11年2月〜4月のコラム          コラム9目次に戻る
初春・1〜16    虚心・1〜51    祈氣・1〜21
初春 2/01〜2/16

二月に入って初春になる。
本来の正月がある。
24節気では立春がある。
今月から、春が、初めまして、なのだ。

旧暦という言い方で勘違いしがちだ。
太陽の通り道の経度(黄経)を24等分する。
その15度ずつに風流な名前を付けたのが24節気だ。
節気に対応して暦がある。
それが旧暦といわれる太陰暦だ。

日本の節気と太陰暦は中国の揚子江中部地域がモデルだ。
縦に細長い日本では、地域によって差がでるのは当然。
それでも、現代の太陽暦より生活環境に適しているのだ。
小寒・大寒前に「立春・迎春」と書く年賀状はズレている。

睦月(正月)からの24節気を記す。
立春 黄経315度 2月4日
雨水 黄経330度 2月19日頃

如月(二月)
啓蟄 黄経345度 3月5日頃
春分 黄経0度   3月21日頃

弥生(三月)
清明 黄経15度  4月5日頃
穀雨 黄経30度  4月20日頃

卯月(四月)
立夏 黄経45度  5月6日頃
小満 黄経60度  5月21日頃

五月(五月)
芒種 黄経75度  6月6日頃
夏至 黄経90度  6月21日頃

水無月(六月)
小暑 黄経105度 7月7日頃
大暑 黄経120度 7月23日頃

文月(七月)
立秋 黄経135度 8月7日頃
処暑 黄経150度 8月23日頃

葉月(八月)
白露 黄経165度 9月8日頃
秋分 黄経180度 9月23日頃

長月(九月)
寒露 黄経195度 10月8日頃
霜降 黄経210度 10月23日頃

神無月(十月)
立冬 黄経225度 11月8日頃
小雪 黄経240度 11月23日頃

霜月(十一月)
大雪 黄経255度 12月7日頃
冬至 黄経270度 12月22日頃

師走(十二月)
小寒 黄経285度 1月6日頃
大寒 黄経300度 1月20日頃

だから太陽暦の1月1日は小寒前なのだ。
立春(迎春)は2月4日(正月)となる。

今日は年四回あるうちの冬と春の節分だ。
立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分となる。
染み渡った行事として、豆まきがある。
邪や魔や鬼を祓い、福を呼ぶ儀式だ。
24節気と太陰暦を合わせれば納得できる。

本来なら今日の節分は師走の最後の日、大晦日だ。
大掃除をして、邪鬼を追い出して、福を迎える。
そして、明日は新たな年、正月元旦となる。
元旦(立春)前日の大切な儀式だ。

邪鬼というのは、心や空間に溜まってしまった「邪気」だ。
一年暮らせば、いろいろな事がある。
穏やかで調和の気持ちだけじゃない。
それを、儀式として祓うのが今夜だ。
明日は新たな年の幕開けだ。

今日は初春(立春・迎春)だ。
昨日の大掃除と鬼祓い行事で迎えた新たな一年の始まりだ。
そして春が始まった。
春は生命が伸びる時期。
病の人も今日からは、回復の応援力が強まる。

基本的に心はロクデナシだ。
単純に心が強くなるのは迷惑も増える。
だが心の生命が弱まると、生きる喜びを感じられなくなる。
感性と心はかなり密な関係だからだ。
だから、心は適当に元気がいい。

身体の生命も心の生命も元は同じだ。
身体(肉体)に心が付属している。
(魂や精神の事は、もう一つ別な次元)
身体の生命が春から上向くのは、心も明かるくなる。
(多少、心に狂いが出がちな時期でもあるが・・・)

何かを始めるには、生命力の応援が必要。
生命力が、他の運や縁を引き付ける。
それは幸運や良縁に限るわけではないが、
そこから幸運や良縁と繋がるキッカケにはなる。

運とか縁とかは、そういうものだ。
単純に幸運や良縁が一直線だと思ったら勘違い。
それを期待する人は、宗教や商売やその他に簡単に騙される。
生きていれば上等。
その上のラッキーは肩の力を抜いた方がいい。

基本は(身体の)生命力。
それだけ覚えておけば、何とかなる。
春は身体の生命力を応援する季節だ。
春に突入したなら、ありがたいやね。

春の中でも立春からは光の春だ。
日が伸びてきて明るさを実感できる春だ。
大よそ、立春から啓蟄(3月5日頃)までの一ヶ月。
つまり太陰暦の睦月(一月)は光の春。

四季は3ヵ月間ある。
睦月、如月、弥生は春。
睦月が光なら、如月は音、そして弥生は気温。
実に生活の実感に合っている言葉だ。
昔の方が現代よりも、ずっと智恵があったのだ。

分析された情報(知識)は現代が多い。
だが、生きている智恵は昔の方がある。
逆に言えば、現代は智恵から後退している。
「生命(自然)」から離れる事を、智恵の喪失という。

何を最優先するか。
言葉では言える。
生命と。
だが、行動は違う。

生命は自然に包まれて存在できる。
当たり前の話だ。
ところが現代の地球環境の現状はどうだ。
これで生命が大切と本気で言うのなら愚かだ。

生命より欲望が優先する。
と正直に言えば、大バカだ。
人間界のほとんどの人達は、愚かか大バカなのだ。
智恵の喪失の言い訳は通らない。
今の環境を元に戻してから話しにもなるだろうが・・・

愚かか大バカの人間種。
もちろんワシも仲間だ。
欠陥品の生物だ。
だからこそ、人を愛する。

偉大なキリちゃん(キリスト)。
偉大なブッちゃん(ブッダ)。
愛そうぜ、可愛がろうぜ(慈悲)と道を示した。
愛する、可愛がるを実践すれば自然と理解する。
自然を理解する。
すると、こんな地球環境にならなかった。

といって、宗教に入信しても良くならない。
すでに2000年も宗教組織は続いているのだ。
ちっとも、偉大な言葉の意味を伝えてないのが組織だ。
それどころか、ケンカするし戦争するし・・・
宗教入信より、自然を眺めているほうが解決するよ。

自然の変化を感じていた。
だから、春の始まりがわかる。
光の春や音の春という名前もできる。
自然の中に共に暮らすから智恵が授かる。

人間はどう生きるか。
そんなの、自然から教わる以外にないだろう。
人のセミナーでは、最初から無理な話だ。
浅はかな知識しか手にいれられない。

自然は、自然にわかるようにできている。
難しくないのだ。
誰でも、どんな生物でも理解できるようになっている。
自然の中にいれば、勝手に理解できるようにできている。

自然に意識を向けると、自然に同調する。
自然に同調するのだから、恩恵も得やすくなる。
春の恩恵。
生命力を刺激し増強してくれる。

春の季節。
同じ人間でも、違いが出てしまう。
自然を意識し溶け込む人と、そうでない人。
生き方はそれぞれの勝手だ。
だが、自然と共にいるほうが不都合は少ない。

自然は理屈じゃない。
春は特にわかりやすい。
嬉しい、明るい、気持ちいい。
生きる方向性が、とてもわかりやすい。

ワシの生き方の指標。
「う・あ・き」のススメ。
嬉しい。
明るい。
気持ちいい。

迷ったら、これに当てはめる。
ソレは嬉しい事か?
ソレは明るいのか?
ソレは気持ちいいのか?
これで、ほとんど何とかなる。
何とかなれば充分だろう。

正しいか?
得か?
世間的には?
こういう基準だと、ロクな事にならない。
生きているのは、自分の生命なのだ。
生命が喜ぶ方向でないと不都合が起きる。

ついでにモノの判断基準。
明るいか?
温かいか?
諦められるか?

便利。
誇れる。
自分に有利。
こういう基準は長く持たない。
所詮、他と比べて判断しているからだ。
比べる意識から、苦しみ(不幸)が始まる。

明るい、温かいは自己判断。
誰でも、判断できる。
イヌでもブタでも判断できる。
便利とか自慢できるとかは、イヌはしない。
生命に関係しないからだ。
生命に関係しない事を基準にするのはなぁ・・・
イヌやブタにアホといわれても反論できない・・・

諦められるか?
これは幾層にも意味がある。
モノを選ぶ判断基準としてとても優れている。
これだけで、多くの失敗を防げる。

欲しい、という心。
得たい、という気持ち。
そこに「諦められるか?」を同居させる。
矛盾しているわけではない。
同居は可能だ。

欲しい、得たいという心は暴走しやすい。
熱病にかかりやすい。
思い込みにおちいりやすい。
得た後で、失敗する。
得る前に、失敗に気づけばいいのに。

諦められる、という要素を持つ。
それだけでも冷静になる。
観る目が開く。
ツマラヌモノを買わずにすむ。

ツマラヌ出来事に関わらずにすむ。
ワシの苦手分野だが・・・
男女の恋愛も同じかも。
相手を諦められる、という意志。
それだけで、目は開く。
ツマラヌ男に関わらずにすむ。
(注:恋愛したいオナゴ用)

オナゴは別だ。
多少難点があっても、知らぬフリをしてあげよう。
騙されるくらい、多めにみよう。
どうせ、アナタもツマラヌ人間だもの。
オナゴには甘く優しく。
(注:恋愛したい男用だ)

諦められるのは余裕があるからだ。
余裕とは、心のやわらかさだ。
心の弱さと勘違いされやすい。
弱さは、諦めきれない方なのだ。

諦められる、その先がある。
「こだわらない」域まで行けたら達人だ。
なかなか難しい。
心は意地汚いから、諦めきれずに抵抗する。
状況が諦めても、底は諦めきれない事が多い。

いつでも、諦められる余裕があれば楽だ。
身体と心が楽だ。
楽な状態は、間違いが少ない。
少なければ、不都合は起こりにくいのだ。

生命力が増えると、諦められる。
つまり、サッパリとした生き方になる。
アレコレ悩まない。
常に新しい日々の変化に対応する。
赤ちゃんや幼児は生命力旺盛だから、過去にこだわらない。

生命力が衰えると、執着が増える。
悩みのほとんどは、生命力が増えれば消えるのだ。
原因探しなどしても、次の執着が生まれる。
こだわりは、生命力を増やさないのだよ。

春は生命力の増える時期。
生物は勝手に生命力が増える。
過去の執着から抜け出すチャンスなのだ。
光の春に飛び出してみよう。
それだけで、新しい何かが待っているぞ。



  虚心・1〜51
2/17〜4/9


社会的常識には勘違いが多い。
多分、それぞれが想像するより遥かに多い。
そもそも、社会的常識がマトモだと勘違いしている。
社会的常識は間違いが土台になっていると思った方がいい。
もちろん、中にはマトモな常識もある。

大きな勘違いの一つに心がある。
例えば身体と心がある。
身体は肉体という見えるモノ。
心はそれぞれが勝手に想像するモノ。
(この表現だけでも異論があるだろうなぁ・・・)

見えるモノは深浅の違いがあっても理解できる。
時とセットになっている。
時とは、見えるモノが変化する意味なのだ。
変化には移動(空間)が含まれる。

見えるモノは想像じゃない。
当たり前だが、大きな指摘なのだぞ。
もちろん、人間の目に見えるモノだけが見えるモノじゃない。
多くの科学教信者は、こんな基礎的な事さえ忘れる。
そして自信満々に言う。
見えないモノは信じない!

信者は盲信と同じなのだ。
どの信者にも判断力は無い。
判断力や自分の足で進む事を放棄して信者になる。
信者は生命力が衰えている。
(こういう事を書くから、ワシは敬遠される・・・)

見えるモノに多くの意味がある。
多くの教えがある。
見えるモノは自然の一部だから。
ところが、教えを見えないモノから受けようとする。
それは、かなりアホだと思うぞ。
(こういう過激を書くから、ワシは・・・)

心の勉強。
心地よい言葉だ。
心のアイマイさを無視して使う。
心の定義さえ確定していないのになぁ・・・
心=大切なモノ、と固定概念で決め付けている。

心は見えない。
だから、心の勉強は見えない世界の勉強。
ここに多くのゴチャゴチャが参入する。
最初から詐欺もいれば、単なる無知もある。
多くのセミナーや宗教や勉強会だ。

玉石混交なんて優しい同居じゃない。
ヘドロもウ○コも砂も煙も、そして虹も混同している。
皆、我こそが宝石という。
そして、心地よい言葉の嵐で巻き込む・・・

清く正しく美しく。
心を的にした言葉だ。
心を清正美に出来るとしている。
固定概念にとらわれているからだ。
だから、人類史上清く正しく美しい心の人間はいない。
(ここも異論があるだろうなぁ・・・)

清く正しく美しくはないが、心が極微になった達人はいる。
心は混沌の幻の塊だから、極微になると綺麗になる。
それは心が綺麗になったのではない。
心が小さくなったから、綺麗になったのだ。
つまり、心はゴミのようなものだ。
ゴミが少ない分、綺麗に見える。

心を覗く方法に冥想がある。
(冥想と瞑想は区別すること)
本来は心を覗く方法ではないが、覗けてしまうのだ。
すると、心は混合融合混交乱交雑交ハチャメチャだと気づく。
矛盾するモノ同士が同居同棲同衾しているのだ。

あるいは、空の星に例えよう。
無数とも思える塊がある。
様々な星がある。
優しい、意地悪、強気、臆病、悲しみ、喜び。
聖なる思い、スケベな気持ち。

そして、望遠鏡で一つの星を見る仕組みだ。
すると視界いっぱいに一つの星が見える。
自分の心がソレだと思ってしまう。
正反対の星も、全く別な星もあるのに。

心の実体があるのではない。
無数の塊があり、その一つに焦点を当てているだけだ。
望遠鏡で見ているだけだ。
だから、実体ではないのだ。

望遠鏡は意思で見る事ができる。
だが、意思を使わなくても見てしまう。
望遠鏡は常に自動で動いているのだ。
向く方向は性格に左右されやすい。
そして、生命力の多少でも左右する。

傾向としては、暗い星をみたがる。
不安、不満、不明の星が気にかかるようだ。
もちろん、意思でどうにでもなる。
どの星を見る事も、基本的には自由なのだ。

心は多種多様な星。
良いも悪いもない。
正しいも間違いもない。
あるいは、全て、ある。
心(星)を変えるなんて出来ないのだ。

固定概念という思い込み。
心は変わる、変える事ができる。
綺麗にできる。
汚れる事もある。
傷を負ったりする。
全部、間違いだ。

一つ一つの種類の違う塊(星)がある。
ただ、それだけなのだ。
どれかの星に焦点を当てて行動する。
どれかの星だけを見つめて、思い悩む。
ただ、それだけなのだ。

焦点の当て方が肝心なのに、気にしない。
星が作られた原因探しなどをする。
そういう星を消滅しようとする。
星だから消える事もあるけど、簡単じゃない。
精神世界や心理学の多くは、ズレていると思うぞ。

心が大きい、広い。
これは心が優れている表現として使う。
イメージとして、本当に心が大きいと思ってしまう。
多種多様の星がある宇宙全体を心とするなら、大きいね。
無限に思えるほど大きいし、広い。

心は誰でも大きいし広い。
だから大きく広い事と優れている事は別だ。
極悪人の大統領や主席や首相も心は大きいし広い。
アナタの上司もアナタも心は大きく広い。
愛おしいかどうか微妙な妻も夫も心は大きい。

宇宙の星が幾つあるかわからない。
だが、それと同じくらい多種多様のカケラが心にある。
生まれてきてからの一つ一つのカケラが別々にある。
知識も感情も感覚も想像も考えも思いも一つ一つある。
一瞬一瞬の全てが、一つ一つになって心にある。

誰でも心の中はゴチャゴチャなのだ。
だが、意識ある時の仕組みがある。
同時に多くを見られない、感じられない。
望遠鏡でズームする仕組みだ。
二つくらいは見る事ができても、多くは見られない。

悲しい星を見ている時、喜びの星は見られない。
両方とも心にはあるのに。
次から次に思い出す事は出来る。
望遠鏡を早く動かせば出来る。
でも、同時に多くは思い出せない。
思い出は、数限りなくあるのに。

例外として夢がある。
ほとんど同時に幾つかの星を見る。
認識は一つ一つだから、ゴチャゴチャの夢になる。
僅かの時間で、多くを感じる事ができる。
支離滅裂になりやすいが・・・

星は一つずつしか見られない。
だから救いになる。
嬉しい星をズームすれば辛い星は見えない。
それには、意思で望遠鏡を使う。
望遠鏡の使い方が心と付き合うコツなのだ。

意思が薄れれば、暗い心を見たがる。
自然に任せると、望遠鏡は暗い方面に向かいたがる。
それも癖になっているだけだ。
だから、新しい癖をつければいい。
い、いや、元の癖に戻せばいい。

赤ちゃん。
幼児期、幼年期。
望遠鏡は自然に明るい方向を向いていたのだ。
根暗な赤ちゃんはいないのだ。
誰でも、明るい方向を向くから生きられる。

心を直すのではない。
心は直せない。
心を浄化などできない。
心は進化などできない。

宇宙を創り変える事はできない。
星を作り変える事は、とても困難だ。
(できなくはないが、する意味はない)
星を消す事も、とても困難だ。
そんな事、する意味がない。
毎秒、新たな星が生まれているのだ。
生きている、というのは星が生まれる事だ。

心の勉強を勘違いしている。
星や宇宙に影響しようとしている。
だから宗教もセミナーも山ほどあるが、人は幸せにならない。
世の中は、少しも暮らしよくならない。
これは、単なる事実なのだ。
修正する心のポイントがズレている。

プラスの心、マイナスの心。
これも勘違いだ。
宇宙(この世)にマイナスの星があるわけがない。
ある時代、ある国、ある人間の勝手に判断した区別だ。
それも、とてもアイマイな区別だ。
説明の為の方便なら、アリだと思うが。

プラス、マイナスは一時的な方便。
だが、加えるという意味のプラスはある。
というか、プラスしかない。
宇宙の星はプラスされていくだけだ。
心はプラスだけで成り立っている。

多種多様な塊がある。
それらはプラスされていく。
調和というのは、プラスされた多種多様を和らげる事だ。
だから、ポイントは和(柔)らぎにある。
直す事や浄化する事や進化する事ではない。

虚心。
心に、こだわらない事。
心を鎮める事。
心を無くす事。

すると・・・
明鏡止水の境地。
サッパリとした気持ち。
気持ちいい。
今の状態で、最高の反応ができる。

心を無くすというのは、一つの表現だ。
無くす事は出来ない。
綺麗にも出来ない。
鎮める事も出来ない。
だが、一つにこだわらない事は可能だ。
それが、虚心となる。

超偉大なブッちゃんが何度も言った。
こだわるなよぉ〜
それだけで、まぁシアワセになれるぜ。
楽に生きるコツは、そんなもんだ。

心は嘘(幻)だからな。
心を相手にしてると、いつまでも迷宮のままだぞ。
そんなことより、一杯飲めよ。
そんなことより、ナデナデしなよ。

つまらぬヤツ(心)と付き合っても明るくなれんぞ。
付き合うなら、身体にしろよ。
一生付き合うのは、アンタ自身の身体だぜ。
よく寝て、よく食えよなぁ。
それなら笑顔になれるってもんだ。

ブッちゃん(ブッダ)は超偉大だ。
精神世界において、確立した境地にいる。
そのブッちゃんが言っているのだぜ。
大きな意味があるんだぜ。
心にこだわるなよ。

なのに、二流、三流、四流のセミナーが多い。
心のセミナー・・・とかいって・・・
仏教の僧達や信者も同じだよなぁ。
ブッちゃんよりも偉大だと思っているのかなぁ・・・
そして、そういうセミナーに参加する人達。
ブッちゃんが言った事、聞かないのかなぁ・・・

そういえば、キリちゃんの言葉も無視するね。
キリスト教信者という人達。
だって、結構熱心な戦争支持者だよね。
(歴史や最近の戦争も事実としてそうだよ)
無理やりキリスト教に改教させたがるし。
信者同士なら、愛するようだけど・・・

心は実質を持たない幻。
だが、この世は幻が大きな影響力を持つ。
そういう仕組みに創られている。
創ったのはグレちゃん(グレートサムシング)だ。
多分、イタズラ好きな性格だからだ。

心の割合が大きい人間種。
その為、マトモな生き方から外れやすい。
他の生物より劣っているのだ。
その為、ブッちゃんやキリちゃんがコツを教えた。
もう少し、他の生物と協調できるようにだ。

コツは難しくない。
どんなコツも難しい事はない。
コツ自体は極めてシンプルだ。
難しくしているのは、捻くれた心・・・

この世は諸行無常、万物流転中。
諸行、万物の中には当然心も入っている。
だが、物質(肉体)と非物質(例えば心)は変化度が違う。
どちらも常に変化しているのだが、変化する仕組みが違う。

物質はアナログに変化する。
連続した変化なのだ。
過去と現在と未来が繋がっている。
過去が現在に影響し、現在が未来に影響した変化となる。
昨日の運動が、今日や明日に係わるのだ。

ところが非物質はデジタル変化だ。
断続なのだ。
昨日と今日は次元が違う。
記憶があるから勘違いしやすいが、心はいつも個別なのだ。
だから、宇宙の星ほど心の塊がある。

心理学の偉い学者先生にケンカするつもりはない。
ワシは尊敬するガンディー聖師にあこがれている。
意見が違っても対立しない、無対立主義なのだ。
(無抵抗主義じゃないぞ。火の粉は払うぞ)
対立はしないが、信じない。

過去の心の傷が現在に影響するのは認める。
記憶があるからだ。
だが、現在の不都合の直接原因ではない。
ダイレクトで繋がってはいないのだ。

だから過去をいじらなくても修正できる。
心はデジタルだからだ。
いつでも、新たな心が創られているのだ。
過去にこだわっているのは、現在の心なんだぜ。

人の心を信じない。
このように表現すると、勘違いされる。
じゃあ、疑うのか。
信じるも疑うのも同じだ。
心に固執している。

基本として、人間は100%間違う。
勘違いする事が100%ある。
だから、人間として生きている。
一つ一つの事柄は、正誤も正邪もあるだろう。
だが、心は固定されてないから信じる事自体が無茶だろう。

信じる対象は、例えば、神。
人間は間違い、勘違いし、愚かな思い、行為をする。
だから、人間は愛する対象なのだ。
心は信じない事が、人を愛する事なのだけどなぁ・・・
ここが上手く理解していただけない・・・
もちろん、それは説明するワシの未熟と不徳と不貞と諸々・・・

信じる事は素晴らしい。
こういう固定概念が多くの不幸を生んだ。
ほとんどの出来事は信じたらトラブルになる。
当たり前だ。
この世は諸行無常の仕組みだ。
信じていいのは永遠のモノだけだ。

信じる、疑うは表裏の関係。
同じものなのだ。
変わる相手に信じるも疑うもないだろう。
疑っても意味がない。

特に心は多種多様が本質だ。
その心を信じたり、疑ったりするのは無謀だ。
心を消す事は出来ない。
だから心は、こだわらない事が唯一の対応法となる。

沖道ヨガの創始者、沖師の言葉がある。
(ワシは後継者でもある龍村修師匠の不肖の弟子だ。
沖師の師匠は、マハトマ・ガンディー師だ)
信じるな、疑うな、確かめよ。
ワシは根性が無いから「確かめよ」が中途半端だ。
それでも「信じるな、疑うな」は信条としている。

人は間違うのだ。
迷うのだ。
勘違いするのだ。
だから、人として存在しているのだ。
これは、そんな人を慈しむ言葉でもある。
信じるな、疑うな、はとても優しく深い言葉だ。

信じるのが正しい。
疑うのは、心が貧しい。
そんな単純な固定概念は薄情というのだ。
思いやりというのが欠けている認識だ。

信じたい気持ちは感情としてある。
感情は趣味だ。
趣味は好き好きだ。
勝手にしてくれ、という意味だ。
他人がとやかく言うモノじゃない。

だが、信じたいと信じるを混同するとトラブルのだ。
その挙句、
う、裏切ったのね、ひ、酷いわ・・・
こういうアホなゴタゴタを生む。
ゴタゴタは信じた方が間違ったのになぁ・・・

狭い了見で疑うのも同じだ。
知識も智恵も、人を観る目も無いアナタだ。
一部を見て、勝手に疑うなよ。
疑う事と、好き嫌いは別だ。
相性が悪いなら縁を切るか、離れればいい。
疑う必要はないぞ。

心を鍛える。
それは、望遠鏡を操れるようになる事。
決して多種多様の塊をいじる事ではないのだ。
心の一つ一つはいじれない。
焦点を当てる望遠鏡なら、操れる。

もう一つの方法もある。
心を鎮める方法だ。
こちらは、望遠鏡から目を離す方法だ。
焦点を当てない方法だ。
意思や意志からも離れる方法だ。

裸眼で空をながめる。
多種多様の星(心の塊)を一度にながめる。
焦点を当てないから、同時にながめられる。
焦点を当てないから、一つにこだわらない。
すると、空(心の器)の大きさに感動する。

心を鎮める。
心を無くす。
それは、心を眺める事と同じだ。
多くの多種多様の心の塊がある事を知る。
それらがある器(空)の大きさに感動する。

感動すれば、相手をどうこうしようとは思わない。
ただ、ありがたいと思う。
心は、あるだけで素敵なものだと知る。
死んだら、心は必要ないだろう。
肉体があっての心だと知るだろう。

精神世界スキスキ人間は、ここを理解しない。
肉体と心を対比してしまう。
肉体から生まれた心だという事に気づかない。
心と魂の舞台を混同してしまう。
それを、この肉体世界に当てはめてしまう。

心の塊と魂。
なるほど・・・似ているなぁ・・・
似ていても全く違うモノは沢山ある。
例えば、カレーとウ○コ(もう少しマトモな例を・・・)
例えば、ミソと○ンコ(もう・・・アホだな・・・)
夢と欲(こちらの方がマトモかぁ・・・)

心は物質界だから存在できる。
逆の言い方なら、物質には全て心がある。
その中でも、生きている生物には多くの心がある。
生物の中でも、人間種は特に多くの心がある。
非生物(鉱物等)の心は、通常単種だ。
生物と非生物の違いは、心の数だろうな。
(こういう指摘をするワシはタダモノじゃない?)

物質界から離れたら、心は存在しない。
だが、魂(コア)は、非物質界で主役を張る。
主役か脇役か不明だが、舞台は魂界になる。
魂界は心が存在できない。
多種多様な塊は、器(物質・肉体)が無くては存在できない。

物質、特に生物の身体は広い波動域をもっている。
広い波動域の器として、身体がある。
心の一つ一つの塊の周波数は様々だ。
荒い心と優しい心は周波数の違いだ。
多種多様の周波数に対応できるのが身体だ。

身体は神様からの借り物。
だが、心はアナタが作った欠陥品。
身体と心は深い繋がりがあるが、立場は全く違う。
神とアナタを同等にはできないだろ。

神をエライと表現するなら・・・
身体はエライが、心はクダラナイ。
アナタやワシ(人間)は結構クダラナイのだ。
精神世界スキスキ人間は、心を主役にするからいつまでも迷走する。
心を優先するなんて、バチ当りだぜ。
心は綺麗にならないし、綺麗にする仕組みでも無い。

綺麗にならない心を綺麗にしようとする。
何らかの変化を成果と勘違いする。
雲が晴れる瞬間がある。
それは、別の星に望遠鏡を移動した瞬間なのだ。
なのに、星を浄化したと勘違いする。

勘違いだから長く持たない。
その為、修行と称してアレコレ方法を試す。
アチコチ迷走する。
セミナー通い、宗教渡り、神社巡り、聖地巡り。
巡ったり、通ったりしている間は迷宮から出られない。

精神世界から離れた時。
ある意味、諦めた時。
心をいじる事を止めた時。
当たり前の空に広がる、多くの星が見える。
ただ、眺める事だけで充分だと気づく。

命がけの修行をしたシッタールダ。
生真面目だったから、死ぬ一歩手前まで修行した。
だが心を解明出来なかった。
そして諦めた。

死にそうなガリガリ男に村の娘が粥をくれた。
断食修行など諦めたシッタールダだ。
ありがたくいただいた。
優しさをありがたく、いただいた。
美味しいと気づいた。

ゆっくり、息を吐いた。
ぼんやり空を見上げた。
菩提樹の下から限りない星がまたたいていた。
綺麗だと気づいた。

食べ、見て、人に優しくする。
そんな当たり前が最高最上だと気づいた。
そして
シッタールダは、ブッダ(開かれた人)となった。
2600年前の話だ。

ゆっくり、優しく、息を吐き、眺める。
それを冥想という。
単なる当たり前に気づく事を冥想という。
ブッダは、ブッちゃんとなった・・・

冥想の一方法として、瞑想がある。
瞑想は目を瞑って想う方法だ。
メンドクサガリ屋のブッちゃんらしい方法だ。
何しろ、その場で出来る・・・

だが、達人のブッちゃんだから瞑想も簡単だ。
心に操られて、アタフタする我ら衆生は簡単とはならない。
瞑っても、心を追いかけてしまう。
まぁ、追いかけるのに飽きれば何とかなる。
それまでは、形こそ静かだが心は落ち着かない。

それよりも、どうだろう。
曙光のひと時。
見上げる虹。
星の煌き。
花の香り。
そんな一瞬が冥想というヤツだ。
誰でも味わえる、冥想という方法だ。

エラソウな坊さんが目を瞑って座る。
エラソウな○○師が理屈を説明する。
単なる瞑想を多額の金をとって教えるセミナー。
騙し、騙されるセミナーばかりじゃないだろう。
だが、簡単な冥想を伝える人は少ない。

簡単で誰でも出来る方法は誰も儲からない。
星を見上げていなよ。
これでは、誰も本気で聞かない。
エラソウに理屈を付けて、難しくした方がウケがいい。
だが、難しいモノは身に付かないのだぜ。

セミナー通いで身に付くのは、見栄というヤツだ。
それは理屈という、冥想とは対極にあるモノだ。
冥想は理屈(頭)から離れた時、心からも離れた時に気づく。
自分と他が同じ世界にいる事に気づく。
心から離れると、優しくなれると気づく。

心は素敵だ。
心はロクデナシだ。
どちらも同じだ。
儚いから素敵でありロクデナシでもある。

人生は素敵だ。
人生はロクデナシだ。
どちらも同じだ。
虚(うつ)ろうから素敵であり、ロクデナシだ。

だからといって、心は人生じゃない。
人生も心じゃない。
人生は、肉体が存続する僅かの間。
主役は肉体(物質体)なのだ。
この世は属性として心があり、黒子として魂がある。
心や魂を主にすると、儚く虚ろな貴重な時間を無駄にする。

欠陥品だから可愛い。
可愛いけれど、最高に素晴らしいわけじゃない。
所詮、欠陥品だ。
心や心に左右される人間のことだ。
ワシやアナタのことだ。

当てにならないから面白い。
面白いけれど、正しさとは無縁だ。
正しさを判断できるほど、人間はマトモじゃない。
だから、正しさより柔らかさ(優しさ)を基準にすればいい。
心や心に左右される人生のことだ。
面白いと思えるようなら、先は明るくなる。

心は当てにできない。
自分の心も他の心も同じだ。
だから、可愛いし面白い。
だから、優しく、柔らかく接すれば康らぐ。
康らぐ時、シアワセは近くにいてくれる。

池波正太郎氏の時代小説。
多くの作家が賞賛した文章。
最近になって読んで納得している。
ワシは時代小説は積極的に読まなかった。

文体がカッコイイのだ。
一節一節が、実にカッコイイ。
リズムが気持ちいいのだ。
声に出して読んで気持ちいい文体なのだ。

そして主人公が魅力的なのだ。
オトナの魅力がある。
今読んでいる「剣客(けんかく)商売」
主人公の秋山小兵衛は60歳から登場する。
60歳過ぎてからの生き方の見本がここにある。

台詞も簡潔でリズムがある。
登場人物達が、イキイキしている。
それでいて、生活の匂いがしてくる。
特に主人公は理想的な60代を過ごしている。

自分の生活は余裕でこなす。
好奇心旺盛。
基本的には他を助けるのが生きがい。
生きがいは趣味でもあり、暇つぶしでもある。
楽な生き方をしている。

60歳で40年下の妻を迎える。
つ、つい、手を出した結果だ。
剣の達人が、剣より女体に惹かれたと言い訳する。
好色であり、好食であり、好人生だ。
人情家であり、冷静沈着でもあり、冗談好きでもある。

一つの道を達した人を達人という。
道は山の上に通じていた。
上り口は幾つもある。
道は幾つもある。
だが、上になるほど道は重なる。

人生という山。
もちろん頂上はない。
生きている限り、道はあるからだ。
それでも、上になるほど達人の道になる。
一芸に秀でると多芸に通ずというのもうなずける。

秋山小兵衛の60代からの人生もそうだ。
人生の達人なのだろう。
今のワシでは、その判断ができないが予想は出来る。
老後という言葉は間違っている。
まさしく、生き方として面白さに満ちている。

ワシ自身はグウタラ人生だ。
だが、毎日を真剣に生き、年を重ねるのがコツだと知っている。
真剣というのは、マジメという意味ではない。
生きている事を大切に(優しく)している事だ。
すると、やわらかな生き方が出来るようになる。

年を重ねると、充実した生き方になるのだ。
充実とは、面白さに満ちている事だ。
面白さは、自分で見つけ、作るものだ。
秋山小兵衛は人生の達人といってもいいだろう。
人生を愉しんでいる。

達人が一人いると、親しく関わる人も楽になる。
それぞれが、少しずつ明るく変わってくる。
秋山ファミリーとでもいうような仲間ができる。
そして、皆が生きる事を愉しんで学んでいる。

人生の達人は年を重ねないとなれない。
少なくても50歳以上じゃないと無理だ。
何故なら、肉体的な衰えを自覚してから達する域だからだ。
50歳以下で、アレコレ人生訓を言うのは未熟者という。
何かの分野でトップになれても、未熟なままなのだ。
それは、50代、60代にならなくては解らない。

肉体の衰えを自覚しても、本来心は衰えない。
だが、肉体の衰えからの学びを活かさないと愉しめない。
心の扱い方は、肉体が衰えてから、やわらかくなる。
心を、やわらかく使う事を覚える。
すると、愉しさや楽しさが増える。
愉しさ、楽しさを増やす生き方が人生の達人だ。

間違っても、教条的にならない。
道徳的な生き方にしばられない。
エラソウな、正論ばかりの生き方は楽じゃないぞ。
未熟者は、人生訓をのたまって、人生訓に縛られる。
そして、ツマラヌ顔になる。

人生相談のセンセーは、タイプが似ている。
人間は、このように生きなくてはならない。
男、女、母親、父親等は、こう生きなくてはならない。
もっと心をしっかりと。
正しく生きれば、きっと報われる。

でも、センセーの多くの家庭は公開できない・・・
夫婦、親子関係は自分の理屈通りにはならない。
何故理屈通りにならないのか、ちっとも解らない・・・
ホントは、自分が相談したいのだが立場が・・・

ホンモノの人生の達人は、教条的や道徳的にならない。
模範をマネしろ、とも言わない
。 なにしろ、自分だって解らない事だらけだと知っている。
秋山小兵衛だって、自分の心の不可解さを知っている。
一緒に何年過ごしても、オナゴの心は見えないと知っている。
だから、エラソウにはならない。

一部の人だけが達人になれるわけじゃない。
もちろん、全員が達人になるわけでもない。
だが、全員がなれるのが、当たり前だ。
なれるのに、ならないだけなのだ。
ツマラヌ固定概念にしばられて・・・

達人とは優秀な人。
優秀は、優しさに秀でた人。
つまり、人生の達人は優しさが深くなった人だ。
弱さ、儚さ、アイマイさ、不出来さを慈しめる人だ。
心の強さ、しっかりさを求める人とは違う。
そういう人は、薄情という。

若い時は、心の強さが表に出る。
心は身体の属性だからだ。
若い時は、身体の生命力が強いからだ。
だが、身体が衰えると、心のいたらなさと向き合う。
その時、ダメな心を優しさで包めるかどうかが分かれ目になる。

ダメな心を優しく包む。
自分も他人もダメ心は慈しむ。
すると、結構この世はいい所だと思える。
生きている、生きるのは愉しみとなる。
だから生命の続く限り、精一杯生きる。
教条でも道徳でもないのだ。
愉しく生きるから、人生の達人なのだ。

それぞれに個性がある。
それぞれに個別の人生があった。
だから、画一的な生き方は無理がある。
積極的が得意でない人は多いんだ。
まして正しさを基準とすると、心は疲れる・・・

そんな秋山小兵衛の言葉がある。
弟子でもあった御用聞きの弥七とのやり取りだ。
心の危うさを充分知っている小兵衛の言葉は染みる。
悪党となってしまった心が特殊なのではない。
誰の心の中も、いろいろな部分がある。
ダーティな部分だけを使い続けた結果なのだと。

別な事件後の弥七との話もある。
人を見抜く能力があっても勘違いした話だ。
「人間は誰でも勘違いするものだ」
「人の世は勘違いで成り立っている」
弥七が「まさか?」と言う。
勘違いはあっても、勘違いで成り立っているとは思えないのだ。
すると秋山小兵衛が諭す。
「お前ほどの御用聞きが、その事に気づかぬのはいけないよ。
それほどに、人が人の心を読むのは難しいのじゃ」
ここが中途半端な人生相談のセンセーとの違いだ。
解らない事を認めているから達人なのだ。

そして続ける。
「ましてや天地の摂理などみきわめられぬ」
更に、その後に続く言葉が素敵なのだ。
「できぬながらも、人はそうしたものじゃと、
いつも我が心をつつしんでいるだけでも、
世の中はマシになる」
生きとし生けるモノに優しいから達人なのだ。
人の暮らしを優しく見つめるから、達人なのだ。

ワシは長い間、弥七と同じ意見だった。
どんな人も間違え、勘違いする。
だが、人の世が勘違いで成り立っているとは思えなかった。
多くの人が集まれば、勘違いは修復されていると思っていた。
勘違いで成り立つというのは、いいすぎだろうと。

だが、今は小兵衛の言う事がうなずける。
本当にそうだと気づいた。
受け入れ難い事実だったが、そうなのだ。
人の世は勘違いで成り立っている。
それに気づくと、人の世はもっとマシになる。

人の世が勘違いで成り立つと指摘する人は少ない。
社会的に知識者といわれる人は、ほとんど口にしない。
心の仕組みに気づけば、当たり前なのだが。
我々の世の中は、お互いの勘違いの上で成り立っている。
その事を自覚すると、少なくても殺し合いや戦争は無くなる。
正しさを主張するのは危ういと知ると、相手を理解しようとする。

心は虚(虚しい)である。
虚とは、追いかけても無駄という意味だ。
何故なら、心は多種多様な塊が無数にある状態だからだ。
一つを追いかけると、無理が生じてしまう。

それぞれが、気にする塊を注視する。
一つの認識も、それぞれの人によって違う。
アナタとワタシでは、同じ認識ではない。
当たり前なのだ。
だが、違いを無視して人と人は交流する。
交流は最初から違うモノと違うモノの触れ合いだ。
触れ合いであり、振れ合いでもある。
勘違いの上で成り立つ関係。
それが、人の世というヤツだ。
それら、この世に存在する理由と意味でもある。
違いを受け入れる事。
違いが解らなくても、判らなくてもいいのだ。
ゆるやかに、やわらかく、触れ合えばいい。
すると、もう少しマシな世界になれる。
秋山小兵衛は、そう言ったのだと思う。

勘違いは、心だけじゃない。
秋山小兵衛が言ったように、天地の摂理もだ。
この世に有るモノ、現象、理、その他。
この世に無いモノも。

解らないモノはいい。
解らないと認識できていればいい。
だが、解ったとしたモノ。
解けたとしたモノ。
分析、解析したと思っているモノ。
それらは、勘違いだと認識した方がいい。

科学というヤツがそうだ。
日進月歩している。
つまり、以前ののは間違いや勘違いなのだ。
現在は、未来からの立場で以前なのだ。
だから、全て勘違いと言ってもいいだろう。
我々は、あらゆるモノを勘違いしているのだ。

自分の認識は自分だけのモノ。
どんなに他の認識と似ていても別。
たまたま同じでも別。
同じでも別だと知れば、全ては勘違い。
(限りなく似ていても、同じという事はありえないが)

社会の認識は当然勘違いになる。
社会で示した認識は、各個人の認識に置き換えられるからだ。
認識は全て受け取り側の事柄。
共通していると勘違いして社会は成り立っている。

勘違いだから間違いといっているのではない。
勘違いで、成り立っているといっているのだ。
勘違い以外では成り立たない社会だ。
だから、勘違いを知っていれば無用な争いは無くなる。
もっとマシな社会に出来るのだ。

心は虚しくすると素直になる。
素直とは自然体と同じだ。
ということは・・・
心をいじると自然体から遠くなる。
心は鍛えるモノじゃない。

心を判断力の主軸にすると勘違いをする。
中途半端な素直は、騙されやすい。
心に素直なのは騙されやすい。
社会的に心の素直は評価されやすい。
が、間違いだ。
善男善女は騙されやすいのだよ。
故意の悪意はないので、もろもろ困ったもんだ・・・

だが、自然体を主軸にすると間違いは少ない。
本当の素直は騙されないのだ。
心に素直ではなく、心にとらわれないから素直になる。
アッサリと嘘を見破って縁を切る。
素直にノーと言えるのが自然体なのだ。

ほとんどの解決のコツがある。
それは、誰でも出来る方法。
だが、常に出来る人は極少だろう。
誰でも出来る方法は、実際にはほとんど出来ていない。

簡単とも難儀ともいえる。
経験、頭脳、技術、性別は関係ない。
だが、子供の方が出来やすいから年齢は影響する。
赤ちゃんなら、簡単に出来る。
自然体という方法だ。

誰でも出来る要素なのに、何故難儀になるのか?
それは、心を使うから。
心から離れると、自然体になる。
禅、瞑想は自然体(冥想)になる方法だった。
心から解放される方法だった。

心は虚だが、影響は大きい。
この世は幻が大きな変化を起こす仕組みだ。
実相界ではないのだ。
舞台上なのだ。
だから、舞台用の設定がありルールがある。

真実を追い求めるのは趣味でもいい。
だが、真実を舞台上に持ち込むと混乱する。
舞台には、舞台用の仕組みや大道具小道具がある。
舞台用の役があり、名前がある。
そこに「真実はこうだ!」とバラしても迷惑だ。
精神世界関係者は、得意になってアホを言う。
真実は、どうでもいいのだ。

舞台上(この世)では心を場面で使い分ける。
心はデジタルの仕組みなのだ。
追いかけても、真実(不変のモノ)は無い。
使い方はあるが、虚しいモノとして存在している。
心が虚だと知れば、心は自由に使える。

舞台上は、捨てれば得られる。
放せば、湧き上がる。
ヒネクレた仕組みになっている。
舞台設計したグレちゃん(グレートサムシング)の趣味だ。
オチャメなワナがいっぱいある。
ワナは、宝箱とセットになっている。

心もその一つだ。
いかにも重要そうな道具だ。
だが、使うと混乱する。
放すと、そこから宝が生まれる。
心は、優しい目でながめると宝に変わる。

心は、変化の刺激にはなる。
そこから新たな何かが始まる。
といって、いつまでも握り締めるとつまずく。
使い方は、ちょっとだけよ・・・

心は、一見大切な相手。
だが、本気で付き合うとシアワセから離れる。
社会は無責任だから、大切にしろという。
(政治家と役人が無責任を推進している)
専門家という怪しげな人達も推進する。
シアワセそうには見えない人達は同じだなぁ・・・

心なんざぁ、ほっとけ。
そう言ったブッちゃん(ブッダ)は愉しそうに笑う。
ほっとけ、ほっとけ、ほとけ・・・
そうして、ブッちゃんはホトケ様と呼ばれた。
心から(自分を)解放(ほっとけ)したら、ブッダ(開かれた人)となった。
シアワセになりたかったら、心なんざ相手にすんなよ。

心をかまっているヒマがあるなら、手と足を使いなさい。
そう言ったマザーテレサは、愉しそうに生きた。
他のお手伝いは、自の愉しみ(生き方)。
生きるとは、愉しみのことよ。
心をかまっている時間はもったいない(無駄ね)。
聖女は、厳しい環境を笑顔で生きた。
聖女の笑顔は、多くの人を笑顔に変えた。

心から放れる。
あるいは、こだわらない。
心を相手にしない。
その代わりの相手がいる。
身体だ。

自分の身体に気を配る。
具体的にケアする。
いつも愛する。
すると、多重に変化が起きる。
一石幾十鳥・・・

この世(物質・肉体界)だもの。
中心に自分の身体を据える。
当たり前なんだ。
心から身体に中心を代える。
多くの悩み、トラブル、未来が解ける。
虚心は、実身とセットになっているのだ。




  祈氣・1〜21
4/10〜4/30


祈念という言葉がある。
熱心に祈る、という意味だ。
懸命に祈る、という意味だ。
ある立場になると、祈るより方法がない。
あるいは、今の行いだけでは足りない。
懸命に祈る事が、一つの行いになる。

氣は収束すると強い力となる。
範囲は狭くなるが、その分強さが増す。
収束の方法として「念」がある。
もちろん、良悪や善悪とは関係ない。

自分の力では成せない。
自分の力不足。
その為に、祈る。
だから、祈りは自分を超えた存在へのお願い。
例えば、神仏とでもいうような存在に。

神様にお願いはいけない。
するなら感謝。
こんな言葉を聞くことがある。
だが、ワシは偏屈だから異論がある。

神様は腹が大きい。
(腹はないだろうなぁ)
お願いしようが、モンクを言おうが気にしない。
矮小な人間とは違うぜ。
というか、いちいち人間個人に関心は無い。
微生物のつぶやきに耳を傾けたりしないのだ。

賽銭出すから願いを聞くのは人間だ。
政治家とか、役人とかは金で言うことを聞く。
ワシだって、金額次第で何だった聞く。
三遍回って、ワンだって言える。
嘘だと思ったら、束で送ってみればいい。
だが、神様はそんな事は気にしないのだ。
賽銭が無くても、遠慮せずお願いしようね。

人間相手の願いは、相手次第。
彼氏、彼女になって・・・
仕事くれ・・・
金くれ・・・
これらは祈りとはいわない。
同じく切実ではあるけどなぁ・・・

相手次第でどうにかならない願いがある。
政治や行政では出来ないかラチが開かない願いがある。
所詮政治も行政も人間次第だ。
それも当てにならない人達が多い・・・

だから、神様(やその同類)に願う。
神様だから、ギブアンドテイクではない。
見返りと交換するのは人間だ。
一方的な願いとなる。
それが祈り。
祈りと感謝は表裏関係。
祈りも感謝も同じモノだ。

何かをしてもらった。
それで感謝するのは、人と人の関係だ。
ギブアンドテイクだ。
感謝を返品として使っている。
もちろん、人としての常識でもある。

だが、ギブアンドテイクでない関係。
何もしていただかなくても、感謝。
存在に感謝。
本来の感謝は神様(自然・この世)への賛歌だ。
祈りも同じく賛歌だ。
ただ、感謝・・・
ただ、祈り・・・

何度も言う。
ギブアンドテイクではない。
神様側も同じだ。
感謝や祈りを捧げられたら何かをするわけじゃない。
感謝も祈りも、有っても無くても同じだ。
祈ったから願いを叶えるわけじゃない。
ただ、祈り、ただ、感謝。
だから、祈りも感謝も、尊い行いなのだ。

結果を求めない。
期待はする。
人間だもの・・・
祈りとはそんなものだ。
神様相手に、結果がでなくてもモンクは言えない。

本当は知っているのだ。
祈っても、願っても叶えてくれない。
そういう立場でも仕組みでもない。
祈りや願いは、こちら側の都合だ。
勝手な祈りであり、勝手な願いだ。

一生物の更に一個人の願いや祈りに反応できない。
反応していたら、地球は混乱と滅亡になる。
神様ってのは、全てを統括して面倒をみている(と思う)。
一部を贔屓にはしない。
人間的に悪人も聖人も、ゴキブリもミジンコも平等だ。

祈りは神様に通じない。
基礎として、知って欲しい。
だが、その上で祈りの意味がある。
祈りは無駄な行いではないのだ。
そして、現象も変わる。

神様には通じない。
というか、神様は聞く耳を持たない。
(ついでに目も鼻も口も持たない)
持たなくても、全部知っている。
全能かどうか知らないが、全知ではある。

祈りは、つ、つい、神様宛に出してしまう。
人間だもの・・・
つ、つい、やってしまう事だらけなのだ。
ところが、この世はヒネクレている。
神様宛が違う相手に通じてしまう。
ここに、祈りをする意味が生まれる。

周波数が違うと通じない。
当たり前だ。
アナタは微生物と話が出来ない。
虫にも無視される・・・

同周波数か近周波数なら何とか通じる。
アナタとダンナはかろうじて話しが出来る。
猿やイヌや鳥は近いから、通じる事もある。
桃太郎はそうして鬼が島に行った・・・

虫の話は聞けないが、観察すれば生態は解る。
神様と人間の関係に当てはめればいい。
人間の個人的祈りは通じない。
ましてや、話は出来ない。
神様の声が聞こえた、通じている、というのは錯覚だ。
それは、低級霊というアナタに近い周波数・・・

祈りは神(自然・この世の仕組み)宛てにする。
そのまま叶う事はない。
神はタワゴトを聞かない。
神にとって、個々の願いはタワゴトなのだ。
だが、通じる相手がいる。
同・近周波数の相手には通じる。

神様だもの、メンドウは丸投げする。
(メンドクサガリ屋なのだよ)
自分では聞かないが、通じる相手までの通路は用意してある。
だから勝手(自由)にしろよ。
神様は、いつでも同じ態度だ。

それが大慈というヤツだが、理解する人は少ない。
人間は、ギブアンドテイクやギブアンドギブの概念が強い。
勝手(自由)にしろよ、が最高最良、と理解し難いようだ。
自由、あるいは、いいかげん、あるいは、自然体という態だ。

強く願う。
それは個の強さだ。
個独自の強さだ。
だから「単独の氣」のままだ。
事象がその方向に向かうのは難しい。
祈念は、叶うのが難しい祈り方だ。

さっぱりと祈る。
祈りの行く先は、神様任せ。
すると、同じ氣が集まる。
平和や調和の祈りは、軽い方がいいのだ。

個の強い祈りは通じ難くなる。
願いは叶うというのは、叶った人だけが勝手に言う。
この世だもの、叶う事も叶わぬ事もある。
それよりも多くの人との出合いに意味がある。
個々を超えた「合う氣」に願いの醍醐味がある。

自分や家族の健康を祈る。
神仏に祈る厳しい状況もある。
だが、それは個人宛ての願いだ。
他人が合わせてくれる「氣」ではない。
個の場合は、神仏に祈る意味は別にある。

どうしても自分では手立てが無い。
だから計り知れない存在にすがる。
厳しい状況で知る事がある。
神を信じている自分を知る。
個人宛の祈りの意味は、ここにある。

個人を超えた祈り。
自分を離れた祈り。
他の人や自然や他の国や他の生物への祈り。
これには「合わさる氣」が沢山ある。
同周波数の氣が沢山ある。
それらを合わせる為の祈り方がある。

個の祈りは、個の強い願い。
自分で変えられる範囲なら、強い願いもいい。
願いは趣味だ。
強く思おうが、気まぐれに思おうが好きでいい。
一心に願おうが、浮気になろうが趣味だ。

個に関する事は、他が口を出す事柄じゃない。
強く、本気で、不乱に願わなくてはならないわけじゃない。
いいかげんだろうが、おもいつきだろうが好きでいい。
強い願いで人生が決まる、事もある。
狂う事もある。
途中で亡くなる事もある。
強い願いと、シアワセは別な次元だ。

何かを一時的に成した人。
時々、他の人に激を飛ばす。
自分を見習え、みたいな・・・
無知かおっちょこちょい。
その人の一生は未だ、なのだ。
更に、その後(子孫や世界)の影響は不明。

個人宛の祈りも、他の人と合わさると強くなる。
マイノリティの部族などが古からしている。
部族全員が一人の為に祈る。
大きな病や怪我の回復に祈る。

同程度の病や怪我の文明人(?)は祈らない。
病院にお任せしたままだ。
だが、大きな差が出る。
統計でも大きく違いが出る。
もちろん、部族の祈りの人の回復度が高い。
しかも、とても高いそうだ。

形だけ真似る宗教もある。
結果は、大した事がない。
宗教組織の利得を意識するからだろう。
信者にしか効かない祈りは、催眠術効果。
いずれ、目が覚める。

祈りは自分の為だと他と合わさらない。
当たり前だ。
自分を離れるから、祈りとなる。
自分を離れるから、肩の力が抜ける。
自然体として祈れる。

大きな災害。
大きな苦しみ。
それらの回復を願う。
だが自己満足の願いは役に立たない。
本当に回復の力になる祈り方が大切だ。

つい力強く祈ってしまう。
念を込めるように祈ってしまう。
その気持ちが解らぬわけじゃない。
だが、回復するのが目的だ。
自分の祈りではなく、自分を離れた祈りが役に立つ。

必死の祈り。
通じても、一人分。
個人的な祈りなら、趣味の範囲だ。
通じようが通じまいが口を出す事柄じゃない。

だが、大きな祈りは協力してこそ役に立つ。
個々の参加だが、個人的な祈りとは違う。
個人的でなければルールがある。
理がある。

表現、方法、時間は様々でいい。
だが、自分流にこだわっては協力とならない。
自分を離れれば、他と合わさる。
コツは、やわらか。
やわらかな祈りは、集まり、一つになれる。

この世は自と他が出会う場。
自と他が出会える貴重な場。
それは物質(肉体)があるからだ。
物質同士は、周波数が違っても出会える。
アナタとゴキブリは違う周波数。
・・・だと思う・・・

出会えるが、協力できるかどうかは別。
通じ合えるかどうかは、別な要素だ。
親密になるには、出会いだけでは叶わない。
個と個は、同あるいは近周波数で通じ合う。

多くの個が協力する条件。
それは、同あるいは近周波数だけでは不十分。
個を離れてこそ、それらの周波数は結びつく。
結びついた周波数は強力となる。
協力は強力になり、事象を動かす。

この世の存在理由。
自他が出会う場。
異周波数でも出会える貴重な場。
それは、物質という広周波数収納スーツがあるから。
目に見える世界だからだ。

そしてもう一つ。
周波数を超えて、協力できる場。
個々の波動が合わさる特殊な場。
それも、物質という広周波数収納スーツのおかげだ。

自分(魂)を離れて思う事(技)が出来る。
物質(肉体)が無いと、なかなか難しいのだ。
ここの説明はメンドウ。
だが、肉体があるから魂は自由になれる技を覚えられる。
肉体があるから不自由なのではないのだぞ。

祈りは大切な行いだった。
単なる願いの延長ではなかった。
この世の特殊な仕組みを生かす行いだった。
この世だからこそ、他と協力できる。
そして魂の進化(自由)が進む。

祈りは多くの宗教が薦める。
だが、本当の意味は神への服従でも賛歌でもない。
自分(魂)の自由への方法だからなのだ。
そして、自分達衆生との連携なのだ。
完全な神に服従も賛歌も感謝も必要はない。

不完全な生物。
特に不出来な人間種。
祈りは、祈る側も祈られる側も不完全なモノ。
祈る側に大切な行為。
祈られる側には必要な出来事。
祈りが出来るこの世は、とても貴重な仕組みだ。

祈りは神様にするという固定概念。
神様経由でもいいとは思う。
だが、神様抜きでも目的地には届く。
祈りは自分を離れた願いだ。
離れてしまえば、あとは関知できない。

皆がそれぞれ手放す。
すると、自動的に同じ周波数は一つになる。
この世は「集まった氣」が事象を動かす。
離れた祈りは、応援してくれる。

自分にこだわる癖からの脱却。
信じるモノにもこだわらない。
放して、離れてしまう願いだ。
断捨離は、大きな力を持ってしまうのだ。
この世は、ヒネクレているのだぜ。

断つ、捨てる、離す。
自分の思い、考え、こだわりからの脱却。
それは、大きな優しさ、大愛でもある。
実際の行為があっても、祈りとなる。
祈りは、常に他の祈りと協力している。

そうかぁ・・・
ワシは宗教組織が苦手だ。
祈りの生活、というのを宗教がらみと思っていた。
本当の祈りの生活というのは宗教と関係ない。
祈りは、大優であり大愛の姿勢なんだな。
小さな神様信仰とは違う。

詳細は書かないが、意味に気づいた。
今回、何故「祈氣」という言葉になったのか。
こういう事があるから書く事を止められない。
気まぐれでも、御筆先様は時々降りてくる。

ある人が言った。
24時間の祈り。
やっと意味が解った。
宗教とは関係が無い。
(大きく広い意味では関係がある)

24時間の禅。
24時間のヨガ。
ワシ個人的には24時間の氣功もある。
24時間はこだわっては続かない。
生活の一部であり、生活そのものでもある。

生きている優しさ。
自然の中にいる自覚。
辛く、厳しい状況に向かっての祈り。
淡く、優しく祈ろう。
それが、集まって、きっと大きな力となる。
優しく、祈る。



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