方法は向いてない。
ナマケモノでも他力を受けるくらいはできる。
(他力本願ではないよ。これはまた別の意味だ)
その楽な方法に「遥か彼方」からの援助がある。
魅力など何一つ無くても、援助交際はしてくれる。
グレちゃんは条件を付けるのがメンドウなのだ。

  遥か彼方・3
02/14 (月)

イキナリ、思い出した。
「ナマケモノのさとり方」という本を読んだ。
未だワシが二人の御師匠様や多くの先生達に出会う前だ。
でも30は幾つか過ぎていたから、15年前くらいかなぁ?

ワシは十代の終わり頃から「精神世界」に係わってしまった。
アイマイと不明と勘違いと光るモノが入り混じった世界だ。
ワシは天性の「いいかげん」があったから出入りが自由だったが、
マジメな人は、ほとんど迷宮に入り込む世界だ。
「素晴らしい!」と勘違いさせるモノが沢山ある。
知ってもいいけど、入り込むのはお薦め出来ない。

精神世界の歩き方も大分コツが解ってきた頃に出会った本だと思う。
それでも「悟り」などに反応している頃で、可愛いもんだ。
今では「サトリ」も「ヤキトリ」も趣味だと思う。
「アホウドリ」のマネをするのも趣味だと思う。
サトリとアホウドリに差が無い事が解ったのだ。

何故通り抜けられたか、今ではわかる。
「氣功師」という実践の体になったからだ。
頭(理屈)を空っぽにして「氣」を中継する体になり、
現実の「見えない世界(氣の世界)」と、
「見える世界」を調和させる仕事になったからだ。

苦しむ人の前でエラソウな理屈を並べても役に立たない。
理屈で霧が晴れても、すぐ曇ってしまうのだ。
「悩み」の解決は理屈じゃない。
30年も精神世界に係わって、やっと解った。
「人間(と他のもの)は生きている」
ワシはとてもアホだった・・・。
(アホなオトコやオナゴは可愛いとも思うが・・・)

過ぎてしまった事は、まぁいいや。
アホの自慢をしても、しょうがない。
「ナマケモノのさとり方」はそれなりに面白いが、
「サトリ」が趣味の人はマレだと思う。
でも「幸せ」(嬉しい・愉しい・気持ち良い)は、
ほぼ全員に共通する趣味じゃないのかなぁ・・・。

「ナマケモノの幸せ法」
他の人に伝授するほど立派じゃないが、
秘密にするほどのモノでもない。
ワシの質素なチンチンみたいなモノだ。
来るもの拒まず、興味無いものは追わず。

「幸せ法」と「質素なチンチン」の違いも大して無い。
興味があれば、使いたければ、使えばいいさ。
(そんな人はいないと思うが、ホモさんはゴメンナサイ)
「サトリ」も「幸せ」も「チンチン」も独占するようなモノじゃない。
持っていても、使わなければ意味も無い。
そういう事がやっと解ったから、精神世界から抜けられた。

「遥か彼方」にあるモノはウソ(幻)じゃないが、
使わなければ役に立たないのだ。
その使い方を知るだけで、ナマケモノでも幸せになれる。
(何でも当てはまるけど、ソレだけで完全じゃないぞ。
万能健康食品があるからと、タバコを止めないのは愚だ)

  遥か彼方・4
02/15 (火)

「幸せになる方法」
本屋に行けば山ほどある。
(それほどは、無いな・・・)
結構、いいこと書いてある。
理屈では・・・そうかもしれないと思う。

方法を知っていても実行しなけりゃ役に立たない。
心はヒネクレているから、素直に実行したくない。
心は「正しい事」に少し抵抗するものなのだ。
ワシは(根性無しだけど)立派なヒネクレモノだから、
「正しい事」に大いに抵抗する。

「正しい事」が「正しい」という理由だけで、
他に圧力をかけてくるのはウサンクサイと思う。
それが国家だろうが宗教語録だろうが信用しない。
ヒネクレ、未熟な魂だって生きているんだ。

この世で守る「理」は幾つもないが、
その基礎が「他を侵(犯)さない」事だ。
多種多様なモノ達が一所に住んでいる星だ。
こんなことは当たり前だろう。

名目が「幸せ」「平和」「正義」だろうが、
他を侵(犯)す行為は存在するモノとして違反している。
グレちゃん(創造主)が自由にさせてくれているのに、
(例え立派でも)人間が出しゃばるのはいかがなものかと・・・。
(最近の政治家口調を真似してみたけど、よりアイマイだよねぇ)

圧力には「抵抗」。
「抵抗」は「相手を侵(犯)さない拒否」だ。
根性無しでも抵抗は出来るし、してしまう。
(マハトマ・ガンディーは無抵抗主義じゃない。
素直な抵抗をしたのだ。例えばハンストなどだ)
「先制攻撃は自衛だぁ」などと解釈を広げるのは、
「抵抗」じゃなく「圧力(侵略)」だろうね。

だから「幸せ」に成りたい人だけでいい。
故御師匠様が「勝手に病気を治すな」と言ったのは、
相手の魂をとても尊敬し大切にしていた言葉だった。
依頼があれば、お手伝いはいつでもする。
(この「氣」は)ワシの力じゃないから、思い切り使える。
ワシのモノじゃないから、好きなだけ利用してくれ)

苦しみから脱却したくても何も発しなければ、
魂は「苦しみを味わう期間」だと思う。
(ここの説明は言葉足らずだが、まぁいい)
「したかったら、したい、と言ってね」
キリちゃん(イエス)は魂の動かし方を教えたのだ。
扉は出現し、開かれるものだ。(何処でもドア!)
(タイムラグがあるけどねぇ・・・)

ワシはナマケモノだから幸せになりたい。
嬉しく、愉しく、気持ちよくなりたい。
でも、努力は気が進まないし、根性は極少量だ。
だから「幸せ」の方から来てくれれば楽だ。
「来てねぇ〜、待っているぞぉ〜」
「遥か彼方」に向かって、発信はしている。

  遥か彼方・5
02/16 (水)

自力で「幸せ」を掴むのが苦手な人がいる。
「苦手を克服しよう」というのは薄情な言葉だ。
克服できる人には簡単だが、克服が苦しい人だっている。
正しいからといって、苦しさを押し付けるのは薄情だ。

マジメで正義好きで努力好きで健康な人は、
他に対して薄情になりやすいから気をつけようね。
体も心も強く、状況も恵まれた人ばかりじゃない。
この世は(正しくても)薄情では住み難いのだ。
(独占しない)多情の方がずっと暮らしやすい。
愛人(人に限らず)だらけが理想郷だと思うよ。

優しい行為として(言葉じゃないぞ)「慈悲」がある。
未熟なモノ、弱いモノ(それは自分でもある)との暮らし方だ。
「どうしたら正しいか」を追うから難しく(硬く)なる。
「優しくなる(柔らかくなる)」のに理屈はいらない。
一緒に温かくなる(心や体)事をすればいいだけだ。

もし「優しさ」が「遥か彼方」にあるなら、
自力で歩いて行くのは大変だと思うよ。
(優しさの無いモノはこの世に存在できないから、
自分が優しく無いと思うのは勘違いだけどねぇ)
だから「遥か彼方」から届けてくれればいい。
歩く努力はしなくていいから、発信しよう。
想うだけで発信は出来る。

歩く愉しさもある。
変わる(自他の変化)愉しさだ。
特に動物は動いて(変化して)満足を感じる。
方向が欲望でも目標でもいいが、
ゆっくり調和しながらなら「幸せ」も付いてくる。
自力が苦手な人は歩き方が早すぎるのかも・・・。

勘違いは日常茶飯だ。
グレちゃんは何でも完でもお見通しだぁ。
勘違い用に「遥か彼方」からのプレゼントも用意した。
その人にとって最も遠くの理想から援助してくれる。
ものすごく優しい仕組みだと思わないか?
使う、使わないは個人の自由にさせてあるが、
この世は、至れり尽くせり、なんだなぁ・・・。

手枷、足枷で鉄格子に入れられた奴隷でも、
「遥か彼方」を想う(発信)だけで、
その人の周りに「遥か彼方」からの「氣」が届いている。
それは、少しづつ現象を変化させる。
自分からの変化がし難い人はたくさんいるのだ。

ベッドの上で動けなくても、
お医者さんがどんなに「絶望」を宣言しても、
(人間に絶望が判断できると思うような医者とは縁を切ろう)
「遥か彼方」を想う事はできる。
想えば「氣」は届いてくれる。
諦めたら、届かない仕組みだ。
それも、その人の生き方の自由だ。

  遥か彼方・6
02/17 (木)

「遥か彼方」は目標点だと思っていた。
いつか到達したい場だと思っていた。
今生で無理でも、いつか到達できる地だと思っていた。
魂達が、最終的には届き集まる世界だと思っていた。

グレちゃんを想う(神だから信じる)ようになってから、
いろいろダイレクトで観じる事が増えた。
とはいえ、あくまで自分の感覚でもあるから信用おけない。
(自分を信用するようになったらアブナイのだ。
自分は信じる対象じゃなく、未熟だから愛する対象なのだ)
それでも「遥か彼方」のとらえかたに違和感が出てきた。

グレちゃんは圧倒的に優しい。
しかもヒネクレている。
ならば「遥か彼方」にも仕掛け(プレゼント)がある。
未熟な魂側(人間等)の「アコガレ」だけじゃない。
大盤振る舞いが好きなグレちゃんだ。
「遥か彼方」に遠心力と求心力も持たせたようだ。

同調させれば、遠心力で届けてくれて、
求心力で引っ張ってくれる。
とても親切な仕掛け(プレゼント)なんだ。
プレゼントは遠慮なく頂戴するのが礼儀(理)だ。

自力で歩く愉しさはある。
目標に自力で近づく満足感もある。
でもトラブルは発生するし、心も挫ける。
自力でしか近づけないと思い込んでいると、
その時点から「縁」が切れてしまうのだ。
固定概念は挫折に弱い・・・。

目標に到達できない魂達はとても多い。
生きる事は自力だけだと思い込むと、
そこで悲しみ、弱い自分を虐める。
動けない人、弱い人を無理やり励ます。
(励ますには、相手を見極める必要がある)

ところが「遥か彼方」からも援助があるなら、
自力も他力も両方愉しめる。
他力に絶望は無いし、挫折もない。
愉しみは沢山、遠慮なく味わうものだ。

歩けるのなら、歩く愉しみが「プラス」され、
他を手伝える余力があるなら、それも「プラス」
歩けなくなっても、向こうから引っ張ってくれる。
「遥か彼方に想いを寄せる」というだけでいい。
グレちゃんは、その人なりに愉しみを用意している。
使う、使わぬのは、本人の自由だけどね。

ワシは心が弱く、根性無しだから素質があった。
プロフェッショナル・ヒーラーになれたと思う。
(それだけじゃないけどねぇ・・・)
力は抜いていかないと、他には使えないんだ。
この世の仕組みはとてもヒネクレている。

  遥か彼方・7
02/18 (金)

こんなワシにも「遥か彼方」がある。
しかも・・・実は・・・幾つもある。
「遥か彼方」は素敵な境地であり、
そう成りたい自分でもある。

ワシは「イイコト」には遠慮しない性格だ。
「イヤナコト」は遠慮する性格だ。
(ワシの方が当たり前だと思うが、世の中は逆の人が多い)
ならば「遥か彼方」を一つに決めるなんてもったいない。
好きな人(モノ)は一人(つ)だけなんて、もったいなくないか?

真体は似ているかもしれないし、同じモノかもしれないが、
一人一人が想像する「遥か彼方」の内容は違うだろう。
ワシは個人の求めるモノは全て「趣味」と表現している。
不本意でも改めない生き方なら「趣味だろ」という。
(自分で変えられる苦しみや悩み等だ)

だからワシの「遥か彼方」はワシ用だから「趣味」だ。
特別隠すモノでもないが、趣味はアピールするモノでもない。
何でもオープンのラテン系だが、露出癖はない。
でも一つくらい話したいし、書きたい・・・。
少し恥ずかしいけどねぇ・・・。

「遥か彼方」より近くなってきたが、
ワシの目指す境地がある。
「酒池肉林!」
うそ、だよ。

ワシ、酒はたまにしか飲まないし飲みたくない。
オナゴは宝だと思うが、宝は独占するものじゃない。
肉欲はある意味、御馳走だと知っているが、
御馳走は「少しが美味しい」という事も知っている。

普段が不マジメでナマケモノだから書きにくいけど、
「24時間のプロヒーラー」
ナマケモノらしく「ただ、いる」だけでいい存在になりたい。
今でもプロフェッショナル・ヒーラーの自覚はあるが、
アレコレ言い訳を書きながらアピールしているのも事実だ。

何も言わなくても、手もださなくても、離れていても、
望めば、お節介じゃないお手伝いができる存在。
今でも想っていただければ、ある程度の「氣」が届くが、
まだ個体差がありすぎてオールマイティじゃないのだ。
もっともっとオールマイティにお手伝いができる存在。

(体と心の分野に関してのオールマイティであり、
偉人になるつもりも資格も素質も目指したくもない。
ワシは気楽でスケベなオッサンでいたい。)
それでメシが食えればいいなぁ・・・。
(単なるメンドウクサガリ屋だね・・・)

  遥か彼方・8
02/19 (土)

夢・希望・将来・未来・境地
人により「遥か彼方」の呼び名は様々だ。
「今度生まれ変わったら・・・」
それを来世に求める場合だってある。
(生まれ変わったら多分忘れている・・・)

「遥か遠くまで歩かなければ行きつけない」
ほとんどの人はこう思っている。
だから根性のある人は努力する。
根性の少ない人は挫折する。
どちらも思い込み(固定概念)で苦しむ。

努力で目指す「遥か彼方」に行けるとは限らない。
今夜、急にこの世からオサラバする事もある。
諸々の事情で別な道を歩かなければならない事もある。
徐々に、あるいは急に気が変わる事も多い。
心は浮気でできているのだ。(この方が圧倒的に多い)

ある境地にたどり着いた人の多くが、
「行きたかったのは違う夢だった・・・」
と別な道を否応無しに歩かされたと言う。
そして「でも来世も同じ道を歩きたい」とも言う。
多分(辛くても苦しくても)愉しかったのだと思う。
着いたら「遥か彼方」だったと理解できたのだと思う。
「自分の思い」と「(本当の)遥か彼方」は違う事もある。
もちろんいつも間違えるのは「自分の思い」だ。

努力する、しないに係わらずコツがあるようだ。
それは「遥か彼方」にこだわらない。
「遥か彼方」は心底目指す場所だから「こだわらない」。
近くなら、こだわれば辿り着けるが、
「遥か彼方」はこだわると道を誤りやすいのだ。

努力と根性だけで行ける場所ではない。
よほどのラッキーが続かなければ行けないのだ。
ラッキーが続けば、努力無しでも行けるのだ。
ラッキーと努力の共同作業で行く場合もある。

何故ラッキーが続いたか?
そこに「遥か彼方」の秘密があった。
い、いや、秘密ってほどじゃないけどねぇ・・・。
遥か彼方は、とても遠いのだ。
歩いて行くのは個人の自由で勝手だけれど、
「遠くにあるモノ」は「想うモノ」なのだ。

「相思」(04年9月)でも書いたように、
想えば「通路」が開かれる。
「通路」には「氣」が流れる。
融合(調和)に向かう「氣」が流れる。
双方が引き合うときに「ラッキー」が生まれる。

我欲(心の思い)はアキラメていいけど、
(アキラメなければいけないわけじゃないぜ)
「遥か彼方」は我欲じゃないんだ。(我欲より遠いモノ)
アキラメないで想い続ければ温かいままで、
「遥か彼方」は貴方を引き寄せてくれる。(ラッキー♪)

  混合・1
02/20 (日)

「変化」と「遥か彼方」を一対として書いた。
「変化」を「自」とし、「遥か彼方」を「他」とした。
ワシはこの世が二元論で成り立っているとは思ってないが、
多元論を説明するのはメンドウなのだ。
「二元論」+「その他」で何とか誤魔化せる・・・。

「この世は二つの世界から成り立っている」
という「対」を意識したのが二元論だ。
オトコとオナゴ・光と闇・自と他・我と神・陰と陽。
そして「見える世界」と「見えない世界」

通常は二元論だけでも固定概念を外せる。
心身の闇(病)からの脱却や回復法として、
固定概念を外すのはワシの本職の一部なのだ。
ついでに「その他」まで説明すると混乱しすぎる。

三元論も結構多い。
心体魂・神人霊・仏法僧・飲む打つ買う・
真美善・天地人・過去現在未来・男女ニューハーフ・
アーユルヴェーダでは、ピッタ・カパ・ヴァータ。
空海陸・気体液体固体・高幅奥・良い子悪い子普通の子。

四元論は上下左右・東西南北・火水風土。
五元論は五行・五色・五感・ゴメン。
百八元論なんてとても大変な説明になる。
ね、メンドウでしょ。

ワシはこの世は「何でもアリ」だと思う。
二元論もあるが、(ウソ)八百元論もあると思うのだ。
二元論だと二元論の世界があるが、二元論の世界しかない。
水は固体か液体か気体か?(・・・冷たい)
ニューハーフはオトコかオナゴか?
大統領や首相や主席は人間か悪魔か?
○○元論から外れる「その他」もアリ、だと思う。

何故、これほど多くの元論(世界)があるのか?
どれが正しいか、ではないだろう。
正しさを求めれば、争いにしかならない。
争いの先は滅亡しかない。
滅亡の為に、この世を創るほどヒマとも思えない。

ならば「多くある事」に鍵がある。
創ったのはグレちゃんだ。
整理整頓がメンドウなグレちゃんだ。
一ヒネリ、二ヒネリが癖のグレちゃんだ。

多種多様は生物ばかりじゃない。
目に見えるモノばかりじゃない。
次元まで多種多様にあるだろう。
混合と融合(調和)にヒネリがあるようだ。

  混合・2
02/21 (月)

霧が晴れる時期がある。
魂が浮く時期がある。
目の膜が取れる(ウロコが落ちる)時期がある。
その時はそう思ってしまうのだが、
実は別(次)の世界に入ったばかりなのだ。

そこで留まれば、その世界のままだ。
そこで留まらなければ別(次)の世界に行ける。
だから何度も霧が晴れる事を体験する。
何度もウロコが落ちる。(半魚人だったのね・・・)
何度も天才・達人を体験できる・・・。

慣れというのは何にでもある。
本妻の太さが「普通」に思える。
崖っぷちが散歩道に思える。
火の車が常用車(乗用車)だと思ってしまう。
目からウロコや耳から耳○ソは当たり前になる。

未熟な自分が当たり前だと慣れてしまったら、
天才や達人を体験しても、天狗のままでいる事はない。
つまりですね・・・
貧乏や未熟やタダのオッサンに慣れる事は、
ワシのような立場ではプロでいる要素の一つなんだ。
(いや、貧乏は・・・ちとツライぞ・・・)

奇跡が奇跡と思っているようでは世界が広がらない。
天才や達人がスゴイと思うようでは、他の役に立たない。
(自分がスゴイと思うようでは、という意味ですよ)
法則やコツが自分のモノになったと思っていては、
その先の世界を観る事ができないのだ。
達人からタダのオッサンに戻るから明日がある。

この世には何でもある。
自分の想像以外のものまで、ある。
多種多様を全て知り、全て体験は出来ない。
ワシは神様じゃない。
こんな当たり前を軸にしていないと、いずれコケる。
軸はブレると、揺れて倒れるものなんだ。

「混合」の世界。
何でもアリの世界。
チョウもアリの世界。
人間もアリの世界。
アリの世界の母体は、アリのママ。
だから「ありのまま(当たり前)」に生きると、
次の世界を知り、体験できる生き方となる。

「混合」は「混合」そのものに意味と意義がある。
「自」だけの世界から「他」の世界に移る事ではなく、
「他」の世界を「プラス」する世界に住む事だ。
「自他」の世界があるなら「一体」の世界もある。
ならば、「自」「他」「一体」の世界に広げればいい。
常に「プラス」していく世界の観方。
それは自由に行き来できる「やわらぎ」の生き方でもある。

  混合・3
02/22 (火)

「この世は混合」という「事実」を認める。
それだけで道が広がる。
道が開ける。
未来から光が届く。

「科学的」という世界しか無かったら、
科学的な判断以外の道が無い。
とても狭い道しか歩けない。
閉ざされてしまうと、他の道が見えない。
(一応お断り:ワシは科学的を認めてます)

「正しさ」という基準の世界しか無かったら、
「間違う」と落ち込み「間違い」を非難する。
「正しさ」が一つなら、圧倒的に「間違い」が多い。
そんな暮らし難い世界にして、何が幸せなんだろう?
基準はいろいろある、という「事実」を認めれば、
「正しさ」なんてアホらしい(言いすぎたかなぁ?)。

「一つ」の世界だけを信じる事は、
自分で自分を縛り、他を認めない生き方だ。
それは自分をも認めない生き方なんだ。
自分を虐待する、マゾの生き方でもある。
自分だけなら趣味の問題ですから、モンクありませんが、
自他の混合世界を認めないと、一つに統一したがるね。

「混合」を認める、知る、気づくというのは、
「他の奥深さ」を想像する事でもあり、畏れる事だ。
「これが最高!」「これしか無い!」「○○を超えた!」
これらは自分の内部に思う言葉であっても、
単純に他に言う言葉じゃないと思うよ。
(無知と無謀だったワシ自身の経験を書いてます。
他人の無知と無謀は微笑ましいものです)

自分の道以外にも深遠な道がある。
(ワシの道は軽薄浅慮だけど・・・。
ワシの趣味だぁ。ほっといてもらおう!!)
今までの世界の他に、深遠な世界がある。
だから「絶望」はこの世には無いのだ。
他に多くの道があるなら、多くの未来もある。
出会わなかっただけなら、これから出会えばいい。

全てを知る事は出来ないし、知りたくも無い世界もある。
だが、それぞれに深遠な部分がある事は認める。
他にも道がある事を認めるだけで充分だ。
あとは・・・「縁」が何とかしてくれる。
胸を開けば、触ってくれる。
(う〜m・・・この表現はモンダイがあるかも)

一つの道を追い求めるのは「こだわる」ためじゃない。
深くなれば、底でつながっている事に気づく。
他の道を同時に知り、認めることなんだ。
この世は「混合」という事実に意味がある。
この世はとてもヒネクレた構造になっている。

  混合・4
02/23 (水)

氣功師の体に変えてくれた故御師匠様と、
求道ヨガを中心にして「総合健康」を示した龍村師匠がいる。
体と心だけじゃない、ホリスティックな健康講座だ。
東京の龍村道場に通った3年間は、濃縮した時間だった。

当時40歳を過ぎ、妻子がいて新たな道に入ったから、
何事も10倍の濃さを意識して学んだ。
ワシのような性格でも3年は何とかなるもんだ。
あの3年間(だけ)は30年間分だと、今でも自信がある。

師匠が紹介する多くの先生方は各治療分野の名人達だった。
「間接で数年学ぶより、5分直接会うだけでいい」
龍村師匠、その師匠様の故沖先生の言葉らしい。
「氣」というものからなら、この言葉の真実が理解できる。
ホンモノの雰囲気と内容を教授していただいた3年間。
「治療」の深遠な部分を直接見せていただいた。
様々な治療法のそれぞれに素晴らしさが輝いていた。

ワシの場合、氣功師と治療師がヨガで融合解放し、
治療師からプロヒーラーの世界に入ってしまった。
30年間の精神世界を彷徨した経験も融合された。
多くの重病難病の方々から直接学ぶ事が融合された。
治療とヒーリングの違いと重複部分。
プロとアマの違いと重複部分。
もう、アマチャアには戻れない自分になっていた。

ダライ・ラマ法王(ヒーラー最高峰)にもお会いできた。
ワシがどんなに不マジメで根性無しでも、
プロフェッショナル・ヒーラー側になってしまったのだ。
治療師は努力でなれるが、ヒーラーは努力ではなれない。
(能力は誰にでも使えるし伸ばす事もできるが、別の要素が必要)

龍村師匠は今の日本には稀な本物のヨガ行者であり、
あらゆる方面の指導者を育成指導するプロの導師だと思う。
だが、プロフェッショナル・ヒーラーではない。
ワシは(弟子だがヘナチョコすぎて)ヨガ行者にはなれない。
だが、プロフェッショナル・ヒーラーになってしまった。
(このへんの説明はいずれ・・・)

その龍村師匠の実兄に映画の龍村仁監督がいた。
「地球交響曲・ガイアシンフォニー」
撮り続けて、15年(発表されて13年)になる。
昨年に第5番(5作目)が完成している。

多種多様なモノ達が集まり、交響曲として地球を奏でる。
地球という星は多種多様なモノ達の「いのち」の歌だ。
一つ一つの「いのち」の声。
そして、それぞれが共生して出す声は「一つ」として聞こえる。
生物も鉱物も見えないモノも時間も空間も仲間だ。
そんな事を観せ、感じさせてくれる映画だ。

最初から一つの「いのち」として融合してなかった。
今でも多種多様の「いのち」のままだ。
とても優しいグレちゃん(創造主)は、
「地球を一つのいのち」にしなかったのだ。
「地球を多くのいのち」の集まりにしたのだ。
そこに「混合」の理由がある。

  混合・5
02/24 (木)

この世には多くの「いのち」が混合している。
多くの「生き方」が混合している。
多くの「考え方」が混合している。
多くの「心」が混合している。

ワシは多くの治療法(修正・回復法を含む)を知り、
何故、多く有る必要があるのか?と思った。
究極の治療法が一つあればいいのでは?と思った。
多くの病み人と(素晴らしい)多くの治療師を観させていただき、
病状により幾つか凄い治療法があればいいのでは?と思った。
そして人の生き方、考え方、心の多様性を尊重することを覚え、
やっと、多くの治療法が存在する意味と必要性に気づいた。
ワシはプロフェッショナル・ヒーラーの世界に入っていた。

今は全て必要だと知っている。
それがどんなに欠点があっても必要だと知っている。
未熟な段階であっても必要だと知っている。
「正しい」「間違い」じゃない。
存在するモノは、全て必要なだけだ。
必要とする相手がいるから「存在」がある。
解ってしまえば、単純で当たり前の事だった。

相手が「人」でも「治療法」でも「生き方」でも、
望むモノは必ず存在するように創られている。
その相手に出会うか、否かは別な要素が必要だが、
「混合」の中に「望む光」は必ずあるものなんだ。
必要なモノは(自分も含まれる)全て存在している。
多種多様な「光」がある星に我々は住んでいる。

諸行無常・万物変化。
自分も変わり、相手も変わる。
今の相手(人や生き方)とズレる事もあるだろう。
成長か退化かは判断できない。
「別れ・離れ」と「出会い」はセットになっている。
次の相手は「混合」の中に用意されている。

浅く軽くてもいい。
多くの「出会い」を体験する為にこの世にいる。
深く静かに潜るのもいい。
底は「混合」の世界とつながっている。
深い「出会い」を体験できる。
生き方は多種多様でいいのだ。

山を上るだけが尊いのじゃない。
魂は頂だけを目指すわけでもない。
平坦でも奥が深い。
草原も砂漠も岩山も密林も面白い。
山だけじゃなく、川も海も地下も洞窟もある。
解ってしまうと世界は広いと知る。

共通するのは動かないと出会えない。
心が望まないと出会えない。
閉じこもりは最大の難病なんだ。
でも大丈夫。
心や体が動かなくても、魂が叫ぶ。

プロフェッショナル・ヒーラーの役目がここにある。

  混合・6
02/25 (金)

解決を求める時、多くは原因を探す。
科学的思考法が固定概念となっている。
それは一つの方法だが、それだけじゃない。
「仕組み」を観る方法もある。
なにも探さず、観ない方法もある。
それでも解決は出来るのだ。

根性が無いので、いつまでも続かないが、
ワシは「何故?」と疑問する癖がある。
原因ではなく、「仕組み」の存在に疑問する。
何故、殺し合い(戦争)がある?
何故、環境破壊がある?
何故、そういう事が出来る仕組みがある?
何故、自動停止、自動修正装置がないのか?

仕組みの存在を理解しようとして、
ワシはグレちゃん(創造主)を想うようになった。
想えば通路ができる。
力を抜けば、流れるモノがある。
容量の違いから、微妙分しか理解できない。
ワシはアホだがら、当たり前分しか理解できない。
いいや、当たり前も僅かしか理解できない。
いいや、それも・・・アヤシイ・・・。

大前提がある。
大前提しかないのかもしれない。

生物、非生物、物質、非物質、思考、時間も含めて、
この世にある全ての個々のモノには本質体がある。
本質体(核)は自由を与えられている。
「自由」は「存在」
「存在」は「自由」という質で成り立つ。
それだけだった。

ワシ流の表現では、
グレちゃんはモノグサだった・・・。
生物がどうなろうと、生命がどうなろうと、
地球がどうなろうと、宇宙がどうなろうと、
「それぞれが、勝手にしていいぞ」
グレちゃんは美味しい和菓子とコーヒーで、
寝転んで好きなマンガを見ている・・・。

でも非情じゃない。
その逆だ。
アホな本質体達を全て懐に入れている。
懐は・・・温かい。

最初から「融合」にしなかった。
融合で創ったら、存在できないからだ。
グレちゃんは、とてつもなく優しかった。
(アホの)本質体達を存在させてくれている。

それが「混合」の仕組みだと思う。
今のワシが理解できる「混合」の仕組みだと思う。
(グレちゃんが、間違えただけ、という事もあるかも?
メンドウだから、ほったらかし、という事もあるかも?)

  混合・7
02/26 (土)

ワシはこれでもマジメだった。
「真実は一つ!」
名探偵コナンも言っている。
偉い人は、皆言っている。
ワシもこの言葉は当たり前だと思っていた。
だから「正しさ」を追い求めた時期があった。

ヘソ曲がりのグレちゃんを想うようになって、
「真実が一つなんて・・・アヤシイ」と変わってきた。
この世の仕組みを観るようになって、変わってきた。
「真実は・・・多種多様かもしれない」
「正しさは・・・多種多様かもしれない」

精神世界では真実を「空」ということもある。
真実を「理」「法(則)」として表現することもある。
これも理解レベルによって解説も受け取りも違う。
それぞれは「一つだ!」と思っても別な理解をしている。
例えば・・・「水は上から下に流れる」
でもねぇ・・・水蒸気は下から上に流れる時もあるんだ。
だから毎日飲めるのに・・・。

「現象と真実は違う!」そういう人もいるね。
違うといえば違うし、同じといえば同じだし・・・。
結局、観る(理解)レベルで差が出てしまう。
例えば・・・「見た目が美人でも真実は醜い人がいる」
そ、それって、「美」を見抜く目が無かっただけじゃ?

同じ言葉で統一は出来ないと思う。
この世は人間だけでも多種多様いる。
それぞれの基準が違うし、理解度が違う。
だから人間相手に言うなら、
「真実は、多種多様だ!」
と表現するほうが現状に当てはまると思う。

何よりも・・・人間に「真実」が判定できないなら、
一つでも、多種多様でも「わからない!」
これが大多数に当てはまると思う。
「判定できる人がいる」と仮定しても、
その人を見分ける目が無いのだから話にならない。
「悟り人」と「狂人」の違いさえわからないだろ?

「真実」が多種多様なら、この世だって多種多様。
この世が多種多様なら、真実だって多種多様。
「正しさ」が一つだけじゃないと、マズイのか?
多くあるほうが、幸せに暮らせると思うがなぁ・・・。
多くの相手を認め尊敬できる世の中は、暮らしやすいぜ。

「真実は多種多様!」と思えたらマジメではなくなった。
マジメは「一つの正しさ」にこだわりすぎだと気づいた。
そうしたら、治療回復の道が広がった。
道が見えなくても、進めるようになった。
クライアント自身も楽になったようだ。(そりゃそうだね)
ヒーリングも一気に深まり広がった。
(注: 治療とヒーリングを分けてます)

  混合・8
02/27 (日)

このテーマはネタが尽きない。
「混合」だから何でもネタになる。
でも書くのに飽きた。
途中で切り上げる癖がワシにはある。
何事も成し遂げられないタイプだなぁ・・・。
まぁいいかぁ、困るのは本妻くらいだし・・・。

「混合」から「融合」への話も重要だ。
「現在」から「未来」に対応する(魂の歩き方)。
このまま書き続けると、アヤシげな精神世界の話になる。
毎日の筆任せの無責任雑記では重くなりすぎる。
深いのはいいが、重いのは好きじゃない・・・。

「混合」と「融合」の関係は面白い。
「アナログ」と「デジタル」の関係でもある。
「肉体」と「精神」の関係でもある。
直線で進むのではなく、螺旋で進む関係だ。

区切らない、メビュウスの輪。
DNAの形はこの世の仕組みの相似形でもある。
この世の仕組みは、素直に見てもヒネクレている。
アナタもヒネクレたDNAで創られている・・・。
間違いない!!

DNAは個々の(塩)基が対になり、
対も対になり、ついつい一つのモノを創ってしまった。
だからアナタも、あるオトコとオナゴが、
ついつい(対対)作ってしまったのだ。
(いのちの)ハズミ(弾み)で生命は発生するものだ。
これは生物は皆同じなんだ。
宗教関係者が綺麗事を言っても、ウソだと思うよ。

しかも遺伝子ではないDNAが大きな役割をしている。
これらはジャンク(ガラクタ)とよばれているが、
役に立たないモノはこの世に存在できない。
そのジャンクDNAが圧倒的な割合で多い(90%以上)。
もしジャンクが本当に役に立たないのなら、
それを説明している科学者自身も役に立たない人間だ。
人間はジャンク部分が95%以上らしいよ。ハハハ。

この世の仕組みを観るのにDNAから学ぶ事は多い。
特にジャンクの存在は大きい。
大部分は遺伝子(本人系統)ではない。
本人に直接役に立つ事は5%くらいだ。
大部分は、他の役に立つように創られている。
人間は(多分に目覚めてないが)
他の役に立つように存在しているんだ。

役に立つ事も一つ一つ「混合」している。
何の役に立つのかは科学では解明出来ない。
だから科学者ではジャンク(ガラクタ)としか説明できない。
科学者が解らなくても、本人が目覚めればいいことだ。
目覚めれば、ジャンク部分は活性化する。

人の中の「混合」だって30億対ある。
つまり60億の一つ一つの基があるんだ。
一生を100年としても全部は使えない。
でも、あらゆる可能性が詰まっているだろうね。

圧倒的多さの「混合」の事実を知ると、
「希望の光」の多さに気づく。
ワシが言う「奇跡が当たり前」は、
当たり前だろ?

  駄心・1
02/28 (月)

こんな言葉を創ってみた。
ワシ流では「心」そのものがロクデナシと説明する。
だが、世間は「心」を一人前として扱う。
バカな子(心)ほど可愛いがるのは理解できるけど、
心を買いかぶっては迷惑を撒き散らすだけなんだ。
アホだから可愛いのだ。
キチンとアホに観える目と優しさを持ってくれ。

まぁ表現の仕方なんて何とでもなる。
ブッちゃん(仏陀)だってウソ(方便)で説明した。
だから、ここでは「心」の中にあるクダラナイ部分(煩悩)を指す。
煩悩だけで創られているのに、今更「駄心」もないだろうにねぇ・・・。
そういうと、マジメな人は反感を(ワシは買わないが)売りつける。
「クダラナイのはお前(ワシ)の心だ!」
これは正しい指摘だと思う・・・。

大前提の認識が違っているようだ。
ワシは煩悩が好きだし、悪いとは思えない。
クダラナイのは愉しいし、優しい深さを感じる。
アホは可愛いし、哀しい深さも持っている。
だから「生きている」賛歌の意味で使っている。

ワシはマジメで偉い人達の言う事よりも、
キリちゃん(イエス)やブッちゃんの言葉に直接共鳴する。
人間は「ロクデナシの心」の塊だと知って、
「愛する」「愛しむ」大切さを示した。
キリちゃん(イエス)やブッちゃんはとても優しい。
宗教関係者は誤訳し、誤解して伝えていると思う。

マジメで偉い人達は「煩悩」は正さなくてはならない。
乗り越えなくてはいけないとしている。
つまり「間違い」は「悪い」という認識だ。
「生き方」を生命の賛歌より「正誤」にこだわった。

「間違って出来ちゃった!」妊娠は多い。
間違いは悪いのか?
マジメで偉い人達の大部分も、
間違って妊娠し、この世に生まれたのだと思うぞ。
しかも、自分も同じ行為をしてないか?(ハハハ)

間違いは「正しい」かどうか知らないが、
(スゴイ矛盾している文章だねぇ。面白い!)
間違いは「当たり前」だと思うぞ。
「愛する」対象であり、非難する対象ではない。
間違いくらいで、バタバタ反応するなよなぁ。

「心」との付き合い方は「正誤」が基準じゃない。
「正誤」を基準にした生き方からは、
「多くの苦しみ」と「傲慢」が創られると思う。
自他共に苦しむ世の中は、ヘンだと思わないか?

「正しさを求めないと、人間が堕落する」
そう主張した世の中には苦しみが充満している。
苦しみだらけを創る人間の方が「堕落」してないか?
心の弱い(敏感な)人に優しくないと思わないか?

(宗教関係者の勧誘が珍しく来たので、
今日の雑記テーマが出来ました。ありがと。)

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