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  我田引水・3
7/01 (土)

パーフェクトの偉大なナニモノがこの世を創った。
ならば、全てパーフェクトだろう。
誰が何を言ってもパーフェクトの一部だ。
あえて真理もクソも決めつけなくていい(と思う)。
特に・・・宗教家と信者達・・・。
(ゴメンナサイ・・・悪気はありません)

我田引水。
我田引水しか出来ないだろう。
だが、他田引水しても同じだ。
自他の区別なんて、あるようで、無い。
60億のアリを一つ一つ区別するようなものだ。

遠慮ぜず、我田引水すればいい。
それが「個性」ってヤツだ。
だが、60億のアリの一つ一つの個性だ。
あるようで・・・。
ない、ようで・・・。

  我田引水・4
7/02 (日)

田に水を引く。
田が喜ぶのなら上等の行いだ。
田は大地で繋がっている。
自他の区別なんてしなくていい。
水を引けば上等だぜ。

田は体。
水は思いやり。
そう訳せば解りやすい。
体は借り物。
神様からの借り物。
そう訳せば解りやすい。

ツキは田に水を引く事から始まる。
ツキの女神は大地の女神だ。
月と地球は共鳴しあっているんだ。
幸せなんて、そんなに難しくないぜ。
ラッキーなんて、いつも輝いているもんだ。

  我田引水・5
7/03 (月)

水を入れるのは出るからだ。
出なければ、すぐ満杯になってしまう。
水は染み込む。
水は気体に変化する。

水を「思いやり」と訳せばいい。
思いやりを「愛」とか「慈悲」とか訳せばいい。
決して「重い槍」と訳してはならない・・・。
まして「利益」などと訳すのは下衆だぜ。

「自分に都合のいいように引用する」
ほとんどこんな訳になっているはず。
それでいいのだ。
「自分」の指すモノを間違わなければ・・・。

「自分」は「自分の心」ではない。
「自分が管理する身体」だ。
これは、とても勘違いしやすいのだ。
「身体に優しくね」
ワシは独善家として、こう訳した。

  我田引水・6
7/04 (火)

心はアヤフヤなヤツだぜ。
自分の心に都合よくしても無駄だ。
コイツは感謝を知らない。
ウソだと思うなら自分の心を観てごらん。
(心を観る事も忘れてたりして・・・)
可愛くないだろう?

感謝を知っているのは身体だ。
確かなヤツは身体だ。
何故なら、身体は神様(グレちゃん)が用意したからだ。
だから身体には水を引こう。
優先して水をあげようね。
すると、身体は感謝する。
フッ、可愛いヤツだぜ・・・。

不安と不満と不幸な道を歩いている人。
自分(の身体)を優先して愛してみたらいいよ。
身体は感謝する。
不安と不満と不幸は消えていく。
我田引水は難しい作業じゃないぜ。

  我田引水・7
7/05 (水)

誰でも我田引水している。
だが、ほとんどは遠慮しながらだ。
あるいは、隠している。
「我田引水は悪い」という思い込みのせいだ。
そして、水を引く事をキチンと出来ない。

アヤフヤな善悪を基準にするからだ。
固定概念をやわらげようとしないからだ。
自と他を別々なモノをしすぎているからだ。
自と他なんて、交じり合っているんだぜ。
まして身体(生命)は自分のモノじゃない。
自分が管理しているだけだ。

管理人(自分)が田に水をキチンと引けない。
それは管理人として低能力という意味だ。
結果として病み(闇)がある。
身体は全てに繋がっている。
身体を愛すると、それが判る。

  R・2・7
7/06 (木)

次第にキャラクターが出来上がってくる。
勝手にキャラクターが動き出す。
だがワシの表現能力は低い。
書き続ける根性は微少。
まぁ、いいかぁ。
実験段階だ。

四月一日頃からの続きだ。
時々、気まぐれで書き出す。


ブ:「メシはよぉ、殺生しねぇと食えねぇんだ」
仏陀は伝法な口調だが静かな声だ。
パスタの食べ方もキリストと違い上品だ。
キ:「そうだっちゃ。う、美味い!
ボクぁ、それを、ゴクン、原罪と言ったけどね、む、むせたぁ」
キリストは相変らず節操無く頬張りながら話す。
ゲ:「キリちゃん・・・。話すか、食べるか、どちらかにしなはれ」

ブ:「殺生は殺しじゃねぇんだ。生命の輪廻だぜ」
ゲ:「殺生の禁止じゃなく、殺しの禁止を話されたのやね」
ブ:「殺生と殺しの区別を話したんだけどなぁ・・・」
ゲ:「いつでも活かす、生きる、が基本でんなぁ」

  R・2・8
7/07 (金)

キ:「伝道は言葉じゃないだっちゃ」
ゲ:「キリちゃん、『だっちゃ』って、どこの方言?」
キ:「ラムちゃんだっちゃ」
キリストは日本に降りた時、ゴミ捨て場からマンガを拾ってきたのだ。
高橋留美子氏の「うる星やつら」にハマったらしい。

ゲ:「キリスト教は特に言葉を強調しはってますやろ?」
キ:「言葉を強調するのは制圧時の手段だっちゃ」
ブ:「ワシ等の言葉だけを利用し、組織の拡大や維持に使ったのさ」
キ:「自由人のボクちゃんが、言葉を強調するはずがないっちゃ」
ブ:「違げぇ無ぇ。ハッハッハ」

言葉は力がある。
だが、真実を伝える力ではない。
何かを縛る力だ。
何かを捕まえる力だ。
仏陀やキリストは自由とやわらぎを伝えたかったのだ。
言葉を伝えるのは意に反していたようだ。

  R・2・9
7/08 (土)

言葉はモノを表す。
そしてモノを現す。
それはモノを縛っているからだ。
同じ言葉を発し続ける。
モノは言葉で呼び寄せられる。

キ:「ボクちゃん、愛のみ。あとは何も要らないっぴ〜」
ブ:「愛は最初から最後まである。それ以外はいらんな」
キ:「だから、言葉も要らないっぴ〜」
ゲ:「ぴ〜、の使い方が、ようわからんわ?」

ブ:「道を伝えるのは言葉じゃないぜ」
キ:「だから言葉は活かさなきゃ〜、と言ったのりぴ〜」
ゲ:「ますます、いいかげんな言葉使いやねぇ・・・」
ブ:「言葉は、方便か例え話程度で使うもんだ」
キ:「言葉に縛られたら、道は伝わらないっちゃ」

  R・2・10
7/09 (日)

どうやら超二大偉人の言葉は誤解されたらしい。
あるいは、意図して誤解して使われたようだ。
まぁ、しょうがない。
偉人の言葉を簡単に理解できようはずがない。
偉人は変人や奇人の仲間だ。
超偉人は異(特別変わった)人でもある。

ブ:「何だって使い方なんだぜ」
ゲ:「活かす、それだけでんな」
キ:「アホと鋏は使い様なのだ」
ブ:「そういう事だ。アホも賢者も大差無ぇさ」
ゲ:「後生大事に言葉を持ち出しているだけじゃあきまへん」
ブ:「言葉にとらわれたら先は観えねぇさ」

キ:「ボクちゃん、この世で一番、無責任と言われたオトコ♪」
ゲ:「キリちゃん、残念だけど、一番責任感の強いオトコと言われてまんねん」
キ:「そ、それは、誰かの陰毛やぁ・・・間違い、陰謀だぁ〜」
ゲ:「今更ダメかも・・・信者は固定概念で身動きとれんわ」
キ:「ク、クソォ〜・・・グレてやる」

  R・2・11
7/10 (月)

キリストは一般世間のイメージが肌に合わないらしい。
自由人で生きてきたのに、厳格な聖者にされた。
他の犠牲に生きたと勘違いされた。
自分の好きなように生きてきたのに。

キ:「無責任を目指していたのににゃ〜・・・」
ブ:「大丈夫、キリちゃんの無責任は成功だぜ」
キ:「ブッちゃんにそう言ってもらえると、うれぴ〜だっちゃ」
ゲ:「無責任の自由人やから、モンクなしの優しさなんやね」
ブ:「真の自由人だから責任からも自由なのさ」
ゲ:「真の優しさは自由でないと生まれないわけやね」
キ:「遠慮はいいから、もっと褒めて、なのだぁ」

ブ:「キマジメや苦悩の顔じゃ幸せになれんぜ」
ゲ:「まして人を解放なんてできへんねん」
キ:「チッチッチ!ゲシュはん、それが勘違いだっちゃ。
ボクちゃん、世のため人の為なんて思った事あらへんや」
ゲ:「キリちゃん・・・言葉使い、ワイの関西弁やで」

  R・2・12
7/11 (火)

ブ:「ワシもキリちゃんも同じだから気が合うのさ」
ゲ:「ワイは?」
キ:「人は誰でも気が合うようにできてるっぴ〜」
ブ:「ただし・・・笑顔の時だぜ」

確かに仏陀もキリストもここでは笑ってばかりだ。
何も無い笑顔だ。
何も無い笑顔同士、気が合わないわけがない。
解放や平和なんて、とても簡単だと知る。
ここは
楽園なのだ。

笑顔と愉しい会話で会食が終わる。
仏陀のイタリアン料理は美味しかった。
それは「命をいただく」事を充分理解した者達への御褒美だ。
笑顔と愉しい交流は全てを宝に変える。
ここは楽園なのだ。

  水・1
7/12 (水)

ワシは不思議なモノに魅かれる。
不思議なモノに「水」がある。
とても、とっても不思議な性質なのだ。
だが地球では普遍的な物質だ。
物質かどうかもアヤシイくらいヘンなヤツなのだ。
だが・・・地球上では普遍的にあった。
とても特殊なことなのだ。

普遍的に「水」のある特殊な星。
その為に「水」の特殊性が見過ごされてきた。
誰も不思議だと思わなくなっていた。
だが、その特殊性は未だに解明できないままだ。
「水」は不思議なヤツなのだ。

不思議は多くの可能性を秘めている。
生きとし生けるモノ達を応援する力だ。
理由の解明など、どうでもいい。
「水」は生命を積極的に応援するモノだ。
素直に付き合えば、地球は楽になる。

  水・2
7/13 (木)

最近「水」は研究されている。
その特殊性を書いている本が幾つかある。
「地球上の生命の元は、他の天体からの水」
「水は情報を転写し伝える」
「水は生きている」

ワシが同じような事を言ってもしょうがない。
ワシは独自の視線から勝手に決め付けたい。
ワシは独善家のプロになりたいのだ。
そ、そんなヤツは腐るほどいる?
そ、そうだね・・・
ならば、ワシは(腐るほどいても)独善家のアマチャアになりたい。

「水は向こう見ず」なヤツだ!
どうだ!
誰も言ってなかっただろう。
しかも、駄洒落付きだぜ。
(ほとんど、意味ねぇ・・・)

  水・3
7/14 (金)

水は節操が無い。
相手が誰であろうと相手をする。
好き嫌いが無いのだ。
アタシ・・・アナタ好みに染まるわ・・・。
(今や貴重な心意気といえる)

「水と油」というが、嫌いなわけじゃない。
時には(条件さえ合えば)馴染む場合もある。
乳化作用で混ざってしまう。
オッパイは水と脂でできている・・・。

水は半分にしても、百に分けても同じだ。
人間だったら、こうはいかない。
上下に半分にするか、縦に半分にするかでモメる。
どちらにしても・・・気持ち悪い・・・。
だが、水は気持ち悪くならない。
エライ!!!

  水・4
7/15 (土)

話は横道にそれるが・・・
人魚(もちろん美女タイプ)を上下に分けた場合。
上半分を持ち去るヤツは色気優先。
下半分を持ち去るヤツは食い気優先。
どちらも不幸な道を歩くのだ。

高橋留美子氏の「人魚シリーズ」を読みなさい。
そこには、人生を見つめ直す、何かが描かれている。
生きる事。
そして、死ぬ事。
誰にでも必ずある二つの出来事。
その間の「時」というもの。
この世にあるモノ、何一つ分ける事は出来ない。
(最初から分けるなんて設定しなければいいのに・・・)

そうだ!
次のテーマは「時」にしよう。
ワシのような「行き当たりバッタリ」は反省が必要だ。
い、いや・・・
ワシのような「行き当たりバッタリ」でも哀しさも悦びもある。
なんだろうね・・・人生って・・・。

  水・5
7/16 (日)

この世にあるモノ、何一つ分けられない。
表面では分けられる。
一見、分けられる。
一応、分けられる。
だが、全ては繋がっている。

個と全体は同じ。
水はそれを教えてくれる。
一粒の水と大海の水。
水蒸気の一部と身体の水。
アナタの潤いとワタシの潤い。
全ては繋がっているのだ。

そう
この世は
節操が無い・・・・。
ワシの性格はこの世を表している・・・。

  水・6
7/17 (月)

奉仕という言葉がある。
ほとんど誤解されている。
酷いのは「タダでする事」という意味など・・・。
奉仕はそんなに浅くない。

自と他の区別をしない行い。
自の全てと他の全ての境がない。
そして、それは喜びの行い。
奉仕する、奉仕されるの区別は出来ない。

この世の理に沿う。
するとグレちゃん(創造主)は御褒美をくれる。
喜びだ。
法悦という別次元の喜び。
それが奉仕という事なのだ。

それを水は性質で教えてくれる。

  天河・1
7/18 (火)

ワシは日常生活を書かない。
恥は日常でかく・・・。
時事ネタも書かない。
だけどぉ、こころわぁ、すぐかわるぅ♪
ワシの信念は陽炎でできているのだ。

16日朝、5時半起床。
5時50分、本妻の運転で上毛高原駅。
途中のコンビニでオニギリ一個購入。
6時18分、上越新幹線で東京へ。
7時50分、東海道新幹線で京都へ。

10時45分、近鉄特急で橿原神宮駅へ。
11時46分、下市口駅へ。
中型バスは人数が乗り切れなった。
急遽臨時バスを出してくれた。
ワークツアーのみで一台になった。

細い山道を上って下る。
連休などで車が多く、すれ違えない箇所が幾つかあった。
おおよそ、80分、天川地区に入る。
そして、ワシは初めての天河(川と河の字が違うぞ)神宮に辿り着いた。
やっと、天河に呼んでいただいたのだ。
7月17日の例大祭に合わせてのセミナーだった。

  天河・2
7/19 (水)

役の行者こと役小角によって開山された大峯。
時は飛鳥時代。
大峯の鎮守として天河大弁才天神社。
現在地には天武天皇の英断により社が建立。

日本国最高の超能力者、役の行者。
その後、役の行者の生まれ変わりとウワサの空海が来る。
空海、またの名を弘法大師。
生まれ変わりではなく、時を超えた役小角本人とも。
二人の時の差は400年だ。

空海はいつでも役の行者の修行場や開山に来ている。
ワシが氣功師となった、生駒山もそうだった。
宝山寺の奥の院の奥、空海のこもった岩窟がある。
役小角は生駒で啓示を受けたのだった。

超能力者といえばカッコイイが、
パワーあふれる変わり者・・・。
そして、時と空間を超えるほどの自由人。
二人が好むのは、「氣」の清浄な場だ。
そういう「場」は、楽で愉しいんだぜ。

  天河・3
7/20 (木)

天河大弁才天神宮。
そのすぐ裏手にある民宿にお世話になる。
参集殿という集会場でセミナー顔合わせ。
総勢22名。
そのほとんどはヨガ関係者だ。

師匠の龍村修先生とは1年半ぶりだ。
和子・ヒリヤー・龍村先生とは9年ぶりだ。
柿坂神酒之祐宮司とは7年ぶりだ。
天河ボランティアの矢島さんも7年ぶりくらいだ。
参加者の中にも数年ぶりの人達が数人いた。

各自いろいろな思いを抱いて天河に来ている。
それは偶然であり、必然でもある。
ワシも流れるように来られたと思っている。
自然でもあり、たぶん・・・必然であるだろう。
運命を左右する要素の濃い場所だ。
眠っている何かを揺り動かす要素の濃い場所なのだ。

  天河・4
7/21 (金)

正式参拝。
階段の上り方。
宮司様より玉串の受け取り方。
御神体前までの移動の仕方。
二拝二拍手一拝(と軽く一礼)。
御神体前からの移動の仕方。
階段の下り方。
等々の作法を一通り教わる。

上下白の服に着替えて神殿に。
通常は階段下の胡床(折りたたみ椅子)に座る。
ところが、階段のやや広くなっている中段に席が用意されていた。
龍村グループは特別扱いされているのだ。

神様は贔屓する。
当たり前だ。
そんな事をゴチャゴチャ言うのは心の狭い人間だけだ。
自然界では、当たり前だ。
贔屓は特殊な出来事じゃないぜ。

当たり前に気づく。
すると贔屓されるように仕組まれている。
でもなぁ・・・
当たり前が出来そうで・・・
中々出来ないんだなぁ・・・。

  天河・5
7/22 (土)

宮司さんは神様との仲立役。
中臣という。
宮司さんが特別扱いしてくれたのなら、
神様が贔屓してくれたのだ。
これって、素直にラッキー!

やがて、一人一人玉串を宮司さんから手渡される。
教わった通りに、階段の外側の足から上る。
交互に出さない。
一歩づつそろえる。
神殿、上部へ。
座って、神前に移動する。

玉串を立て、感謝を込める。
時計回りに回し、枝元側から差し出す。
二拝二拍一拝、そして、軽く礼。
尻を向けないように反対側に移動する。
やがて、全員が神殿上部に移動した。

  天河・6
7/23 (日)

ここからサプライズが起こる。
いつも龍村ツアーはサプライズのオンパレードなのだ。
いつも特別な出来事が起こるのだが、
その価値に気づく者は少ない。
気づけば、有り難いと思う。
う、うれぴ〜!!

気づき、喜ぶ者は更に贔屓される・・・。
喜ぶより、悦ぶ者は更に更に贔屓される。
フッ、ワシは仕組みを意識しているズルイヤツだ。
だが、神様はズルイくらいは気にしない。
肚がデカイのだ。
それおも知っているワシは、ホントにズルイヤツだ。
遠慮なく、悦ぼうぜ。

柿坂神酒之祐宮司は直観で動く。
天河65代目の中臣だぜ。
我々一人一人の住所番地まで祝詞にしてくれた。
丁寧な祝詞だ。
遠慮なく、嬉しい。
ラッキーは素直に受け取ろうぜ。

  天河・7
7/24 (月)

何が起こるかわからない。
いつでも、どこでも、ラッキーは起こりえる。
いつでも、どこでも、初めて、はある。
奇跡も驚愕もあり得ない(と思っている)事も、
実は、しょっちゅう、普通にあるのだ。
奇跡なんて、日常茶飯なんだぜ。

翌日の夜に柿坂宮司は言った。
「私も住所番地まで祝詞にしたのは初めてです」
太鼓、笛、びわ?合いの手の楽器も一人でこなす。
とても器用でオチャメな宮司様だ。
顔は・・・迫力系だが・・・。

もちろん、特別な出来事はこれだけではすまない。
ノッてしまったのだ。
ラッキーは調子に乗って続くものだ。
ワシはこの一年、ずっとツキまくっている。
幸運には遠慮しないから、あと数十年は続くだろう。
だからといって、ワシに勝手に触るのはヤメテネ。
依頼され、ワシの方から触るの仕事なんだから・・・。

  天河・8
7/25 (火)

神殿の上部で座る我々。
宮司様のリードで大祝詞を唱える。
大祓詞(中臣祓詞・なかとみのはらへことば)
読みながらとはいえ、言葉使いに慣れてないとつまずく。
ワシはもちろん、つまずきっぱなし・・・。

祝詞の中ほどで、書かれてない言葉を宮司様が唱えた。
そして、その解釈もお話になった。
ここは、通常は神主が心の中で唱える部分とのこと。
それを表に出して唱えたのも、異例中の異例な出来事。
聞こえない、知らないはずの祓詞(はらへことば)に出会ったのだ。
ワシ等は特別な時間の中にいた。
一般の人達も階段の下の神殿にはいた。

やがて、続きの大祓詞が始まり、そして唱え終わる。
次は「ひふみ祝詞」
これは、ワシも日常で唱えている。
治療院を開ける時と閉める時。
理由は・・・短くて簡単だから・・・。

  天河・9
7/26 (水)

ひふみよいむなやこと・・・・。
誰でも最初の部分は知っているだろう。
日本語の47音だけの神道系祝詞だ。
いろはにほへと・・・は仏教系だ。
諸行無常、万物流転を表現している・・・らしい。

音霊(おとだま)は解釈しない。
宮司様はそう話された。
ひふみ祝詞は、内臓する深い意味もある。
だが、声(音)に出す事が大切。
声に出して唱えればいい。

そうだったのかぁ・・・
ワシは知らずに10年続けていた。
何となく、浄化する音だと感じていたからだ。
ラッキー!

  天河・10
7/27 (木)

ひふみ祝詞(祓詞)をワシが選んだのは勘だ。
天河神社で使われているとは知らなかった。
ここは、いろいろ、が凝縮されている。
ワシが判断しなくても、マネればいい。
ほぼ・・・間違いない。
だから、10年間も使っていたのはラッキーなのだ。
ワシは偶然に頼って生きているのだ・・・。

意味なんて知ったこっちゃない。
ワシは、世の中をそう観ている。
少なくても、ワシのようなモノが判断すれば間違う。
ならば、意味なんて考えずにいた方がマシだ。
勘か、成り行きか、偶然かで生きる。
そのほとんどに、ラッキー!と思えればいい。
たいていは・・・何とかなる。

ひふみ祝詞は3回繰り返した。
皆で声を出し合って唱えるのもいい。
いい音霊は皆で祝おう。
いい音霊は何度も祝おう。
いい音霊はラテン系でオープンに祝おうぜ。

  天河・11
7/28 (金)

ひふみ祝詞の次は弁財天の真言だ。
弁天様は、元々ヒンズー教の神様だ。
だが、日本は和の国。
平たく言えば・・・節操無しの国。
混合・混交・交合・融合は得意だ。
ワシの性質は、この国の性質と同調している。

弁天はサンスクリット語で「サラスヴァーティ」
日本語の真言は
おん・そらそばていゑ・そわか
「おん」は聖音、意味は付けない。
「そらそばていゑ」は空蕎麦亭というソバ屋ではない。
「そわか」はスヴァーハァ。
到達する、したいなぁ、奉っちゃうぞ、という意味。

ちなみに・・・
大日如来は「おん・あびらうんけん・ばざら・だどばん」
大日はエライので他にもあるぜ。
「のうまく・さんまんだ・ぼだなん・あびら・うんけん・そわか」
薬師如来は「おん・ころころ・せんだり・まとぅぎ・そわか」
ワシの守護神は「おん・まりしぇい・そわか」
摩利支天らしいのだが、誰にも確かめられない・・・。
こういうのは、ほとんどがデタラメか思い込み・・・。

  天河・12
7/29 (土)

弁天様の真言に続いて般若心経。
古から和の国だ。
神社仏閣は混交していた。
神も仏も一緒にあるんだなぁ。
神も仏も大物だから自他の区別はどうでもいい。
それを理解している中臣達は般若心経を唱える。
いいものは、いい。
キリストの言葉だって唱えちゃうぜ。

これも、ワシは15年ほど唱えている。
だって・・・短くて簡単なんだもん。
世のオナゴ達よ
短いのは長所でもあるのだぞ。
短所も長所も活かし方だ。
などと、自己弁護を書いている間に心経も唱え終えた。

いずれ、そのうち、近いうちかもしれんが、
ワシは独自の表現方法で「般若心経」を解説しようと思う。
宮司様が言われたように、音霊の意味を追いかけるのは愚だと思う。
だが、ワシは愚なのだ。
それに、今までの心経の解説は難しい。
ワシのようないいかげんな訳し方が適しているかもしれない。
適していなくても、まぁ、いいんじゃないか?

  天河・13
7/30 (日)

浄化の音霊は空間に作用する。
時には見えないモノ達にも作用する。
だが・・・これだけ続けても・・・。
ワシの心も精神も、ちっとも浄化されない。
相変らず汚れたままだぜ。
モノグサだし、スケベだし、イイカゲンだし。

だがワシが特殊体質というわけでもないようだ。
本職の坊さん、神主さん、神父、牧師さん。
毎日、何十年も聖なる音霊を唱えている。
だが・・・やはり、その中身は・・・ねぇ。
こんなの唱えない山の中のじいちゃん、ばあちゃん。
心や精神もとても綺麗なままの人もいるのだ。

ワシのようにエラソウにする人の心や精神は浄化されない。
当たり前なんだなぁ・・・。
立派な言葉を並べる政治家や事業家。
中身も立派な人はいない事がやっと解った。
中身が立派な人は、立派な言葉を並べない・・・。
当たり前なんだなぁ・・・。

  天河・14
7/31 (月)

般若心経を唱え終わってサプライズは更に起こる。
宮司様が「舞を舞う方は御神体の前に」
皆、???。
そんなの、あり?

実は玉串を渡す時に、一人の女性に聞いたらしい。
「貴方は、舞を舞う方ですか?」
女性はダンサーだった。
「はい(だけど・・・なぁ)」
「では、私が合図をしたら御神体の前で舞って下さい」
「はい(どんな踊りか確かめないで、いいんかぁ?)」

女性の舞は、ベリーダンスだった。
白い上下服に白のシースルーの上掛け。
後に女性は、ためらいの心情を話した。
腰振ってもいいの?

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