ワシは霊能者じゃない。 無能者ではある・・・。 霊は見えないし聞こえない。 だが、不調和なモノは感じる。 そして、消す事も難しくない。 というか、仕事の一部だし・・・。 自分にまとわりつくこともある。 その都度消していく。 どこに行くのかは知らない。 霊に対し、攻撃もイジワルもしない。 故御師匠様のマネだ。 まぁ、霊的な話は細かくしないに限る。 話せば話すほど胡散臭くなる。 そういう原因もある、と知るだけでいい。 興味を示すとロクな事にならないぞ。
風邪の寒熱でない。 血圧関係でもない。 環境変化もない。 霊的でもない。 時々あるワシの頭痛。 振り返れば・・・ 六月に心因的なショックがあった。 その時は頭痛はなかった。 だが、心臓が騒いでいた。 何日も納まらない。 そんな事は初めてだった。 心が鎮まらない。 鎮まらない事が意外だった。 鎮まらないはずはない・・・。
ワシは寝つきがいい。 基本的には何処でも眠れる。 いつでも眠れる。 性質だがら自慢にはならないが。 それが、ショック以降多少悪い。 目も早く醒める。 睡眠時間は短めになった。 4時間くらいになった。 (夕方、車の中で1時間は眠る) 心が身体に影響する。 毎日のリズムに影響する。 心が鎮まらないとリズムは狂う。 そんな事は充分わかっていた。 対処の仕方も知っていた。 だが、治らない。 い、いや、治さなかったのだ。
三ヶ月。 大きな変化や無理をしてから。 身体はその影響を表に出す。 逆の言い方をすれば・・・ 後を考えなければ三ヶ月無理出来る。 心因性で不都合がでる場合。 ほとんどが一つの原因だけじゃない。 幾つかの事が複合される。 これが心因性なら、ワシもそうだ。 出来事は重なる。 一つの傾向に重なる。 今回は困った傾向に重なった。 ワシの苦手な分野が含まれている。 こ、困った・・・。
長年困っている分野がある。 いつでも綱渡りだ。 もう、慣れた・・・。 そう思っていた。 綱がたわんでいる。 油も付いている。 それでも何とか歩いていられる。 そう、思っていた。 今回、心因的ショックがあった。 その影響があった。 今まで考えなかったが、 加齢による衰えも重なったかも・・・。 綱渡りが不安になっている。
今まで綱の上でも眠れた。 綱は綱、眠りは眠り、別々だ。 そう思っていた。 ところが、よく眠れない日々が続く。 どうしちゃったんだろう・・・。 心と身体の事なら何とかなる。 それはプロだ。 だが経済的な事は劣っている。 冗談ではなく、劣等性だ。 だから、どうしていいかわからない。 この世は無常だ。 だから、必ず変わる。 変わるのはわかる。 それがいつか、はわからない。 困っているのは今日、明日。 変わる日まで持たない・・・。
そんな事が原因で頭痛なら、なさけねぇ。 自分でも呆れてしまう。 だが自分事とはいえ、つい観察してしまう。 なるほどなぁ・・・ 通常なら平気だ。 平気じゃないけど、頭痛はしない。 平気じゃないけど、眠れる。 危機なんて日常事だ。 そんな事が大事に感じる。 恐怖や不安が沸き起こる。 それは、生命力が低下しているからだ。 そう気づいた。 問題は経済じゃない。 (それが最大の問題なんだけどなぁ)
生命力を上げるならプロだ。 他人なら簡単だ。 充分ではなくても難しくない。 それが仕事だ。 自分自身にも効果はある。 他人相手ほどじゃないが効く。 自分を全くの他人に思えない。 その分、能力の影響は小さくなる。 それにしても効果はある。 ある、のに、なぁ・・・ 今回は上手く生命力が上がらない。 影響はあり、回復もある。 あるけど、少ない・・・ 何かが、足りない・・・ ワシは自分に対して、イマイチ不調だ。
痛い、というほどじゃない。 だが、微かな変化を見抜くのが仕事だ。 未病の間で回復させる。 それは違和感を見過ごさない事だ。 ワシは目眩もほとんど経験がない。 少しだが、これがそうなのか。 平衡感覚に違和感があるような時がある。 これは・・・マズイかも。 少しの痛み。 少しの目眩。 全体的に少しの低下。 嘗て体験した事がない違和感。 ワシは不調なのかなぁ・・・。
解決方法の幾つかは知っている。 知っているが実行はできない。 機会が訪れるまでは実行できない。 いつ来るのかはわからない。 促進する方法も知っている。 だが、本当の機会なら影響ない。 早めようとしても、邪魔しても変わらない。 機会は、完璧なタイミングで訪れる。 そういう余計な事を知っているから困る。 期待はいつでもある。 誰にも、いつ訪れるかわからないのだ。 だから、期待は常に途切れない。
逆転満塁ホームラン。 そういう事もある。 無常というのは、常に変化。 穏かな変化も急激な変化もある。 見えない中間線がある。 その線を超えると逆方向に力が働く。 線から遠くなると、力はより強く働く。 線に戻ろうとする加速度が増すのだ。 それが、逆転満塁ホームランとなる。 この世(色界・物質界)の仕組みだ。 見えない世界(意識界)ではスパン(幅・広さ)が違う。 見えない世界と見える世界の混合界。 それが、厄介でもあり、自由意志部分でもある。
さすがに今回は困った。 出口の光が見えないままだ。 タイムリミットが近づいている。 どうなるんだろう・・・ ネガティブな言葉。 ネガティブな思い。 そんなモノを出してもロクな事はない。 更に頭痛のタネが育つだけだ。 そんな事は知っている。 ワシは本来がラテン系。 ノーテンキが能力。 危機を愉しむ癖がある。 何とかなる。 多分・・・何とかなる。
何か書こうとする。 今はネガティブな内容になりそうだ。 ここは意識して偏屈になろう。 日常を離れた内容にするのだ。 ある時、フッと浮かんだ。 以前に書いた「二つの世界」に通じる。 社会的世界と自分だけの世界。 自分世界にネガティブは無い。 自分世界は生命を活性する世界だ。 いろいろな感情のほとんどは社会的世界だ。 怒り、悲しみ、苦しみ、喜び、悩み。 他があるから沸き起こる感情。 通常、心は他を意識している。
心は自分の内にある。 当たり前だと思っていた。 固定概念はヤッカイな頑固者なのだ。 心のほとんどは、外にある。 心は内にある。 内にあるが、外にある。 他(外)に反応して生まれている。 だから、心は幻。 う〜mm・・・ 心の大部分は幻。 心も表面と奥がある。 奥の心はもう少し複雑。 それでも、幻の部分だ。 だが、根っこの部分がある。 こいつは、幻じゃない。 全ての心に共通しているモノがある。
禅では幻の心を「心」とした。 底にある心を「こころ」として区別したらしい。 通常の社会的世界では「心」が主で動く。 自と他で世界は存在するからだ。 自分の世界では「心」は無い。 他が存在しないから必要ないのだ。 あるのは「こころ」だ。 この「こころ」が生命に関係する。 生命力の活性に大いに関係する。 当たり前なのだ。 心の底にある部分は生命と直結している。 「こころ」を意識するのは生命を刺激する。 「こころ」を大切に扱うと、生命は活性する。
「こころ」にあるモノ。 通常の感情は無い。 底からの感情は有る。 他に反応する感情は無い。 だが、自に役立つモノはある。 「楽しい」は無い。 「愉しい」は有る。 「喜び」は無い。 「悦び」は有る。 「悲しい」は無い。 「哀しい」は有る。 「怒り」は無い。 「恐れ」は無い。 「畏れ」は有る。
「淋しい」は無い。 「寂しい」は有る。 有るが・・・微妙な言い回しだ。 誤解を生みそうな表現だ。 「寂」というモノがある。 感情という範囲に入らない。 感情にも関係する。 だが、入りきれない。 寂しいというと、淋しいとカブる。 似たモノ同士に思えてしまう。 「寂しい」は「淋しい」わけじゃない。 「寂」を理解した上で、その状態を表す。 心の表面感情を指してない。
自分世界は生命を活性する。 「寂」は自分世界にある。 だから「寂」は生命を活性する。 寂を理解すると、生命は活性する。 「淋しい」では生命は落ち込むのだ。 「淋しい」と「寂しい」は似ていて違う。 全く違う働きをする。 寂を理解すると、精神は安定する。 誤解されやすい「寂」だ。 説明し難い「寂」だ。 底にある「寂」だ。 底にあるモノは、とても大切なモノだ。
茶道などで表現する「侘寂」がある。 「侘」と「寂」は当然違う。 「侘」は森羅万象にある。 「寂」は「こころ」にある。 「侘」は他。 「寂」は自。 森羅万象の無常を観る。 心の底を観る。 茶道は冥想(禅)の世界のだ。 侘しい、寂しい。 それは淋しい世界ではない。 心落ち着く、平安な世界。 平安な世界を感じると生命は活性する。
面白えなぁ・・・。 書いたのは自分だけど。 書いている時は氣功モードと似ている。 ほとんど何も考えてない。
昨日の書いた雑記を読み返す。 その続きを書く為だ。 そこで教わる事がある。 「平安な世界を感じると生命は活性する」 なんで、こんな事を知っているのかなぁ。
呼吸法がある。 息を吐く。 吐くと心は鎮まる。 鎮まると静寂を感じる。 息を吐くのは生命の活性法だ。 こんなところにも通じていたのかぁ・・・。
20代、30代の頃。 何となく「寂」があるのは知っていた。 だが「寂」が不可欠な要素とは知らなかった。 それを意識する、意識できるにかかわらず。 「寂」を感じるのは趣味の一つだと思っていた。 誰の心にもあるとは思ってなかったのだ。 まして、生命力を応援するモノとは想像もしなかった。 「個の寂」と「森羅万象の寂」がある。 「寂」は、個と世界に共鳴する。 この世界の創造主。 人を創った創造主。 その仕組みの深さ優しさに感心する。 って、ワシがエラソウに創造主を褒めてどうする。
人は誰も一人で生を受ける。 そして、独自の人生を送る。 肉体と去るのも一人きりだ。 どんなに他と係わっても一人だ。 人に限らない。 生物は皆等しく個として存在する。 何千匹同時に生まれた稚魚もだ。 その中の一匹一匹は個別の魚だ。 生物に限らない。 この世の物質は皆、個である。 この世は個の集まりで成り立っている。 この世は個々の共存で存在している。
個の自覚。 自覚すれば自立する。 自立とは、他との共存の自覚だ。 万物の中の自覚。 「寂」の感覚。 自立であり、ある意味、孤立でもある。 共存であり、ある意味、共栄でもある。 個であり、万物との一体でもある。 世界の中の個。 多種多様な氣が混同している。 それでも孤立もしている。 自覚できれば、静の世界。
どういうわけか、静は生を活性する。 活動的な状態を生命力が大きいと勘違いしやすい。 活動的、精力的は生命力が現れている状態だ。 それをもって、大きいとか活性してるとか判断できない。 生命力は見えない世界だ。 見えない世界だが仕組みはわかる。 動より静の時に生命力は活性する。 例えば人が昼に活動している時。 生命力は使っている(消費)状態だ。 夜、眠っている時。 生命力は増えている。 意識と身体と生命力。 意識は静になると身体に無駄が無くなる。 そして生命力は増える。 「寂」は静を伴っている。
一人という事実。 一人という感覚。 一人という意識。 一人という意味。 この世は全て一人(個)。 一人一人が影響し合って成り立っている。 それは見えない霊も一人一人。 波動も個別。 この世を地球に限定してみる。 個を意識すると「寂」に触れる。 個と個と全ての交響曲。 「寂」は地球の仕組みに触れる扉となる。
個だけでは生きていけない。 宇宙空間にたった一つの個。 生きていけない。 単なる事実だ。 個だけでは生きる意欲もない。 他との影響で自分が認識できる。 個だけでは個を認識できない。 生きている事さえ認識できない。 生きる意欲もない。 それでも個であるという事実。 底にある個の意識。 他の底にもある個を意識する。 それを「寂」として感じる。
理屈ではない。 感覚だ。 「寂」は個を感じ、自覚する感覚だ。 全てのものに「寂」を観る。 「寂」から繋がるもの。 個故に「一体」を感じる。 それぞれ「寂」の存在だからこそ、 「慈しみ」が生まれる。 寂に対する慈しみ。 それが「慈悲」というものだ。 お互いに個としての哀しみがある。 単語では「慈悲」としたが、 本来なら「慈哀」だろう。 「慈哀」は「慈愛」と同じ意味になる。 深いところでは「哀」と「愛」は同じだ。
個の自覚。 自分の存在の自覚。 「寂」は同時に安心を生む。 「寂」は同時に安定を感じさせる。 根を自覚する。 底を自覚する。 相手も同じだとわかる。 他の全てが同じ個だとわかる。 「寂」の静かさ。 「寂」の哀しさ。 だから、人は人と寄り添う。 支えあう。 愛し合う。
自の世界。 自の存在の世界。 存在は肯定して存在となる。 肯定とは愛する事だ。 自の世界は生命を活性する。 自の生命を愛するから。 自を観るから。 自を慈しむから。 自の世界は「寂」の世界。 存在には「寂」が寄り添うから。 「寂」は生命を慈しむから。 生命は「寂」を感じているから。
寂は淋しいのではない。 寂は単なる事実、当たり前。 当たり前に、気づく事。 これが生まれて来た、もう一つの意義。 当たり前に気づくと生命は活性する。 当たり前と生命は根が同じだからだ。 当たり前は別名、自然という。 別名、神ともいう。 生命は即、神である。 寂は生命の現れの一面。 誰の内でも例外なくある。 どんなモノの内でも例外なくある。 万物に生命がある。