08年9月のコラム         コラム6目次に戻る
頭痛・9
9/01 (月)

ワシは霊能者じゃない。
無能者ではある・・・。
霊は見えないし聞こえない。
だが、不調和なモノは感じる。
そして、消す事も難しくない。
というか、仕事の一部だし・・・。

自分にまとわりつくこともある。
その都度消していく。
どこに行くのかは知らない。
霊に対し、攻撃もイジワルもしない。
故御師匠様のマネだ。

まぁ、霊的な話は細かくしないに限る。
話せば話すほど胡散臭くなる。
そういう原因もある、と知るだけでいい。
興味を示すとロクな事にならないぞ。

  頭痛・10
9/02 (火)

風邪の寒熱でない。
血圧関係でもない。
環境変化もない。
霊的でもない。

時々あるワシの頭痛。
振り返れば・・・
六月に心因的なショックがあった。
その時は頭痛はなかった。
だが、心臓が騒いでいた。

何日も納まらない。
そんな事は初めてだった。
心が鎮まらない。
鎮まらない事が意外だった。
鎮まらないはずはない・・・。

  頭痛・11
9/03 (水)

ワシは寝つきがいい。
基本的には何処でも眠れる。
いつでも眠れる。
性質だがら自慢にはならないが。

それが、ショック以降多少悪い。
目も早く醒める。
睡眠時間は短めになった。
4時間くらいになった。
(夕方、車の中で1時間は眠る)

心が身体に影響する。
毎日のリズムに影響する。
心が鎮まらないとリズムは狂う。
そんな事は充分わかっていた。
対処の仕方も知っていた。
だが、治らない。
い、いや、治さなかったのだ。

  頭痛・12
9/04 (木)

三ヶ月。
大きな変化や無理をしてから。
身体はその影響を表に出す。
逆の言い方をすれば・・・
後を考えなければ三ヶ月無理出来る。

心因性で不都合がでる場合。
ほとんどが一つの原因だけじゃない。
幾つかの事が複合される。
これが心因性なら、ワシもそうだ。

出来事は重なる。
一つの傾向に重なる。
今回は困った傾向に重なった。
ワシの苦手な分野が含まれている。
こ、困った・・・。

  頭痛・13
9/05 (金)

長年困っている分野がある。
いつでも綱渡りだ。
もう、慣れた・・・。
そう思っていた。

綱がたわんでいる。
油も付いている。
それでも何とか歩いていられる。
そう、思っていた。

今回、心因的ショックがあった。
その影響があった。
今まで考えなかったが、
加齢による衰えも重なったかも・・・。
綱渡りが不安になっている。

  頭痛・14
9/06 (土)

今まで綱の上でも眠れた。
綱は綱、眠りは眠り、別々だ。
そう思っていた。
ところが、よく眠れない日々が続く。
どうしちゃったんだろう・・・。

心と身体の事なら何とかなる。
それはプロだ。
だが経済的な事は劣っている。
冗談ではなく、劣等性だ。
だから、どうしていいかわからない。

この世は無常だ。
だから、必ず変わる。
変わるのはわかる。
それがいつか、はわからない。
困っているのは今日、明日。
変わる日まで持たない・・・。

  頭痛・15
9/07 (日)

そんな事が原因で頭痛なら、なさけねぇ。
自分でも呆れてしまう。
だが自分事とはいえ、つい観察してしまう。
なるほどなぁ・・・

通常なら平気だ。
平気じゃないけど、頭痛はしない。
平気じゃないけど、眠れる。
危機なんて日常事だ。

そんな事が大事に感じる。
恐怖や不安が沸き起こる。
それは、生命力が低下しているからだ。
そう気づいた。
問題は経済じゃない。
(それが最大の問題なんだけどなぁ)

  頭痛・16
9/08 (月)

生命力を上げるならプロだ。
他人なら簡単だ。
充分ではなくても難しくない。
それが仕事だ。

自分自身にも効果はある。
他人相手ほどじゃないが効く。
自分を全くの他人に思えない。
その分、能力の影響は小さくなる。
それにしても効果はある。
ある、のに、なぁ・・・

今回は上手く生命力が上がらない。
影響はあり、回復もある。
あるけど、少ない・・・
何かが、足りない・・・
ワシは自分に対して、イマイチ不調だ。

  頭痛・17
9/09 (火)

痛い、というほどじゃない。
だが、微かな変化を見抜くのが仕事だ。
未病の間で回復させる。
それは違和感を見過ごさない事だ。

ワシは目眩もほとんど経験がない。
少しだが、これがそうなのか。
平衡感覚に違和感があるような時がある。
これは・・・マズイかも。

少しの痛み。
少しの目眩。
全体的に少しの低下。
嘗て体験した事がない違和感。
ワシは不調なのかなぁ・・・。

  頭痛・18
9/10 (水)

解決方法の幾つかは知っている。
知っているが実行はできない。
機会が訪れるまでは実行できない。
いつ来るのかはわからない。

促進する方法も知っている。
だが、本当の機会なら影響ない。
早めようとしても、邪魔しても変わらない。
機会は、完璧なタイミングで訪れる。

そういう余計な事を知っているから困る。
期待はいつでもある。
誰にも、いつ訪れるかわからないのだ。
だから、期待は常に途切れない。

  頭痛・19
9/11 (木)

逆転満塁ホームラン。
そういう事もある。
無常というのは、常に変化。
穏かな変化も急激な変化もある。

見えない中間線がある。
その線を超えると逆方向に力が働く。
線から遠くなると、力はより強く働く。
線に戻ろうとする加速度が増すのだ。
それが、逆転満塁ホームランとなる。

この世(色界・物質界)の仕組みだ。
見えない世界(意識界)ではスパン(幅・広さ)が違う。
見えない世界と見える世界の混合界。
それが、厄介でもあり、自由意志部分でもある。

  頭痛・20
9/12 (金)

さすがに今回は困った。
出口の光が見えないままだ。
タイムリミットが近づいている。
どうなるんだろう・・・

ネガティブな言葉。
ネガティブな思い。
そんなモノを出してもロクな事はない。
更に頭痛のタネが育つだけだ。
そんな事は知っている。

ワシは本来がラテン系。
ノーテンキが能力。
危機を愉しむ癖がある。
何とかなる。
多分・・・何とかなる。

  寂・1
9/13 (土)

何か書こうとする。
今はネガティブな内容になりそうだ。
ここは意識して偏屈になろう。
日常を離れた内容にするのだ。

ある時、フッと浮かんだ。
以前に書いた「二つの世界」に通じる。
社会的世界と自分だけの世界。
自分世界にネガティブは無い。
自分世界は生命を活性する世界だ。

いろいろな感情のほとんどは社会的世界だ。
怒り、悲しみ、苦しみ、喜び、悩み。
他があるから沸き起こる感情。
通常、心は他を意識している。

  寂・2
9/14 (日)

心は自分の内にある。
当たり前だと思っていた。
固定概念はヤッカイな頑固者なのだ。
心のほとんどは、外にある。

心は内にある。
内にあるが、外にある。
他(外)に反応して生まれている。
だから、心は幻。
う〜mm・・・
心の大部分は幻。

心も表面と奥がある。
奥の心はもう少し複雑。
それでも、幻の部分だ。
だが、根っこの部分がある。
こいつは、幻じゃない。
全ての心に共通しているモノがある。

  寂・3
9/15 (月)

禅では幻の心を「心」とした。
底にある心を「こころ」として区別したらしい。
通常の社会的世界では「心」が主で動く。
自と他で世界は存在するからだ。

自分の世界では「心」は無い。
他が存在しないから必要ないのだ。
あるのは「こころ」だ。
この「こころ」が生命に関係する。
生命力の活性に大いに関係する。

当たり前なのだ。
心の底にある部分は生命と直結している。
「こころ」を意識するのは生命を刺激する。
「こころ」を大切に扱うと、生命は活性する。

  寂・4
9/16 (火)

「こころ」にあるモノ。
通常の感情は無い。
底からの感情は有る。
他に反応する感情は無い。
だが、自に役立つモノはある。

「楽しい」は無い。
「愉しい」は有る。
「喜び」は無い。
「悦び」は有る。

「悲しい」は無い。
「哀しい」は有る。
「怒り」は無い。
「恐れ」は無い。
「畏れ」は有る。

  寂・5
9/17 (水)

「淋しい」は無い。
「寂しい」は有る。
有るが・・・微妙な言い回しだ。
誤解を生みそうな表現だ。

「寂」というモノがある。
感情という範囲に入らない。
感情にも関係する。
だが、入りきれない。

寂しいというと、淋しいとカブる。
似たモノ同士に思えてしまう。
「寂しい」は「淋しい」わけじゃない。
「寂」を理解した上で、その状態を表す。
心の表面感情を指してない。

  寂・6
9/18 (木)

自分世界は生命を活性する。
「寂」は自分世界にある。
だから「寂」は生命を活性する。
寂を理解すると、生命は活性する。

「淋しい」では生命は落ち込むのだ。
「淋しい」と「寂しい」は似ていて違う。
全く違う働きをする。
寂を理解すると、精神は安定する。

誤解されやすい「寂」だ。
説明し難い「寂」だ。
底にある「寂」だ。
底にあるモノは、とても大切なモノだ。

  寂・7
9/19 (金)

茶道などで表現する「侘寂」がある。
「侘」と「寂」は当然違う。
「侘」は森羅万象にある。
「寂」は「こころ」にある。

「侘」は他。
「寂」は自。
森羅万象の無常を観る。
心の底を観る。
茶道は冥想(禅)の世界のだ。

侘しい、寂しい。
それは淋しい世界ではない。
心落ち着く、平安な世界。
平安な世界を感じると生命は活性する。

  寂・8
9/20 (土)

面白えなぁ・・・。
書いたのは自分だけど。
書いている時は氣功モードと似ている。
ほとんど何も考えてない。

昨日の書いた雑記を読み返す。
その続きを書く為だ。
そこで教わる事がある。
「平安な世界を感じると生命は活性する」
なんで、こんな事を知っているのかなぁ。

呼吸法がある。
息を吐く。
吐くと心は鎮まる。
鎮まると静寂を感じる。
息を吐くのは生命の活性法だ。
こんなところにも通じていたのかぁ・・・。

  寂・9
9/21 (日)

20代、30代の頃。
何となく「寂」があるのは知っていた。
だが「寂」が不可欠な要素とは知らなかった。
それを意識する、意識できるにかかわらず。

「寂」を感じるのは趣味の一つだと思っていた。
誰の心にもあるとは思ってなかったのだ。
まして、生命力を応援するモノとは想像もしなかった。
「個の寂」と「森羅万象の寂」がある。
「寂」は、個と世界に共鳴する。

この世界の創造主。
人を創った創造主。
その仕組みの深さ優しさに感心する。
って、ワシがエラソウに創造主を褒めてどうする。

  寂・10
9/22 (月)

人は誰も一人で生を受ける。
そして、独自の人生を送る。
肉体と去るのも一人きりだ。
どんなに他と係わっても一人だ。

人に限らない。
生物は皆等しく個として存在する。
何千匹同時に生まれた稚魚もだ。
その中の一匹一匹は個別の魚だ。

生物に限らない。
この世の物質は皆、個である。
この世は個の集まりで成り立っている。
この世は個々の共存で存在している。

  寂・11
9/23 (火)

個の自覚。
自覚すれば自立する。
自立とは、他との共存の自覚だ。
万物の中の自覚。

「寂」の感覚。
自立であり、ある意味、孤立でもある。
共存であり、ある意味、共栄でもある。
個であり、万物との一体でもある。

世界の中の個。
多種多様な氣が混同している。
それでも孤立もしている。
自覚できれば、静の世界。

  寂・12
9/24 (水)

どういうわけか、静は生を活性する。
活動的な状態を生命力が大きいと勘違いしやすい。
活動的、精力的は生命力が現れている状態だ。
それをもって、大きいとか活性してるとか判断できない。
生命力は見えない世界だ。

見えない世界だが仕組みはわかる。
動より静の時に生命力は活性する。
例えば人が昼に活動している時。
生命力は使っている(消費)状態だ。
夜、眠っている時。
生命力は増えている。

意識と身体と生命力。
意識は静になると身体に無駄が無くなる。
そして生命力は増える。
「寂」は静を伴っている。

  寂・13
9/25 (木)

一人という事実。
一人という感覚。
一人という意識。
一人という意味。

この世は全て一人(個)。
一人一人が影響し合って成り立っている。
それは見えない霊も一人一人。
波動も個別。

この世を地球に限定してみる。
個を意識すると「寂」に触れる。
個と個と全ての交響曲。
「寂」は地球の仕組みに触れる扉となる。

  寂・14
9/26 (金)

個だけでは生きていけない。
宇宙空間にたった一つの個。
生きていけない。
単なる事実だ。

個だけでは生きる意欲もない。
他との影響で自分が認識できる。
個だけでは個を認識できない。
生きている事さえ認識できない。
生きる意欲もない。

それでも個であるという事実。
底にある個の意識。
他の底にもある個を意識する。
それを「寂」として感じる。

  寂・15
9/27 (土)

理屈ではない。
感覚だ。
「寂」は個を感じ、自覚する感覚だ。
全てのものに「寂」を観る。

「寂」から繋がるもの。
個故に「一体」を感じる。
それぞれ「寂」の存在だからこそ、
「慈しみ」が生まれる。
寂に対する慈しみ。
それが「慈悲」というものだ。

お互いに個としての哀しみがある。
単語では「慈悲」としたが、
本来なら「慈哀」だろう。
「慈哀」は「慈愛」と同じ意味になる。
深いところでは「哀」と「愛」は同じだ。

  寂・16
9/28 (日)

個の自覚。
自分の存在の自覚。
「寂」は同時に安心を生む。
「寂」は同時に安定を感じさせる。

根を自覚する。
底を自覚する。
相手も同じだとわかる。
他の全てが同じ個だとわかる。

「寂」の静かさ。
「寂」の哀しさ。
だから、人は人と寄り添う。
支えあう。
愛し合う。

  寂・17
9/29 (月)

自の世界。
自の存在の世界。
存在は肯定して存在となる。
肯定とは愛する事だ。

自の世界は生命を活性する。
自の生命を愛するから。
自を観るから。
自を慈しむから。

自の世界は「寂」の世界。
存在には「寂」が寄り添うから。
「寂」は生命を慈しむから。
生命は「寂」を感じているから。

  寂・18
9/30 (火)

寂は淋しいのではない。
寂は単なる事実、当たり前。
当たり前に、気づく事。
これが生まれて来た、もう一つの意義。

当たり前に気づくと生命は活性する。
当たり前と生命は根が同じだからだ。
当たり前は別名、自然という。
別名、神ともいう。
生命は即、神である。

寂は生命の現れの一面。
誰の内でも例外なくある。
どんなモノの内でも例外なくある。
万物に生命がある。

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