06年8月のコラム           コラム4目次に戻る
  天河・15
8/01 (火)

ワシの認識だ。
神様は性と聖の区別をしない。
だから、性(聖)の事柄は大好きだ。
神様の前で腰を振るのは喜ぶと思う。
奉納の舞は、だいたいそんなものだ。
ワシの認識はそれほど間違っていなかった。

だが、皆がワシのようにいいかげんではない。
キチンと常識がある。
とまどった人達もいるだろう。
まして、階段下には一般参賀者がいるのだ。
腰振り舞は、結構イロッぽい。
ラッキーだぜ。

もう一度「ひふみ祝詞」を唱えながら、手拍子をする。
宮司様は太鼓を叩く。
それに合わせて、女性は舞い始めた。
それは、次第に、超古代の舞に観えた。
その場にいた、誰もが、同じように感じたらしい。

  天河・16
8/02 (水)

超古代の舞。
アマテラスが機嫌を悪くして隠れた時。
天の岩戸事件だ。
アマテラスが隠れると、この世は闇だ。
神々(人々)は出るように策謀をめぐらす・・・。

岩戸の前に岩舞台を作る。
カガリで照明。
踊り子さんは、アメノウズメノミコト。
半裸(ほぼ全裸)で腰を振りながら、嬉しそうに踊る。
ストリップの原型ともいわれている。

当然、ヤンヤの喝采。
皆、好きなのだ。
生命の謳歌事が嫌いなら、生きている価値がない。
皆、愉しんでいた。
当時は、今より、ずっと素直だ。
アマテラスはその喝采が不思議だった。
「私がいなくても、皆は嬉しいのか?」

  天河・17
8/03 (木)

岩戸を少し開いて、外を覗く。
その瞬間、バカ力のアメノタジカラオノカミが岩戸を開く。
アマテラスの光明は・・・オナゴの裸に負けた・・・。
とてもエライ神様だって裸にゃ負けるのだ。
人間の理性など、オナゴの裸に負けるのは当然だ。
久米仙人が雲から落ちるのは当たり前だ。

神話は真理を語っている・・・。
だが、神様事は常識外れだ。
常識は人間だけのモノ。
神様は常識外れの存在だ。
だから意味を紐解く者は、いいかげんでないと無理かも・・・。

その場に居合わした我々は、神話の光景を感じた。
ならば・・・
何かが開く「場」に出会った事になる。
とても大きく深い何かと出会うかもしれない。
今後、また、変われる。
ラッキーだぜ。
とても、ラッキーだぜ。

翌日の例大祭の夜に柿坂宮司様の講義があった。
過去に能舞台でベリーダンスはあったらしい。
(それもかなり異例なんだろうなぁ・・・)
だが、祭壇上の御神体の前は初めてだ。
我々は特殊な天河でも、異例だらけの出来事の中にいた。

  天河・18
8/04 (金)

異例の正式参拝が終り、夕食後は宵宮祭神事だ。
龍村セミナー一行用に二列目に席が用意されている。
胡床(折りたたみ椅子)に「ガイアシンフォニーネット」と名前がある。
大勢の来賓が招かれている中でも、かなり優遇されているのだ。
何故か、って?
これも柿坂宮司様の意向(直観)だ。
神様は非常識だから、中臣も非常識なのだ・・・。

天河大弁才天神宮に縁のある神職者。
講や修験道関係者。
その他の(多分)エライ人達。
それぞれ玉串の奉納儀式をした。
我々からは当然、龍村先生と和子先生が呼ばれた。
龍村先生が御神体の前に進み出た時、我々も起立。
そして、階段下から一緒に二拝二拍一礼。

宵闇の中、祭壇の反対側にある能舞台に向きを変える。
神楽が始まった。
最初、少女が飾り短刀を持って舞う。
そこで、ワシは一つの意味を知る事になる。

  天河・19
8/05 (土)

奈良の天河に来る2日前だ。
新潟の知人から電話があった。
(当然、魅力的なオナゴである)
「体調悪い。今日来て下さい」
「夕方からなら行ける」
というわけで、新幹線で燕三条に降りる。

知人といっても会うのは3度目だ。
だが昔から知っている・・・ようだ。
約2000年前くらいから・・・と思う。
忘れん坊のワシだが、説明できない勘は働く。
(もっと現実的に働けばいいのに・・・)

実は、三条はワシの母方のルーツだ。
ワシが今の仕事(能力)なのも、ここからなのだ。
だから、いつか機会があったら行こうと思っていた。
それが、向こうから依頼として呼んでくれた。
ラッキーだぜ。
ワシはここ一年前から、ラッキーが続いているのだ。

  天河・20
8/06 (日)

三条のワシの祖先については「水晶」の雑記を読んでくれ。
ワシは御先祖様達の御蔭で今日がある。
嬉しいし、感謝している。
その地にやっと来れた。
この先も、何度も来れると思う。
通路が繋がったのだ。

御先祖様達は「宝剣」を創る鍛冶職だった。
守護の剣・破邪の剣。
結界を張り、浄化の「場」をつくる。
一打一打に真剣な「氣」を込める。
ワシの「氣入れ」は御先祖様からの得意技だ。

守護も破邪も「浄化の氣」だ。
病(闇)からの解放も同じ方法だ。
ワシは三条の御先祖様から呼ばれたと思った。
宝剣創りの方法は解った。
だが、その後の宝剣の使い方がイマイチだった。
家宝として、大事に飾っておくのか?

  天河・21
8/07 (月)

ワシはアホだし、オマケに忘れるのが得意だ。
だから、深刻な病い人と向き合っていける。
アホを自覚しているから、
「わからん」から出発できる。
難病・奇病・重病などの深い病は固定概念が邪魔なのだ。

だが「わからん」だけでは前に進めない。
そこで便利なグッズがある。
「冥想」というヤツだ。
解らない事は冥想へアクセス。
すると、それほど時間はかからず教えてもらえる。
ただし・・・読み取る「氣づき」が必要だ。

冥想なんて難しくない。
(注:眼を瞑る瞑想と混同しないでね)
素直に「何?」と問えばいい。
問うモノに扉は開かれるように出来ている。
この世の仕組みを創ったグレちゃんは優しいのだ。

そこで、ワシは宝剣の使い方を問うた。
その答えが・・・・
天河での神楽だったのだ。

金曜日の夜は三条のホテルに泊まった。
そこで、宝剣の使い方を問うた。
土曜日の朝に群馬に戻った。
そして日曜日の夜に天河で答えを示された。
ワシはラッキーだぜ。

  天河・22
8/08 (火)

神楽を舞う少女。
手に持つ飾り刀は宝剣だ。
神楽は神様に楽しんでいただく行い。
それが「芸能」の元となる。

楽しんでいただくが、そこには畏れがある。
尊びがあり、感謝があり、嬉しさがある。
そして、人間技ではどうしようもない願いもある。
それらを表現したものが、舞であり唄であり音楽である。
それらは、全て神楽だった。

宝剣は神に奉げ、そして通路をいただくモノだった。
宝剣は神の(一部の)「氣」と通じて、初めて役に立つ。
当たり前なのだが・・・知らなかった。
守護も破邪も人間の「氣」だけでは役にたたない。

ワシは神社の在り方を観たように思った。
神社の役目(の一つ)を教えていただいた。
鍛冶職の御先祖様達が、何故神職と同じ姿なのかも。
今までは神楽を見ても気づかなかった。
一人の少女の舞が、大きな意味を教えてくれた。

  天河・23
8/09 (水)

ワシには解る。
神楽を舞う少女の動作の意味が。
宝剣を半分抜いて、目の前にかざす意味が。
その宝剣が何故あれほど磨かれているのか。
奉げる相手が神だと知れば、動作の意味は解ける。

宝剣は守護であり、破邪である。
だから守護の舞があり、破邪の舞があった。
そして神に奉げる感謝と畏れの舞であった。
神楽は多くの事を表現し、教えてくれた。
ワシはここで神楽を観る事に感謝したぜ。

舞の全て理解できるわけではない。
だが、一つ解ければ幾つか解ける。
芯が解ければ、方向は解る。
解れば舞は面白い。
神楽は、とても面白い。

  天河・24
8/10 (木)

神楽の次は長唄「鶴亀」
そして奉納音楽。
今回はバイオリニストの吉田美里嬢。
どこか異国の香りがする美女だった。

その後は参集殿にてシェアリング。
各自の感想などを分かち合う。
第1日目なのに、もう充分受け取っている。
この半日だけで、ここまで来た価値が余りある。
それは参加者のほとんどが感じた事のようだ。

翌朝は天然記念物の雌雄同体の大銀杏に集合。
ヨガアサナと気功法を兼ねた呼吸法をする。
この大銀杏は空海(弘法大師)の手植といわれている。
1200年を超える雌雄同体の巨木は人に応える術を持っている。
素直な人の意識に、葉や実や音で感応してくれる。
(役の行者と空海の差は100年くらいかも・・・)

雌雄同体は聖地のシンボルの一つだ。
世界各地の聖地には必ずあるといわれている。
ダラムサラのノルブリンカでのチベット仏教曼荼羅図を思い出す。
御神体は男女神交合図だ。
これが宇宙の姿であり、神の姿であり、仏の境地でもある。
それに感応する場所が「聖地」となる。

  天河・25
8/11 (金)

呼吸法で体と意識を整え、朝の境内清掃行。
おそらく、いつでも綺麗に清掃してあるのだろう。
ほとんどゴミも枯れ草や落ち葉もない。
清掃は祓いの一つなのだ。

ワシは役の行者(役小角)が祀られている祠付近を清掃した。
ここでは役の行者は「南無神変大菩薩」とされている。
天河はこの超特殊能力者によって開かれたのだ。
そうでなくても、ワシは役の行者に魅かれている。
だが、山伏の修行はまっぴらだ・・・。
特に組織の山伏は・・・何だかなぁ・・・。
本来は、たった一人でするものじゃないのかなぁ?

山の自然に自分を投げ入れ、そして溶け込む過程で学ぶ。
自然(理)を学ぶ(気づく)。
自然は生命。
自然は神。
そして、慈しみ。

祖の役の行者は、その行いで示した。
たぶん・・・組織なんざぁ作りたくもなかった。
自然に融ければ、自由になってしまう。
社会に参加したのも、個人的にしたかったからだ。
自由(自立)になれば、共生に目覚める。
組織は自立を邪魔しちまうぜ。

  天河・26
8/12 (土)

10時からは例大祭だ。
天河神社の多くの年間行事祭りでも一番大きな祭りとなる。
上下白服に着替え神殿へ。
祝詞、玉串奉納などの神事。
そして、昨夜とは違う神楽。

11時からは護摩壇が作られた境内で護摩法要。
採燈大護摩厳修という。
山伏姿の修験者達が大勢で行う。
本山修験宗 聖護院門跡の方々だ。
これが、また見事な護摩だった。

結界を張った護摩壇から、
東南西北に破魔矢?を打ち込む。
そして護摩壇にも打ち込む。
更に大鉈で東南西北に結界を張る。
真言や般若心経などを唱え、火入れをする。
破邪の剣で護摩壇を浄化する。

最初、護摩壇の下から煙が這う。
それが特殊撮影のように広がるのだ。
何かに操られているような煙だった。
そして火。
後から、近年最高の護摩だったと聞かされた。

  天河・27
8/13 (日)

午後からは能(慶祝能)。
「通小町」という。
ワシは能の面白さがわからない。
眠くなる・・・。
人間国宝さんに申し訳ない・・・。
(観世流 片山九郎右衛門)

ところが右隣の和子先生が言った。
「今日の能は素晴らしい迫力だわ」
ワシには迫力がわからない。
和子先生は龍村家で子供の頃から能を習わされたという。
そして、駐米して日本の伝統芸能を紹介する仕事をしていた。
能、歌舞伎、文楽等をアメリカに紹介したのは和子先生なのだ。

後でわかったことがある。
人間国宝さんが体調不良で舞台に立てなくなった。
息子さん(だと思う)が急遽代役をした。
人間国宝の代役だ。
その為、とても「氣」を込めて演じていたらしい。
誰も知らない事だった。
和子先生の感想は凄いとしかいいようがない。

  天河・28
8/14 (月)

講義で幾つか染みた事がある。
天河神社の象徴として五十鈴(いすず)がある。
神話の神代鈴と同じモノといわれている。
その神器を振ることに魅せられた人がいた。
あまりに見事な鈴振りに講義をお願いしたのだ。

髭顔の原氏は臨時講師を快く引き受けて下さった。
「あれは振っているのではなく、振らされているのです」
振る、より、震るに近いのかもしれない。
震えてしまうようだ。
そして、その波動は全身に波及するようだ。

「つい、腰も振ってしまいます」
「顔はにやけてしまいます」
この神器は、嬉しい、楽(愉)しい、気持ちいいモノなのだ。
身体が自然に振れる。
それは舞の元でもある。
楽器の元でもある。

神は楽しい場所に降りて来る。
こんな、当たり前が今まで判らなかったのだ。
神は嬉しい場所に降りて来る。
神は気持ちいい場所に降りて来る。

  天河・29
8/15 (火)

五十鈴は二つで一つとなるようだ。
三つの鈴が三角の形をしている鈴だ。
それを二つ合わせると六亡星に似る。
宇宙の形とかいう人もいるが、宇宙の形を見た人はいない。
だが、一つの完成された形ではあるようだ。

原氏はイザナギとイザナミとした。
二つ合わさり、何かが生まれる。
合わさった波動は何かの扉を開く。
遥か宇宙の共通した波動と共鳴する。
そして・・・何かが起こる。

二つ合わさったモノ。
それを神とした。
それを「キミ」と表現した。
君が代(神の世界)の意味はここにある。
完成された二つが合わさったモノ。
君が代は千代に八千代に・・・。
(神の世界は時と空間が無限であり、過去と未来が・・・)
当たり前で深い意味があったのだ。

  天河・30
8/16 (水)

ホンモノの神社には濃い「氣」がある。
大元に働きかける「氣」がある。
日本人としての大元を震わす「氣」がある。
天河弁財天社ではその影響が大きいようだ。
ここで何かが目覚める人は多い。

「日本人でよかった」
「日本に生まれて嬉しい」
今回もそういう感想が幾人からも出た。
ワシのような無能力者でも触発された。
日本人としての血を震わされたのだ。

ワシはこの歳になって初めて邦楽の深さに触れたと思った。
もちろん、深さといっても判らないままだ。
だが「とても深い」とは感じたのだ。
洋楽器に比べ、単調だと思っていたのが逆転した。
和唄の底知れぬ深さを感じたのだ。
日本は・・・深いモノを秘めている・・・。

  天河・31
8/17 (木)

例大祭の夜、柿坂宮司が講義をして下さった。
忙しいだろうに・・・。
7年前の柿坂宮司の言葉を思い出す。
「神様が相手ですから・・・」

「神様」は特定ではない。
我々一人一人の内なる神だ。
我々は自覚できないでいる。
少なくてもワシは自覚できてない。
ワシの中の神様を自覚できない。
だが、宮司はその神様に出会う。

だから手を抜けないのだと言う。
一人一人の感想や質問に丁寧に応える。
言葉ではない。
その、姿なのだ。
その、生き方なのだ。
ワシは宮司様としての
惟神(随神・かんながら)を観る。

ワシとしての惟神は・・・
もっと、ナマケモノに近い・・・。

  天河・32
8/18 (金)

天河65代目の柿坂宮司。
夜中12時過ぎまで丁寧に講義をして下さった。
一人一人の感想や質問は皆と共有となる。
シェアリングは一人で多人数分の学びとなる。
共有体験後のシェアリングは大きな効果なのだ。

翌早朝は和子先生の瞑想法があった。
だがワシは参加せず、一人で大銀杏に行った。
大銀杏と「氣の交流」がしたかったのだ。
誰もいない時、静かに、そっと。
巨木とは「氣の交流」が行いやすいのだ。
樹は「氣」の塊なのかもしれんなぁ。

大銀杏は天然記念物だ。
空海の手植といわれている雌雄同体の特殊銀杏だ。
根元を囲っている柵がある。
裏側から(ちょっと失礼させてもらう)。
巨木なので表側からはワシは見えない。
そして、両手を広げて抱きついた。

  天河・33
8/19 (土)

二年前。
ワシは九州の宗像神社にいた。
本宮の裏の巨木に呼び止められた。
何故か、する事は解っていた。
触れて、「氣の交流」だ。

ワシに澱んで浄化しきれなかったモノ。
それが一瞬でスッと消えた。
同時に巨木もワシからの「氣」を喜ぶ。
何故だか知らない。
時には「いいかげんの氣」も必要なのだろう。

ワシはヒーリングの深い意味に気づいた。
「分かち合い」がヒーリングの本筋なのだ。
お互いが同時に支えあう時がある。
お互いが同時に必要だったと気づく時がある。
お互いが同時に回復(回帰)する行いがある。

天河の大銀杏に2年前を重ねていた。
予想は外れた。
予想はよそう。

  天河・34
8/20 (日)

天河の大銀杏はワシの「氣」なぞ必要でなかった。
当たり前だ。
だが何も無いわけじゃない。
何も無いわけがない。
「氣」には応えてくれる。
巨木は優しいのだ。

気づくレベル(層)よりも深いモノ。
感じないレベルのモノ。
強いていえば・・・勘。
いつ気づくかわからない。
だが、未来に気づくだろう。
そういう深い層からの何か。
妙なる何か。

ワシは受け取った。
微にして妙なる部分が震えた。
微妙はワシの仕事上の部分だ。
不安定な勘じゃないぜ。
何が変わるか。
何が起こるか。
とても愉しみにしている。

  天河・35
8/21 (日)

大銀杏から神殿に向かう。
丁度、朝礼拝を行う前だった。
我々龍村セミナー一同は能舞台上を許された。
一般参賀者は胡床から。

柿坂宮司が祝詞を上げる。
お話をして下さる。
龍村先生が呼ばれ、階段中からアサナ。
一般参賀者も一緒だ。
このような「おおらかさ」は天河神社の特徴だ。

「おおらか」でなければ神様は降りない。
畏れと敬愛と感謝の上での「おおらかさ」だ。
それぞれ、いろいろな部分を学んだろう。
ワシは「おおらか」と「楽」に神を観た。

深いからこそ精妙な「場」がある。
その「場」の依代(よりしろ)に社が建つ。
社に引き寄せられた者達は深い部分を震わせられる。
そして、
変わる。
神と人との合一の「場」
ホンモノを守る社は少ないだろうな。

  天河・36
8/22 (火)

天河大弁財天社。
滞在時間は僅かだった。
だが質の濃さは時間じゃない。
深さは一瞬で届くのだ。
ここは、そういう場だった。

天河は呼ばれて訪れる所。
時期(縁)が整うと呼ばれる。
その時に訪れれば何かが震える。
それぞれの底にある何かが震える。
常に震わす何かがある場なのだ。

震えた(共鳴した)何かは目覚める。
多分・・・目覚める・・・だろう。
目覚めない事も往々にしてある・・・だろう。
そんな事ぁ、アヤフヤなのだ。
目覚めは自動じゃない。
それぞれがキッカケ(震え)を活かすかどうかだ。

ワシは・・・どうなる?
そんな事ぁ・・・わからねぇ。
だが、天河に来て、嬉しかった。
何かが震えたのは確かだ。
ラッキーだ。

  錦・1
8/23 (水)

清浄なる吉野の奥の天河から下界に戻る。
本来が下品の俗物で創られたワシだ。
創ったのはグレちゃんだからワシの責任じゃない。
だが未だ(不本意ながら)清浄な部分が震えていた。
そのままのノリで京都まで来てしまった。

龍村師匠の案内で実兄の龍村光峯氏の工房見学させていただいた。
伝統織物美術家の光峯氏直接の解説はとても解りやすかった。
伝統織物は総合工芸であり、総合美術である。
言葉だけでなく作品が教えてくれる。

伝統織物は、とても多くの職人達が支えている。
しかも、それぞれが名人の域に入って統合された作品だ。
今の日本を支える企業の大元の知恵が織物工芸に含まれている。
その伝統工芸が絶滅の危機に瀕している。
これが、今の日本のまぎれもない現実なのだ。

日本の技術社会の未来は日本社会が自ら壊しているのだ。
このままでは、日本に明日は無い。
無能な政治家と目の前の欲だけを追いかける経営者。
未来を創る役目を放棄した専門家達。
明日を想像できない人々。
感性を培わない教育と社会。

伝統には未来を創るヒントが数多く輝いている。
輝きを活かすのは、我々一人一人。
下品な俗物のワシにも感性はある。
多分・・・誰にでもある。
それを震わす作品に出会えばいい。
ワシは京都でもラッキーだった。

  錦・2
8/24 (木)

光峯氏は「錦」についてお話下さった。
織物世界と縁が無かったワシだ。
「錦」が日本の絹織物の最高工芸だと知らなかった。
錦を飾る・・・。
飾るモノなのだ。
最高の織物芸術作品なのだ。

世界に誇れる日本の美。
日本の伝統織物は優れた美を創りあげていた。
絹の断面が三角とは知らなかった。
その為にプリズムのように色が変化する。
その特色を活かした染色技術。
その特色を活かした織物技術。
金糸、銀糸等の製糸技術。

とても多くの工程に熟練の職人がいる。
丁寧に多くの時間と「氣」をかけて一つの工程がある。
それらが総合されて一本の糸が交わる。
一本ずつ「氣」を込めて織られていく。
多くの「氣」の塊。
それが「錦」となる。

  錦・3
8/25 (金)

作品を見ればいい。
それだけで解る。
日本の美だ。
そして熟練の技は芸術だと知る。

総合工芸は熟練の技の和。
そこには単体の熟練の集まりだけじゃない。
和が生み出す大きな魅力が加わる。
総合芸術は単体芸術とは次元が違う。
自然の仕組みに沿っている。

錦はキンキラキンの美しさではない。
深遠なる美しさなのだ。
伝統織物は和で成り立つから深遠になる。
和の美が織物世界では「錦」となる。
ワシは織物のホンモノに出会えたようだ。
ワシは
ラッキーなオヤジだぜ。

  M嬢・1
8/26 (土)

京で深遠なる伝統織物の錦を観る。
ワシは天河から続いてマトモな世界にいた。
だが・・・ワシのマトモは長くは続かない。
ワシの魂はマトモと長く一緒にいる根性が無い。
不マジメなら、長く続いてしまうのだがなぁ。

その夜はクライアントのM嬢と初めて会う。
京のM嬢・・・。
もう、そのイニシャルだけで・・・妖しい。
ワシは怪しいのや、アヤシイのや、妖しいのは大好きなのだ。
特に妖しいのは魅力がある。

キッカケは昨年の9月にメールが来たのだ。
ワシの拙書「やすら氣・やわら氣・わらいの氣」購入依頼だ。
ついでに「氣入れ水晶」も購入していただいた。
何度かメールのやり取りをさせていただいた。
「氣」については素人ではない立場の人だった。
保健氣功中心で、練功を続け、指導もされているようだ。

文面からは、知性充分な魅力的なオトナのオナゴを感じた。
ワシの知性の基準は、おおらかなユーモアだ。
M嬢は優しく、おおらかなユーモアがあふれていた。
いつか、機会が訪れたら会いましょう。
最後のメールから8ヶ月が過ぎていた。

  M嬢・2
8/27 (日)

天河には新幹線京都駅で近鉄に乗り換える。
そうだ!京都にはM嬢がいる!
ワシはクライアントに基本的にこちらから連絡をする事はない。
だが、ワシの「基本」など砂で即席に作ったものだ。
信念だって生き様だって、簡単に覆す事が出来る。
フッ、ワシは雲の生まれ変わりだぜ。

お互いに携帯番号とメールアドレスは知っている。
もう、ワシの事など忘れているかもしれんが・・・。
一応、京都に行く事を伝えた。
その時点ではワシの予定が不確定だった。
会える時間があるかどうかも不明だった。

M嬢から返信が来た。
「突然降って湧いた幸運に感謝感激です」
そんな言葉で返されたら・・・。
こりゃ、ヒョウが降ろうがライオンが降ろうが会わねばならぬ。
思えば、これがM嬢の特質だったとは気づかなかった。
そしてワシも水上なので、Mのオヤジだと気づくべきだった。
MとM・・・。
嬢とオッサンの運命は如何に?

  M嬢・3
8/28 (月)

何処かで初めて会う待ち合わせ。
多分、お互いに判るだろう、と思っている。
今まで判らなかった事はなかった。
ワシは余計な想像をしない。
だから想像が外れる事もない。

嘗てのメールのやり取り。
会える機会があれば・・・との話の中。
ワシは30代以上のオナゴでなければ嫌だ。
と書いたら、M嬢は何とか合格です、と返事した。
文面も30代以上の落ち着きがあった。

余計な想像はしないが、おおよその見当はつける。
35歳くらいの落ち着いた知的美人・・・。
今回も人中でお互いが判りあった。
だが、ワシは少々とまどったのだ。

予想は外れた・・・。
予想はよそう・・・。
(毎回同じオヤジ駄洒落・・・
芸人としては失格だ・・・)

  M嬢・4
8/29 (火)

M嬢・・・30代と偽ったなぁ。
20代前半のネ〜チャンじゃねぇか。
ワシは20代のネ〜チャンは苦手なのだ。
出来る事なら無縁でありたい・・・。
だが治療依頼も兼ねてだから仕方ない。

しかも、ほっそりとした超美人。
ワシと一緒じゃ違和感がある。
ワシは美人にゃ強いが、違和感はある。
洗練された美人の若ぇネ〜チャンとはなぁ・・・。
世の中、嘘つきばかりで油断がならぬ。

だがM嬢はあくまで30代だと言い張る。
身分証明書は見せてくれなかったが・・・。
今更、もう、どうでもいい。
騙される方が悪いのさ、どうせ・・・。

京都のオナゴと付き合った事はない。
というか・・・ほとんどのオナゴと付き合った事がない。
だから、京都のオナゴの特性だかM嬢の特性だか判らない。
ワシへのオミヤに桜香を用意してくれていた。
京のオナゴらしい心使いだ。
こうなりゃ仮に20代だったとしても許す。
洗練された超美人でも許してあげよう。

  M嬢・5
8/30 (水)

「先生、あまりに若いので別人かと思ったわ」
「Mさん、本当は20代だろ?」
「先生こそ本当は30代でしょ?」
「Mさん、実は10代だったりして?」
「先生も20代じゃない?」
「Mさん、高校生でも通るよ」
「先生、学生さんみたい」
「Mさん、中学生でいけるかも」
「先生、少年のよう」
「Mさん、幼女のあどけなさ」
「先生は子供の純粋さね」
「Mさん、赤ちゃんの笑顔だ」

お、おい!
誰か止めろよ!

しかし、嬢とオッサンは同じタイプだったのだ。
Mの特性・・・。
果てしなく、空しい会話は続いた・・・。
赤ちゃんより若くさかのぼるには・・・
・・・前世かぁ?

  M嬢・6
8/31 (木)

漫才にはボケとツッコミがある。
何故あるか?
ボケだけだと終わらないのだ。
ツッコミは制止力でもある。

SとMがいる。
何故いるのか?
Sだけだとケンカになる。
Mだけだと進展がない。

M嬢と話していて、そういう事に気づいた。
何故なら、M嬢とMオヤジ(ワシ)では果てが無い。
止めてくれるツッコミ(S)がいないのだ。
M嬢は美女だがボケ専門だった。
ワシは生まれつきのボケ専門だった。

何の進展も無く、ボケの、やり取りだけが続く・・・。
我々は何処から来たのか?
そして何処へ行くのだろう?
嬢とオッサンは「存在の哲学」を意識していた。

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