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「07年始まり・1」
01/01 (月)

(この世では)時間は常に一方向に流れている。
螺旋型に流れている。
地球では365日を一周として螺旋が同方向になる。
日本(と多くの国)では昨日・今日を境に決めた。
昔の日本は境が一ヶ月先(旧暦)だったが・・・。

意識は過去・現在・未来に作用する。
生き方、感じ方に作用する。
意識はキッカケ(印)が無いと変え難い。
螺旋上のある一点を境として意識を変える。
すると生き方、感じ方が変わる。
それは未来的には運命が変わるという事だ。
それが年始という境でもある。

時間が流れているから事実は変化も常である。
基本的には運命が変化しない事はない。
固定概念で変化しないように(変えている)しているのだ。
生き方は個人が意識で決めている。
運命は常に自分で運んでいるのだ。
そのほどんどを同じ意識で固定している。

境(年始)は運命を変えるチャンスなのだ。
年頭の誓い、というほど力まなくていい。
意識は力むと変わり難いのだ。
むしろ自然体(力を抜く)方が変わりやすい。
自然(幸せ)方向には変わりやすい。
意識は力を入れれば、目標に近づくが変わらない。
力を抜けば(自然・幸せに)変わりやすい。
どちらを選ぶのかは、各自の生き方だ。

感謝は(意識の)力を抜くのに適している。
新たな境を迎えられたのだ。
ラッキーだぜ。
幸せになるチャンスを迎えられたのだ。
ワシは感謝として、言葉にする。

明けまして
おめでとうございます。

  「07年始まり・2」
01/02 (火)

毎年、何かが始まる。
誰でも必ず何かが始まっている。
それに気づくか、気づかぬか。
それを活かすか、活かさぬか。
ただ、それだけの違い。
この違いが、一年経つと大きい。

道の仕組みは、そんなもんだ。
分かれ道(始まり)は僅かな角度だ。
同じ道だと思い込めば、同じ道になる。
道は毎年違うと思えば、違う道になる。
先は判らぬ、と素直に認めればいい。
判らない事、解らない事は、面白い。
わからないからこそ、ワクワクできる。

ワクワクしてれば、愉しい事に出会う。
ワシは愉しい事に出会いたい。
そういう道を歩いていたい。
だから、わからぬ道が好きだ。
未熟でいたらぬ自分が好きだ。

大丈夫だ。
今年も充分未熟なままだ。
先は読めない。
愉しい事が待っている。

未来が誰にもわからないのは
神様からの贈り物だと思う。

  「07年始まり・3」
01/03 (水)

人類の方向がある。
日本の方向がある。
集団が大きくなるほどハンドルは重い。
道の修正は難しくなる。

個人の方向がある。
個人はいつでも方向を決められる(変えられる)。
個人のハンドルは軽いのだ。
いつでも、やり直しが出来る。

集団の修正は個人から発する。
個人が思い、行動する事から始まる。
集団の修正は難しくても、個人の責任なのだ。
卑怯な政治家は個人個人が選んだのだ。
戦争や自然破壊などの大きな苦しみは
欲得まみれの政治家や官僚だけの責任ではない。

生き方の自立をしないと・・・ヤバイかも。
自立は「共生の自覚」だ。
どんな生き方をしてもいい。
だが共生(人類だけじゃない)の自覚は基本だ。
ワシのようなナマケモノでも共生の自覚はある。

大声は出さない。
立派な生き方も遠慮する。
出来る限り自由に生きたい。
気ままであり独善でもある。
それでも「共生の自覚」は基本だ。
他を犯す(侵す)なら自由も失う。
そのくらいは、知っている。

今年も更に自由に生きる。
より基本を大切にするから自由になれる。
他の自由と自の自由は同じだ。
自分の生き方に自信があるぜ。
ワシはワガママだ。

  「氣使い・1」
01/04 (木)

いいかげんなワシでも気づいてしまう。
見えるわけではない。
感じてしまう、というのとも違う。
思い込み・・・とも違う。
ワシは思い込むほど、他人に関心がない。

解ってしまう・・・のかもしれない。
だが正しいかどうかは知らない。
勝手な解釈だと思う。
当ってるかどうか、なんて知らない。
そう気づいてしまうのだから仕方ない。
これでも微妙な世界の住人だ。

相手はクライアントに限らない。
すれ違う人やTVの中の人の時もある。
身体の状態、全てではない。
もちろん心を読んでいるわけではない。
ワシはリーディングには興味ないのだ。
他人の事など、知りたいとは思わない。

ワシはプロの治療者の自覚がある。
説明なんてどうでもいい。
(どうでもいいわけじゃないけど・・・)
相手が納得する説明をする役目じゃない。
健康に戻すのが役目だ。
それに納得する説明なんて出来ない。
「使っている氣」だって独善解釈だ。

  「氣使い・2」
01/05 (金)

正体など判らなくても使える。
性質が判れば使い方は工夫できる。
この世にあるモノなんて、大抵そんなもんだ。
判った、解ったと勘違いしているだけだ。

例えば・・・人間。
夫婦だって、お互いの本当の正体なんて判らない。
本当の心なんて解らない。
それでも性質は判る。
工夫すれば、いい夫婦や家庭は築ける。
工夫とは「思いやり」の別名だぜ。

「氣」は多種多様の性質がある。
荒いのも暗いのも冷たいのもある。
突き刺さるのもあれば、切れるのもある。
柔らかい、暖(温)かい、明るいのもある。

ワシの使えるのは「調和」力だ。
調和は自然でもあり、生命でもある。
だから、こんなワシでも思い切って使える。
調和力なら間違いようがないのだ。

  「氣使い・3」
01/06 (土)

自分が自分から離れる。
離れる時もある。
離れるほどじゃないが、薄くなる。
どう説明したらいいのかなぁ・・・
自分を捕まえている力が弛む。

元々しっかりしてないワシだ。
自分にこだわるモノは持ってない。
立派なモノはない。
小ちぇえモノだ。
それでも使えるけどねぇ。
(勘違いするなよ。心だぜ)

氣功時は自分が薄くなる。
誰でも自分の氣を使って生きている。
ところが、この氣功は自分を空にする。
自分のモノは端に寄せている。
空いたパイプの中を(氣が)流れて来る。
その時、自分の氣(元)は使わない。

  「氣使い・4」
01/07 (日)

自分は止まっている。
自分の氣を使わない。
(別な氣を使っているから)
だから生命を使わない。
自分の時が止まっている。

一般的な中国気功は逆だ。
自分の氣を鍛え(練功)て使う。
だから生命を使う。
エネルギーを使う。
腹も減る・・・。

ワシは他のフンドシ(氣)を使う。
エネルギーは使わない。
生命も止まったまま。
(多分・・・歳をとらないのだと思う)
腹も減らない・・・。
疲れて眠くなる事はない。
気持ち良くて眠くはなる。

  「氣使い・5」
01/08 (月)

使っている「氣」が何処から来るのか知らない。
故御師匠様は宇宙の彼方から、と言っていた。
証明は出来ない・・・。
だが、人のモノでないのは判る。
人の範囲を超えているのは判る。
鍛えて使うようなモノではない。

最初の頃。
ワシはワシの身体を通っているのかと思った。
ラッキー♪
自動的に健康になれる。
しかし、それは間違いだった・・・。
身体を通ってはいない。
身体は止まったままだ。

手の表面だけから発光する。
あるいは、身体の表面から発光する。
表面に扉が開かれるのだ。
決して中の(自分の)氣が反応しているわけではない。

こういう事も10年以上経って、やっと解ってきた。
ワシは何年「氣使い」してもワシの中身が変わるわけじゃない。
むしろ時が止まって、変わらないままなのだ。
ワシは・・・成長しない・・・。
それもラッキーだ。
成長したらラッキーだ。。
成長しなければ、それもラッキーだぜ。

  「氣使い・6」
01/09 (火)

氣功時、自分が自分を離れる。
勝手に離れてしまう。
どうやら冥想状態に近いらしい。
もちろん高僧のする冥想とは雲泥の差がある。
高僧は上品で深遠な真実を冥想する。
ワシは下品のままだし真実など求めてない。

冥想なんてピンからキリまであるんだ。
まして冥想に至る方法の一つの瞑想法。
これもピンからキリまであるんだ。
やればいいってものじゃない。
瞑想法をして「冥想」をしない人は多い。
瞑想法に「こだわる」人も多い。
本末転倒・・・。

ワシは下品のままだが、自分を離れる。
すると観えてしまう事がある。
勝手に観えてしまうのだ。
ワシは観たいとは思わない。
そんなの興味ない。
自分の役は観る事じゃない。

  「氣使い・7」
01/10 (水)

観えてしまった事。
それを全部相手に伝えるわけじゃない。
これでもプロだ。
伝える状況に相手があるか、どうかも観る。
一律に情報公開する分野じゃないのだ。

病院の方針だから、と何でも話すのはなぁ。
あるいは秘密にするのもなぁ・・・。
どの世界もプロは少ない。
医者もプロは少ないようだ。

公務員じゃあるまいし・・・。
責任逃れをしてはプロ失格だろ?
(とゴマメの治療者はこっそり言うのだ・・・
権威ある医者に楯突くのは、こっそりとだ・・・)
無責任と生涯の友情を誓ったワシだ。
責任なんて持ち出したくないけどね・・・。

本当の事など話せない。
どう話していいのか判らない。
相手の生命力が低下しているのだ。
応援するにはどうするかだ。
観えた事を話しても活かせない。
ワシでも(悩むほどじゃなくても)考えるぜ。

  「氣使い・8」
01/11 (木)

観てしまった事。
伝えるのではない。
活かすのだ。
だから嘘もつく。
正直にも言う。
どっちだっていいのだ。
活かすならば・・・。

アイマイな言い方になる。
口ごもる。
仕方ないじゃないかぁ。
正直に言えるなら楽だ。

でも、一律で言うわけにいかないだろ。
全員が前向きで意思が強いわけじゃない。
生命力は弱っている人が多いのだ。
仮に言っても、理解出来ない事柄も多い。

と、時々、愚痴りたくなる。
観えてしまうのは・・・結構ヤッカイなのだ。

  「氣使い・9」
01/12 (金)

相手を観るのではない。
この「氣」は調和力だ。
どうやら一定の空間を調和状態にする。
(結界を自動的に張るようだ)
しようとする。
すると違和なモノが浮かび上がってしまう。

病(闇)は調和状態で浮かび上がる。
原因など知らない。
どうでもいいとは思わないが。
違和なモノであるのは確かだ。
だから苦しむし、困る・・・。

違和なモノは形になった病だけではない。
形になる前の病も違和なモノだ。
その他にもいろいろある。
心(意識)の状態とか、余計な霊とか・・・。
(ワシの)曲がった根性とか・・・。

違和には違いないが、絶対治すモノでもない。
違和は
いろいろな「気づき」の元でもある。
活かせば「学び」にも「幸運」にもなる。
治すより「活かす」が優先する。
と、ワシは思っている。

  「氣使い・10」
01/13 (土)

通常の「気づかい」は「気遣い」と書く。
相手の心を読んで自分の心を配る、という意味だろう。
相手を思いやる、という行動だろう。
浅い「気遣い」は、返って(少し)迷惑になる場合もある。
深い「気遣い」が出来る人は少ない、という現実もある。

だが、ワシの「氣使い」は逆だ。
相手の心は読まない。
読めない、というより、読もうとしない。
相手の心に興味が無い。
自分の心だってワケが解んない。
心を相手にすると、迷宮入りだと知っている。

当然、自分の心も配らない。
自分の「氣」も配らない。
「ワシの氣」なんてロクデナシだ。
配られても迷惑だろう・・・。
だから使うのはワシの氣ではない。

  「氣使い・11」
01/14 (日)

出来るだけ余計なマネをしない。
依頼されてないのなら手を出さない。
引き受けてなければ口も出さない。
観えても、見てない。
何とか、それが普通に出来るようになった。

ワシの氣ではないが「氣使い」だ。
特殊能力に属する、ともいえる。
まだまだヒヨッコとはいえ、プロ側だ。
特別隠すわけではないが、矢鱈に使わない。
通常は無能力者だ。
まして、人一倍ナマケモノだ。

故御師匠様は言った。
「出来るだけ、普通にしなさい」
そうでなくてもアヤシゲな仕事だ。
ヘタな「氣」は出さない。
出さない事が出来て、プロだ。
どうにか、ここまで来た。

  「氣使い・12」
01/15 (月)

使っているワシだって解らないことだらけだ。
使っているうちに少しだけ解る事もある。
それを説明するのは難しい。
これは理屈などではない。
体験だけでもない。
一瞬にして解る分だけ解る。

理解してもらおうなんて思わない。
理解をさせたくても出来ないのだ。
理解しなくても認めてくれる人が依頼人だ。
理屈でなく、結果で示す。
結果は簡単に出る場合と、長くかかる場合がある。
(結果まで待ってくれる人ならいいんだけど・・・)

ワシへの依頼人の多くが、そのままで依頼する。
アレコレ理屈を聞かない。
何だかわからないけど、必要な人は来るようだ。
最近は、双方とも理解出来ない事を理解してくれている。
ありがたい。

  「氣使い・13」
01/16 (火)

「氣使い」といえば、そうとも言える。
自由に使えるか、となると・・・半分だけ。
ワシの身体と意識を貸しているのだ。
ある意識状態で(氣は)勝手に降りて来る。

意識で自由になる分だけは使える。
自由にならない分は使えない。
身体は基本的にワシの分野だ。
だから何処に行くのもワシが主体だ。
その分はワシが使える。

だが「氣」を働かせようとしても無理だ。
「ワシの氣」ではないからだ。
例えば・・・
宝くじを当てる・・・
無理(実は・・・やってみた・・・)。
他(人や動物)を操る・・・。
これも無理(やったことはない)。

  「氣使い・14」
01/17 (水)

使う範囲?量?。
それはワシの意識で広がる。
ワシの固定概念が外れた分が可能になる。
簡単というか、難しいというか・・・。

この「氣」に限らない。
あらゆる能力などは、そんなものだ。
使えないのは、自分が鍵をかけている。
どんな人も同じだ。
能力は誰でも最初から備わっている。
自分で規制しているだけだ。

ワシは多少、常識外の世界に触れてきていた。
異世界に通じていた母方の祖母の血が流れている。
その分、常識は外しやすい。
それでもワシなりの固定概念がある。
その概念で解析してしまう。
(自分の)解析をするのは仕方ない。
だが、その解析を固定しまっては先に進まないのだ。

  「氣使い・15」
01/18 (木)

遥か彼方に続く階段だ。
自分がいる階段からしか観る事はできない。
それを概念という。
だから、その時点の概念は誰でも持っている。
だが、概念(階段)を固定したらそれまでだ。
他の景色を観る事はできない。
階段を上がる機会を放棄してしまう。

自分の考えなどアテにしない。
他人の考えもアテにしない。
社会の常識など、もっとアテにしない。
科学の常識など、アテにする方が無謀だ。

アテにしないが、現時点での判断はする。
もっと素敵な未来を信じている。
信じるのは未来であり、現在ではない。
現在は仮の通過点なのだ。
未来の別名を「神」といってもいい。
(自分の未来ではない。全ての未来だ)

  「氣使い・16」
01/19 (金)

未来を今の階段から判断している。
今の概念の範囲で想像している。
それは間違いだろう。
下手な想像は未来を縮小するだけだ。
(未来については、改めて書くつもりだ)

「氣」を使っているわけじゃない。
「氣」がワシの身体を使って(通って)いるのだ。
それでも長年親しむから影響を受ける。
この「氣」は明るい。
ある意味、未来からのモノだ。
未来は・・・ノーテンキな性質がある。
ある、ような気がする。
ワシが未来を信じられるのは、この「氣」の影響がある。

何かが観える。
それが当たっているかどうかは知らない。
だが、その人の未来が判るわけじゃない。
現時点が観えるだけだ。
先のことなど、判らない。

判らないという事が、解ってくる。
ますます、ワシは判らない事が増えている。
だから
未来は愉しい。

  「氣使い・17」
01/20 (土)

通常「氣」は固定してない。
だが「氣」は「気マグレ」ではない。
気マグレなのは、意識の方だ。
「氣」は自由なのだが、変わるわけじゃない。
「氣」が変質するわけじゃない。
意識に対応する「氣」と入れ替わるのだ。
「変わる」のではなく「替わる」のだ。

ワシの扱う「氣」は別物だ。
「調和の氣」は「替わる」必要がない。
「氣」が変わるわけでもない。
「氣」によって、その結界内が変わるのだ。
調和に向かって変わるのだ。

意識で呼び出さない「氣」だ。
意識を使わない時に飛び込んでくる。
だから意識によって替わることもない。
もともと意識は隅っこで大人しい・・・。

  「氣使い・18」
01/21 (日)

ワシは根性無しだ。
自分の意識を捕まえておけない。
意識を守る根性が無い。
どうせ意識なんて変わる。
寺山修司氏も指摘した。
だけど〜心は〜すぐ変わる♪

そんなアテにならない意識だ。
本気で使えない。
一般的な中国気功はエライのだ。
意識で「氣」を使っている。
ワシには出来ない、わけでないが・・・
本気で使えない。

アテにならない意識を除ける。
すると「何も無い結界」が出来る。
そこを通る「氣」がある。
(注:周波数合わせは必要)
そいつ(氣)を自動的に働かせるわけだ。
ワシは他人?のフンドシ(氣)で報酬をいただく。
フッ・・・わるくない仕事だぜ。。。

  「氣使い・19」
01/22 (月)

氣使い時、自分の意識が薄れている。
まぁ、ボ〜としているようなものだ。
ん?普段と変わらない?
だから、ワシは天職と出合ったと思っている。
ワシは、ボ〜の素質があったのだ。

ボ〜としていると、観えてしまう事がある。
ワシ自身の事じゃないので、どうでもいいのに。
相手のイロイロが観えてしまう事があるのだ。
だが、伝える事は出来ない。
余計なお節介は趣味じゃない。
余計なお節介は仕事でもない。

だが・・・命に関わる事がある。
これは・・・仕事の部分でもある。
それとなく・・・伝える。
ストレートでは、キツイだろう。

怖がらせるわけにもいかない。
ワシは元気になっていただくのが仕事だ。
怖がらせては生命力が萎縮する。
○○になりますよ、などど脅すのは最低だ。
ワシは無責任だが、卑怯なマネは出来ない。

  「氣使い・20」
01/23 (火)

相手を脅かすタイプがいる。
占い師や霊能者ばかりじゃない。
(ほとんどがインチキか妄想か勘違いだぜ)
医者や先生や○○指導者も多い。
最低の伝え方だ。
脅かすタイプとは縁を切った方がいい。
そんな伝え方しか出来ないのなら見限ろうぜ。

宗教組織への勧誘。
健康食品への勧誘。
○○への勧誘。
相手を説得するのに脅しを使うタイプは多い。
全て縁を切った方がいい。

どんな道も最終決定は本人だ。
幾つも選択肢があるのだ。
それが命に関わっていても・・・。
もどかしい、と思っても・・・。
ワシは伝え方が下手だと思う。
それでも、脅しはしない。

  「氣使い・21」
01/24 (水)

感覚は伝えきれない。
まして感覚を超えた直感は説明できない。
直感より「直観」の部分があるかもしれない。
その真偽も説明も証明もできない。
そう観えてしまうのだから仕方ない。

ワシは自分の感覚を正しいとは思っていない。
いつでも間違いがある、と思っている。
それでも感じた事でしか判断できない。
仮の判断でも現状ではそれ以外が無いのだ。
アイマイに感じているわけでは無いのだ。
(アイマイな時もあるなぁ・・・)

感覚や直感はクリアだ。
だが未来ではない。
未来は変更が可能だからだ。
現在の延長上だが変化する。
その変化は「生きている」からだ。

  「氣使い・22」
01/25 (木)

故御師匠様が言った。
「病は生きてりゃ何とかなるなぁ。
死んでしまうと治らないぞ」
その時は軽口かと思った。

プロとして仕事(ライフワーク)をする。
不マジメでナマケモノのワシだ。
それでも毎日が真剣勝負となる。
毎日が真剣勝負だからこそマジメでは出来ない。
プロだからこそナマケモノだ。
毎日、抜く、捨てる、離れるモノを探す。
すると、毎日のように「気づく事」がある。
10年経って、故御師匠様の言葉に気づく。

「生きている事」の重要さ。
「生きている事」の深遠さ。
「生きている事」の未来。
病(闇)をどうするか、は未来だ。
「生きている限り」未来は変われる。

  「氣使い・23」
01/26 (金)

現在と未来。
延長上だが変化する。
予測できても仮の予測だ。
未来は予測以外の変化が可能なのだ。
その変化は明るいモノだ。

未来は不明ではない。
未来は光明なのだ。
当たり前なのだが、当たり前は理解し難い。
人間の意識が歪んでいるからだ。
人間は不完成だから人間なんだ。

未来は意識で方向が決る。
変化が起こるか否かは意識の方向だ。
現在の延長上だけだと思っては変化しない。
つまり・・・
頭のいい人の未来は無いに等しい。

  「氣使い・24」
01/27 (土)

嘗てキリちゃん(イエス)は言った。
「神を信じられない者に未来はない」
キリスト教を信じられない者の事じゃないぜ。
(教会関係者は自分勝手に解釈しているようだ)

頭のいい人は自分を信じ込んでしまうのだ。
それは神(光・未来・自然)を信じてないのだ。
当たり前なんだが、当たり前は理解し難い。
当たり前の言葉は理解し難いのだ。
だから「神」というだけで過剰反応する。
関係している「宗教の神」の固定概念になる。

キリちゃんは、もっとスケールの大きいオッサンだった。
教会関係者だけの「神」なんて説明してないぜ。
未来を信じられない者に未来は無い。
当たり前の言葉だ。
生命を信じられないのなら未来は無い。

  「氣使い・25」
01/28 (日)

見えないモノが観える。
だが、それは大した事じゃない。
観えるといっても、ほんの一部だ。
しかも勘違いかもしれない・・・。

肝心なのは現在の状況じゃない。
状況がどうであろうと変えればいいのだ。
常に未来は変える事が出来る。
肝心なのは変える事が出来ると知る事だ。
そして、変える方向に行動する事だ。
この世は意識だけでは変わらない。
意識と行為で変わる。

ワシのようなナマケモノでも変わる。
よりナマケモノで生きるように工夫する。
ワシは世界平和を行うタマじゃない。
自分の平和を行いたいのだ。
ワシの器量ではそれで精一杯・・・。

  「氣使い・26」
01/29 (月)

生きる。
幸せに生きる。
自分が幸せに生きる。
それは他の自由を侵(犯)さないという意味だ。
ワシは自分が幸せに生きたいのだ。

「氣使い」になって気づく事は多い。
「気づき」は神様からの御褒美だ。
努力して自分で求めるモノじゃない。
感謝で授かるモノだ。
だからナマケモノでも受けられる。
むしろ・・・ナマケモノだから多いかも。

幸せに生きるコツがある。
そう気づいた。
それは「調和」が鍵となる。
ワシは「氣」から教わった。
しかも・・・ほぼ万物事に応用がきく。
ナマケモノにはうってつけのグッズ?だ。

  「氣使い・27」
01/30 (火)

理解してもらおう。
何処かにそんな気持ちがあった。
だが、それは無理。
無理でなくても、とても大変。
中途半端に理解すると、後でツケを払う。

まして見えないモノを扱っているのだ。
見えないモノを観てしまうのだ。
更にワシのヒネクレた生き方があるのだ。
これで解ってもらおう、なんてズウズウしい。
解らなくて結構なのだ。
解らないままで、認めてくれれば嬉しいぜ。

この世は解らない事だらけだ。
その最たるモノが心だ。
自分の心が解っている人などいないぜ。
心は宇宙と同じ大きさだ。
だから心は理解する相手じゃない。
そのまま愛して(認めて)しまえばいい。

  「氣使い・28」
01/31 (水)

進んだ分だけは使える。
認めた分だけは使える。
放した分だけは使える。
だが可能性はとても大きく深く広い。
まだまだまだ、ほんの一部だ。

ワシはかなりイイカゲンだ。
それでも固い部分が沢山ある。
意識の話だぜ。
筋肉、その他の部分はプヨプヨ・・・。
その他が何処だか詮索してはいけない。

意識が柔らかくなった分、使える。
和らいだ分、応用もきく。
これは「生き方」と同じだと思っている。
ワシは「氣使い」となって生き方が見つかった。
誰でも、その人にあった仕事で生き方が見つかると思う。
この世は・・・多分、そういう風に出来ている。
この世は、優しく出来上がっていると思う。
結構、マジに
感謝だぜ。

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