明け 1/01〜1/15
明けまして、おめでとう。
今日から始まる一年。
つまらぬ理屈で世の中を観ていた頃。
大晦日も元旦も同じ一日だと思っていた。
人の心が理解できぬアホ丸出しの頃だった。
一日が暮れて、次の日が始まっただけ。
急に「明けまして」はないだろう。
イキナリ「おめでとう」はヘンだろう。
まして、旧暦から政府の都合で新暦に変わった。
正月がズレてもいいのか?
そんな、理屈ばかりが先にたっていた。
今は解る。
46億回の自転がある地球。
人間が、ある頃から一年という概念を作った。
国によって、始まりの時期もズレている。
それでも、いいのだ。
それで、いいのだ。
人が生活するということ。
そこには、いろいろな工夫がある。
いろいろな工夫を培ってきた。
上手くいかない工夫もある。
それらは、やがて消えていった。
まぁまぁの工夫がある。
改良改善されて続いている。
かなり上質の工夫もある。
それは「智恵」とよばれた。
智恵は、全てのモノが活かされる工夫だ。
一年の始まりの概念。
正月、元旦が、どの工夫に当てはまるかわからない。
人以外の生物が喜ぶとも思えない。
だが、それを受け入れた人達は活かしているようだ。
すくなくても、ほとんどの人間種は喜ぶ方向でいる。
一年の初めを、自転のある一点に決めた。
もちろん国や時代によって違う。
正しい日なんてない。
人間種が勝手に決めた事だ。
それでも、まぁまぁの工夫だと思う。
初め、を決める事により自転一回がわかる。
おおむね365日を決められる。
おおむね誕生日などが決められる。
アレコレ、便利なのだ。
アレコレ、有効なのだ。
それもこれも、元旦があるからだ。
初めがあるから、後が続く。
初めがあるから、締めの日も作れた。
メリハリができた。
初め、は全てを内包している。
初め、は、一とも書く。
全て、という意味でもある。
一年の計は元旦にある。
そんな深い意味があるとは知らなかった。
初め、に全てが含まれているとは知らなかった。
人の可能性もそのようだ。
何十代、何百代から受け継いだ能力。
今生では活かしきれないだけ。
全ては含まれていた。
人間種だけではない。
胎児期に変化する20億年。
人以前からの能力も内蔵したままだ。
活かしきれていないだけ。
とてつもない多種多様な能力が含まれている。
持っている能力の種類、量は似たようなものだ。
人は何十何百代もの交配によって、今生きている。
その総数は、とてつもなく多い。
様々な能力を持った遺伝子が入っている。
だから、生まれつきの優劣なんてない。
内蔵された能力に差はないが、現れる能力は千差万別。
何をキッカケとして現れるのか知らない。
自然環境、家庭環境、社会環境、時代環境などが大きいだろう。
もちろん、本人の意思や意志が優先するだろう。
人間は、その秘められた能力においては皆平等といえる。
遡れば、ほとんど親戚になる。
更に遡れば、肉親になる。
更に遡れば、同じ親になる。
更に遡れば・・・
我等動物、皆兄弟姉妹だぜ。
明け、とは何か?
人間の能力開花だけではない。
様々な事柄に当てはまるだろう。
元々内蔵されたモノが開く事だ。
この世のほとんどが、そういう風に創られているようだ。
最初から全てが用意されている。
全ては最初に含まれていた。
千差万別は、現れる要素によってだった。
大元は同じだ。
ワシは容姿も頭脳も身体能力も最高をもっている。
アナタも同じだ。
愚妻や豚児、豚子も同じだ。
ただ、様々な現れる要素によって、今の姿があるだけだ。
明ければ、どんなモノにも変身できる。
新たに身につけるモノはない。
勉強して身につくのではない。
勉強は「明け」の為に必要だったのだ。
「明け」の一方法にすぎない。
だから、勉強しなくても頭脳明晰はいる。
練習して技や力が身につくのではない。
練習は「明け」る為の一方法。
練習なく、世界のトップも多い。
感性部門は特に多い。
努力して、何かが得られるのではない。
努力は「明け」の一方法。
しかも、あまり効率が良くないかも・・・
むしろ、愉しむ方が「明け」やすいかも・・・
この世は「明け」要素で充満している。
精神世界では「明け」を「気づき」といった。
大きな「明け」を「悟り」といった。
仏教世界では「ブッダ(開かれた)」といった。
いずれにしても、全て最初から有ったモノが開いた。
この世は、有限の生命世界。
時間が一方通行で流れる世界だ。
全てを内蔵していても、全てを「明け」る事は出来ない。
何かを「明け」、その体験を味わう為の世界でもある。
だから、何をしてもいい。
何でも、正解だ。
唯一つの約束は「生きる事」だけだ。
多種多様が生きている世界だ。
「生きる事」は他の「生きる事」を邪魔しない事だ。
それが、たった一つだけの条件だ。
あとは、何かを「明け」て愉しむがいい。
望みがある。
欲かもしれない。
どうでもいい。
他さえ侵さなければ、言葉など何でもいい。
何でも揃っているのだ。
「明け」れば使える。
ならば、アレが「明け」たい。
それぞれの望みがある。
望めば叶うなら、この世は存在しない。
そんな事さえ解らなかった。
この世があるのは、多種多様と交流し混じる為。
だから、自分の望み通りの「明け」にはならない。
時には、結果として望み通りになる場合もある。
それでも望むモノはある。
誰でもある。
才能が欲しい。
力が欲しい。
票が欲しい。
勇気が欲しい。
健康が欲しい。
あのオンナ(オトコ)が欲しい。
金が欲しい。
幸運が欲しい。
世界が欲しい。
アレが欲しい。
ソレも欲しい・・・
望むのは勝手だ。
可能性はある。
何でもすでに用意されている。
だが、多くの人や国が優勝を望んでも、叶うのは一人。
「明け」は、どうやらオリジナルなモノが対象のようだ。
他と競合しないモノのようだ。
ワシにもある。
明けて欲しい能力がある。
力じゃないが、もっと大きく広く使えるようになりたい。
もっと簡単に、早く変わるようになればいい。
自分の内に準備できているのは、わかる。
だが、どうしたら「明け」になるか、は不明だ。
どうして「明け」ないかは、何となくわかる。
蓋を閉じているのは、自分以外にないと、わかる。
「明け」の時。
あっけないほど普通。
力みは、全くいらない。
つかんでいるモノを放せば「明け」る。
それが、なかなかなんだなぁ・・・
マジメな人は努力しないと「明け」ない。
努力で「明け」ると思っているから。
そして、努力しても「明け」難い。
努力は力が入ってしまうから。
デタラメな人は「明け」ない。
最初から「明け」るのを諦めているから。
そして、デタラメにこだわっているから。
「明け」るのは自然体。
デタラメは、自然から外れている。
いいかげんな人は「明け」が訪れ易い。
とらわれているモノが少ないから。
そして、自然はいいかげんだから。
だが、確定も決定もしない。
いいかげん、だから。
「明け」るとどうなる?
何が「明け」るかによるが、基本的には自由になる。
「明け」た分だけ、自由範囲が広がる。
自由範囲が広がる事を「幸せ」という。
自由範囲が広がる事を「進化」ともいう。
「明け」るとどうなる?
当たり前だが、明るくなる。
縛っていたモノから自由になるのだ。
柔らかくなる。
柔らかくなると、明るくなる。
「明け」るとどうなる?
観えるモノが増える。
今まで、気づかなかったモノが観える。
固定概念の壁が消えるのだ。
その先が観えるようになる。
全てを受け入れるのではない。
すでに、全て受け取っているのだ。
活かす事をしていないだけだ。
閉じた扉を開ければ、何かが出てくる。
計算通りにはいかないが・・・
全てを許すのではない。
すでに、全て許されているのだ。
新たに、許可はいらない。
神様に許可はいらないのだ。
するとしたら、感謝だけだ。
例え、感謝しなくても許されている。
「明け」る愉しみ。
何が出てくるか、愉しみ。
どうなるのか、愉しみ。
「明け」る度に、生命は喜ぶ。
「明け」ればラッキー。
自分に備わっているとはいえ、自由に使えない。
自分に備わっているとはいえ、全て先祖の賜物だ。
自分のモノじゃない。
自分が預かっているモノだ。
目が出なくては、使えない。
「明け」れば、目が出る。
何の目が出るのかは、不明だ。
そして、どんな花が咲くのかも不明だ。
更にその先は、本人次第。
花から実を結ぶのは、本人がする。
これは、受動や自動じゃない。
本人が活かす生き方をするかどうかで決まる。
「明け」れば、ラッキーだ。
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